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2008年12月10日(水) |
仕舞ひ狂言つれづれ1/2 |
この前、今年最後の狂言を見に行った。一時に比べて、二階席などはがらがらだった。景気のせいとも思えない、映画代より少し高いくらいである。 前説で、千之丞が、うちのマンションの給湯設備が故障し、十数年来朝風呂の習慣があり、仕方なしに朝風呂に入りにホテルに泊まったと言っていた。昨今は伝統文化の継承者ですらマンション暮らしなのかと改めてため息がでた。 かって民放のテレビを見ていた頃、演歌歌手のお宅拝見を偶然見て、スペイン風の中庭にプールが付いているのやら、豪勢ながっちりした鉄門に遮られた豪邸を見て、なんか本人との不釣り合いが可笑しく笑ってしまったことがある。どこにどんな風に住もうと当人の勝手だが、明治より少し前、整然と軒を連ねる灰色の甍の屋根に外国人は総じて驚嘆し賛辞したのはもう遠い昔のことになってしまった。
給湯器というしゃれた物がないので、故障すると不便を感じてしまうという意味が分からない。大体専用の湯沸かしがない。台所にはそれ専用のガスの口が用意されているが、キャップをかぶったまま、二十数年。取り付ける必要に迫られずに今まで来ている。
小学校に上がる前(昭和三十年頃)は、家には電気製品と言えば、各部屋の電灯と、父親の机のスタンド、頭が丸い木製のラヂオ(h21.3月読み返している時思い出したので追加)だけだった。玄関右奥をずっと入るとおくどさん(土を盛り上げ固め、そこに釜や鍋をかけて薪を燃やして調理する)があり、中庭の井戸からの水を使い、水道・ガスは来ていなかった。暖は練炭をいれた火鉢、寒い冬は、豆炭を入れた炬燵か、湯たんぽ。洗濯は中庭で盥と洗濯板で洗って、糊をかけ干していた。電気洗濯機が来るのは引っ越してからだった。なぜか、氷を入れる式の冷蔵庫はあった。
小学生になって直ぐ、父親の転勤で田舎の都会のど真ん中で暮らすようになって、極端な最新文化生活になった。当時一般には発売されていない、単一乾電池十数個!をいれて持ち運べる、三菱電機の超小型TVとか、今から考えると、今のリモコンの元祖を使って操作する大型のテレビ(白黒)を見た。それにいくらでも水が出る水洗式厠。くみ取りの車が来ていた時代である。
今もマンションではなく、土と木と紙の昔からの家を借りて住んでいる。二十年前くらいに億ションと言われるマンションを見に行ったことがある。天井は低く、部屋はのっぺりして凹凸が無く病室のようで、和室は絨毯みたいなぺらぺらの畳の部屋があって居心地が悪かった。誰も住んでいないマンションの玄関だけが立派だった。住めば都と言うが、別にこんな都なら住め無くて結構だと思って以来、興味は失せた。
昔からの木の家に住むこの快適さは、着物を着て過ごすとたちまち了解できるのだが、一切が和の暮らしというのは不可能である。当然 夕飯は座敷で座って食べ、コンピュータなどは机と椅子になる(仕事用の椅子は長時間座るので、椅子の脚を床上十数センチ位に切って、あぐらをくめる高さに改良した。禅坊主が瞑想する時に尻に敷く座布団をヒントにつくった。これに座ると十時間でも座っていられる。後脚は、前脚より二倍くらい高く切ってあるので、自然背筋は伸びる)。
→2003年の今日のたん譚
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