ACIMホームワーク - 2018年03月25日(日) 先週の宿題はこちら↓ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私たちは特別な関係性を求めていくことをプログラミングされていますが、じゃあ「特別な関係性でないなら、愛ってなんなのか?」ということを見ていきます。 コースでは、愛は私たちの理解を超えているものと記載されていますが、じゃあ「理解」というより「経験」として見ていくとどんななのか。 愛の代替物を自分が求めているということを認識していく。自分はどんなものを代わりにしようとしているのか? 「本当の愛を私はどうやって経験していくのかな?」と見ていく。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さーてどんな経験でしたかね?ということで振り返りです。 友人と遊びました。 この友人は以前は、わたしにとってスピリチュアルな話題を気を遣わずに全力で話せる唯一の友人でした。今は唯一ではありませんし、その話題に拒否感があるような相手には話しませんが、そうでなければ、まあACIMは現実的というか乖離させないような内容なのであまり気にせず話しています。 友人と話して、わたしにとって以前は「特別な友人」だったのだなあ、と改めて思いました。 今は特別ではなく、友人、という感じがしています。 思い出したこと。 30過ぎくらいの頃にわたしは父親が亡くなりましたが、その時わたしは感情が止まらなくなりました。当時わたしはそれがとても新鮮に感じたというか、「こういうわたしもいたんだなあ」と思ったしうれしくなりました。わたしはいつもどちらかといえば冷静だからです。 でもこれをいま改めて振り返ると、「特別な関係性」から感情が出ていたのだなあ、と。わたしはその頃そういうことを「愛」と思っていたので、「特別な関係性」からの感情が出たときにうれしく感じたし、そうでない自分自身を愛がない、やさしくないと評価していました。 今のわたしから見るとこの頃のわたしは、愛がないというよりは「自分が参加していない」という感じが強いですかね。批評家的ポジションにいる感じで、まあ「特別な関係性」のほうが参加している感じがあります。 ちなみに2年半前に母が亡くなった時は「特別な関係性」からの感情もありましたが、それとは別の、祝福と感謝と愛としか言いようがない大きな感情を感じました。 これは今も思い出すことができます。インパクトとしては薄れてはいるけど。 特別な関係性からの感情と、祝福と感謝の感情、どちらかしか同じ時間に体験できなくて、違いがはっきり分かるものでした。 「特別な関係性でないなら、愛って何?」って自分に問うと、やっぱりこの母が亡くなった時に感じたこれなんだよな、って思うのです。 愛の代替品。 わたしはどういうものを代わりとしてるのかな?と一週間見ていったところ、次のような感じでした。 �ー笋靴い抜兇犬襪發痢△海� そう感じられると、愛があると思える。 ��体が心地よいもの、痛くないもの �H稟修任�るもの 守りたい、大切なものが愛である、と思うようだ。 で、興味深いのは、「逆もまた然り」という点でした。 � �寂しくないと感じられるもの、こと �◆�体に痛みを生じること ��´応援したいもの ということは、この振り子のような範囲はすべて同じもの、愛とは別のものをこの範囲では言っているのだな、と感じました。 (この範囲、すべてを愛というというアイディアもありますが、わたしはそれには同意してないというか、ある意味ではそうだと思うのですが、この範囲だけではなくてこれも包含したもっともっと大きいものが愛、と思っています) 「こういうものが愛なのかしら」と感じてメモったのはこちら。↓ ・「あるから愛する」「ないから愛する」ではなくて、それ自体に敬意を払うということ ・介護など当事者には難しくなりがちなことであり、またそういう時期に触れられたときにはハッキリとわかるもの 松浦晋也さんの対談の記事を読んで、過去の自分と重ねて思いました。 ・忘れること。いつも新しく臨んでいくこと。 ・聖霊に聞いてから行わないと、疲労しかねないこと。 ・愛する人の近くに私自身がいなくても、今後のその人の人生に私が関わらないとしても、自分を犠牲にすることなくその人の幸せを願うこと anone最終話を見ても思ったし、わたしがはまりやすかったのもここだなあって感じです。 それから昨日は職場の歓送会だったのですけど、ここでも自分の感覚に注目していました。特別な関係性を使っていないかな?みたいな。 食事もとてもおいしいし美しいし大満足で、そして楽しくないわけではなかったのだけど、意識していたからかもしれませんけど違う価値観の世界にいる感覚があるなと思いました。 うーん、なんというか、他者を見て「周りのニーズに応えて生きてきたんだな」と感じることが多かったというか。。。 例えばある価値観の中ではだけど、女性としてこういうことが望まれてるからって生きてきたんだなーとか、周りと馴染むようにするのがいいこととか、「わたしが決めたんじゃないから」と理由をつけたりとか、自分の体に対して奴隷のように扱っていることに気づいていないこととか、、、 なんか、、、素面だったのもあってたくさん見えてしまいました。 他者にそれを見たということはわたしにもあるということです。ちなみにその自分には少し気づいてはいて、その上で他者にそれを見る、他者にそれを見せてもらうという経験は、わたしにとってさらに冷静に自分自身を見るということにつながりました。とても興味深く感じます。 というのは、自分の中にそれを見る、もしくは他者にそれを見る、そのどちらかだけの時には味わわない感覚があったからです。 ただすごく、「わかりやすい」って感じるというか・・・、自分の中にある感覚を外から「これでしょ?」と見せてもらって、さらにくっきり見えますね!みたいな感じです。 自分自身だったりもしくはわたしが見た誰か(何か)を責めたりとか直したいとかそういう感覚もなくて、「これではわたしは満足しないんだよな」って確認した感じにもなりました。 確かにおもしろくはある。だけど、アドレナリンが上昇するあの感じをわたしは特に望んでいないというか、それを良しとしている中に良しとして入る感じじゃないなあというか、、、この感じは今のわたしにとって発見でした。 ACIM勉強会も昨日でした。 初めは歓送会に出て勉強会は欠席かな、と思っていたのですが、それってどこか自分に我慢した感じが出るというか「特別な関係性」の香りがしました。 なので、勉強会の後半に出席できるように歓送会は帰ろう、と思い、幹事に終わりの時間の確認をし、締めのあいさつを終えたら即退出しました。 (お料理がおいしいお店なので、デザートまですべて楽しみました) 歓送会の終わる時間によっては途中で帰ることにしよう、と思っていましたが、最後までいられました。 誰のせいにするでもなく自分でどうするかを決めて、周りが波立つ必要がないように前もって少し説明しておいたり、自分にも周りにも愛を持って行動できたかな?と思いました。 ...
|
|