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19??年 硝子工場として操業、輸入した硝子を加工・輸出。 1940年 硝子工場閉鎖、長崎の川なみ工業株式会社の、浦の崎造船所として主に貨物船の製造を開始。 1943年 戦時中に軍需指定工場となり工場を拡張、従業員数約2500人。 当初は輸送船、海防艦等の製造が中心だが終戦間近には 特殊潜航機である人間魚雷や自爆艇であるベニヤボートも製造。 規模も大きく海沿いでアメリカの攻撃目標になりやすく、 原爆投下前に襲撃したB-29による機銃掃射の痕がコンクリート壁に残る。 1945年 終戦と同時に軍需指定解除。 1946年 株式会社浦の崎造船所と社名変更、次いで伊万里湾重工業株式会社と変更。 主に船舶・鉄道車両の建造、修理。 1955年 倒産・閉鎖。
廃墟となってから半世紀、築年数では恐らく70年を超えています。 この造船所が建っているのは実は土地と言える場所ではなく、海に流れた土砂ということになっており 土砂の所有者が複数人いるので曖昧になり取り壊されずに廃墟になっているらしいです。 今はコンクリートの門、二階建ての外壁、柱、天井、金属製の窓枠等が崩れながらも残っています。 二階へ通じる階段は崩壊、梯子は地上から170cm程のところにあり、70年物の金属製で危険。 とある来訪者が違う場所にロープを仕掛けたらしいんですけど、これも最近は・・。 二階を支えている一階の柱も崩れているらしいです。 春から秋にかけては草木が生い茂り、建物の半分以上を覆い隠してしまいます。 そうなると海側へ回ることも困難です。回れても運悪く満潮だと、遺構付近は歩けません。 内部の柱には「生産は一に安全二に健康」 「安全はあなたを守る国守る」「安全は器具と心のおきどころ」 などの有名な標語があります。
この川南工業は独特な船の造り方だったようで。 船体のパーツを造船所内で別々に造ってドックではそれらの溶接のみ行い、ドックの回転を早めていました。 同じ規格の船を量産するのが得意で、戦時中も主に船体の形状・規格の決まった戦時標準船を製造。 終戦までは三菱長崎造船所と生産量を競うほどだったけど その後は会社内秩序の乱れ、経営悪化で破産宣告を受け倒産。
こないだ買った九州遺産という本には何故かあまり載っていなかった。 針尾の無線塔や端島や、生産量を競った三菱長崎造船所は載ってるのにね。
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