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 ねじの回転 デイジー・ミラー/ヘンリー・ジェイムズ

『ねじの回転 デイジー・ミラー』/ヘンリー・ジェイムズ (著), 行方 昭夫 (翻訳)
文庫: 366 p ; サイズ(cm): 15 x 11
出版社: 岩波書店 ; ISBN: 4003231392 ; (2003/06/14)
出版社/著者からの内容紹介
〈アメリカ的なもの〉と〈ヨーロッパ的なもの〉の対立を扱い、一躍ヘンリー・ジェイムズ(1843−1916)の文名を高からしめた〈国際状況もの〉の代表作「デイジー・ミラー」。その解釈をめぐってまさに議論百出の感のある、謎に満ち満ちた幽霊譚「ねじの回転」。ジェイムズの最もポピュラーな中篇2篇を収録。新訳。


<デイジー・ミラー>

「ねじの回転」の前に「デイジー・ミラー」を読んだのだが、なんとなく、このデイジーという女性が、自分のことのように思えた。

というのも、1800年代の封建的なヨーロッパの上流社会において、アメリカの富豪の娘であるデイジーは、あまりにも奔放すぎるアウトローなのだ。「上流社会の娘が、あんなことをして!」と、周囲の紳士、淑女たちから非難ごうごうの娘なのだ。かといって、実際にふしだらであったりするわけではなく、本人はいたって天真爛漫でしかないのだと思うのだけれど。

で、私は上流でもないし、富豪でもないが、周囲から見れば、おそらくアウトローに見えるのだろうと思う。「まあ!主婦がお酒を飲みに行ったりして・・・」とか、「ご主人以外に男友達がいるなんて・・・」と思われているに違いない。

しかしデイジーと一緒で、やりたいことをやっているにすぎない。主婦がお酒を飲んではいけないとは思っていないし、たまたま友だちの性別が男だったりするだけで、それ以上の意味もないし、自分の人生を楽しく生きて何が悪い?とも思う。デイジー同様、世間の目など、あまり気にしていないから。

というわけで、この「デイジー・ミラー」は、当時としてはかなり奔放な女性についての描写であっただろうから、非常に話題にもなったのだろうが、いつの時代にも、こんなことはよくあることと思える。こんな風に自分の意志で自由に生きる女性には共感を覚える。

ただデイジーが、あまりにあっけなく死んだのと、その死についての言及があまりにそっけないのとに唖然とした。この小説の主人公の男は、デイジーのことが好きだったのに、世間の目や厳格な伯母の目を気にして、なにやかやといいわけしながら(例えば「デイジーは下品な娘なのだ」とか)、デイジーの死に、自分は何の関係もありませんよ的なそっけない態度を取るのがいやらしい。ほぼ毎日のように、デイジーのいるホテルに通い詰めていたというのに。

この主人公に比べれば、デイジーと付き合っていたイタリア男のほうが、ずっと正直で好感が持てる。自分はデイジーとは身分が違うけれど、デイジーが望むことは何でもしてあげたい、一緒にいれるだけで幸せなのだと言える、この男のほうが、体裁ばかり気にしている主人公よりも数倍いい。

この時代、女性は何かというと気を失って、すぐに気付け薬の瓶を嗅ぐというようなことをしていたわけだから、デイジーが主人公の男を好きだったとすれば、男に拒絶されたショックで死んだとしても不思議はない。自由奔放な娘でも、心は非常に傷つきやすかったとは言えないだろうか?

ヘンリー・ジェイムズは、デイジーという女性を描いたつもりだったのだろうが、私は体裁と世間体を気にする優柔不断男の典型を見せられているような気がした。時代背景を考慮しても、こんな男は嫌だ。だいたい、いい年をした大人の男が、伯母様のお供をして旅行をしているなんて、気持ちが悪い。


<ねじの回転>

クリスマスものと思っていたのだが、実際はクリスマス・イヴに語られた話というだけで、中身は全然クリスマスには関係なかった。

有名な幽霊話と聞いていたが、訳者あとがきを読むと、本当に幽霊が出たのだと解釈する人と、あれは語り手の女教師の妄想だとする人がいるらしい。たしかに、あの女教師はちょっとヒステリックだなと思う。

でも、私は普段からホラーやゴシック小説を読んでいるので、幽霊の話が荒唐無稽だとも思わないし、見える人には見えるのよねと思うから、実際に出たのだろうと思って読んでいた。

ただその幽霊2体が、なぜ出てくるのか、それがちょっとよくわからない。女教師が教えている子どもたちのところに出てくるわけだが、だからといって、アン・ライスの幽霊のように、何か実際に影響があるのか?というと、そういうわけでもなく、ただ女教師が幽霊を邪悪であるとするばかりなのだ。

女教師は、子どもを邪悪に寄せ付けないために、幽霊を撃退しようとしたのだろうか?子どもはけして純真無垢なものではなく、大人よりも残酷な邪悪さを持っていると思っているので、その幽霊のために、学校を退学させられるほどの「悪い子」になったとは思えない。

あまり強調されてはいないが、身寄りのない子どもたちを引き取っている伯父さんの不在が、子どもたちに寂しさを感じさせ、自分たちを気にかけてくれる人間(のちに幽霊になる)に、親しみを感じていたのだろうと思う。つまり、愛情に飢えた子どもたちの精神状態なども描かれていたのだろうと考える。

印象としては、先にあげたアン・ライスや、『嵐が丘』などのゴシック小説のような感じを受け、たぶんこの時代の幽霊話とは、だいたいこんな感じなのだろうなと思ったが、この小説では幽霊たちは何の悪さもしていないのだから、はなから邪悪な存在と決め付けるのはどうなんだろう?と思う。

しかし、そんなふうな決め付けをしてしまった女教師の、雇い主に対する恋心というものまで解釈されている。批評家たちというのは、考えなくてもいいことまで考えるらしい。確かに、お金持ちでハンサムな雇い主ならば、恋心も抱いたかもしれない。しかし、素直に、単なる幽霊話と受け取ってはいけないのか?いわゆるホラー小説として読んではダメなんだろうか?と思った。

実際に幽霊が出たにしても、あるいは女教師の妄想にすぎなかったとしても、サイコものとして、十分ホラー小説ではないか。「ヘンリー・ジェイムズの曖昧性」とか何とか説明がされているが、何か大きな意味があるのだろうか?と勘ぐるから曖昧なのだ。ホラー小説だとして読めば、こういうものだと収まるだろう。

幽霊話で、きっちり理屈で説明がつくようなものには、いまだにお目にかかったことがないし、これは幽霊話だと最初に言っているのだから、そう思って読めばいいんじゃないかなと思う。

これはものすごく怖い話だと聞いていたが、私にとって怖かったのは、幽霊ではなくヒステリックな女教師のほうだったとも言える。

2005年12月22日(木)
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