+女 MEIKI 息+
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天和3年(1683)3月29日 自分の家が火事になれば再び恋しい左門に逢うことができる、その一念で火を付けてしまった八百屋の娘お七は当時、16歳。放火の咎で江戸引き回しのうえ、火あぶりの刑に処せられました。
天和2年(1682)12月28日 駒込の大円寺の失火っから大火になり、本郷、上野、神田、日本橋から両国橋までもが焼け落ちました。焼け出されたお七一家は駒込の円乗寺へ一時身を寄せました。 また、この寺に預けられた者の中に、小姓をしている旗本の息子小堀左門というものがいました。 お七は小姓姿の美しい若衆の指に刺さった棘を抜いてやったのが縁で互いに思い合う仲になってゆきました。
翌春、お七の家も再建されて離ればなれになってしまう、それなのに左門のことが忘れられない。悶々の日々を送っていると、二人の恋路の使いをしてお七から金を巻き上げていたのが湯灌場買いの吉三といって、葬式の死装束を寺から買い出すことを業とするチンピラであったのです。 吉三は火事場泥棒をしたいが為、「火事になればまた円乗寺に戻れ、左門に逢えるぞ」と言葉巧みに放火をそそのかしました。 純情一途のお七は前後の見境もなく、吉三にそそのかされて父親の部屋の床下に火を付けたのが真相とか。 これは小火で済んだが放火犯は火あぶりの極刑です。 ところがが、15歳ならば子供として死罪を免れます。 取り調べの奉行中山勘解由が憐れんで、お七に「その方は15であろうがな」と謎をかけたが、純粋なお七はその意味を解せず「いいえ16でございます」と正直に答えるばかり。 法定通り小塚原の燃盛る炎の中で黒こげになってしまいました。見せしめのために遺体は三日間さらしものになったといいます。 また、そそのかした吉三郎も教唆犯として、同じ刑に処せられました。
一方、お七の恋の相手の左兵衛は、このことを知って自害をしようとしましたが果たせず、以後は剃髪して修行につとめ、やがて目黒に戻り西運堂を建立し、名も西運に改めて一代の名僧となったといわれています。
円乗寺の住職は密かにお七の遺骨をわけてもらい、供養のため墓を建てました。
わたしが学生の頃に、よく小石川に遊びに言った近所に今も、白山下の円乗寺の本堂前に「俗名八百屋お七 妙栄禅定尼 天和3癸亥年3月29日」と刻まれた丸い小さな墓があります。
お七の恋しい相手の名前としては吉三郎という説。生田庄之助という説。僧ではなく侍で佐兵衛という説があるそうです。庄之助説ではお七をそそのかして火をつけさせたのが吉三郎ということになっています。
巷で流行った講壇になると、お七が火あぶりになったのを悲観して恋の相手の吉三郎は川に身を投げて死に、二人が地獄で出会って手を取り合うとジューっという音がしたといいます。それはお七は火で死に吉三郎は水で死んだので水と火が触れてジューっという音がしたということと、お七の「七」と吉三郎の「三」とで「十」になるからだともいいます。
昼間に、古典モノの好きな友人と茶を飲みながら、恋しさ故に狂女にもなれるか?なんてことを話ました。その時に話題に挙がったのが「八百屋お七」そこでの二人の結論は「若いって罪だわ」そういうことでもないのだろうけど。
(今日の日々雑記は、殆どがその友人との会話のメモ書き。多謝>友)
今年は参の酉まであり、火事が多いとか。皆さんも火の元には気を付けてください。
恋の火は、絶やさぬように。
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