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精神障害者、はたまた償えない罪について - 2001年06月11日(月) 先日起こった大教大附属小学校での事件について、盛り上がった一日でした。 「精神障害者」が事件を起こすたびに、同じような反応をする人に会います。 同じような議論が繰り返されます。 そして、何も変わらずに、次の事件が起こるまでの間、忘れ去られます。 「精神障害者」を免罪符にしている、という意見を聞くこともあります。 では、どこからどこまでが「精神障害者」なのでしょうか。 病院で、認識されてから? 心理テストで判断されてから? では、病院に行かない人や、心理テストを受けたことのない人には、「精神障害者」はいないのでしょうか? しかし、その心理テストも、所詮人が作ったものです。 心理テストを作った人が狂っていないと、誰が言えるのでしょうか。 「大多数の人」がそうだからという鑑定の下に行われる「精神鑑定」。それを基準にしているのに、「精神障害者だからではなく、個人の資質だ」というふうに降ろしてくるのにどこか矛盾を感じるのは、私だけでしょうか。 「精神障害者」も「少年犯罪」にも、私は同じ事を感じます。 どれだけのことをすれば、罪は償ったことになるのでしょうか? 一生その罪は償われることは、ないのでしょうか。 私は、犯罪を犯した人へ罪を償えと、一生背負って行けと、そう言えるのは被害者だけだと思います。 世間で、ただ「可哀相だったね」としか言っていない者が、「自分でなくて良かった」と思っている人が、その犯人に後ろ指を差すことができるのでしょうか。 犯人の人権ばかり叫ばれ、被害者の人権が疎かにされている、そういう意見も、今までどれくらい聞いたでしょうか。 確かに、それも一理ありますが、犯人の人権の正反対の位置に、被害者の人権があるのでしょうか?どちらの人権も守ることはできないのでしょうか。 先にも言ったように、犯人を憎むことができるのも、犯人に訴えることができるのも、被害者だと私は思っています。ですが、昨今、犯人の名前が起訴前に「容疑者」として公表され、顔写真が出た時点で犯人は多少の「ハンデ」はあるわけです。そのハンデを使うのが被害者側ではなく、関係のない、その事件の輪の外にいる「世間」だということに、私は矛盾を感じます。 マスコミの過剰な報道に腹を立てている人もいるでしょう。 けれど、その「過剰な報道」が世論を動かすきっかけになることもあるんです。 「泣き叫んでいる遺族を映さなくてもいい」 それは、正当な良心であり、感覚です。 けれど、それを望む声があるからこそ、テレビ報道はここまで進み、技術が進んだのです。 「あなた個人」は望まないかもしれない。 けれど、それを望む「不特定多数の人」がいるのです。 そして、それが「世論」として通ってしまうのが、民主主義なのではないでしょうか。 -
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