2005年09月01日(木) |
『夏をあきらめないで』(女の子ヒカル) |
外し忘れられたポスターの前で、少女はひとつ、ため息をついた。
「どうした、進藤」
「…ん?いや、何でもないよ。もう取材は終わったの?」
ふるる、と小さく首を振るヒカルの髪を、緒方は柔らかくかき回した。 いつもの乱暴なそれとは違うそれに、ヒカルはぱちぱちとまばたきして男を見上げる。 少女があどけなく見上げてくる表情に、緒方は笑みを深くした。
「…あんな顔してため息までついてたんだ。気にならない訳がないだろ」
榛色の瞳が、すい、と細くなる。 普段の彼からは想像もつかない程の、優しい表情。 髪をかき回していた大きな掌が、ヒカルの頬に触れる。
――いつから、だっただろう。
この優しい指が、包み込むような視線が、時に強引な態度が。 ――すべて、自分だけの…自分だけにもたらされるものだと、気がついたのは。
そして、それが、どうしようもなく嬉しい。 ――そう、素直に思えるようになったのは。
触れてくる掌に甘えるように、ヒカルは頬をすりよせた。
「別に…大した事じゃないんだよ。今年は海に行けなかったなーって、それだけ」
「…海?」
緒方の視線には、外し忘れられていた、鮮やかな海のポスター。
「…まぁ、当然なんだけどねー。この夏はいつもよりばたばたしてたし」
段位も上がった。参加する棋戦も増えた。イベントの講師の依頼も、調整しなければならないほど来ているという。 対局するのは楽しい。――それが、強い相手ならばなおさら。 1日じゅう碁を打っていたって、平気なくらい。 そのくらい、囲碁はいつのまにか自分の生活と同化していた。
――あの頃は、囲碁ばかり強要するあのひとと、喧嘩ばかりしていたのに。
…そうして、ふと、気がついたのだ。 きっかけはこの目の前のポスター。 青い海と。白い砂と。ぎらぎらと晴れた空と、食べられそうなくらいぽっかりと浮いた雲。 以前は、夏といえば真っ黒になるまで、海で、プールで泳いだものだった。
「――なんかさ、気がついたら、もう海って時期も過ぎちゃってるし」
ヒカルは微笑むと、行こう、と緒方を促した。
緒方はポスターを見つめたまま動かない。
「――緒方さん?」
「ヒカル」
「なに?」
2人きりにならないと名前を呼んだりしない男の呼びかけに、ヒカルはどぎまぎしながら返事をした。 緒方はぐい、と彼女の白い手首を掴むと、やや強引に引っ張って、ずかずかと歩いてゆく。ふたりの歩幅が違うので、ヒカルはやや小走りについていくことになった。
「…な、なに?緒方さん?!」
棋院の自動ドアをすりぬけると、むわ、とばかりにふたりを包むのはまだ衰えを見せない残暑の空気。コンクリートジャングルな都会は余計に熱い。
「――海に行くぞ」 「へっ?!」 「確か、ここ3日ほどお前のスケジュールは空いているはずだな?」 「…うん」 「…喜べ。俺もオフだ。だから海に行くぞ」
ぐい、とRX-7の助手席に押し込まれた。
「海って……ひょっとして今から?!」 「そうだ。行きたかったんだろう?」 「そりゃそうだけど……って、じゃなくて!今の海なんて、クラゲでいっぱいなんじゃないの?!」 「そんな海に俺がお前を連れて行くと思っているのか?」
にやり。自身たっぷりの視線で断言する。
「…お、思いまセン……」
何故かこっちが悪いことを言ったような気分で、つい小さくなってししまう。
「…あ、でも!今の時期、台風が来るから海はよく荒れるって言うし!」 「任せろ。俺の行く先は台風も避ける」 「何だよその妙な自信は!」 「事実だ。ちゃんと実績もあるぞ」
焦るヒカルを適当にあしらいながらも、緒方は順調に車を走らせ、首都高速に入る。
「ちょっと待ってよ、ホントにこのまま行くの?!」 「ああ」 「せめて家に寄ってってば!水着とか着替えとか、用意するモノいっぱいあるじゃん!!」
ヒカルの言葉に、緒方は嬉しそうに微笑んだ。
「何もいらねぇよ。お前が海に行く気になったのなら、それで十分だ」
必要なものは向こうで買えば良い。 そう言って煙草を咥えた緒方は、悔しいけど、認めるのは本っ当に悔しいけれど、格好良くて。
「安全運転で行ってよね!あおられても勝負受けんなよ!!」 「安全運転はいつもしている。…だが、売られたケンカは買わないと勝負師の名がすたる」 「ヤダ!約束しないとオレ海に着いても速攻帰る!」 「………。善処、する」
ムッとした表情が、年上のくせにどこか可愛い。
そんな衝動のまま、ヒカルは緒方の頬に唇をよせた。
――それは、ほんの一瞬。
かすかに触れるだけの。
「ありがと」
――夏は、まだ、終わっていない。
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