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そんなことを考えました - 2001年06月30日(土)

今日でもう6月も終わりです。
この間、年を越したと思っていたら、もう半年が過ぎたことになります。
あれから、半年が経ったんです。
今ももちろんあの子のことは好きですが、落ち着いているのは、確かです。

今日は、映画の無料チケットをもらったので、友人と見に行きました。
「ホタル」という、高倉健主演の邦画です。
さすがに見に来ているお客は年齢層が高い(笑)。でも、見たかった映画なので、楽しみでした。

約2時間ほどの映画でしたが、「長さ」を感じることもなく、重厚な、そして完璧なストーリーだと見ながら感じました。

映画の最中、何度泣いたでしょうか。
最近、映画を見ながら泣くことが多くなりました。
少しずつ、少しずつ、感情を出せるようになってきた気がします。

映画のストーリーは、「戦争」が中心です。
特攻として戦時中を生きた主人公、そして、日本の特攻隊として、死んだ朝鮮人の許婚で、今は主人公の妻となっている夫婦の物語です。
そして、彼らに絡む、周囲の「戦争」という記憶。

今はもう、物語の、語り継がれるだけの戦争というものが、その時代に生き、それに関わった人たちにとって今も現実だということを上手くその映画は引き出していたのかもしれません。
もちろん、私は戦時中にはまだ生まれていなかったので、あくまで想像でしかありませんが。

「一緒に酒を呑んで、一緒に泣いてやればよかった。
人が、人にしてやれることはそれくらいしかないんだな」
「本当の母親なら、どうして子供に死ねといえるでしょうか。そんなこと、言える
はずがないんです。本当の母親なら、子供を死ぬために出すことなんて、できない
んです」

映画の中で、私が印象に残っているセリフです。
正確ではありませんが、意味は間違っていないと思います。

「生きる」ということが、難しかった時代があるのだと、今更ながら感じます。
難しかったからこそ、きっとその時代の人たちは真剣だったのかもしれません。

「戦争」は起こしてはいけないことだと、誰も「戦争」で勝つ人なんて、いないのだと思うけれど、確かにその時代に、死んで行った人もいるのだと、私たちは分かっておかなければいけないのだと思います。
「戦争」を否定するあまり、その時代に死んで行った人たちをないがしろにすることは、避けなければいけないのではないでしょうか。
「戦争」は国策で、それは間違っていたことだけれど、そのために死んで行った人たちまで否定することは、違うのだと私は思います。

人が、人として、その葬り方が仏教であれ、神道であれ、キリスト教であれ、「悲しい」と思うことを、その人たちがいたのだと、認識することは、いけないことなのでしょうか?
宗教がなんであれ、方法がなんであれ、亡くなった人を痛む気持ちは同じのはずです。自分の大切な人たちが亡くなれば、それが何教であれ、「悲しい」と思うのです。
それを、「参拝」という形で表すことが、いけないことなのでしょうか?

形式にこだわっているうちは、「戦争」を起こしてはいけないのだと、本当に感じる日は、来ない気がします。

映画を見ながら、そんなことを考えました。























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