思考過多の記録
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2004年04月05日(月) |
「ニュース番組」が歴史になった日 |
平日夜10時台のテレビから「ニュースステーション」(=「Nステ」)が消えてから1週間が経った。18年半にわたって放送されていたのだが、僕は放送開始後1年程してから見始めた。「金曜チェック」がちょっとしたブームだった頃である。以来番組終了まで、夜10時からの僕の生活に、あの番組はしっかり組み込まれていたのだった。
「Nステ」については、放送中も、そして終了直後にもいろいろに語られ、分析されてもいるので、今更僕が言うまでもないことなのだが、本当に日本のニュース番組のありかたを変えた番組だったと思う。ある意味でテレビというメディアの特性を十二分に意識し、それを活かしてニュースを扱った初めての番組だったと思う。 この番組の前に、久米宏という人は「ぴったしカンカン」でそれまでのクイズ番組のあり方を変え、「ザ・ベストテン」で歌謡番組のあり方を変えていた。いずれも、テレビというメディアの特性をより活かす形での変革で、当然のことながら高視聴率をマークしていた。その意味では、言われているように久米氏はテレビの寵児であり、メディアを深いところまで理解していた人なのだと思う。 このあたりについて書き出すと長くなるのでやめるが、とにかく「Nステ」という番組は、「ニュースをこんな風に扱ってもいいんだ!」という衝撃を各方面に与えたことは確かだ。
ニュースをバラエティやショーのように扱うことに対しては批判もあった。とりわけ、それまで「不偏不党」という暗黙の了解のあったニュース番組の、それもメインの進行役がニュースに対してある立場からコメントを述べるという手法は、かなりの物議を醸した。「偏向している」ということで番組の責任者が国会に呼ばれたり、最近では自民党の政治家が出演を自粛するという「嫌がらせ」を受けたりもしていた。その他、表沙汰にはならない有形無形のプレッシャーは、番組や久米氏に対して相当かかっていただろう。 けれど、「客観報道」の顔をしながら、一見無味乾燥なニュースを流し続けるNHKのニュースが、どれだけ「偏った」ものであるかは今更指摘するまでもないだろう。久米氏と「Nステ」が追求していたのは、「客観報道」の名の下にうち捨てられようとしていた権力に対するチェック機能としての報道だったのではないか。それを行うのに、テレビの特性を十二分に活かすことが有効だと、久米氏と番組スタッフは判断したに違いない。すなわち、「ニュースを面白おかしく伝えること」は「手段」であって「目的」ではなかったのである。
僕達は、テレビという「窓」を通して、日本を、そして世界を見る。勿論他の媒体もあるけれど、テレビは同時性とインパクトの面から見て、僕達にかなりの影響力を持つ。「Nステ」は、これまで僕達が何かつまらないもの、自分達から遠い世界のことと思って敬遠すらしていた「ニュース」(とりわけ政治的な話題)を、僕達により届きやすいやり方で伝えた。こうして、僕達がテレビという「窓」の向こう側で起こっていることにより関心を持ち、そのことで僕達自身が権力チェックする視点を身につけていく。それこそが健全な民主主義社会の維持・発展のカギになる。久米氏と「Nステ」はそれをテレビというメディアの一つの使命と考えていたのだ。 最終回の終わり近く、久米氏は 「僕は民放を愛している。それは、民放が全て戦後に生まれ、国民を戦争へとミスリードしたという歴史を持たないからだ。これからもそうであることを願っている。」 と発言した。久米氏と「Nステ」の信念をよく表している言葉だと思う。
自民党や石原などの保守的な政治家達から嫌われ、批判されていた久米氏だが、その批判者達も彼の実力は認めていた。一つの番組が終わるということで総理大臣までもがコメントを求められたというのは、少なくともニュース番組では過去に例がないだろう。18年半の間に、それだけ人々の間に定着し、影響力を持ってきたということの現れだ。久米氏と「Nステ」はテレビというメディアの使命を十二分に果たしたのだと言っていい。そして、間違いなく日本のテレビ史にその名前が刻まれることになるだろう。
思えば18年半の間に、久米氏と「Nステ」は実に様々なニュースを伝えた。久米氏も年老いたが、僕もそれなりに齢を重ねた。「世界」という抽象的なものしか見えていなかった学生時代、夢を追いきれなかったモラトリアムの時期を経て、今や僕も社会人である。 その間、僕はずっと「Nステ」という窓から、社会や世界を見てきた。世界地図が変わり、政権が入れ替わり、カルト教団が事件を起こし、飛行機は墜落し、世界貿易センタービルが崩れ落ちた。戦争もあちこちで起きた。多くの人が亡くなった。それは確かに日本や世界の歴史だったが、それをリアルタイムに伝え続けた久米氏と「Nステ」の歴史であり、それを見続けることでリアルタイムに出来事を感じ、「体験」してきた僕自身の歴史でもあった。
その番組が終わり、久米氏が夜10時台のテレビから去った。 「Nステ」という番組と、それを見続けた僕の人生のある「時代」が、「歴史」に変わった。「歴史」が増えた分だけ、人は確実に年老いていく。 それは、「Nステ」が始まった年に植えられた六本木アークヒルズ前の桜の苗木が育ち、今や見事な桜並木として花見スポットのひとつになっている、それくらいの時間が流れたということである。
そして今日、同じ夜10時台のテレビに、装いも新たに古館氏のニュース番組が登場した。
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