2002年01月14日(月)
「素質」とか「才能」とかいうヤツ

 そうか。
 今日は成人の日か・・・・。


 あたくしらが新成人になった年、成人の日というのはまだ1月15日で、
 この年のその日、うちの地元では年に数回あるかないかの豪雪で、
 振袖を着たオンナどもも、スーツに身を固めたオトコどもも、
 ハチャメチャなメに遭った。
 予期せぬ豪雪で、
 振袖に合わせて選んだ草履を今更、雪下駄に変更するなど不可能に近く、
 タダでさえ着丈スレスレにまである袖が、積もり積もった雪の所為で
 ぐちゃぐちゃになるのを必死に引き上げた経験がある。
 と、今度は足元の捌きが危うくなり、
 正絹の着物を台無しにしないように、一応防水加工はしてあるものの
 裾なんかは雪まみれになった。


 それでも、親や或いは祖父母なんかが「この日の為に」と作ってくれた
 成人の日仕様出撃衣装にさっさと見切りをつけるわけにもいかない。
 あの豪雪の中、集まった新成人たちは、皆一様に
 ちゃんとした格好・・・・いわゆる、「正装」でやってきていた。
 ・・・・豪雪なのに(トホホ)。


 それだけかと思ったら、その翌々日、阪神淡路大震災である。
 当時、あっち方面の大学に進学していた輩も多々いたので、
 久々に顔をあわせ、住所交換した中に「神戸市・・・・」なんていうのもいくつかあって、
 成人式から帰った早々、被災した・・・・なんていう子もいた。
 あたくしは、実家から東京に戻って、ぼんやりと夜行性生活を送っていたのだが、
 ふとテレビを見ていたら、朝っぱらからどのチャンネルも同じ光景を映し出している。
 丁度、昨年のN.Y.テロの時のように。
 最初は何が何だかわからなかった。
 日本なのか、外国なのか、
 生中継なのか、録画なのか、それともフィクションの映画なのか。


 そうか。
 あたくしは思った。
 「大人になる」というのには、結構、凄まじい関門があるものなんだ・・・・。


 が、あの年が結局は特別だったんだと思う。
 昨年といい、今年といい、
 新成人が暴れただの、警官隊が出動しただの、
 アホみたい。
 面白くない。
 かといって、自分たちの時代が、アホみたいじゃなくて面白かったかというと
 そうでもない。同じようなものだ。
 あれから、ちゃんとした大人になれたんだろうか。
 成人式というのは、不思議な習しだと思いながらニュースを眺めていた。








 そうしたら、そんな全国各地の成人式の様子の合間に、
 とある特集がやっていた。
 7歳の少年ピアニストのことだった。
 全国コンクールの小学生の部で、わずか7歳で首席をとったのだという。
 かなり技術的な要素を求められるコンクールらしく、
 その証拠とばかりに、彼に続く次席は「該当者なし」との結果が出ている。
 要するに、その少年は相当すげえヤツということになる。


 彼の学校での様子も追いかけていた。
 体育が大好きなやんちゃ坊主で、音楽は「普通」なんだそうだ。


 「普通」なわけないだろ・・・・?
 誰もが認める非凡な才能の持ち主なんだから、
 「普通」の枠で留まっていられるわけがなかろう?


 そして、咄嗟に気づいた。
 彼の「素質」や「才能」が、学校教育の枠から、はみ出しているのだというのに。


 あたくしの時代から、それはあんまり変わっていない。


 すごく感性が豊かで、すごくいい絵をかくのに、
 美術の授業や成績となると、振るわなかった子。

 昔は、音楽の授業なんかに興味も示さなかったくせに
 今では、歌や楽器が大好きで、それが昂じて技術も磨かれていった子。

 走るのが速くて、球技が得意で、床運動まで完璧にこなせるのに
 跳び箱や水泳など、何か1種目ダメなばかりに体育の成績が今一歩だった子。

 文章力や感性はあったのに、国語であんまりいい点数が取れなかったあたくしや弟。

 全て、「普通」の域を超えたところにいた
 才能ある人間だったはずなのに・・・・。
 つまらないよなぁ。「教育」って。
 学校って、本当に「教育」してるのかなぁ。
 「狂育」もしくは「脅育」もしくは「競育」のような気がする。
 あたくしたちが受けてきたのって。


 同郷の誇り、マラソンの高橋尚子嬢だってそうだ。
 非凡な才能を誰にも認めてもらえぬまま、記録も残せないまま、
 「学校」を全部卒業した。
 それで、あの変なオジさん(小出氏)に出会った途端、
 ようやく、その才能を発揮し始めるのにこぎつけたのである。
 「学校」という理論ずくめのつまらない環境にいたが為に
 華を咲かせることができない人というのは、彼女だけではない。
 日本全国にもっと沢山いるはずだ。



 知能障害を持っている人の中に、
 とんでもない非凡な才能を隠し持っている人がいるという実例報告もある。
 天文学的数字の平方根をその場でさらりと言ってのけたり、
 西暦何年何月何日の曜日をぴしゃりと当てたり。
 だが彼らは、単純な計算が出来なかったり、自分の記憶が曖昧だったりするので
 「障害者」というレッテルを貼られてしまう。
 映画「レインマン」ダスティン・ホフマンが演じた役もそうだった。
 床に散らばった楊枝の数を、落ちた時の音でズバリ当てた。
 聴覚が異様に発達しているのに他ならない。
 超人である。


 そういう才能を「障害」に変えてしまうのが「枠」・・・・つまり「学校」である。
 大体、誰がその基準を定めるというのだ?
 同じ人間だろう。
 しかも、非凡なところなど何一つない、「普通の枠」しか知らない人間。


 実は、あの暴れている新成人は、そんな「枠」の中で
 燻り続けている人なのではないか?
 「非凡」さを求められるにも拘わらず、「普通」に暮らす事を強要された人たち。
 爆発して当然だ。


 そして、その責任は「枠」を作った大人たちにある。
 「枠」は確かに必要だろう。
 が、どうして溢れる素材のことを予測できないのだろうか。


 単純なことだけに、「普通の枠」しか知らない人たちには、
 その予測すら不可能なのだろうか・・・・。
 暴れる幼き「大人」たちを責めてはならない。
 そう仕向けたのは、熟成されたはずの「大人」たちに他ならないのだから。

 

あさみ


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