千葉には、優勝マジック1のチームを食う魔物が棲んでいるという。 95年の西武、99年のダイエー、02年の西武、マジック1で千葉に乗り込んでいったが、みなことごとく連敗し、千葉での胴上げは出来なかった。
さて、3連敗してマジック1のまま千葉に乗り込んだホークスも、前半この魔物に手こずった。 3−0のまま迎えた4回の裏、先発杉内が1アウトを取ったあと、この魔物に取り憑かれてしまった。 4連続2塁打、ここで同点。 さらに悪夢は続く。 何とかアウトを一つ増やしたものの、四球、内野安打で満塁となる。 ここでロッテは絶好調福浦。 杉内の甘い球を見逃さず、この回5本目の2塁打を放つ。 3−6と逆転されてしまった。
9月に入ってからの、数々の負け試合の記憶が蘇る。 ピッチャーが佐藤誠に交代した。 最近は勝ち試合の中継ぎとして活躍している佐藤だが、ここ数試合、彼はきちんと押さえているものの、後続のピッチャーがピリッとしない。
さて、その佐藤、4回はいつものように押さえた。 ところが5回に崩れた。 四球とヒットでノーアウト1,3塁のピンチを招いてしまったのだ。 ついに佐藤も魔物に取り憑かれたかに見えた。 何とか次の打者を三振に取ったものの、まだランナーはたまったままだ。 気の重い場面が続く。 その時である。 キャッチャー城島が一塁に牽制した。 これがストライクだった。 あえなく1塁ランナーはタッチアウト。 これで流れが変った。 何か重しが取れたような雰囲気になったのだ。 続くバッターは三振。 これでチェンジである。 このあと、ホークスの怒濤の攻撃が始まり1イニングで7得点して逆転に成功した。 そして次の7回途中、神戸で西武が負けたという情報が入った。 ここで優勝が決まった。 その情報で優勝のプレッシャーから解放されたホークスは、さらに追加点を入れ、そのまま勝ちを収めた。
今日の功労者は、何と言っても城島だろう。 何せ、彼が魔物を追い払ったのだから。 ゴリラが魔物に勝ったということだ。
以上が優勝を決めた日の、大まかなホークスの試合内容である。 さて、ぼくはその時何をしていたか。 家で氷結を飲みながら、テレビを見ていたのだ。 もちろん、秋山幸二解説のロッテVSダイエー緊急生中継を、である。 途中、友人から何度も電話やメールが入った。 4回にロッテから6点を取られた時は、「こら、しんた。ダイエーはどうなっとるんか!? 毎回毎回同じような試合をしやがって」というお叱りの電話だった。 別にぼくが悪いわけではないのだが、なぜか「すいません」と謝ってしまった。 また6回に逆転した時は、「おい、勝ったら飲みに行くぞ」という電話が入った。 が、ぼくは「もう飲みようけ、これ以上はいらん」と言って断った。 「じゃあ、おれがお前の家に行く」 「そうですか、ではお待ちしています」 そう言って電話を切った。 その後、優勝特番をハシゴしたあとに、この日記を書いているのだが、もう時間は2時半を過ぎている。 しかし、彼はまだ来ない。 いったい何をしているんだろうか?
ぼくがホークスで熱くなっている間に、季節は秋になっていた。 朝晩の冷え込みは、かなり応える。 とはいえ、ぼくは朝も晩も、仕事の日も休みの日も、いつもTシャツ一枚で過ごしている。 というより、Tシャツ以外の衣服は、すぐに取り出せない所にしまってあるから、着ることが出来ないと言ったほうがいいだろう。 ということで、そろそろ秋冬物を出さなくてはならないのだが、その作業が面倒だ。
季節の変わり目にはいつもそうなのだが、ぼくは衣服に関しては無頓着で、どんな服を持っているのかも、その一年前にどういう格好をしていたのかも忘れてしまっている。 たしか昨年VANのジャケットとかを買ったような記憶があるのだが、その記憶も曖昧である。
手持ちの衣服にはそういう曖昧な記憶しかないのだが、確かにこれは持っていると言いきれるものもある。 一つはホークスのスタジャンである。 何年か前の年末に、限定何千枚ということで、福岡ドーム横のハリーズで売り出したものだ。 ぼくはテレビでそのスタジャンのことを知り、年が明けて早々ハリーズに買いに行った。 このスタジャンは5万円近くした。 もし、これが普通のスタジャンなら、絶対に買わないだろう。 というのは、ぼくは普段、衣食住の衣だけにはケチで、衣服関係にはあまりお金を遣わない方だからである。 しかし、ホークスがらみということになれば、話は別で、もはや値段は関係ない。 というより、ホークスという名前が付いただけで、それはもうぼくの中では衣服ではない、ということになってしまうのだ。 その日、スタジャンを手に入れたことで浮かれてしまい、そのスタジャンを着込んで、唐津方面までドライブ行ったのだった。 ということで、このスタジャンは今でも持っている。 しかし、手入れをしなかったため、袖の部分の皮革はもうボロボロである。
もう一つは、KORGのジャンバーである。 これは楽器メーカー『KORG』の営業の方から、もう20年も近く前にもらったものだ。 いまだに健在なのである。 何の変哲もない紺色のジャンバーで、左胸の部分と背中の部分に『Step Info Tomorrow's Music KORG』という刺繍が施してあるのだが、これが実に優れもので、生地が強く、けっこう着込んだのだが色落ちはしないし刺繍も解れていない。 おそらく、今後も破ったり燃やしたりしない限り着続けていくだろう。
さて、明日は休みである。 昨日も言ったように、福岡ドームが無料開放するということなので行ってみようかとも思ってみた。 しかし、行くとなれば車で行かなければならない。 ということは、ビールや酒が飲めない。 優勝が決まってビールや酒が飲めないとなれば、行った意味がない。 「さて、どうしようか?」と迷っていたところに吉報が入った。 地元テレビ局で緊急生放送するというのだ。 しかも解説は秋山幸二ではないか。 これは見逃す手はない。 ということで、明日は家で応援することにした。 野球が始まるまで、ゆっくり秋冬物を出すことにしますわい。
これは困ったことになった。 優勝は千葉に持ち越しである。 さて、千葉マリンスタジアムにどれだけの人が集まるのだろうか。 きっと、福岡ドームのような大観衆の中での胴上げ、とはいかないだろう。
それにしても大誤算である。 なぜ王監督は、後半戦まったくいいところがなく、前回投げた9月7日の西武戦では、ワンアウトも取れずに5失点で降板した寺原を、こんな大事な試合に使ったのだろう。 考えられることは、それまでに優勝を決めておき、寺原登板は優勝報告を兼ねたファンサービスだったのではないか、ということである。 しかし、事態が事態なのだ。 ローテーションを崩しても、斉藤なり和田なり杉内を持ってきて、勝ちに行くのが定石なのではないのだろうか
それにしても、寺原は情けない。 こんな大事な試合に投げさせてもらいながら、こんな無様な姿を露呈するなんて。 2回表、2アウトまで取りながら、たった一本のヒットで崩れてしまった。 なぜここで開き直れなかったのだろう。 あと一人アウトにすればヒットの一本ぐらいチャラになるというのに、そのヒットにこだわったのか、ストライクが取れなくなってしまい、あれよあれよという間に4失点。 あの引きつった顔は見ていられなかった。 素人目で見ても萎縮しているのがわかるくらいだから、相手チームから見たらいいカモくらいに思えたことだろう。
これでリズムを崩したホークスは、その裏に3点返したものの、その後は打線が繋がらず、さらに後続ピッチャーは次々と得点を許してしまう有様だった。
まあ、マジックは1と変らないのだが、西武との差は3、5ゲーム。 もし、このままホークスが優勝という呪縛にとらわれ負け続け、西武が前年の覇者という意地を見せて勝ち続けとしたら、それこそ『奇跡』と言われる大逆転優勝となるだろう。 そうならないためにも、ホークス選手のいい意味での開き直りを期待する。
ついでに書けば、今日の優勝を見込んで、ぼくの売場では『ホークス優勝記念特価セール』をするべく、商材を準備し、明日からの値段設定もしていた。 しかし、今日負けたため、そのセールも持ち越しとなり、レジの値段も元に戻さなくてはならなくなった。 明日は休みローテーションの関係で人が少ないのに、余計な仕事が増えたことになる。
まあ、そんな内輪のことはどうでもいいのだが、早く優勝してくれんかなあ。 あ、そういえば、今日負けたことで、次の優勝のチャンスは30日となるわけか。 ということは、ぼくの休みと合致あうわけだ。 そうだ。 時間が取れたら、福岡ドームに行ってみよう。 福岡ドームで優勝シーンが見られたら、今日の負けもチャラになるわけだし。
ということで、30日の日記はお休みするかも知れません。 悪しからず。
【計算違い】 昨日、この日記でぼくが期待した通りの展開にはならなかった。 ぼくはダイエーが勝ってのマジック1を期待したのだが、結果は西武が負けてのマジック1になってしまった。 マジック1には変わりないのだが、内容がいかん。 連日の延長戦、連日のサヨナラ負けである。 しかもどちらの試合も、その回の先頭打者のホームランなのだ。 打たれたのは、今シーズンの押さえの切り札である篠原と岡本だった。 確かに、1999年や2000年に優勝した時のペドラザのような絶対的な守護神ではないが、何とかここまで頑張ってきたのだ。 優勝をかけた試合くらいは、何とか踏ん張ってもらいたかった。 明日は寺原が先発なので、当然継投策で来るはずである。 相手は今日の西武戦で打線が復活した近鉄なのだ。 押さえがこんなことで、本当に明日の優勝はあり得るのだろうか。 理想は、デーゲームの西武が勝ち、ナイターのダイエーが勝っての優勝である。 西武が負けて優勝した、という図式だけはやめてもらいたいものである。
【コンビニ強盗】 そういえば、昨日、またもやコンビニ強盗があった。 夕方、近くのショッピングセンターに買い物に行ったのだが、その時友人からメールが入った。 「今朝コンビニ強盗があったけど、あれはしんたの家の近くのコンビニか」というのだ。 ぼくはコンビニ強盗があったことも知らなかった。 このメールで初めて知ったしだいである。 家に帰ってさっそく夕刊を見てみると、ちゃんと事件のことが書いてあった。 “26日午前4時半ごろ、○○1丁目のコンビニで、サングラスに白マスク、帽子で顔を隠した男がアルバイト店員二人に果物ナイフを突き付け、「金を出せ」と脅した。店員一人が現金約3万円を渡すと、徒歩で逃げた。客はいなかった。” 確かにぼくの家の近くのコンビニである。 しかもほくはこのコンビニに、その日の朝8時頃西スポを買いに行ったのだ。 しかし、事件があったという雰囲気ではなかった。 いつも通り登校前の中学生や出勤前のサラリーマンでごった返していたし、店員も商品を並べるので一生懸命だった。 まさかその風景を見て、その3時間半前に強盗が入ったなんて誰も思わないだろう。 夕方、テレビのローカルニュースでは、その事件を扱っていたようだが、夕刊には1紙だけしか載っていなかった。 そのため、会社に行ってもその事件のことを知っている人は少なかったようだ。
それにしても、アルバイト2人は何か手の施しようがなかったのだろうか。 果物ナイフを突き付けられた時はどうしようもなかっただろうが、男は徒歩で逃げたというのだから、追いかけて行くことは出来たはずだ。 どうもこのへんが腑に落ちない。 アルバイトに勇気がなかったのか、それとも…。
何となく気の抜けた試合だった。 今日は休みだったので、最初からダイエーVSオリックスを見ていたのだが、5回に3対3となってから、ぜんぜん試合が動かなかった。 投手戦ならそれなりに緊張感もあっただろう。 しかし、そうではなかった。 ダイエーは拙攻のオンパレード。 再三の得点チャンスに、打てないのだ。 満塁の場面が何回あったかは忘れたが、そのたびに凡退である。 一方のオリックスは打てない。 いや、打つには打っていたが、どう見ても点の入るような攻撃ではない。
あまりに退屈なので、途中何度も居眠りしていた。 しかし、目が覚めても試合は終わってない。 退屈な試合を繰り返している。
とうとう決着の着かないまま、延長戦へ突入した。 しかし、ダイエーはあいかわらず拙攻の山。 10回から12回まで、すべて得点圏にランナーを進めたのに、あと一本が出ない。 オリックスはあいかわらず点を入れるような攻撃をしてこない。
決着が着いたのは、12回裏のことだった。 YAWARAの婿の一発。 笑顔の似合わない婿が、精一杯の笑顔を振りまいていた。
今日の試合は、引き分けでもマジックが1になる試合だった。 とはいえ、どうしても負けてはならない、という試合でもなかった。 なぜなら、今日負けることによって、福岡ドーム胴上げの確率が高くなるのだから。 そういう意味で、ぼくも今日の負けは別に悔しくなかった。 勝ちがなくなった時点で、婿に「一発決めてくれ」と声援を送ったくらいだ。
が、問題は残った。 それは拙攻である。 ここにきて、こんな拙攻をしてどうなるんだ。 しかも、最下位確定のオリックス相手に。 これも優勝へのプレッシャーかとも思った。 「しかし、ダイエーの選手が、こんな拙攻ばかり繰り返していたら、プレッシャーのかかっていない西武に優勝を持って行かれるのではないか。 また、短期決戦である日本シリーズで、もしこんなプレッシャーがかかったらどうするんだろう」 などと余計な心配までしてしまった。
昔、西鉄が巨人に3連敗した後に4連勝して、優勝したことがあった。 これを当時の人は『奇跡』と呼んだ。 しかし今になって思えば、あれはしばらく日本一から遠ざかっていた巨人に、優勝へのプレッシャーがかかっていたからではないだろうか。 それを試合巧者の西鉄三原監督がうまく利用して、流れを持ってきたのかもしれない。 相手に逆転優勝されるほど、プレッシャーというのは重くのしかかるものである。
ところが、画面に映るダイエーベンチの表情を見ていると、どうもそうではないようにも見える。 選手は、凡退しても、悔しがりはするものの、落ち込んだ様子は見えないし、王監督は、満塁のチャンスを潰した時にも、笑みを浮かべている。 これを見て「もしかして計算ずく?」と思ったのは、ぼくだけではないだろう。
とにもかくにも、マジック2、あと2勝すれば優勝である。 ここまできたら、明日は勝って、なおかつ西武にも勝ってもらって、マジック1で福岡に帰ってきてもらいたい。 その上で、明後日、晴れて福岡ドームで、勝って胴上げしてほしいものである。
今日はホークスが快勝したので、スポーツニュースのハシゴをすることにした。 が、最後の『すぽると』で、力尽きて眠ってしまった。
目が覚めたのは、5時を過ぎだった。 4時間以上もテレビの前で寝ていたことになる。 それにしても寒い。 2週間ばかり前の熱帯夜が嘘のようである。
さて、目覚めてはみたものの、眠気は取れない。 目を開けているのがつらく、頭の中に膜が張っているように思える。 気力を振り絞ってパソコンの前に行こうとしたのだが、結局膜に負けてしまった。 そのまま布団の中に直行。 起床はいつも通りの7時半だった。
最近、どうも疲れがたまっているようだ。 肉体的には仕事から、精神的にはホークスの応援から、疲れがきているのだと思う。 休みの日にリフレッシュといきたのだが、休みの前の日についつい夜更かししてしまい、充分に睡眠を取ることが出来ない。 そのため、疲れを取るどころか、逆に疲れを増幅させている有様だ。
これではいかんと、ドリンクなどを飲んで疲労回復に努めているものの、例の糖尿病恐怖症でストレスをためながら飲んでいるので、一向に効いた気がしない。 というより効かない。 運動をすれば、筋肉疲労になるだろうし、その回復には時間がかかるだろう。 ああ、歳はとりたくないものだ。
ところで、実際のところ、この疲れはいつ頃から続いているのだろうか。 そういえば、ぼくは高校の頃から、いつも「きつい」だの「眠い」だの言っていた覚えがある。 何できつかったのかはわからない。 もしかしたら、その原因は腰痛にあるのかもしれない。 高校時代に腰を痛めたことがある。 柔道でやったのではない。 ソフトボールでだ。 外野から遠投した時に、腰がグキッと鳴った。 そこまで痛みはなかったのだが、それを軽く見ていたのがいけなかった。 無意識のうちに腰をかばうようになったのだ。 そのうち、体がだるくなったり、他の部分に痛みが出たりするようになった。 肉体的な疲労は、どうもその頃から続いているようだ。
ということは、この疲れは最低でも30年続いてることになる。 その間、疲れから解放されたことがあっただろうか? ・・・、ないなあ。 遊んだら遊んだで無理をするし、寝たら寝たで疲れるし、なかなか疲労とは無縁にはなれなかった。 おそらくこの先も疲れは取れないだろう。 そう考えると、気が重くなる。
今日の昼間、大阪から取引先の人が来た。 開口一番彼は言った。 「しんたさん、明日にも胴上げですね」 「胴上げ」、言うまでもなくダイエーホークスのことである。 「そうですね。あ、そういえば、阪神優勝おめでとうございます」 「ははは、ありがとうございます。で、しんたさんは優勝が決まったら中洲で飛び込みですか?」 「ホークスのファンは、そんなことしませんよ」 「でも、前回はやってましたやん」 「いや、今回は福岡ドームの屋根に登るんですよ。他に、福岡タワーパラグライダー隊とか、道頓堀ダイブ部隊も用意していますから」
彼は阪神の優勝が嬉しくてしかたない様子だった。 「何せ、18年ぶりの優勝ですからね。大阪は盛り上がってますわ」 「そうでしょうね。99年にホークスが優勝した時は、福岡の球団としては38年ぶりだったから、こちらもずいぶん盛り上がりましたからね」 「今年の阪神は強いですよ。100打点カルテットなんか目じゃない」 「そうですか。でも、ホークスは顔で勝ってますから」 「顔って、そんなの有りですか?」 「もちろん有りですよ。井口とか川崎とか、ホークスは男前揃いですよ」 「でも、野球は顔でするもんじゃありませんわ」 「いや、今阪神ファンでも、日本シリーズになったら、女性の大半は男前の多いホークスを応援するでしょう。そうなると、甲子園球場の半分以上がホークスファンになる。そういう人たちに後押しされて、ホークスが勝つんですよ」 「そんな、無茶苦茶ですわ」
「それはそうと、阪神グッズ売れてるでしょう?」 「売れるわけないじゃないですか。お客さんは、みんな冷ややかな目で阪神グッズを見てますよ」 「おかしいなあ、全国ではけっこう売れているのに」 「全国で売れても、福岡では売れません。目の毒だからさっさと持って帰って下さい」 「まあ、そう言わんと、日本シリーズが終わるまで置いといて下さいな」 「置いとったら、惨めになるだけでしょ?」 「そんなことはない。優勝は阪神ですよ」 「ああ、そうですか。いや、いいんですよ、優勝したって。どうぞ、優勝して下さい。うちは来年もありますから」 「・・・」
しばらく舌戦が続いた後、「日本シリーズが終わるまで、商売になりませんわ」と言って、彼は帰っていった。 「商売」って、いったい彼は何を売込みに来たんだろう?
| 2003年09月23日(火) |
『当り!!』(後編) |
こういう人を目の当たりにしているので、どうしてもぼくには「楽して金儲けしよう」という気が起こらない。 少なくてもいいから、地道が一番と思うようになったのである。
しかし、こういう地道な生活をしていても、希にいいことがある。 ここ何日か、『当り!!』が続いているのだ。 先月、携帯電話を替えたのだが、それに伴い、『ホークスTOWN』に改めて入会し直した。 ここはホークスの試合がある時は、イニング毎に試合経過を伝えてくれるので、iモードに入った当初から入会している。 今月の頭に、そのホークスTOWNからメールが届いた。 「『8月入会キャンペーン』におきまして抽選の結果しんた様が当選されました。賞品を送付致しますので折り返し、ご住所 お名前 年齢 ご連絡先電話番号をご記入の上メールでご返信下さい」 という内容だった。 ぼくは、そんなキャンペーンをやっていることすら知らなかったので、最初はいたずらメールかと思ったが、送信者を見るとちゃんとホークスTOWNのものだった。 そこで、さっそく住所等を書き込んで返信した。
賞品が送られてきたのは前の休みの日で、例の喜多方ラーメンが届くのを待っている時だった。 「ピンポーン」という音がした。 「来た!」と思って玄関に出てみると、「郵便局ですが、書留が届いています」と言う。 「書留? どこからだろう」と見てみると、ホークスTOWNからだった。 封筒を開くと、ハリーホーク付きの携帯ストラップが出てきた。 それを見ての第一声は、「こんなもん、いらんわい」だった。 ただでさえかさばる携帯なのに、ハリーホークなんかが付いていると、ポケットは膨らんでしまう。 ということで、このハリーホーク付きの携帯ストラップは人にあげることにした。
話は変るが、先週の健康診断前日まで、ぼくは毎日ココアを飲んでいた。 ところが、17日の日記に「オロナミンCとココアとカルピスを飲んでいる」と書いたのをパートさんが読んで、「それは糖分の取り過ぎよ」と言ってきた。 それ以来、糖分が妙に気になりだした。
そこで、「ココアを控えよう」ということになった。 なぜココアかというと、牛乳が入っているからである。 なぜ牛乳がだめかというと、太るからである。 なぜ太るのが嫌かというと、痩せたいからである。 ということで、代わりに飲み始めたのが、ジョージアのヨーロピアンブレンドだった。 なぜこれにしたかというと、『微糖』という表示に惹かれたからである。
さて、携帯ストラップが送ってきた翌日のことだった。 その日からぼくはジョージアを飲み出したのだが、自動販売機から缶を取り出してみると、驚いたことに缶の頭にキャップが付いているのだ。 「最近の缶コーヒーは変ったんだなあ」などと思いながら、そのキャップを取ってみた。 すると、そのキャップの裏に『当り』と書いた紙が入っていた。 その紙の下に何か入っている。 何だろうと紙を取ってみると、そこには女の子の形をした小さなフィギアが入っていた。 またしても「こんなもん、いらんわい」という言葉が、口をついて出た。 しかし、せっかく当たった物を捨てるのも気が引けるということで、これも人にあげることにした。
最初にも言ったが、ぼくはくじ運の弱い男である。 仮に当たったとしてもこの程度なのだ。 だから、「ついている」などとは思わなし、「よし、もっと上を狙ってやる!」なんて考えない。 ジョセフ・マーフィーやロバート・シュラーは、「そういう否定的な考えはだめだ」と言う。 確かにそうであるが、こと懸賞やギャンブルに関していえば、ぼくはそういう否定的な考えしか持てないのである。
| 2003年09月22日(月) |
『当り!!』(前編) |
ぼくはくじ運が弱い。 子供の頃よく食べていたホームランバーや、駄菓子屋にあったコリスガムのくじでは当たったことがあるのだが、雑誌などでやっている高価な品物の懸賞には一度も当たったことがない。 まあ、当たらないからやらない、やらないから当たらない、と言ったほうがいいだろう。 これは、ぼくのギャンブルや宝くじに対する姿勢と同じである。 友人の中にはそういうものに熱中している人もいて、景気のいい話をよく聞かされる。 宝くじなどを科学的に分析して、購入している人もいる。 しかし、そういう人の話を聞いても、ぼくには興味が持てないのだ。 夢が持てないとも言える。 つまりイメージがわかないのだ。 そういうものに当たった時の、自分の姿が心の中に描けない。
昔、ジョセフ・マーフィーやロバート・シュラーなどの書いた、いわゆるニューサイエンス本を読んでいたことがあるのだが、そこに『心眼に映像を描け』というようなことが書かれていた。 心に描いたものは必ず実現するというのだ。 「風邪を引くんじゃないか」と心配すると風邪を引くことがよくあるが、これを逆手にとって、いいことを想像するといいことが起こる。 さらに進めて、いいことが起きた時の自分の姿や生活を具体的に映像として心の中に描くと、この効果は倍増するというのだ。 確かにこの論法は当を得ている。 この方法で成功した人の話も、聞いたことがある。 自分でもやってみて、小さな成功を収めたこともある。
しかし、この対象が懸賞だとかギャンブルだとかいう場合、ぼくは心にその成功の姿を描けないのだ。 その根底には、「楽して儲けようなんて以ての外だ!」という意識がある。 ぼくの知人に、脱サラして移動のやきとり屋を始めた人がいる。 サラリーマン時代は月収20万円程度だったのが、そのやきとり屋を始めた最初の月に50万円稼いでしまった。 それも実労15日程度で、である。 それに気をよくした彼は、だんだん仕事を怠けるようになった。 さぼっていても、ちょっと働けばすぐに50万円稼げるとでも思ったのだろう。 しかし、現実はそれほど甘くない。 さぼってばかりいるから、いい場所が確保出来ない。 そのせいで月収はだんだん下がっていく。 それから彼の転落が始まった。 以降彼はまったく仕事をしなくなり、愛想を尽かした奥さんは家を出て行った。 そのせいで、精神状態がおかしくなってしまい、挙げ句の果てに病院に入院。 楽して金儲けしようとした男の顛末である。
先日、ローカルのバラエティ番組で、喜多方ラーメンの特集をやっていた。 喜多方のタクシー運転手お薦めのラーメン屋を食べ歩く企画だった。 三軒ほど紹介されたが、その中の一軒に地方発送やっている店があった。 久しく喜多方ラーメンを食べていないので、すぐに「買い」だと思ったぼくは、さっそく先方に電話した。
「もしもし」 「はい、○○食堂です」 懐かしい会津なまりだった。 25年前、ぼくが東京にいた時に、一番仲の良かった喜多方出身の友人から、いつも聞かされていたなまりである。 東北というよりも北関東方面のなまりに近いものがある。 「九州の方ですか?」 こちらもなまっているのかと思ったら、「今日はテレビを見たとかで、よく電話が入るもんで」と言う。
ラーメンは意外に早く届いた。 注文して2日目だった。 10年ほど前に喜多方に行ったことがあるのだが、えらく遠く感じたのを覚えている。 小倉から東京までが、新幹線で6時間(当時)。 東京から上野に行き、新幹線が発車するまで30分。 上野から郡山までが、新幹線で1時間半。 郡山で1時間の時間待ち。 郡山から喜多方までが、JR磐越西線で約2時間。 計11時間の長旅だった。 この時の印象から、喜多方は遠いところだと思っている。 それだけに、2日目の到着はかなり早く感じた。
ラーメンが届いたのは、先週の金曜日(18日)だった。 が、まだ食べていない。 ラーメンは生麺で、日持ちは10日間ほどだと言っていたので、早く食べないと腐らせてしまう。 とはいえ、毎日ラーメンというのも飽きてしまう。 しかたないから、冷凍室で保存することにしたのだが、美味しさが失われないかと心配している。
ぼくは基本的に喜多方ラーメンが好きである。 同じラーメンでも、こちらの豚骨味とはまったく違ったものだ。 このラーメンを食べる時は、汁物を食べているような錯覚を起こす。 鰹だしでスープを作っているというから、それもうなずける。 和風ラーメンと言ってもいいだろう。 喜多方に行った時食べたラーメンの味が忘れられず、デパートで東北物産展などをやっていると、つい多めにこの喜多方ラーメンを買ってしまう。 しかし、あの時の味とはほど遠いものがある。 もう一度、喜多方に行って、本場の味を味わってみたいのだが、遠いからなあ。 まあ、今回注文したラーメンがおいしければ、わざわざ喜多方まで足を運ばなくてすむ。 期待してみるか。
【日記】 朝から今日の日記のテーマを考えていた。 しかし、何も思い浮かばない。 まあ、時間が経てば、それなりに日記のテーマも固まってくるだろうと思っていた。
午後になってチェックしてみた。 だが、あいかわらず何も浮かんでこない。 まあ、そのうち事件なんかが起きて、日記のネタになるだろうと高をくくっていた。
夕方、もう一度チェックしてみた。 が、日記のことすら頭の中にはなかった。 それよりも、今日のダイエー戦のほうが大事である。
夜、そろそろ何か出来ているだろうと、頭の中を訪ねてみた。 ところが、その部分だけが見事に空白になっている。 ダイエーは負けるし、気がくさくさしている。 それに、録画した『ウォーターボーイズ』のメイキングも見なければならない。 今日は徹夜覚悟だと腹をくくった。
夜中、気がついたら眠ってしまっていた。 起き出して、パソコンの電源を入れてはみたが、結局、何もテーマが決まらないままである。 「さて、何を書こうか?」 いたずらに時間だけが過ぎて行く。
【オナカ君】 そういえば、夕方、友人のオナカ君がやってきた。 来月、久しぶりにいつものメンバーで飲み会をしようというのだ。 まあ、飲み会はかまわないのだが、問題は「どこでするか?」ということである。 今までは、ぼくが車でみんなを迎えに行って、適当に酔いの醒めたところで送って帰っていたのだった。 そのため、交通の便の悪い所にも行けたのだが、道交法が改正したために、それが出来なくなった。
道交法、気にしなければ何のことはないのだが、最近、酒気帯び運転で、罰金30万円を払った人の話をよく聞くようになった。 そういう話を聞くたびに、車に乗って飲みに行けないという思いが強くなってきたのだ。 まったく飲まない人を連れて行って、送ってもらうようにすれば問題はないのだが、まったく飲まない人なんか身近にはいない。
ということで、問題はどこで飲むかということだ。 車で送り迎えすることなく飲みに行ける場所といえば、交通の便がいい場所ということになる。 ということは、黒崎か折尾ということになるが、郡部の人間もいるので、折尾のほうが都合がいい。 しかしである。 折尾といえば、学生ばかりじゃないか。 うるさい、汚い、マナーを知らない。 そんな奴らの中で飲むなんて、まっぴらである。 しかも、折尾にどんな店があるのか、ぼくは知らない。
ここは一つ、言い出しっぺに幹事をやってもらうしかない。 ということで、頑張れ、オナカ君。
【視力】 右0,8、左0,7だった。 昨年が左右とも0,7だったので、大した変化はなかった。 視力の検査は、オーソドックな「C」マークで行った。 1から10までの数字の下に、このマークが上下を向き横を向いて並んでいた。 1から順番にマークが小さくなっていく。 係員が「1から順番に言って下さい」と言った。 しかし、ぼくは順番に言っていくのが面倒だったので、目に付いた7から答えることにした。 7はOKだった。 続いて8はイメージで答えた。 結果はOK。 9からはイメージさえわかなかったので、当てずっぽで「下」と答えた。 「はずれです」 「じゃあ、右」 「0,8です。次、左お願いします」 「8は、右」 「違います」 「え?」 よく見ると、それは6の答だった。 「ああ、すいません。6が右です」 「違います」 「ええーっ!?」 「1から言って下さい」 しかたがないので、1から順番に答えることにした。 5まで答えてから、ぼくは6を飛ばし7を答えた。 「7は下」 「はい。6は?」 「6は右です」 「ええーっ!?」 そうか、さっきと同じだった。 係員はしかたないなあという顔をしながら、「0,7」と言った。
【血圧】 聴覚が終わり、続いて血圧を測った。 ぼくは、いつもこの血圧で引っかかっている。 下が高いのだ。 これはおかしいと思って、いろいろな血圧計を試してみたのだが、どれでやっても正常である。 もしかしたら、健康診断用の機械がおかしいのかもしれないと思い、健康診断のたびに何度か測り直してもらっている。 今回も例年通りで、下が100を超えていた。 係員が「血圧が高いですねえ」と言う。 「もう一度やってみて下さい」 2度目は少し下がっていたが、それでも94もある。 「やっぱり少し高いみたいですよ」 「昨日家で測ったら、下は85だったんですよ」 「じゃあ、今度は機械替えて測ってみますね」 今度は旧式の手動のやつを持ってきた。 これで測ると、前日通りの数値が出た。 下は84だった。 「ああ、正常ですね。最初は緊張しとったんかもね」 「緊張なんかしてませんよ」 「無意識のうちに緊張することもあるんですよ」 いいかげんなことを言いやがって。 何が緊張だ。 なぜ機械が悪いと言わないのだろう。 最新式の機械か何か知らないが、手動式の血圧計を用意してあるということは、その機械を信用してないということになるじゃないか。 次からは「手動でやって下さい」と言うことにしよう。
【採血】 採血は下手くそだった。 今までで一番痛かった。 採血後、係員は用意してあった脱脂綿を当て、針を刺した時の痛みがまだ残っている腕を、力いっぱい指で押した。 「このくらいの力で、2,3分押さえておいて下さい。内出血するので、決して揉んではいけませんよ」 「何が『揉むな』だ。あんたの押し方は、指圧じゃないか」 ぼくはそう思いながら、腕を押さえていた。 1時間後、脱脂綿を取ってみると、しっかり内出血していた。 注射の痛みは、夕方まで続いた。
後は、問診、心電図、レントゲンと続き、今年の健康診断は終わった。 採血や心電図・レントゲンの結果は後日になるが、それ以外の異常はなかった。
【胃透し】 予定通り、朝少し早めに起きて出社し、健康診断に行った。
まず受付に行き手続きを取る。 前回までは、そこの係員が「はい、胃透しに行って下さい」と事務的に言ってのだが、今回は「胃透し、どうされますか?」というふうに、言い方が柔らかくなっていた。 もちろん、ぼくは「受けません」と答えた。 前回のように「行って下さい」と言われると思っていたので、それなりの断り文句を準備していた。 前に、「胃カメラ飲みましたから」と言って、「どこの病院でされましたか?」と突っ込まれたことがあったので、今回は便秘作戦で行くことにしていたのだ。 「バリウム飲むと便秘になるんで、受けないようにしています」 人の受け売りであるが、これが案外効果あるらしく、こう言われると係員は何も言えなくなるそうだ。 このセリフをよどみなく言えるように練習をしていたのだが、結局無駄になってしまった。
【体重】 今回は、体重と身長の測定、検尿、視力と聴力の検査、問診、採血、レントゲンと続いた。 昨年の体重測定で、生まれて初めて80キロをオーバーしてしまった。 今回はそのリベンジをもくろんでいた。 1ヶ月前から、食事の制限をして、体重を減らしておいたのだ。 それが功を奏した。 5キロ減の75キロだった。 「努力の甲斐があった」とぼくは内心喜んでいた。 ところが、係員はこの数字が不服だったらしい。 「病気か何かされたんですか?」と聞いてきた。 「え、何でですか?」 「いや、5キロも減ってますから」 「ダイエットやってるんです」 「運動か何かですか?」 「いいえ、食事制限です。何なら、やり方教えましょうか?」 そう言うと、係員は笑っていた。
【身長】 さて、今回の健康診断で一番驚いたのが、身長測定だった。 ぼくは今まで177,3センチだったのだが、今回は何と178センチになっていた。 この歳になって7ミリも成長するというのは、ちょっとした事件である。 もしかしたら、以前O脚矯正のためにやっていた、バレリーナポーズという運動の効果なのかもしれない。
ぼくは若い頃柔道をやっていたためか、O脚になってしまった。 そのことについて、別に気にはしてなかった。 ところが、ある時、本に「O脚が治れば身長はあと2〜3センチは伸びる」というようなことを書いてあった。 それを読んで、治そうという決意をした。 それ以来、O脚矯正のためにいろいろな運動をやってみた。 しかし、なかなか効果がない。 「やっぱり、だめか」と諦めていた時だった。 『おもいっきりテレビ』の中で、そのバレリーナポーズのことをやっていた。 なぜO脚になるのかという説明をしたあと、なぜこの運動がO脚にいいのかという説明があった。 説得力のある説明で、ぼくは「これは!」と膝を打ったものだった。
その運動を知って以来、ぼくは欠かさずこの運動をやっていた。 ところが、2ヶ月前、治っていたはずの痔が再発したのだ。 幸い痔のほうはほどなく治まったが、これからはお尻に負担をかけることはやめることにしたのだ。 そこで、バレリーナポーズもやらなくなっていた。 しかし、この運動が身長にいい効果を与えたというのなら話は別である。 多少の障害はあっても、再開するしかない。 何せ、ぼくの夢は、身長180センチになることなのだから。
明日は朝から健康診断なので、早く寝なければならない。 寝不足だと、視力検査で失敗してしまうからだ。 以前寝不足のまま健康診断を受けたことがあるが、その時の視力検査の結果は左0.1だった。 係員から「えらく視力が落ちましたねえ。糖尿病か何かの病気にかかっているんですか?」と言われた。 「いや、文字が揺らぐんです」 「ひょっとして乱視ですか?」 「はい。おまけに昨日は寝不足で」 「普通はどのくらいなんですか?」 「左は0.7くらいです」 「そうですか…。じゃあ、視力検査だけやり直しますから、○日に健康センターまで来て下さい。ちゃんと睡眠を取ってきて下さい」 ということで、たかが視力検査のために休みを取り、健康センターまで行く羽目になった。 おそらく視力で再検査を受けたのは、ぼくぐらいだろう。 それ以降、健康診断の前の日は、なるべく睡眠を取ることにしている。 今回もそれだけは避けたいのである。
今日の晩飯は午後9時だった。 通常10時前後に食べているので、1時間も早い食事である。 それから今(午後11時)まで、お茶以外は口にしていない。 毎朝飲んでいるオロナミンCも、毎昼飲んでいるココアも、毎晩飲んでいるカルピスも、今日は飲んでいない。 実はこれも健康診断対策である。 知り合いに糖尿病の人がいるのだが、いろいろと食事制限の話などを聞いている。 もし、健康診断で引っかかりでもしたらことである。 再検査までの間、オロナミンCやココア、カルピスはおろか、黒糖キャラメルも口に出来ないようになる。 これは、ぼくにとって地獄である。
これも以前のこと。 その日が健康診断だということをつい忘れて、朝オロナミンCを飲んで出社したことがある。 会社に行く途中、「そういえば…」と健康診断のことを思い出した。 ここでぼくの頭はめまぐるしく動いた。 「どうしよう」 たかがオロナミンC一本のために再検査にでもなったら、いい笑い者である。 水をがぶ飲みして体内から放出してしまうことも考えた。 しかし、時間がなさすぎる。 その日は健康診断を受けずに、後日健康センターに受けに行くことも考えた。 しかし、わざわざ休みを取って健康センターに行くのもいやだ いろいろと考えたあげく、ぼくは、係員に根回しをすることにした。 「あのう、今日が健康診断ということを忘れていて、朝オロナミンCを飲んでしまったんです。もし、糖が出たら、それはオロナミンCですから、気にせんで下さい」 「オロナミンCを何時に飲んだんですか?」 「50分ほど前です」 「そうですか。じゃあ、診断書に『○時○分にオロナミンCを飲む』と書いておきますから」 「すいませんが、お願いします」 そうやって、難を逃れたのだった。
毎年言っていることだが、健康診断なんて大嫌いである。 健康診断のない平和な時代が早く訪れることを、ぼくは切に願っているしだいである。
【午後11時の悩み】 結局、何もせずに家でゴロゴロしていた。 本日唯一の予定であった、『ガソリンを入れに行くこと』も、会社帰りにすませてしまった。 残っていた楽しみは、『キッズウォー5』を見ることだけだったのだが、それも名古屋の事件で放送延期になってしまった。 あんな事件はNHKに任せて、ジャストでやればいいのだ。 そのジャストはといえば、いちおう事件のコーナーは設けていたものの、あいかわらず『ゴージャスマダム』のようなくだらん番組を流していた。 そんなものをやるくらいなら、キッズウォーを流せばいいのだ。 しかたなく、RKB(TBS系)にいつキッズウォーをやるのか聞いてみると、明日の午前11時からやるということだった。 ということは、明日は2話見られるのか。 ビデオのセットを忘れないようにしておかねば。
【再び阪神優勝】 やはりマスコミは阪神優勝を大々的に取り上げていた。 優勝セールの模様、地元の盛り上がり、世界中で阪神フィーバーとまで言っている。 何のことかと思ったら、世界の主要都市で、一部の馬鹿な日本人が大声を張り上げているだけじゃないか。 傍で見ている外国人の、冷ややかな目といったらなかった。
さて、恒例となった道頓堀ダイブだが、鷹ファンはあんなことやらないでほしい。 そんなことやっても、虎ファンの真似だと言われるのがおちである。 目立ちたいのなら、もっと他のことを考えたほうがいい。 例えば、福岡ドームの屋根の上に登って『若鷹軍団』の大合唱をやるとか、福岡タワーから福岡ドームまでパラグライダーで飛ぶとかすれば、充分に目立つことが出来るだろう。 それでも、どうしてもダイブがやりたいと言うのなら、那珂川でやらず、大阪まで乗り込んでいって道頓堀で思う存分ダイブをやるがいい。
【古い歌】 若い頃に録音した歌を聞いている。 もちろんオリジナルであるが、どうしてこんなに音が悪いのだろう。 まあ、その当時の機械で録音したのだからしかたがないがないことではあるが、もう少しどうにかならなかったのだろうか。 元々間が抜けたような声なのに、さらに間が抜けて聞こえる。 おそらくその当時も、今と同じように、歌うことに酔いしれていたのだろう。 これが骨伝導と空気伝導との違いだといえばそれまでだが、こういう声を友人たちに聞かせていたと思うと、恥ずかしくてならない。
【歌のおにいさんの悩み】 そういえば、最近録音した歌がある。 『歌のおにいさん』に収録しようと思っていたのだが、音が「シャリシャリ、シャリシャリ」言っている。 しかも、フランジャーを使ったような音(「シュイーン、シュイーン」という音)だし、その上高音にノイズまで入っている。 こんなもの、堅気の皆さんにお聴かせするわけにはいかない。
パソコンで録音したのに、どうしてこうなるのだろう。 これなら、MDレコーダーで録音するほうが、まだましである。 とはいえ、今更MDレコーダー引っ張り出すのも面倒だし、しかもさらに面倒である結線までしなければならない。 「うーん、何かいい方法はないかなあ。それはともかく、いったい何のためにこんなことやっているのかなあ」 と悩む、歌のおにいさんであった。
【午前2時の悩み】 明日は休みだが、棚卸しの関係で早い時間に出社しなければならない。 おそらくそう長く時間はかからないだろう。 早ければ30分ほどで終わって、帰るかもしれない。 しかし、30分仕事とはいえ、一度でも会社に行くとなると、休みが台無しになる。
現在、午前2時を回ったところである。 会社に行くことがなかったら、この日記を書き終えたあと、昼までゆっくり寝ることができ、そこから活動を開始出来るのだが、午前中仕事だとすると、その眠りをいったん中断しなくてはならない。 いくら帰ってから寝るとしても疲れは癒えないだろうし、もしそうしても、目が覚めるのが午後2時3時になるだろうから、そこから活動開始は取りにくくなる。
さて、そうなったとして、明日は何をしようか? それが今一番の問題である。
【阪神優勝】 そうですか。 それはおめでとうございました。
【パ・リーグ】 さすがにセントラルというマスコミ・リーグの優勝は、テレビ等で大々的に取り上げられる。 パ・リーグの優勝と比べると、雲泥の差である。 1999年にダイエーが初優勝した日、その日は土曜日ということもあって、テレビでは夜遅くまで特番をやっていた。 しかし、これはあくまでもローカル局での話である。 全国ネットでは、11時台のニュースでビールかけの中継をやった程度だった。 後で優勝を決めた星野中日の扱いと比べると、小さなものだった。 下馬評も、中日断然有利だった。 それは、実力比較など科学的な分析をしてでの評価ではなく、単にパ・リーグのことや、ダイエーの選手のことをぜんぜん勉強していなかったため、というのが後になってわかった。 ある野球評論家は、ダイエーが3勝1敗でシリーズ優勝の王手をかけた時でさえ、「それでも中日有利は揺るがない」などと馬鹿なことを言っていた。
さて、今年ダイエーが優勝した時の、マスコミの扱いはどうなるのだろうか。 もちろん、阪神優勝ほどの馬鹿騒ぎはしないだろう。 しかも、今年はフジテレビが出入り禁止になっているから、さらに興ざめしたものとなるのは必至である。 おそらく、「そうですか。それはおめでとうございました」と言う程度だろう。
【午前3時の悩み】 さて、現在午前3時である。 あいかわらず、明日何をしようかと考えている。 ところで、また嫌なことがある。 健康診断である。 何でこんな馬鹿なことを、毎年やらなくてはならないのだろうか。 自分の管理は自分でやっているのだから、それでいいじゃないか。 具合が悪ければ、養生するなり、病院に行くなりするわい。 健康診断がストレスになるなんて、シャレにならない。 頼むから、そっとしておいてほしいものである。
昨日の日記の終わりに飛び降り自殺のことを書いたが、実は、飛び降り自殺の遭遇はこれで2件目なのである。 1件目は、今住んでいるところで起きたのではなく、ぼくがまだ実家にいた頃に起きた。
ぼくの実家は県の団地である。 ぼくが物心つく前から社会に出るまで、ずっと2階建ての県営住宅に住んでいた。 その頃、周りの平屋の市営住宅が次々と高層化していった。 県のほうも「これではいかん」と思ったのだろう、「ここも高層団地にいたします」というおふれを出した。 そこで、建て替えるまでの約1年の間、市の高層団地で生活することになった。
その高層団地は13階建てで、出来て間もない団地だった。 10階から13階までが県住住民のスペースになった。 ところが、そこにわがままなばあさんがいた。 「私は足が悪いから、そんな高いところでよう生活しきらん」と言うのだ。 13階とはいうものの、ちゃんとエレベーターも完備してあるので、1階や2階よりは湿気の少ないぶん過ごしやすい。 しかも、日当たりは低い階よりもずっとよく、健康的である。 県のほうもそのへんを説明したのだが、ばあさんは頑固で、自分の意見を曲げようとしない。 しかたなく、県も市も折れて、このばあさんに1階の部屋を与えることにした。
そこに住み始めて半年ばかり過ぎた頃、事件が起こった。 朝方、妙に下の方がざわめいている。 何だろうと思って見てみると、パトカーや救急車が停まっている。 ぼくは、さっそく家を飛び出して事情を聞きに行った。 どうやら飛び降り自殺があったらしい。 飛び降りたのはサラリーマン風の男性で、持ち物からそこの住民ではないことがわかった。 みな口々に「迷惑な話ですなあ」などと言い合っている。
その日、会社から帰ると、事件現場には花が置かれ、塩がまいてあった。 家に帰ると、さっそくその話題になった。 母は「落ちた位置がちょうど頑固ばあさんの家の前なんよ」と言った。 「ふーん」 「それでね、ばあさんはさっそく、『こんな縁起でもない場所に住みたくない。家を替えてくれ』と、管理人さんの所に怒鳴り込んでいったらしいよ」 「わがまま言うけ、そんな目に遭うんたい」 「そうそう、管理人さんも、『あなたがわがままを言って、その場所にしてもらったんでしょうが。今更部屋を替えるわけにはいきません』と言って突っぱねたらしよ」 「馬鹿やねえ」 「でも、ばあさんは『あんたに言うても埒があかん。県に訴えてやる』と捨てぜりふを吐いて帰ったらしいよ」 しかし、県や市が動くことはなかった。 結局ばあさんは、残りの半年間を、自殺者の霊が漂う場所で暮らしたのだった。 めでたし、めでたし。
【台風14号】 どうやら台風は去ったようだが、その後台風は韓国に行き、大暴れしているという。
昨日の午後、どうしてもこの台風を見たくなって、玄界灘まで行ってきた。 さぞかし海は荒れているだろうと思っていたのだが、行ってみると何のことはない。 海は、少し荒れているようにも見えたが、さほどではなかった。 この程度なら、わざわざ車を降りて、風を感じる必要はない。 そう思って、ぼくは前々から行こうと思っていた宗像大社に行った。 ここで『沖の島大国宝展』というのをやっている。 その前売り券を知り合いからもらっていたのだが、なかなか行く機会がなかった。 せっかく近くまで来たのだから、行ってみようということになったのだ。
【宗像大社】 宗像大社は交通安全の神様で有名なところで、ぼくは新車を買うたびに、ここでお祓いをしてもらっている。 厄年の時、厄払いをしたのもこの神社だった。 霊能者から聞いたことがあるのだが、この神社の本殿には門番が立っているという。 本殿に魔物が入ってくるのを未然に防いでいるのだと、その人は言っていた。 そういえば、何年か前に母が交通事故にあった時に、ここにお参りに来たことがある。 その門番が立っていると言われている門をくぐった時、なぜか肩が軽くなったのを覚えている。 その時ぼくには、おそらく魔物が取り憑いていたのだろう。
【沖の島大国宝展】 さて、神社に着くと、ぼくはすぐに本殿に行った。 そこでお参りをすませて、その奥にある神宝館に向かった。 国宝展は、この神宝館で行われていた。 中にはいると、銅鏡・土器・勾玉などの装身具・古文書などが展示してあった。 沖の島は一般に『海の正倉院』と呼ばれているので、ぼくはもっと異文化の宝物が展示されていると期待していたのに、こういった遺跡の発掘物のような物ばかり並べられているのを見せられると、何か興ざめしたような気がする。 まあ、中にはペルシア製のグラスなどが展示してあることはあった。 が、その数はわずかであった。
【事件】 国宝展を見終わった後、風が出てきた。 そのため、どこにも寄らずに家に帰った。 家に戻ると、駐車場に数人の警察の人がいた。 何か事件があったらしい。 車を停めた後、そこにいた警察の人に「何かあったのですか?」と聞いてみると、「飛び降り自殺です」と言う。 自殺した人は、すぐに病院に運ばれたが、そこで死亡したという。 身元は不明だが、おそらくマンションの住民ではないだろうと言っていた。 迷惑な話である。 見ず知らずの人間が突然やってきて、血や肉片をばらまいて死んでいく。 始末するのは、そこに住んでいる人たちである。 それだけならともかく、自殺すると地縛霊になるという。 もしそのために、霊障などが起きたらどうするんだ。 自分の勝手な都合で自殺して、肉体のみならず、その霊魂までもが迷惑をかけることになる。 どういう事情で自殺したのかは知らないが、人に迷惑をかけるようなことはやめてほしいものである。
| 2003年09月12日(金) |
休みの日は雨に祟られてばかりだ(後編) |
その呆気にとられている従業員をぼくは呼んだ。 「ねえ、ここに1巻から4巻まで出てるんですけど、残りはありますか?」 本の帯に全6巻と書いていたのだ。 「これは…、お取り寄せになりますけど」 「いいです。取って下さい。で、1巻から4巻までは今日買いますから」
その本が入ったという連絡が、日曜日にあったのである。 別に急いで買いに行く必要はなかったが、1巻から4巻までを一気に読んでしまったので、早く続きが読みたかったのだ。
さて、本を買ってから、すぐに帰ろうと思ったのだが、この本2冊だけでは、2千円に満たない。 このまま帰ってしまうと、駐車料金を払わなくてはならない。 館内をぶらぶらしていたが、別に欲しい物などない。 どうしようかと考えたあげく、食堂街で軽食をとることにした。
食堂街に行くと、新しくレトロ風のレストランが出来ていた。 店を選ぶのも面倒なので、その店に入った。 メニューを見ると高そうなものばかりである。 その時、ある品目が輝いて見えた。 『男の焼き飯 680円』 これで2千円の不足分を補える。
駐車場でレシートを見せると、係の人が「無料でございます」と言った。 1時間停めていたので、もしレシートがなければ300円を取られていたところだ。 ある種の満足感を覚えて、ぼくは店を出た。
それから寄り道せずに家に帰ったのだが、何か心に引っかかるものがある。 「ああ、そうか!」 しばらく考えて、やっと気がついた。 駐車料金である。 『男の焼き飯 680円』なんか食べなくても、駐車料金300円のほうがはるかに安いではないか。 こんな簡単なことに、なぜあの時気づかなかったのだろう。 間抜けにも満足感さえ覚えていた自分が情けない。
「これには、きっと何かがある。その何かが思考を麻痺させているに違いない」 外を見ると、さっきより降りが強くなっている。 雷もあいかわらずだ。 「そうか、この雨のせいだ。この雨が思考を麻痺させているんだ」 6月以来、休みの日はほとんどが雨である。 朝起きると、黒く重苦しい雲が立ちこめている。 この重苦しい風景が、気を重くして思考を麻痺させたのだ。
そういえば、この夏、雨に何度祟られただろう。 売出しのある日はいつも雨が降っていた。 涼しい夏。 おかげで夏物が売れない。 仕事だけではない。 いつも煩わしい事件は雨の日に起きている。 台風の数も例年に比べると、多いような気がする。 おそらく1年分の雨が、この夏降ったのではないだろうか。 もう、いいかげんにしてもらいたいものである。
| 2003年09月11日(木) |
休みの日は雨に祟られてばかりだ(前編) |
一昨日、井筒屋に行く用事があった。 午前中に行こうかと思っていたが、日記がはかどらず、午後から行くことになった。 『キッズウォー5』を見終わり、さて出かけようかと思った時である。 突然空が暗くなり、閃光が走った。 遅れること数秒、「ガッガーン!!」という音がした。 雷である。 それに伴って雨が降り出した。 雨脚は激しく、雨粒は綿雪かと思えるような大粒のものだった。
夕立のようだからすぐにやむだろうということで、テレビ見たりシャワーを浴びたりしながら、雨がやむのを待っていた。 ところが、1時間経っても雨はやまない。 あいかわらず、雷はしつこいほどに光を放ち、我が物顔で声を張り上げている。
雨がようやくやんだのは、4時過ぎで、キッズウォーが終わってからすでに2時間以上経過していた。 その頃になると、もう外に出るのが億劫になっていた。 しかし、用事は用事である。 嫌々ながら家を出たのが4時半だった。
4時40分に井筒屋に到着。 そういえば、5時以降に駐車すれば、何でもいいから1点買い物をすれば駐車料金が無料になる。 それ以前だと2千円以上のレシートがなければ、30分につき150円の駐車料金を取られる。 それを思い出したのが、駐車券を取った後だった。 せっかく出かけるのが遅れたのだから、もう少し遅れて家を出ればよかったのだ。 おかげで2千円以上の買い物をしなければならなくなった。
さて、ぼくが井筒屋に何の用で行ったかというと、その前の休みに頼んでおいた、マンガ『柔道賛歌(原作 梶原一騎 画 貝塚ひろし)』の5巻と6巻が入荷したというので取りに行ったのだ。 その前の休みというのは9月5日だった。 銀行に行ったついでに、井筒屋に寄ったのだが、その時本屋で『柔道賛歌』が出ているのを発見した。
『柔道賛歌』は高校1年の頃よく読んでいたマンガだった。 ちょうどその頃柔道にハマっていた時期だったので、特に印象が深かった。 毎週少年サンデーの発売日になると、学校帰りに本屋で立ち読みしていた。 が、なぜか最終回まで読んだ覚えがない。 その頃は、いつか単行本でも買って読もうと思っていたのだが、気が付いた時には、その本はもはや絶版となっていた。 本屋さんに尋ねてもみた。 しかし、「もう手に入らないでしょう」と言われた。 もちろん古本屋も探してみたのだが、全滅だった。
そういう、長い間探し求めていたものに出会った時、自分でも予期しない行動をしてしまった。 目を見開き、両手を上げ、「うぉー! 柔道賛歌が出とるやん」と大声で吠えたのだ。 周りの人がジロジロとこちらを見ている。 従業員は呆気にとられている。
| 2003年09月10日(水) |
9月の思い出 その9(完) |
宿に着いたのは午後9時を過ぎていた。 実に8時間歩き通したのだった。 宿に着くと、デスクSが待っていた。 「こら、しんた! こんな時間まで何やってたんだ」 「歩いて帰ってきました」 「どこから」 「荒尾からです」 「荒尾からだとぉ? なぜ電車で帰ってこないんだ」 「たくさん電話かけたんで、そんなお金残っていません」 「で、取れたんか?」 「取れませんでした」 デスクSの顔色が見る見る変っていった。 「ちょっと、部屋に来い!」
「お前、昨日の約束、覚えとるだろうな」 「はい、覚えてます」 「じゃあ、帰ってもらうことになるな」 「そうですね」 「『そうですね』って、お前、これで帰って恥ずかしくないんか」 「恥ずかしくありません」 「明日、もう一度頑張ってみようという気にならんとか!?」 「なりません」 「・・・」 「帰らせてください」 「もういい。勝手にしろ」
結局、翌日の朝、ぼくは帰ることとなった。 当初西鉄電車の乗換駅である大牟田まで国鉄を使おうかと思ったが、もう一度荒尾の町を目に収めておきたかった。 そこで、荒尾駅で電車を降り、そこから大牟田まで歩いくことにした。
荒尾から大牟田にかけて、懐かしい風景の連続だった。 工場群、ミュージックサイレン、三池炭坑の社宅群、目が痛くなるメタンガス、何となく古い街並み… 昭和30年代にタイムスリップしたような感覚に襲われたものだった。
会社には午後2時頃着いた。 会社には社長がいた。 「おや、しんた君。どうしたんかね。たしか出張に行っているはずじゃ…」 「デスクから帰れと言われたので、帰ってきました」 「ん? 何かあったのかなあ。まあ、いい。何かSさんの考えがあってのことだろう。で、君はこれからどうするんかね」 「帰ります」 そう言ってぼくは、もう二度と見ることがないであろう社長の顔をじっと見ていた。 「…ま、いい。お疲れさん」 「お疲れ様でした」 ぼくは、そう言って会社を出た。
家に帰ってから、ぼくはこの一ヶ月間というものを総括してみた。 「やたら交通費を遣っただけの、意味のない一ヶ月だった」 と、当時はそういうことで片付けた。
しかし、今考えてみると、「いや、そうではなかった」といえる。 あの頃、自分なりに文章の勉強が出来たし、それが今になって役に立っている。 何よりも、あの陶芸家との出会いは大きなものだった。 少なくとも40歳までは、夢を持ち続けることが出来たのだから。
さて、その翌日から、ぼくは職探しに奔走した。 一度は就職したものの長続きはしなかった。 そして一ヶ月後、出版社から数えると二ヶ月後、ぼくは長崎屋に戻った。
| 2003年09月09日(火) |
9月の思い出 その8 |
【『ふるさとの土をいじる』 陶芸家 ○○さん 彼は学生の頃に陶芸に魅せられたという。 卒業後、他の学生と同じようにサラリーマンになったものの、陶芸を諦めきれずに脱サラ。ある陶芸家に弟子入りした。 「食うていけるかどうかわからんかったけど、これがおれの夢やったからね」 十数年の歳月を経て、ようやくその3年前、この地に窯元を開くことになる。 「今はまだ有名じゃない焼き物だけど、そのうち熊本、いや九州一有名な窯元になってやるよ」 そう語る彼の目は、キラキラと輝いていた。】
ぼくが、もしこの取材に成功し、本に掲載されていたとしたら、上記のような文章を載せていただろう。
30分ほど話し込んだだろうか。 そこにお客さんがやってきた。 ぼくは邪魔しちゃ悪いと思い、帰ることにした。 「それでは帰ります。いろいろいいお話を聞かせてくれて、ありがとうございました。この窯元が有名になるように北九州から応援しています。頑張って下さい」 「あんたこそ、いい詩や音楽を作ってください。期待してます」 ぼくはある決心をして、その窯元をあとにした。
窯元を出たのは12時頃だった。 前日までなら「じゃ、次を当たろう」と電話をかけるところだが、陶芸家と話したことで、「もうそんなことはどうでもいい」という気持ちになっていた。 「じゃあ、これから夜までどうやって過ごそうか?」 何気なくポケットを探ってみると、お金がない。 電話のかけすぎで、その日の活動費を遣い果たしていたのだ。 もちろん昼食代は別に確保している。 「どうしよう」と悩んでも、どうなるものではない。 ぼくは昼食をとることにした。
昼食を食べながら、これからのことを考えた。 「このままこの会社にいても、ろくな事はない」 その会社の給料は5万円だった。 その前に働いていた長崎屋では、アルバイトとはいえ10万円以上はもらっていた。 実に半額以下である。 しかも、北九州から博多までの交通費は一切出ないときている。 そろそろ蓄えも底をつき始めている。 そのままその会社にいても、給料は交通費で飛んでしまう。 というより、赤字である。 前々から「辞める」という言葉が頭の中をちらついてはいたが、そこまでの決心が出来ないでいた。
そこに、先ほどの陶芸家の『夢を諦めるな』という話である。 その言葉に、ようやく目が覚める思いがした。 「またアルバイトでもしながら、夢を追いかけていこう」 ようやく決心が付いた。
午後1時に店を出た。 交通費がないけどどうするか。 じゃあ、歩いて帰ろう。 ということで、ぼくは荒尾から玉名まで歩くことにした。 とはいえ、道を知らない。 しかし、南のほうに歩いていけば何とかなるだろう。 ぼくは道を迷いながらも南に歩いていった。 途中で雨が降り出したが、頓着せず歩き続けた。
| 2003年09月08日(月) |
9月の思い出 その7 |
その夜、デスクSから散々小言を言われた。 「お前、一日何をやってたんだ?」 「ちゃんと電話でアポイントを取ってました」 「で、何件当たりがあったんだ?」 「残念ながら、今日は1件でした」 「どういうところだった?」 「お寺です」 「感触は?」 「住職のほうはよかったんですが、奥さんが渋って…」 「奥さんを説得出来なかったんか?」」 「はい」 「お前、やる気あるんか!?」 「あるから1時間以上も話し込んだんじゃないですか」 「お前を見ていると、イライラしてくる」 「そうですか」 ぼくは憮然として、そう答えた。
「お前、夢はあるんか?」 「ありますよ」 「どんな夢だ」 「音楽のプロを目指しています」 「音楽のプロぉ…? お前、まだそんなことをやっているのか。そんな子供みたいな夢は捨ててしまえ!」 ぼくはカチンと来た。 「夢を言えというから、夢を言ったんじゃないですか。夢を捨てろなんて、あんたにそんなことを言われる筋合いはない!!」 デスクSはたじろいだ。
数秒の沈黙のあと、デスクSは口を開いた。 「このままだと、他のメンバーに示しがつかん。明日うまくいかんかったら、帰ってもらう。わかったか!」 「わかりましたっ!」
翌朝、ぼくは前日と同じように駅前に電話をかけに行った。 ところが、10件かけても、20件かけてもアポイントが取れない。 ぼくは焦ってきた。 デスクSの憎たらしい顔がちらつく。 いったん休憩して、タバコをふかした。 前日の件で、ぼくはイライラしていた。 ようやく気を取りなおして、再び電話をかけた。 それから10件ほどかけた時だったろうか。 ようやくアポイントが取れた。 ぼくは例のごとく時間を指定し、先方に取材しに行った。
その日に行ったのは、窯元である。 ぼくは、陶芸については何も知識を持っていなかった。 が、何とかなるだろうと腹をくくって、玄関をくぐった。 そこは中学にあった技術室といった感じの、殺風景なアトリエだった。 「初めまして。しろげしんたといいます」 「ああ、あんたね、さっき電話してきたのは」 「はい」 「何の用?」 「先ほど電話した通りです」 「取材か」 「はい」 「で、あんたは陶芸について何か知識があるんね?」 「いいえ、まったくありません」 「そうか。じゃあ、話してもしょうがないなあ」 「でも、考え方とか生き方とか、陶芸を離れたところで話が出来るでしょう」 「ははは。ま、それはそうだけど。でも、お金はないよ」 機先を制せられた。
その陶芸家の目はキラキラと輝いていた。 しかし、ぼくと向き合って話をしてくれなかった。 もちろん作業中ということもあっただろうが、「話じゃなく、背中で感じとれ」といった気迫のようなものを感じた。 そこでぼくも話すことを控えた。
十分ほど経って、ようやく彼は話を始めた。 「あんたは、何かやってることあるんね」 「はあ、詩と音楽やってます」 「そうか。やっぱりね。何かそういうもんを感じたよ」 「そうですか」 「夢は大事にせないかんよ。人から何を言われようとも、決して諦めたらいけん」 昨日の今日である。 ぼくはこの言葉にグッとくるものがあった。 「もう取材しません。話を聞かせてください」と、ぼくは手に持っていたメモ帳とエンピツをカバンの中に直した。
| 2003年09月07日(日) |
9月の思い出 その6 |
この会社に入社して3週間が過ぎた。 4週間目の日曜日に、いよいよ初めての出張に出かけることになった。 総勢十数名での出張だった。 行き先は、先にぼくが電話帳を盗みに行った熊本県北部で、引率は予定通りデスクSが行った。
その日の午後、西鉄福岡駅から電車に乗って出発、大牟田で電車を降り、そこからバスに乗った。 宿舎に着いたのは、その日の夕方で、宿舎は玉名駅前にある小さな旅館だった。 旅館に着くと、さっそく部屋の割り振りがあった。 何とぼくはデスクSといっしょの部屋である。 「これは一波乱起きそうだ」、そういう思いが頭の中を駆けめぐった。
仕事は翌日から行われた。 朝、デスクから電話賃と交通費を渡され、活動開始となった。 まず電話である。 ぼくは駅前の公衆電話に行き、電話帳をめくった。 そして、片っ端から電話をかけた。 1時間ほどして、ようやく1件の当たりがあった。 荒尾にある、浄土真宗のお寺だった。
さっそく駅から電車に乗り、荒尾へと向かった。 玉名から荒尾までたった三駅ほどだったのだが、一駅一駅の距離が長い。 北九州市内だと一駅の所要時間は長くても3〜4分程度である。 ところが、このへんは一駅の所要時間に10分程度かかってしまう。 ということで、荒尾に着くまでに30分以上もかかってしまった。
とはいえ、待ち合わせ時間には間に合った。 寺に着くと、さっそく住職が出迎えてくれた。 ぼくは本の主旨を説明し、インタビューへと移った。 ところが、この取材の実に退屈なこと。 古い寺ではあったが、住職は現代的な思想の持ち主で、「檀家が何軒あって…」、「寄付がどのくらいあって…」などという自慢話ばかりしている。 そんな話を聞きに来たのではない。 こちらとしては、若い頃の苦労話や現在の仏教界のありかたなどを聞きたかったのだ。 そこで、こちらから話題を変えることにした。 「実は私の家も浄土真宗なんですよ」 住職は、そこで初めて自慢話をやめ、親鸞や蓮如などの話をしだした。 しかし、一般的な話ばかりで、記事になるような話はほとんど聞けない。
退屈だったとはいえ、いちおう取材を終えたぼくは、最後に掲載費の話をした。 「今までの話をまとめて記事にしたいと思うんですが、この本への掲載費は24万円ほどかかりますが、どうされますか?」 そこで住職は奥さんを呼んだ。 「この人も真宗の檀家さんで、今度この寺のことを本に載せたいと言ってきたんだけど、どうする?」 住職は乗り気だったのだが、どうも決定権は奥さんが握っているらしい。 「いい話じゃないですか」 「でも、本に載せるためには24万円ほどかかるらしい」 「24万…」 「ああ」 「お金がかかるんですか。それならお断りしましょう」
「女房がああ言うもんで、残念ですが、お断りします」 とはいえ、住職は未練たらたらだった。 そういうことで、初日の活動は失敗に終わった。
| 2003年09月06日(土) |
9月の思い出 その5 |
さて、研修期間が終わり、いよいよ活動開始となった。 まずは手始めに、福岡市内の魚屋をあたれという指示が出た。 朝から電話をかけまくった。 もちろんマニュアル通りに話さなければならないのだが、ぼくは無視してぼくなりの言葉で話した。 「月刊○○のしろげしんたといいます。本日電話したのは、最近子供たちの魚離れということが世間で言われてますが、そういう風潮を魚屋さんがどう捉え、またどういう苦労をされているのかをぜひ聞きたいと思いまして、電話をかけた次第です。都合のいい時間がありましたら、こちらから取材に伺いたいと思うのですが」、という具合である。
反応は悪かった。 鮮魚業界全体が四苦八苦やっていた頃なのに、そんな暇があるはずがなかった。 第一、こういう電話は実にうさんくさい。 ぼく自身も、後にこういう電話を何度かもらったことがあるが、そのたびに断っている。 だいたい、『月刊○○』というのを、どれだけの人が知っているというのだ。 知りもしない雑誌の取材に誰が応じてくれるというのだろうか。 ところが、世の中にはおめでたい人もいるもので、「ぜひ来てください」などという人も中にはいるのだ。 おそらく名誉欲や自己顕示欲が強い人なのだろう。 そう、この会社は、そういう人たちを食い物にしていたのだった。
熊本に出張するまでの間、こういう電話ばかりかけていた。 午前中にうまくアポイントが取れれば、午後からその取材に向かう。 取れない場合は、午後から再び電話である。 ぼくはこういう電話をかけるのが大嫌いだったため、極端に成績が悪かった。 とはいえ、ぜんぜん取れなかったわけではない。 何度か、そういうおめでたい人に当たった。 そこでさっそく喜び勇んで会社を出る。 先方に着いて、取材も滞りなく終わる。 ところが、最後でいつもつまずいた。 そう、掲載料である。 そこまで、快く取材を受けていた人も、掲載料の段になると、急に態度が変った。 「なんだ、金がいるんか。そんなわけのわからん本に金なんかださんわい」 「そういうことだろうとおもっとったばい」 「帰れ!」 そう言われるたびに、ぼくはこんな仕事に嫌気がさしていった。
実は、研修以来、ぼくはこの仕事に矛盾を感じていたのだ。 それは、こういう電話のかけ方や掲載料の取り方は真剣に教えるくせに、ライターの命である文章の書き方などは一切教えてくれないからだった。 そのへんをデスクたちに質すと、「君たちはプロなんだから、そういうことはちゃんと自分で勉強しなさい」と言って、相手にしてくれない。 そこで、ぼくの本屋通いが始まるのだが、本屋でそういう関係の本を読めば読むほど、その会社が、一般の出版業界とどれだけかけ離れているかがわかった。 そのうち、「何とくだらん会社に就職したんだ」と思うようになってきた。
| 2003年09月05日(金) |
9月の思い出 その4 |
そういえば、電話帳で思い出したのだが、研修がすんでしばらくたってからのこと。 午後4時半頃だったろうか。 デスクSが突然、「おい、しんた」とぼくを呼んだ。 「何ですか?」 「今度、熊本県の荒尾方面に取材に行くことになった。そこで、今から電話帳をもらってきてほしいんだが」 「どこにもらいに行くんですか?」 「荒尾」 「え、荒尾に今からですか?」
荒尾は、北九州とは全く逆の方向である。 その時間から荒尾に行くとなると、帰るのは何時になるかわからない。 しかも、荒尾になんて行ったこともない。 そこでぼくは、小さな抵抗をした。 「北九州とは、ぜんぜん逆方向じゃないですか」 「他に人がいないんだよ」 「もう電話局だってしまっているし」 「電話局じゃなくていいから」 「じゃあ、どこでもらうんですか?」 「公衆電話にあるだろう。そこで職業別のやつを、4,5冊もらってくればいいんだ」 「盗ってこいということですか?」 「ま、そういうことになる」 まさか、泥棒してこいというとは思わなかった。
渋々ぼくは荒尾に行った。 着いたのは、6時過ぎだった。 駅前の公衆電話の周りをウロウロしていたが、盗る気になれない。 しかたなく、駅から離れた場所に行くことにした。 しかし、今度は公衆電話がない。 しばらく歩いていくと、商店があった。 そこでぼくは、ジュースを飲むことにした。 「ごめんください」 「はーい」と言って出てきたのは、店のおばちゃんだった。 「ジュースください」 「はい」 ぼくがジュースを飲んでいると、おばちゃんは「今お帰りですか?」と聞いた。 「いや、まだ仕事中なんですよ」 「大変ですね。営業か何かですか?」 「いや、電話帳集めてるんです」 「え、電話帳を…?」 「今度仕事でこちらに来るもんですから、ちょっと必要になったもんで」 「もう電話局しまってるでしょ」 「はい」 「それは困ったねえ。いくついると?」 「4,5冊なんですけど」 「古いのでもいいと?」 「ええ、何でもいいです」 「ちょっと待ってて」 そう言って、おばちゃんは奥に入っていった。
しばらくしておばちゃんは、「やっぱりないねえ」と言いながら、出てきた。 手には一冊の電話帳を持っていた。 「これでよかったらあげる」 見ると2年前の電話帳だった。 「前はたくさんあったんだけど、この間捨てたもんね」 「もらっていいんですか?」 「いいよ。もう使うもんじゃないし」
荒尾に着いて1時間近く。 ようやく一冊を手に入れた。 店を出てから、再び公衆電話を探した。 辺りはだんだん暗くなっていく。 このまま公衆電話を探していたら、家に帰れなくなる。 そう思ったぼくは、駅に戻ることにした。 そして駅から会社に電話した。 電話にはデスクSが出た。 「しんたです。何とか一冊見つかったんですけど、このへんの公衆電話にはまともな電話帳が置いてありません」 「おお、そうか。お前が出たあとに思い出したんだけど、電話局に行けば全国の電話帳が手に入ったんだった」 「え…」 「もういい。帰ってこい」
そんなことは早く思い出してもらいたいものである。 しかし、まあ泥棒だけはせずにすんだ。 ぼくが会社に戻ったのは、午後9時を回っていた。 もちろん、デスクSはもう帰ったあとだった。
| 2003年09月04日(木) |
9月の思い出 その3 |
この会社は福岡市にあった。 自宅から折尾駅まではバスで、折尾駅から博多駅までは国鉄で、そこから会社まではバスか、当時まだ走っていた路面電車で通っていた。 時間にしてだいたい1時間程度だったが、料金が馬鹿にならなかった。 往復すると2千円はかかるのだ。 そこで定期券を買おうと思った。 ところが、会社は「出張が多いので、定期券は買わないほうがいい」という。 しかも、「交通費は出張時以外は払わない」ということだった。 北九州から通っている人は、ぼく以外にも何人かいた。 その連中も、この話を聞いた時には難色を示した。 しかし、会社側はその答を用意していた。 「北九州から来ている人が何人かいるけど、交通費が大変だと思います。しかし、心配しないで下さい。2,3ヶ月後に北九州支社を開業する予定になっています。あなたたちは、その要因として採用されたのですから」 確かに、求人広告には『北九州支社、近日オープン』となっていた。 が、それまでの交通費を考えると憂鬱な気分になった。
さて、1週間して、ぼくたちの研修は終わった。 仕事の内容も、漠然ながら理解出来た。 要は本を作る仕事である。 その本とは、グラビア誌的な情報誌といった感じのものだった。 そこには、九州経済の動きや、著名人へのインタビュー、イベントの紹介、観光地の紹介などが書かれていた。 その中に人物紹介のページがあったのだが、そのページを、ぼくたち新米が埋めていくのだ。 毎月のテーマを決め、そのテーマに関連した職業の人たちを電話帳で探し、そこに電話をかけていく。 そこでアポイントが取れてから、はじめて取材に行く。 会社には、アポイントを取るためのマニュアルが用意されていた。 電話をかける時は、そのマニュアル通りにしゃべらなければならない。 研修中、毎日その訓練をさせられたものだった。
取材ももちろん自分でやる。 インタビューは当然のこと、時には写真まで自分で撮らなければならなかった。 そうやって取材した内容を、記事としてまとめるわけである。
ここまでは、一般のライターでもやることだろう。 ところが、この会社はここからが違った。 それは、取材した人を本に載せる場合、掲載料を取ることだった。 こちらから頼んでインタビューに行くのだから、何で金を取る必要があるのだろう。 これでは広告業と変らない。
| 2003年09月03日(水) |
9月の思い出 その2 |
それから1週間は研修期間だった。 デスクと呼ばれる人たちが、入れ替わりでぼくたちの教育をした。 そこでいちおうライターの心構えなどを習ったが、何かわざとらしく感じたものだった。 「フリーライターとは、振りをするライターのことだ。その振りをするためにも、プライベートな本名は捨てろ。この会社では、すべてペンネームで呼ぶことになっている」 ということで、最初の宿題はペンネームを考えることだった。 しかも、ありきたりな名前ではなく、なるべく印象に残るような名前にしろという。
当時ぼくは、いろんなペンネームで詩の投稿をやっていたので、ペンネームには事欠かなかった。 そこで、その当時一番気に入っていた『山原ほうぼう』というペンネームを使うことにした。 すると、デスクはそれが気に入らないという。 「しんた、なんだこのペンネームは!? こんな芸能人のような名前を使う奴はものにならんぞ。他のを考えてくるまで、お前の名刺は作らん」 ぼくは憮然とした。 「何とか言いながら、充分印象に残っているじゃないか」、そう思いながら、別のペンネームを提出した。 新しいペンネームは、本名に近いものだった。
その期間中、もう一つ宿題を出された。 『喫茶店』というタイトルの文章を書いてこいというのだ。 ちょうど喫茶店にはまっていた時期だったので、喫茶店ネタには困らなかったが、普通の作文のような文章は苦手である。 いろいろ考えたあげく、すべて「」括りの会話文を書くことにした。 この日記では頻繁に使っているが、会話文はその時初めて試みたものだった。 内容はたわいのない日常会話だったものの、会話の中に喫茶店の雰囲気を盛り込むことには苦労した。 原稿用紙にして4枚。 あまり長くなってもいけないので、その程度でやめておいた。
提出したのは、二日後だった。 すると、またしてもペンネームデスクがケチを付けた。 「しんた、お前は何を書いているんだ」 「『喫茶店』です」 「喫茶店はわかるけど、なんか、この文章は」 「新しい試みです」 「新しい試みぃ? そんなの必要ない!」
ペンネームデスクはSという名前だった。 ぼくは最初からこの男が気に入らなかった。 入社した当日、このSから、「しんた、お前は北九州弁丸出しだなあ。こういう業界にいるんだから、ちゃんと標準語で話せよ」と言われた。 じゃあ、彼が標準語を話しているのかというと、そうではなかった。 確かに、「〜しちゃってさ」などというSの言葉の使い方は標準語に近いものだったかもしれないが、彼には、彼の出身地である筑後地区独特のなまりがあった。 彼がぼくの北九州弁が気に入らないように、ぼくはSの筑後なまりの標準語に嫌味を感じていた。
ま、言葉はともかくも、元々ぼくとSは合わなかった。 性格が合わないというか、生理的に合わないというか。 とにかく、好かんもんは好かん、である。
もうひとつの原因は、Mさんがぼくを気に入っていて、ぼくがMさんを慕っていたというのがある。 そのへんをSはよく知っていた。 おそらく社長から聞いたのだろう。 しかし、このことが後々響くことになる。
| 2003年09月02日(火) |
9月の思い出 その1 |
『救いのない夜』
何がぼくを変えたのですか。 一人の陶芸家ですか。 たわいのない夢ですか。 力のない口ぶりですか。 君への焦りですか。 納得のいかない仕事ですか。 金のないつらさですか。 退屈な日々の仕業ですか。 変に気取ったあの人たちですか。 夜に響く雨音ですか。 今朝のコーヒーの味ですか。 語る言葉の寂しさですか。 時折夢見る苦しさですか。 安らぎのない生活ですか。 片輪な心へのいらだちですか。 そんなぼくの生い立ちですか。 ひとりぼっちの寂しさですか。 救いのない… 救いのない… 救いのない夜ですね。
23年前の9月、それまで働いていた長崎屋を辞め、ぼくは出版社に勤務することにした。 新聞の求人欄でその仕事を見つけた。 仕事の内容はライターだった。 いちおう就職試験なるものがあった。 生まれて初めて受ける就職試験だった。 試験官は、「さほど難しい問題は出していません。新聞を読んでいれば、簡単に解ける問題です」と言った。 しかし、当時新聞を読む習慣のなかったぼくには難問だった。 どんな問題だったのかは忘れたが、とにかくまったく解けなかったというのだけは覚えている。
次は面接である。 筆記がぜんぜんだめだったぼくは、半分やけになっていた。 面接を受ける時、まず面接官を睨み付けた。 面接官は言った。 「あんたは自分の性格をどう思うかね?」 「我の強い人間です」 「ははは、確かに我の強そうな顔をしとるな」 「そうですか」、とぼくは憮然として言った。 「筆記はどうだった?」 「あんなもん、わかるわけないじゃないですか」 「あんた面白いな。ここに向いてるかもしれん…。よし、決めた。明日から来い」 この会社に受かった人には、電報が届くようになっていた。 が、その面接官は「あんたには電報打たんから」と言って、さっさとぼくの入社を決めた。
翌朝、会社の扉を開くと、そこに社長がいた。 「おめでとう。君も電報が届いたんかね」 「いや、電報はもらっていません」 「え?」 「面接の人が『明日から来い』と言うんで、来たんです」 「面接は誰がした?」 「たしかMさんだったと思いますけど」 「そうか、Mさんか。よっぽど君のことが気に入ったんだなあ」 社長の話では、そのMさんはかつてT新聞の敏腕記者だったということだ。 「そういう人に気に入られたんだから、頑張ってよ」 社長はそう言いながらも、嫌そうな顔をしていた。 その時ぼくは、『このおっさんとは、きっと合わんだろう』と思ったものだった。
その中でも、特に盛り上がっているのが、西日本新聞である。 マジックが点灯した翌日の朝刊、何と1面にデカデカと載っていた。 さらにその日は、スポーツ面はもちろん、社会面にも関連記事が載っていた。 マジック点灯ごときで1面に載るなどということは、全国紙ではあり得ないことだ。 さすがは地方紙である。
ところで、前にも書いたことがあるが、ぼくは、その西日本新聞をとっている。 別に書いている内容がいいからとか、主張が好きだからとかいう理由でとっているのではない。 どの新聞よりもホークスの記事が多く載っていて、しかもホークスが優勝したらホークス関連のグッズをもらえる。 そういう理由から、この新聞をとっているのである。
ところが、先日先輩にあった時にこんな話を聞いた。 その先輩も西日本新聞を取っているらしいのだが、西日本新聞が勧誘に来た時に「夕刊まで取ってくれたら、西日本スポーツ(西スポ)もお付けします」という特典をつけてもらったそうだ。 ということで、その先輩は、今でも西スポも入れてもらっているという。 うちの会社も、スポニチを入れるという条件で、毎日新聞の朝夕刊をとっている。 ところが、うちは、同じ販売店から西日本新聞朝夕刊に加え、産経新聞まで取っている。 それなのに、西スポは入らない。 これは考えものである。 優勝グッズや洗剤でごまかしやがって。 次の契約の時、ちょっとごねてみる必要がある。
さて、マジックに話を戻すが、マジックといって真っ先に思い出すのは、ダイエーホークスが初めて優勝した1999年のことである。 もちろんこの時、球団史上初のマジックが点灯したのだが、選手は「マジック」と言われてもピンとこなかったらしい。 城島なんかは、記者団に対して「マジックって何ですか?」と聞いていたという笑い話があるくらいだから、おそらくそれまで、チーム内で優勝の話題など出たことがなかったのだろう。 1989年の球団創立以来、それまでの最高位は98年の3位(同率3位だったため、前年の実績から4位扱いになった)だったので、それもうなずける。 それを考えると、今は強くなったものである。 それ以降、99年優勝、00年優勝、01年2位、02年2位、03年おそらく優勝、といつも優勝がらみのチームになっているのだから。
ホークスが最下位あたりをウロウロしていた頃の話だが、たまに勝った時のヒーローインタビューで、選手が「優勝を諦めたわけではありません!」と力強く言っていた。 そのインタビューを聞きながら、いつもぼくは期待とともに空しさを感じていたものである。 「残り40試合。あと30勝すれば、今季の勝ち越が決まる」と勝ち越しマジックを計算していた時代も、今となっては遠い昔のことのように思える。
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