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今日のプレミアムステージ - 2004年09月11日(土) アメリカ同時多発テロを題材にしたノンフィクションドラマがあってた。ノンフィクションだがドラマなので泣いていいと思うのだが、9・11で身内が死んだわけでもない私なんかが泣いてもいいんだろうか、と妙な羞恥心に駆られて号泣できなかった。本当は号泣したい気分だった。 つーか。無理。 私だったら、3人の息子を抱えながら夫にあのような理不尽な形で突然先立たれ、そこから1年であそこまで立ち直るなんて。 ぜってー無理だ。 最初のうちは辛うじて虚勢を張れたとしても、どっかで一度ぎりぎりの均衡が壊れてしまえばもうダメだろうと思う。 世を呪い、人を呪い、周りの善意を蹴散らしてきっと荒れまくります。まず子供を感情の捌け口にしてしまうようなダメ母親になるだろうことは間違いないね。 現場からは右手親指の骨しか見つかっておらず、DNA鑑定の結果、ご主人のものだと断定されたらしい。 ドラマの終わり際に「指一本なくなったって、生きていられるもんね。実はアメリカを脱出して、イタリアかどこかで別の女性と仲良くやってるのかもしれないね。それならそれでもいいかなー。生きててくれればそれでいいわ。特別に許してあげる。」とか「そのときは、私のこの生きざまにもう一度惚れさせるまでです。そうして、もう一度、結婚してやってもいいかなとあなたに思わせますから。」とか(正確な文言じゃないけど)淡々と語るところ、これこそまさに、人生の希望というものなのかもしれないと思った。 「客観的に考えたらそんなはずはないであろう」とか、そういう突っ込みは非常にナンセンスだ。ナンセンスだと思えるだけの強いメッセージを感じた。冷酷な事実など不要な場合も時にはあるのだと知った。 辛いときでも心の中で唱えると明るく前を向いて歩いていける言葉、それが希望だ。 「現実を直視しなければ」と思うあまり自分を追い込んで悲痛な面持ちをしながら毎日を暮らすより、甘く明るい希望に身を委ね、笑顔を忘れないで生きていくことは、何百倍素敵な生き方だろうか。 まぁなんか歯の浮くようなこと書いてますけどね。 いきなり卑近な話で何ですが先日彼氏と別れました。別れ際に、ちょっと似たようなスタンスで別れたのを思い出したんですね。 これはいいな、と思う。 少し前は、こういう姿勢は逃げだと思い込んでいたけれど、自分を責めることに夢中になって前に進まないで立ち止まっていることのほうが何百倍もつまらなくくだらない逃げだ。 -
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