2005年01月21日(金) |
『初春』4(やっとこさ年明け。あけましておめでとうございます) |
足音が、いつもと違う。 母のおさがりのピンクの草履は、新品ではなかったけれど。丁寧に履きならされたそれは、草履を履き慣れないヒカルが履いても殆ど痛みを感じなかった。
いつもと違う足音が、なんだかくすぐったい。 大晦日から、1日たっただけ……なのに。 道とか、空とか、空気とかが。 何となく新しくなったような気がするのが不思議だ。 そんな風に考える自分がおかしくて、ヒカルは肩からはおっていた紅梅色のショールの前を掻き合わせ、はあっ…と、両手に息をふきかけた。 息はすぐに白くなって、ふわふわとゆらいで消えてゆく。
「…やっぱ……寒いや」
そんな白い息にもくすりと笑って、ヒカルは再び歩き出した。 目的地の小さな神社は、もうすぐだ。 じっとしていられなくなって、ヒカルはよしっ、と気合を入れると、裾をけたてて駆け出した。 一応、着物姿なので小走り…ではあるけれど。
「…「飛梅」ならぬ「駆梅」かな…」 「は?」
師匠がぽつりと呟いた言葉に、緒方がけげんな顔をして師匠を見た。 ――果たして師匠は、神社内ではなく、鳥居の外を見つめて、微笑んでいる。 「…見なさい。早咲きの梅が…駆けてくる」 「……………おやおや」 師匠の視線を追って……そこに緒方が見つけたのは、紅梅模様の着物を着、同系の色のショールを巻きつけ、赤い巾着をポンポンと揺らしながら元気に駆けて来る黄金色の前髪の少女だった。
「やっぱり!向こうから見かけてまさかと思ったけど、塔矢先生だぁっ♪」 少女はずれて落ちそうになったショールを肩からしゅるりと落として片手にくるくるっと巻きつけると、はぁはぁと弾む息も整えず、ぴょこん、とおじぎをした。 「あけましておめでとうございますっ!塔矢先生」 出会った頃と変わらない無邪気な子供の様子に、塔矢名人も顔をほころばせる。 「こちらこそ、あけましておめでとう」 ゆったりと礼をする様は、どこか貫禄があり、和服を着慣れた風情といい、やはり市井の者とは一線を画していた。
元気よく頭を上げたヒカルは、隣に立っていた羽織袴姿の人物が緒方と知って、目を丸くしながらぺこん、とおじぎする。 「あけましておめでとうございます。…緒方先生も…着物着るんだ……」 「…あけましておめでとう。…正月だからな。それに、これは師匠が見立てていただいた着物だ。塔矢門下の正月行事でな。こうして正月には、先生にいただいた着物でご挨拶にうかがうんだ」 「…ってことは、塔矢も?」 「いいや」 塔矢名人は首を振った。 「弟子に羽織袴を送るのは、成人式の時としているからね。あの子はまだ成長期だから、今から一式を揃えてしまってはもったいない。私の若い頃とは違って、そう着る機会もないだろうからね」 そう言いながら、名人はヒカルの姿を改めて見て、目を細めた。
「…私も驚いたよ。よく似合っているじゃないか。良い着物だ」 「…へへ……そう…?……デスカ?」 ヒカルはちょっと照れくさそうに微笑みながら、改めて自分の着ている着物の袖を眺めてみる。 「着物はばーちゃんのなんです。草履はかーさんからのお下がりで、帯は着付けてくれた美登里さんから借りて……」 「美登里伯母さまが?」 「うん♪」
ヒカルが締めている帯は、着物の地紋の黒、そして紅梅の赤とは対照的な、明るくて柔らかな若葉色のものだった。その若葉色の地に、黄色い麻の葉模様が入っている。その帯が可愛らしく変わり花文庫に結ばれていた。 名人にとってはなつかしいその結び。 …出会った頃の妻が、よく結んでいたものだ。
――ヒカルとはじめて出会った時は、少年と見まがうような小さな子供だった。 しかし子供はしなやかに成長して、今、自分の弟子の目をひきつけるまでになっている。 囲碁の力も。その容姿も。 (…おそらく……本人は無意識なのだろうが)
ヒカルは無邪気に笑いながら、小さな箱型をした、鹿の子絞りの赤い巾着を揺らして緒方と話していた。
「ところで…進藤くん。参拝はまだのはずだね?」 「…あ、はい。今神社に来たばっかりです」 名人は頷いた。 「緒方くん」 「はい」 「進藤くんについて行ってあげなさい。確か参道や橋が所々凍っていた。ひとりでは危ないだろう」 「…はい。しかし……」 ためらう緒方に、名人は微笑む。 「アキラなら、もうすぐ芦原くんと帰ってくるだろう。門下生も挨拶に来ている頃だ。彼らと先に帰っているよ。」 「分かりました」
名人はヒカルを見つめた。 「進藤くん」 「はい」 「3日の日は、私の家で碁の打ち初めをする。気楽な席だから、時間があるなら顔を出すと良い」 「え?!良いんですか?オレ、門下生じゃない…んですけど」 つっかえそうになりながら、なんとか丁寧語を付け足したヒカルの様子に、緒方は内心冷や汗ものだった。 「…むしろ3日は門下生以外の方が多いな。…毎年そうだね?緒方くん」 「はい。囲碁なしには三が日も明けない…棋士ばかりですね」 苦笑して答える緒方に、ヒカルは納得したように呟いた。 「つまり囲碁バカ……?」 「コラ」 こつん、と軽く緒方に叩かれる。 首をすくめるヒカルに、塔矢名人は声を立てて笑った。 「まさにその通りだ。明子も、ぜんざいを用意して待っているよ」 「絶対行きます!」 ヒカルのきっぱりとした答えに、緒方はやれやれ、とため息をつき、名人は楽しそうに微笑む。 「…待っているよ。さぁ、せっかくの初詣の途中なのに引き止めて悪かったね。行っておいで。緒方くん、頼んだよ」
「は〜い。行ってきま〜す!3日、絶対おじゃまします♪」 「(コイツは…)…はい。では後程……」
2人は名人と別れ、神社へと歩いてゆく。 歩きなれないヒカルの歩幅に合わせてゆっくり歩く弟子の姿が、妙に微笑ましかった。気が向く相手にしかそういう気遣いを見せない弟子の性格は、よく承知している。 …つまり、彼女は、「そういう」対象なのだろう。
「…後で、アキラは怒るかもしれんな……」
――彼女の晴れ姿を、自分と緒方だけが目にした、と知ったなら。 彼らが向かった正面の参道とは別の脇道から、アキラと芦原が向かって来るのが見える。 しかし、彼らは気づかない。
遠目に、緒方はヒカルからショールを受け取り、彼女の肩にかけてやっていた。 何事か、言葉を交わしながら。 ……そして、ふたりは人ごみにまぎれていった。
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