西岐が西岐のままであったとしても、施政者になるしかない家柄と立場に生まれたが、姫発を育てたのは城ではなく街だった。 完璧な兄と優秀な弟に挟まれ、決して愚鈍ではなかったものの彼らと同じようには傑出することは出来なかった次男は、自分の居場所を老いも若きも、富めるも貧しきも犇めき合う雑踏に求めた。 人気のない昼間の歓楽街。遊びまわる子供たちの歓声。嫁ぐために家を出るうら若き乙女。酔って喧嘩を始める日雇い労働者。残飯を漁り、それでも笑いあう幼い兄妹。姫発は彼らを心から愛し、それを悟った彼らも姫発を愛した。彼が「姫発」であることを街の人々は知っていたが、それでもなお彼は「発っちゃん」として深く受け入れられていた。 あるいは、少年の姿をした道士が彼を赤い城まで続く道の前に連れて行くまで、彼の家族は姫姓を継ぐ者ではなく、長逗留を笑って諌めた娼妓や赤ら顔で安い酒を彼の杯に注いだ荒くれ者であったとすらいえるのかも知れない。
そんな姫昌の息子が王を名乗るようになっても、また実際に王となっても、彼にとって兵士とは民であり、民である前に彼の友人であった。 姫発は一番前を行く兵士が妻にとっては良人であり、子にとっては父であり、隣人にとっては仲間であることを経験としてよく知っていた。だからこそ、彼らを彼らが居た場所に返してやりたいと強く願っていたし、彼らが戻る場所で彼らの家族が笑っていられることを何よりも求めた。その為に自分が王であることには、誇りを持てた。 そんな彼だから、まさに彼が名実ともに王となる狭間で出会った少女のことも知りたいと思うのだ。 姫発にとって、知ることは愛することだった。治めるために識るのではない。
「なあ邑姜お前、梅の花と桃の花とどっちが好きだ?」 筆を銜えたせいで少しくぐもった声で問われ、邑姜は大きく息を吐いた。 「武王…休憩ならついさっき取ったばかりです。手を動かしてください。ついでに頭のほうも」 「動かしてるっつーの。ホイ出来た」 言いながら姫発が投げて寄越した竹簡を受け取り、邑姜は片眉を上げた。出来てるだろ?と姫発笑う。 「これは結構です。それでは次はこちらを」 ずいっと押しやられた大量の仕事に姫発は唸り、一通り文句を言った後、一番上の木簡を紐解いた。 「で?梅と桃だとどっちが好きなんだよ」 「武王…そんなことより先に貴方が知らなければならないことはいくらでもあります。私個人の嗜好など捨て置いてください」 じろりと睨むように見ても、姫発の態度はあっけらかんとしたものだ。 「嗜好じゃないって。邑姜のことが知りたいんだよ」
もともと、邑姜は武王の正妃になる為にここに居る。新しい王にとってか欠かざるべき存在となり、羌族の地位を向上させることが邑姜の使命であり、生きる理由だった。 だから、こうして武王に個人的な関心を抱かれるのは、決して悪いことではなく、むしろ願ってもないことであるはずだった。自分はこの機会を逃すべきではない。 そう思いながらも、邑姜はさらりとそんなことを口にする姫発に対する苛立ちを抑えることが出来なかった。 「…梅と桃をどちらか選んだところで、私の何が分かるのですか」 姫発は一瞬きょとんとして、それから気まずげに鼻を掻いた。そんな様子を直視できず、邑姜は手の中の竹簡に集中しようと目を落とす。 他の部に折衝に行った周公旦様が少しでも早く帰ってきて、いつものように彼の兄と厳しくも気安いやり取りをしてくれればいいのに。 そうしたら、この人はまたいつもみたいに笑う。
数秒の沈黙を破ったのはやはり男の方だった。 「俺はさあ、梅のほうが好きなんだ。豊邑の街で遊びまわってた頃、遊び場の近くに立派な梅があってさ、花見だなんだと言っては仲間と一緒に騒いでさ。あと、ちょっと手折って女にあげたりとか、見舞いにしたりとか、たくさん思い出があるんだ。桃も色っぽいと思うけど、俺は梅派」 邑姜の毒など聞かなかったかのように、姫発の明朗でよく通る声が語る。邑姜が思わず顔を上げると、姫発はへらりと笑った。 「邑姜は?」 一瞬、邑姜は喉がつまり、応えようと思ってもそれが出来なかった。姫発はそれでもにこにこと邑姜の答えを待っている。まるで子ども扱いだと邑姜は思った。 歓迎すべき態度ではない。けれど───嫌だとも思えなかった。 そんな自分に、邑姜は戸惑う。 「羌族は遊牧民族なので…梅や桃のように季節を待つ花と一緒に過ごしたことがないので、分かりません。桃源郷は独自の生態系を築いていたので、梅も桃もありませんでした」 「そっか。そりゃそうだな。悪ィ、答えられないような質問して」 「いえ…」 姫発はもう一度邑姜に笑いかけ、それからようやく筆を持って木簡に何か書き込み始めた。邑姜は少しの間そんな彼を見つめ、それから自分も仕事に戻った。けれど、いつものような世界が凝縮されるような集中力は訪れない。それどころか、遊牧の民として鍛えられた彼女の聴力は、恐らくは用事を済ませた周公旦が戻ってくるのだろう足音を拾ってしまう。 武王は真剣な顔をして木簡を読んでいる。邪魔をするべきではない。邑姜は分かっていた。だけど、ふたりきりの時間がもう終わってしまうのも分かっていた。
「ここには…桃も梅もありますので」 我ながら小さな声だと思ったけれど、姫発は聞き逃さず、すっと邑姜を見た。釣りあがった切れ長の瞳を魅入られるように見返して、邑姜は言葉を続けた。声が震えないように慎重に舌に乗せる。 「そのうち、どちらが好きか、分かると思います」 姫発は一瞬で笑顔になった。 この人は決して笑顔を惜しまない。優しい言葉も、気遣いも。
───人を愛するために生まれてきたような人なのだ。
たぶん、そこがあの人に似ている。だから好ましいのだ。笑って欲しいと、笑いかけて欲しいと思うのだ。邑姜はそう考えた。自分が無理をしているのが分かった。 「じゃあ、一緒に花見しような。梅も、桃も」 弾んだ声で姫発は邑姜に言う。 みんなも誘おう。旦は酔わせると結構面白い。今、公共事業の担当をしている文官が琵琶の名手なんだ。歌が上手いヤツもいる。西岐ではよくみんなで花を肴に酒盛りをした。ここでもやりたい。 「きっと、お前も楽しいと思うぜ。桃も梅も好きになる」 「…そうですね。楽しみです」
きっと、もっともっと好きになる。 一日が重なるごとに、季節が巡るごとに。
戻ってきた周公旦に張り飛ばされる姫発を庇って、邑姜は零れるように笑う。 少しは暖かくなってきた風が微かに、知りもしない梅の香りを運んできたような気がした。
------------------ 最近、封神演義の完全版を読み返しているのですが、改めてなんて面白いんだろう!と感動しました。やっぱり、私の原点なんだよなあ…。ああ、それにしても飛虎さんってなんて素敵なのかしら!愛!愛! 望普とか道乙とか、昔伺っていたサイトさんがまだ活動されたりしていて、嬉しかったです。
前々から発邑で学園パラレルが書きたかったのです。で、久しぶりに熱が盛り上がったついでに色々と考えたのですが、異様にゴツい設定になってしまって驚いた。 そもそも封神演義とは、稀代の才能が大集結した物語なのです。だからこそ歴史の境目ともなった。比較的凡人という印象が強い姫発だって、普通の生活の中では出会いようがないくらい魅力的で、周囲の太陽となるような人間であるはず。邑姜や周公旦なんて、学校に通うような範囲にもはや収まらない天才。そんなヤツらを収めるには…とか色々と考えていたらゴテゴテの設定になってしまったのですが、コレでは学園モノの醍醐味が…本末転倒になってしまう! というわけで、かなりスマートに直した設定でやりたいなあと思います。
邑姜は初めて会った瞬間から、羌族のために武王を落とすつもりで彼と接しているのですが、いつか本気で彼自身を愛するようになり、使命とか義務とか、そういうものもなく、ただの娘として彼に出会えればよかったのに、とどこかで思っていてくれたらいいなあと思います。 きっとね、彼らは王と臣下じゃなくて、遊び人と統領の娘として出会っても恋に落ちたと思うよ。 発邑を取り巻く環境はこれ以上ないくらい複雑で重いんだけど(そこが萌えポイントでもあるんだけど)、本人同士の一番深いところでは、ただ純粋に想い合っていて欲しいな、と。私の発邑観はそんな感じです。 先に好きになったのは邑姜だといい。 人に愛されるために愛する邑姜が、愛するから愛される発に出会って、彼の魂を心底愛おしむ。邑姜はそれを幸せだと思うと思うのです。
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