橋本裕の日記
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| 2003年01月31日(金) |
帝国への道を歩むアメリカ |
昨年の一般教書演説でブッシュ大統領はイラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼んだ。今月28日に連邦議会で行った一般教書演説では、「米国と世界の最も重大な危険は、大量破壊兵器の入手をたくらむ無法者政権である」と述べた。
現在、イラク周辺に10万人ほどのアメリカ軍が展開している。いつ、イラクへの武力進行が始まってもおかしくない状況である。世界の世論はアメリカのこの強硬姿勢に反対していた。しかし、ここへきてプーチン大統領はアメリカの武力介入を容認する発言をしはじめた。イタリアもアメリカ軍への基地提供に同意した。少しずつ、世界はアメリカ大統領の望む主戦論へ傾きつつある。
アメリカといえば民主主義の旗手のように言われている。私はこの数年「政治論」を書くために、いささかアメリカの歴史について勉強した。そして分かったことは、決してアメリカは民主主義の国ではないということだ。それは建国の歴史を少し調べてみればわかる。建国の父達は決してアメリカを民主主義の国にするとは言っていない。むしろ民主主義を敵視する共和主義者たちによってこの国は創られた。
<憲法制定会議の議論の中で、賛成派と反対派を問わず、この草案を「民主主義」と呼ぶ人は誰もいませんでした。草案作成の中心人物であったA・ハミルトン、J・マディソン、J・ジェイの三人がそれを説明したり弁護したりするために論文を新聞に掲載しましたが、それが「フェデラリスト」という名の本になっています>
<そのなかでこの憲法は、民主主義ではなく共和制であると説明されています。つまり、この制度はヨーロッパにあるような国王制でも貴族制でもないが、過半数の民衆が権力を握れないように細かく配慮してあるので(選挙ではエリートしか選ばれない、など)、安心して下さいということです>
<当時の民主主義者はこれを芽生えたばかりの民主主義をつぶそうとするものだと読みとって、反対運動(反連邦運動1788〜89)を起こしましたが、エリート勢力には勝てませんでした。ともかく、今のアメリカ合衆国憲法を書いた人は民主主義の国をつくるつもりではなかった。これは世界にあまり知られいないし、アメリカのなかでも聞いて驚く人がいます>
<民主主義はその後も数十年間にもわたって反対派のイデオロギーでした。1830年代にそれが変わりはじめたのです。制度が変わったのでも憲法が変わったのでもなく、民主主義の定義が変わったのです。代議制は民主主義であるという言い方はその段階から始まった。同時に、民主主義の理念は、反対派の理念から国家イデオロギーにかわったのです>(「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」 ダグラス・スミス著、平凡社)
私はアメリカの共和制もまたいずれ廃止されて、皇帝が支配する帝国になるのではないかと思っている。ブッシュでは無理だろうけど、たとえばレーガンのような人物が出てきたら、アメリカ国民はよろこんで彼を皇帝にむかえるのではないだろうか。
過去の歴史を見てみればこのことはよくわかる。ローマの民衆はシーザーを愛し、その後継者のオクタヴィアヌスを皇帝にした。フランスの民衆はナポレオン皇帝を歓呼で迎えた。支配されることに慣れた民衆は王様を欲しがるものだ。とくにヨーロッパ系の人々には神聖ローマ帝国にたいする憧れがある。
皇帝は戦争の総司令官であり、戦時体制を前提にした統治システムである。ローマのように版図が拡大すると、あちこちでいざこざが絶えなくなる。合議制でやっていたのではまにあわない。そこで独裁的な権力者による効率的な統治が必要になってくる。ローマが元老員中心の共和制から皇帝による独裁政治へ移行したのもこのためだった。
ギリシャの都市国家の場合、最後まで民主政治が行われたのはそれぞれが独立していて、版図がちいさかったからだ。そこでは直接民主主義が可能になる。少し整理すると、版図が大きくなるにつれて、<直接民主制→代議制→独裁制>ということになる。
代議制(共和制)はアリストテレスによるともはや民主主義ではなく、貴族政治だそうだ。だから、アメリカやイギリス、日本の政治は正確に言うと民主主義とは言えない。アテネがそうだったように、民主主義は役職や議員をすべてクジできめるのでなければならない。
アメリカもこれから世界の覇者としてさまざまな戦争や紛争に介入することが多くなると、いちいち合議制でやっていたのでは間に合わなくなる。そこで帝国へと移行する可能性が出てくる。日本がアメリカ帝国の属領になる日もちかいのかもしれない。いやすでに世界の人々は、日本をアメリカの属領と思っているのに違いない。
<今日の一句> 遠き日の ほのかに匂ふ 雪明かり 裕
昨日はこの冬一番の寒波だった。吹雪の中を電車を乗り継いで出勤した。6:30に家を出て、学校に着いたのは8:20頃だった。車なら40分のところを、2時間近くかかった。年に1,2度こういうことがあるが、電車の窓から雪景色を眺めるのも、たまにはいい。雪景色は雪国育ちの私を遠い日への郷愁へと誘ってくれた。
| 2003年01月30日(木) |
平和祈念施設について |
一昨日の日記で、「追悼・平和祈念施設」の実現を訴えた。ところで、この施設がどのような意図で設置されようとしているのか知るために、平成14年12月24日に出された「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」の報告書を見てみよう。
<本懇談会は、昨年12月14日、内閣官房長官から、何人もわだかまりなく戦没者等に追悼の誠を捧げ平和を祈念することのできる記念碑等国の施設の在り方について、国の施設の必要性、種類、名称、設置場所等につき幅広く議論するよう要請を受け、今日までおよそ1年をかけて検討を重ねてきた。本報告書は、その検討結果をまとめたものである>
<なぜ、今、国立の追悼・平和祈念施設を必要とする時期が来たと考えるのであろうか。 日本の戦後に即して言えば、先の大戦の終結を意味する講和・独立から約半世紀、そしていわゆる冷戦終結から約10年がたち、グローバル化の進む中、新たな国際社会形成の動きが見られるようになっている。また、いわゆる9・11テロに見られるような世界平和への新たな挑戦が生まれている現在、平和についての国民の関心も高まってきている。さらに、近隣諸国等も、国際社会における日本の今後の在り方に注目している。 このように、日本をめぐる内外の環境は大きな変革期の真只中にある。こうして迎えた21世紀の初頭であるからこそ、「戦争と平和」にこれまで以上に思いを致し、日本が平和を積極的に求め行動する主体であることを、世界に示す好機と考える。 国内においても、とりわけ戦争も戦後の混乱等も知らない世代が国民の大半になることが予想される今こそ、この若い世代へ向けて、「戦争と平和」に思いを巡らし、「平和国家」日本の担い手としての自覚を改めて促す節目のときに違いない。 要するに、国際社会の中で自ら一人のみで生きる国家という在り方がもはや困難になっている今日、日本は、他国との共生を当然の前提としつつ、追憶と希望のメッセージを国家として内外に示す必要がある>
<言うまでもなく、明治維新以降日本の係わった対外紛争(戦争・事変)(以下、「戦争」と略称)における死没者は極めて多数に上る。特に、苛烈を極めた先の大戦では、幾多の尊い生命が失われただけでなく、一命をとりとめた者にも、生涯癒すことのできない深い傷跡と後遺症を残し、今なお数多くの人々に深い苦しみと悲しみを与えている。 また、戦後、日本は、日本国憲法に基づき、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、日本と世界の恒久平和を希求するようになったが、その後も日本の平和と独立を守り国の安全を保つための活動や日本の係わる国際平和のための活動における死没者が少数ながら出ている。 私たちは、このような事実を決して忘れてはならず、日本の平和の陰には数多くの尊い命があることを常に心し、日本と世界の平和の実現のためにこれを後世に継承していかなければならない。 先の大戦による悲惨な体験を経て今日に至った日本として、積極的に平和を求めるために行わなければならないことは、まずもって、過去の歴史から学んだ教訓を礎として、これらすべての死没者を追悼し、戦争の惨禍に深く思いを致し、不戦の誓いを新たにした上で平和を祈念することである。 これゆえ、追悼と平和祈念を両者不可分一体のものと考え、そのための象徴的施設を国家として正式につくる意味があるのである>
<この施設は、日本に近代国家が成立した明治維新以降に日本の係わった戦争における死没者、及び戦後は、日本の平和と独立を守り国の安全を保つための活動や日本の係わる国際平和のための活動における死没者を追悼し、戦争の惨禍に思いを致して不戦の誓いを新たにし、日本及び世界の平和を祈念するための国立の無宗教の施設である>
<追悼の対象は、国のために戦死した将兵に限られない。空襲はもちろん、戦争に起因する様々な困難によって沢山の民間人が命を失った。これらの中には既存の慰霊施設による慰霊の対象になっていない人も数多い。 さらに、戦争の惨禍に思いを致すという点では、理由のいかんを問わず過去に日本の起こした戦争のために命を失った外国の将兵や民間人も、日本人と区別するいわれはない。戦後について言えば、日本は日本国憲法により不戦の誓いを行っており、日本が戦争することは理論的にはあり得ないから、このような戦後の日本にとって、日本の平和と独立を害したり国際平和の理念に違背する行為をした者の中に死没者が出ても、この施設における追悼対象とならないことは言うまでもない>
参考までに、懇談会の座長は経団連会長・今井敬、座長代理は劇作家・山崎正和 、委員として、東江康治、上島一泰、上坂冬子、草柳文惠、坂本多加雄、田中明彦、西原春夫 、御厨貴 の方々が参加している。報告書の全文は首相官邸のHPに掲載されている。 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/kettei/021224houkoku.html
<今日の一句> みな人の 吐く息白し 雪が降る 裕
日清戦争は1895年5月に講和条約の批准書がかわされたが、実際に日本軍が台湾を占領したのはその後のことである。5月末に台湾北部に上陸した日本軍が南部を制圧したときには10月末になっていた。
5カ月に渡る戦争で日本兵の戦死者・病死者は4498人で、これは日清戦争全体の犠牲者の3割になる。それだけ現地人の抵抗が激しかった。ちなみに、台湾人の犠牲者の数は、1万4千人である。日本人の約3倍もの現地人の命がこのとき奪われた。
こうして台湾は日本の植民地になったわけだが、その後も台湾人の抵抗はしばらく止まなかった。児玉源太郎総督の統治時代、民政長官を務めた江藤新平の報告によると、1898年から1902年までの5年間だけで、1万950人の台湾人を殺害もしくは処刑したとある。
当時の台湾の人口がどのくらいかわからないが、これはかなりのパーセンテージをしめるのではないか。日本の植民地支配がいかに過酷な武力弾圧のもとに行われたかわかる数字である。
それでも台湾統治は日本の植民地支配としては成功した方だと言われる。その実体がどのようなものであったのか、「キーワード日本の戦争犯罪」(小田部雄次・林博史・山田朗共著、雄山閣)から少しだけ引用しよう。
<台湾における植民地支配の特徴は、台湾島民の抵抗を軍隊・警察によって抑圧しつつ、民衆に日本語と天皇崇拝を強制する同化政策をとり、また、農地改革を実施したり、製造業を中心に米・樟脳・木材などの産業振興策をとったことである。これらの産業経済政策は、台湾の近代化を進めるためではなく、基本的に台湾統治のための財政基盤を確保し、同時に台湾を日本本国の資本主義の再生産構造の中に組み込むためのものであった>
靖国神社には台湾討伐で戦死した日本軍人千人余りが祭られている。私たち日本人は彼らを英霊と呼ぶ。しかし、同時に逆賊として殺された台湾の人々の霊にもいささか思いを馳せたいものだ。私たちは日本人である前に、一人の人間なのだから。
最後に私の好きな親鸞の言葉を引こう。私は浄土真宗系の高校を卒業している。高校3年生の時、僧侶であった教頭先生から、一年間、毎週「歎異抄」を習った。そのとき胸に刻んだ言葉がこれである。
<一切の有情はみなもって 世々生々の父母兄弟なり>(歎異抄第五章)
<今日の一句> あたたかき 甘酒飲みて 夜の床 裕
| 2003年01月28日(火) |
平和祈念施設の設立を望む |
小泉純一郎首相が今月14日に靖国神社を突然参拝した。今回も中国や韓国などから批判の声があがるのを承知の上での参拝だった。福田長官は小泉首相の「個人的心情」を強調しているが、それならそれでまた別の表現手段がなかったのだろうか。
実は私も4年前に靖国神社に参拝している。従軍看護婦の遺品や手紙を読んだとき、おもわず涙がこぼれそうになった。そこにおいてあった感想ノートに、「とても悲しい。こんな悲惨な戦争は二度とごめんだ」と書き付けた記憶がある。他の人の感想も読んでみたが、おおかたそのような内容だった。
この度の小泉参拝について、毎日新聞の世論調査では、「評価する」が47%、「評価しない」が43%だったという。自民党支持層では「評価する」の73%が「評価しない」の22%を大きく上回った。数字だけから見ると、評価するという声の方が多くなっている。しかし、国民の半数近くが、首相の靖国参拝を評価しないとしているわけだから、首相はこの声にもう少し声を傾けるべきだと思う。
国民が首相の靖国参拝に反対するのは、東条英機などのA級戦犯が合祀されているからだろう。また、靖国神社は戦前の国家神道の象徴的存在でもあった。そもそも閣僚や首相が公人の資格で参拝することは政教分離をうたった憲法に違反している行為である。
同じく毎日新聞の世論調査によると、「国立で無宗教の追悼・平和祈念施設を建設する」との構想については、「賛成」が58%を占め、「反対」の27%を大きく上回っている。私もこの案に賛成である。
やはり靖国神社にはあまりにも軍国日本のイメージがしみついている。外国の反発があるからと言うのではなしに、私たち日本人自身が、過去の過ちを認め、未来へのあらたな決意を示すためにも、平和祈念施設を早急に実現させたいものだ。
ところで日本の戦争責任について書かれた本の中で、私が共感を持ったのは吉田裕著 「昭和天皇の終戦史」(1992年、岩波新書)である。その結びの部分を少し長くなるが引用しておこう。
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<天皇の戦争責任の問題が封印され、マスコミや学校教育のレベルで事実上タブー視されたことは、この国の戦争責任の展開をきわめて窮屈なものにした。本来、戦争責任論とは、政策決定の当事者であった権力者の責任を追及するという次元にとどまらない、裾野の広がりをもった議論である。それは、戦争の最大の犠牲者であった民衆にも、戦争協力や加害行為への加担の責任を問い直すものだし、侵略戦争と天皇制に一貫して反対したという点からいえば戦争責任とは最も遠い位置にあるコミュニストとその党=日本共産党に対しても、なぜ、より有効な反戦闘争を組織することができなかったのかという点で、戦時下の自己の思想と運動に関する真摯な自己点検を強いるものである。また、右翼に関しても、それが戦後、思想運動として生き残ろうとするかぎり、敗戦の原因や天皇制のあり方についての本質的な議論が必要だったはずだ。
しかし、国家元首であった天皇の責任がタブー視され、戦争責任のなかに最初から大きな例外規定が設けられることによって、戦後の戦争責任論は国民的なひろがりを欠く結果となったのである。
もう一つの問題は、すべての戦争責任を軍部に押し付けることによって政治的なサバイバルに成功した「穏健派」のなかから、戦後の保守政治をになう主体が成長してきたことである。この結果、パワー・エリートの人的構成という面では、戦前-戦後の「断絶」より、「連続」が主たる側面となった。
同時にこのことは、「穏健派」の政治的スタンスをある意味ではもっともよく代表していると考えられる天皇の戦争責任が封印されタブー視されたこととあいまって、「穏健派」全体の戦争責任、とくにアジアに対する戦争責任が曖昧にされたことを意味していた。
以上のことを歴史認識の問題としてとらえ直してみると、わたしたち日本人は、あまりにも安易に次のような歴史認識に寄りかかりながら、戦後史を生きてきたといえるだろう。すなわち、一方の極に常に軍刀をガチャつかせながら威圧を加える粗野で粗暴な軍人を置き、他方の極には国家の前途を憂慮して苦悩するリベラルで合理主義的なシビリアンを置くような歴史認識、そして、良心的であるが政治的に非力である後者の人々が、軍人グループに力でもってねじ伏せられていくなかで、戦争への道が準備されていったとするような歴史認識である。そして、その際、多くの人々は、後者のグループに自己の心情を仮託することによって、戦争責任や加害責任という苦い現実を飲みくだす、いわば「糖衣」としてきた。
しかしそのような、「穏健派」の立場に身を置いた歴史認識自体が、国際的にも大きく問い直される時代をわたくしたちはむかえている。すなわち、社会主義諸国の崩壊に起因した冷戦体制の解体によって、そもそも冷戦期の産物である「穏健派」史観そのものの見直しが不可避となった。また、アジア諸国との関係も、東京裁判の段階と大きく変わった。東京裁判の段階では、日本の侵略の主たる対象となったアジア諸国は、いまだ独立か建国の途上にあって、その国際的発言力もきわめて小さいものでしかなかった。東京裁判は、これらの諸国の意向をほとんど無視することによって初めて成立することができたのである。しかし、そのアジア諸国もその後しだいに国際的な発言権を強め、アジア諸国との安定化を求める日本政府としても、これらの国の対日要求にある程度の考慮を払わざるを得ない状況になってきている。そうしたなかで、これらの国々の間から、日本の「戦後処理」に対する批判の声が急速に高まりつつあるのが現状である。
こうした声に誠実に対応するかぎり、わたしたちは、日本の戦後処理を支えた歴史認識そのものを、自らの手で問い直さなければならないのだと思う>
--------------------(引用終わり)----------------------
<今日の一句> 冬枯れの 庭を眺めて 紅茶飲む 裕
36.見合い写真 西春の駅の改札口を出ると、私は辺りを見回した。そこに和江が待ち伏せしているような気がしたからだ。しかし、改札口の前にも、駅前の本屋の前にも彼女の姿はなかった。
途中、スパーで買い物をして帰ってきた。久しぶりに米を炊ぎ、野菜を洗って料理をした。少し多めに作ったのは、和江が現れた場合を考えたからだった。和江が来ることを恐れながら、一方ではどこかで期待していていた。
食事を終えて、後片づけしていると、玄関のチャイムが鳴った。マジックアイから覗くと、宅急便だった。小包は福井の母からで、中には羽二重餅の箱の他に、封筒と写真が入っていた。写真はお見合い写真で、目鼻立ちの整ったドレスの女が、椅子に腰を下ろしてこちらをみていた。母の手紙を読みながら、一週間ほど前に、母からお見合いを奨める電話があったのを思い出した。
「おげんきですか。電話でお話ししたように、河田総子さんの履歴書と一緒にお見合い写真を送りします。あなたも写真を撮って、履歴書と一緒に、なるべく早く先方に送って上げて下さい。履歴書の用紙を同封しておきました」
相手は26歳で、敦賀の中学校の先生らしい。去年まで名古屋大学の大学院で数学を研究していたのだという。同じ大学院の理学部にいたわけで、おそらく大学の構内で顔を合わせていたかもしれない。しかし、写真の顔には見覚えがなかった。
写真で見た感じではなかなかの美人だった。履歴書の文字も整っていた。趣味の欄には「数学」とだけ書いてあった。よほど数学が好きなのだろうか。それにしても、ちょっと変わっている。
「実家のある敦賀に戻って、地元の中学校の先生になったけど、できればもう一度名古屋に戻って数学の研究を続けたいらしいのよ。それに大学院を出ているから、なかなか学歴で釣り合う相手がいないらしいの。あなたなら、まあいいかと思って」
話によると、母の茶飲み友だちの紹介だそうだが、紹介してくれた人も、彼女のことを「風変わり」な娘だと言っていたらしい。風変わりな者同志、案外うまく行くかも知れないということで、母も乗り気になったようだ。
私は彼女の写真をもういちど、念入りに眺めた。写真で見る限り、それほど風変わりだという印象はない。大きな二重瞼の目は聡明そうで、ふっくらした唇は肉感的だった。肩に垂れた長い髪は見事だった。やさしいカーブを描いた肩や胸のふくらみが私の気持ちをそそった。
<一日一句> 書を読めば ひときわ白し 冬障子 裕
先日教室で、「夢を持て」という話をしたら、「先生の夢はなに」と生徒に訊かれた。「世界放浪の旅」とは答えにくかったので、その一歩手前の、「世界鉄道の旅」の話をした。
5年後、57歳で教員を依願退職し、その退職金で一年間かけて、ユーラシア大陸を一周してこようと思う。出発は2008年5月1日と決めている。まず、ウラジオストックまで船旅をして、それからシベリア鉄道に乗る。途中、バイカル糊などいたるところに途中下車しながら、モスクワからレニングラードを目差す。レニングラードには1ヶ月ほど滞在したい。ドストエフスキーやトルストイ、チェーホフのゆかりの場所も訪れたい。
それから、スカンジナビア半島を一周する。そして、ポーランドからドイツへ。ワルシャワやベルリンにも一ヶ月ほど滞在して、あちこち見て回りたいね。デジカメで写真を撮り、紀行文を書き、HP日記に連載したいものだ。ゲーテやアインシュタインの故地もおとづれたい。それからできたら各地の中学校や高校を訪れて、授業を見学してみたい。飛び入り参加で、何か日本の文化について話すことが出来れば最高だな。オカリナで日本の歌を吹いてみたい。
そのあと、オランダやフランスへいく。アムステルダムやパリにもしばらく腰を落ち着けたい。それからスペイン、ポルトガルだ。地中海に出て、再びフランスからイタリー、ギリシャへ。フィレンツエ、ローマ、アテネでもゆっくりしたい。アルキメデスの住んでいたシラクサも訪れてみたい。もちろん、アテネのパルテノン神殿は一週間ほど通ってみたいな。もうそのころは年の暮れだろうな。
トルコを通り、新年はエジプトのピラミッドの傍らで迎えたいね。それから、空路、インドまで飛ぶ。中東をパスしたのは怖いからだ。それとやはり、インドやタイ、ベトナム、そして最後に中国でゆっくり滞在したいね。最後は韓国でゆっくり骨休め。こうして一年の鉄道の旅は、無事終了の予定だ。
妻は放浪の旅はごめんだけど、鉄道とホテルの旅ならつきあってもいいと言っている。だから、ひょっとしたら妻や娘もついてくるかもしれない。一人旅でもよいが、旅は道連れと言うから、「何でも見てやろう」という好奇心旺盛な人ならだれでも歓迎である。
私のHP日記を読んでいる若い人で、世界放浪の旅につきあってくれてもよいと公言している奇特な人がいるようだ。かくのごとき次第なので、世界放浪の旅はそのあとになる。その前の「世界鉄道の旅」に参加してくれてもいいですよ。ただしこちらの費用は一人500万円の予定です。
<今日の一句> 伊吹山 白く浮かびぬ 向かひ風 裕
| 2003年01月25日(土) |
人生を「発見」した男の物語 |
ラッセ・ハルストレム監督の映画「シッピング・ニューズ」をみた。少年時代を描いた「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」、そして青年時代を描いた「サイダーハウス・ルール」、そして「ショコラ」と、この監督の映画を3作見たが、どれも社会の片隅に生きる人々の姿を温かく、生き生きと描いている。
「シッピング・ニューズ」も心に残る映画である。主人公の中年男クオイル(ケヴィン・スペイシー)はニューヨークの新聞社でインク係りをしているが、まるで個性も面白みもない駄目男で、表情も精彩がなく、痴呆に近い。ほんとうに冴えない男なんだな、これが。
この男、父親から虐待された悲しい思い出がある。それから、女運も最悪で、女房はしょっちゅう浮気ばかり。挙げ句の果てに、家出をして、若い男と逃走中に事故で死んでしまう。手元に残されたのは、少しひねた娘のバニーだけ。都会の生活に疲れた男はバニーを連れて、ご先祖様の住んでいたニューファンドランド島にやってくる。そして何か訳ありげな伯母と一緒に、ご先祖様が住んでいたという古い館に棲みつく。
この家、陰鬱な北の海を見下ろす高台の上にポツンと立っていて、なんだか呪いでもかかっていそうな不気味な家だ。この家を建てた彼のご先祖はバイキングの末裔で、あまりいいことはしておらず、隣の島から追放されてここにやってきたようだ。そのとき、この家を凍りついた海面を綱で引いて運んできたという。ちょっと現実離れしているが、その幻想的なシーンが太鼓の響く独特な音楽を背景に何度か出てくる。
それにしても、この男の何とも平凡で魅力のないこと。まあ、善人なんだが、単に勇気がないだけという感じ。仕方がないか、生い立ちが生い立ちだもの。両親に棄てられ、女にも逃げられ、一人娘にも馬鹿にされて、生活にも人生にも疲れ果てた全然取り柄のない中年男。この覇気のないクズ男をケヴィン・スペイシーがうまく演じていた。
島の小さな新聞社に行って、インク係りの職がないか訊くと、風変わりな社長が記者が一人足りないので物書きとしてならやとってやると言う。文章なんか書いたこともない男は、すぐにあきらめてしまう。ところが娘に「そうだよね、お父さんにできるわけがないよね。お母さんも何にもできないくずだと言っていたもの」と軽蔑されて、少しだけ表情を変える。そして、ほかに仕事がないので、やむなく引き受ける。
書くのはこの小さな港町で起きる下らなくてセコイ話ばかり。殺人事件や犯罪があれば、あることないこと針小棒大に誇張してかく。まあ、二束三文のつまらないゴシップ記事だ。それが「シッピング・ニューズ」なわけだ。ところが、これを契機に、男の人生が少しずつ変わっていく。
ゴシップ記事やコラムを書きながら、男はその小さな島で生きている人々のさまざまな人生を知り、いろいろな人々と関わり合うことになる。この頃から、痴呆状態だった彼の魂に少し変化の兆しが現れる。表情がどんどんよくなっていく。眼差しに聡明さと、静かな情熱が宿りはじめる。
つまりは世の中や自分が見えてきたんだ。辛いのは自分ばかりではない。みんな悲しい思いを耐えている。喧嘩をしたり、騙しあったりしながら、時には人殺しまでしながら、もそれでも、人間は支え合ってしか生きていけない弱い存在だということ。そしてその弱さこそ、強さであるという逆説。それがつまり、この人生っていうわけのわからないものの正体かも知れないな。
そうした中で、娘の通う託児所で未亡人ウェイビ(ジュリアン・ムーア)に出会う。彼女はまだ幼い一人の男の子を育てながら、逆風の中で背筋をしっかりのばして生きている。やがて同じような境遇にある二人の子供と、二人の大人の間に友情が芽生える。ウェイビの温かい批評によって、彼の文章も次第に精彩を帯びてくる。そして時には編集長と衝突しても、自分の主張を貫こうとする。もはや彼は昔の彼ではない。人生を発見した人間の自信とやさしさがにじみでている。さすが名優ケヴィン・スペイシーだ。
最後、島は暴風雨に襲われ、古い館は崩壊し、木っ端微塵に吹き飛ばされてしまう。最後のこの結末、なんともさわやかだった。家が吹き飛んで、過去の亡霊もいなくなった。家なんて、仮のものだったんだな。
そして男はもっと大切なものを発見した。それは世界はもっと広く深く未知の魅力に満ちているということ。そしてどんな人間も、その気になればこの自由な人生を味わい楽しむことができるということだ。というわけで、これという派手さはないが、しみじみと人生を感じさせる味わいの深い映画だった。
ちなみに原作はピューリツァ賞や全米図書賞を受賞したE・アニー・ブルーのベストセラー小説である。ニューファンドランド島はカナダの北東部にあり、文化的には北欧の影響を受け、その昔はバイキングの勢力範囲だった。タイタニックが沈没したのはこの島の500キロほど沖合いらしい。
<今日の一句> 水仙や 少年の日の さわやかさ 裕
田中角栄が初当選した昭和22年の総選挙で、角栄を応援する角帽かぶった学生達の姿が人目をひいた。彼らは早稲田大学雄弁会の学生達だった。
「国破れて山河あり。われわれはこの難局を家族あい寄って生きぬかねばならない。民族は家族によってかたちづくられ、民族の象徴は天皇制である。社会主義革命を説くとは何事だ」
どうして早稲田大学の学生が角栄の選挙を応援するために新潟までやってきたかというと、彼らは角栄に恩義を感じていたからだという。戦後、早稲田大学の校舎は老朽化し、あるいは戦争中に焼夷弾で焼かれたりなどして、雨漏りで授業ができないほどだった。大学は業者に修理を依頼するが、どの業者もろくな仕事をしようとしない。
何しろインフレがすごいので、資財の値上がりを待っていたほうが儲かった。そんなとき角栄の会社が契約通りの価格で仕事を請け負ってくれた。こうしたことがあったので、早稲田の学生は田中角栄に恩義を感じていた。また、彼という人物を信用したのである。こうして早稲田大学雄弁会と田中角栄のつきあいが始まった。
角栄が政界で頭角を現しはじめると、早稲田大学雄弁会からも有力な政治家が輩出することになった。竹下登、小渕恵三、海部俊樹、森善郎、渡部恒三、三塚博、青木幹雄、深谷隆司、玉沢徳一郎、額賀福志郎、山本有二、柳本卓司、松永光など総理大臣、閣僚経験者をふくむ40以上の国会議員を出している。特に小渕恵三首相の内閣では、雄弁会が日本の政治をハイジャックした感さえあった。
同じく早稲田大学出身の田原総一郎は「日本の政治」(講談社)の中で、「田中政治は角栄が首相に就任して以来、30年も、この国を完全に仕切り、生き続けているわけだ。あらためて、田中派出身の主な実力者たちを並べると、二階堂進、竹下登、金丸信、梶山静六、小沢一朗、羽田孜、渡部恒三、奥田敬和、橋本龍太郎、小渕恵三、野中公務、青木幹雄、綿貫民輔など、興味深いことに旧帝大卒、官僚経験者は一人もいない。田中角栄は、文字通り旧帝大卒が牛耳っていた田中以前の政治構造を叩きつぶしたことがわかる」と述べている。参考までに、竹下登以下、歴代の首相を上げておこう。
竹下 登 早大 宇野 宗佑 神戸商大 海部 俊樹 早大 宮沢 喜一 東大 細川 護 上智大 羽田 孜 成城大 村山 富市 明大 橋本龍太郎 慶大 小渕 恵三 早大 森 喜朗 早大 小泉純一郎 慶大 <今日の一句> しづかなる 大木はよし 寒き日も 裕
田中角栄は子供の頃、体が小さい上に吃音がひどくて、それが原因で近所の悪童たちにずいぶんいじめられたという。小学校の5年生の頃は学校に行くのがいやで、腹痛が起して、担任の先生に雪道を担がれて家に帰ったこともあった。不思議なことに、家に帰って囲炉裏端に坐ると腹痛はすぐに収まった。
あるとき父親がそれに気付いて、「嘘をつくな」と叱り、角栄を裸にすると、吹雪の中に放り出したことがあった。角栄はそのとき、父親に殺されるのではないかと思い、雪の中を裸で逃げ回ったという。それから角栄は父親が怖くて、学校を一日も休まなくなった。しかし、吃音は治らない。あいかわらず、いじめは続いた。
あるとき教室で、いたずら小僧が角栄に石をぶつけておきながら、自分で「痛い」と叫んで、角栄を犯人に仕立てたことがあった。教壇にいた先生は、「田中かっ!」と怒鳴りつけた。しかし、興奮した角栄は余計に吃音がひどくなって、抗弁しようにも声が出ない。角栄はくやしくて硯を思い切り教室の床に投げつけたという。
吃音は歌をうたうとき影をひそめた。そこで角栄は歌うようにしゃべることを心がけた。そして、節を付ける話し方を身につけるために、小学校の講堂で催される旅回りの芸人による浪花節を聴きに行った。夜間のことだから、担任の先生の許可をもらって出かけたのだという。
記憶力のよい角栄は、一度聞いただけでその文句や節回しを覚え、さっそく翌日教室で復唱して見せた。同級生たちは角栄の浪花節にひきこまれ、毎日昼休みになると聞き惚れたという。担任の金井先生はのちに新聞にこう語っている。
「とにかく、とほうもない記憶力でした。浪曲などにはまったく興味を持たない、若い教師の私でしたが、ひと晩であれだけのことを頭に詰め込めるとは、驚きというより言いようがありませんでした」
浪花節を覚えることで、角栄は吃音を克服した。しかしそれだけではない。角栄はこうしてクラスの人気者になり、自信を身につけることができた。芸は身を助けるという諺の通り、その後も角栄は浪花節によって人生のピンチを救われることになる。
角栄は昭和21年3月の戦後第一回の衆議院総選挙に地元から立候補するが、聴衆の前に立つと動悸がたかまり、酒も飲んでいないのに真っ赤になって力むので、つかえる癖が出て、まったく演説にならなかった。ある時など、「皆さん」と大声をあげたものの、すかさすヤジられて、そのまま立ち往生した。 「演説がからっ下手でねえか。なにをいいてえのか、分からねえでがん」 ヤジられると言葉が出ない。言葉が出ても、訥々としていて、迫力がまるでない。
有力な3人の後援会員は金だけ受け取ると、一人はそのまま角栄を見限って他の陣営に走り、二人はその金で何と自分たちが立候補した。角栄は結局彼自身の他に3人分の選挙費用を負担することになった。宣伝カーも持たない彼は運動員がメガホンで「田中角栄です」と怒鳴りながら歩く後ろを、ただ歩いていくだけだったという。当然ながら、見事に落選した。
しかし背水の陣で臨んだ翌年の総選挙で、角栄は脱皮した。角栄はこのとき、誰も行かないような山の村にまで足を運び、浪花節の心で人情味のある身近な話をした。 「みなさん、家族を大事にしましょ。家族を大事にしねと、この国はようなりませんよ。家族の誰かがこの田中でねえて、別の候補に入れるというても、喧嘩しねでくんなさい。誰も見ていねから、そっと田中と書いてくんなせて」
田中は演説に、自分が子供の頃から吃音で苦労した話とか、貧乏と戦ってきた話を、しみじみと語りかけたという。これが浪花節を愛する貧しい人々の胸にじかに響いた。これまで、新潟三区は地主などの上流階級の代議士しかいなかった。そうした中にあって、高等小学校しか出ていない牛馬商を父親に持つ28歳の角栄が、みごとに3万9千票あまりをとり、11人中3位の好成績で当選した。
この選挙には、意外な助っ人たちがいた。後に有力な政治家を輩出することになる早稲田雄弁会の学生達である。どうして彼らが手弁当で角栄の応援に駆けつけたか。その裏に美談があった。津本陽さんの「異形の将軍」(冬幻社)に書いてある話を、あしたの日記で紹介しよう。
<今日の一句> メジロ二羽 なにやら楽し 琵琶の花 裕
妻がミカンを切って琵琶の木に吊した。そこにメジロがやってきた。どうやらつがいのようだ。居間のソファからガラス越しに彼らの生き生きとした可愛らしい仕草が見える。しばらく、妻と二人でバードウオッチングに興じた。
田中角栄はこんなたとえ話をした。一本の川が流れている。上流と下流に町がある。二つの町の代表が、代議士に橋を架けてくれと言ってきた。そのときどうするか。 �…敢困鬚靴董△茲衂�要性の高い方に橋を架ける。 �△修里Δ舛砲噺世ぢ海韻董�何もしない。 �L蟻未世隼廚辰討い討癲�二つに橋を架ける。
角栄は�,鯀�べば選挙で落選するという。なぜなら、橋を架けてもらえなかった町民の支持を失うからだ。これに比べて、�△鯀�べば選挙は安泰だ。しかし、田中は��を選ぶという。
この流儀で田中は本州と四国を結ぶ橋を3つ架けた。もちろんこんな馬鹿げた計画に大蔵省は反対した。しかし、当時幹事長だった田中は、四国にいる大平正芳と三木武夫の二人の実力者に配慮して、強引に昭和45年度予算に組み込んだ。
こうして本州四国連絡橋公団ができ、小島・坂出ルート(瀬戸大橋)と神戸・鳴門ルート、尾道・今治ルートが出来ましたが、利用者はさっぱりで、累積赤字は4兆5千億円になる。その金利を払おうにも金融機関は金を貸してくれず、いまは自治体からその金を貸してももらっているが、これが地方の財政を圧迫し、破綻させようとしている。こんなことが、何十年間も全国各地で行われ、私たちはその負債に苦しめられている。
日本には既得権がばびこっている。これをだれも奪われたくはない。そこで、必死に抵抗する。政も官も財も思い切って体制改革しなければ日本が沈没することは分かっている。しかし、沈んでいく船のなかで、まだ既得権にしがみついて、それを手放そうとしない。したがって、改革についてはいつも総論賛成で、各論反対ということになる。これでは前に進みようがない。
日本の改革は、よほど指導力のある政治家が出てこなければだめだ。角栄ではだめで、信長のようなタイプが望ましい。とは言っても、独裁者ではこまる。利権政治を打倒し、日本を民主的に改革するするには、公選首相が一番ふさわしいと思うがどうだろう。
<今日の一句> あたたかき 光りはあれど 風寒し 裕
学園ものの連続テレビドラマ「ごくせん」の主人公は、任侠集団の跡取り娘・山口久美子(仲間由紀恵)。彼女が教師として悪名高き白金学院高に着任し、筋金入りのワルばかりが集まった3年D組の担当を任される。見所はハイライトで聞かせる「ごくせん」通称ヤンクミのキメ台詞。いくつか拾ってみました。
「おめえら不良の風上にもおけねえ奴だ。先公を馬鹿にするのも上等、喧嘩するのも上等。けどな、卑怯なまねはするんじゃないよ。正々堂々胸張って不良やりやがれっていうんだ」
「お前の母親がいままでお前のことから逃げたことがあったかよ」
「お前にはピンチの時、一生懸命かけまわってくれる仲間がいるんだぞ。そいつらにもっと弱味をみせてもいいんじゃないか。みんなお前につきあう覚悟できてんだからよ」
「お前、あの娘を守るために戦ったんだよな。それが本当の喧嘩ってものだ。男だったらな、何か守らなければならないもののために戦わなければならないときが必ず来る。そのときに腹を据えてどこまでやれるかで、てめえらの価値がきまるんだ。ケンカの基本は素手でのタイマン勝負。薄汚い暴力と一緒にするな。ケンカは何かを守りたいという熱い心でするもんだ」
「痛いだろう。素手で殴れば痛いに決まっているんだ。痛むのは手だけじゃないだろう。いろんな重さがずしりと来ただろう。生身の人間を殴るというのはそういうことだ。そんな当たり前のことも分からないで、下らないおもちゃ振り回しているんじゃないよ」
「ほれた女に裏切られたからって、あんなことして楽しいか?お前がほれたっつーのはその程度かよ!」
「誰かが手を貸してくれるの待っているんじゃないよ。そんなんじゃな、おまえは弱虫のままなんだよ。・・・一人で起き上がれないのか。逃げてばっかのやつに、手を貸してくれるほど世の中は甘くないんだよ」
「嫌なことがあったとき、逃げたくなるのはみんな同じなんだよ。でもそこで逃げたらおしまいなんじゃないのか。いやな目にあったって、自分の力で立ち上がっていくってことが、生きていくってことなんじゃないのか。・・・忘れるなよ。今みたいに自分で起きあがって、立ち向かって行けばいいんだよ」
「ばかやろう。ふざけたこと言うんじゃないよ。何がつまらないだ。学校というところは遊びに来るところじゃないんだ。勉強するところなんだよ。テストでいい点をとるために勉強するんじゃないんだ。苦しいことや嫌なことから逃げないために勉強するんだよ。 人というのはな、一人で生きていけない。だから仲間と一緒に生きていくことを勉強するんだよ。学校というのはな、そういうことを勉強するためにあるんだよ。だからちゃんと通って、きっちり卒業するんだよ。 いいか、お前ら、よくきけよ。お前らは勉強はできないかもしれない。優等生じゃないかもしれない。けど、けど、人間として一番大事なものをちゃんと持っている。ここにな。だから、自信持って正々堂々と胸張って生きてけよ」
「まだまだ未熟な奴らなんです。だから失敗もするし、間違ったこともするんです。だけど、ただそれだけで、不良のレッテルを貼って切り捨てないで下さい。こいつら人よりもちょっと失敗が多いだけなんです。それも個性なんです」
「ごくせん」ヤンクミ先生の決めゼリフに対して、教育カウンセラーの富田富士哉さんがこう書いています。
「今の子供たちは学校や家庭のすべての場面で、当たり障りのない人間関係になっているんですね。親子関係にしても生まれた時から、親が髪を振り乱して自分と向き合ってくれたという実感がない。だから、そんな子供たちはこのドラマを憧れから、親の世代は昔はこんな人間関係があったなあ、という懐かしさからみているとおもいますね。 そして“親が稼いだ銭をなげるんじゃねえ”みたいに、親の気持ちを代弁してくれるようなセリフもあって、親として嬉しくなるシーンがあり、また子供たちは捨て身で生徒と向き合うヤンクミ先生にかっこよさを感じる。その両面がうまく作られているのが特徴ですね」
最後に、ドラマの中の生徒の言葉。
「あいつは、俺達に色んな事を教えてくれたんだよ。大人なんか・・センコーなんか信じらんねーって、ずっと、そう思ってた。けど、ヤンクミはそうじゃねぇーって思わせてくれたんだよ。こいつなら、信じられるかもしんない。こいつなら、心ん中見せてもいいんじゃねーかって」
<今日の一句> 毛糸着て 街を歩けば 日脚伸ぶ 裕
35.女の横顔 学校が終わったのが、3時過ぎだった。いつも一緒に帰っている古川さんの姿がないのでさがしていると、中山さんが、「もう帰ったよ」と言う。可愛い女生徒に誘われて、一緒に帰っていったらしい。私はひさしぶりに、中山さんの車で豊田まで送ってもらうことにした。
この春教師になった3人の中では中山さんが一番若かった。京都大学の数学科を卒業して、数学科の教師をしていたが、家は曹洞宗のお寺で、幼稚園も経営しているという。格式の高いお寺らしく、お父さんは本山の永平寺で要職にあるという話だった。
「将来、坊主になるのかい」 「できたら兼業でいきたいな」 「半聖半俗か」 「いや、たぶん、なまぐさ坊主だろうな」 「若いときにどうしょうもないやつほど、豁然大悟して、いいお坊さんになるかもしれないよ」 「当分のあいだは、悟りたくないな」
大学ではフットボールの選手をしていたというだけあって、体格がよく、とても抹香臭い坊さんには見えない。大学時代の同級生とすでに婚約しているという。来年にも結婚式を挙げるので、そのときは招待状を出すのでよろしくとのことだった。
「京都の人なんだ。お寺の家に入るとなかなかたいへんだろう。だから、本人も迷ったようだけど、最後は押しの一手で落としたんだ」 「フットボールと一緒だね」 「まあね、ところで、橋本さんはいい人いるの」 「いいや、そんなのいないよ」 和江の顔が浮かんだが、遠くへ押しやった。 「橋本さんは、もう悟っているのかな」 「そんなことはないさ」
途中、バイクの高校生を追い抜いていく。K高校は山の中の交通不便の地にあるので、バイク通学が許可されていた。追い抜く度に中山さんは生徒に手をふっている。やがて猿投神社の鳥居の横を抜け、数年前に天皇が来て植樹祭が行われたという緑化センターの前を通った。そこから、10分ほどで、豊田駅だった。駅が近くなったところで、
「どうだい、今夜僕の家に来ないか。幼稚園の先生を紹介するよ」 「どうしてまた?」 「一人お薦めのきれいな人がいるんだよ。歳が26歳なのがたまにきずだけど、橋本さんならいいと思うんだ。どうだい、会ってみないか。今日、たまたま職員の懇親会なんだ。ビールとご馳走もたっぷりあるよ」 私は心が動きかけたが、和江の電話を思い出して、 「今日は駄目なんだ、ちょっと野暮用でね」 「そうか、それじゃあ、またそのうちに・・・」
車から降りた後、私は駅の方に歩きながら、前を歩いていく若い女の素足を眺めていた。そして、町子のことを思いだした。木曽川の河原で、町子を抱いて唇を奪ってから、もう一ヶ月が立っていた。その後、私は仲人を通して、正式に別れる決心を伝えた。唇を奪った上、無慈悲な別れ方をした女の淋しい横顔が、薄日が差すように私の脳裏をかすめて行った。
<今日の一句> まどかなる 冬月見たり 病みあがり 裕
| 2003年01月19日(日) |
日本の今を知るために |
最近の私の日記は、まるで田中角栄に汚染されてしまったようだ。実は書きたいことが角栄の他にもあるのだが、ここは辛抱して、角栄につきあっている。しかし、できればあと数回で終わりにしたいものだ。
何故角栄に拘るのかということだが、それは立花隆さんの「田中角栄がわからないと、日本の政治の今はわからない」という言葉に集約されている。もう少し、立花さんの文章を引いてみよう。
<今の日本の政治に起きていることを本当に理解しようと思ったら、さまざまな意味で、角栄政治、角栄の時代に立ち戻ってみる必要があるということである。そこまで立ち戻ってみないと、小泉改革がなぜ必要になったのかわからないし、小泉改革がなぜうまくいかないのかも分からない>(「田中真紀子研究」立花隆)
この立花さんの本の中に、角栄のスポークスマンであった早坂茂三秘書の書いた「鈍牛にも角がある」の文章が引用されているので、孫引きしておこう。もと新聞社の政治部記者だけあって、角栄型政治の実態がわかりやすく要約されている。
<角栄は戦後政治そのものである。角抜きでは戦後政治は語れない。とりわけ昭和47年7月の政権獲得から同60年2月、脳梗塞で言葉を失うまでの間、田中は日本政治の「主人公」だった。田中内閣に続く三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の政権までを「三角大福中」と呼ぶ。ところが、その実質は「田中角栄の時代」だったのである>
<悪党・田中の力の源泉は最盛期で143人に達した数の威力である。今一つ、角栄は役人操縦術の家元であった。官僚国家、官僚主義ニッポンは、霞ヶ関のスーパーテクニクラート大集団の協力がなければ立法、行政ともに一センチも進まない。この役人達を田中は自在に動かした>
<持ち駒の主力は大蔵、建設、郵政の三省である。私の親方は田中軍団を一糸乱れず動員して、自分が操縦できる表の政権を作った。国家予算はじめ、政権党のあらゆる政策決定過程に介入し、衆参両議員、大がかりな地方自治体の選挙戦は事実上、自分が取り仕切った。「角影」「直角」「田中曽根」など、田中支配の時代にマスコミが使った形容詞は、歴代政権と田中の関係、距離を端的に表現している>(「鈍牛にも角がある」早坂茂三、光文社)
私は戦後政治を知る上で、もう一つ大切なのは、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」に書かれている「マッカーサーの時代」だと思っている。田中角栄が一段落ついたら、ふたたび、こちらに戻りたいと思う。吉田や岸といった、田中の一つ前の世代の政治家が何を考え、戦後日本についていかなる国づくりを目差していたか、それがどう田中角栄の時代につながっていったか、そのあたりのことも調べてみたいと思っている。
<今日の一句> さわやかに 翼広げて 冬鴎 裕
| 2003年01月18日(土) |
日中国交回復の舞台裏 |
昭和47年9月1日、角栄はハワイでニクソン大統領と会談した。二日後の共同声明で、「日中国交回復は世界の緊張緩和に役立つ」とうたわれ、田中は日中国交回復に向けて、アメリカのお墨付きを得た。こうして、角栄は9月25日に中国へ旅立つことになった。
「日本の総理大臣として行くのだから、土下座外交はしない。国益を最優先して、向こうと丁々発止とやる。いよいよとなったら決裂するかも知れないが、その責任は俺がかぶる」(佐藤昭子「私の田中角栄」)
角栄は日中国交回復の旅に出れば、生きて帰れないかも知れないとひそかに心構えをしていたという。。その頃、「国賊・田中角栄」のビラが街中に貼られ、右翼が街宣車を連ねて、官邸周辺で吠え立てていた。角栄の演説会場で、刃渡り30センチの刃物をもった男が逮捕されたり、いきなり車の前に飛び出して寝ころぶ男や、田中事務所に「あわせろ」とどなりこんでくる男もいた。
角栄が北京に旅立つ日には、血判書つきの抗議文を懐に、猟銃と刃物で暗殺を企てた右翼の青年が警察に逮捕された。実際に田中首相暗殺計画があったようである。台湾との関係を絶ち、共産主義の中国と仲良くしようというわけだから、右翼は反対する。しかし、こうした中で、田中は世界の情勢を見据えて、この決断をした。
周恩来との会談はかなり厳しいものだったらしい。焦点は台湾問題だった。台湾を中国の一省だと主張する周恩来にたいして、同行した高島条約局長が厳密な法律論を展開して、これに反対した。これに対して、周恩来は日中国交回復問題は政治問題で、法律問題ではない。高島は法匪だとまで言った。田中もこれに対して言い返した。
「賓客にまねかれ、供の従者を非難されたときは、主賓にも帰れと言われたことになります。それが日中共同の文化ではないのですか」 これに対して、周恩来は日本軍が何年、どこの戦いで、何万人殺したと、数字を際限なく上げはじめたという。田中の血圧は200をこえ、鼻血を出すほどだったが、持ち前の粘り腰で望み、希望を棄てなかったという。
「おれは周恩来にこう言ったんだ。今はあなたにとって大きなチャンスですよ。日本では会社と交渉するときは、トップが交代して新しい社長と商売するのが、一番有利なのです。新しい社長には社内の期待もあって、大きな裁量の幅を与えるからなのです。私は今、日本という会社の新しい社長なのだから、あなたにとって大きなチャンスなんです、とね」(野上浩太郎「政治記者」)
こうしてとにかく交渉は妥結した。このときすでにガンにおかされていた周恩来は、10年来医者から禁止されていて口にしなかったマオタイ酒で乾杯し、田中の一行を毛沢東のもとへ案内したという。 「もうけんかはすみましたか。けんかはしなくてはいけません。けんかをして、はじめて仲良くなるのです」 毛沢東は角栄に声をかけ、二人は固い握手をした。このとき角栄のみではなく、随行した大平や二階堂まで毛沢東との対面を許されたのは、中国側の破格の厚遇だったという。
<今日の一句> たましいの 蒼き深さよ 冬の空 裕
| 2003年01月17日(金) |
ロッキード謀略説の検証 |
評論家の田原総一郎は「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」(「中央公論1976年7月号)の中で、ロッキード事件は田中角栄を失権させるためにアメリカがしくんだ謀略だと書いている。田中真紀子をはじめ、多くの人が田原のこの論文を読んで、謀略説を信じている。しかし、立花隆は「田中真紀子研究」の中で、田原の論文を「内容的には噴飯もの」と一蹴している。
謀略説の根拠は、チャーチ委員会に届けられたロッキード関係の内部資料が「誤配」によるものだというが、そんな馬鹿な話はなくて、これは何者かが意図的に仕組んだに違いないということだった。ところが、実際は資料は誤配されたわけではなく、委員会が正規の手続きでロッキード社から入手したものだという。だから、そもそも謀略説の前提が成り立たない。
どうしてこうした事実誤認がまかりとおったのだろう。それは最初アメリカの新聞の第一報に「誤配」と書かれたためらしい。新聞社はこれが間違いだと知って、数日後には小さな訂正記事を出したが、日本の新聞ではこれを報じなかったものが多く、そのまま「誤配」が事実としてひとり歩きしてしまった。立花隆は、「日本では今でも郵便物誤配説を唱える人が多くて困ってしまいます」と書いている。立花隆の文章を引用しよう。
<日本人はロッキード事件は、田中角栄事件だと思っているけど、全くそうではありません。あの事件は世界数カ国にまたがる、とてつもない広がりをもった前代未聞の航空機商戦の汚職疑惑なわけです。国はイタリア、フランス、ドイツ、オランダ、スペイン、スウェーデン、インドネシア、フイリピン、トルコ、イラン、メキシコ、コロンビア、ナイジェリア、サウジアラビアなどにまたがり、ひっかかった人間の中にはイタリアのアンドレオッチ元首相、オランダのユリアナ王女の夫君、ベルンハルト殿下、ドイツのシュトラウス元国防相、スエーデンの空軍司令官よいった人まで含まれています。角栄の資源外交をつぶすために、それだけスケールの大きな事件を謀略として起こすなど不可能なことはあの事件をグローバルにとらえる目を持っている人には疑問の余地なくわかることです>
謀略説ではその中心人物としてキッシンジャーを持ち出すが、実はキッシンジャーは日本への資料提供に反対していたのだという。証拠として、当時国務長官だった彼がレビ司法長官にあてた文書がそれで、そこには「高官名を控えられたし」とちゃんと書いてある。つまり、キッシンジャー謀略説は完全なガセネタだったわけだ。それではそのガセネタの出所はだれかというと、通産省の役人から角栄の秘書官になった小長啓一らしい。
<角栄の資源外交というのは、実際のところ彼が中心になってやったもので、それが角栄がつぶれるとともにしぼんでしまったので、口惜しかったのでしょう。どこかでああいう妄想をしゃべりまくったら、それ田原総一郎の耳に入って、田原がそれを針小棒大にかきまくったら、それを信じる人がたくさんでてきたということです>(「田中真紀子研究」 立花隆)
田原総一郎の「アメリカの虎の尾を踏んだ角栄」のゲラは事前に中央公論から小長啓一のもとに回ってきた。小長はこれは書きすぎで、「手を入れないといかんかな」と思ったが、田中角栄が「大筋いいんじゃないか」ということで、出版されたという。このことを小長自身が「発掘田中角栄」(新潟日報)のなかに書いている。
田中はその後、ゲラを読んだことはおくびにも出さず、はじめて読んだふりをして、この本に書かれたアメリカ謀略説を自ら触れまわったという。こういうところもまた、いかにも角栄らしい。それにしても評論家の言うことも、政治家や役人同様、あんまりあてにならないということがよくわかる。
何故そうなるのかというと、彼らにオピニオンリーダーとしての自覚や責任感がない上に、知性が粗雑だからである。したがって、不利な状況に置かれても、あくまで自説に固執して、自分の誤りを認めようとしない。視野が狭く、客観精神に乏しい日本のジャーナリズムや報道番組では、人気取りのための我田引水と、その場しのぎの言い逃ればかりが横行している。そうした中で、立花隆の文章は良質な知性を感じさせる。
<今日の一句> 何ごとも なきがごとくに 冬日暮れ 裕
昨日の日記で書いたように、自民党には大小の派閥がある。その中でも、田中派(経世会)と福田派(清風会)は相反する政治傾向を持っている。田中派が経済成長優先だとしたら、福田派は財政優先主義というふうである。
ひとつの党に、こうした傾向の違うグループが存在することで、自民党は活力を保ってきた。そしてその派閥の長がつぎつぎと総裁・首相になることで、ある意味で擬似的な政権交代が行われてきた。そしてその総裁・首相のもとで、派閥均衡人事が行われ、それぞれの派閥がその特色を出して、政策を補完し合うことになる。
しかし、派閥政治には重大な弊害がある。それは首相が派閥の長たちの密室の談合で決められることが多いということだ。そしてひとつの党が相反する政策を持っているので、国民は選挙で政策を選択できないことになる。つまり、民主主義が正常に機能しない。
さらに、派閥均衡人事のために、内閣として政策を統一することがむつかしい。たとえば田中派の建設大臣は景気回復優先で動き、福田派の大蔵大臣が財政優先で動いた場合、内閣は相互に矛盾する政策を同時に実行することになる。自動車にたとえれば、アクセルを踏みながら、同時にブレーキをふんでいるようなもので、ガソリンばかり使いながら、車は前に進むことが出来ない。
実はこうしたことが、これまで自民党政治の派閥政治の縦割り行政で行われてきた。バブルが崩壊して、失われた10年が11年、12年になろうとしているが、依然として日本経済は動き出さず、その間に空しく消費された燃料費は累積して莫大な借金になっている。この先も、自民党主導の派閥政治が続く限り、この窮地を脱することはむつかしいだろう。
<今日の一句> かなしみも いつか忘れて 冬の鳥 裕
| 2003年01月15日(水) |
角福戦争の政治的側面 |
戦後日本の政治をリードしてきた自由民主党には大小の派閥があるが、その中で最も際立っているのが、次の二つの流れである。 �ゝ氾椎柊�佐藤派→田中派→竹下派→小渕派→橋本派 ��岸派→福田派→安部派→三塚派→森派(小泉)
この両派の違いは、現実主義者で実利を重んじる田中と、行動に慎重で思慮深く論理的な筋を通す福田の政治手法の違いに典型的に表れている。財政についても、田中は「日本列島改造論」に見られるような経済成長優先の積極派で、一方の福田は財政の健全化を心がける慎重派である。
開放的で庶民的な田中は、平和尊重と民主主義優先のハト派であり、官僚出身の福田はエリート志向が強く、森首相の「神の国」発言にも見られるように、天皇制にシンパシーを感じる保守主義者で、アメリカに追随しながらも、伝統的な精神的価値を重んじるタカ派だといえる。ちなみに石原慎太郎は福田派の出身である。
これに「宏池会」といわれる官僚中心の政治集団の流れがある。頭脳が明晰で、プライドが高く、評論家としては一流だが、政治的パワーに乏しく、俗に「お公家集団」と呼ばれている。大平が田中の盟友だったこともあり、田中派と連合することが多かった。自らは吉田派直系の保守本流を自認している。 �5氾椎柊�池田派→大平派→宮沢派→加藤派
この他、三木派、中曽根派などが加わり、自民党内部で派手な政争が繰り広げられてきた。とくに昭和47年7月5日の総裁選は「角福戦争」と呼ばれ、戦後日本の政治史に残る大激戦になった。どうしてそうなったのかというと、佐藤首相が自分の派閥の実力者であった田中角栄をでなく、実兄である岸の後継者の福田を推したからである。そして福田の次は中曽根という密約までして、田中を自民党総裁・首相の座から遠ざけようとした。
これに反発して、田中は佐藤から独立して田中派を作り、総裁選に臨んだ。さらに中曽根が田中につくというハプニングがあって、田中は福田陣営に逆転して勝利した。総裁選の後、佐藤首相は演壇で田中の会釈にも答えず、首相官邸の庭で開かれた新総裁祝賀パーティにも顔を見せなかったという。首相退任の記者会見では「テレビはどこだ」とブチ切れて、全国民の前で醜態を演じることになった。
佐藤が3年後に脳溢血で急逝したとき、田中もすでに金脈問題に火がついて、首相を辞めていた。佐藤危篤の報で駆けつけた田中は、「こんなふうになっちゃって」といいながら、佐藤の手を握り、体を撫でまわしたという。それからまわりの医者や看護婦の一人一人の手をとって、「オレじゃどうしょうもない。頼むよ、頼むよ」と懇願したという。葬儀委員長は田中が務めることになった。
ところで中曽根はなぜ、佐藤や福田を裏切って、田中に走ったのか。田中から巨額の金が流れたせいだという説もあるが、中曽根は「日中国交政策」が決め手だったと言っている。岸、福田は親台湾派だった。これに対して、田中角栄は親中国の立場だった。そして中曽根も中国との国交樹立を臨んでいた。中曽根が田中支持を決断したのはこうした政治的立場からの判断だという。
田中と福田の違いは、日米安保条約に対する姿勢にも表れている。福田や岸があくまでアメリカに追随し、安保条約を国是として継続させようとしたのに対して、田中は70年代にはこれを堅持するが、80年代は見直しも考えられるという微妙な発言をしている。アメリカ一辺倒ではなく、外交や軍事、エネルギー政策などで日本の独立性を高めるべきだという現実的で柔軟な姿勢だった。
首相になった田中はこうした考えのもとに、中国を訪れ、歴史的な「日中国交回復」を実現する。中東戦争が勃発しても、田中はかならずしもアラブ敵視に走らず、にヨーロッパや東南アジアを歴訪し、独自の資源外交を押し進めた。このことがアメリカの怒りに触れて、「ロッキード事件」を仕掛けられのだという説がある。
立花隆は「田中真紀子研究」のなかで、合理的な推理に基づいてこの説を一蹴している。私も「ロッキード事件アメリカ政府謀略説」はとらない。しかし、アメリカの司法当局が、三木首相の要請に快く応じたことは事実である。これを機会に、田中を叩き、日本を叩いておきたいという意図がアメリカ政府にあったことはたしかだろう。
<今日の一句> かかる日の かかるひととき 冬日さす 裕
田中角栄はどんな相手でも、「サシの勝負に持ち込めば絶対に負けない」と豪語していたそうである。しかし、そんな角栄の交渉術も時には通じないことがある。政治評論家の藤原弘達を相手にしたときがそうだった。
1969年に、藤原弘達が出そうとした「創価学会を斬る」という本の出版を妨害したと言うことで、創価学会が世論の批判を浴び、ついに池田大作会長の国会証人喚問まで要求されるような事態が起きた。そこで、当時自民党の幹事長だった角栄が調停に乗り出した。
角栄は藤原弘達を料亭に呼び出して、本の出版をやめるように説得する。まさに、角栄の得意とする「サシの勝負」である。立花隆が直接藤原から聞いた話として、その時の角栄の言葉を「田中真紀子研究」の中で紹介しているので、そのまま引用しよう。
「いくらほしいんだ。いくらでもほしいだけ、相手に出させる」
「お前は何になりたい。何でもなりたい地位につけてやる。政府や公的機関の役職でも、大学のポジションでも、なりたいものがあったら言ってみろ。どういう地位にでもつけるようにしてやろう」
「よしわかった。それでは、こういうことではどうか。ここで田中角栄の願いを聞いてくれるなら、それを自分の一生の恩義とする。そしてこれからの生涯、何時、何でもいいから、田中にしてもらいたいということが出てきたら、そのとき何でも言ってくれ。それが何であれ、自分はその望みをかなえるために全力をつくし、必ずそれを実現してやることを誓う」
藤原弘達はさすが甘言に屈しなかったが、その迫力には圧倒されたという。 「政治家田中角栄のすごさの秘密をかいま見せてもらったよ。うじうじ理屈なんかこねないで、いきなりストレートにグイグイくるんだ。相手の欲望がどこにあるか見抜こうとして、直接的な表現でくる。ちょっとでも世俗的欲望があるやつなら、たちまち見抜かれて、コロリといっちまうんだろうね」
田中は珍しく交渉に失敗するが、しかし、これによって池田会長とは、電話一本でいつでも話せる気の置けない間柄になった。こうして、田中は野党とも信頼関係を築いて、日本の政界で他を圧する存在感を持つようになった。転んでもただでは起きないところが、いかにも利に聡い角栄らしいところだ。
<今日の一句> 金もなく 位もなくて 空青し 裕
34.スコートの少女たち 正規の教員になって、4カ月があっという間に過ぎた。一学期の終業式を終えて、私は解放感に浸った。40日近い自由な日々が目の前に横たわっていた。部活動の指導や試合の付き添いはあったが、これは私にとって苦役でも何でもなかった。テニス部の女生徒と一緒に汗を流すのも楽しみのうちだった。
その日も昼食の後、テニスコートで生徒達とボールを打っていると、校内放送が入った。 「橋本先生、いらしたら至急事務室までご連絡下さい。電話が入っています」 私はラケットを置いて、テニス着のまま事務室へいそいだ。
電話は和江からだった。 「今夜、お邪魔します」 「はあ」 和江からの突然の電話に、私はうろたえ、曖昧な返事を返していた。 「デートの約束ですか。いいですねぇ」 電話を取り次いでくれた事務員に言われて、私は我に返った。
和江からは1カ月以上連絡がなかった。町子と別れた後、私はこれで和江とも縁が切れたものだと思っていた。そして、晴れて自由の身になったと喜んでいたのだが、やはりぬか喜びだったようだ。
テニスコートへ帰っても、もうラケットを握る気がしなかった。副部長の西野小百合が寄ってきて、私の隣りに腰を下ろした。私と視線を合わせると、 「先生、練習試合の件はどうなりましたか」 「あたってみたんだが、具合が悪そうなんだ」 豊田にある女子校に練習試合を申し込んで、日程の調整がきかないと言って断られたあと、他の学校に電話をする気がなくなっていた。
いつの間にか、私のまわりに少女達の素足が並んでいた。小百合から練習試合のことを訊いた彼女達は不満そうに頬をふくらませた。 「先生、押しが弱いんだから」 「そうよ、もっとがんばってよ」 「それじゃ、合宿でもするか」 私は傍らの草をむしりながら言った。
少女達がざわめいた。 「どこで?」 「ひょっとして、軽井沢?」 「ばかだね、学校の寮にきまっているじゃないか」 「なあんだ」 「私たち、最悪」 寮で暮らしている少女達の間に、失望の声が上がった。私は苦笑して立ち上がると、遠くの山並みに視線を移した。
<今日の一句> 成人の 晴れ着姿で 宮参り 裕
人間の体は飢餓には強いが、過食には弱いといわれている。氷河時代を含む何十万年に及ぶ人類の歴史は、おおよそ飢餓との戦いの歴史だった。飽食などということはありえなかったので、人間の体はそれに対応できるシステムをもっていないのである。
このことは社会についてもあてはまる。日本の社会システムは貧乏をどう克服するかということで動いてきた。政治家のまず第一に考えることは、いかに国民を飢えさせないかだった。こうした貧乏な時代には、田中角栄のような政治家は力を発揮する。しかし彼は繁栄の時代の政治家ではなかった。
<角栄は国家を窮地から立ち直らせるための政策には、きわめて強かったが、繁栄が高じて景気が暴走しはじめると、ブレーキをかける手段をしらなかった。彼の政治家としての経験のなかで、国家の繁栄をくい止めなければならない事態に、遭遇したことがなかったからである>(「異形の将軍、田中角栄の生涯」津本陽)
田中角栄が首相となった昭和47年(1972年)には、まさに日本は「繁栄」の時代に入っていた。47度予算は前年を2兆4千億以上うわまわる12兆1千億をこえ、もちろん史上最高の額である。カラーテレビの受信契約が白黒テレビを抜き、冷蔵庫の普及率は97パーセントに達した。GNPの伸び率は、この一年間で、3.4パーセントから5.3パーセントに跳ね上がっている。
公定歩合は5回に渡って引き下げられ、あまった金が土地投機に注ぎ込まれた。こうした中で、田中角栄はさらに景気を過熱させるアクセルを踏み続けた。47年9月14日の閣議は、青森県六ヶ所村の石油コンビナート建設を、列島改造第一号に決定した。ふたたび、津本陽さんの本から引用しよう。
<土地ブームの波に乗り、全国各地でふしぎな動きがあらわれていた。知事、思潮など地方の首長と親しい企業主らが、突然、坪当たり10円にもならない野原のようなところを買いあさりはじめる。畑にもならない荒れ地を買って、なにをするつもりだろうかと思っていると、そこに四車線の道路工事がはじまり、地価が百倍にも値上がりするという、おどろくべきことがおこり、その結果、地方財閥はこえふとる>
これによって土地が高騰し、インフレが進行した。大豆60キロの末端価格が3000円から5倍の15000円に急騰し、黄色いダイアと呼ばれた。「インフレは、日本列島改造が原因でおこった」という野党の主張が庶民の心をとらえはじめた。こうして選挙に強い田中が首相として迎えた47年12月10日の総選挙で、自民党は議席を26も減らして、271議席になった。結党以来最低の議席数である。一方で共産党が14議席から40議席へ大躍進した。
翌年になると、さらにインフレに拍車がかかった。3月の卸売り物価指数は前年度日1パーセント高になり、庶民の暮らしを直撃した。5月1日、国税庁が47年度の高額所得者を発表したが、それによると上位百人のうち94人までが土地成金で占められていた。田中内閣の支持率は、62パーセントから27パーセントに急落した。あきらかに国民は田中型の政治にあいそをつかしていた。そしてこの年の10月6日に中東戦争が起こる。
10月23日、メジャーのエクソンとシェルが原油価格を30パーセント値上げすると通告してきた。11月になると主婦達が、トイレットペーパー、石鹸、洗剤の買いだめに走り出した。このころから、田中角栄は持ち前の明るさが消え、「だんまりの角」さんになってしまったという。顔面神経炎を患い、答弁の言葉が不明瞭になった。顔のゆがみがだれの目にもわかるようになった。
翌年国土庁は49年1月1日現在、地価公示価格の上昇率は33.4パーセントで史上最高だと発表した。卸売り物価の上昇率は35パーセント、これは終戦後なみの暴騰だった。これを受けて、49年7月の参議院選挙でも自民党は惨敗し、過半数を割り込んだ。福田蔵相と三木副総理があいついで辞任。三木は記者会見で「金権体質の徹底改善」を要求した。
この年49年10月9日に文芸春秋11月号が発売された。そこに掲載された立花隆著「田中角栄の研究・その金脈と人脈」と児玉隆也著「淋しき越山会の女王」は大きな反響を呼んだ。角栄は事前にゲラを読み、文芸春秋に圧力をかけたが、角栄の意向を無視して発行された11号はまたたくうちに売り切れた。これによって、田中角栄は決定的なダメージを受けた。立花隆はインタビューに答えて。こう述べている。
<こんなことになるとは思いませんでした。何というか、老いさらばえたロバが、荷物をいっぱい背負ってヨタヨタしているところへ、ワラを一つかみのせたら、バッタリという感じですよ。田中さんにとっては記事の中身よりも読者の受け止めかたにショックをうけたのではないでしょうか>(10月29日、夕刊フジ)
退陣を決意した田中が前首相の佐藤栄作に挨拶に行くと、佐藤は「君が首相になったときは、マスコミは今太閤といって拍手を送った。ところが文春が出たとたん、金権だ金脈だといって、古い話をタネに非難をはじめた。だが、そういって非難する財界も、自民党の他の幹部も、無責任じゃないか。・・・しかし君はまだ若いんだぜ。いくらでも将来はある」」と励ましたという。
田中角栄は11月26日、退陣を表明した。これでいったん世論の追求が下火になりそうだった。しかし、こんどはつぶてがアメリカから飛んできた。51年2月4日の朝、ワシントン米上院外交委多国籍企業小委公聴会で、ロッキー社のコーチャン氏が、同社の賄賂についての文書を公表した。その中でロッキード社から賄賂を受けた政治家の一人として、田中の名前を上げたのだ。
このあと、田中角栄がどういう道をたどったか、それは日本の政治にとって最悪のシナリオだといってもよい。田中軍団はさらに戦闘意欲をたかめ、角栄は「闇将軍」となって、さらに10年間日本の政治を壟断し続けた。田中流利権政治はその後も改まらず、その結果が80年代に再びバブルを生み出した。90年代にこれが弾けて、いよいよ日本全体がいま闇の中に沈もうとしている。
<今日の一句> 小鳥鳴く 朝の日差しに 琵琶の花 裕
| 2003年01月11日(土) |
国民が幸せになるシステム |
田中角栄は側近に、「学者は駄目だ。世間知らずだ。それよりも役人だ」と言っていたという。日本の官僚の優秀さを彼は理解していた。そして、日本が役人の力で動いている国だと言うことも知っていた。側近の早坂秘書は「籠に乗る人・担ぐ人」でこう書いている。
<田中は、役人の正、負の特徴を仔細に知り、以後、手足のように彼らを動かした。役人の苦手なアイデアを提供、政策の方向を示し、失敗しても、責任を負わせることはしなかった。心から協力してくれた役人は、定年後の骨まで拾った。入省年次を寸分違わず記憶し、彼らの顔を立て、人事を取り仕切った。角栄についていれば損はない。角栄の経験、才幹と腕力、それに役人の知識、ノウハウがドッキングして、相乗効果を発揮した>
角栄は大蔵大臣時代、盆暮れのボーナスのほかに、自分のサインの入った現金入り封筒を幹部職員に配り、役人はこれを「別封」と呼んでいたという。額は百万単位だったそうだが、もちろんこの金を受け取らないと天下り先も世話をしてもらえない。つまり、骨を拾ってもらえない。
角栄は金を受け取らない人間を自分の敵と見なして決して信用しなかったそうだ。金を受け取った人間は、自分の子分として、天下り先も親身になって世話をする。そして、天下り先を確保するために、特殊法人や公団を次々と作っていく。そのつけが、巨大な財政赤字であり、そして官僚の腐敗となって現在、日本の国を破滅へ導くとしているわけだ。まさに、角栄の恐るべき遺産である。
角栄は役人を手足のように使って、自分の政策を推し進めた。役人も又、活躍の場を与えられて奮起した。しかし、一方で角栄は金権と利権のシステムで役所を汚染し、日本の官僚組織を堕落させ、骨抜きにしてしまった。
役人の骨を拾うのは特殊法人への「天下り」だけではない。実は、もっともおいしい天下り先がある。それが、「国会議員」「首長」だ。これは、「天下り」というより、「天上がり」というべきかもしれない。その結果、国会議員や首長の少なからぬ部分が、官僚OBで占められることになった。
<かって参院は、知性と良識の府だといわれていたのですが、ある時期から、知性と良識とはほとんど無縁の巨大労働組合、巨大宗教、巨大職業団体(医師、薬剤師など)、巨大利益擁護団体(軍恩連、遺族会など)など、巨大団体のオンパレードのようになり、その中でも、国内最大組織である日本国の官僚組織代表がグループとしては最大の議席を持ち、戦前の貴族院に官僚OBがぞろぞろ並んでいたことを彷彿させるような状態になってしまったのも、角栄全盛時代にはじまっているのです>(「田中真紀子研究」立花隆)
建設省、農水省、自治省、運輸省、大蔵省、郵政省、警察庁がいずれも参議院に4人以上の議員を出している。厚生省や防衛庁などの他の省も複数の議員をだしている。田中角栄は自分になびく官僚を各省庁の族議員として、次々と国会に送った。そしてとうとう日本の政治を壟断し、今日の「政・官・業」の癒着した、どうにもならない利権と腐敗の状況をつくりだした。
こうした金権と利権の体質の中で、戦後の日本は発展した。田中角栄の「だれをも幸せにするシステム」は右肩上がりの経済成長を生み出し、米国でさえうらやむような平和で豊かな魔法の世界を作り上げた。しかし、その幻想はいまや崩れ、バブルとなって弾けた。
そして現在日本を破滅の瀬戸際に追いつめている700兆になろうとする巨大な財政赤字が残され、すさまじい勢いで増殖しつつある。その温床となっているのが、角栄の築き上げた金権と利権の社会システムである。これを打破し、金権と利権によらずに、「人々が幸せになるシステム」を築くことが、ほんとうの政治改革である。
<今日の一句> 我がこころ 燃ゆるものあり 寒椿 裕
田中の金権金脈でいつもやり玉にあがるのが、信濃川河川敷買い占め事件であろう。地元民から洪水で苦しんでいるという苦情を受けた角栄は、「そんなに困っているのなら、オレがその土地をみんなかってやろう」ともちかける。
そうして地元民が喜ぶような値段で、土地をまとめがいする。そので終われば美談だが、このあとが角栄らしいところで、政治力を使って、そこに立派な堤防を作り、橋を2本もかる。こうして1億円で買った土地が、時価700億円の土地に大化けした。
まさに驚くべき錬金術である。もっとも、この錬金術は、彼が官僚に圧倒的な支配力をもつ政治家だからできたことだ。建設省事務次官だった高橋国一朗は新聞のインタビューに答えて、こう述べている。
<田中さんと官僚の関係ですか。やっぱり僕らは道路財源を確保するガソリン税法などを通じて、田中先生に大変な恩義を感じていますから。頼まれたことはできるだけ協力するのにやぶさかではなかったですね。私に限らず建設省としてですね>(「発掘 田中角栄」新潟日報)」
つまり、ここでも角栄は地元民に恩を売り、しかも自分はしこたま利益を手にしている。角栄はこのようにして、選挙民の苦情を解決して、圧倒的な支持を得ると同時に、自分はその何倍もの利益を手にしていた。
田中角栄は道路族といわれる議員のドンだった。道路、橋、トンネル、港湾設備、ダムなど、角栄は建設省のやるすべての仕事ににらみをきかせた。そのかわり、官僚をあつくもてなした。建設省関係の特殊法人をたくさんつくって、そこに建設省関係のOBを次々と天下りさせていった。さらには、多くの建設省OBを田中派から選挙に送り出した。そして田中派は建設大臣のポストを握り続けた。
地元民、官僚、政治家、そして建設業者のだれもが得をするシステムである。田中派の代議士は選挙のたびにこれらの人々の献身的な協力によって当選を続た。こうして日本の政治を独裁した。田中派はときには「田中軍団」と呼ばれ、彼はその「将軍」とも「天皇」とも呼ばれたが、国民からは「今関白」と呼ばれて親しまれた。田中派の代議士は彼を「オヤジ」と呼んで慕った。
彼は当時の多くの人々にとって幸せをもたらす「福の神」だった。しかし彼が築き上げた金権・利権のシステムの中で、人々の心から貴重な何かが確実に失われて行った。後世の歴史家は彼をどう評価するだろう。彼こそ日本人の心を堕落させ、国を「亡国」へと導いた元凶だと指弾するのではないだろうか。
<今日の一句> 鳥あそぶ 河原を見れば 冬すすき 裕
角栄がいかにやり手の政治家であったかということは、政治の私的側面である、利害の調整にもよく現れている。彼の手法は一口に言って、「だれにも得をさせる」ということだった。その双方においしい思いをさせるのだから、彼は双方から感謝され、愛されることになる。
そしてその交渉を成立させる中で、自分自身もちゃっかり名声と地位と富を築いていった。しかし、いったいそんな魔法のようなことが可能なのだろうか。それができたのである。具体例を見てみよう。
1971年、彼は通産大臣のとき「日米繊維交渉」を成功させている。当時アメリカは対日貿易赤字に悩んでいた。そこで繊維製品の自主規制を日本にせまってきた。しかし、このアメリカの要求を飲むことはできなかった。日本の繊維産業が黙っていなかったからである。
佐藤首相はこの問題を解決するために、大平、宮沢という実力派の政治家を次々と通産大臣に任命し、交渉に当たらせたが進展がなかった。そこで最後の切り札として、懐刀の田中角栄を登板させたわけだ。田中はさっそく単身アメリカに乗り込み、電光石火、あっという間にこの難問を解決してしまった。
田中の解決策とは、アメリカの要求を「ほとんど丸飲み」することだった。これに日本の繊維業界は怒ったかというと、少しも反発しなかった。業界は莫大な損失補償を手に入れたからだ。
<角栄はこの問題は本質的に、外交の問題ではなく、国内政治の問題だと考えたんです。そのようなコペルニクス的転回をすることによって、問題の捉え方を、百八十度転換してしまったんです。
要するに、これ以上アメリカと交渉をつづけていてもどうにもなるものではない。だからアメリカの要求は理不尽であるが、やむをえないものとして受け容れてしまおう。日本の外交の基本である良好な日米関係を築くと言う立場を貫く限り、それしか選択はない。
問題は、それによって日本の業界が困ったことになり、損失が相当出るということだ。その損失補償を十分すぎるほど充分行い、民間が困らないようにしてやればいいではないか。基本はそういうことなんです>(「田中真紀子研究」立花隆)
これにニクソン大統領はよろこんだ。このあと行われた佐藤首相の訪米に福田外務大臣とともに随行した角栄は最大限のもてなしを受けたという。歓迎の昼食会のとき、ニクソンは角栄の肩を抱くようにして自分の隣りに坐らせたが、そこは本当は福田の席だった。親睦のゴルフ会ではニクソンは自分の運転するゴルフカートに53歳の角栄を載せ、その後ろを66歳の福田が徒歩でとぼとぼと歩くことになった。
佐藤は自分のあとを福田に任せることに決めていた。だれもが田中が総理大臣になることを想像もしていなかった。しかし、これを契機に、田中の評価が大きく変わっていく。そしてついに1972年の総裁選では、キャリア、年齢、門閥、学閥、すべてにおいて勝っていたサラブレッドの福田をおしのけて、54歳の角栄が総理大臣の椅子に坐ることになった。
ただこのとき田中角栄が使った金は80億円だったと言われている。これに対抗して、福田陣営も相当のお金を使った。まさに札びらの乱れ飛ぶ金権総裁選挙だった。角栄の一番古い公設秘書で、金の受け渡しなどを担当し、経理部門の統括者としてその実体を一番よく知っていた山田泰司は、角栄の死後こう証言している。
<田中政治が金権政治だといういろいろ批判もあるが、それは認めざるを得ないでしょうな。確かに罪悪だとも思う。しかし田中先生には学閥も門閥もなかった。何もない人が裸一貫から総能力を傾注してのしあがら、総理になった。その間に人と対抗していくために、あるていどの金も必要だ。金がなければそう急にも伸びられない。・・・金権政治は過程としては現実にあったが、いつまでも続ける人ではなかっただろう。金権政治と言われるものは、その時代としてやむを得ない一つのものであった、と考えざるを得ない>(「宰相 田中角栄の真実」篠田昭、講談社)
田中にとって、問題解決とは、つまり双方に札束を握らせるということであった。それではそのお金はどこから来るのか。田中は「総理になれば、金は向こうからやってくる」と言っていた。たしかに、自民党幹事長になり、総理になった彼のもとに、お金は向こうからやってきた。はるかアメリカからもやってきて、そのお金が彼の命取りになったわけだ。
<今日の一句> はだら雪 残るコートに 子等の声 裕
政治は二つの側面を持っている。ひとつは、国のあるべき進路を決め、そのために意志決定をするということ。これを政治の公的側面と呼ぶ。もう一つは、構成員のあいだの利害の調整である。これを政治の私的側面と呼ぼう。
田中角栄はこの両面において、よきにつけ悪しきにつけ傑出た政治家だった。そこで、今日は彼の政治家としての歩みを、公的側面から見てみよう。角栄は政治家として、どんな理念をもち、どんな政策を持っていたか。また、そうした理念や政策や、政治家としての信念はどこから生まれたかということである。そのためには、彼がどんな生い立ちを持ち、どういう経緯で政治家を志したかを見ておかなければならない。
田中角栄は大正7年5月4日に、新潟県刈羽郡二田村の古い農家に生まれている。高等小学校を卒業した昭和8年ころは不景気まっさかりで、適当な仕事がなかった。そこで、土方になる。収入は一日50銭だったという。
<現場には、おもしろいおじいさんがいて、私にこんな話をしてくれた。「土方土方というが、土方はいちばんでかい芸術家だ。パナマ運河で太平洋と大西洋をつないだり、スエズ運河で地中海とインド洋を結んだのもみな土方だ。土方は地球の芸術家だ>(「私の履歴書」田中角栄)
角栄はこのあと16歳で上京し、土木会社の住み込み小僧をしながら夜学に通った。軍隊に行き、満州で初年兵の苦しみを体験し、戦地で結核を患い、内地の病院に送られるが、仙台の病院では1週間ほど危篤に陥った。しかし、彼は病を克服し、社会復帰すると猛烈に働きだした。25歳の時は「田中土建工業」を創設し、社長になっている。そして、この会社を足場にして、国政選挙に打ってでる。そのときこんな大きな夢を語っている。
「新潟と群馬の県境にある三国峠を切り崩してしまえ。そうすれば、新潟に雪が降らなくなって、新潟は雪の苦しみから逃れられる。切り崩した土は海に運んで、新潟と佐渡をつないでしまえ」
その後、田中角栄は政治家として頭角をあらわし、自民党の幹事長になり、総理大臣にまで上り詰めるわけだが、その間、一貫して国土開発の夢を持ち続ける。山を切り崩して、日本国中に道路を造り、海を生み建てて国土を造成し、産業を振興させ、庶民に豊かな暮らしをさせたいというのが、彼の政治家としての理念と政策であり、そしてそのために彼はあらゆる手段を行使することをいとわなかった。
彼が議員立法として成立させた法案は33件にのぼり、この抜群の記録はいまだに破られていない。そして、その法案の多くは「国土開発」とそのための「特殊法人」に関するものである。小泉改革で廃止が決定している「日本道路公団」「首都高速道路公団」「日本鉄道建設公団」「日本住宅公団」「本州四国連絡橋公団」など、すべて角栄が成立させたものだ。角栄は自分は一番法律に詳しい政治家だと豪語していたが、実績をみるかぎりホラではない。
また、彼は誰も考えないことを考え、実行するアイデアマンでもあった。たとえば、彼が昭和28年に議員立法でつくった「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」はガソリン税を道路建設の財源にするというおよそ当時としては考えられない常識破りの法案だが、これが国土建設の基本的なシステムとして働き、現在にいたる道路建設に潤沢な財源を与えてきた。
ちなみに2002年のガソリン税の総額は5兆5千億円である。防衛費の2倍をこえている。しかもこれは国の正規の予算ではなく、すべて特別会計である。これに一般会計の公共事業費が加わるわけだから、建設省と土建業界は笑いが止まらなかった。こうして日本は角栄が夢に描いた「土建国家」として発展し、未曾有の高度経済成長をなしとげることになった。こういう国の将来を作る背骨となるような法案を、まだ30代前半だった田中角栄が作り上げた。このあと田中は39歳で戦後最年少の郵政大臣になっている。
角栄は日本の政治家には少ない夢を持ち、それを熱く語り、そしてそれを実現する手腕をもった政治家だった。戦後政治をつねにリードし、エネルギーに満ちた日本復興の立て役者だった。彼は火の玉のような男であり、日本を動かす強力なエンジンだった。田中はロッキード事件で倒れたが、彼の死後も彼の築いたシステムは生き残り、その結果経済が過熱して土地や株が値上がりし、とうとうバブルとなって弾けた。
あとにのこったのは、国民に夢を語ることの出来ない矮小な政治家や官僚たち、そして彼らと業界の利権構造のなかで蓄積された目のくらむような国の財政赤字と、未来に展望を見いだせないしょぼくれた大勢の国民である。角栄なき後、政治家はだれも国民に美しい夢を語ることをしなくなった。彼らがやっていることはただの権力闘争であり、自分たちの私腹を肥やすことだけである。
私は田中角栄が語った「日本列島改造」の夢をあるていど評価している。苦労人の彼が、自分の体験のなかから、幸せとは何かということを考え、そこか育まれた気宇壮大な夢である。しかし、残念ながらそこには人間の幸せに対するいくつかの誤解があった。
そのことに気付かなかったことが、苦労人田中角栄の限界であり、それはとりもなおさず彼の語る夢に酔いしれていた私たち国民の限界だった。今必要なのは、もう少しましな夢を語ることの出来る、もうすこし上等な政治家なのである。そしてそのために必要なのは何か。それは国民や政治家がもう少し「幸福とは何か」を自分の頭で考えること、つまり「哲学」を持つことだろう。
(参考文献) 「田中真紀子研究」 立花隆 文芸春秋 「田中角栄とその弟子たち」 久保紘之 文芸春秋 「異形の将軍・田中角栄の生涯」 津本陽 幻冬社
<今日の一句> 正月の 思い出のこす 注連飾り 裕
今年から年賀状を全廃したかったが、妻が、先々を考えて彼女の父親と弟の2枚だけは書きなさいという。その2枚とS子さんへ書いた。福井の実家にも出すべきかもしれないが、こちらは初志貫徹ということで勘弁して貰った。昨年度の年賀状で「全廃」しますと宣言したが、3枚だけ例外を作った。
例年に比べると賀状の数がかなり減ったが、それでも40通以上が来た。中には、「賀状がないと淋しい。でも返信は不要です」と書いて下さった方もいた。そうした方もふくめて、頂いた方には返礼を差し上げることにした。
あらかじめ印刷した紙を封筒に入れて出すだけだが、余白に一言、二言書き込んでいると、いつの間にか時が過ぎていた。自分は横着をして、相手の好意や愛情だけ頂いているのだから、いくらか気が引けたが、相手からの年賀状に感謝したり味わったりしながら、あれこれ思い出に耽った。
教え子の一人から来た賀状には家族の写真が載っていた。私は二児の母親になった彼女の笑顔に見とれた。卒業式のあとのクラスのコンパの席で、彼女は「先生、好きよ」と言って、私の片頬にキスをしてくれた。その少女がいつか和服の似合う奥さんになっている。
最初の赤ちゃんが生まれたとき、私は別の高校に転勤していたが、彼女はご主人の運転する車で学校まで会いに来てくれた。そして学校の会議室で、私は彼女の赤ちゃんを抱かせて貰った。
私の胸に抱かれていた赤ん坊が、小学生の上級生になっていた。黒い洋服の晴れ着の胸に、赤い花をさして、大人びた様子で椅子に坐って微笑している少女を眺めながら、私は過ぎ去った日々のことを思い出し、何ともいえない幸福感を味わっていた。
<今日の一句> 教え子も 母のほほえみ 年賀状 裕
33.別れの予感 初夏の風に、町子のキュロットの裾がふくらみ、白いもち肌が覗いていた。私はそのあわいから手を滑り込ませ、彼女のあたたかい下腹部のふくらみに掌を押しあてた。もう片方の手は、セーターの上からやわらかな胸の感触を捉えていた。セーターがずれて、静脈の浮いた肩があらわれた。
接吻をしながら、町子の肩がわずかに震えているのに気付いた。やがて彼女の喉から、ひくっ、ひくっ、という音が漏れてきた。身を離した彼女は、セーターの胸を押さえながら、 「私ったら、馬鹿みたい」 「なんだ、しゃっくりか」 「びっくりさせるんだもの」 顔をしかめると、また、ひくっと喉を鳴らした。
私は苦笑して立ち上がった。赤い電車が鉄橋を渡っていくところだった。対岸では魚釣りをしていた男達がこちらを眺めていた。鉄橋の電車の音が消えて、川の音が響いてきた。
しゃっくりの収まった町子は、ふたたび石塔をつくりはじめた。私はそんな彼女をぼんやりと眺めた。荒涼とした石ころばかりの河原が、異次元の世界のように感じられた。彼女の影だけが風の中で揺れていた。
小石を積んでいる彼女の横顔がいつになく真剣で、塔が今までより高かった。厳かな手つきで最後の小石を載せたあと、彼女の手にひとつ小石が残っていた。 「壊したい?」 町子は能面のような微笑を浮かべて私を見た。私が首を横に振ると、町子は立ち上がって、力任せに小石を投げた。石塔が音を立てて崩れた。 町子のやさしい顔が、その瞬間だけ夜叉のように見えて、私は胸を突かれた。 帰り道、押し黙って歩く彼女の傍らに身を寄せて、手を握ってみた。その手を彼女は軽く握り返してくれた。
町子は運転をしながら、音楽を聴いていた。アパートの前に着いたとき、私は助手席から手を伸ばして、彼女の膝に触れた。 「寄って行かないか」 このまま帰したら、再び会えないかも知れないと思った。町子は唇を噛んで、前を向いていた。キュロットから伸びたほっそりした膝が、小刻みに震えていた。 「ごめんなさい」 町子はハンケチを取り出すと、片頬を拭ってから、頭を下げた。私は彼女の膝からあわてて手を離した。
午後の日差しの中を遠ざかっていく白い車を見送りながら、私は町子との終わりを予感した。それは私が考えていた結末とはいくらか違っていた。アパートの階段を上る足取りが、しだいに重くなった。
キッチンのテーブルの上に、紅茶とピザが残っていた。私はピザをつまみあげると匂いをかいだ。彼女の瞳と声が甦り、しゃっくりを思い出した。冷えたピザのほのかな香りが、心の底にしみてきた。
石の河原で、 積み上げた小石を崩した。 日盛りの風の中に、 女の影が動いた。 唇は笑っていたが、 目は怒り、頬は泣いていた。 女を悲しみの岸に誘った。 彼女のあおじろい裸身が、 この世でいっとう美しい、 もう一匹の夜叉になることを、 ひそかに夢見ながら。
(第一部 終わり) 第一部の縮約版が「賽の河原」が出来ました。
<今日の一句> 赤塗りの 郵便ポストに 雪帽子 裕
昔なじみの、赤塗りの郵便ポストが近所に立っている。昨夜からの雪で、辺りは白く雪化粧した。おそらく、郵便ポストの頭には、雪帽子が置かれていることだろう。出かけていって、写真を撮ろうかと思ったが、寒いのでやめた。
この冬一番の寒波だそうだ。しかし今のところ、私の住んでいる一宮市に積雪はない。ふるさとの福井の家はどうだろうか。たぶんひっそりと雪に埋もれているのではないだろうか。そんなことを考えているうちに、今日の一句が浮かんだ。
ふるさとや 古きいらかも 雪の中 裕
雪が降ると、きまって三好達治の「雪」という詩を思い出す。有名な詩なので、日本人ならだれもが知っていて、愛唱しているのではないだろうか。たった二行の短詩だが、とてつもなく広くてゆたかな世界を感じさせる。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ
詩について書かれた本の中で、私が一番影響を受けたのは、大岡信さんの「詩への架橋」(岩波新書)だろう。大岡さんがどのようにして短歌や詩と出会い、自ら詩人になっていったのかよくわかる。彼自身がその半生で出会った俳句や短歌や詩がたくさん引用されているが、「雪」もその中に入っている。そして秀逸な鑑賞文として、井伏鱒二の文章が紹介されている。
「四歳か五歳の太郎次郎が青い鳥を探しあぐね、疲れ切って寝床で眠っている。ところが青い鳥は、いつの間にか囲炉裏端にきて泊まっている。こんな説明は蛇足だが、ともかくこの詩は、今、しんしんと雪を降りつもらせている」
いきなり「青い鳥」が出てきて驚かされるが、大岡さんは、<これは全く突飛にみえる空想だけれど、一たん書かれてしまえば、これほどこの詩にふさわしい、そっと詩を見守りつつ詩の中身を濃くさせた鑑賞もなかったように感じられる。詩人の心をもう一人の詩人の心がさりげなく、まっすぐに射抜いたのである>と書いている。
銀をたくさん持っている者はしあわせだろう。 妻をたくさん持っている者は嬉しいだろう。 だが、何も持っていない者は眠れるだろう。
大岡さんはシュメール人が五千年前に粘土板に刻んだこれらの詩をいくつか引用したあと、<こういうものを読むと、人類の科学技術や文明生活の便宜がいかに驚異的な進歩をとげたところで、人間自身はむかしから今にいたるまでえんえんと続く「人間喜劇」の幕間狂言を、楽しげに、あるいは哀れに、演じつづけている点で変わらないのではないか、という思いに襲われる>と書いている。
この本が発刊されたのは1977年だ。同じ頃、「詩への架橋」という題で大岡さんの講演会があった。私はまだ学生だったが、さっそく聴きに行った。そして私はおおいに感動した。
<人間は誰しも、「あかずの部屋」を心の奥深く持っているのです。その部屋の扉は容易なことでは開きません。ほとんど、一生の間、開かないで終わることのほうが多いのです。ところが、ここに言葉というふしぎなものがあって、その扉をそっと開けてくれることがあります>
人の口から出る言葉というものがこれほど力があって、そして美しく、魂の奥深くしみとおってくるのかと驚いた。大岡さんの口から出た魔法の言葉が、まさしく私自身の心の奥深くに眠っていた「あかずの部屋」の存在をあきらかにし、そして、おどろいたことに、そこをそっと開けてくれたのである。
<今日の一句> ふるさとや 古きいらかも 雪の中 裕
去年の4月から始めた「一日一句」だが、9カ月続いて年を越した。あと3カ月続けばめでたく一周年である。読み返してみると、春、夏、秋、冬と、その時々の自然の豊かさが実感される。ああこんなこともあったなと、なつかしい情景が目に浮かぶ。スナップ写真を見るような楽しさがある。
俳句は何よりも短いのがいい。作るのも簡便だが、読むのも簡単だ。それでいて、自然の風物や生活の息吹が感じられる。もう何百年も伝統があるので、先人の作品を読む楽しみもある。つぶやいているうちに、愛着がわいてくる佳句も少なくない。
俳句は他人の句を読むのも楽しいが、作るのが一番だと思っている。作ってみればいろいろなことがわかる。わずか17音の小さな世界が、実は意外と自由で、広々とした世界だということも分かってくる。ほんとうの自由が何かと言うことが実感できる。
私はむつかしい理屈は知らず、気儘に作っているが、ただ、読んだ本の中に、「俳句の生命は切れ字にある」と書いてあったのは覚えていて、いつも心に留めている。
古池や かわずとびこむ 水の音 芭蕉
この句で言えば、「古池や」が「切れ字」になっている。これがあるので、この句は名句なのである。もし切れ字がなかったらどうだろう。
古池に かわずとびこむ 水の音
これではただの凡句だ。意味が切れることで、そこに人生の無限の深みがあらわれる。この沈黙こそ、俳句のいのちである。俳句の言葉は、この沈黙を導くための道しるべである。俳句を味わうということは、この沈黙を味わうということだ。俳句の詩としての美しさはここにある。
<今日の一句> 門松を ひとつ見つけて 引き返す 裕
万葉集では歌がさまざまな観点から分類されているが、歌い方としては、� 崟欺區棺錙瓩燭世砲�もひをのぶる」方法と、�◆峇麒�陳思=ものによせておもひをのぶる」方法があげられている。正述心緒の歌には次のような作品がある。
世の中は空しきものと知る時し いよよまさりて悲しかりけり (巻5−793 大伴旅人)
しかし、基本は「寄物陳思」(きぶつちんし)、つまり、「物に寄せて思いを陳べること」だろう。主情だけを述べたのでは印象が弱い。客観物に託して述べればイメージが浮かぶので、それだけ感動が深くなる。
君が行く道の長路を繰り畳ね 焼き亡ぼさむ天の火もがも (巻15−3724 狭野茅上娘女)
これは正述心緒の歌とも言えるが、「君が行く道の長路」「繰り畳ね焼き亡ぼさむ」という具象が入って、歌が生き生きとしている。
み熊野の浦の浜木綿ももへなす 心は思へどただに逢はぬかも (巻4−496 柿本人麻呂)
夏の野に繁みに咲ける姫百合の 知らえぬ恋は苦しきものそ (巻8−1500 大伴坂上郎女
わが宿の夕かげ草の白露の 消ぬがにもとな思ほゆるかも (巻4−594 笠 女郎)
万葉集には��「譬喩」の歌という分類もある。事物それだけを述べて、心に思うことを譬えるものだ。ある意味ではもっとも客観に徹した事実の歌だといえよう。しかし、これも「寄物陳思」と言ってよい。事物の背景に主観が潜んでいる。
若の浦に潮満ち来れば潟を無み 葦辺をさして鶴鳴き渡る (巻6−919 山部赤人)
軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに 玉藻の上にひとり寝なくに (巻3−390 紀皇女)
わが宿のいささ群竹吹く風の 音のかそけきこの夕べかも (巻19−4291 大伴家持)
最後に現代短歌から一首。これは万葉集の分類でいうとどれにあたるのだろう。� ↓◆↓�の中から選べなどという愚問はしないでおこう。
観覧車回れよ回れ想ひ出は 君には一日我には一生 (「水惑星」 栗木京子)
<今日の一句> 凧あげて 洋菓子食べて お正月 裕
昨日の元旦は、うららかな春のような一日だった。そこでお昼頃、家族4人と愛犬一匹で、名古屋市の庄内川に遊びに行った。途中、アピタに寄って、鳥の餌にする食パンを買った。河川敷に着くと、さっそく妻がパンをちぎって空中に投げはじめた。
しばらくして、白いカモメの群が集まってきた。二人の娘が加勢すると、カモメの数はさらに増えて、空中で餌を奪い合い、けたたましい鳴き声があたりにこだました。私はデジカメを構え、何枚も写真を取った。
鳩や鴨なども集まってきたが、カモメの勢いに恐れを為したのか、少し遠慮している。カラスでさえ、近づくとカモメに逐われていた。このカモメ、なかなか気が強い。帰ってから辞書で調べると、ユリカモメだった。別名を都鳥という。
名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと (都鳥という名を持っているお前に問いかけよう。都に住む私の大切な人は達者でいるのか、もうすでにこの世にいないのかと)
都落ちして隅田川までやってきた在原業平が、望郷の思いに駆られて問いかけたのがこのユリカモメだった。由緒のある鳥なわけだ。それにしても、白い翼が空中に乱舞する姿はなかなかの迫力だった。
妻たちはもう3年も前から毎年正月になるとここにやってきて、これを年中行事として楽しんでいるらしいが、私ははじめての参加だった。怖いので少し離れたところからカメラを構えていると、「だめよ、もっと近くから」と注文を付けられた。
ユリカモメと遊んだあとは、凧揚げである。カイトと奴凧を家から持ってきたが、これも3年前から続いているわが家の年中行事である。カイトの方は空高く舞い上がったが、奴凧はなかなか上がらない。去年も、一昨年もこの凧を持ってきたが、一度も上がらなかったという。
凧揚げは子供の頃得意だったので、ここは父親の権威回復のチャンスとばかり、細長い紙の足をつけるなどの工夫をほどこして、張り切って糸を引いた。しかし思うように上がらない。一旦上がっても、すぐに落ちてしまう。やりなおしているうちに、奴の頭のところが痛んできた。「奴さんがかわいそうじゃないの」という妻と娘の非難の声で、私もしぶしぶあきらめた。
家に帰ってから、デジカメの写真をみんなで見た。奴凧の勇姿は撮れなかったが、初春のめでたい空にユリカモメの乱舞する姿はそれなりに撮れていた。いずれHPの表紙で、この写真を紹介しようと思っている。
なお、万葉集にも鴎は登場する。おめでたい歌なので、引いておこう。ここで歌われている鴎もユリカモメではないかと思われる。
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は (巻1−2 舒明天皇)
<今日の一句> 初春の めでたき空に ゆりかもめ 裕
数年前までは、正月は福井の実家で迎えていた。12月31日に帰り、2泊するというのが定番だった。福井は海の幸に恵まれている。正月のお節料理に欠かせないのが、数の子、ぼうだら、ま蛸、ぶりの照り焼き、むつの鏡焼きである。そのほか、わらびやぜんまいの煮付けなど、山の幸も豊富だ。そしてこれにカニや刺身が加わる。
しかし、この数年間は正月の帰省をとりやめている。一昨年は長女の大学受験があり、去年は雪のせいだった。今年も次女の大学受験を控えているので、福井へは正月のかわりに春に帰省することにした。春なら雪の心配はないが、そのかわり正月料理にありつけないのが残念である。
正月を自宅で迎えるために、なにがしかの準備をしなければならない。妻は31日の午後まで仕事ということで、そのお鉢がまわってきた。昨日は長女と二人でジャスコやナフコ、カネスエなどの店の食料品売場をまわり、お節料理をゲットした。私のおめあてはぼうだらやぶりなど福井でおなじみの料理だったが、残念ながらここ一宮のスーパーマーケットには見当たらない。
正月はゆっくり炬燵に入って、ひねもすテレビを見ながら料理に舌鼓みを打つというのが福井での過ごし方だった。しかし、料理が貧弱だと格好がつかない。考えてみれば炬燵もないので、風情のない正月になりそうである。しかし、大学生の長女も帰ってきて、久しぶりに家族水入らずの団欒である。映画でも見に行くか、優雅に俳句や短歌でも作って過ごしたい。
我が心空行く凧に似たりしや見えざる糸を誰かつながむ
これはもうだいぶん前に詠んだ歌である。どんな心境で詠んだのか忘れたが、何となくたよりのない歌である。短歌や俳句にはその時々の心が現れていて面白い。最近はこんな短歌を詠んだ。こちらの方は、人生に前向きで、感謝の心が現れている。
木枯らしに寝床ととのひ温かき妻を娶りし幸いならむ それはそうと、今年から年賀状を全廃した。昨年の賀状にその旨を書いたのだが、喪中の葉書がかなり来ている。賀状も来そうだ。正月から返しを書いていると大変である。しかしなしのつぶても具合が悪い。浮き世の義理や人情から足を洗いたいのだが、なかなかむつかしい。
<今日の一句> 海の幸 山の幸あり 寝正月 裕
末筆になりましたが、皆様、本年もよろしくお願いします。
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