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2001年10月11日(木) 百年の孤独



孤独・孤独と言うけれど、どれほど実際に孤独感を味わった人がいるだろうか?二日前の朝、最近伴侶を亡くした友人が突然電話をかけてきて、京都にきているという。午後会うことにした。イノダで落ち合い、近くの懐石料理屋で昼飯を共にしながら話した。場所を変え、馴染みのビストロで、延々、閉店まで話し続けた。
友はひたすら寂しくて寂しくて、そして孤独なのだ。面白おかしく喋っても、目が時々遠い所を見ている。子供はもう大きくて大学に行っているが、そんな子供達のことは何ら今の心持ちとは関係なく、早くあの世から迎えに来てくれるとよいとも言った。話を聞くことで、少しでも慰めになってくれたらそれでいいし、それしかできない。共に笑い共に泣くことしか他人にはできない。

昔、十七八の頃、孤独とはどんなものか、度胸を試しに、ツェルト(簡易テント)と食料を持ち、四国の奥深い山にたった一人で入った事がある。その後何回も単独行は経験したけれど、最初の山行きで、恐ろしく世間と超絶した自分を意識した時の恐怖は一生忘れられない。

 霧雨煙る土曜日の午後、田舎に向かうバスからして客はたった一人きり、夕刻終点について林道をとぼとぼ歩く、真っ暗でヘッドランプの明かりを頼りにひたすら山道をのぼった、いい加減登ったあたりで、雑木林の中に、適当な広さの所を見つけ、足で踏みつけて空間を作り、ツェルトを出し潜り込んだ。シュラフ(寝袋)に腰半分入り、簡単な食事をとるまでは何ともなかった。が、それから、おおよそ耐え難い孤独感が襲ってきた。
なにしろ生まれて初めて、少なくとも周囲3kmには多分人は誰もいない。この孤独感は経験してみないと絶対わからない。

最近は、エベレストや南・北極冒険がたいそうに言われているけれど、あれはもう孤独感はないだろう。いつも衛星で自分と家族または協力者達と電話でつながっている。だからもう一人ではない。ちゃんと社会とつながっている。

 それで、その夜は、もう風の音、山に住む動物の鳴き声などがとても不気味で、とにかく夜が明けたら帰ろうと弱気な事ばかり考えていた。初冬のせいもあり、その寂寥感は耐え難いものだった。簡単に言うとしたら、真っ暗闇にポツンと自分がいて上も下も右も左もだーれもいない宙ぶらりんを思ってくれればいい。そんな感じが近い。とにかく恐怖でどうしようもなかった。それは幽霊がでる恐怖とは違うものだ。

社会から完全に関係が切れて宙ぶらりんの状態の事をアノミーというらしいのだけれど、それに近いものだろう。
これだと、都会、山の中、関係ない。長年連れ添った仲の良い伴侶をなくした友はこの状態に多分近く、関係を求めて京都にやってきたのだろう。それでようやく自分を確認しているのだと思う。
ただ救いは、山中であれほど恐怖を味わって一晩過ごした森に、朝日が一条射し込むのを見た瞬間、不思議な何とも言えない勇気と希望が湧いてきて、昨晩の弱気があっというまにどこかに吹き飛んだ事を覚えている。
光は希望と勇気を与えるというのが、宗教みたいだけれど本当に実感した事だった。










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