petit aqua vita
日頃のつぶやきやら、たまに小ネタやら…

2004年06月02日(水) 『雨やどり』(マイフェアシリーズ…の、はず)

その日は、朝から蒸し暑かった。
どんよりと低くたちこめた雲は薄暗く、今にも降りそうなのになんだかんだと夕方近くまで持ってしまっていて。
普段なら空へ逃げるはずの熱気や湿気も、大気の中に閉じ込められてしまっているような状態だ。
歩くたびに汗がじわり、と滲んでくる。かけている眼鏡も曇りそうだ。

「少しくらい降ったら、涼しくなりそうなものなのになぁ…」

彼はやれやれ、とため息をつきつつ、これは家に帰ったら即シャワーを浴びよう、と考えた。もう、今日回る営業先は全部回ったし、伝達事項は先程電話とメールで送ったばかりだ。最初から直帰の予定にしてあるので、このまま家路についても支障はない。
こんなに早くに帰れるなど、めったにない幸運だ。

――そう、思っていた。


そして数分後の、滝のような雨に降られ。
一瞬ににしてずぶ濡れになった彼は、やはり人生そう甘くはなかったとしみじみ実感するのである。
そしてとるものとりあえず、古そうな呉服店の広い軒下に避難したのであった。
とっさに鞄だけはかばったので、防水性の鞄の中のパソコンはおそらく無事だろう。折り畳み傘も替えのハンカチも鞄の中にあるが、現在ずぶ濡れの自分が鞄をひらいてしまっては、せっかく無事だったパソコンを濡らしてしまう恐れがある。
――これは、雨が小ぶりになるまで待つしかないかもしれない……。
しかし雨は、白い雨筋が一直線に地面にたたきつけられているのが見えるほど激しい。道の向かいのギャラリーの看板が、かすんで見えなくなっている。…もっとも、眼鏡についた水滴のせいで、もっと見えなくなっているのだが。

彼は、もう一度ため息をついた。


「おやまぁ、すごい音だと思ったら、滝のようだこと」


はらりと暖簾を上げて、店の者とおぼしき着物姿の女が顔を出した。
そしてはた、と雨宿りしている中年のサラリーマンの姿を見て、彼女はふ、と微笑んだ。
「よかったらお上がりくださいな。こんな雨だし、どうせお客も来ないから」

「あ…はぁ」

女将のさらりとした物言いに、彼は遠慮するのも忘れて、つい返事をしていた。

女将に続いて、暖簾をくぐる。…なんとなく、独特の香り。そして畳の匂い。店のところどころに展示された反物……どうやら、呉服店だったようだ。

「夏海ちゃん、ちょいと奥からバスタオルとタオル、二枚ずつ出しとくれっ!」
「は〜い」
出迎えようとした店員に声をかけると、女将は再びずぶ濡れのスーツを着た会社員に向き直った。そして上がり口横に置いてある二人掛けほどの小さな床几をすすめる。

「ちょっとそこにおかけくださいな。少しでも先に水気を拭いてからの方がよござんしょ」
「あ…いや、私はここで十分ですよ……」
「まぁ!そう言わずに。おせっかいな女将のわがまま、お聞きくださいな。――お風邪を召したら大変。その鞄も、大事な商売道具が入っているんでしょう?」
男ははっ、と自分が抱えていた鞄に視線を落とした。そうだ。この中には、様々なデータが入ったパソコンが入っているのだった。

「おかみさん、タオルを」
「ああ、ありがと。さ、どうぞ」
店員が持ってきたタオルを貰うと、彼は急いで鞄についた水滴を拭っていった。
その様子に、女将がころころと笑う。
「ご自分よりも商売道具が大事とは、見上げた心意気だこと」
そんな様子に、彼も顔がほころんだ。
「いやあ、私は多少濡れても、なんともないですから」
「…でも、ご自分の方も、ちゃんと水気を取ってくださいよ」

女将が残りのタオル類を床几に置いた時、ぱたぱた…と小さな足音がした。

「美登里さ〜ん、おきゃくさま?」
「あらヒカルちゃん、ごめんねぇ放りっぱなしで」

「……ヒカル……?」

彼は視線を上げた。

そこにいたのは。

涼しげなしじら織りの着物に身をつつんだ、
金の前髪。
うす灰の瞳の。

「なんでヒカルがここにいるんだ?!」

「なんで父さんがここにいるのさ?!」



彼――進藤 正夫の娘だったのだ。


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