petit aqua vita
日頃のつぶやきやら、たまに小ネタやら…

2004年03月30日(火) 『台風 5』(女の子ヒカル)

温泉から戻ってきた時、ヒカルは紺のジャージの上下を着て帰ってきた。
ランドリーでの洗濯が終わったので、浴衣から着替えたらしい。
色気もそっけもない格好ではあったが、緒方にはその方がほっとした。これが成人した女だったら、浴衣の上からでも分かる女性のラインを楽しむ余裕もあったのだが、子供相手にはどうも勝手が違う。子供(ガキ)は子供(ガキ)らしい格好をしていてくれた方が、余程扱いやすいと思った。

子供相手なので、レストランなぞ行く気もおこらず、夕食はルームサービスで済ませる。
「ねーねーねー!2千円もする鍋焼きうどんってどんなのー?!」
ヒカルは目を輝かせてメニューを指す。
(何が悲しくてこんな夏の最中に鍋焼きうどんなんだ……)
そう思ったものの、自分が食べる訳じゃないからと黙認し、自分はざるそばのセットを注文した。
ルームサービスがくるより先に、フロントで頼んでおいたエキストラベッドが到着する。シングルの割にゆったりした部屋が幸いして、それを入れてもさほど窮屈には感じられなかった。
ヒカルは早速そのエキストラベッドを自分の場所と定め、ベッドカバーをまくり、シーツやベッドの高さを確かめたり、枕の高さを調節したりしている。
(よくそんなにやる事があるな……)
緒方はヒカルの様子を妙に感心しながら、一人がけのソファに座って、ゆっくりと煙草をふかした。
その正面には、なんとなくつけっぱなしのテレビが、先日話題になった映画のメイキングを特集している。時折、画面の上方に、字幕で台風の情報が表示されていた。

…ふと、視線を感じてそちらに目をやると、ヒカルが寝転がったまま枕をかかえて、じっと彼を見ていた。
「…なんだ」
「緒方さんは?温泉、行かないの?」
「後で行くさ。今から行ったら、行ってる間にルームサービスが届きそうだ」
「そっか」
納得したのか、ヒカルはまたころころ…とベッドの上をころげまわる。
「…ベッドがそんなに珍しいか?」
「んー?家でもベッドだよ〜?」
「なら珍しくもないだろう……」
「だって、こんなホテルとかのベッドって、初めてなんだもん。イベントとかだって和室の大部屋だったりするから、布団が多いし、若手の合宿なんか、安く済ませるから二段ベッドとかだし。緒方さんは?やっぱベッド派?」
「ああ」
緒方の返事に、ヒカルは枕を抱えたまま起き上がって、くすくすと笑う。
「やっぱり〜?緒方さんが布団で寝るって、想像つかない」
「そうか?内弟子の頃は、布団で寝てたぞ」
「内弟子?」
ヒカルは首をかしげる。
この現代っ子に、「内弟子」という言葉は馴染みがないらしい。
「師匠の家に住み込む弟子のことだ」
…あまり詳しく説明しても理解しそうにないので、簡単に答える。
ヒカルはむー?と考えこんだ後、枕を放り出して緒方に詰め寄った。
ヒカルのエキストラベッドのすぐ隣に移動したソファにかけたままの緒方の両肩を、がし、と掴む。
「それってそれってひょっとして……塔矢先生の家に住んでたってこと?!」
「当たり前だろうが!俺の師匠は塔矢先生しかおらん」
他に誰がいるっていうんだ。
「いいなー!」
(そりゃ、棋士を目指す者にとつては最高の環境だな)

しかしその後のヒカルの発言は景気良くズレていた。

「じゃあずっと明子さんの料理食べてたんじゃん!うらやましー!!」

「待てコラ」

羨ましがるのはソコか。
精神的にずっこけた緒方の隙をねらい、ヒカルはひょい、とベッドから降りて後ろにまわった。
「…ね、どんなの食べてたの?やっぱ和食中心?」
まるで父親にするように、緒方の首に腕をまわしてねぇねぇ、と尋ねてくる。
「いや。俺が弟子に入った頃は奥さんもまだ先生の家に嫁いだばかりで、和食は得意じゃなかったぞ」
ヒカルは目をまるくして、緒方の肩にことん、と顎をのせる。
「へー意外!…じゃ、誰かに教わったの?」
「ああ。通いで来てくれている手伝いのばーさんがいてな……」


話に夢中(?)になっていたふたりは、気づかなかった。
この間に、何度かノックの音がしていたのを。
ルームサービスを運んできたボーイは、中からの応答がないのが気にはなったが、話し声はするようなので、テレビか何かの音声が大きくて、気が付かなかったのだろう……と、部屋のドアを開けた。せっかくのできたての鍋焼きうどんも、冷ましたりしてはいけないと思って。
「失礼しま………」
ワゴンを押しながら、部屋に入ると、そこには。

一人がけのソファに、長い足を悠々と組んでくつろぐ大人の男と、
そんな彼に後ろから抱きつき、男の首筋に顔を寄せて微笑む少女の姿。

男が、ふ、と彼の気配に気が付いて視線をやった時、彼はその眼鏡の奥の鋭い視線に心底血の気がひいた。
「すいませんお食事ここに置いておきます失礼しましたー!」
一気呵成でそれだけ言うと、ボーイは逃げるように部屋を後にした。

緒方は、ヒカルを背後にはりつかせたまま、煙草を取り上げる。
「なんだあれは」
ヒカルは、緒方の首に腕をまわし、相変わらず彼の肩の上にあごをのせたまま、首をかしげた。
「さぁ?」

残されたのはワゴンに乗っている湯気をたてた蓋つきの小さな土鍋と、そばの和食セット。

「…まぁいい。メシにしよう」
「うん♪」
ヒカルは早速、入口近くにあるワゴンを取りに行った。


そのころ。
「やっべ〜〜。まさかどっかの組の若頭とC学生の援交現場に出くわすなんてよ――」
ルームサービス担当の例のボーイは、まさか後でインネンつけられたりするんだろうかと本気で焦っていた。

彼の客を見る目が未熟なのか。
ちらりと視線を投げただけなのに「そう」見えてしまった緒方の目つきのせいなのか。
………論が分かれるところである。


そしてそんなことは知らずに。
クーラーが快適に利いた部屋の中、ヒカルは汗をかきかき鍋焼きうどんを食べ、緒方はのんびりとそばをすすっていた。



――外は台風。

風は、ますます強くなってきていた。


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