2003年10月31日(金) |
『お土産』(ヒカ碁小ネタ。女の子ヒカル) |
「緒方先生ー!」 背後から駆けてくる、軽い足音。 日本棋院の中で、こんな大声で、こんなに無邪気に自分の名を呼ぶのは、ひとりしかいない。 分かりきっているのだが、緒方はわざと無視して歩を進めた。
「聞こえてるくせに無視すんなーーーっっ!」 どしん、と背中に衝撃。ぎゅ、と抱きついてくる細い腕。 追いかければ逃げるくせに、こちらが離れると慌てて追ってくる。彼女の中の小さな矛盾に、くつくつと笑いながら、緒方はようやく彼女を振り向いた。 「ったく、もー。呼んだんだから待っててくれてもいいだろー」 ぷん、とヒカルがふくれて見せていると、その背後から白川6段がにこにこしながら近づいてきた。 「進藤くん、あまり緒方を責めちゃいけないよ。…ここだけの話だけどね。緒方、最近耳が聞こえにくいらしいんだ」 「そうなの?」 きょん、とヒカルは首をかしげる。 「そうそう。『若年性痴呆症』といってね…」 「じゃくねんせい、ちほーしょー?」 …じゃくねんせいさんの地方ショーのことだろうか?
大マジでヒカルが考え込もうとした時、緒方の手がぐしゃぐしゃ、とヒカルの金髪と黒髪を混ぜるようにかきまわした。 「…またそこで無理矢理な変換をするんじゃない。――それれから、誰が耳が遠くなっただ、誰が」 ぐい、と白川を睨む緒方であったが、そのくらいで「仏の白川様」の笑顔は崩れないのだ。 「ええ、たまにあるでしょう?人が呼んでいるのに、まったく気づかずに通り過ぎて行ったり、急に方向転換をしたり……」 「レース・ビーズアクセサリー専門店のド真ん前や、ぬいぐるみを両手に抱えて喜んでる男が呼んだりしなかったんだったら、返事くらいはしてやったかもしれんがな……」 赤いリボンをあしらった、巨大なテディ・ベアを抱えた大の男が、にこにこしながら、緒方に向かって手を振ってみせた…ごていねいにクマの前足を使って……のだ。正直、どうリアクションするか一瞬迷い…白川がクマを使ってパントマイムよろしく踊らせながら「おいでおいで」をした時点で、緒方は速やかに無視を決め込んで足早に去ったのである。――間違っても同類に見られたくはなかった。
「なんでー?クマ、かわいーじゃん」 「そうだよねぇ。この前、カテリーナのお婿さんにと思って、エデリーを連れて来たんだよ。携帯の画像だけど、見る?」 「うん!見る見る♪」 ちなみにカテリーナもエデリーもクマの名前である。カテリーナはベージュ色の美人、エデリーは焦げ茶の毛並みをしたダンディさん(白川談)…だ、そうだ。 (「連れて来た」んじゃなくて「買った」んだろうがお前が〜!) ――という緒方のつっこみは、心の中だったので、とりあえずクマのぬいぐるみの写真で盛り上がるふたりには聞こえなかった。 こんな話に下手に加わるのも馬鹿馬鹿しい。 緒方は煙草をくわえ、カチン、と手持ちのジッポで火をつけた。
「ところで進藤くん、ここのところ見なかったようだけど…」 「そうそう!ちょっと韓国に女流の国際棋戦があるからって…招待されてたんだ」 「へぇ、それはそれは。…で、どうだった?」 「えへへ……最後で、負けちゃった」 ――という事は準優勝はしてきた訳で。 「ふん。だらしないな。最後だろうが、最初だろうが、負けは負けだ」 「緒方、そういう言い方はないだろう。…惜しかったね。でも、初めての海外遠征で準優勝だろう?すごいじゃないか」 フォローする白川だったが、ヒカルはううん、とかぶりを振った。 「負けたから準優勝なんだよ。…そんなの、オレが欲しかったものじゃない」 ヒカルはきゅ、と唇をかんだ。 目指す先は……遙かに、遠いのだから。 こんなところで立ち止まる訳には……いかない。 だから。
「だからねー、すっげ悔しかったから、賞金全部、みんなのお土産買うのに使っちゃった!」 からから♪と笑いながらヒカルは、手にしていた大きな紙袋を彼らの目の前に掲げた。 「え?」 「そのデカイ紙袋はそれでか…」 「これでも減ったんだよー。他にもあと3袋あったから…で、白川センセ、何にする?キムチとか韓国ノリとか、焼き肉のタレとか、朝鮮人参茶とか…んーと、ビーズをめいっぱい使ったポシェットとか、石鍋は、和谷たちが速攻で持って行っちゃったからないんだけどー」 「ベタすぎる……」 眉をひそめる緒方。 「…あ、じゃあポシェットもらおうかな♪」 にこにこと紙袋の中身を物色する白川。 「やっぱりー?じゃあ、色違いのペアになったの、はい」 そして、八つ当たりで買い物してきたというヒカルは、楽しそうにお土産を渡していた。
「はい、緒方先生にはこれ〜」 「おい、俺には選ぶ余地はないのか?」 「うん!緒方先生にはそれ」 どきっぱり、と答えて、ヒカルは手を振り、棋院の事務所に向かおうとエレベーターへと向かった。ひとしきり知り合いには渡してしまったので、後は事務局の職員に貰ってもらうつもりらしい。
「名指しでわざわざお土産を買ってくるとはねぇ……」 くすくす、と白川はそう呟きながら、緒方の肩を叩いて去っていった。 …総ビーズのピンクと水色のポシェットが愛らしく、彼の肩に両方からかかり、交差してキラキラと揺れていた。 その光景にくらくらと目眩を覚えつつ、緒方は渡された小さな箱を空けてみる。
「……………?」
そこにあるのは、うす青い、翠も少し混ざったような、上品な色をした小さな一輪挿し。 土産としては、まぁ、上出来だろう。 しかし、何故ヒカルがこれを「自分に」と選んだのかが、よく分からない。
「緒方さん、気づいたかなー?」 その、やわらかな青い色の陶器の群を見とれていると、秀英が言ったのだ。 『……というんだ』 その名前で思わず連想してしまった緒方と、こんなにもやさしい色の花入れのギャップに、思わず笑ってしまった。 同じ、名前。 だからアレは、緒方へのお土産。
緒方は、一輪挿しを元の通りに箱におさめると、吸いかけの煙草をくわえた。 (師匠の家にでも寄ってみるか) 忙しさにまぎれて、しばらく顔を見せていないきりだ。 その折に、奥さんに頼んで庭の撫子を一輪、分けてもらおうか。 「この花入れに、洋花は似合いそうにないからな」
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