- 2012年07月31日(火) 塾講師のバイトをしていたときに同僚だった人、今は臨採で中学校の教師をしているのだけど、彼女のFBでの投稿を見て久しく感じたことのなかった違和感のようなものを抱いている。 担当している部が九州大会に勝ち進んだそうで、それまでの自分の指導上の苦労や周囲への感謝などを述べている。 すごいことなのになぜか「おめでとう」が言えない。 嫉妬テラワロス、とはじめ自分で思っていたけど、ああ、違うな、と。 彼女が言葉の端々ににじませる独善、自己正当化、そういったものが当時のわたしは苦手だった。 裏表の使い分けが非常にうまく、その裏の顔の相手をするのも苦手だった。 彼女はある種のカリスマを持ち、周囲を自分の世界に引き込むことに長けていた。 彼女が「悪い」わけではない。と思う。 引き込まれたわたしが「悪い」わけでもない。 でも、彼女もわたしも、学の死に関わっている。 学が最後に電話をかけたのが彼女の携帯で、彼女は電話に出ず、コールバックもしなかった。 それから学は死んだ。 会わせられない、巻き込むわけにはいかない、と事情を何度も説明したのに、強引に関わりを持とうとしてきたのは彼女だった。 何か助けになれるかもしれないから、と。 しかし実際会って以降、彼女が学にできることはなかった。 それがわかっていたから会わせなかったのだけど、学が自分の思い通りにいかないことにもどかしさを感じていた様子の彼女は、それからもわたしたちに一方的な干渉を続けた。 そのときはわたしはもうかなり彼女から意識的に距離を置いていたのだけど、学にとっては、彼女は貴重な、ほんとうに貴重な、友達に、なってしまっていたのだ。 逆恨み、と笑われるだろうか。 でも、あの子がいなければ、学は死ななかったかもしれない。 そしてこうして書き連ねたことすべては、同時にわたしのことなのだ。 熊本に学を呼んだのも、いっしょに生活したのも。それがやがて限界になったのも。 彼女を責め立てることは、すなわち自分の責任を直視することだ。 ご家族から見れば、わたしが彼女なのだ。 人のことを振り回すだけ振り回しといて、何食わぬ顔して人格者ぶりやがって。 よくもまあ、ぬけぬけと。 自分がやったこと、忘れたの? 何が感謝だ。謙虚さだ。 あなたほど、そのことばが似合わない人はいない。わたしは知っている。 -
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