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2004年01月22日(木) 友だち(哀悼)



 小学生の頃の友達が死んだ。小学校から中学にあがるときに、たん譚は転校した。それきり、音信は途絶えて、それぞれの道を歩んだ。そうして、ここ何年か前、もう一人の親しかった友達をネット上で見つけた。そこの掲示板にStepというハンドルネームで書き込んでいたのが、上の非常に親しくしていた友達だった。

Stepというのは、Stephane Grappelliというフランスのジャズ・バイオリニストにあやかってつけたらしい。自身もブルーグラスをやり、フィドル(バイオリン)を演奏しプロ並の実力があったようだ。ついに生演奏は聴くチャンスがないままに終わった。

 再会してジャズバーで一度、家に訪ねて一度の二回しか会っていない。そうして3度目は死の間際、知らせを受けて、京都から故郷の病院に駆けつけた時。本当に3度目の正直になってしまった。病室で聞いてもらおうと、1930年代に若き、ジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリ(DJANGO REINHARDT・STEPHANE GRAPPELLI)がパリで録音した競演盤を持っていった。
病室に入った途端、そういう空気・状況ではなく渡せずに結局持ち帰った。

 小さい頃の友達は、太っていて40数年近く後の再開時には、その面影はまったくなく、むしろ逆に痩せていた。だから容姿に限って記憶が当時の本人とは結びつかず、これは死んでしまった今も同一人物として結びついていない。
 友は趣味まで似ていた。グラッペリは一度きくと忘れられない哀愁がある。これは断然米国ではなく、ヨーロッパであった。

 本当によく遊んだ。実家は土建屋をしていて、炬火組(仮名)と看板があがっていた。ここの庭先や大間(おおかん-外の事)で、日本の子供なら普通ちゃんばらをやるのだが、炬火(仮名)くんはちがった。
ここで働いている若い衆(といってもその筋の人達ではない)に凝った木製のサーベルと盾をつくってもらい、西洋チャンバラをやる。カーンカーンと剣を合わせ、3振り目のは盾で受け止める。これをつまれた材木の上や空き地でやるのだ。
 炬火(仮名)くんの部屋にはギリシャ神話の本が十数巻あった。そのせいか、学校の国語の時間、誰にも読めない漢字が出ると先生は決まって炬火(仮名)くんにあてた。
そうすると必ず読んでしまう。漢字博士であった。
多分小学生には難しいと思われる大人向けギリシャ神話を読んでいたのだから、いつの間にか漢字を覚えてしまったのだろう。

 また、初夏のある日曜、朝日の昇る頃に、近くの公園に集まり、近所の人、組の人達と大人子供ごっちゃ混ぜで、草野球した。終わっても日はまだ高くなく、日曜日が長く感じた。早起きが気持ちがいいことをこの時知った。

 当時、子供達(女は除)の間ではやっていた、2Bという、プリッツエルの半分くらいの長さで、一回り太くしたような爆薬があった。これを炬火(仮名)くんは100発位を箱に入れてポケットにねじ込んでいた。
これが、とある午後、ポケットの中で暴発した。その現場にいて呆気にとられていると、炬火(仮名)くんは部屋中を走り回った末、台所に飛び込んで流しの水をかけた。追っかけて一緒に水をざぁざぁかけた。
翌日その事で、朝礼時に校長先生からお話があった事を覚えている。以後2B弾は禁止になった。
大人になっても右太股にはかなりなケロイドが残っていたと思う。
駆けっこは太っていたのでいつもびりだったが、最後まで一生懸命走っていた。水泳は得意で良く長く泳いだ。

 晩ご飯を呼ばれたことがあった。一家の長のお父さんは恰幅が良くて上座にでんと座り、長い食卓机に座る僕達や、若い衆のお菜よりも一品多く刺身がでた。晩酌の用意もされていた。
ここで、働くお父さんは偉く、そのためにおかずが家族や子供達より多いのだと知った。子供心に炬火(仮名)くんのお父さんをあらためてみて、何だか尊敬してしまった,威厳があった。

 一度、社長室?に二人で侵入して、りっぱな机の上に置いてある煙草入れからハバナの葉巻を失敬した。炬火(仮名)くんは堂に入った手つきでケースから二本取り出し、口で表面のコーテイングをぶちっとばかり噛みきり、こうやるのだとライターで火をつけた。

見よう見まねで真似をして肺深く吸い込んだ。さぁ大変!咽せて咽せて、世の中がぐるぐる回った。目の前が紫色になった(紫煙と何か関係があるかもしれん?)。
この時を境に、煙草から足を洗った。以後今日まで煙草を吸わ(え)ないのは、あの時の事があったためだと思っている。

 お父さんは南米で客死している。同じように恰幅の良かったお母さんも亡くなっている。お姉さんは何の因果がフランス人と結婚してフランスにいる。妙なところで因縁がある(下の友達から一報があり、お姉さんは日本人と結婚して日本にいると言う事でした。訂正しておきます)。

 より親しいもう一人の友達、羽毛(仮名)くんが臨終間近に病院の友達のベッドの脇にいた時、呼びかけに意識朦朧の中、我に返って、「ありがとう」と言葉にならない言葉を言ったという。この二人も浅からぬ因縁で結びついており、同じように建築科を出て、、趣味が多彩で、同じ職種で、同じようにコンピュータを駆使し、おまけに同じ日に結婚式をあげている。お互い死んだときに骨を拾う約束までしていたという。良い別れだと思う。

 今の自分は、他からの反射みたいな物で自我が形作られたと考える。小学校時代のそういった友達は紛れもなく自分全体の一部である。
蔑ろには出来ない、そう言う思いがある。

 炬火(仮名)くんは、友人葬であった。友人葬と聞いて、ある日本のカルト宗教?団体「粗画描会」の言い分を思いだして少しいやな気がした。日本のその団体はフランスでは日本のカルト宗教ということになっている。オームその他と同じ位置づけである。関連団体が政治にまで入り込んでいる。

 粗画描会は葬式と言わない、友人葬といってそれを行っている。「釈尊(釈迦)は、葬式は在家の人々によって行われるべきであるとし、出家は 修行に専念して、僧侶が葬式を行う事を禁止した、日蓮大聖人も自ら葬儀を執り行った記録はないといい、現在のように「「僧侶の読経や引導がなければ故人は成仏しない」」という考え 方は、江戸時代の檀家制度の成立に伴って普及したもので、仏教本来の行 き方ではない」という。

 友人葬が仏教の教えに最も適った葬儀の在り方だという、だから友人葬がいいというのだが…。

だが待て、江戸の庶民は、友人(在家)葬だけでは後々どうしようもない空虚が心に去来して、きっと寺か、托鉢僧に町でであった時に、ひとつ家のものを弔ってやってくれと、始まったのではないかと推測する、庶民の希求が今の檀家制度とともに慣習としてなったのではないか。
それならそれでいい、原理主義におちいって何もかも元に戻そうとすると、アフガンを牛耳っていたアルカイダと同じ事になってしまう。貴重な仏像を壊しても何ともないと言うことになる。

 炬火(仮名)くんの友人葬はそれ(粗画描会)ではないと思うが、人間(日本人)はやっぱり、節目を求め、拝む対象を求める。それが、初七日や49日そして何回忌と言う形で故人を偲び、連続させていく。葬式や儀式は、生き残った人達のためのものなのだ。

 小学校の友達とは、いまだにお互い*くん付で呼び合って何の違和感がない。これは本当に貴重だと思うのだ。そう呼べる相手が一人いなくなった。

*くん(君)
�‥兄辧δ覯Α�諸侯など、天下を治める人。主君
��敬称。
�B嵯匹垢戮�目上の人などにつけて呼ぶ語。父君・母君
�て映擇泙燭脇映攬焚爾凌佑了疚召硫爾謀困┐觚譟�諸君・加藤君 
(広辞苑3版)











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