橋本裕の日記
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熊澤蕃山(1619〜1691)は京都の生まれである。父親は浪人をしていて、家は大変貧しかった。たまたま縁あって、16歳の時、備前岡山藩の藩主池田光政の小姓になった。蕃山は武術に励み、腕を上げた。
しかし、20歳の時、突然岡山藩を止めて、帰郷した。藩命にそむいて島原の乱に参戦しようとして咎めを受けたことがきっかけらしいが、ほんとうの理由は別にあったのだろう。蕃山は辞職の弁に次のように書いている。
<ご奉公に忙しく、文武の道を極める暇がない。このままでは、一生を無駄にしてしまいかねない>
帰郷してみたが、父親は浪人中で、家は相変わらず貧しかった。なるほど暇は出来たが、文武の道を極めようにも、先立つものがないので、師にもつけない。そんなとき、京都の宿の同宿者から近江の小川村で私塾を開いている中江藤樹のうわさをきいた。
同宿者というのは大名の公金を京に運ぶ加賀の飛脚だった。飛脚は旅の途中、二百両の入った財布をなくしてしまった。ところがその財布を、馬方が宿まで届けてくれた。飛脚がお礼をしようとしても馬方は受け取ろうとしない。
無理に小金を握らせると、馬方はそれで酒を買って、人々に振る舞った。馬方が自分は藤樹先生のもとで学んでいて、お金を返しに来たのも先生の教えに従ったまでだと話すのを聞いた蕃山は、翌日、藤樹のもとを訪れた。蕃山が23歳、藤樹が34歳の夏のことである。
しかし、藤樹は蕃山を門前払いした。蕃山はあきらめず門前で二夜を過ごし、みかねた藤樹の母親が蕃山を引き入れたが、藤樹はやはり「人の師たるに足らず」と、蕃山の入門を許さなかった。
蕃山はあきらめなかった。今度は冬に訪れ、やはり門前から去らなかった。寒い季節でもあり、母親のとりなしもあって、藤樹も根負けしてようやく入門を認めた。しかしこのときも、師としてではなく、ともに道を求める同志として蕃山を受け容れている。
なぜ、藤樹はこれほどまでに蕃山を拒んだのだろう。すでに藤樹は武士だけではなく近隣の農夫や町人にまで慕われ、彼らの入門を許していた。蕃山を拒む理由はなんだったのか。その謎を解く鍵が、藤樹が亡くなる年に池田与兵にあてた手紙のなかにある。
<私は深く朱子学を信じ、長年の間工夫をしてきましたが、入徳の効もおぼつかない有様で、学問に疑いを生じ、何の感激もなく、学問の意欲を失いがちでした。丁度そのような時に天道の恵みでしょうか、「陽明全集」という書物が手に入り、熟読しましたところが、私が疑いをいだいていた丁度そのことについて、いろいろ論じられていたので、ふるいたち、少しは入徳の手がかりが得られたようにおもわれました。これこそわが人生最大の幸福であり、このよろこびは何ともことばにいいあらわせません。この一助がなかったならば、私の一生は空しく終わってしまうところだったのにと、有り難く思っています>
藤樹が「陽明全集」を手にしたのは、37歳の時である。陽明との出会いがいかに大きなものだったかがこの手紙で分かる。しかし、藤樹はこのときはじめて真理に目覚めたのでははなかった。すでに藤樹は自己流の思想をもっていた。彼はそれを「心学」と名付けて弟子達に教えていた。
しかし、藤樹は自分の学問に核心がもてなかった。なぜなら、それはあまりにも世の中に行われているものと違っていたからだ。当時、儒教と言えば朱子学しかない時代である。朱子学の権威を批判するのは容易ではない。といって、自分の心を押し殺して、朱子学に従っていても面白いはずがない。この板挟みの中で、藤樹は苦しみ、ノイローゼになり、持病の喘息を悪化させていた。
そうしたただなかに、蕃山が飛び込んできた。「人の師たるに足らず」という藤樹の言葉は彼の苦しい心中の奥深くから発せられた言葉だった。藤樹はこのとき、「一生を空しく終わってしまう」絶望の中に呻吟していたのだ。
入門した蕃山は、そうした藤樹の葛藤をまじかで見ることになる。そしてこれは蕃山にとってもかけがいのない体験だったはずだ。蕃山が藤樹のもとにいたのは、わずか8ヶ月である。しかし、この8ヶ月が彼の一生にとって決定的なものになった。別れに臨んで、藤樹は蕃山にこんな言葉と詩を送っている。
<詩経に、広大な天は父母とある。だから世界中の人間は皆兄弟である。だがその交わりをみると、人格的な深い交わりを結ぶ者もあり、うわべだけの利害得失で交わる者もあり、お互いに縁のない人もある。
しかし、私と熊澤君とは真に人格的、人間的な交わりを結んだといえよう。自分には、「論語」の「徳は孤ならず」といううような徳はないにもかかわらず、寛永18年の秋、何の間違いか有能な熊澤君の来訪を受け、そのまま相識る仲となった。
これも、気心の相通じ合うべき運命の下に二人がいたということであろう。であるから、学習し討論し合い、心と心がとけあって、うれしいことには友として、お互いに人間としての完成をめざして励まし、意気投合して助け合うことができたのである。今、「中庸」も購読が終わって熊澤君は帰省することになった。そこで、「中庸」の要旨を詩に賦してはなむけのことばとしよう。
淵は流れていながら動いているようには見えない。 動いていないようでも静止していることはない。 人間もおなじだ。 偏るこのない円満な本心が いつも内に生き生きと動いていなければならない。 こうして、人は宇宙の営みと自ずと一体となる。>
二人は別れた後も文通を交わした。このあと藤樹は陽明全集に出会い、自分のと瓜二つの思想家を中国に見出すことになる。陽明もまた朱子学を批判していた。真理は朱子が強調するように客観的に人間の外側に存在するものではなく、人間の心こそ真理がやどる聖域だという問題意識は、そっくり藤樹とおなじだった。
<聖人の道というものは、吾が本性(人間がだれでももっている人間らしい心、良知)そのものを自覚するだけで十分実現できる。いままでそういう内なる道理を外にある事物のなかに探し求めていたのは誤りであった>(王陽明)
<そもそも、道というものは天下の公道であり、学は天下の公学であり、朱子が私有できるものではもなく、孔子が私有できるものでもない。・・・私の今日の論はあるいは朱子と異なるところがあるにしても、朱子もそれを喜ばないとは限らない。小人の過ちはかならずこれを飾って認めまいとする。私は不肖ながら、もとより小人の心で朱子に仕えようとは思わない>(王陽明)
陽明は学問の本質は「至良知」だとしていた。人は誰でも「良知」の心を持っている。これを磨き、人格を高めることこそが万人にとっての人生の目標でなければならない。これはまったく自分の考えていたことと同じではないか。
藤樹はもはや自分の思想を語ることに躊躇はしなかった。やはり自分は正しかったのだという確信がこうして生まれた。藤樹はさっそくこれを蕃山に伝え、蕃山も又これを感激して受け容れた。
こうして、蕃山と藤樹はさらに深い真理の絆で結ばれることになった。二人の師弟関係を、吉田松陰は理想的なものと見て、こう書いている。
<みだりに人の師となってはいけない。またみだりに人を師としてはいけない。必ず真に教えるべき事があってこそ師となり、真に学ぶべき事があってこそ師とすべきである。熊澤蕃山が中江藤樹を師とした例は、師弟ともどもにそれぞれの道理を得ているということができる>
蕃山は藤樹の下を去った後、母と二人の弟と三人の妹をかかえて定職もなく、窮乏した。ぬかみそを采にしてゆりこぞうすいを食べる毎日だったが、学問は怠らなかった。そして27歳の時、池田光政に乞われて、ふたたび岡山藩に戻る。蕃山はただちに頭角をあらわし、やがて2000石の扶持を与えられて藩政に参加するようになる。
蕃山から藤樹のうわさを聞いた池田光政は、藤樹にも仕官を求めたが、藤樹はこれを固持した。藤樹が41歳で死んだときには、池田光政は蕃山に命じてその死を弔った。そして城内に藤樹の位牌を祀り、藤樹の息子や門人を多く仕官させたという。
(参考文献) 「中江藤樹」 渡辺武、清水書院 「中江藤樹、異形の聖人」 大橋健二、現代書館 「反近代の精神、熊澤蕃山」 大橋健二、勉誠出版 「中国の人と思想��王陽明」 山下龍二、集英社
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