多分、記念碑的な日々�た諭� - 2004年06月25日(金) 小児病棟というところは、いろいろな人生物語が交錯する場所だ。子ども時代の多くをそこですごす子もいるし、出たり入ったりを繰り返す子もいる。おKさんが入院した県立病院は院内学級施設もあり長い治療に耐える子らも多い。また新生児ICUがあるので、産後間もない産婦さんが母乳を届けに通ってらしゃったりもしていた。 そんな中、おKさんが同室になったのは6歳児のAちゃんと4歳児のBちゃん。いずれも喘息さんだ。Aちゃんには4歳の弟がいておKさんには6歳の姉、1号がいるわけで、同室の方にそれぞれ家に残してきた今ここにいない兄弟児の姿を重ねてなんとなくしんみりとしたり、喘息のやり過ごし方を語り合ったり、母同士はとても親近感を持って暇な付き添いライフをおしゃべりして過ごした。 どの家も基本的には母が付き添っていたが、ときどき実家のお母さんやお姑さんや夫さんが現われて、付き添いを交代してメイン付添い人の母親を解放してくれていた。 特筆すべきはAちゃんママの実家のお母さん(Aちゃんのおばあちゃん)。冬ソナにはまっていて、噂のポラリスのネックレス(韓国語で"もっこり"タレコミBYらいむさん)を胸に現われる上品な老婦人なのだがなんだか物凄くマルコと話があって、別れる時にマルコに1冊の本をくれた。島田洋七著の「佐賀のかばいばあちゃん」というなんだかすごい題名の本で戦後の大混乱の中、孫を育てることになった祖母とその周囲の人々の話だった。 実母が隣のベットの入院患者の付添い人(マルコ)に本を進呈していることに気付いたAちゃんママはギャっと叫んで申し訳なさそうにマルコを拝んで頭を下げていたが、本は意外にも大変面白かった。孫の養育に関わっている祖母が読んだら確かに泣けるかも、という内容であった。 またAちゃんのママは眼科医さんでAちゃんママの実家のお父さん(Aちゃんのおじいちゃん)も眼科医さんだそうだ。今は引退したおじいちゃんの医院でAちゃんママは開業医さんを普段はしてるのだけど、Aちゃんの入院中は引退したおじいちゃんが復帰してママに代わって診察をしてくれてるのだそうな。 このおじいちゃんは若いころ日赤からネパールの無医村に派遣されたことがあったという。栄養失調から来る白内障の手術をネパールの村で「切って切ってきりまくる」という感じで執刀したと話してくれた。 Aちゃんのママは大学病院の勤務医時代にAちゃんを生み、当然復帰するつもりがAちゃんの喘息のために勤務医を「降りて」今は開業医に甘んじている。でも必ず何らかの形で返り咲きたいという話をきいて、マルコはなんとなく泣けてしまった。どんな立場の人も皆、もがいている。 実家のヘルプもあって、開業医出来てるんだからいいじゃん、という意見もあるかも知れないけど、やれるはずだった仕事、やるつもりだった仕事を降りてきた者の切なさ、それを取り戻そうと思いながらいつ終わるともわからない「病(やまい)」という夜を子とともに過ごさねばならない焦燥はとても理解できた。Aちゃんのママとはいろいろ話したけど、この焦燥の話が一番ずきんと来た。そりゃあ島田洋七もよかったけどさ。 皆に先駆けておKさんの退院が決まったころには、窓の外はすっかり夏だった。 ... 多分、記念碑的な日々�J�物 - 2004年06月24日(木) 夕方から夜にかけての2時間は娘1号さん@6歳児とマルコが1日のうちで唯一ともに過ごせる時間。はっきり申し上げて私どものラブラブタイムでございます。 しかしこの2時間は意外と忙しい。 娘の宿題をチェックして、音読を聞いてやり、あしたの持ち物を整える。さらに洗濯物を取り込んでたたんで、夕食を温めて2人で食べ、お風呂に入り、喘息薬を投薬し、水いぼの薬を塗ってやる。そうした一連の作業後、娘とともにバスに乗り、県立病院にいきあめでおさんと付き添いを交代する。 限られた時間。定められた行程。割とゆっくりと物事をこなす1号さん。 しかしこの2時間の1番大きな目的はとり残れた1号さんの精神の安定に在るとマルコは考えている。(まあ風呂に入るのも大事だけどさ) そんなわけで母の不在で不安定になっている1号さんに対してマルコはしかることはおろか、声を荒げることもすまいと心に決めた。 マルコがこの2時間1号さんに発していいメッセージは「心から愛しているよ。」だけ。これは結構忍耐の要る作業である。 夜空を見上げながらバス停に向かう道すがら1号さんはマルコに語る。 1号「前に1号ちゃんの宝物は『おK』って書いたけど、本当は『おK』と『おかあちゃん』の2つなの。」 マ「ありがとね〜。おかあちゃんの宝物も1号ちゃんとおKさんと2つだよ。おKも1号ちゃんとおかあちゃんのことを宝物って言ってるよ、きっと。」 1号「おKとおかあちゃんは宝物のうちの1コといっしょに居れていいね。1号ちゃんは宝物2つともとはなれていなきゃいけないの。」 星がちょっと潤んでる。 でもバスの時間に遅れるわけには行かないので1号の手を強く握り、バス停への道をいそいだ。 ... 多分、記念碑的な日々�∧個� - 2004年06月23日(水) 基本的に夜はマルコが病院に泊まりこみ、超不機嫌のkさんと向き合い、あめでおさんが家で1号さん対策にあたった。 朝からマルコは病院でおkさんの各種検査・治療のフルコースの番人をする。17時ころ勤めを早引けしたあめでおさんが交代にいらっしゃるのでマルコはバスに乗って帰宅し1号さんを学童保育室に迎えに行く。そこから約2時間、1号さんと夕食を食べ、宿題の音読を聞いてやり、一緒にお風呂に入って、少しばかりの家事をする。20時前、病棟の消灯時間前に病院に到着するべく1号さんとバスに乗って病院にもどる。病院で再びあめでおさんと交代し、あめでおさんは1号さんと家に戻り1号さんを寝かしつける。翌朝あめでおさんは1号さんを学校へ送り出し、自らも出勤する。 マルコが非常勤講師稼業に勤しむ日は、あめでおさんは休暇をとって午前中から病院詰を交代してくれる。 そんなわけであめでおさんは朝に、マルコは夕方にそれぞれ2時間ずつ家事労働に勤しむ時間をもった。 朝あめでおさんが干した洗濯物を夕方マルコが取り込んで片付ける。朝あめでおさんが作ってくれた味噌汁を夕食にマルコと1号さんがかき込み、明日の朝のために炊飯器をセットする。 短い通信文を取り交わすような細切れの家事作業が積み重ねられ、かろうじて家の秩序は維持される。 家にもどるとちょっとだけ手が加えられた家事作業の痕に今そこにいない人の気配と家事にこめられた伝言を受け取る。 「元気ですか?娘1号の学校の準備はしてあります。」 「お疲れ様です。ご飯をちゃんと食べてください。」 「洗濯物を干しました。明日着ていく服は大丈夫ですか?」 ... 多分、記念碑的な日々�‖翩�一過 - 2004年06月22日(火) 大きな台風が来て去った良く晴れた日、おKさんは肺炎一歩手前の気管支炎で県立病院に入院した。 その後1週間にわたっておKさんは病院で暮らした。病院では家族による付き添いが24時間要求される。そんなわけであめでおさんとマルコは病院(おKさん)、家(1号さん)、それぞれの職場という3つのポイントの間を綱渡りでリレーしながらの1週間を送ることになった。 多分この1週間のデキゴトは長く家族の間で「あの時は修羅場だったよね〜」と語り継がれることだろう。 そんな記念碑的日々の逸話をいくつか書き留めておこうと今病院のベットでおKさんに添い寝しながらヘッドランプの明かりを頼りにこの文章を書いている。 病院って20時就寝、6時起床なんだよね。マルコの活動タイムはすっぽり闇の中。 ... 教唆と金剛石の街 - 2004年06月20日(日) 父の日です。皆様いかが対処しましたか? 母の日で気合入れると相対的に忘れてしまう父の日への対処ですが、ここで忘れると父が「どうせ君たちは母さんだけが大切なんだ。ふん!」といじけますので忘れても直近で注文できるプレゼント屋を確保しておきましょう。 今年は掲示板の板友さんから父の日プレゼントネタを前もって情報収集しておいたのですが予定していたかつおのたたき屋さんがネット販売を〆てしまったらしく、また「あ、父の日じゃん」と気付いたのが前日だったのでそこから検索して「平宗の柿の葉寿司」をさっくり注文しました。現在旅行中のマルコの父には余裕で間に合うとして、家でまったりしているあめでお父にもちゃんと父の日当日の朝に届いた模様。発注から24時間以内で届くとは、便利な時代でございます。 さて私たちは子どもとして父の日に何事か企てる身の上であると同時に、子の親として何事か企てられる身の上でもあります。 保育園というのはなんだか年中、企ててる場所でしたので1号さんが3歳になったくらいから、父の日母の日には折り紙のカーネーションやら読めないお手紙やらほろっと来ちゃう企画物をいただいてたのですが、小学校は企画してくださいません。今年の母の日は1号さんに何もしていただけなかったマルコでございます。このたびの父の日ですが父の日で1号に愛をアッピールさせてあめでおさんのますますの育児参加を促すべくマルコは1号さんに教え唆します。 「1号さん父の日だよ。なんかしなよ。」 企画好きの1号さんはいそいそと折り紙で赤いカーネーションを作り「おとうちゃんいつもありがとう。またいっしょにあそぼうね。」とツボを抑えたメッセージカードをかいてあめでおさんい渡します。よくやった。1にちあめでおさんは家庭サービスに燃え、夕食には手打ちうどんまで打っちゃう気合の入れようでした。おかげでマルコは鼻くそほじってご飯が出来上がるのを待っておりました。 昼間は橿原に出来たという「ダイヤモンドシティ」に参りました。巨大です。噂では東洋一のでかさらしいですが確かにフィリピン・マニラのメガモールといい勝負です。 専門店がいっぱい入ってるんですが店舗の面積がでかくレイアウトが余裕たっぷりなんですわ。しかしこの店の群を十分うるわすだけの購買力が私ども奈良県民にあるのかちょっと不安です。このごろ奈良は巨大ショッピングモール出店ラッシュなんですわ。話の種に1回行っとこうと一回ずつあっちこっち行ってますが、多分一回限りでしょう。ああいうとこ行くとおKさんが興奮して暴走するので。 ... 旧友の近況 - 2004年06月15日(火) 仕事関連のネット検索をしていて、突然古い友人の消息が明らかになる。東京で同じ立場でバイトしていた彼は現在某政治家の政策秘書でこの前の衆院選には本人自ら出馬し、そしてダメだったらしい。 真っ直ぐで純情な彼が政治の世界で苦労してないかちょっと心配しながら、ハンサムで長身だし「ビジュアル的に向いてるかも〜」とも思う。まあなにより哲学のある人だったので彼なりの哲学の実践の場が在るといいね、と素直に思う。 しかしキャッチフレーズが「働き盛りの40歳」というのにのけぞった。彼とナゼか彼の妹ぎみと3人で高田馬場の居酒屋で飲んで夢を語った時、確か私は26歳で彼は30歳だったと思うのだが。過ぎ去った10年は私たちを随分遠い場所に押し流した。 遠い空に向かって「がんばれ」と小さく呟いてみる大学コンピュータルームの午後。 ... 梅雨の週末 - 2004年06月13日(日) 梅雨ざんす。今週末は土曜に1号さんの喘息の定期検診でございました。でも雨なんで、家の前のバス停から奈良市行きのバスにのり、一気に近鉄奈良駅まで移動し、いつもの喘息医詣でをします。その後奈良女子大の方にあるレストランのランチバイキングで昼食。そのレストランのちょっと先にマルコとあめでおさんが新婚旅行時に利用した某公共宿泊施設があり、興味なさげな娘2人を引きずって懐かしい公共宿泊施設を見に参りました。 しかし新婚旅行、奈良ってどうよ?しかも公共施設泊ってさ。 当時あめでおさんオーバードクター、マルコも青年海外協力隊帰国直後で高校非常勤講師しててお金なかったんでした。嗚呼青春の赤貧ライフ。赤かったり青かったりしています。まさか奈良に住む事になろうとはあの折は想像もしなかったねえ。 その後、奈良国立博物館の法隆寺展なんて観ちゃいました。展示室に入ってすぐおKさんが爆睡しちゃったので、おKさんをソファーに寝せて、マルコ・1号組とあめでおさん組に分かれて交代で展示物を見ます。おKさんが2時間近く眠ってくれてたおかげさまで、かなり法隆寺展堪能しました。 しかし毎日法隆寺の近くで暮らし、週末のたんびに「法隆寺友の会」証を使って奥深く参拝しているのに、博物館の特別展示まで見ちゃうこの熱心さは何事? でもね、見にきてよかったです。すごかったのは聖徳太子直筆の法華経写経本!こういう字書くヒトだったのね〜。って感じです。 法隆寺のものだけでなく宮内庁の所蔵品やスイスのチューリッヒの美術館から借りてきた同時代の仏像なんかも良かったし、日ごろは薄暗い法隆寺金堂の中にあってどうなってるのか良くわからない釈迦三尊像の天蓋や台座もばっちり展示してあって面白かったですわ。 法隆寺展の出口のところで茶席が設けてあったので、思わずお抹茶を飲みに参りましたが寝起きのおkさんが今ひとつ機嫌悪くて他のお客さんに申し訳ないことをしました。 その後また雨だったので博物館前からバスに乗って自宅前までばびゅ〜んとかえってきました。抹香臭くも楽しい週末でございました。 ... 4月の晴れた空のした(番外編)〜私が今井君だったころ - 2004年06月12日(土) もうこの日記実名で書いちゃおうかな。読む人が読めば私が誰だかばればれです。 前回の「いちかばちか」で挿入しようと思った経験談が意外と長くなっちゃったので番外編として別編集しました〜。 私事で恐縮ですが、私は10年ほど前2年間アフリカで青年海外協力隊やってました。青年海外協力隊はご存知外務省派遣で公用パスポートもってお国を背負っていくのです。そんなわけで出発前は天皇一家と歓談させてもらったり、無事任期終了すると外務大臣から感謝状もらったりします。わたしも今話題の浩宮さんと話しました。賢い感じの人で、ものすごい博識でした。あと河野洋平名義の感謝状があります(田中真紀子の感謝状の方が後で話のタネ的には受けたかも、残念)。 任国のケニアでは協力隊も専門家もその他政府派遣の人々は治安の維持されているケニアの南半分の地域でのみ活動し、北半分への立ち入りは基本的に禁止されていました。行きたければJICAケニア事務所に内緒で行ってねってかんじでした。 治安の維持されている南半分は現政府の支配エリアで、北半分の遊牧民の皆様がいるエリアはソマリア・エチオピア・スーダンに国境を接し、とくに当時アメリカのPKF部隊が入っていたソマリアに近い北東部にはロシア製の大変よろしい武器を持った盗賊の皆様がいらっしゃるので絶対行くな、と厳命されていました。 マルコはセントラルハイランド(中央高地)の北東部の街で勤務しており、私の住む街の30キロほど北にある街が日本政府関係者が行ける北限だったのを覚えております。 しかし旱魃で餓死の危険性が出たり本当の支援が必要なのは北半分に暮らす人々だったと思います。旱魃が来ると遊牧民の皆様の間では牛泥棒が流行って治安が麻のように乱れると言う新聞記事を読んだりしました。 さて私の街には時折日本人のNGO活動家(仮にOさんといたします)が訪れていらっしゃいました。そのOさんはソマリア国境にほど近いガリッサと言う町でNGO活動をなさっておられ、ケニア人の奥様が私の住む街で小学校の先生をなさりながらお子様と暮らしていたので一月に一回くらいガリッサと言う街から400キロほどの道を超えて私の街に通っていらっしゃってました。Oさんはガリッサで小学校建築や給水活動をなさってました。外務省の「草の根無償」と言うスキームの補助金を年間100万円ほど得て活動なさってました。 ガリッサと言う街はもちろん私たち政府関係者にとっては禁足地です。うかつに行って事故やら盗賊に会いすっぱり死ねれば良いが、生き残って帰ってきて「クレジットカード盗難の被害届」でも出してJICAケニア事務所にそんな場所行ったのがばれれば即帰国を命じられたことでしょう。 ところがこのマルコは親にもあめでおさんにも内緒にしてたんですが実はガリッサに参りました。Oさんが帰国間近のマルコに「JICA関係者は誰もいらしたこと無いとおもいますよ。一度最前線も見といてはどうですか?」と語られ、マルコも「やりたい仕事は大体終わったし、強制帰国になっても良いから行ってみっか?」ってな感じで参りました。すいません>エルザさんおよび関係者の皆様。あの時私を駆り立てたものは何だったのでしょう。私自身ODA関連の仕事の限界とNGOとして国際協力に携わる可能性に目覚め始めた時期だったと思いますが多分「見ておきたかった」んだと思います。もしソマリアゲリラにつかまって身代金要求されてたら自己責任論噴出でも文句の言えない状況でした。でもね〜、爆弾一発もしくは銃撃数発で死ぬ可能性ってのは考えたんだけど、人質ってあんまり考えなかったな〜。 ガリッサは砂漠の中にあり、街の中はケニア国軍が駐留してしっかり治安が守られているんですが、途中の街道沿いがやばいんです。ガリッサから南に150キロほどの街がケニア人レベルでの最後の治安維持エリアでした(JICA関係者レベルではそこも禁足地だったんですけど)。その最後の街とガリッサの間の街道150キロの道中がいわゆる「いちかばちか」エリアでございました。 毎日午後一時ころに最後の街とガリッサの間で定期バスが行き来します。その定期バスが(3台ほどの大型バスなんですが)、前後をケニア国軍が機関銃つんだ2台のジープでガードします。そのガードされた定期便に合わせて2つの町を行き来する商人のトラックやNGO関係者のジープやら十台の近い車がキャラバン組んで砂漠の街道を疾走するのです。まあ国軍がガードしてるんですがソマリア流れのロケット砲とかを盗賊さんが打ちこんでくることもあったそうです。私が行ったときは何事も無くガリッサに到着しました。 ガリッサ市内はそれなりに平穏で、暑かったけどNGO活動をまじかで見たのはあれが初体験だったかもしれません。 退避勧告とか出してる外務省の人は現場まで行っているのかな?ガリッサにはきたこと無かったみたいでした。そこで10年近く働くNGOの人に補助金を出し、彼らから受け取る報告書が多分最も有力な情報源だったのではないでしょうか。 退避勧告の出ている地域に民間人はふらふら来るな、って言われると、あのガリッサの日差しとOさんの横顔が目の裏に浮かびます。マルコ26歳の乾季の終わりでした。 ... 4月の晴れた空のした(5)いちかばちか - 2004年06月11日(金) まだやるのか。そろそろやめます。忙しいので。 今度こそ最終回を目指します。 退避勧告を受けた危険地域に民間人がのこのこ行って良いのか? NGOが活動している地域で鼻歌歌いながら歩ける地域ってのはまずございません。そして鼻歌歌って歩ける地域には支援のニーズも無いのです。政府は渡航自粛地域だの注意喚起地域だの(詳しい呼称はこちら)危険地域で活動するNGOにも補助金や助成金を出してその活動を支援しています。外務省・財界が16個のNGOと共同で行ってるジャパンプラットフォームなんてイラクでも活動してます。ジャパンプラットフォームに参加してるNGOもこんな活動をしています。 一般論ですが。NGOの関係者は活動地域入っちゃえば何とかなる場合が多いと思います。ネットワークもあるし、いざと言うときかくまってくれる友達もいるかもしれない。しかし活動地への移動というのはどんな高度な活動をしているNGOでもリスクは避けられません。まあこのリスクをできるだけ小さくする努力の仕方でNGOのプロ度、アマチュア度は分かれるのかもしれませんが、どんなプロがリスクを小さくする努力をしてもだめなときはだめで、えいやっといちかばちかに賭ける瞬間ってのは必ずあると思います。 先に射殺された日本の外務官僚も今回射殺され歴戦の戦場カメラマンも移動中、いちかばちかかけて、残念ながらばちの方向に転んでしまったものと思われます。 なぜ自分の命を的にいちかばちかに賭けるかというと、リスクをとっても行う価値のある緊急度の高い仕事がそこにあるからではないかと思います。そこで人質事件に戻りますが、あのファルージャ掃討が起こっている折、なぜかの人質となった人々はリスクを取ってえいやっといちかばちかにかけたのでしょうか? ファルージャを撮影したいというフリージャーナリストの心意気はわかります。ファルージャを密室にしてはいけない。何が起こっているのかを世界に発信する必要性は私にもわかります。 高遠さんのほうもとても理解できます。高遠さんは他のNGOの支援対象からもれてしまうバクダッドのストリートチルドレンの中の比較的年かさの少年たちを支援していたと聞きます。ストリートチルドレンはある程度の年齢に達するとその土地ならではの“就職”をします。ケニアのものすごいたくさんいたストリートチルドレンの皆さんはミドルティーンになると、乗合バスの呼びこみの仕事をはじめ、物売りになったり、警備員の仕事についたりします。イラクの少年たちのリクルート先はどこだったのでしょうか。高遠さんはあの時少年たちのゲリラ化というか民兵化を恐れ、あの時期、バクダット入りを急いだのではないかと私は考えます。ゲリラも民兵もそれなりのスキルが求められると思いますがファルージャでの消耗戦ではもう誰でもウェルカムだったのではないでしょうか? 少し証拠も無いのに好意的解釈をし過ぎのような気もしますが。それが私の片よりですのでどうかご容赦を。 今井氏に関しては氏の活動が少し私の専門から外れるのであんまり推測できないんですがきっと今後も業界人としてやっていかれることでしょう。業界のどっかで出会ったら聞いてみたいと思います。あの時君を駆り立てのは何だったのか?と。 さて高遠氏に関してはNGO的に現地で活動するならもうちょっとプロ化せよ、と言うご意見もあります。そうでしょう、そうでしょう。外務省も世銀もUNDPもNGO職員のキャパシティービルディングプログラムを花盛りでやってます。NGOを国際協力のプレーヤーとして一人前にするためにいろんな試みがあります。東京の大きいNGOではたいていそういうプログラムに人を送って近代化というかプロ化を急いでおります。 私自身、1昨年までNGO職員をしており、そうしたキャパビルプログラムに参加したことがあります。そのとき抱いたある危惧があります。それは「市民活動の草の根からの遊離」です。普通の市民(主婦や学生さん)はボランティアとして無料で労働を提供し、国内で封筒の宛名かきばかりしている。給料もらって、海外で華々しく活動するNGO職員は全員アメリカやイギリスの大学院で修士もしくは博士を取って実家の父は外交官。つまり、市民活動の中での階層化が進展しているように思いました。私はNGO職員であると同時に東京にいるころも週に一時間専門学校で国際協力の現場で働きたい学生を教えていたのですが、専門学校の学生はものすごい学歴差別にあっていました。NGOでボランティアをするのでも有名大学の学生たちは将来の幹部候補生として扱われるのに専門学校生はあからさまに雑用を担わされていました。 高遠さん自身は実家も裕福なようですが「組織に属さない個人活動家」であろうとする彼女の態度に実はちょっと共感し、組織にからめとられないと生きていけないマルコとしてはちょっとうらやましいのです。 市民活動もしくはNGO/NPO活動の特性が多様性であるならばすべてが最初っからプロである必要はないかもしれません。素人がプロとして成長する過程を追体験するような活動があっても良いと思います。懲りずにめげずに高遠さんはイラクに行きなさい。 そこにリスクをとっても行う価値のある仕事があり、その仕事の適任者はきっとあなたなのだから。 ... 4月の晴れた空のした(4)オールタナティブ+ - 2004年06月10日(木) 4月じゃないし、晴れてもいません。関西は梅雨真っ盛りでございます。でもやります。このシリ−ズ、一応最終回を目指します。本日のお題はそもそもNGO活動とはなんぞやということに迫りたいと思います なんだかね、人質事件について専門学校の私の担当している講義(その名も「NGO論」だ〜!)で、取り上げて20歳前後の学生さんにフリーディスカッションしてもらった結果、大体学生さんの意見は下記の2つでした。 1)NGOがふらふら行って、人質に取られたら自衛隊活動の邪魔になる 2)自衛隊派遣したから、NGO活動が危険にさらされたんだ 2)の論法で裁判起こした人もいますな。リレー形式で自衛隊派遣の違憲性をいろんな人が裁判起こすと言う活動の一環らしいですが、元人質、注目度高いです。 でも上記のような水掛け論はあんまり意味無いな〜。両方ともある意味、真実だけど着目点が違うんだよね。そう言う「立場の違い」を論じてもあんまり生産的でないような気がいたしますがどうざんしょ。 さて立場の違うもの同士どうやったら生産的な議論ができるかな? NGOもしくはNPO(両者の違いは国境を超えて活動するか否かであるという説が有力です)と言う存在が最近わりとクローズアップされてますが、それはなぜでしょう。 答えはいろいろあると思うけど1つには価値観が多様化してきて最大多数の最大幸福を狙った(言いかえれば画一的な)行政サービスでは消費者の多様なニーズに適合しない場面が出て来た。行政ではニーズが拾いきれないニッチな市民の要求にこたえるサービスを提供するべくNPO活動が展開されるわけです。NGO/NPOは細かいニーズを把握した質の高い効率的なサービスができる、と一般的には言われています。 例えば「同性愛者の両親をサポートする会」とか「病児の兄弟のケア」とかあんまり行政では手が届かないことを、でもとても助けが必要なことをNGO/NPOが行うわけです。 もうひとつには福祉国家が行き詰まってゆりかごから墓場までのケインズ主義的大きな政府は成り立たなくなって、サッチャー、レーガン路線の小さな政府への移行が世界規模で行われようとしていることもあげられます。小さな政府にする過程でこれまで政府が担ってきた仕事を民営化、民間業務委託、地方分権、受益者負担とまあ、お外に出す。それによってNGOやNPOが仕事を委託されたり、補助金もらったりして活動が活性化してきた、と言われています。国際協力に関してもODAの民間委託的意味あいとNGOの能力向上(キャパシティビルディング)をかねては外務省からも総務省からも建設省からもかなり補助金・助成金が国際協力NGOに出ております。詳しくはこちらとか">こんなのとか。 その他、強者のグローバリズムに対抗する草の根のグローバリズムのネットワークとしてのNGO活動の必要性を唱える人はいるけどまあ説明がややこしいので置いといて。 さて、上述したように、イラクでそして世界で活動しているNGOやらNPOは多数決で汲み取ってもらえなかった少数意見を持つ人々の意志の代弁者として活動している部分があります。自衛隊派遣を支持して自民党に投票した多数派の人々の意を汲んで自衛隊はイラクに行ったわけですが、自衛隊派遣を支持しない41%の民意も汲まれてしかるべきでしょう。 アメリカのイラク政策の枠組みで自衛隊が派遣される一方で、イラクの人々に寄り添うように武器を持たない市民が復興活動に協力したいというニーズもあるわけです。そのニーズを満たすべく、オールタナティブな支援の選択肢としてNGOがあるのです。 もっと直接的にイラクへの自衛隊派遣自体を見直す国民的論議を呼び起こそうという選択肢として冒頭でちょっと触れた「自衛隊派遣の違憲・違法性を訴えるリレー裁判」という活動をしている人々もいるわけです。どの選択肢を選択するかはお好み次第。 税金は払うけど、NGOに寄付もしたい (本当はここでNGOに寄付した分だけ税金控除が受けられるといいんだけど。NPO法案と言うのはこの税控除問題が議論されてるわけです。) 。そうして多数派も少数派も様々な意見が汲まれて多様な活動にアクセスすることができるつまり多様な選択肢が保証されているのが、民主主義の成熟した社会といえるわけです。 高遠さんは個人活動家ですが彼女の背後には寄付金を送った少数派の市民がいるわけでそう言うニッチなニーズに彼女の活動はこたえていたわけです。 高遠さんの活動はいろいろな意見もあるようですがイラクの民に寄り添う活動としてこれだけ喧伝されたのは「日本は自衛隊を派遣する一方で、このような草の根のオールタナティブな市民活動を展開している」とアラブ社会やその他世界に向けて発信できたわけです。お金に換算するとかなり大きな日本国の国益でしょう。その後のバッシングが日本社会の民主主義の未成熟をさらしてしまったわけですが。この損益もお金に換算するとかなり大きいでしょう>週刊新潮。 もう長いですね〜。ここまで読んでくれた人はいるのか? 危険地帯でのNGO活動に関する私見は章を改めます。おKさんが泣いているから。 (つづく) ... つけもん - 2004年06月08日(火) 「つけもん」というのはポケモンとアンパンマンの人気に感銘を受けた夫あめでおと娘1号が一攫千金を目指して考案した新キャラだとか。 主人公は「ひのなちゃん」(ヒノナ漬けという伊賀特産お漬物が語源)。仲間の「キムチン」や「野沢菜くん」と協力しながら世界の平和を目指すのだそうな。 そういえば数年前マルコが出張で家を空けて帰ってきたら、やっぱりあの二人組が「なまずくんと時計のアリスちゃん」という物凄いファニーな絵本を製作し、一攫千金を夢見ていたな。 マルコ(とおK)がいないと一攫千金を目指して暴走しだすという癖があの2人にはある。 あめでおさんと1号さん父娘のファニーな交流振りを横で見ながら本日の朝日新聞の社会面の2人の父親の亡き娘を思う手記を読んでて涙が止まらなくなってしまった。朝は忙しいので泣いている暇はない。ゆえに平常の表情で涙だけ流し続けて朝の支度をした。 なんでもない日常の大事さが身にしみる。願わくば加害者になった人々はどうか幸せになってほしい。そしてなんでもない日常の幸せを理解出来る大人になり、自分の犯した罪の大きさを知って欲しい。そうでなければ本当の贖罪も出来ないだろう。 今現在苦しんでいる被害者家族が真の謝罪を受けられるように、加害者にはちゃんと更生して幸せになって欲しい。 、、、、思わぬ方向に話が転がりました。マルコびっくり。 ... 雨の目白坂 - 2004年06月06日(日) 東京滞在最終日、目白でれいこなさんとぴよたさんとランチしてそのまま新幹線で帰奈良しました。ランチの模様はこちらに美しくまとまってらっさいます。 待ち合わせ場所の目白駅に到着すると雨の中優雅にれいこなさんが立っておられました。ぴよたさんとの合流前に、初おめもじのぴよたさんってどんな人?とれいこなさんに質問すると「角度によってはひよこに似ていらっしゃいます」とのお答え。んま〜。本日は角度によってはひよこに似ているぴよたさんと、角度によってはスヌーピーに似ているれいこなさんと角度によっては般若に似ているマルコの集会だったのですね。 ぴよたさんは「きりっ」と「ふんわり」のギアチェンジが自在に出来るかんじの方でした。ってわかる? 話題は物凄くいろいろ多岐にわたったんですが、おKさんがハッスルしていろいろと妨害してくれたので今度はおKさんに麻酔銃でも撃ってから参加したいものでございます(危)。 「他人の空似」が話題になっている時、マルコはあっと気付いたのですがれいこなさんは、幼馴染でテニス部でも一緒だったちえこちゃん(仮名、新潟在住)と激似であることを発見。他人の空似、その気になって探すと楽しいです。 ランチした場所は目白坂に面して学習院の緑が借景になってるレストランでした。じもてぃいには目白坂脇の側溝はザリガニ釣り場で、目白坂はネズミ捕りの警察の皆様がよくいらっしゃるところ、そして学習院の森は血洗いの池にアオダイショウがいるところと認識されているのですが、外面は優雅な場所でした。 時間ぎりぎりまで歓談して3時発大阪行きののぞみで帰阪しました。会食中大ハッスルだったおkさんが名古屋まで爆睡してくださり、おかげで新幹線名物ホットコーヒーを優雅に飲めました。 ぷち上京、病み付きになりそうです。 ... 冬の奏鳴曲 - 2004年06月05日(土) 東京に帰省いたしました。 本日は横浜方面と池袋方面で会合があり、二つの会合の間にディープな活動をしたりしてそれなりに実り多き1日でした。関係者の皆様に多謝。 そんで夜。観ました。噂の番組を。冬の奏鳴曲でございます。これ1回こっきりしか視聴していませんが、はまらせていただきました。語らせていただきましょう。 冬のソナタが日本のおばさん世代に受けているというのはとても理解できた。儒教的家父長制度の中で、キャリアを形成し自立しようとする女性の旧弊な価値観との戦いが多分テーマになってんじゃないかな、と第9話を見た限りでは思った。 婚約者のサンヒョクは既存の価値観の中に「女性(ユジン)」を絡めとろうとする旧勢力の象徴だ。アメリカ育ちのミニョンは「女性(ユジン)」の家父長制に組み込まれる以前の子ども時代の幻影であり、同時に個の確立を許す自由の世界の象徴でもある。 「女性(ユジン)」が「既存の価値観のなかで生きるか」それとも「個の確立をはたして親兄弟と激しく葛藤する道」をえらぶか激しく揺れ動く物語なんではないかと、思った。 おそらくこの物語はアメリカやヨーロッパ・中国では受けないのではないか?家父長制が残って、女性の自立が果たされていない国(韓国・日本、多分イタリア)でこそ女性の心をわしづかみにするのではないかと思った。 構造的には上記のような硬いことになってるのにストーリー的にはとっても少女漫画的に胸がキュンキュンしちゃう場面が山盛りでした。キュンキュンしたい人にも、自立獲得のために戦いたい人にもお勧めですわ。 ... 復唱するの - 2004年06月01日(火) おKさん2歳児、得意技は復唱。 毎朝、マルコに無理やりひっとらえられて、歯を磨かれ一泣きしてから保育園に登園する。今日も涙の歯磨きを終え、おKさんとあめでおさんが手をつないで出発する。そのときの会話。 あ「おかあちゃんにつかまってゴシゴシやられたの?」 K「やられたの〜。」 あ「ゴシゴシやられておkは泣いたの?」 K「泣いたの〜。」 あ「そこをおとうちゃんに助けてもらったの?」 K「もらったの〜。」 ところでおKさんのお気に入りのお洋服は「アンパンマンスーツ」でそれをよく着て登園する。途中斑鳩高校生の登校集団と田んぼのあぜ道ですれ違うのだが「アンパンマンスーツ」着用のおkさんを見ると女子高生の皆さんは「あんぱんまん、きゃー!」と歓声を上げる。女子高生の歓声を浴びるのがこのごろのあめでおさんの密かな楽しみ。「きゃーだっこしたい〜」とか言う女子高生に「そうですか、それでは!」とあめでおさん自身が身を投げ出したいらしいのだがそこは教育公務員。殿中でござる。 おKさんのほうも女子高生の集団を見ると、何も言われないうちから指差して「アンパンマン、きゃー、いるの〜」とつぶやくようになった。 ...
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