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翼を片方 - 2004年04月10日(土) しとどに背中を濡らしているのは、雨でも汗でもない。 見えなくとも分かっている。俺の背中は血まみれなのだ。 翼をもがれた。 それがいつだったのか、そもそもどんな翼がそこに在ったのか――白いのか、黒いのか――そういったことは思い出せない。 とにかく俺は翼をもがれた。その傷口から溢れた血で背中はぬめり、服は濡れそぼっている。 視線を落とす。 座り込んだ足元には血溜りが広がっている。 ――いつからこうしているのだろう。 考えてみても、やはり思い出せなかった。 己の手に目をやる。両方とも、血まみれだ。 ふと、翼をもいだのは俺自身ではないかと思った。――確証など何もなかったが。 ひたひたと陣地を広げ続ける足元のそれと比べて、両手にこびりついた血糊は赤黒く、半ば乾いていた。 それからまた別なことを思いつく。 ――両手に付いているのは、俺の血なのか? これは俺のものではなく別の誰か――例えば俺が殺した人間の血ではないか。 ――否。 殺した――のではない。 喰ったのではないか。 おれは自分以外の誰かを殺し、喰った。だから両手は血まみれで―― 翼はもがれたのだ。 たぶんそれが真相なのだろう。 ならば、それを行なったのが俺であれ誰であれ、大した違いは無い。 翼はもがれた。失われた。 だから俺は、こうして血溜りに浸ったまま動けずにいるのだ。 翼が無くてはどこにも行けない。 哀しいと思った。 どこにも行けないことが、ではなく、自分自身をただただ哀しいと思った。 何とあさましい生物なのだろう――この俺は。 足音が近付いてきた。 顔を上げるより早く、足音の主は俺の作った血溜りに足を踏み入れた。 ぴしゃ、と音がする。黒い革靴だった。 「どうしてこんなところに座り込んでる?」 頭の上から声が降ってきた。 「翼を――もがれたから」 革靴を見つめたままで俺は答えた。 「翼が無いからどこにも行けない――だから、ここにいいる」 そいつは妙だ――と頭上の声が言う。 「あんたにはまだ足があるだろう。手だってある。それなのにどこにも行けないって?」 それはあんたが勝手に思い込んでるだけだろう? 「違う」 首を振る。 「まだ足があるとか手があるとか、そういうことじゃない。翼をもがれたから、俺はどこにも行けないんだ。足があっても手があっても、もうどこにも行けない。翼を失くすってのはそういうことなんだよ」 だって俺は―― 「――俺はあさましい生物だから」 返答は無かった。 革靴はこれでいなくなるだろうと思っていた。だが、それは一歩も動くことなく俺の前に在った。 よく見ると、あちこち擦り切れてひどくくたびれた靴で、降ってきた張りのある声とはどこか不釣合いな気がした。 暫くして、また声が降ってきた。 「――すまん」 意外な言葉に、思わず顔を上げる。 「きっとあんたはそう言うと思ってた――分かってたよ」 黒い革靴は黒い三つ揃いを着ていた。 「だからここへ来たんだ――あんたに会いに」 渡したいものがあるんだ――とそいつは言い、 ぬっと俺の前に翼が差し出された。 「――これは?」 何のことか分からなかった。少なくとも、これは俺の背中に生えていたものではないようだった。 「これ――あんたにやるよ」 「え?」 「俺の。片方、やるよ」 翼はどこまでも黒く――けれど付け根からは真っ赤な血が滴っていた。 「これをあんたに渡したくて――ずっと、ずっと捜してたんだ」 あんたのことを、とそいつは言って破顔した。 ふいに、何かが満たされていくような気がした。 からっぽだった俺の内側が何かで満たされていく。流れ出てしまった血よりも、もっと温かくて心地よい、何か。 ――知っている。 俺はたぶん、こいつを知っている。 失くしたくなかった。翼よりも何よりも、俺はこいつを失くしたくなかったのだ。 「俺のと、これをあんたが付けてさ。それで――ふたりで肩組んで。そしたら――どこへだって行けるだろう?」 -
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