petit aqua vita
日頃のつぶやきやら、たまに小ネタやら…

2005年03月02日(水) 『名前にまつわるエトセトラ』(華氏シリーズ)

昼時、対局は打ち掛けとなり、棋士たちはそれぞれ昼食をとるなり、休憩するなりと思い思いの時間をすごそうとざわめいていた。

「緒方先生!」
 そんな中、精良は棋院の職員に呼び止められる。
「なんでしょう」
 すらりとした肢体をいつもの白いスーツをまとう彼女は、まだ対局の雰囲気をひきずったままだ。ぴしりとした冷徹な視線が眼鏡越しに職員に刺さる。
 彼は一瞬たじろいだ。
「あ…あの……お客さんです」
「客?」

(対局日だというのに何て迷惑な)

…精良は心の中で悪態をついたのだが、職員をはじめ周囲の人間は彼女がどう思ったのか聞こえたような気がした。
 その表情といい、視線といい、雰囲気といい、全身で「迷惑だ」と語っていたので。
 そんな精良に相対する職員は自分の不幸を呪いたくなったが、とりあえず、誰が客として来ているのかを伝え終わらないことには、彼の使命は終わらない。先程事務室で誰がこの用件を精良に伝えるかでさんざんモメた挙句、結局クジ引きで見事当たりを引き当てたのが彼だった。
…そういえば、今朝の占いでカニ座は最下位だった。しかも「仕事で突然トラブルに巻き込まれるかも〜」。…確かに当たってる。
 しかし当たってるからどうだというのか。この状況は変わらない。

「…あ、緒方さ〜ん」

 緊迫した空気を破ったのは、能天気な彼女の弟弟子の声だった。

「お兄さんと姪御さんが売店のところに来ていましたよ。緒方さんに会いにきたんじゃないですかぁ?」
 その言葉に続いて、職員も必死に続ける。
「…はい。お身内の方と伺っております。「売店で待っているから」…と伝言が……」

 精良は眉をひそめた。…しかし、先程までのあからさまに険悪なオーラは引っ込んでいる。
「…やれやれ、何の用事なんだか……」

 精良は階下に向かう為、エレベーターへと去ってゆく。
 コツコツと響くヒールの音が消えた時。芦原は「ありがとうございますぅ〜」と職員にすがりつかれたのであった。
――それをまあまあと宥めながら、さりげなく次回の囲碁セミナーの行き先を某棋士と交代してほしいなぁ…なんて交渉をもちかけてゆく。…こうして、「搭矢門下はクセ者揃い」という定説は確固たるものになってゆくのであった。










 一方、精良は売店の本棚でぱらぱらと本をめくる兄と、その足元にまつわりつく少女の姿を見つけた。

「兄さん?」
「――やぁ、久しぶり」
「せいらちゃん♪」

 妹の声に気づいた兄はぱたん、と本を閉じて穏やかに微笑み、少女は嬉しそうに精良の元に駆け寄るのだった。
「ひさしぶりだね、和」
 自分の足元にぎゅっと抱きついてくる少女を、精良はふわりと抱き上げる。少女は嬉しそうにきゃあ、とはしゃいだ。
「対局日だから、遠慮しようとは思ったんだが…和が会いに行くと聞かなくてね」
 すまないな、という風に彼は苦笑した。
 一人娘にどこまでも甘い兄に、精良もつられて苦笑した。
「…まぁ、今は丁度打ち掛けだから……」
「あのね、せいらちゃん、あしたね、あい、おぶたいにでるの!」
 精良の言葉をさえぎり、少女はにっこりと微笑んだ。
「おぶたい…って、舞台か?」
「明日の『鞍馬天狗』で、初舞台だよ。急遽決まったので、今日申し合わせをしてきたところだ」
「あいねー、きものきて、「ちご」になるのー♪」
 嬉しくて仕方ないらしい少女は、満面の笑みを浮かべる。
「和、渡すものがあったんじゃないか?」
 父親の言葉に、少女ははっとして、慌てて肩からさげていたポシェットからいびつに折りたたまれた紙を取り出し、精良にさしだした。
「…ええと…「よかたらみにきてくだしゃい」!」
「よかったら見に来てください」…おそらく父親が教えたであろう言葉を丸読みしながらチケットを差し出す姪の可愛らしさに、精良もつられて微笑む。そして。ちいさな手からチケットを受け取った。
「…ありがとう。是非、見に行かせてもらうよ」
 大好きな「せいらちゃん」にチケットを自分で渡せた上、来てもらえると返事までもらったので、少女は精良の腕の中で大はしゃぎしてばたばたとあばれる。
 そんな興奮状態の娘を抱き取りながら、兄は妹に確認した。
「いいのか?」
「明日なら大丈夫。指導碁の予定もない。…それに、せっかくの和の初舞台で、本人からチケットまで貰ったんだから」
 ありがとう、と、姪のさらさらとした黒髪をなぜると、少女はくすぐったそうに首をすくめた。
「助かったよ。ついでにビデオ撮影も頼む」
 自分は出演者側なので、娘の初舞台をビデオに撮る事ができない上、妻に頼もうにも妻は精密機械類ととことん相性が悪いのだ。おかげで、パソコンや撮影機材一式、彼女は接触禁止なのである。
「そっちが本命か。親父たちに頼めば喜んで撮ってくれるだろう…」
 …ジジバババカだから。
「たぶん…撮りまくるだろうなぁ。和「だけ」を」
 …ジジバババカだから。
 自分の両親がやるであろう行動が容易に想像できて、兄妹は苦笑した。
 それでは、何の舞台に出たのかなどの記録にならないのだ。後で映像を編集するのにかなりキツい。

「…分かった。撮るのは『鞍馬天狗』だけでいいな?」
「できれば俺が出る『草紙洗』も撮ってほしいな」

 仕方ない、と了承した精良に、にこにこと兄は追加注文してよこす。…決して横暴な兄ではないのだが、このおっとりした兄の要求に、精良は何故か昔から逆らえないでいるのだった。


 < 過去   INDEX  未来 >


平 知嗣 [HOMEPAGE]

My追加