自分を大切にする。 |
去年の30日に買い物に出て調子が悪くなって以来、久し振りに近所へ買い物に出た。
特に気負いもなく、買い物を楽しむことが出来てほっとした。
14時からチャットの予定があるので、それまでにお昼ご飯を食べようと思い、
中華丼と鶏のから揚げを買って帰って食べた。
中華丼はまあまあだったが、鶏のから揚げはその前に揚げた物の匂いが付いてる感じで
イマイチ美味しくなくてがっかり。
このスーパーは大手チェーン店なのだが、お惣菜はあまり美味しくない。
年末は買って帰ったお寿司に、髪の毛が付いていたし。
こういうのって、これから気を付けてもらうために言った方がいいのかなぁ。
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自分の付き合っている友だちの性格に嫌な部分があって、ちょっと困っている。
ただ、全体的にはその友だちはとってもいい人なので、友だちを止めたくはない。
しかし、その性格のおかげで自分に少しプレッシャーがかかる感じもある。
放っておくと、私自身の中にその友だちに対する不満が溜まっていってしまう。
そして、こんなに自分が辛かったり嫌な思いをするのはその友達のせいだと感じる。
最終的には相手を恨むような気持ちまでもってしまうことになるだろう。
でも、それは相手には責任のない事。
こちらははっきりと相手に『嫌だ』と伝えたわけではないから。
そして相手に、『性格を変えろ』という権利もこちらにはないのである。
人から『変われ』と言われて簡単に人の性格が変わるものではないし。
本人が心から変わりたいと思って始めて、人間は変化をはじめるのだと思う。
では、いったいどうすればいいのか。
嫌なら付き合わなければいいという考えもあるだろう。
でも、わざわざこちらから人間関係を切るなんて事はしなくてもいいのである。
要は、『自分の好きなようにすればいい。』のだ。
こう欠くと、すごく自分勝手で冷たい人間のように思われるかもしれないが、そんな事はない。
今自分の得ている人間関係は大事にしたい。
でも、その人間関係を維持するために自分自身をすり減らすのはおかしいと思うのだ。
たとえば自分は今日は出掛けたくないなと思っているのに、相手から誘われたとする。
『行きたくない』この言葉を言うのはとても難しい。
私なんて、親にもこの言葉を言えずにずいぶん苦しんだ。
でも、言っちゃっていいのである。
行きたくないのに我慢して、出かけて行って、
具合が悪くなってしまったり、お財布落としてしまったり。
『ああ、やっぱり行かなければよかった。』なんて思う。
誰が悪いのか?
行きたくないのに、無理に付き合わせた友達のせいにしてしまったりしないだろうか。
友だちは悪くない。出掛けたかったから誘って、こちらがそれに応じただけ。
行きたくないといっているのに、首に縄をつけられて引っぱられた訳ではないのだ。
こんな風に恨まれるのなら、はっきり
『行きたくない』って言ってもらえた方がいいと思っているかもしれない。
もちろん、行きたくないのに行ってもいい。
たとえば相手が落ち込んでいて、気分転換にどこかに行きたいという。
自分は出掛けたくなかったけれど、相手の事を励ましてあげたくて付き合ってあげようと思う。
これは全然問題無い。
行きたくないと思ったら、必ず断らなければいけないというのではないのだ。
この場合は、自分が『付き合ってあげたい』という気持で動いている。
だから、たとえ疲れてしまったとしても相手に対して恨み言は出てこないはず。
自分がやりたくてやったんだから。
相手から感謝の言葉が出なかったり、
喜んでくれなくて面白くない思いをする事があるかもしれない。
それは自分が心から『付き合おう』と思ってやったのではないんじゃないかと思う。
心のどこかで見返りを期待していた事になる。
自分の思ったような反応が返ってこないからといって相手を責めるのはおかしい。
やりたいからやってあげたという自分自身の満足感だけで十分だと思う。
行きたくないと相手に伝えた時、その場の雰囲気が悪くなって嫌な思いをするかもしれない。
でも、それは仕方のない事だと受け入れよう。
そして、もし万が一それで相手が自分との関係を切ってくるようならそれは仕方がない。
そういう相手との付き合いは、この先続けていても、自分ばかりが苦しんでしまう関係になるだろう。
しかし、こういったこちらの態度は相手にとっても必ずなんらかの収穫をもたらすものなのだ。
『誘いを断られた』という事実を、相手がどう受けとめてこれからの生活に生かしていくか。
それはイヤイヤながら相手に言うことを聞いてもらっていた頃よりもずっと、
その人にとっていい経験になる。
『なんで自分は断られたんだろう。』
『断られないためにはどうしたらいいんだろう。』
『なんで自分は断られた事で、腹を立てているんだろう。』
『なんで悲しい、寂しい気持ちになっているんだろう。』
そんな風に思いをめぐらす事ができる機会が、相手にも与えられたのだ。
そして、
『相手が行きたくなかったんだから、断られても当然なんだ。』
『断られたからって、自分の人格が否定されたり、嫌われているという事ではないんだ。』
という思いにまで達する事が出来たら、これからのお互いの関係はもっと素晴らしい物になる。
こちらも、『なぜ自分は断る事が出来ないんだろうか。』と考える。
『嫌われたくないからなんだろうか。』
『いい顔をしたいだけじゃないのか。』
『断るって、そんなに悪い事なのかな。』
『自分がもし断られたら、やはり怒るんだろうか。』
などと考えてみたりする。
たかだか『断る』という行為一つで、これだけの思いをめぐらせる事ができるのだ。
自分を殺して、嫌なのを隠して付き合っていたのでは、これらの物は得られない。
友達関係だけではなく、母にも言いたい事が言えなかった私。
でも、最近嫌な事は嫌だというように頑張っている。
今までストレートに断られた事のない母は戸惑っているに違いない。
しかし、何回かそういうことが続いていくうちに、母もどうやったら私が言うことを聞くか、
どういう頼み方をすれば自分の頼み事が聞いてもらえるか、考えるようになった。
言葉の最初に『悪いんだけど』とか『お願いがあるんだけど』と付けるようになった。
これまで有無を言わせず、『親の言うことは聞くべきだ』という態度を取られてきた頃と比べれば、
私の精神的な負担はずいぶん軽くなっている。
母が勝手な態度ばかり取る原因の一つは周りにもあって、
私達がいいなりになっているから母は自分の態度が間違っているという事に
気付く機会が与えられていなかったとも言える。
私が正直に振る舞う事で、母もまた成長できるチャンスを得たのだった。
子どもだからって、夫だからって、なんでも自分の言う通りになる訳ではないと。
自分の気持ちに正直にふるまう事は、わがままだと思われがちだが、そんな事はないのだ。
自分を大切にしよう、自分の気持ちを殺さず生きよう。
それが相手を大切にする事にもつながると信じよう。
自分自身も、そういう態度をとる事によって嫌な思いをするかもしれない。
でも、それは生きていく上で仕方のない事として受け入れよう。
みんなが自分を大事にして生きていけば、きっと幸せになれる。
自分が嫌だと思う事はやらない。自分を苦しめない。
ほんじゃまか。
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2003年01月04日(土)
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