奈良の放火事件だが、他人事とは思えない。なぜなら、僕も父親に同じように厳しくされたし、母親に同じような思いを持ったことがあるからだ。
父親は「恐怖」であったし、母親は「監視」であった。そんな家庭は少なくないと思うし、こうした家庭に育った自分が特別な存在であったかというとそうでもないと思う。
ただ、こうした恐怖や監視が蓄積されることの結果はさまざまだ。
奈良の少年は、センセーショナルな結果を出してしまったが、これは単なる結果の出方の違いでしかない。地味な形で結果となってしまっているパターンも多いのではないか?それが増加するうつ病患者や自殺者に反映されていると考えるのも多少の飛躍はあるにしても無理な話ではないだろう。
僕はうつ病にもならなかった(と思っている)し、自殺企図もなかった。しかし、いまだに恐怖と監視の影に潜在的におびえていると感じる。今の自分というものを受け入れるということが非常に難しいのだ。
客観的に自身の思考・行動を振り返り分析すると、父親の恐怖と母親の監視によって組み込まれた思考癖が存在する。それは、「もっと頑張らなければならない。」という思考癖である。向上心が高いと勘違いされるが、やりたいことをやるために頑張るのと、なんとなくやらなきゃいけないことがあるように感じるのとでは根本的に動機が異なる。
奈良の少年も同じようなことを感じたのではないか?
彼は対外的には良い子であった。良い子であるためにもっと頑張らなければならなかった。医者になりたい。という夢さえも、彼は無意識のうちに言わされていたのかもしれない。自分自身ではそれが言わされているということに気がつかないというのが非常に怖い。
身につまされる。
僕は子供を持ちたいとあまり思わない。なぜなら、自分が自分の父親や母親のような親になる可能性をはらんでいるからだ。そして、意識せずそうした傾向を見せる自分の思考癖をコントロールできずにいる。
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