2005年01月24日(月) |
『初春』5(リベンジ) |
「着物って、苦しいって聞いてたけど、そうでもないんだね」 肩にショールをかけてもらいながらヒカルが言うと、緒方は苦笑した。 「…まぁ、アレでも伯母様はプロだからな。普段着物を着ていないオマエでも、苦しくないように着付けてくれたんだろう」 「へぇ、美登里さんって、着付けのプロなんだ!」 「ああ。確か近所の着付け学校にも、たまに講師として呼ばれてるぞ。その帯の結び…変わり花文庫も、あのひとのオリジナルだ」 緒方の言葉に、ヒカルは後ろの帯を見ようとする。…が、やはりうまくいかない。 「んー?よく分かんない。「ぶんこ」っていうの?コレ」 「…ああ」
そして緒方はにやりと笑った。 「小さい子供に似合う結び方だそうだ」 ヒカルの頬はむぅ、と膨れる。 「どーせチビだよっ!」 17歳になっても160センチに届かないことを気にしているヒカルは勢いよく巾着を振り回し、緒方の先にたってずんずんと歩き始めた。
ヒカルが歩くたび、帯が揺れて、裏地の鮮やかな山吹色がひらひらとのぞく。 一段目の文庫の垂れをやや長めに垂らし、二つ目の文庫を小さく作って、本来の花文庫なら広げて立てるところを、ふくらませて一段目の上に「ちょこん」と乗せる、美登里がよく好んで結ぶ文庫結び。…最近は背が高い子が多いから、なかなか結ぶ機会がないのだとこぼしていただけに、今回ははりきったに違いない。嬉々とした伯母の様子が、目に浮かぶようだ。
(…正直…驚いたが)
…そう、まさに予想外だった。 師匠に促されて視線をやったその先に。 黒地に紅梅模様の鮮やかな着物を着たヒカルが、若葉色の帯を締めて、やはり紅梅色のショールをひるがえして駆けてきたのを見た時は。 以前、写真撮影の時には自分がほぼ無理に着せたのだが。…まさか、自ら着物を着るなどと、普段の彼女からは想像がつかない。
…そう。いつもとは違う。 ほんのすこし化粧がほどこされた肌。唇には紅をさして。 すんなりと伸びた首とか、すっと自然に伸ばされた背中とか。
ゆっくりとではあっても、蕾はいつか花開く。 ――そのほころびを、目の当たりにしたような、気がした。
裾をけたてて前を歩くヒカルは、まだ少女の色の方が強いけれど。
「……あ、そだ。緒方さ…ぅわっ?!」 振り向きかけた少女が一瞬視界から消えかけて、緒方は慌ててバランスを崩したヒカルを抱きとめる。…なんとか、転んでしまう前に受け止めることができた。 「……大丈夫か?」 「う…うん。…アリガト」 「さっき師匠も言っていただろう。まだ所々に氷が残ってるんだ」 「…………」
上から間近にのぞきこまれて、ヒカルは少し驚いた。 何だか、緒方の腕にすっぽりおさまってしまっているような、そんな気がする。 回された腕とか、背中にあたる肩とか、自分の手を掴んでいる、手とか。 父親のそれよりも大きくて…広い。 以前自分を包んでいてくれた…白い袖よりも、ずっと確かで。 その腕と手が、自分をしっかりと立たせてくれる。
「…どうした?どこかひねったか?」 「ううん。ヘーキ」 ぶんぶん、と無造作に降られる頭に、おそらく最初は綺麗にとかされていたであろう髪がますます乱れる。 そんな様子に緒方は微笑むと、乱れた髪を直そうと手を伸ばした。 …すると何かが手にひっかかり、髪からするりととれる。 「…あ。とれちゃった」 ヒカルが慌てて落とさないように受け取ったのは、朱色の玉がついた、ちいさなヘアピン。 去年の12月。女流棋聖戦の本戦出場を決めた時に、「みやげだ」と言って、緒方がくれたお菓子と一緒に入っていた。鮮やかで…しかしほんわりと柔らかい朱色が気に入って、今日も最後に髪を整える時に、つけてもらったのだ。
「…使ってたのか」 「うん。かわいいねって。美登里さんも褒めてくれたんだvv」 小さなヘアピンは、ヒカルの手の中でコロコロと転がる。 緒方が髪を整えてやると、もうひとつのピンが、センリョウの実のようにヒカルの黄金色の髪の間から現れた。 緒方はヒカルのてのひらの上のピンを取り、もう片方にとめてやる。
ヒカルは知らない。 ――その朱色の玉が、本物の珊瑚であることを。
緒方も、知らない。 ――そのピンを、ヒカルがつけているのが今日だけではないことを。
「…よし。こんなもんだろ。もうよそ見するなよ」 「うん。ばーちゃんの着物、汚したくないもんね。ありがとう」
ヒカルはにっこりと微笑むと、今度は先程よりも大人しく、歩こうと…した。
彼女の幼馴染が彼女の視界に入るまでは。
「あかり〜〜っっ♪」
…先程の言葉はどこへやら。ヒカルはまたしても、裾をけたてて駆けていったのである。 置いていかれた緒方は一瞬呆然とし…くつくつと笑う。
「…まったく……長襦袢はおろか、裾よけすっとばして生足まで見えてるぞおい……」
…どうせ聞こえていないだろうが。 緒方は苦笑しながら、ヒカルの後をゆっくりと歩いていった。
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