橋本裕の日記
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4月12日から始まったテニスの公式試合が昨日で終了した。秋の新人戦のシングル個人戦でブロック優勝したI君は、今回は決勝で負けたので、残念ながら県大会はなしということになった。これでもう8月まで公式試合はない。連休がつぶれることもないので、顧問としては少し息がつける。
昨日のダブルス個人戦は3会場でおこなわれたが、顧問のM先生やコーチのS先生に協力していただいたので、私はひとつの会場だけ見ていればよかった。そこで携帯用のアームチェアをコート脇の木陰に置いて、試合の合間はそこでのんびり読書をした。
さいわい気持ちのよい晴天だった。ときおりコートでプレーする他校の若者たちに視線をそそぎ、ボールの音や応援の拍手の音に耳を傾けながら、木洩れ日の中でのさわやかな読書である。これなら試合の付き添いも悪くはないと思ったが、これも気候がいいからで、夏や冬の大会ではこう優雅にはいかないだろう。
おりしも昨日は「みどりの日」だった。もとの「天皇誕生日」である。戦前は「天長節」と言ったらしい。今国会に「みどりの日」を「昭和の日」に変更する祝日法改正案が提出されている。これが通ると、「みどりの日」は5月4日に移行されるのだという。
<戦争の暗い思い出が伴う「昭和」を、素直には祝えないという反論もある。だが「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」という「昭和の日」の趣旨には広く国民の理解が得られるのではないか>
<占領期や昭和の歴史を問い直すことで日本人にしか語り得ない複雑な歴史のひだが見えてくるはずだ。そうした観点からも「主権回復の日」や「昭和の日」をめぐる議論の高まりを期待したい>
これは4月26日の読売新聞・社説の抜粋である。休日が増えるのはありがたいが、「昭和の日」は「昭和天皇の偉業をしのぶ日」という感じで、私はあまり賛成できない。どうしても「昭和を偲ぶ日」がつくりたいのなら、8月15日の「敗戦記念日」はどうだろう。
(参考サイト) http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20030426ig90.htm
今の高校に転勤してきて、まる5年が過ぎた。この24年間で6校を経験している私にしては長い方である。前任校には4年間の勤務だった。転勤にあたって、全校生徒の前でお別れの挨拶をするのだが、あいにく私は都合で出席できなかった。しかし、そのとき生徒達に話すつもりでまとめた「こころの羅針盤」という文章が残っている。今日はそれを紹介しよう。
<みなさん、羅針盤を知っていますか。コンパスやジャイロスコープともいいますね。磁石で出来ていて、東西南北の方向を知るためのものです。航海には欠かせないものですね。飛行機もこれがないと飛べません。紙と火薬と羅針盤を世界3大発明だと習った覚えがあります。どれも中国で発明されたものだそうです。中国文明はすごいですね。
ところで、人生も旅にたとえられます。「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」なんていう有名な芭蕉の句がありますね。芭蕉も旅が好きだったようですが、コンパスをもっていたと思いますか。まさかそんなものは持っていなかったでしょうね。芭蕉が棒磁石を持って歩いたなんてどこにも書いてないです。
しかし、じつは彼も立派なコンパスをもっていたのです。彼は人生に彼なりの目標や志をもっていました。だから彼の人生は決してたんなる放浪の旅で終わってはいません。あてのない旅のように見えても、実はそうではなかった。それは彼が「心の羅針盤」を持っていたからではないでしようか。
「心の羅針盤」という言葉を私はある人の文章を読んでいて知りました。そしていい言葉だなと思って、よく口にします。「心のコンパス」でも、「心のジャイロスコープ」でもいいのですが、私は「心の羅針盤」が好きですね。でも若いみなさんは「心のコンパス」のほうがいいかな。ジャイロスコープでもいいです。とにかく、この言葉、ちょっと心にとめておいてくれませんか。
「心の羅針盤」とは何か。それぞれ違った解答があると思います。「人生の目標そのもの」だとも言えるし、「良識や常識」だと答える人もいると思います。「地位や名誉や権力だ」あるいは「お金がすべてだ」と言う人もいるかもしれない。またある人は「それは良心だ」と答えるでしょう。何を「心の羅針盤」に選ぶかで、人生も違ってきます。
皆さんはどんな羅針盤を持っていますか。一度自分の羅針盤を点検してみましょう。まだ持ってないと言う人は、これからすばらしい「心の羅針盤」を発見してほしいとおもいます。実は勉強することの本当の意味は何がほんとうに大切な「心の羅針盤」であるかを考えることにあるのです。なぜなら、それによって人生が違ってくるからです。
「心の羅針盤」がないと、人生に迷います。そしてやみくもにあっちへ行ったり、こっちに行ったり、右往左往して消耗します。思わぬ事故にあったり、不安と焦燥に駆られて、あくせくしなければなりません。でも「羅針盤」があれば、心にゆとりがうまれます。そして時には鼻歌をうたいながら道草ができます。そして路傍の野の花や木立や青い空をながめ、ゆったりと人生の旅を楽しむことができるでしょう。かけがえのない人生を、思い切り生きて、そして思い切り楽しむために、「心の羅針盤」を大切にしたいものです>
1.ごまめの歯ぎしり
私が福井の高校から金沢大学の物理学科に進学した年は、七十年安保の前の年で、東大の安田講堂占拠事件があったりして、世の中が騒然としていた。私はすぐにこの騒動に巻き込まれ、共産党の下部組織の民主青年同盟という組織にはいった。
高校生の私は河合栄治郎の「学生に与う」を読んで、「己の人格を陶冶すること」に人生や学問の価値を置いていた。しかしこうした考え方は社会主義の洗礼を受けた私には、いささかもの足らなく感じられた。
大学に入って最初の夏休みに福井に帰省したとき、私は父の崇拝する先祖崇拝の宗教を批判した。そして社会主義の優れたところを述べた。しかし、父は聞く耳を持たなかった。
「そんなに日本が嫌いなら、ソ連でも中国へでも行ってしまえ」 「日本が嫌いじゃないさ。むしろ好きだからこそ、戦争のない平和で豊かな日本にしたいからこそ、今の体制を変えなければならないと考えているんだ。そしてそのために努力するのが我々市民の義務だと思うんだ」 「ごまめの歯ぎしりだな。世の中はお前の考えている程甘くはないさ」
父の言葉に私は失望した。そして、こんな風だから、日本の労働者階級は救われないのだと、暗澹とした気分になった。
(「結婚まで」は一休みします。その穴埋めに、「あかね雲」をしばらく連載します。私の大学時代に取材した自伝小説です)
今年次女が大学生になった。フレッシュマンである。長女は大学三年生。二人とも国立大だが、年間の学費は半端ではない。私の時代、月1000円だったことを考えると、隔世の感がある。
長女はアパートを借りているが、この敷金や家賃が馬鹿にならない。次女には「自宅から通える国公立」という親の要望を伝えてあったが、その条件を満たす選択をしてくれた。
大学生なった次女を見ていて思うことは、高校時代よりあきらかに学習時間が減っているということだ。土日に加えて木曜日も学校に行かなくてよいと言うから、週休三日制である。何とも優雅な生活ではないか。
私は娘達に「大学に進学しろ」とか、「受験勉強をしろ」とはあまり言わなかった。二人とも県立高校だったが、学校では正規の補習もなく、また学習塾に通うこともしなかった。二人ともアルバイトをしたりして、どちらかというと高校生活を自由に過ごした。それでも根が真面目なので、必要な受験勉強は自分でしていたようである。
大学生になった娘達に、私が望むことは、「本物の勉強をすること」である。そのために高い学費をだしているのだから、頑張って貰わなければ困る。大学生になった次女に、私は、「どこの大学に入ったかは問題じゃない。大切なのは大学で何を学ぶかだ」と言った。
世間では「ゆとりの教育」が批判されているが、不思議でならないのは、大学生や社会人がほとんど勉強しないことが少しも問題にならないことである。勉強は何も高校でおわるものではない。学校を出てからも一生続くものである。
ゆとりの教育を批判する大人達こそもっと勉強してもらいたい。そうすれば「ゆとりの教育」の何であるか理解できるはずだ。ゆとりの教育とはまさに、勉強がどれほど人生で意義があり、楽しいものであるかを学ぶことなのだから。
| 2003年04月26日(土) |
法隆寺とパルテノン神殿 |
紀元前350年ころ、マケドニアのアレクサンドロス大王はギリシャを統一すると、その後東征して、わずか10年程でエジプトからインド西部にまたがる大帝国を建設した。そしてその過程で東西の文化の交流がすすみ、その後の数百年にわたるヘレニズム時代がはじまった。
ギリシアはローマに文化を伝え、ヘレニズム期からローマ帝国の時代にかけてギリシア文化はペルシャやインド文化と融合し、そうしてできたギリシア・ペルシャ・インド文化がガンダーラの文化となって中国、朝鮮半島、そしてついには東の最果ての日本にまで伝わってきた。
ギリシャのパルテノン宮殿には唐草模様の装飾が施してある。同様の唐草模様は日本の正倉院の工芸品にもうかがえる。これは中国の文化の影響というより、ギリシャの唐草模様が中国に伝わり、これが日本に伝わったのだと考えられる。
和辻哲郎が「風土」のなかで、法隆寺の円柱にはるかギリシャのパルテノン神殿との類似性を指摘しているが、法隆寺の仏像に見られるアルカイックスマイルもヘレニズム時代にギリシアの文化が5世紀のモンゴル高原・北魏を経由して日本まで伝わってきたものだ。シルクロードを通り、東西の異文化の交流があったことはまちがいない。 パルテノンができたのが紀元前5世紀で、法隆寺ができたのが紀元後7世紀だから、その間には1000年以上の歳月が流れている。私は法隆寺を訪れ、微笑している高雅な仏像を眺める度に、この悠久なる人類の歴史を想わないわけにはいかない。そして私たちの文化の源流にパルテノン神殿の神々の残映を見て、はるかなギリシャ文明への憧憬と郷愁を新たにする。
民主主義は衆愚政治に陥り、やがて独裁制を生み出すと、プラトンは「国家」に書いた。事実、アテネはペリクレスなきあと、スパルタとの戦いに疲弊し、おそれていた僭主政治がよみがえった。その間の歴史をくわしく見てみよう。
アリストテレスの「アテナイ人の国制」によれば、ペロポネソス戦争末期の頃、アテナイには、三つの政治的な派閥があったという。すなわち民主派と寡頭派と、この間に立って「父祖の国制」を求める穏健派の者たちがいた。寡頭派は「上流の中で徒党をつくっていた人々や、亡命者の中で平和回復後帰国した連中」で、その中にクリティアスもいた。
BC 405年秋、アイゴス・ポタモイの海戦において、アテナイ海軍を壊滅させたスパルタ提督リュサンドロスは、そのまま南下して、同年末、アテナイの外港ペイライエウスを海上封鎖した。一方、スパルタ王パウサニアスは、陸路アテナイの郊外にあるアカデメイアの森に進駐した。こうして、アテナイは完全に孤立無援に陥り、アテナイ市内に餓死者が続出した。
こうしたなかで、寡頭派の民主派に対する攻撃が先鋭化した。彼らは、先ず、主戦民主派の領袖クレオポンを弾劾裁判にかけて抹殺し、民主派のおもだった将軍その他の指揮官および市民をも、弾劾裁判によって粛清した。主戦民主派の力が衰えた頃、穏健派のテラメネスがスパルタ王パウサニアスから託された降伏の条件を持って帰ってきた。
長壁の破壊、海外領土の放棄、12艘を除くすべての兵船の引き渡し、亡命市民の帰国承認、そしてスパルタの同盟国となることなどがその条件だったが、BC 404年春、アテナイの民会は無条件降伏を受け入れ、27年に及ぶペロポンネソス戦争は幕を閉じた。
スパルタのアテネ占領とともに、かって民主派に追われて国外に亡命していたクリティアスがアテネに帰国し、スパルタの占領軍の力を背景に復権し、テラメネスらとともに「三十人」僣主と呼ばれるようになった。アリストテレスによれば、「彼らは三百人の鞭を携えた者を手下として国家を独裁した」という。
反対派を粛正しただけではなく、「財産や生まれや名声の点で秀でた者たちを殺して」対立の根を未然に絶った。わずか8か月の間に、1500人を下らぬアテナイ人が殺されたが、この数は、ペロポンネソス戦争の初めの10年間にわたる戦死者の総数をこえるものであったという。
やがて クリティアスは穏健派のテラメネスをも粛正する。そして反対の武力蜂起を押さえるために市民から武器を取りあげ、スパルタに兵700 の派遣を依頼し、彼らをアクロポリスの丘に駐留させた。しかし彼のこうした冷酷な力による支配は市民の反発を呼び、ついに民主派が立ち上がってクリティアスを倒した。
その後寡頭派を支持するスパルタ提督リュサンドロスと彼の業績をねたむスパルタ王と間に軋轢がおこり、宗主国スパルタの弱体化もあって、BC 401年には再び、アテネにまがりなりに民主制がよみがえることになった。しかし、すでに戦禍に見舞われたアテネにギリシャ世界の盟主としての輝きはなかった。その数年後にはソクラテス(B.C470〜B.C399)が毒杯を飲んで刑死している。
(参考サイト) http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/index.html
独裁者は民主主義の敵である。いかに独裁者をださないか、古代アテネではBC508、クレイステネスが「陶片追放」という制度を設けた。これは陶器のかけらに危険人物の名を記し、有効投票数が6000票以上の場合には最多得票者を10年間国外追放するというものである。
アテネではこの制度によって、次々と有力な政治家や権力者が国外に追放された。たとえば、マラソンの語源にもなったマラトン戦でペルシア軍の大軍を破ったアテネの重装歩兵部隊の指揮官だったアリステイデスがそうだ。
マラトンの成功体験はアテネ市民に「陸軍重視」の風潮を生むことになる。そしてその立て役者が英雄となったアリステイデスだった。これに危機感を抱いたのが、テミストクレスだった。彼はアテネの生きる道は「海軍」にあると訴え、陶片追放によってアリステイデスをアテネから追放してしまう。
テミストクレスは艦船建造を押し進め、やがてアテネを新鋭艦の三段櫂船200隻を擁する一大海軍国に仕上げた。彼の予言通り、10年後、ペルシャの大艦隊が襲ってきた。テミストクレスは待っていましたとばかり、サラミスの海戦(BC480年)でこれを撃滅し、その後のアテネの繁栄に礎を築いた。
しかしアテネ市民はその後時を隔てず、この救国の英雄さえも独裁者になる野心ありと見なして陶片追放してしまう。いかに権力者や独裁者を恐れていたかがわかる。またこの用心があったから、アテネは輝かしい民主政治の都として歴史に名前を刻むことができたのだろう。
ギリシャの陶片追放は現代でいうリコール制の先駆である。独裁者を出さない仕組みとして、他には執政官の「多選禁止」があった。アテネの場合は執政官は一期のみで、しかも後にはこれを抽選で選ぶという念の入れようだった。こうした民主主義の原則は、現代にも生かされている。
たとえばアメリカ大統領はもともと三選禁止ではなかったが、初代ワシントン大統領や第三代のジェファソンが三選を辞退して以来、長年の慣行となっていた。フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領(在1933‐45)はこの慣行を破って三選されたが、これが権力の腐敗や独裁政治につながるとの批判を呼び、現在は合衆国憲法第22修正によって、三選は禁止されている。
多選や終身制の国家元首というのは、どうしても独裁的になり腐敗しがちである。「絶対権力は絶対腐敗する」(アクトン、「自由の歴史」1907)という有名な格言のとおりである。いまや独裁者の代名詞となったイラクのフセイン大統領も、多選がもたらした悪弊だといえるだろう。
彼が行った政治は、その初期においてまさに栄光の名に値するものだった。大統領に就任した当時、彼はこまめに町や村に足を運び、各地で熱狂的に歓迎されたという。朝日新聞の4月20日の書評の欄に掲載された栗田亘さんの文章を引用しよう。
<科学技術の振興、農地の解放、教育の充実。サダムは識字運動への貢献でユネスコに表彰された。それに女性の解放。イラクでは一夫多妻制は事実上消滅したという。人々は、国の歴史上初めて、純粋に国民の生活向上に努力してくれる政府が登場したと受け止めた>
リコール制と多選禁止は独裁制を阻止し、民主政治を行う上の要諦である。もしアメリカの大統領が三選を果たすべく、合衆国憲法を変えようと言い出したら、それはアメリカが独裁者の支配する国になる兆候だと言えよう。もっとも日本のように、首相が次々と猫の目のように変わるのもいただけないが。
芭蕉の門人の中で、私の好きなのが丈艸(1662〜1704)である。彼は尾張犬山藩士内藤源左衛門の長子として生まれている。幼くして母と死別した。武士を捨てて遁世し、近江松本に住んだ。元禄2年に蕉門に入り、芭蕉死後ひたすら追善に生涯を捧げた人だ。享年43歳。彼はたとえばこんな句を残している。
うづくまる薬の下(もと)の寒さかな
1694年(元禄7年)10月7日、芭蕉危篤の報を受けて、丈艸は近江から大阪の芭蕉の病床に駆けつけた。この句は芭蕉の死の前日の11日に、芭蕉の枕元の句会で詠まれた句である。芭蕉は多くの門人たちの句には言及せず、ただ「丈艸出来たり」とだけつぶやいたという。その場にいた去来がこう書き残している。
「かかる折りには、かかる誠こそうごかめ。興を探り、作を求めるいとまあらじとは、その時にこそ思ひ知侍りけり」(去来抄、丈艸詠)
芭蕉の墓は琵琶湖を臨む景勝地に立つ義仲寺にある。丈艸の故郷は尾張の犬山であるが、故郷には戻らず、芭蕉の墓の近くで暮らして、そこで生涯を終えた。だれよりも芭蕉を敬愛する気持が深かったからだろう。
陽炎や塚より外に住むばかり 木枕のあかや伊吹にのこる雪
芭蕉をだれよりも敬愛していた丈艸に「芭蕉忌」の句がないのだという。このことについて長谷川櫂さんが「俳句の宇宙」のなかで、「不思議なことだ」と書いた後、その謎をこう解いている。
<丈艸にとっては毎日が芭蕉忌だった。十月十二日だけ、ことあらためて芭蕉忌の句を詠むこともない。また、芭蕉をあまりに身近に感じているから、かえって「芭蕉忌」という突き放した言葉にしっくりしないものを感じていたのかもしれない。芭蕉への思いが深ければ深いほど、「芭蕉忌」のような醒めた言葉はつかいにくいのだ>
長谷川さんは「近代俳句はあくまで17音字の世界にこだわる。ときにはお役所仕事のように杓子定規になることもある。忌日の句を見ていると、俳句が近代になって得たもの、失ったものが見えてくる」と書いている。近代俳句が得たものは薄っぺらな作品主義や作家主義であり、失ったものは丈艸の句のような質朴な「まこと」ではないのだろうか。
俳句や短歌が好きで、自分でも勝手に作っているが、他人からとやかく言われるのが嫌いで、同人誌や結社にはいる気はしない。あくまで自分勝手に楽しんでいるだけだ。
私は人生に大切なもののひとつに「詩」があると思っている。人生をたんなる生活ではなしに、もうすこし美しく、真実なものにするために、芸術があり、詩があるのだと思っている。
そのむかし、人々はだれもが詩人だった。庶民の誰もが歌をうたい、人生を「詩的」に活きていた時代がたしかにあった。このことを私は「万葉集」から学んだ。その後、時代が下がるに従って、詩的なものは庶民の生活の中から失われていった。
これを再び庶民の手へと返したのが、芭蕉だった。芭蕉の発明した「俳句」がそれである。わずか17音で構成される世界最小の詩である。しかも、それはまさに因習に囚われない自由な詩だった。
古池や蛙飛びこむ水の音
この句は1686年の春、江戸深川の芭蕉庵でできたらしい。芭蕉は池に蛙が飛び込む音を聴いて、「蛙飛び込む水の音」と作った。そして上五をどうするか思案していると、其角が「山吹や」がいいのではないかと提案した。其角が「やまぶきや」とつけたのは、「古今集」の次の歌が頭にあったからだ。
かはずなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを
山吹や蛙飛びこむ水の音
其角にはこれ以上のものがないように思われた。ここにあるのは和歌の伝統的な世界を破壊するための機知である。「山吹」には「蛙の声」という短歌的な因習を、「蛙飛びこむ」という意外性で粉砕する。これはなかなか痛快なことではないか。まさに俳句の真骨頂ではないか。
しかし芭蕉はこの案をしりぞけた。そして「古池や」という何の変哲もない言葉を選んだ。このことについて、俳人の長谷川櫂さんが「俳句の宇宙」の中で、こう書いている。
<芭蕉が其角の進言をいれず、古池をもってきたのは、其角たちが考えていた当時の俳諧というものを、やはり一歩、前に進めようとしたからではないか。1786年の芭蕉には、すでに、因襲へのあらわな批判もひとつの因襲と映っていたのかもしれない。芭蕉は其角や以前の自分自身の俳諧に対する考え方を批判しようとしたのではないか。
そこで芭蕉は和歌のように「かはずなくゐでの山吹」とも歌わないが、其角のように「山吹や蛙飛びこむ水の音」としようとも思わない。因襲に囚われるのでもなく、因襲を真っ向から批判するのでもない、そのどちらも超越した不思議な新しい空間に「古池や」という言葉はある。古池の句は、和歌やそれ以前の俳諧に対する芭蕉の創造的批判の句なのだ>
この句によって、芭蕉は俳句の中に和歌の教養からも自由な、自立した詩の世界を創造した。「やまぶき」から「古池」への一歩をなしとげたのは、詩人としての芭蕉の天才だった。そして、教養や伝統という因襲を徒にかかわりあい、これによりかかるのではなく、自然や人生そのものに真っ直ぐ目を向けることが大切だと考えて、「竹のことは竹に学べ」という名言を残した。
芭蕉は何でもない日常茶飯事の中に、「詩」を発見した。いいかえると森羅万象すべてに詩が宿っていることの発見である。そしてそれを「俳句」というかたちで表現してみせた。詩はどこか遠い山の彼方にあるのではない。それは今ここに、私たちの生活のすべてになかに存在する。そしてその「詩」を発見したとき、私たちは人間らしい生活に恵まれるのである。芭蕉が発明した俳句は、私たちにこのことを教えてくれた。
(参考文献) 「俳句の宇宙」長谷川櫂、花神社
48.プールサイド小景 終業式の日以来、5日ぶりに学校へ行った。この間、私は敦賀にお見合いに行ったり、自動車学校に入校したりといろいろあった。テニス部の活動は、雨の日や土日が続いたのでお休みだった。月曜日に私は久しぶりにテニスコートでラケットを握り、午後からは学校のプールで汗を流した。
7月中は午後の3時間だけプールを解放していたが、生徒はほとんどいなかった。水泳部の生徒らしいのが、3人ほどきれいなクロールで泳いでいるくらいだ。監視台に乗っていた体育科の教師が、「橋本先生、ちょっとだけ交代して下さい」と言い残して消えた後、私は監視台に登った。
30分ほどして、ようやく監視員の教師が帰ってきた。照りつける日差しにあぶられて真っ赤になっている私を見ると、 「因幡の白兎のようですね」 「肌が白いタチだものだから、大変です」 梅雨が明けたような快晴が頭上に広がっていた。監視台から降りて、水の中に体を浸していると、テニス部の生徒たちが水着でやってきた。
彼女たちはプールサイドで準備運動をしながら、私の方に、 「先生、いつから水泳部になったのですか」 「体力をつけようと思ってね。君たちこそ、水泳部にくらがえかな」 「私たちも体力をつけるためです」 「これから午後は水泳がいいわよね」 「テニスと水泳なんて、健康的よね」
彼女たちが身につけているのは、体育の授業で着る濃紺の地味な水着だったが、体をそらしたり開脚したりするたびに胸や下腹部のかたちがあらわになった。薄い布の下に息づいているものの生々しさが迫ってきそうで、私は水の中に頭を沈めた。 「わあ、冷たい」 プールサイドを見ると、彼女たちが爪先を水に入れて騒いでいた。
少女達の太腿を濡らした水面が、水着にまで届こうとしていた。私は少女たちの女の部分を包んだ水着の膨らみが水にふれるのを眺めていた。少女達がすっかり水に入ってから、私は彼女たちから逃れるようにプールサイドに上がり、更衣室の方に歩いた。
副部長の少女が一人だけ遅れて、水着姿でやって来た。彼女は水着の胸をバスタオルでかくしながら素早くすれ違った後で振り返って、 「泳ぎを教えていただこうと思ったのに」 「なんだ、泳げないの」 「ええ、ちっとも」 笑顔を見せると、プールサイドの光の方に駈けていった。
| 2003年04月20日(日) |
志願制という名の傭兵制 |
アメリカでは20%の裕福層が富の93%を独占している。最上位1%の資産が、下位95%の総資産を上回るという驚くべき格差が生まれている。軍隊は志願制といいながら、こうした貧困層を対象に高給や特典で「志願兵」を募るわけで、その中には国籍のないものも含まれていて、事実上の「傭兵制」といってもよい。
アメリカは30兆円を越える膨大な軍事予算を背景に、武器を製造し、こうした100万人以上の「傭兵」を抱えている。以前にも日記に引用したように、「戦争が軍隊を作るのではなく、軍隊が戦争を作る」という言葉は、今のアメリカにぴったしの言葉だ。さらに「貧困が兵隊をつくる」と付け加えることもできよう。
湾岸戦争で日本は「お金だけ出して、血を流さない」と批判されたが、アメリカの裕福層は自分たちは兵役を逃れ、居間のソファに座って戦争を観戦している。ランゲル議員はこうした現状が社会正義から見て問題があるだけではなく、アメリカが好戦的である原因にもなっていると考えたのだろう。
「徴兵制の廃止から30年間、米国は兵役の負担を貧乏人とマイノリティに押しつけてきた。政権を担う者がイラク攻撃にかくも熱心なのは、息子や身内が戦場に行く心配がないためだ」
ランゲル議員の「徴兵制復活案」では18歳から26歳の男女を平等に2年間入隊させるとしている。もちろん、貧富の差や社会的地位によって差別することは認めれない。公平に兵役の義務を負う。
これによって、多くの米国民は安楽椅子に坐って戦争をゲームのように観戦することはできなくなるだろう。戦争というものを当事者として、恐れや痛みを分かち合う生身の人間として見つめ、かつ感じることができるようになる。これは戦争に対する抑止力になりうるだろう。
朝日新聞には息子をイラクに送っている50歳代の女性の、「兵士の家族のおびえるような不安や焦燥の日々を、この社会は共有してくれない」という声が紹介されていた。
そもそも経済的弱者が「軍隊」によって救済されるという仕組みはまちがっている。そうした社会的弱者を生み出す仕組みそのものが問題であり、その解決法として軍隊を使うのはまちがっている。それは世界を終わりのない戦場にし、多くの人々の血と引き替えに、兵器産業のオーナーやネオコンたちをさらに豊かにし、野心的にすることでしかない。
裕福な者が貧しい者を「傭兵」としてやとい、はでな戦争をして、ますます自分の利権や富を増やそうなんて、とんでもないことだ。「志願制」という美名に惑わされず、その背後にある社会の現実に目を向けたいと思う。
アメリカは30年ほど前に徴兵制をやめて志願制になった。ベトナム戦争で多くの犠牲者が出て、反戦運動が広がった。その背景に、徴兵制があった。アフガン戦争でも今回のイラク戦争でも、アメリカは好戦的だったが、もし徴兵制が存続していたら、もう少し反戦運動が高まったのではないかと思われる。
徴兵制は国民に平等に徴兵の義務を課すが、志願制のもとでは、ややもするとその負担が一部の階層に偏りがちになる。たとえば114万人いる米軍の兵・下士官のうち、黒人が占める割合は22.3パーセントで、これは総人口に占める割合12パーセントを大きく上回っている。
軍への志願に際しては、国籍は問われない。そして、志願と同時に市民権が交付される。市民権が本人に認められると家族への永住権もまたほぼ即時に認められる。だから移民の中には一家を代表して兵役に志願するケースも多いらしい。
この他にも、志願兵にはさまざまな特典が与えられる。入隊すれば家族の医療費も軽減される。除隊後には大学進学のための学費も支給される。だから家族に病人をかかえながら治療費が払えない人たちや、学費が欲しい若者たちも志願する。その多くが社会的弱者といってよい階層の人たちである。米国在住の作家・冷泉彰彦さんのメールマガジン「アメリカを引き裂いたもの」から一部引用しよう。
<兵士の家族が紹介されるたびに、その多くが貧しいこと、年若いことに驚かされると同時に、兵士自身の軌跡の中に「青春の挫折」を経験した影のようなものを感じて、どうしようもない空しさを感じることがあります。戦場の環境は過酷です。その前の訓練も過酷を極めるといいます。若い兵士は精神が強靱だから過酷な環境に耐えられるのでは、恐らくないのです。ここが人生の最後のチャンスだからと、歯を食いしばって自分の生命を危険に晒しているのです。
そうした若者を戦地へ送り、イラクの民衆と「殺し殺され」の惨劇に放り込み、「犠牲は最小限」などとうそぶくペンタゴンのお歴々には呆れて物も言えません。そればかりか、次はシリアだイランだ北朝鮮だ、などと勝手なホラを吹くのですから、いい加減にしてもらいたいものです。
軍への同情が集まり、戦争支持の星条旗や、帰還を祈る黄色いリボン(ニュージャージーでは余り見かけません)などを掲げる人たちは、決して根っからの国粋主義者ではないのです。兵士が強者ではなく、むしろ弱者であるという心情から、戦闘に身体を張っている兵士への共感を隠せないのでしょう。
反戦運動への反感、平和論を展開したカナダやフランスへの反感も、同じ心情から出ていると思います。ここに悲劇があります。反戦運動をしている人たちは、自分たちが正しいと信じています。それだけではありません。何か巨大な悪が(例えばネオコンとか、宗教狂信者とか)がいて、それが軍需産業と結託して悪事をしている、それに対して「弱者」の自分たちは、必死になって反抗しているのだ、そんな心情が共通にあるのでしょう。
その一方で、戦争支持の人々や志願兵は「自分たちこそ弱者」と信じているのです。そして、反戦を語る人々に「経済的にも、勉学やキャリアの上でも勝者のくせに、鼻持ちならない偽善者」という憎悪を抱くに至ります。このすれ違いは恐ろしいものがあります> アメリカの志願制度が有効に働くためには、その供給源となる貧しい階層の存在が前提になっている。彼らにとっては軍隊はより日のあたる場所へと抜け出すための階段である。しかし、それは生命のリスクをともなう危険な階段であり、どう考えてもまっとうではない非人道的な階段だ。
昨年秋のイラク容認決議にも反対票を投じた民主党のチャールズ・ランゲル議員らが「徴兵制復活法案」を議会に提出している。ランゲル議員は「もし徴兵制があって、人的犠牲を国民各層が引き受ける状況だったら、この戦争に対する、より正しい認識を米議会と米社会にもたらしたはずだ」と語っている。
徴兵制と聞くと、私などは反対に軍国主義を想像してしまう。日本の自衛隊はもちろん志願制だが、これが徴兵制になったりしたらそれこそ大事である。しかし、もし軍隊が必要なものであれば、それは志願制ではなく徴兵制でなければならないという論に私は賛成したい。もっとも徴兵制度があっても、ブッシュ大統領のように親の七光りで兵役をのがれる人々は多いのだろうが・・・。
(参考文献) 4月17日朝日新聞朝刊 「米軍支えるマイノリティ〜戦死者目立つ黒人やヒスパニック」
戦争で犠牲になるのは多くの民間人である。イラク戦争でも兵士ばかりではなく多くの女性や子供たち、老人が犠牲になった。その数は兵士の数をはるかに上回っている。
先の太平洋戦争での日本人の死者は300万人を越えているが、その大半も民間人である。2000万人を越えているといわれるアジアの人々の犠牲者も、ほとんどが民間人だった。
戦争を続ける場合には、物資や兵器・人員の輸送が必要だが、敵はこれを狙ってくる。太平洋戦争でも、たくさんの商船が潜水艦や飛行機に狙われ、海に沈没した。その実態を書いた田中祐三さんのHP「戦時下に失われた日本の商船」から引用しよう。
<南方を攻略する軍隊を輸送し,確保した資源を日本本土に送って武器弾薬を生産し,それらを再び南方に補給する商船隊の活動と兵站の確保に日本の運命のすべてを委ねて始められた戦争だったからこそ,開戦直後にアメリカ軍が真っ先に発動したのは無制限潜水艦戦−−いまの言葉で言うならば後方支援活動に従事している日本船舶への無警告攻撃と通商破壊命令でありました. 国家存亡の運命を担って最前線に派遣された商船隊は,敵の航空機と潜水艦の最も苛烈で集中的な攻撃の目標となります.
開戦当初日本商船隊の運航を支えていたのは高度に訓練された優秀な七万六千人の船員でした.対米戦争の期間中に喪われた船舶は二千四百隻,船員の犠牲は六万二千人に達し,その戦死比率は帝国陸海軍を遥かに上回ります.
さらに数多くの陸軍将兵が米豪軍と対峙する前の輸送途上で海没し,多数の民間人,避難家族,疎開児童,病院船の医師や看護婦,連合国の捕虜,日本軍の指揮下で戦ったアジア諸国の兵士,商船護衛の海軍艦艇の将兵たちもまた,武器や石油,原料を満載した商船とともに洋上に散っていきました>
田中祐三さんは1953年生まれの戦後世代である。中学生のころ父親の書棚にあった「呪われた阿波丸(千早正隆・文芸春秋社)」を読み強烈な衝撃を受けたことがHPを開設した源流になっているという。
<近代の戦争というもの「敵味方の軍隊同士の戦い」という視座だけで見てはならないということを,この阿波丸の悲劇を読むことによって強く印象づけられました.
大学に入った年には,返還直後の沖縄を訪れてはじめて對馬丸の惨劇があった事を教えられました.その後も旅行や商用で訪れたコレヒドールの美しい残照,ジャカルタやスラバヤの鮮やかな熱帯植物や野鳥の群れ,凍てつくサハリン,流氷を生むナホトカの港,高雄や釜山の熱気.ひとびとのやさしさに触れ,あたたかく懐かしい旅の記憶が積み重なることと同時に,各地の戦史に埋もれ殆ど語られることさえもなくなってしまった名もなき戦没商船群の惨劇と夥しい人々の無惨な死の記憶もまた,そのときどきの血を流しながら胸に刻まれてきました>
田中祐三さんは「戦争の記憶を次の世代へと継承していくこと.それは私たち戦後世代に課せられた責務であり,戦没者の方々へのせめてもの償いと謝罪を果たすことであると思っています」と書いている。彼のHPには名もない戦没者への鎮魂の思いが籠もっている。おなじ戦後世代の一人として、私は彼の文章にシンパシー覚えた。
(参考サイト) http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/
将来の世界放浪にそなえて、今年はロシア語をマスターしようと、4月からNHKラジオのロシア語講座を聴き始めた。テキストを買い求め、万全の体制で臨んだ。放送時間帯が夕方の4時40分から5時までだから、この時間帯は車にこもって、テキストを広げてラジオを聴かなければならない。
計画では、その時間帯は部活の指導を中断して、テニスコート脇でロシアの勉強をするつもりだった。しかし、これが出来たのは、最初の3回だけだった。そう都合よく時間がとれないのである。会議があったり、職員室で仕事をしていたり、テニスコートにいても目の前の出来事に忙殺されて、気がつくと5時を過ぎている。とうてい無理な計画だということが判明した。
番組をテープに録音すればよいわけだが、すでに私はNHK英語の番組を毎日40分録音して、通勤途中に車の中で聴いている。この上、ロシアを録音してもそれを聴くだけの余裕があるか疑問である。それに私のラジカセは予約できる時間帯が一つだけなので、ロシア語を録音するためにはもう一台ラジカセを買わなければならない。
こんな話を食卓でしていたら、娘がテキストと同時にCDが販売されている筈だという。なるほどCDという選択肢もあるのかと心が動いたが、実のところCDを買っても勉強するかどうか怪しい。なぜなら私は英語のCDをたくさん持っているが、それらはほとんど活用されていない。おそらくロシア語のCDも同じ運命をたどることはあきらかだろう。
今年はロシア語、来年はドイツ語、再来年はフランス語、さらにスペイン語、中国語と、5年間かけて5カ国語を新たにマスターしようという私の遠大な計画は、その最初の一年からつまづいてしまった。桜の花が散るのと同じくして、みるみる私の野望も色あせてしまった。
ただ、ほんの3回しか聴けなかったが、NHKのラジオ講座はとても分かりやすく、聴いていて楽しかった。このまま一年間続ければ、なにほどかの会話をマスターし、ロシアの民話くらいは原文で読めるようになるかもしれないという夢を抱かせた。それは私を有頂天にさせてくれたが、つかのまの幻想に過ぎなかった。しかし、いつかまた、この楽しい夢に挑戦してみたいと思っている。
新学期が始まって、十日近くがたった。去年に引き続き3年生の担任、それからテニス部男子の顧問になったが、この時期はとくに学校の現場は忙しい。まわりのスピードについて行けなくて、53歳の誕生日を前に、めっきり体力の衰えを実感している。
部活の関係でいうと、始業式の午後には顧問会議があり、先の土日は試合の引率だった。土曜日は雨の中でも試合が行われ、午後になって3時間ほど中断し、そのまま他日に延期なった。その間、じっと寒い中を生徒とともに待機していたので、風邪をひいてしまった。その後遺症で、今も咳をしている。
テニスの場合はシングルス個人戦、ダブルス個人戦、団体戦とそれぞれ2日間、合計で6日間あるうえに、それぞれ4会場に分散して行われるので、付き添いが大変である。とくに先の土日は一会場のみで試合が実施されたので、残りの3会場の試合はまた別の日に延期されることになる。そのため、来週も、その次の週も土日がつぶれる。つまり、4月中は全く休みがとれないわけだ。雨が降ったりすると、5月にもつれこむ可能性もある。
その上、学校での仕事が、これまた過密である。朝は頭髪指導があり、一昨日は7人もの生徒を家に帰して頭髪をなおさせた。授業時間の合間に、課題テストを採点し、業後は生徒の個人面談がある。それらが終わってから、テニスコートに行って、ミーティングをする。家に帰ると無気力状態で、風呂に入ると睡魔が襲ってくる。
去年の暮れに血圧が190を越え、病院に行った。心臓が肥大しているといわれ、目下薬を毎朝飲んで、何とか血圧を押さえているが、その薬のせいか、体が思うように動かない。椅子から立ち上がるのに「よっこらしょ」という感じである。我ながら情けない。
動かないのは頭もそうだ。注意力が散漫で、根気強く考えることができなくなってきた。書きたいことがあっても、時間と精力の欠乏から、満足な文章が書けないのがつらい。
| 2003年04月15日(火) |
非政治的人間の政治論 |
13日に統一地方選前半の10都道県の知事選や44道府県議選などが行われた。注目の知事選では「無党派候補」の善戦も目立ったが、最後は自民党などが推薦する候補が競り勝つケースが多かった。そんななかで、自民党の一部から首相として待望されている石原慎太郎は、300万票を越える大量得票で都知事に3選された。
私も日曜日の夕方、部活の試合から帰った後、妻と二人で投票所になっている保育園まで歩いた。投票所は閑散としていた。翌日の新聞で見ると、投票率は4割そこそこだという。私が一票を投じた候補は、今回も落選していた。全体的に自民党が伸びた。日本は実質的に自民党一党独裁体制だったが、これからもこの旧体制が続くのだろう。
私のHPや日記を読まれた人は、私が社会問題や政治に関心が深く、またそうした問題について議論したり、運動にかかわったりすることが好きなタイプの人間ではないかと思われるかも知れない。しかし、私は自分のことを、典型的な政治嫌いの人間だと思っている。
<私は政治は嫌いだし、自分でできるとも思っていません。政治はある種の人間にしかできません。うそもつく。計算もする。時として、苦悩したり、優しさをみせたりすることもありますが>
これは朝日の朝刊でみかけた曽野絢子さんの言葉だ。まあ、私の政治に対するスタンスも彼女と五十歩百歩というところだろう。もっとも彼女の場合、政治は嫌いだといいながら、政治にコミットしている。私に言わせれば、彼女はかなりの政治好き人間である。その点、私は正真正銘の政治嫌い人間だ。
政治が嫌いだが、政治について考えることは必要だと思っている。だから、私の書く文章には政治の話題も少なからず入っている。ただいわゆる政治好き人間の書く政治論ではない。政治は嫌いだが、政治を蔑ろにしてはいけないと思っている。政治を粗末にする人間は、いずれ政治に復讐される。そうした政治のもつ怖さをいつも考えている。だからあえて大嫌いな政治について、今日もしぶしぶ書いている。
最近読んだ文章で、とりわけ政治的というわけではないが、私の心に響いてきた文章を二つほど紹介しよう。いずれも私が愛読しているメールマガジンで読んだ文章の一節だ。
<略奪があり、政権争いがあり、暗殺がある。そのようななかでも、静かに暮らす人たちは、ひっそりと窓から顔を出し、壊れた家を直し、ゴミを捨て、食事を作り、家の前をきれいにして、子供の下着を洗うだろう。
いざこざや、怒りや、憎しみや、嘆きに身もだえしながら、夜になると寝て朝になれば目が覚める。そして食べて働いて生きる。自分のことにかまけてせいぜい中の下が下の上で、可もなく不可もなく、でも家族と友達を心配し、小さな街の一断片として暮らすのだ。私がそうであるように、青空の下で人は生きる。
営み生きるものの思いは繋がっている。この地上にはまだ光が満ちている。それがすべてだ>(田口ランディ「それでも空は青い」)。
<アメリカ政府は今回も武力のみに依存した。世界の人々の声を無視し、国際法を無視し、国連を無視して、ひたすら武力に頼った。勝ってしまえばすべては正当化される。
言い換えれば、負けたのはイラクではない。世界の人々と国際法と国連が、アメリカの武力に敗北した。言葉と武器の戦いにおいて、今回は言葉が負けた。
なんとかこの戦争を始めさせないようにと努力してきたぼくたちは徒労感に襲われがちです。あんなにがんばったのに、戦争ではない方法でイラクの問題を解決しようとしたのに、戦車の前進を止められなかった。子供たちを含むたくさんの死者を出した。落胆するのは当然とも言えます。
しかし、ぼくはここに書いたほど広い意味で「ぼくたち」という言葉を使ったことがありません。今、この世界でイラクからの報道に接することができる世界の人々の大半、国連に加盟する各国政府の多く、ジャーナリストと知識人たちの大半が、この「ぼくたち」に含まれます。
武器ではなく言葉に頼る人々が武力ではない解決法を提案し、支持してきたのです。一千万人のデモを実現してきたのです。武力がことを決める世界にはしたくないと表明してきたのです。
これからは勝ちに乗じた嘘の言葉が彼らの武器になるでしょう。これに向けた言葉を「ぼくたち」は用意しなければなりません。銃ではなく論理がことを決める世界のために、もう一度最初から、言葉の準備をはじめなければならない。
戦争は終わった? 実は何も終わっていない。武力と言葉の戦いは終わっていません>(池澤夏樹「新世紀へようこそ099」)
最後にアテネの政治家ペリクレスの演説を紹介しよう。彼のこの演説を読み、彼の成し遂げた業績の大きさを思うと、私はほんのちょっぴりだが、政治に夢とロマンを感じる。政治に未来を感じるのである。
「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を廃し、多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。
われわれアテナイ人は、質朴な美を好み、軟弱に陥ることのない知を愛する。われわれは、富を行動するための条件と考えるが、けっして富を誇示しない。自分が貧しくとも恥と思わないが、貧しさを克服しようとしないことを恥じる。
われわれは、自分の家計と同じように、国の財政にも意を用い、おのれの職に精励すると同時に、国政の進むべき方向について熟慮するように務める。そして、公私の活動に関心を持たぬ者を、閑暇を愉しむ者とみなさず、そういう人間を無益な輩と考える」(トウーキュディデース『ペロポネソス戦役史』第2巻第4節)
47.陽炎のなかで 総子から出された「結婚三原則」にどう答えたらいいのか、私はわからなかった。セックスについての嫌悪感はないとしても、彼女との結婚生活がかなり禁欲的なものになりそうだということは見当がついた。
本殿の前まで来て、総子は足をとめた。 「そうぞ、参拝してきて下さい」 彼女に言われるまま、私はひとりで本殿に進んだ。賽銭を投げてから、柏手を打ち、手を合わせた。 「何をお祈りしたのですか」 聡子に訊かれて、私は「先ほど浮かんだ句を神様に献上しました」と言って俳句をつぶやいた。
玉砂利に かげろふ清し 気比大社
私たちは再び境内の玉砂利を歩いた。夏の盛りを告げる蝉の声がしていた。別れの時刻が迫っていた。 「部活は何時までやられるのですか」 「あと3時間ほどでしょうか」 私は腕時計をのぞき込んだ。あと3時間ほどどこかで時間を潰して、夕食を彼女とともにするという選択肢が頭に浮かんだ。
総子は結婚に不向きな女性かもしれなかった。しかし私自身、モンゴルの草原で星を眺めて死にたいなどと他愛ないことを考えていた。他人や仕事に縛られる事の嫌いな、結婚に不向きな男である。結婚などという形にしばられなくても、そうした制度をかりそめのものとして、たまに逢瀬を重ねるのも悪くはない。
よく見ると、総子は眉が長く、目鼻の造作が大きい割りに、容貌はよく整っていて美しかった。黒いジャージの胸はゆたかで、腰や太ももにもほどよい肉感が感じられた。彼女の誇るものが知性だけではないことがわかった。
私はもう少し彼女を身近に感じたくなって、彼女を松の木陰に誘った。私の目の前に彼女の黒曜石のような瞳があった。黒いジャージで包まれた肉感的な彼女の肢体に、私の体が反応していた。彼女の肩まで垂れた黒い髪から潮風の匂いがした。
彼女は私の手が伸びそうな気配に気づいて、松の幹の後ろに廻った。そして、木洩れ日に目を細めながら、 「私はいい奥さんにはなれないと思います」 「僕も同じです。いい夫にはなれそうもない」 「私と結婚すると、きっと淋しいと思います」 「そうですか。なんだか僕と同じで、虚無的ですね」
私は微笑して彼女を見つめた。彼女も微笑んで、 「あなたは幸せになれる人だと思います」 彼女の唇から洩れたやさしい言葉が意外だった。彼女は睫毛を伏せて腕時計をのぞき込むと、 「それでは、これで……」 会釈して木陰を離れた。
遠ざかっていく総子の後ろを私はじっと見つめた。玉砂利の清潔な陽炎が彼女の全身を包んでいた。その炎の中で彼女の黒い影が揺らいでいた。 (振り返ったら、呼び止めて、次のデートの約束をしよう) そんな考えが浮かんだ。しかし彼女は振り返らなかった。
私は再び神宮の境内を歩いた。自分という存在の基盤が崩れて、まわりの世界があやふやにゆらいでいるようだった。やがて大鳥居をくぐり、午後の日差しの照りつける街の中を駅の方に歩いた。
| 2003年04月13日(日) |
国際協力でイラクに平和を |
バクダッドが陥落した。フセインの銅像が倒される映像や、その銅像の上に立って歓喜する人々の姿が全世界に流された。ほんの数週間前までフセインに絶対服従を誓い、米英を悪魔の手先だと罵っていた人々が、掌を返したようにあっさりと米英軍を迎えている。
そうした映像を見ながら、私は少し前に読んだダワーの「敗北を抱きしめて」という敗戦後の日本を描いた本を思い出した。天皇を神のように崇拝し、鬼畜米英を叫んだ日本人も、戦争に負けると掌を返したようにおとなしくなり、中には進駐軍を「解放軍」として迎えた人たちもいた。
マッカーサーのもとには山のようなファンレターが届いたし、子供も女もアメリカ軍兵士のまわりに群がった。政治家や旧軍人達まで一夜にして親米になった。マッカーサーは後にこうした状況を振り返って、「日本人はまだ12歳の少年だ」とアメリカの議会で述べている。
イラクの街角では今どんな光景が見られるのだろうか。テレビの映像や現地のジャーナリストのレポートからは、一部にそうした迎合的な民衆の様子がうかがえる。圧政から解放してくれたことに対する感謝ばかりではなく、新たな支配者への猜疑心や抵抗心、あるいは敗北による屈辱感や虚脱感もあるに違いない。そうした中で人々の必死に活きる営みが続いているのだろう。
敗戦後の日本社会は混乱した。しかし、フセイン政権崩壊後のイラクの混乱はさらにひどいようだ。バグダッドでは、米英軍の空爆中も治療を続けていたキンディ病院が10日、武装集団に襲われ、救急車やベッド、薬品が持ち去られ、職員も引き揚げて応急処置しかできなくなったという。
略奪は地方都市にまで及び、国際機関も襲われ、人道支援再開にも支障がでている。国連児童基金(ユニセフ)事務所は強盗団に襲われ、活動再開は難しいようだ。周辺国で待機している援助団体も、治安の悪化でバグダッド入りのめどが立っていない。
英紙タイムズは「フセイン時代の方が安心して眠れた」という市民の声を伝えている。こうした中で、バグダッドの米海兵隊部隊の司令官が、ようやく重い腰を上げて略奪をやめさせるよう命令を出した。しかし、米英軍兵士が「警察官」として住民を厳しく取り締まれば、反感を買いかねない。
米英軍はフセインの軍隊にはうち破ったが、「治安維持」という思いもかけない課題を背負い込むことになった。これから米英はイラクの新たな支配者としての姿を、いやがうえにもイラクの民衆の前にさらすことになるのだろう。
いずれにせよ米英軍にイラク全土の治安を維持できるほどの余力があるわけではない。アメリカはこれまでの行きがかりにこだわらず、国際社会の協力を求めるべきだろう。各国が自らの利権や利害で対立しているときではない。イラクの治安が一刻も早く確立され、イラクの人々に安心して眠れる平安な夜が訪れることを祈りたい。
911の本当の黒幕は誰かと言うことは、資金の流れを遡っていけば分かる。たとえば911実行犯の主犯格だったとされるモハマド・アッタにテロ資金を提供していたのはだれか。
アメリカCNNテレビは2001年10月6日の報道で、1999年のインド航空機ハイジャック事件で人質と交換に釈放されたイスラム過激派のサイード・シェイクが、ムスタファ・モハメド・アーメドの名前を使い、10万ドル以上の資金をパキスタンから911主犯格のモハメド・アッタに送っていたと報じている。FBIの調査によれば、彼はアルカイダの幹部だという。
サイード・シェイクからアッタへの送金は、911実行犯がアルカイダの一味だったことを示す唯一の根拠だが、問題はこのサイード・シェイクに資金を提供していたのはだれかと言うことだ。実はそれがパキスタンのISI(統合情報局)のマフムード長官だということが分かっている。2001年10月7日、パキスタンのムシャラフ大統領はFBIからこの情報を突きつけられて、彼を解任しているからだ。
当時のインドとパキスタンの新聞は「マフムード将軍の指示で、911実行犯のアッタに10万ドルが送金されたことが分かった」と書いている。欧米の新聞もまた「「マフムードらがアフガニスタンのタリバンと親密な関係」に言及し、アメリカ政府もこれを証拠に、タリバンやアルカイダこそ事件の主役だと主張した。
しかし、ここで見誤ってはいけないのは、マフムード長官の黒幕がタリバンやアルカイダではなく、タリバンやアルカイダの黒幕がマフムード将軍だったということである。欧米のマスメディアはこのことを報じなかった。アメリカ当局の主張するまま、アルカイダやタリバンが黒幕であるような書き方をした。タリバンとパキスタンの力関係を完全に見誤っている。
実は話はここからが本題である。マフムード将軍の背後には誰がいたのかとということだ。それはなぜアメリカ政府は、パキスタン当局が911事件に関与していたことを不問に付したのかということを考えれば見当がつく。つまり、マフムード将軍の背後には、実はアメリカ政府がいた。ちなみにISIはパキスタンの「影の政府」と言われており、マフムード長官は影の大統領という立場だった。そしてISIをここまで強力にしたのは、このこの組織の背後にアメリカのCIAがいたからである。
911事件当時のマフムード将軍の動静を見てみよう。パキスタンの「カラチ・ニュース」によると、マフムード長官は911事件が起きる一週間前の9月4日からワシントンを訪問し、CIAのテネット長官のほか、国防総省やホワイトハウスの国家安全保障会議(NSC)の要人たちと相次いで会談している。
ニューヨークタイムスによると、911の当日、ハイジャックされた飛行機が次々と世界貿易センタービルに突っ込んでいる最中にも、マフムード長官はアメリカ議会にいて、上院のボブ・グラハム議員ら諜報問題委員会のメンバーと会合を持っていたのだという。つまり、事件の資金提供者がアメリカ政府の諜報関係議員と会談している最中に、そのテロそのものがおこったわけだ。
ところで、ISIのマフムード長官から依頼され、911事件の主犯格とされるモハマド・アッタに送金をしていたサイード・シェイクは、その後、このアメリカ政府とISIの関係を追っていたアメリカのウォールストリート・ジャーナルのダニエル・パール記者を誘拐殺人した容疑で昨年2月に逮捕されている。この奇怪な事件について、ジャーナリストの田中宇さんは、「田中宇の国際ニュース解説 2003年3月27日号」のなかで、次のように述べている。
<パール記者は、911事件とISIの関係を深追いしようとして、逆にISIのエージェントと目されるサイード・シェイクらに誘拐されたという展開だった可能性がある。こうした不可思議な状況を総合すると、911事件の真相を握っているサイード・シェイクは、911に関する暴露発言を行う可能性があるので、ISIとムシャラフ政権によってパール記者誘拐の容疑を着せられ、生涯獄中に閉じ込められることになった可能性がある>
ちなみに、イスラエルの諜報機関モサドは911直前の2001年8月23日、CIAに対し「アメリカ在住の19人のテロリストが間もなくテロをやりそうだ」と通告し、テロ容疑者のリストまで渡している。そのリストには、モハマド・アッタなど、911事件の容疑者とされたメンバーの名前が乗っていた。このことから、CIAもまた事前に実行犯の動きを確実に掴んでいたとみられる。これを阻止しなかったのは、政権上層部の特別な政治的判断のよるものだろう。
911事件でハイジャックされ貿易センタービルに突っ込んだアメリカン航空11便には、イスラエル軍の特殊部隊「サエレト・マトカル」の元メンバーだったダニエル・ルインという男が乗っており、機体がビルに突っ込む前にハイジャック犯のひとりに刺殺されたことが機内からの乗客の通報で分かっている。実行犯の動きをつぶさにウオッチしていたモサドはCIAやアメリカ政府にテロ阻止の意志がないことを知っていて、独力でこれを阻止しようとした可能性がある。
こうした事実関係からあきらかに見えてくるものは何だろう。それは911テロにアメリカ政府そのものがかかわっていた疑惑だが、残念ながらアメリカのマスコミは当時こうした事実を伝えただけで、疑惑の真相に迫ろうという姿勢は見られなかった。パール記者の誘拐殺人事件もショックだったのだろうが、何が何でもアルカイダとイラク・フセインを潰したいというホワイトハウスからの圧力や脅しもあったのだろう。
マスメディアはその習性として小さな悪は暴きたてて正義派ぶりを演出するが、本当に大きな悪はそのままにしておく。つまり狼少年の逆を行くわけである。日ごろは正直者をよそおい、権力を批判して、民衆の味方であると信じ込ませておいて、もっとも大事なところで民衆を裏切るのである。かくして巨悪と大嘘は歴史の闇に葬られる。
(参考サイト) http://tanakanews.com/d0408mi6.htm
昨日の日記で、イラク戦争への導火線となったのが、「イラクのウラン購入」疑惑であり、これがまったくの偽造であったことを書いた。しかし、これにはもう一つ考えなければならない大きな背景がある。
すなわち、911テロ事件である。この事件が背景にあったからこそ、ブッシュは念願のフセイン政権打倒の戦いを遂行することが出来た。ウラン購入疑惑はその過程でねつ造された発火剤である。もともとテロによって誘導された恐怖と愛国心による好戦的なガスがアメリカ社会に充満していたからこそ、この発火装置がタイミング良く働いたのである。
そこで、今度はそもそも911テロは何であったのかということを考えてみたい。いったい誰がこのテロを遂行したのだろうか。この問題については、ブッシュ政権はそれはアルカイダというテロ組織であり、その親玉のビンラディンと彼の組織を支援していたアフガニスタンのタリバン政権やその長であるオマル氏が黒幕で、イラクのフセインもテロに荷担していた疑惑があると主張している。しかし、これはどこまで立証されているのだろうか。
実はその根拠は意外に乏しい。それどころか、911テロもアメリカの諜報機関の謀略である疑いが濃厚である。このことについて明日の日記で、「911テロの真相」とでも題して、この事件の背景が実際どうだったのかを書いてみよう。
| 2003年04月10日(木) |
嘘の上に築かれた戦争 |
イラク戦争もいよいよ大詰めになった。アメリカの圧倒的軍事力によって、さしものフセイン政権も今崩壊の瀬戸際に追いつめられている。アメリカはこれによって、イラクをフセイン大統領の独裁から解放し、「民主化」に向けて一歩を踏み出すことが出来たと胸を張るかもしれないが、そのために支払われた犠牲はたいへんなものになった。
そもそもこの戦争は、フセイン大統領が国連の視察を拒み、「大量破壊兵器」を隠匿しているということから始まった。それがいつの間にか「イラクの民主化」などという抽象的なものにすりかわっててしまったが、それはどうしてだろう。
おそらく、「大量破壊兵器」が見つからないことをアメリカの戦争指導者たちがうすうす知っていたからではないだろうか。もしそうだとしたら、この戦争はアメリカとイギリスの現政権によって、意図的に演出され、ねつ造された戦争だということになる。
そこで、この戦争が「演出」された経過を冷静に振り返ってみよう。イギリス政府が、「イラクが大量破壊兵器を持っている」という報告書を発表したのが、昨年9月24日だった。その中に「イラクは核兵器を開発するために、1999年から2001年にかけて、イラクがアフリカのある国から500トンの酸化ウランを買う交渉を進めていたことを示す関係文書が見つかった」と書いてあった。 この報告書が出た2日後の9月26日、アメリカ上院の外交委員会で、パウエル国務長官も、イラクのウラン購入疑惑について同様の発言を行った。これによって、議会内でイラク侵攻に反対していた勢力は沈黙を余儀なくされた。そして米議会の上下院は、必要なときにブッシュ大統領にイラク侵攻することを認める決議を通過させた。
12月19日には、米国務省は「イラクがウランを買ったのはアフリカのニジェールからだった」と具体的に発表した。そして今年1月28日、大統領は「年頭教書」でこれに触れて、イラクを悪の枢軸だと非難した。この後、911の後遺症からテロの影におびえるアメリカの世論は瞬く間に大きく戦争へと傾き、ブッシュ大統領は「大量破壊兵器」からアメリカを守るという名目で大軍をイラク周辺へと送り出し、戦争へと後戻りが出来ない道に踏み出した。
ところが、今年3月7日になって、この文書を鑑定した国際機関IAEAが、ニジェールからイラクがウランを買ったという証拠だとされたイラク・ニジェール間の外交文書にはニジェールの外務大臣の名前が誤記されたりしていて、あきらかに偽造されたものだとと指摘した。雑誌「ニューヨーカー」の記事によると、どうやらこの文書を偽造した犯人はイギリスの諜報機関らしい。
アメリカのブッシュ政権はこれが偽造されたものであること知りながら、戦争遂行のために利用したと考えられる。事実、国務省内の諜報担当者からは、偽造ではないかと疑う声が出たが、政府内で無視されてしまったという。
こうして、嘘の情報によって、アメリカは世論を戦争へと誘導した。そして戦争という既成事実を作り上げた後、もとになった情報の虚偽が明らかになっても、これにほおかむりして、今度は「民主化」などというあたりさわりのない理屈を主役に押し立てて戦術転換をはかった。このように戦争は演出されたわけだ。
こうしたことは過去の戦争でも多く行われた。旧日本軍の大陸侵略も、関東軍による謀略から始まっている。薪に火を点けるには種火が必要である。同様に国民を戦争に駆り立てるには何かのきっかけになる事件が必要なのだが、これが戦争を望む軍部や謀略機関のねつ造であることが多い。そして、一旦戦争がはじまってしまえば、この事件はさりげなく捨てられてしまう。
こうしたことを考えるにつけても、この戦争がアメリカの主張するような「正義の戦争」だとは、私にはとても考えられない。政治学者の丸山眞男は「戦争は一人、せいぜい少数の人間がボタン一つ押すことで一瞬にして起せる。平和は無数の人間の辛抱強い努力なしには建設できない。このことにこそ、平和の道徳的優越性がある」と述べている。
アメリカの一国覇権主義というマキャベリズムが国際社会を蹂躙しつつある。私たちはこうした困難な状況の中にあっても、平和を創るための辛抱強い努力を放棄してはならないだろう。
(参考サイト) http://tanakanews.com/d0408mi6.htm http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
| 2003年04月09日(水) |
米国債を買うだけの日本 |
戦争にはお金がかかる。米議会上下両院が戦費を賄うための約800億ドルの戦時補正予算案を可決した。しかしイラク戦争の戦費は2000億ドルを越えると言われ、巨額の財政赤字を抱えるアメリカはこれをいずれ調達しなければならない。
イラクには世界一の埋蔵量を誇る石油資源がある。アメリカはこれをイラク国民の福祉のために使うと言っていたが、最近はアメリカ軍の戦費の足しにすると言いだした。またスノー米財務長官は、イラク復興に関して、「各国の手助けを確認したい」と述べ、日本や欧州に復興費用の分担を求めていく考えを明らかにしている。復興費用という名目で、戦費の分担を求めてくることも考えられる。
実のところ、日本は昨年度末で米国債を3637億ドル(43兆円)も保有している。ちなみにこの額は、海外依存分の31・2%を占め、二位の中国の3.5倍以上になっている。日本の米国債の購入はブッシュ政権発足後から加速し、昨年末までの2年間で460億ドルも増えている。戦争につきすすむブッシュ政権を支えている最大のスポンサーはだれあろうわが日本である。
イラク戦争の戦費調達のため、ブッシュはさらに日本に米国債を買うように圧力をかけてくるだろう。日本政府は親分に言うことには逆らえないから、「上納金」としてこれを大量に買うことになる。そしてこれらもイラク戦争の戦費として使われることになるのだろう。
経済評論家の佐高信氏は米国債は「暴力団米国組への上納金」だと言っている。しかし、考えようによっては、日本こそアメリカの最大のスポンサーなのである。投資した金がどのように使われるのか、債権者として注文をつけるのは当然のことだ。佐高信氏の言葉をさらに引用しよう。
「米国債を持っているという事実を小泉首相は知らないかもしれない。少なくとも国民は知らない。戦後復興の負担の話も出ているが、戦費はすでに国債という形で負担している。何で債権国が債務国に卑屈になっているのか。言うべきことは言わなきゃいけない」
評論家の室伏哲郎氏も「軍事力がない日本が、米国に対して発言権を持つ唯一の手段だ」という視点から、米国債をもっと外交カードとして活用すべきだと提言している。
「マイナスに考えるのではなく、成り金王国の唯一の存在感を示せばいい。大きく出て国連というものを考え直すてこにしたらどうか。国際連盟がだめになって現在の国連になったが、いまだ(第二次世界大戦の)戦勝国が発言権を持つ組織だ。いつまでも敗戦国をこけにするなと言えばいい。常任理事国に入り、拒否権をくれといい、さらに大きく出て、第三の国連のようなものをつくることを、米国の尻馬に乗ってでも主張すべきだ」
室伏哲郎氏の意見はいささか過激だが、外交戦略としてこのくらいのしたたかさは持っていていいのだろう。いずれにせよ、アメリカの財政破綻は近い将来にありえないことではない。そのとき米国債は紙屑同様になるだろう。そうしたリスクをおかして米国債を買い続けるのだから、それに見合った戦略は持つべきである。
親分に言われるまま、「しかたなく買っている」という受け身の姿勢からは何も生まれない。私の「経済学入門」でも強調したことだが、資産というものはただ持つためにあるのではない。いかにそれを活用するかが大切だ。活用されない資産はないのと同じである。「持つ」発想から、「使う」発想へと、私たちの考え方をパラダイム・シフトする必要がありそうだ。
(参考サイト) http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20030403/mng_____tokuho__000.shtml
少し前に、NHKスペシャルでアメリカの「要塞町」を取りあげていた。NHKの番組案内の文章を紹介しよう。
<アメリカで今、「要塞町」と呼ばれる高級住宅地が次々に出現している。周囲を高い塀で張りめぐらし、出入り口を警備員が監視し外部からの自由な立ち入りを閉ざす町である。
ロサンゼルス近郊にあるコト・デ・カザは、全米でも最大規模の要塞町。住人の平均年収は1500万円平均年齢は35歳という若さである。要塞町の住人は言わば、アメリカ競争社会の勝者たちなのである。
90年代アメリカの空前の好景気の原動力となったのは、徹底した競争主義だった。競争、市場主義こそが効率的で、富を生み出すと考えられてきた。しかし長い好景気の終わりとともに、要塞町にも変化が現れている。
失業などで要塞町を去る家族。自宅でも携帯電話や電子メールで仕事に追われ、夫婦すれ違いの日々が続き、絆が揺れる家族。 要塞町を舞台に、果てしない競争主義が人々に何をもたらしているのか、探っていく>
「要塞町」は「ゲート付き住宅地」のことである。有名なのは三十の要塞町が一緒になってフロリダ州にあるウェストン市で、警察や消防、水道などを自前で持ち、外部の警察や警備の点検ぬきには一歩も入れない。文字どおり「要塞市」である。
こうした「要塞町」がアメリカには2万カ所もあり、現在800万人がそこで暮らしているという。そして現代のアメリカンドリームはこの町の住人になることだそうだ。要塞の中で安全に、金持ちだけに許される特権的な生活を楽しみたいということらしい。しかし、この「楽園」の生活が、みかけほど快適でないことはNHKの番組を見れば明らかだ。
それは本当の幸福がお金では得られないというありふれた真実を私たちに確認させてくれる。競争社会の勝者達が集まってできたコミュニティの何と非人間的で寒々としていることだろう。そこにあるのは対話を持てない夫婦の悲しい姿であり、富や権力、地位によってしか他人や自分を評価できなくなった勝者の孤独で貧しい空っぽの心である。
アメリカでは20%の裕福層が富の93%を独占しているという。そして、最上位1%の資産が、下位95%の総資産を上回るという信じられない格差が生まれている。この格差は今後もますます広がるのだろう。その結果アメリカは今以上に犯罪が氾濫する暴力社会になり、「要塞町」の需要もますます増え続けることだろう。
46.気比神宮で 総子と食事をしながら、1時間ほど話した。それから波止場へでて、雨上がりの海を眺めた。小学生の頃若狭に住んでいた私は港の風景になじんでいたが、煉瓦作りの倉庫の並ぶ河岸は珍しい眺めだった。少し明るんできた海を眺めた後、二人の足は気比(けひ)神宮に向かった。
神社の境内には大きな松が茂っていた。天然記念物になっているユーカリの古木や、樹齢七百年になるというタモの木があり、芭蕉の「奥の細道」の句碑がその傍らに並んでいた。
月清し遊行がもてる砂の上 芭蕉
芭蕉が敦賀の地を踏んだのは、1689(元禄2)年8月14日だった。その夜、芭蕉は気比神宮にきて月を眺め、この句を得た。遊行とは遊行上人のことで、その昔自ら真砂を運んで神前にまいたらしい。私たちは社殿から少し離れた池の前に来た。そこに鯉が泳いでいた。
「総子さんは敦賀で生まれて、ここで育ったのですか」 「はい。大学と大学院は名大ですが、それ以外はずっと敦賀でした。私、結婚しても、しばらくは敦賀でこのまま教師をしていたいんです」 「そうですか」 母から聞いた話とは違っていたが、黒いジャージ姿の彼女を見ていると、中学校教師として違和感は感じられなかった。
しかし、それでもやはり並の女性でないと感じさせるものがあった。食事をしながら彼女が出してきた、「結婚三原則」がそうである。
�.謄譽咾鮓�ないこと。 �▲僖船鵐海鬚笋蕕覆い海函� ��子供を作らないこと。
結婚するためには、この三条件を認めて欲しいという総子に、私は少し呆れていた。私はテレビを見ていたし、パチンコもしていたが、止めようと思えばやめることができる。子供もいない方がよいと思っていた。しかし、相手の女性からこうまともに切り出されると、考え込まないわけにはいかない。
「子供を作らないというのは、セックスをしないということですか」 私は池の鯉から目を上げて、疑問に思っていたことを訊いてみた。彼女は首を振った。 「子供を作らなければいいのです。セックスは、もしお望みなら……」 彼女は勝ち気な黒い目で私を見ると、声を立てて笑った。
30歳の犀星が故郷の金沢に帰り、若い頃に縁のあった女性を次々と訪ねて歩くという場面が、「杏っ子」に描かれている。乗り合い馬車で見初めた小学校の女教師エピソードを紹介したが、今日はもう一つ、犀星の友人の妹の話を書こう。
<そこは九谷焼きの赤絵書きの家で、うえの女の子はかね子といって、平四郎とそのかね子の兄貴となにか話をしていると、突然、彼女は兄貴の部屋に入ってくると菓子もなにもないわよ、お湯でも飲んでいるがいいわと怒って、もう一度兄貴が菓子をさがして来てくれとたのむと、いきなりくるりとからだを廻し、着物をまくると小さなお臀をまる出しに、つるりと見せて置いて、ぴしゃんと自分で叩いて部屋を出ていった。偉大な反抗なのだ>
<平四郎は九谷の赤絵書きの家は平常から礼儀も正しく、かね子もおとなしい娘であったので、驚いてちいさなお臀を永いあいだ覚えていた。その頃の女の子はパンツというものを、はいていない。まくればまる出しになるものであった。かね子は十五くらいだったが、そんな突拍子もないことをやってのけるとは、ちょっと想像も出来ないことである>
ところで、犀星がその友人とかな子に逢おうと、浅野川べりにあるその家を訪れてみると、そこには別の一家が住んでいた。その人の話によると、犀星の友人も、かな子も、その両親もみんな肺病で死んでしまったのだという。
<するとかね子一家の印象は平四郎の眼には瞬時にして消失したが、ただ見えるものは十五歳のお臀ばかりであった>
犀星の描いているあたりを私は毎日新聞配達で歩いていた。私は大学時代の二年間ほど、「中日新聞」の朝刊と夕刊を配り、集金もしていた。それはちょうど浅野川近辺の地域で、犀星や徳田秋声、泉鏡花らの小説の舞台になった金沢でも下町情緒の色濃く残っているところである。
私は高校生の頃から犀星のフアンだった。「杏っ子」も大学時代には読んでいた。戦災を免れた金沢には戦前からの家並も残っていた。新聞を配りながら、ふと路地の角から、十五歳のかな子が現れてきそうな幻想を抱いた。犀星の見たかな子の白いお尻を、私も拝みたいものだと思った。
大学生の頃、4年間ほど、金沢の卯辰山の裾にある寺に間借りしていた。寺の山門を下ると、そこは「おひがし」の廓街で、狭い路地の両側に紅殻格子の家並みが浅野川の方に続いていた。
大学への行き帰りに、その色街を毎日歩いた。銭湯もその色街の中にあり、屋号の文字の浮き出た灯のともった行灯の軒下を、三味線や小太鼓の音に耳を傾けながら歩いたものだ。芸子と思われる粋な女性に街ですれ違うこともたびたびだった。
そうした街で、芸事を嗜みながら暮らす人たちには、何か独特のみやびな風情を感じた。そこにはふつうの市井では感じられない情緒や色香がほのかに匂っているようだった。それは、その街で暮らしている子供たちにまで及んでいた。
私の住んでいた寺の境内はそうした近所の子供たちの遊び場で、夏休みになるとラジオ体操の会場にもなった。自然と私の目に子供たちの遊ぶ様子が入ってきたが、そのなかに白い肌の目の美しいすらりとした活発な少女がいて、この少女の溌剌とした表情や澄んだ声に接するたびに、私は何かしらほのぼのとした幸せを味わったものだ。
今覚えている光景は、ある昼下がり、近くのスーパで買い物をしてをして帰ってきたとき、寺の山門までの石段に彼女が一人ぼんやり、春先の木洩れ日の中に腰を下ろしていた光景だ。そのころ彼女はもう中学生になっていたが、スカートの膝の上に頬杖をついて、何か夢見るような表情で遠くを見ていた。
私は彼女の傍らを通り過ぎ、その少し後ろに立って、彼女の白いうなじと、彼女が眺めている街の家並みを眺めた。甍の波の上には青い空が広がり、白い雲がやさしくただよっていた。私はふと彼女に樋口一葉の物語に出てくる少女を想像した。少女も「女」になったのかも知れないと思った。
それが私がその少女を眺めた最後ではないかと思う。数日して、私は金沢を引き払い、名古屋にやってきた。30年近くが過ぎて、青年の私はいつか白髪の中年になった。しかし記憶の中の少女は、いつまでも少女のままのやさしさで、早春の香りの中に清々しく微笑んでいる。
色街の 少女を想ふ 春の風 裕
室生犀星の「杏っ子」の中に、東京に出て詩人になった三十歳の犀星が、久しぶりに故郷金沢を訪れ、貧しい勤労青年だった頃の彼があこがれていた片思いの女に会いに行くという場面がある。女は突然訪れた見知らぬ男から名刺を渡されて驚く。
「実は私は金石という町に行く乗合馬車の中で、あなたに月曜日毎に殆ど一年半も続けてお目にかかったことのある男です。私はそこの登記所に勤めていて、あなたは小学校の先生をしていられました。お覚えにならないでしょうか」
もう十五年も前の話である。女は目の前の男が押し売りやゆすりでないことを知っても、「そしてどういう御用向きでしょうか」となお、顔色がこわばっている。
「用向きはないのです。昔お目にかかっていたので、もういちどお目にかかって置きたいと思って参りました。ただ、それだけのことなのです。私はすぐに帰りますが、私の記憶によりますと、あなたはただの一度も、御者席に近い方にお座りになっていて、下手の席を見てくださいませんでした。・・・も一つあなたはその往還街道のまんなかの、大野というところでお降りになり、私の月曜日の朝はいつもそこでお終いになったのです」
<彼女はどこかに見覚えのある平四郎の顔をかんづいたとき、平四郎はていねいに挨拶して其処を去った。美しさというものは一生ついて廻るものだということを、平四郎は嬉々としてうけとった。何を羞かしがる必要があるのだ、好きだった人に逢うことは三十になっても、四十、五十、六十になっても構うものか、からだにも、立ち話一つもしなかった人に逢うことは、逢うだけでたくさんの詩を貰ったようなものだ>
犀星はお世辞にも美男子とは言えない。実の両親の顔さえ知らない私生児で、学歴もない貧乏で内気な青年だった。通勤の途中乗り合わせた小学校の女教師にはるかな憧れを抱きながら、言葉一つかけることもできなかった。しかし、それだけに彼の恋心は純粋だったのだろう。それにしても十五年ぶりに憧れだった女を捜し出して会いに行くというその執念は恐ろしい。この一途な情熱がなければ、人を感動させる詩や小説は書けないのだろう。
| 2003年04月03日(木) |
個性的であるということ |
俳人の飯田龍太さんが、「現代俳句歳時記」という本のなかで、「個性的な俳句に一流のものは存在しない」と書いている。「一代の名句と称する作品は、ことごとく個性を超えたところに位置している」とも書いている。
<たとえば芭蕉・蕪村・一茶を並置して眺めたとき、三人のうちで一茶の作品はとび抜けて個性的であるが、それだけに作品の質は落ちる。あるいは芭蕉の場合にしても、初期・中期に個性的な作品が多く、晩年に至って次第に個性を超えた普遍的な句柄を示している。近いところで例をとるなら、波郷・草田男等と西東三鬼を対比してみると、あきらかに三鬼の作品に個性が濃いが、その分だけ作品の質は薄い>
俳句はわずか17音の短詩型である。小説なら、作者を伏せられても、およそ見当がつくが、俳句の場合、その作品だけで、これが波郷、これが草田男と作者の名前をあてるのはむつかしい。ときには波郷の作品だと思ったものが、初心者のたまたま思いついた作品であったりする。
俳句に個性がないという訳ではなく、やはりまとめて読んでみると、その作者らしさが現れているものだが、それも初期や中期の作品がそうで、晩熟してくるとその「らしさ」さえ薄れてくる。しかし、個性の喪失は、すなわち創作欲の衰退ではない。飯田さんも書いているように、個性を超えたところに「名句」が生まれてくるからだ。
私はこのことは俳句だけではなく、散文にも、他の芸術の分野にもいえるのではないかと思っている。と言うのも私はかって読んだ志賀直哉の次のような文章に強く心をひかれているからだ。
「夢殿の救世観音を見ていると、その作者というような事は全く浮かんで来ない。それは作者というものからそれが完全に遊離した存在となっているからで、これは又格別な事である。文芸の上でもし私にそんな仕事でも出来ることがあったら、私は勿論それに自分の名など冠せようとは思わないだろう」
私たちは個性的であることが独創的であることだと思っている。しかし、本当の独創とはもう少し違っているのではないか。個性的であるということは、独創的であるための一つの方法かも知れないが、その到達点ではない。むしろほんとうの独創性は、個性的なものの彼方に存在する。それを普遍と言っても、典型と言ってもよいのだろう。
ただ、私自身の興味から言うと、名句に感動するというより、まだまだ個性的な作品に多くを惹かれる。たとえば、私が「いいなあ」と思っている次のような俳句は名品と言えるのかどうか。
言いつのる唇うつくしや春の宵 日野草城 雪はげし抱かれて息のつまりしこと 橋本多桂子 乳房やああ満月の重たさよ 富沢赤黄男 病めば梅干しの赤さ 種田山頭火
飯田さんも書いているが、名品というのは一握りのプロの評価だけで決まるものではない。「真の名句とは、俳人が感銘すると同時に、俳人以外の人々のこころにひびいて共感を得た場合である」といわれる通りだろう。理想を言えば、俳句に限らず「いいものはいい」のであって、作者が誰であるかなどはどうでもよいことだ。
松の枝に あそぶ雀も 花見かな 裕
| 2003年04月02日(水) |
米国はイラク戦争で敗北する |
「イラク戦争―元国連大量破壊兵器査察官スコット・リッターの証言ブッシュ政権が隠したい事実」(合同出版、2003年)の著者で、弾道ミサイル技術の専門家として米軍で12年間、軍事諜報業務に従事した経歴を持つ元・国連兵器査察官のスコット・リッター氏は、3月25日、アイルランド・ラジオのトゥナイトショーで、「米国は対イラク戦争で敗北する」という予測を述べた。「前進を続けた米英軍はバグダッドの郊外で立ち往生してこの首都を陥落することはできないだろう」というのだ。その内容を紹介しよう。
<彼らだって戦いますよ。アメリカの十字軍きどりの不信心者たちが聖なるイラクに侵略して暴虐を行なえばね。そして彼らも我々に抵抗してくるでしょう。強力に抵抗してきますよ。我々はイラクを“解放”してるんじゃないのですよ。実際やってるのはイラクの“破壊”なのですから>
<昨年の秋に論文を書いて、そこでまさにこうなることを予測してました。いくつかの分析についてはあまりにもぴったり的中しているので、驚いているくらいですが。アメリカかかくも厳しい窮状に陥ったのは、いろいろと理由はありますが、まずもって、国防総省には、イラクから逃げ出してきた連中の、あれこれと吹聴しまくる、じっさいその通りなんですが、……まあ言ってみれば“たわいもないおしゃべり”を信じている人間があまりにも多いと、サダム・フセインを敵視する話をね。そうした“脱国者”にしてみれば、まずもって【A】イラクを解放することこそ米国の役割であり、【B】イラクにいる国民たちも我々が出ていってサダムから解放されることを切望していると、まあそのように考えているわけですよ>
<だけど現実はきびしい。大金をはたいてイラクに“救援”に出かけていけば町々で民衆の歓迎をうける、なんて甘い期待を抱いて出ていったはいいが……ごらんなさい、我々は弾丸と爆弾に“歓迎”されてるのが現実じゃないですか。彼らは、アメリカの十字軍きどりの不信心者たちが聖なるイラクに侵略して暴虐を行なっているから、抵抗しているわけです。これからも我々に抵抗してくるでしょう>
<我々がいかに多くのイラク人を虐殺しようが、アメリカはこの戦争に負けます。そして最終的にはアメリカ軍は尻尾を巻いてイラクから逃げ出すでしょう。それが私の予測です。残念ながら、我々はイラクの人々にたいして途方もない数の殺戮と破壊を行ないつつある。アメリカの兵士と海兵隊はその償いをするはめになるでしょうね。ついでにいえば、イラクに行かずにふんぞり返って、口先だけでアメリカ国民を鼓舞してイラクに送り込んで人殺しをやらせている者どもは全員、自分の行ないを恥じるべきですよ>
<たしかに我々は膨大な数のイラク人をかたっぱしから殺す能力を持っていますし、じっさいそれが実行されるでしょう。だけど申し上げておきましょう。じつは我々は、イラクで戦うに足る戦力を持ってはいない。正確に言えば、今回の戦闘で勝利するための戦力はね。だからかなりの戦力補強を行なわねばならなくなるはずです>
<アメリカ軍の部隊展開の目下の方針は、こんな臆断にもとづいているのです。イラク軍は降参するにちがいないし、イラクの民衆は我々を歓迎してくれるに違いないし、国際社会も応援してくれるに違いない、とね。だけど実際に起きているのはその正反対だ。我々はといえば、イラク現地に上陸した兵士は12万人にも満たない。これが2300万人もの国民を相手に対決しようとしている。しかもそのうちの約700万人がなんらかの武装をしており、おまけに都市部に集中しているのです。我々はこの戦争には勝てません>
<我々はバグダッドの郊外まで行って、そこで立ち往生するでしょう。このいくさは、絶対的な泥沼にはまりますよ。私の予想がはずれてくれればいいと思いますけどね。これから命を落とすアメリカの同胞のことを考えればね。だけどあいにく私は海兵隊に12年間勤務してきたベテランだし、第一次湾岸戦争では実際に戦闘経験がある。戦争がどういうものか知っているのです。国を守るとはどういうことか、もね>
<これは間違った戦争です。だってアメリカ合衆国の防衛にはなんら関係がないからね、イラクは大量破壊兵器を持っていませんよ。ブッシュ政権が途方もないウソで押し通して国際社会を騙した。アメリカ国民をもね。しかしもはや我々はイラクに兵を送ってしまった。ごくごくわずかの右翼の新保守主義の連中の思惑を実現するためにね。リチャード・パールとか、ポール・ウォルフォウィッツとか、ディック・チェイニーとかいった連中のためにね。けっきょく我々は、こういう連中が国の外交をハイジャックするのを、許してしまったのですよ>
アメリカのフォックス・ニュースは相変わらず好戦的で、愛国的なニュースを流して、アメリカ国民を戦争へと煽り立てている。前にも日記で紹介したが、FOXのオーナーはメディア王とよばれるオーストラリア人のマードックである。イラクに兵士を送っているのは米英豪の3ヶ国だが、いずれの政権もマードックが影で支えている。リッター氏のような発言はアメリカのメディアではまず放送されないだろう。
(参考サイト)http://www.asyura.com/0304/war29/msg/110.html
東京へM先生と旅行したきりで、青春切符が一枚あまっていたので、一昨日の日曜日、ぶらりと各駅停車の旅に出た。木曽川から敦賀まで、途中米原、長岡で乗り換えて2時間ほどかかった。
本を読んだり、景色を眺めたりののんびりした旅だった。沿線の景色はまだ早春と言ったところで、伊吹山にはまだ少し雪が残っていて、桜はまだまだという印象だったが、日差しは明るく、山々には春の息吹が感じられた。 敦賀の駅前に「びぜんや」という喫茶店があり、ここで一服。実は20数年前にもこの店に入った記憶がある。アイスコーヒーを飲んだ後、「この店はいつ頃からありますか」と年輩のママに訊くと、「26年になります」との返事。お見合いで敦賀に来たのが24年ほど前なので、やはりこの店だったんだなとなつかしくなった。ママは岡山県(備前)の生まれで、今でも親戚はあちらだという。それで「びぜんや」かと納得した。この店のアイスコーヒーはうまかった。
教員になった年に、私は次々とお見合いをしたが、その一人がこの敦賀に住んでいた。たしか気比中学の数学の先生だった。そこで、さっそく気比中学へ寄ることにしたが、春休みの土曜日ということもあって、人影はなし。彼女に会えると面白いと思ったものの、そんな奇跡を期待するほうがどうかしていた。
お見合いのデートの席で、彼女が結婚の条件に出してきたのが、 �.謄譽咾聾�ないこと �▲僖船鵐海鬚靴覆い海� ��子供をつくらないこと 名大の大学院で数学を勉強していた人で、美人で聡明な人だったが、この3条件には私もついていけなかった。もし、結婚していたら、どんな夫婦になっていたことか。
気比中学を後にした私は、気比神宮に参拝した。玉砂利の境内を歩いていくと、まだ梅の花が咲いていた。樹齢700年になるという大きなタモの木があり、その傍らに芭蕉の句碑があった。
月清し 遊行の持てる 砂の上 芭蕉
奥の細道の旅の途中、8月14日の夜、芭蕉は気比神宮に来てこの句を詠んだ。遊行というのは遊行上人のことで、この境内に真砂を運んできて撒いたのだという。芭蕉もこの境内に来て、月を眺め、タモの木を眺めたのかと思うと感慨があった。
玉砂利に かげろふの立つ 気比大社 裕
気比神宮をあとにして、港まで15分ほど歩いた。海や船を眺め、しばらくぼーっと日光浴。それから遅い昼食を「ヨーロッパ軒」でとった。この店の「ソースカツ丼」が私の好物なのである。妻と娘の分も持ち帰りで注文し、これをリュックにいれると、急に私の背中が重くなった。
春浅し 各駅停車の 北の旅 裕
(一年間続いた<一日一句>は昨日で終わったが、これからも短歌や俳句を作り続け、日記帳に載せていきたいと思っている)
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