橋本裕の日記
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2004年01月31日(土) いかに解くかが問題

 センター入試の成績も出て、大学受験はこれからが本番である。去年は次女の大学受験があって気が抜けなかった。今年も3年生の教科担任なので、まるで気楽なわけではないのだが、私が教えている生徒達はすでにほとんど進学先が決まっている。私のクラスでもこれから大学を受けようというのは数名だけだ。

 さて、昨日は出張で、数学研究会に参加した。私と同じ高校の数学の先生が八人ほど次々と研究発表をする。その中の一人が、東京大学理系の平成15年度入試に出題された「円周率πが3.05より大きいことを証明せよ」という円周率の問題を紹介した。

 数学の問題はいろいろな解き方がある。研究会でも4つほど紹介されたが、その中で一番シンプルなのは半径1の円に内接する正八角形の辺の長さの和が円周(2π)より短いという関係式を使う方法である。これは公式として余弦定理が使えれば簡単に解ける。

 正12角形を使えば、πが3.06よりも大きいことが同様な考察から証明できる。勿論これでもよい。あるいは正24角形の面積と円の面積を比較することからもπが3.06より大いことが証明される。そのほかに、関数の積分を使った方法が紹介された。

 受験生で多かったのは、正八角形を使った解答だったそうだ。これが一番簡単で最短距離の解答だと言えよう。私が受験生だとしても、この方法で解くに違いない。しかし、東大の先生の話では、「正解かどうかよりも、思考の質が重要」だという。ただ答えが合っているというだけではつまらない。そこに何か独自な個性が光っていれば高い評価が得られるわけだ。

 たとえば「直角三角形において斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しい」という三平方の定理(ピタゴラスの定理)で考えてみよう。この定理を証明せよという問題が東大の理系で出題されたら、受験生はどう考えるだろう。「中学で習った超カンタンな問題だぞ。ばかにしている」と思った生徒は数学者にはなれないだろう。

 問題は解けて当たり前だ。試験官が見たいのは、解けるかどうかではなく、「いかに解いたか、解こうとしたか」なのである。三平方の定理の証明は100種類以上ある。中学校の教科書に書いてあるのと違った方法に挑戦して、まったく独創的な証明を試みた答案ほど高い評価がもらえるわけだ。

 答えには○か×だけがあるわけではない。正解の中にも様々なものがある。これは以前も書いたことだが、「あなたをサポートします」という和文の英訳として、次の二つはいずれもCORRECTなものだ。

��I will support you.
��You will have my support.

 入試問題なら、�,皚△眄飢鬚任△蹐Α�しかし、GOODかどうかという観点からすると�,茲蠅廊△�上である。�△諒�が自然な英語で、ネイティブならこう言うに違いない。英語は「聞き手中心」という特性を持っている。しかし、そのような事情に無頓着な多くの受験生は�,播�えるだろう。学校ではこれが正解として教えられているし、辞書にも載っている。

 数学の場合も事情はおなじである。答えが合っていればよいというのではなく、その答えにたどり着く道筋にこそ醍醐味が隠されている。「合っているかいないか」よりも「いかに解いたか」が重要なのだ。CORRECTとGOODの間には大きな隔たりがあるのだが、日本の学校では無視されている。GOODであることが評価されることがない社会は、どこか異常で殺伐としている。

 (時を同じくして、大阪大学の理系では「円周率πが無理数であることを証明せよ」という問題が出題された)


2004年01月30日(金) 初秋

23.葉子のアパート

 葉子と喫茶店の前で別れるつもりだったが、ふと出来心が湧いた。葉子を「さと」へ連れていこうと思ったのだ。
「さと子の店で、食事でもおごらせてくれないか」
「食事をおごって下さるんですか」
 葉子の声が弾んでいた。
「いつも親友の世話をしてもらっているからね」

 タクシーを拾って、「さと」にいくつもりだったが、葉子はアパートに寄って、着替をしたいようだった。病院の勤務で汗をかいている。シャワーも浴びたいという。
「歩いて5分です。すぐにすませますから」
 並んで歩きながら、葉子は恐縮したように言った。
 
 葉子は三階建てのモルタルづくりのアパートの二階に住んでいた。修一はアパートの入り口で足を止めた。
「どうぞ、いらして下さい」
 外で待っているのもかえって人目に付くかもしれない。葉子に促されるままに、中に入った。

 居間のソファに腰を下ろすと、キッチンで葉子がお茶の用意をするのを眺めた。他にもう一部屋ある2KDの間取りだった。若い女性のお城らしくきれいに片づいている。
 ベランダの方に目を向けると、洗濯物が干してあった。下着も干してあって、修一はあわてて視線をそらせた。

 ステレオの上のプッシュフォンに目を留めて立ち上がった。
「電話を借りるよ。家に電話をしなくちゃね」
「どうぞ。お使い下さい」
 ダイヤルを回していると、葉子がお茶を運んできた。
「少し熱いと思います」
 小声で言い残して、ベランダに出ていった。


2004年01月29日(木) 幸せへの心理療法

 家庭内での幼児や児童に対するいじめや虐待事件が頻発している。子育ての意欲も愛情もなく、責任感も義務感もない、人間的に未熟な親を持った子供は悲惨である。北さんなら、「親の資格審査が必要だ」と言うかも知れない。

 人はだれでも自分が両親から愛されていると思いたい。虐待されている子供たちの多くも心の中でそう思い、「愛されているという幻想」のなかに逃避して、厳しい現実から目を背けようとする。こうした幻想を持ち続けて、ある意味ではしあわせな自己欺瞞の一生を終わる人もいるだろう。

 虐待が深刻な場合は、それがトラウマとなり、成長したあともその人の性格に何らかのゆがみを残し、ときには現実に適応できないような人格障害や精神的疾患をもたらすこともある。こうした人たちを救済するために専門的な心理療法が必要になる。

 心理療法の第一歩は、障害の原因をあきらかにすることだ。原因が分かればこれを克服する道も開ける。そしてそのためにカウンセリングや集団トレーニングが行われる。しかし、深刻な虐待を受けている人は心の傷も深くて、過去のトラウマを自覚させるという真実への旅が、かえって症状を悪化させることもある。

 アメリカでは、心理療法で自分の過去の真実に目覚めた被害者たちが、加害者の親を相手に訴訟を起こすケースが頻発しているという。真実を知った結果、よけに憎悪や不信が深まり、人生に絶望して自殺することもある。真実を知ることは、幸せへの第一歩とはならずに、憎悪と絶望への入り口になるときもある。

 子供を虐待する親は、自身虐待を受けていた場合が多い。だから親もまたかわいそうな存在なのだ。憎しみが憎しみを生みだしている訳だから、これは根が深くて、いまさらどうにもならない。そこで必要なのは心の切り替えである。ラッセルが書いているように、心を外に開いて回りの自然や社会に関心を向ければ、たくさんの挑戦すべき問題があり、生き甲斐の種がみつかる。そこにもっと生き生きとした喜怒哀楽が待ち受けている。

 過去への過度なこだわりを捨て、現在や未来へ心を向けること、自分をありのままに受け入れてくれる人々と共に生きることの喜びをわかちあうこと、人間がしあわせに生きる処方箋はこれしかないように思われる。よき心理療法家とは、過去を暴く裁判官や弁護士ではなくて、人生の同伴者であり、道先案内人なのだろう。


2004年01月28日(水) 何のために、何を、どう学ぶか

 毎日新聞の「論点」に、建築家の安藤忠雄さんが、「責任ある個人よ育て」という題で、「次代を担う子供には保護より自立を重視すべきだ」と書いている。現在の日本のさまざまな意味での国力の低下は、「人間を、責任ある個人として育てられない、社会構造に源があるのだ」と主張している。

<問題は、彼らが文字通り自立していないことだ。70年代あたりまでは、若者はある年齢になれば親から自立して、自力で生活するのが普通だった。良しあしは別として、家庭から学校、会社に代表される社会につながる安定したレールが敷かれていた。

 ここ10年間で、経済活動のグローバル化や過度の情報化など要因はさまざまだが、そのレールが直進のものでなくなってきたのも若者たちを迷わせる理由の一つだろう。しかし、そんな社会の変化にもかかわらず、学校も家庭も学歴社会から抜けきれず、子供を画一的な価値観で一流サラリーマンに、と学業に追い立て続けている。

 社会の行く末にも無頓着に、学校に囲い込まれ、主体性を発揮する機会も訓練の場も与えられない現代の子供たちの心身が脆弱(ぜいじゃく)なのも無理のないことだ。学力の低下を問題視する声もあるが、知識の不足より、それを活(い)かす人生の目的も見つけられない、活力のなさの方が問題だ>

 とくに新しい主張ではない。これまでさんざん言われてきたことだ。こうした観点から、「週休2日制」や「ゆとりの教育」が導入されたわけだが、これが定着しないうちに、ふたたび知識詰め込みの教育に戻ろうとしている。安藤さんがいうように、私も大切なのは「知識の量」ではなく、「それを活かす人生の目的」ではないかと思っている。「何のために、何を、どう学ぶか」が問題なのだ。

<少子化、高齢化が進む一方の日本社会で、若者たちの問題は何より重要である。彼らを社会の若い力として生き返らせるには、社会システムも学校教育も変わらなければならない。大切なのは、教育と仕事、社会とを切り離すのでなく、もっと広く<生き方>を探していける環境をつくっていくこと、子供たちが未来を切り開くためのチャンスを幅広く準備することだ。

 だが、そうした努力も、人間をつくる根本となる家庭の子育てに変化がなければ意味がない。保護するばかりで子供の自立を考えていないから、いつまでも子供が依存するのを許してしまっている。

 人間の根幹は、純粋に世界を知ろうとする子供のときに形づくられる。必要なのは、子供なりに自分で考えて、行動できる自由を与えてやることだ。自分の心を探すうちに友を知り、生命を知り、自分が戻る家庭の意味を学ぶ。自由を通じて責任の意味を身体で学ぶ。責任を伴った自由を大切にしてやっていれば、昨今の青少年の凶悪犯罪も起こらなかったのではないか。

 親の体験してきた社会の枠組みは、すでに崩壊している。まずは親が思い切って子供を、子供の世界に帰してやったらどうか。子供が子供らしくいられて初めて健全な社会だ。次代を託すべき世代に元気がない社会に未来はない>

「何のために、何を、どう学ぶか」ということを教えようということで、「総合学習」がカリキュラムとして設けられたが、やはりこうしたことを学校で教えるのには限界がある。安藤さんが言うように、「教育と仕事、社会とを切り離すのでなく、もっと広く<生き方>を探していける環境をつくっていくこと」が重要だ。そのために、学校も家庭も、社会も変わっていかなければならない。その方向性として、「自立と自己責任」という羅針盤を見失わないようにしたい。

(参考サイト)http://www.mainichi.co.jp/eye/ronten/art/040105M115_1207101B10DH.html



2004年01月27日(火) 私の死刑廃止論

 ときどき職場に署名用紙がまわってくる。「高校でも30人学級を実現を!」「幼児教育の充実を!」といった署名にはすぐに応じるが、ときには署名をお断りする場合もある。例えば「死刑制度撤廃」の署名がそうだ。これまで何度か署名用紙が来たが、「私は死刑制度撤廃には反対です」と言って、署名しなかった。

 なぜ、死刑制度撤廃に反対なのか。私の場合は、ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」ということである。この基準をあてがえば、他人の命を奪った者は、自分の命で償ってもらうしかない。そうしないと、殺された者は浮かばれないし、親族や友人も納得できないだろう。

 したがって、故意の殺人については、正気であれ狂気であれ、心身喪失や耗弱を問わず、「殺人には死刑」を原則にすればよい。ただし、これはあくまで原則であって、法廷が刑の減軽を妥当と判断し、遺族がこれを認めれば、恩典として死刑の不執行を認めてもよい。あくまで被害者の心を尊重すること、これが私の考え方である。

 しかし1989年に死刑廃止条約が成立して、死刑制度廃止を求める声は今や世界の世論になっている。2002年末現在、執行せずの事実上の死刑廃止国が20カ国をふくめれば、111カ国が死刑を行わない国となった。残り84カ国は北朝鮮、中国、イラン、イラク、キューバ、アフガン、パキスタンといったイスラム国やアジア・アフリカの途上国がほとんどで、先進国は米国と日本のみである。

 アメリカでも実は死刑廃止が進んでいる。2002年に死刑が執行されたのは71件(死刑囚は3697人)だが、2002年12月末現在、12の州では死刑が廃止され、38の州で死刑は合法だが、そのうちの8州で執行が行われていない。

 2003年1月には共和党のイリノイ州知事ジョージ・ライアンが、167人の死刑囚全員に恩赦(減刑)を与えている。この背景には、地元ノースウェスタン大学の学生たちが、17年間獄中にいる一人の死刑囚の裁判記録を調べあげ、無実の証拠を発見したことがある。知事が州審査委員会に他の死刑囚の調査を指示したところ、13人に対する判決が不当だったとの報告を受けた。知事は「死刑制度は、悪魔的な誤りを犯すリスクに取りつかれている。この州のだれにでも同じように起きる可能性がある」として、任期切れを目前に167人全員の減刑を発表した決断したのだという。
 
 日本でも死刑制度反対の声は大きくなっている。亀井静香といえば、自民党元政調会長で小泉さんと総裁戦を争った保守的な政治家だが、もとは自治省の役人で、埼玉県警捜査二課長などを歴任した経験を持っている。刑事犯罪の現場を知っているこの人が、今は刑廃止推進議員連盟(現在、超党派で113名)の会長として熱心に「死刑制度廃止」を主張している。

 著書「死刑廃止論」(花伝社)の中で亀井氏は、「報復感情という、いわば人間の本能といったものを、国家が代わって行うということでは、国家としての健全な姿ではない」「国家権力が、犯罪者に、凶悪犯罪をやったということで命を絶つ…ということは、近代国家においてやるべきでない」「死刑には犯罪抑止力はない」「生きとし生けるものに対する共通の価値観、人間の尊厳についての基本的な考えの重なり合いといったものが、死刑廃止運動によって生まれてくるのではないでしょうか」と書く。

 世界の潮流から遅れたアメリカや日本でも、こうした動きがある。しかし一方で、凶悪犯罪が増えている。「死刑制度撤廃」に反対する声はまだまだ強い。私も「死刑制度撤廃」に反対してるが、しかしその理由は「死刑には犯罪抑止力」を期待するからではない。あくまで被害者や遺族の心情を重視するからだ。そして「目には目を」というモラルの立場から、死刑の存続を主張している。これは人間の心の問題なのだ。

 しかし死刑制度は民主主義国家における裁判の公正を前提としている。「疑わしきは罰せず」を軸とする近代的な刑事手続システムが機能しないで、国家刑罰権の誤用や濫用が日常のように行われ、誤認逮捕、誤起訴、誤判、そし冤罪による誤った処刑が無数に行われている。こうした現状では、「死刑廃止論」がでてくるのもやむをえない。冤罪による死は国家による暴力的殺人行為である。これほど恐ろしいことはない。私もそろそろ「死刑制度廃止論」への反対を撤回する潮時かなと思っている。


2004年01月26日(月) 初秋

22.秋は夕暮れ

 修一はコーヒーを飲み干した後、グラスの水に口を付けた。喫茶店に来てもうかなり時間がたっていた。修一は少し改まった表情で、
「ところで、さと子さんは、他に何か言っていたの」
「ええ、さと子さんが島田さんに娘さんがいるかも知れないって。島田さんにはほんとうに身よりはいないのでしょうか」
 島田に娘がいるという話は初耳だった。

 島田には隠し子の一人や二人はいても不思議はなかった。さと子は何か知っているのかもしれない。しかし、それは島田のプライバシーにかかわる微妙な問題だった。
「君がなぜ、そこまで……」
「受け持ちの看護婦として当然のことだと思います」
「それだけかな」

 葉子の目がけげんそうに修一を見つめた。、
「記憶喪失を回復させるために、できたら病院の外に連れ出して、色々な人と面会させてあげたいのです。そのときは沢田さんも協力して下さいね」
「もちろんだよ」

 修一は病室で島田の体を拭きながら、葉子の白い指が島田に触れているところを想像していた。そのときの感情を思い出して、修一は葉子のテーブルの上に置かれた白い手を見つめ、それから窓の外をながめた。街路樹に注がれていた日差しが翳っていた。

「日が短くなったね。六時前だというのに、夕暮れだね。カラスもねぐらに帰る時刻だ」
「私、高校時代に習った枕草子の一節を今でも覚えています。秋は夕暮れ。夕日の射して、山の端いと近かうなりたるに、からすのねどころへ急ぐさえあはれなり」
 葉子の口にした枕草子が新鮮だった。言葉の響きがよかった。
「さすが紫式部だ」
「清少納言です」
 葉子が白い歯を見せて笑った。

 小学生の頃から現在にいたるまで、文学とは無縁の生活だった。会社で英語の論文ばかり読んでいた修一は、古典は遠い世界だった。
「ねぐらのあるカラスは幸せだな」
「沢田さんにも立派なねぐらがおありでしょう」
「らしいものはある。立派とはいえないな」
 修一は頭を撫でながら、テーブルの伝票を手にとった。


2004年01月25日(日) 壁

 彼の仕事は壁を修復することだった。彼はこれを天職だと思っていた。壁はとても古かったから、毎日手を入れる必要があった。ひびが出来ると、そこから雨水がしみこみ、たちまち穴があいてしまう。それを許してはいけない。

 壁の向こうに何があるのか、彼は知らなかったし、また知ろうとも思わなかった。なぜなら壁のこちら側には彼が愛するすべてがあったからだ。壁のこちらは安全であり、すべてが整然としていて、居心地が好かった。

 壁を修復する職人は彼の他にもう一人いた。しかしその男は彼ほど有能ではなかった。仕事熱心でもなかった。適当に仕事をさぼり、ときには重大な危機を見過ごしたりした。したがって、彼はときにはその怠け者の分まで引き受けなければならなかった。

 あるとき、役人がきたので、彼はこのことを訴えた。そのため、その怠け者は首になった。新しい職人は採用されなかったので、彼の仕事は以前よりさらに大変になったが、彼はそのことを不満に思わなかった。むしろ怠け者が視界から消えたことで、せいせいした。

 ある日役人が市民代表の男を連れて視察に来た。仕事に精を出していると役人の声が聞こえた。
「彼が一人でこの壁を守っています」
「それはごくろうさんなことですね」
「壁はどんどん傷んできています。彼一人の手に負えないでしょう」
「それは私たちも分かっています。しかし、壁の存在意義について懐疑的な意見が出ています。たぶん壁は壊されることになるでしょう」

 市民代表の言葉に彼は仕事の手を止めた。そして何か言おうとしたが、声が出なかった。
(壁が壊される)
 彼にとって、それは考えてもみないことだった。市民代表は言葉を続けた。
「壁を修復する費用もばかになりませんからね。壁がなくなれば、この壁職人の方も仕事を失います。しかし、当面は壁を壊す仕事があるでしょう」

 その夜、彼は眠れなかった。彼の家は代々壁職人だった。壁を守ることは一家の使命であり、彼自身の生き甲斐だった。壁の存在意義を疑うことは、彼自身の存在意義を疑うことだった。壁がなくなったら、どんな恐ろしいことが起こるか、彼らは考えたことがあるのだろうか。

 彼は夜中に起きだして、壁職人だったかっての同僚の家を訪れた。男はビールを飲んでいた。一目見て酔っているようだったので帰ろうとすると、
「壁が壊されるようだね。それで祝杯をあげているんだ。君も一杯どうだ」
 と愉快そうにグラスを差し出した。

 男は酔っていたが、これまで見たことがないほど、表情が晴れ晴れとしていた。
「おれはもうだいぶん前からこの日が来ることを望んでいたんだ。だから仕事にもせいがでなかったよ。君には迷惑を掛けた。あやまるよ」

 男の差し出したグラスを彼はじっと見つめながら、
「壁の向こうに何があると思う」
「さまざまな困難があるだろうね。それから自由があるよ」
 自由という言葉を、久しぶりに聞いた。それがどんな意味か忘れていたので、思いだそうと彼はしばらく考えていた。

(今日はきまぐれにこんな短編を書いてみました)


2004年01月24日(土) オール・フォア・ワン

 友人の北さんがさっそく掲示板で、「ワン・フォア・オール、オール・フォア・ワン」(One For All、All For One)は、社会主義革命の合言葉だということを教えてくれた。エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」のラストに出てくるのだという。これは、ロシア革命の前ぶれとなった1905年のポチョムキン号事件を描いた映画で、私も昔見たことがあるが、北さんに指摘されるまで気付かなかった。

 反乱を起こしたポチョムキン号に帝政側は鎮圧艦隊を差向けるが、鎮圧側艦隊の水兵たちは発砲を拒否する。その感動的なラストで、水兵たちが声を合わせて叫ぶのが「ワン・フォア・オール、オール・フォア・ワン」(One For All、All For One)だという。

 言われてみれば「ワン・フォア・オール」というのは、個人の上に社会を置く社会主義の思想に馴染むのかもしれない。そしてこれはまた、サッカーや野球などの集団的なスポーツの精神にも通じ、公共の秩序や安寧を重んじる右翼的な国家主義の精神にも通じる。右から左まで、いろいろな人々や団体に愛好されそうな言葉だ。

 かってケネディ大統領は、就任演説の中で、「国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国家に何が出来るかを問え」(Ask not what your country can do for you. But, ask what you can do for your country.)と熱く語りかけ、この言葉は多くの人々の心を打った。国家や社会のために私たちは何をなにを為すべきか、ケネディの演説は人間としての生き方の根本を見つめ直そうというメッセージとして好意的に受けとめられた。

 そもそも倫理というのは、「他人や社会のために役立つ」ということを基本にしている。その精神はまさに、「ワン・フォア・オール」である。この気持が国民に失われたら国家は瓦解し、社会は崩壊するしかない。だからこうした利他的な精神はとても大切なのである。

 それではどうしたら、わたしたちは「ワン・フォア・オール」という立場に立つことが出来るのだろう。家庭のしつけや、学校や社会での教育でこれが可能だろうか。私はこれにかなり悲観的である。戦前や戦中の日本のように、教育勅語を暗記させ、強制してこれを叩き込めばよいという人もいるだろうが、所詮それが付け刃でしかないことは、敗戦後のモラルの崩壊を見ればよくわかる。

 倫理はたんなる理屈や理論ではない。それは理屈や理論であるまえにひとつの感情である。この感情を論語は「仁」や「恕」という言葉で語り、孟子は「測隠の情」と呼んだ。現代の私たちならば、キリストにならって「隣人愛」というだろう。こうした倫理的で美しい感情をどうしたらわたしたちは身に備えることができるのだろう。

 釈迦は経典の中で、「憎しみは憎しみから生まれ、愛は愛から生まれる」と語っている。そして仏教は「恩愛」という言葉をつかう。愛とは何か。それは釈迦によれば恩愛なのだ。母親が子を愛することによって、子供は愛を知る。そして愛を知った子供だけが、我が子を愛することを知る。

 どうようなことは、隣人愛にも言える。人々から愛された人は、人々を愛することを知る。人を愛することが、自然な感情となるのだ。したがって「愛すること」の学習に大切なの理論や理屈や、まして強制や脅迫ではない。愛されることである。多くの人々から愛され、親切にされた体験こそが、その人の倫理の骨格になることができる。

 こう考えてくると、「ワン・フォア・オール」の前に、「オール・フォア・ワン」が是非とも必要なことが理解されるだろう。人に優しい社会が、社会に優しい人を生むのである。とくに子供たちにやさしい社会を私たちはつくらなければならない。社会によって自分が大切にされているという実感が得られれば、ほとんどの人は「自然に」倫理的になる。そこに難しい理屈や哲学はなんら必要ではない。


2004年01月23日(金) ワン・フォア・オール

 私の高校では三年生の各クラスは毎年、人権週間にポスターをつくる。それぞれが、一言ずつ標語を持ち寄って書くのだが、そのなかに担任の私が書いたのは「ワン・フォア・オール、オール・フォア・ワン」(One For All、All For One)である。私は二回これを書いたが、今後又この学校で3年の担任になって標語を書くとすれば三度この標語を書くだろう。そのくらい気に入っている。

 この標語がだれの言葉か知らない。私はこれを自分のクラスの生徒に教えてもらった。中学生の時、これがクラスの合い言葉だったというから、結構ポピュラーな言葉なのだろう。この言葉の前半の「ワン・フォア・オール」は「一人はみんなのために」という意味だ。「みんな」のところに、家族や友人や地域社会や国家、人類社会、地球などがくる。

 これが強調されると、「滅私奉公」などという封建的な国家主義や息苦しい集団主義、恐ろしい全体主義になりかねない。私はそれを救うのが、後半の「オール・フォア・ワン」だと思っている。前半がないと、後半が成り立たないのは確かだが、後半が確立されていて、はじめて前半の「ワン・フォア・オール」の気持が生まれてくる。

「オール・フォア・ワン」は「みんなは一人のために」ということだ。私たちが社会に尽くした見返りとして、社会は私たち一人一人の生命や財産を守り、豊かで平和な生活を保障してくれなければならない。納税は国民の義務だが、その税金を国民の福祉のために使うことは、国家の責務でもあるわけだ。

 「ワン・フォア・オール」と「オール・フォア・ワン」はどちらが先というわけではない。これは車の両輪のようなもので、同時に進行しなければならない。そして、この両者がバランスよく調和のとれた社会が私たちの理想とする社会ということになる。

 こうした社会では、「滅私奉公」という言葉は成り立たない。あえて書くなら、「活私奉公」とでも表現すべきだが、やはり「奉公」という言葉の語感はよくない。もうすこし現代的にいうならば、「社会貢献」であろう。「活私貢献」とでもいうことにしようか。

「自分を最大限に活かして人々の役に立つこと」、これを自己の人生の理想にしたい。恐らく、人間にとってほんとうの幸せはこうした実践のなかに自ずと実感されるものだ。したがって、こうした社会的幸福を疎外して、個人に利己的な快楽のみを提供したり、その見返りに自己犠牲と不平等を強いるような社会システムは、すみやかに変革される必要がある。


2004年01月22日(木) 初秋

21.二人の会話

 窓際の席から外が眺められた。秋の午後の日差しが斜めに舗道に落ちていた。そこを若い男女が歩いていく。二十数年前、修一も妻の芳子や良子とその道を歩き、この喫茶店に入ったことがあった。

 喫茶店の中にもカップルが何組かいたが、静かに雑誌を読んでいて、話し声は聞こえなかった。話をしているのは、修一たちだけのようである。ジャズ響いていたが、音量が絞ってあるので、気にならなかった。葉子も外を眺めていたが、思い出したように、

「近親憎悪と言えば、最近は家庭内暴力とかいろいろあるから怖いわ。沢田さんのご家庭は立派な息子さんだから問題はないでしょうけど」
「そう立派でもないさ。しかし、今の時代まったく平和な家庭はないんじゃないかな。どこの家でもそれぞれ他人には言えない秘密や軋轢を抱えているんだろうね。日本は平和で豊だと言うけど、一皮むくとたいへんなのさ」

「うちの病院にも、それと分かる患者さんが運ばれてくるのよ。父親は階段から落ちて頭の骨を折ったというけれど、どうみても不自然なの。金属バットかなにかで殴られたとしか思えないケースもあるの。病院に勤めていると、人生のいやな面も目に付くわね。何となく悲観的な気分になることも多いわ」
「出生率がどんどん減っているだろう。子を産まない夫婦や、結婚しない男女が増えているからね。葉子さんはどうかな」

「私も結婚しない口かも知れません。結婚しても、子供は欲しいとは思わないわ」
「意外だね。それで、仕事一筋で頑張るのかい」
「ええ、たぶん仕事しかない人生になると思います」
「残念だね」
「どうして、残念なのですか?」
「君はいい奥さんになれそうだから」

 葉子は目を上げると、修一を見た。修一は励ますように、
「結婚したって、看護婦は続けられるだろう」
「私、前の彼のことが、まだ忘れられないのかも知れません」
「前の彼とは、どのくらい?」
「三年と少し。看護学校の時から交際を始めて、看護婦になって半年も経たないうちに、好きな人が出来たので、別れたいって……」
「彼から言われたの?」
「はい、この喫茶店に呼び出されて、ちょうどこの席でした」

 修一は思わず、咳払いをした。
「それで、あっさり別れたの」
「しかたがないなと思いました」
「彼とはそれっきり?」
「ええ、音沙汰なし」
「あっさりしたものだね」

「もともと恋人と言っても、接吻一つしたことがないんです。手を握って、一緒に山歩きをしたくらいかな。山歩きが好きな人でしたから」
「ふうん、少し風変わりだね」
「そうでしょうか」
「男と女が一緒にいて、何も感じなかったの」
 葉子はちょっと困ったように、うつむいた。


2004年01月21日(水) 殺人プログラムの恐怖

 私の勤務校で学んでいたブラジル人の高校生が、一年間の留学を終えて、いよいよお国に帰ることになった。その世話をしていた英語科のT先生が、留学生が日本の高校にどんな印象を持っていたか教えてくれた。

「ブラジルの学校は午前中で終わるらしいですよ。夏休みも長い。日本へ来て、午後も授業があるのに驚いたそうです。それから、日本の生徒は姿勢が悪い。顔を上げて相手の目を見て話すことがないのが、いかにも自信がないように見えるということですね」

 日本の生徒は、小さいときから勉強を押しつけられて、偏差値競争の中で自信を失い、自尊心をなくしているのではないか。他人の目ばかりを気にし、ただ競争にのみあくせくするばかりで、人生のほんとうの楽しみ方も知らず、自立心も育っていないのだろう。考えてみると、かわいそうである。

 人生に目標を失い、やる気を失った彼らは、学習意欲そのものを失い、学校から帰ると、部屋に閉じこもってテレビやビデオで暴力やセックスシーンを見つめ、テレビゲームで敵を倒すことに熱中する。そして自己陶酔的で思考を遮断させるような麻薬的なロック音楽の洪水のなかに逃避するしかない。これではあわせな人生だとは言えない。とくに私が心配するのは、学校の競争主義にくわえて、子供たちの脳を汚染しつつあるこれらの「文明的」な娯楽の野蛮さだ。

「人を殺す、つまり同種を殺す能力は人間に自然に備わっているものではない。殺すことを習わなければ、備わらない能力である。兵士に人殺しを教えるように、テレビや映画は子供達に人殺しを教えている。今日の社会は、子供を人殺しに育てあげるためにトレーニングを繰り返しているようなものだ」

 これは25年間、米陸軍心理学者として 「どうしたら人が殺せる人間を育てられるか」を研究し、訓練用のプログラムを作ってきたグロスマン氏の言葉だ。彼は子供が犯罪に走るのは、メディアによる暴行シーンの垂れ流しが大きな要因だと主張している。

 まさに軍隊で行われている「殺人プログラム」がそのまま家庭まで持ち込まれて、子供たちにその訓練をしているのが現状である。これで子供たちがまともな人間に育ったら、それこそ奇跡と言うべきではないか。こうした殺伐として環境で育った子供たちは必然的に、他人を打ち負かすことしか考えない攻撃的な大人になるしかない。

 こうした殺人ゲームで鍛えられた人間の作る社会がどんなものになるか、容易に想像がつく。ちなみにアメリカでは現在、少年犯罪で死刑判決を受けて死刑囚として服役しているのは78名いるという。全員男性で、殺人罪だそうだ。いたるところに銃があふれ、100万人以上の兵隊が任務につき、180万人もの囚人が刑務所にひしめいている。

(参考サイト)http://news.msn.co.jp/461458.armx


2004年01月20日(火) 虚無を運ぶ車

 鴎外が「かのように」を「中央公論」に発表したのが明治45年1月、50歳の時である。この年、明治天皇が崩御し、乃木大将の殉死があった。その10月に初めての歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を発表している。

 大正2年には「安部一族」、大正4年には「山椒太夫」、大正5年には「高瀬舟」などの名作を書き、この年から「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」を新聞に連載した。毎日新聞は朝日の夏目漱石に対抗して鴎外に期待したが、「連載すればするほど読者の反響が小さくなっていき、やがて販売店から猛烈な反対が持ち上がった」(毎日新聞100年史)のだという。

 漱石に比べれば、鴎外の歴史・史伝小説はいかにも地味だった。しかも漢語を主体にした文体が非常にむつかしく、一般人のみならず、同時代の文人たちにも読みつらかった。鴎外はこうした批判に「わたくしは学殖なきを憂うる、常識なきを憂へない。天下は常識に富める人の多きに堪えない」と答えたという。

 残念ながら、私も学殖に乏しい方なので、鴎外の史伝小説はなかなか読みづらい。しかし、「山椒太夫」や「高瀬舟」は文体もよいし内容も深い。私の大好きな作品である。鴎外は歴史上ほとんど無名の人々に光を当て、その困難な人生に寄り添うように丁寧に筆をすすめる。こうした創作姿勢が松本清張を感激させ、山本周五郎や藤沢周平の世界を開いていったのではないかと思う。

 ところで、「伊沢蘭軒」を連載していた大正5年に、鴎外は「空車」(むなぐるま)というちょっと変わったエッセーを書いている。今日はこの作品を少しだけ紹介してみたい。以前に読んだときから、とても気になっていた作品だからだ。

<私の意中の車は大いなる荷車である。その構造は極めて原始的で、大八車と云うものに似ている。只大きさがこれに数倍している。大八車は人が挽くのにこの車は馬が引く>

<私はこの車が空車として行き逢う毎に、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。車は既に大きい。そしてそれが空虚であるが故に、人をして一層その大きさを覚えしむる>

<この車に逢えば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。葬送の行列も避ける。この車の軌道を横切るに会えば、電車の車掌といえども、車を駐めて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。そしてこの車は一の空車に過ぎぬのである>

<わたくしはこの空車が何物をか載せて行けば好いなどとは、かけても思わない。わたくしがこの空車と或物を載せた車とを比較して、優劣を論じようなどと思わぬことも言をまたない。縦いその或物がいかに貴きものであるにせよ>

 この作品を友人にすすめられて最初に読んだのは、もう二十数年も前だった。鴎外のいう空車とは何だろうと考えて、すぐに頭に浮かんだのは「無用の用」という言葉だった。これは役に立たないからこそ貴いのだという逆説ではないか。そして空車は文化一般の象徴ではないのかというのが、おおよそ私が友人に語ったことだった。

 私は今も基本的にはこの説に立っているのだが、最近はこれに加えて、空車とはたとえば「天皇制」の象徴ではないかなどと考えたりする。大いなる空虚としての天皇、そしてこの空虚を運び続ける馬は、すなわち鴎外自身の姿ではないか。

 現代に生きる私たちは車に色々な物を詰め込んで運んでいる。それを運ぶのが私たちの人生であり、使命であり、生き甲斐だと思っている。しかし、そうしていったい何を運んでいるのか。それもまた、どうでもよいようながらくたではないのか。そうしたありきたりの人生に比べて、何物をも運ばない人生は何やら常識を外れていて、いっそう巨魁な感じがする。

 それにしても、「空車」の醸し出す雰囲気は特異である。読み返しているうちに不気味にさえなってくる。ドストエフスキーやカフカの不条理の世界に通じるような底知れないものを感じる。「空車」は鴎外が心の底に秘めていた人生の心象風景であり、彼の心に写った虚無の深淵ではないか。今度久しぶりに読み返してみて、そんなことを考えた。


2004年01月19日(月) 初秋

20.午後の喫茶店

 喫茶店スミレで葉子を待ったが、四時半を過ぎても彼女は現れなかった。修一はホットコーヒーを注文して一人で飲んだ。十分ほどして、半袖の白いブラウスに紺のスカートの葉子が来た。白衣姿しか見慣れていない修一には新鮮だった。

 アイスコーヒーを注文したあと、ハンカチで額の汗を拭きながら、
「お待たせして申し訳ありません。また、婦長さんに捕まって……」
 葉子は婦長から小言を言われるらしい。トイレの中で泣いたこともあったが、最近は神妙に話を聞いて、婦長がいなくなると舌を出すのだという。修一は婦長の色の白い丸顔を思い浮かべた。

「やさしそうにみえるのにね」
「患者や医者の評判はいいし、看護婦達も信頼しているわ。私も彼女のことを尊敬しているのよ。彼女も私に親切だったけど、だんだん険しくなってきたの」
「何か思い当たることはないのか」
「それが、わからない」

 今日はミーティングの時間に遅れたことで叱られたらしい。二、三分の遅刻でも彼女は許してくれない。遅れた理由はきこうともしない。

「患者の命は一秒が勝負だって」
「なるほど」
「医者や看護婦でミーティングに遅刻してくる人はたくさんいるのよ。麻酔医のA先生なんか、手術に遅刻してくる常習犯よ。でも、叱られるのは決まって私なの」

 葉子は不満そうに唇を尖らせ、頬をふくらませた。修一は葉子の子供っぽい仕草に微笑した。

「婦長さんと君は似ているんだと思うね。性格的にも几帳面で、患者にも親切だしね。近親憎悪じゃないのかな。似たもの同士だから、愛憎半ばするんじゃないのかな」
「そうかしら。なんだか、愚痴ばかりで、ごめんなさい」
「看護婦というのは大変な仕事だもの。責任も重いからね。葉子さんもたまには息抜きをして羽を伸ばさないとね。真面目過ぎてもいけない」
「たまにはこうして息抜きしたいわ」
 
 葉子はあらたに恋人を作る暇もないという。若い医師や同僚と話しても、一方的に話を聞かされるばかりで、ストレスがたまるのだという。修一はこれからたまに喫茶店で会って、彼女の話を聞いてやってもいいと思った。


2004年01月18日(日) ポツダム宣言をめぐって

 1945年7月、トルーマン、チャーチル、スターリンの三巨頭がベルリン郊外のポツダムに会して、戦後処理について話し合った。そして三国による「ポツダム宣言」が7月26日に発表された。アメリカからの放送を日本の受信局がキャッチしたのは、27日午前6時のことだという。これを日本の新聞は翌日の朝刊で報じた。

一、世界征服を企てるに至った者の権威と勢力は永久に芟除(せんじょ)せらるること、軍国主義は駆逐すること。

一、日本占領中、連合国により指定せられる地点は、われわれの目的達成確保のため占領せらるること。

一、カイロ宣言の条項は実施せらるべく、日本の主権は本州、北海道、九州、四国およびわれわれの決定すべき小島嶼に限定せられること。

一、日本兵力は完全に武装解除せらるること。

一、戦争犯罪人は厳重に裁判せられること。日本政府は日本国民に民主主義的傾向を復活すること。日本政府は言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重を確立すべきこと。

一、日本に留保を許さるべき産業は日本の経済を維持し、かつ物による賠償を支払い得しむるものに限られ、戦争のための再軍備を可能ならしめる如き産業は許さぬこと。この目的のため原料の入手は許可せらること。世界貿易関係に対する日本の参加は何れ許されるべきこと。

一、連合国の占領兵力は以上の目的が達成され、かつ日本国民の自由に声明せられたる意思に基く平和的傾向を有する責任政府の樹立を見たる場合は撤退せられること。

 新聞でこれを読んだ当時の国民はどう感じたことだろう。澤地久枝さんは「自決」(NHKライブラリー)のなかで、<日本人の多くは、昭和20年7月28日の新聞で、生まれてはじめて「民主主義」「言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重を確立」などの表現を目にしたはずである>と書いている。

 当時の政府がこれだけの内容を新聞に報道することを認めたのはちょっと意外である。しかし、実はこれが宣言のすべてではなかった。新聞報道では9条と10条、13条の全文か一部が意図的に省かれていた。

九、日本国軍隊は、完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を与えられる。

十、われらは、日本人を民族として奴隷化しようとし又は国民として滅亡させようとする意図を有するものではないが、われらの俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は、確立されなければならない。

十三、われらは、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつこの行動における同政府の誠意について適当かつ充分な保障を提供することを同政府に対し要求する。これ以外の日本国の選択には、迅速かつ完全な壊滅があるだけである。

 澤地さんは<この文面によって、日本国民が戦う意味を失い、戦争指導にしたがうことをやめ、ポツダム宣言を受諾して平和な生活に戻りたいと考えることを為政者たちがおそれたために削除である。敵国人を「鬼畜」と信じこまされ、捕らえられる屈辱と恐怖心から多くの集団自決は生まれた。ここで削り取られた文章の持つ意味は小さくはない>と書いている。

 この日の新聞には「帝国政府としては米、英、重慶三国の共同声明に関しては何ら重大な価値あるものに非ずとしてこれを黙殺すると共に、断乎戦争完遂に邁進するのみとの決意を固めている」という政府の反応も書かれている。つまりこの段階で、政府は降伏するつもりはなかった。この後の展開を新聞記事から拾ってみよう。

<6日7時55分頃、B29二機は広島に侵入。焼夷弾をもって同市付近を攻撃、このため同市付近に若干の損害を蒙った模様である>(8月7日、朝日新聞)

<敵はこの新型爆弾の使用によって無辜の民衆を殺傷する残忍な企図を露骨にしたものである。敵がこの非人道なる行為を敢えてする裏には、戦争遂行途上の焦燥を見逃すわけにはいかない。かくのごとき非人道なる残忍行為を敢えてした敵は、最早再び正義人道を口にするを得ないはずである>(8月8日、朝日新聞)

 このあと9日にはソ連参戦と二発目の原爆が長崎を襲った。10日の新聞には「ソ連、対日宣戦を布告」「東西から国境を侵犯」「満州国内へ攻撃開始/北満北朝鮮へ分散空襲」などの見出しが並んだ。ソ連の対日宣戦布告文も載っている。さらに12日には「長崎にも新型爆弾」「一瞬にして広島変貌」と原爆の被害の深刻さを報じる記事が載っている。ここにきて、ようやく天皇はポツダム宣言受諾を決意する。

 8月14日、天皇の聖断を受けて陸軍省に帰った阿南大臣は、血気盛んな部下達に詰め寄られる。井田中佐が「閣下、決心変更の理由をお聞かせ下さい」とつめよると、阿南は語気を強くして、こう語ったという。

<畏れ多くも陛下が、この阿南の手をお取りになって、涙をお流しになりながら、「阿南よ、お前達の気持はよく分かる。苦しいであろうが我慢してくれ。国体のことは大丈夫であると朕は確信するから、お前もそう思ってもらいたい」と仰せになられた。これほどまでに直々のお言葉を頂いては、自分としてはこれ以上何も申し上げる事はできなかった。もし諸官が、これでも納得いかぬというのなら、まずこの阿南を斬れ。阿南を斬ってからやれ>

 天皇がじきじき手を取って泣いたというのは、阿南の創作だろう。こうでも言わなければ、血気にはやる将校達を押さえられなかったに違いない。阿南はこのあと大臣官邸に戻り、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」という有名な遺書を残して、翌日15日の夜明け前に切腹自殺した。阿南陸軍大臣の自刃のニュースは日本国内のみならず、アジア、太平洋地域に展開している日本軍に報ぜられ、彼らの志気を奪ったという。

 戦時下の報道のありかたについては様々な批判がある。ときには大本営発表よりもさらに過激にしたようなそのスタイルは報道というよりプロパガンダのようなものだった。しかし、よく読んでみると、そうした「戦争遂行」のプロパガンダの影に、大切な情報がさりげなく置かれている。読む人が読めばわかるようになっていたようだ。


2004年01月17日(土) 乃木大将殉死の報道

 明治天皇の大喪が行われたのは大正元年九月十三日、陸軍大将乃木希典(まれすけ)は自宅で妻静子とともに自刃した。森鴎外はこれに感銘を得て、「興津弥五右衛門の遺書」をわずか五日間で書き上げた。

<相役横田清兵衛と両人にて、長崎へ出向き候。幸いなる事には異なる伽羅の大木渡来いたし居り候。然るところその伽羅に本木と末木との二つありて、はるばる仙台より差し下され候伊達権中納言殿の役人ぜひとも本木の方を取らんとし、某も同じ本木に望みを掛け互いにせり合い、次第に値段を付け上げ候。その時横田申し候は、たとい主命なりとも、香木は無用の翫物に之れあり、過分の大金を擲ち候事は然るべからず、所詮本木を伊達家に譲り、末木を買い求めたき由申し候>

<茶儀は無用の虚礼なりと申さば、国家の大礼、先祖の祭祀もすべて虚礼なるべし、我れらこのたび仰せを受けたるは茶事に御用に立つべき珍しき品を求むるほか他事なし、これが主命ならば、身命にかけても果たさでは相成らず、貴殿が香木に大金を出す事不相応なりと思され候は、その道のお心得なき故、一徹にさよう思わるるならんと申し候。>

<横田聞きも果てず、いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武辺者なり、諸芸に堪能なるお手前の表芸が見たしと申すや否や、つと立ち上がり、脇差を抜きて投げつけ候。某は身をかわして避け、刀は違棚の下なる刀掛けに掛けありし故、飛びしざりて刀を取り抜き合わせ、ただ一打ちに横田を討ち果たし候。>

<かくて某は即時に伽羅の本木を買い取り、仲津へ持ち帰り候。伊達家の役人はぜひなく末木を買い取り、仙台へ持ち帰り候。某は香木を三斎公に参らせ、さて御願い申し候は、主命大切と心得候ためとは申しながら、御役に立つべき侍一人討ち果たし候段、恐れ入り候えば、切腹仰せ付けられたくと申し候。>

 しかし、主君忠興は沖津に切腹を許さなかった。むしろ<其方が申し条一々尤至極せり、たとい香木は貴からずとも、此方が求め参れと申し付けたる珍品に相違なければ大切と心得候事当然なり、すべて功利の念をもって物を見候わば、世の中に尊き物は無くなるべし>とのことで、三斎公御名忠興の興の字を賜わって、沖津を興津と相改る名誉まで得た。それから、歳月が流れ、興津は主君の死に際会する。このとき主君の恩義に報いるために、殉死することを決意する。

<某つらつら先考御当家に仕え奉り候てより以来の事を思うに、父兄ことごとく出格の御引き立てを蒙りしは言うもさらなり、某一身に取りては、長崎において相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿一命を御救助下され、この再造の大恩ある主君御卒去遊ばされ候に、某いかでか存命いたさるべきと決心いたし候。>

 ところで、乃木大将の殉死を、当時の人々はどう受け止めたのだろう。庶民の中には乃木大将の忠誠心に感銘をうけたものもいるだろうが、当時の知識人の反応はがいして醒めたものだった。たとえば志賀直哉は九月十四日の日記にこう書き留めている。

<乃木さんが殉死したというのを英子からきいた時、馬鹿な奴だという気が、丁度下女かなんかが無考えに何かした時感じる心持ちと同じような感じ方で感じられた>

 猪瀬直樹さんは「天皇の影法師」(朝日文庫)で志賀直哉の日記を引いて、「乃木殉死当日のおおかたの感じ取り方というものが、今日ではやや意外に思われるかもしれないがむしろ志賀に代表されていたとみられる」と書いている。そして、さらに生方敏郎の「明治大正見聞史」に書かれた、乃木大将の切腹を報じる新聞社の社内の様子を紹介している。その会話をざっと抜き書きしてみよう。

「乃木さんが亡くなったそうですね」(記者)
「乃木大将は馬鹿だな」(植字工)
「本当に馬鹿じゃわい。何も今夜あたりに死なないたって、他の晩にしてくれればいいんだ。今夜は記事が十二頁にしても入りきらないほどあり余っとるんじゃ」(編集主任)
「惜しいなあ。もっと種のないときに死んでくれりゃ、全く我々はどの位助かるか知れないいんだ。無駄なことをしたもんだ」(外交部長)
「編集の方はそれでもまだいいが、工場は編集より一足ずつ後になって行くのですからねえ、たまらねえや。私ら、陛下の御不例以来、おちおち寝た晩なんかありませんよ」(職工長)
「ああ、いやだいやだ、。いやだよいやだよ乃木さんは嫌だ。新聞記者泣かせの自殺なんかして。ナンテマガイインデショウ」(記者)
「あのような現代の偉人の訃報に対して不真面目すぎる」(主筆)
「偽善者め」
「乃木が死んだってのう、馬鹿な奴だなあ」(社長)
「さすが社長はえらいぞ」
「社長万歳」(大勢)

 これはある新聞社の様子だが、他社でも大方こんなものだったのだろう。ところで、その同じ新聞社が、翌日の朝刊では「軍神乃木大将自殺す」と破天荒な大見出しで、忠誠無二の軍神乃木大将を最大限賛美する内容だったという。生方敏郎の「明治大正見聞史」を「天皇の影法師」より孫引きしておく。

<忠誠無二の軍神乃木大将、すべての記事の文字は一頁より八頁まだ、どこまで行っても常にこのような尊敬を極めた美しい言葉で以て綴られておた。それはどの新聞を見ても同様だった。私はただ唖然として、新聞を下に置いた。昨夜乃木大将を馬鹿だと言った社長のもとに極力罵倒した編集記者らの筆によって起草され、職工殺しだと言った職工たちによって活字を組まれ、とても助からないとこぼしていた校正係によって校正され、そして出来上がったところは、「嗚呼軍神乃木大将」である>

 後世の我々は、当時の新聞を第一級の資料として、当時の世相を考量するわけだが、新聞社の舞台裏がどのようなものであったか、報道がいかにおこなわれていたかを検証しておくことは大切なことだ。そしてこのことは、現代にも通じるメディアリテラシーの課題であろう。いずれにせよ、当時の知識人や報道陣の間で、鴎外の言う「かのように精神」がいかに蔓延していたかを示していて興味深い。この世論の動きに一番居心地が悪かったのが、「興津弥五右衛門の遺書」を書いた鴎外そのひとではなかっただろうか。


2004年01月16日(金) 初秋

19.鏡越しの会話
 島田に浴衣を着せ終えると、修一は洗面器にタオルや下着を入れて、部屋を出た。洗面所へ向かう廊下で、看護婦の葉子に出会った。
「ちょっとお話があるので、ついていきます」
 かるく会釈すると、修一から遅れて歩いてきた。様子が少し他人行儀なのは、周囲の目を気にしているのかも知れなかった。

 葉子は流し台で修一がタオルや下着を洗うのを見ていた。修一は鏡越しに葉子を見た。
「話というのはなんだい」
「さっき、さと子さんが見えていました」
「蘭の花は彼女が持ってきたのだね」
「はい……」

 さと子は島田がひいきにしていた店の女将だと言うことは、葉子に言ってある。これまでも何度か病院に来ていたが、葉子とは面識があるくらいだった。さと子は気立てはよかったが、頭が切れる方ではない。不用意な発言でもしたのだろうかろうかと思って、修一は鏡の中の葉子を見つめた。

「さと子さんから言づてを頼まれました。相談したいことがあるので、一度さとに来てほしいそうです」
「ふうん」

 二人の後ろを、患者や付添人が通っていった。その流れが途切れたところで、葉子が脇まできて、修一から洗面器を受けとった。そして早口で、

「私、今日の勤務は四時までなの。少しお時間をいただけませんか。私も少しご相談したいことがあるのです」
「島田のことで?」
「ええ……」
「分かった。近くのスミレという喫茶店で会おう」
「四時二十分頃にうかがいます」
 
 葉子が去ってから、修一は洗面台の鏡を見つめた。この一、二年で白髪が目立っていた。顔に刻まれたシワが深くなり、シミも目立っている。
(あと少しで五十だからな。年相応にふけたわけだ)
 修一は薄くなってきた髪を指先で丁寧に撫でた。


2004年01月15日(木) かのようにの虚無

 森鴎外は49歳の時、「かのように」という題の小説を書いている。主人公の五条秀麻呂はドイツ留学体験をもつ若い歴史家である。彼は神話が歴史ではないことを知っている。しかし政治家の父である五条伯爵は、国民に神話を信じさせたいと思っている。国の秩序をたもつために天皇制の神話が必要だと考えるわけだ。

 天皇が神であるとか、万世一系であるとかというのは虚構に過ぎない。しかし、国民を一つにまとめ、近代国家として発展させるためにはこうした虚構も方便として必要なのだ。そのことが分かっているだけに、神話と歴史の板挟みになり、秀麻呂は懊悩する。そして、友人の画家の綾小路を相手にこんな告白をする。

「点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線があるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シィだね。自然科学はどうだ。物質と云うものでからが存在はしない。物質が元子から組み立てられていると云う。その元子も存在はしない。しかし物質があって、元子から組み立ててあるかのように考えなくては、元子量の勘定が出来ないから、化学は成り立たない」

「精神学の方面はどうだ。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志と云うものの存在しないのも、疾っくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる」

 たしかに科学や学問はいずれも「学説」でしかない。原子や分子も実際に人間の目に見えるわけではない。あくまでも仮説である。しかし、仮説と言っても、それは論理的に構築され、実験や観察によって厳しく検証されている。けっして人間の主観性で自由になるようないい加減なものではない。主人公はこのあたりの認識が甘いようだが、次の宗教や芸術については、「かのように」の立場も成り立つだろう。

「宗教でも、もうだいぶ古くシュライエルマッヘルが神を父であるかのように考えると云っている。孔子もずっと古く祭るに在すが如くすと云っている。先祖の霊があるかのように祭るのだ。そうして見ると、人間の智識、学問はさて置き、宗教でもなんでも、その根本を調べて見ると、事実として証拠立てられない或る物を建立している。即ちかのようにが土台に横わっているのだね」

「かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心にしている。昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈めたように、僕はかのようにの前に敬虔に頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが、澄み切った、純潔な感情なのだ。」

「祖先の霊があるかのように背後を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。そうして見れば、僕は事実上極蒙昧な、極従順な、山の中の百姓と、なんの択ぶ所もない。只頭がぼんやりしていないだけだ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶところもない。只頭がごつごつしていないだけだ」

 「かのように」は神や実在を信じていないのに、人生の方便のために、神やそれにかわる価値があたかもあるかのように、お互いにお芝居をして生きていこうという、ずいぶん不誠実で便宜的な生き方である。一言で言えば、これは「虚無」そのものの生き方である。はたしてこうした虚無に人間は耐えられるのだろうか。友人の画家はさっそく反論する。

「人に君のような考になれと云ったって、誰がなるものか。百姓はシの字を書いた三角の物を額へ当てて、先祖の幽霊が盆にのこのこ歩いて来ると思っている。道学先生は義務の発電所のようなものが、天の上かどこかにあって、自分の教わった師匠がその電気を取り続いで、自分に掛けてくれて、そのお蔭で自分が生涯ぴりぴりと動いているように思っている。みんな手応のあるものを向うに見ているから、崇拝も出来れば、遵奉も出来るのだ。人に僕のかいた裸体画を一枚遣って、女房を持たずにいろ、けしからん所へ往かずにいろ、これを生きた女であるかのように思えと云ったって、聴くものか。君のかのようにはそれだ」

「僕は職業の選びようが悪かった。ぼんやりして遣ったり、嘘を衝いてやれば造做はないが、正直に、真面目に遣ろうとすると、八方塞がりになる職業を、僕は不幸にして選んだのだ。」
「八方塞がりになったら、突貫して行く積りで、なぜ遣らない。」
「所詮父と妥協して遣る望はあるまいかね。」

 主人公の歴史学者とその友人の画家との緊迫した対話は、そのまま鴎外の心の中で上演された劇だった。「かのように」生きることは、山県有朋や伊藤博文は耐えられだろうが、鴎外にはやはりつらかったのではないか。鴎外も「突貫したい」という気概はもっていたのに違いない。しかしその出口を見いだせないまま、彼は役人生活を続けた。山県有朋をご老公と呼び、その腹心として使える妥協の人生を余儀なくされた。

 しかし明治天皇の薨去に伴う乃木大将の殉死が鴎外に衝撃を与える。乃木という人は、山県や伊藤のように「かのように」で生きていた人ではない。明治天皇を心の底から崇拝し、これに殉じることを名誉と考える武士道の権化のような人物である。こういう純粋な一途さに鴎外の「かのように」は動揺した。そしてそうした「純粋な精神」への探求が始まるが、しかしそこに見出したのは、自分は乃木ではなく、虚無をかかえて生きなければならない近代人であるという認識だった。

 さらに大正6年のロマノフ王朝崩壊という衝撃が彼を襲う。鴎外は友人宛の手紙で、「老公(山県)などはさだめしご心痛の事と拝察つかまつり候。只今よりの政治上の局面は下す所の石の一つ一つが帝室の運命問題に関するを覚え候」と書いている。そして、ここから晩年に至る「元号考」への没頭が始まる。鴎外はこれを「最大著述」と呼んでいた。しかし、そこに感じられるのは、漢籍を拠り所にした国家の元号に対する異常な執着でしかない。当然ながら、後世の評価はきわめて低い。

 もっとも、死に臨んで彼は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス。墓ハ森林太郎ノ外一字モホル可ラズ」という有名な遺書を残した。墓の文字に拘るのは鴎外が最後まで自分の生き方が気になっていたからだろう。鴎外は「ばからしい」とつぶやいて死んでいったとも伝えられている。彼は死によって、ようやく何者にも束縛されない自由へと「突貫する」ことができた。これが彼の選んだ「かのように人生」の少し淋しい帰結だった。

 ちなみに、鴎外の遺言は守られなかった。墓の側面に「大正十一年七月九日没」と彫られたからだ。「大正」という年号は安南人の立てた越という国の年号にあるということで、鴎外は「明治」とともにこれを日本の元号にはふさわしくないものとして嫌っていた。こんなものを墓に彫られては、鴎外の魂は冥界でも自由を満喫することはできない。心外なことだっただろう。

(参考文献) 「天皇の影法師」(猪瀬直樹、朝日文庫)
(参考サイト)「かのように」(森鴎外、青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/678.html


2004年01月14日(水) 倫理と自己

倫理的ということはどういうことか。簡単に言えば、それは他人の役に立つということだ。つまり、自分を勘定に入れないで、社会やそこに生きる他者のことを考える利他的な生き方だといえる。もちろん、こうした利他主義は利己主義を排斥するものではない。

 利己的であって、かつ利他的であるという互恵主義がなりたつ場合があると思う。したがって問題は単純ではないのだが、ここでは利己主義でない利他主義を、とくに倫理的と呼ぶことにしよう。そうすると、倫理的であることの指標として、「自己脱却」ということが考えられる。

 松井選手をなどを見てもわかるが、ファンをとても大切にしている。恵まれない子供のことを考えて、夢を与えようとしている。そして、「愛」という文字はその成り立ちの中に、「相手の心を受け止める」という寛容性を示している。それも自分を「無」に出来るからだろう。自己脱却性は東洋的な「無」の境地や、古神道の説く「神ながらの道」にも通じている。

 武士道なども、自己脱却性を中心にすれば理解できる。宮本武蔵は厳しい剣の修行を通して、この境地にいたった。己を空しくするというのは、そうした厳しい鍛錬によって得られものだろう。職人や科学者もまた常に客観的に対象に向かい合い、自己を修練して、「ものの論理」を追求する。そうした姿勢は自己脱却の理想的な姿だ。

 なかでも「論理」はそうした自己脱却性の最たるもので、「倫理」の根底にあるものだ。ギリシャ人は、人生で大切なのは「真」「善」「美」であり、この三者が統一されたところに理想の人生や国家が実現すると考えた。つまり、倫理的であるということは、論理的であること、美しくあることでもある。

 自己脱却と似ているものに自己犠牲や自己忘却がある。新興宗教やファシズムはこの例だが、自己脱却との違いは、そこに厳しい「論理」があるかどうかだ。ほんとうの自己脱却は自己否定ではなく、むしろ自己を最大限に活かす道でもある。それはほんとうの自由への道でもある。倫理的であることによって、利他主義は利己主義と変わらないものになる。

 ラッセルが「幸福論」に書いたように、人間は心を外に開くことで幸せになれる。心を外に開くということは、自己脱却の第一歩である。しかし、真実であることの厳しさを忘れるとき、自己脱却は自己忘却に堕落する。そして、そうした幻想の中に生まれるのは偽りの幸せでしかない。そこに実りある自己実現は存在しない。


2004年01月13日(火) 高山への旅

 一昨日の日曜日に、青春切符を使って、高山へ行って来た。青春切符は11500円で5回分である。1回分にすると2300円。これで24時間乗り降り自由だが、ただし各駅停車か快速電車しか使えない。期間は12月10日から2月20日まで。これまで�ー禧江�浜、��金沢 と使い、���い鰐爾烹苅娃娃葦澆蚤澆靴燭里如∈2鵑�最終回ということになった。

 6:36に木曽川発、岐阜で乗り換えて、10:09に高山についた。高山では古い街並みを見て回った。途中、飛騨牛の串焼き3本とコロッケを食べた。串焼きは一本200円したが、肉が香ばしくて、最高においしかった。さらに180円の御幣餅を食べた。あわせて980円の昼食である。

 青春切符の旅は安い。岐阜〜高山だと往復の普通乗車券が5000円をこえている。これが2300円ですむのだから、半額以下である。特急料金も合わせれば4分の1の費用である。各駅停車だと時間の無駄だという人もいるが、私の場合は本を読んだり、途中の景色を楽しみながら、いろいろと思索に耽ったりするので少しも退屈ではない。かえって精神が活性化してありがたい。

 とくに今回の高山線は沿線の風景がよかった。山や川があり、鎮守の森や鄙びた農家など、そこに暮らす人々の様子にも風情があって、眺めていてあきることがない。下呂の辺りから、雪景色になり、高山はかなりの積雪があった。北国生まれの私は、こうした景色も好きである。しかし、高山は寒かった。朝市で帽子を買ってかぶったが、この寒さはなかなか解消しなかった。風流は寒いものとわきまえた。

 14:48に高山発、美濃太田、岐阜で乗り換えて、18:33分木曽川着。木曽川駅に妻が車で迎えに来てくれていた。二人の娘も同乗していたので、そのまま行きつけのトンカツ屋へ行って夕飯を食べた。風呂に入り、ようやく体があたたまった。湯に浸かっていると、いい気分になり、一日の疲れが出て、うとうとした。

 湯に浸かり瞼閉じれば白き山鎮守の森など旅の思い出  裕

 日本の古来の宗教は神道だが、神道にはこれという押しつけがましい教義も偶像もない。森の中にある小さな社の中に飾られているのはただの鏡。一木一草だけでなく、岩や石までが神を宿す。実にすがすがしいではないか。旅に出るたびに、日本の自然が好きになり、「神ながらの道」が好きになる。これも歳のせいだろうか。


2004年01月12日(月) 初秋

18.痩せた体

 修一は島田の髭を剃り、それから浴衣を脱がせて、首筋や脇の下を水で濡らしたタオルで拭いた。ベッドで寝たきりの島田の手足は痩せていた。シャツを脱がせると、肋骨が浮き出ていた。そこを丁寧に拭いた。

 島田はいつか目を閉じていた。眠っているようにも見える。修一は足首から太ももを拭いた。それから、パンツをとって、下腹部を拭いた。下半身の厄介な部分はこれまで看護婦にまかせていたが、今日はついでに拭いてやろうと思った。

 修一は島田の小さくしぼんで黒ずんだ一物を手ぬぐいで拭きながら、葉子が同じことをしているところを想像した。葉子が見ている前で、それが膨れ上がったりしないのだろうかと、修一は葉子の横顔を思い浮かべた。

 それから、良子のことを思い出した。良子の女の部分に、島田のそれが入っていったこともあるのだろう。修一はそんなあらぬ想像をしているうちに、島田の一物をとおして、島田がこれまでに関係をもった多くの女の部分にふれているような気がしてきた。そうするとその黒ずんだ小さなものが、なにやらいわくありげに眺められた。

 修一は中学生の頃、福井の田舎で寝たきりの母の世話をしたことがある。大雪が降って、母屋がつぶれそうだということで、一家で屋根に上がった。しばらくして、母が足を滑らせて落ちた。

 落ちたところが悪かった。首の骨が折れて、全身不随に陥った。医者は命が助かったのがもうけものだと言ったが、母は死んだ方がよかったと泣いた。家に厄介者が増えて、家計が苦しくなった。父がよく酒を飲むようになった。家の中がどんどん暗く荒んで行った。

 全身不随の母にかわって、中学生の修一と小学生の弟が家事をした。母の世話をするのは父の役目だったが、父が手を抜くようになって、いつか修一の仕事になった。裸にして体を拭いたり、下の世話もした。

 ある日、下の世話をしようと思って、浴衣を剥ぐと、母の太ももが血で汚れていた。中学生の修一は知識として知っていたが、実際に女の出血を見るのははじめてだった。そのとき修一は母親に女を感じた。いつもの母親ではなく、三十代の女のなまぐさい部分が急に鼻についてきた。

 それから修一はなるべく母に近づかなかった。母の世話は父や弟に任せた。そのかわり、食事の支度をし、朝刊と夕刊を配ることで、修一は家計を助けた。中学を卒業して、修一は田舎の家を出て、福井の親戚に下宿し、そこから定時制高校に通った。田舎には休みのたびに帰ったが、あいかわらず母は寝たきりで、修一の顔を見ると子供のように泣いて、「はやく死にたい」とばかり口にした。

 しかし、あれから二十年以上たって、母はいまも父と弟一家に支えられて生きている。父も弟も母を厄介者扱いすることはなかった。母もいつか「死にたい」とは言わなくなり、修一が帰省して顔を見せると、うれしそうに微笑んだ。修一が久しぶりに体を拭いてやると、「ありがとう」と涙を流して喜ぶようになった。

 修一もいつからか、母になまぐささを感じることはなかった。母の女の部分を眺めながら、そこから自分が生まれてきたのかと思うと、何か敬虔な思いがした。
「母さんのここから僕や孝二が生まれてきたんだね。拝ませていただきます」
 いつか、修一は正座してそこに手を合わせたことがあった。母のその部分はきれになピンクをしていて、いつまでも若々しく美しかった。

 最近はしばらく福井の田舎に帰っていない。去年の盆にも帰り損ねたから、もう二年以上になる。修一は島田の体を拭いたあと浴衣を着せながら、いつか少し涙ぐんでいた。母のことを思いだしたせいで、少し感傷的な気分になっていた。


2004年01月11日(日) 日本の三つの宝

 日本には世界に誇る「三つの宝」がある。

�‘�本の自然。
日本は世界でも有数の森林がある。先進国ではフィンランドに続く森林率を誇っている。しかもその6割が自然林。これが第一の宝だ。豊かな森は、豊かな水をつくり、作物を実らせる。それはまた私たちの心に潤いと安らぎを与えてくれる。

�∨�葉集に代表される文化力
日本にはゆたかな文化的伝統がある。今日でも短歌や俳句を多くの人が楽しんでいる。庶民の一人一人がこうした文化的伝統に生きている国はそうないのではないか。この日本の伝統文化を大切にしたい。

�J刃揃�法。
日本の平和憲法には人類の二千年以上の歴史が刻み込まれている。これは人類の歴史が生み出したもっとも素晴らしい叡智の結晶である。これによって、日本は人類の歴史なかに輝かしい位置を占めることができた。先の大戦で日本は破れるべくして破れた。今後は人類史の先頭に立って、世界平和のために世界貢献することで、その汚名を晴らしていきたいものだ。これこそが本当の愛国心だと思う。

 この三つの宝を大切に次の世代に伝えていきたい。このHPを運営し、毎日こうして拙文を書いているおもな動機でもある。

 さて、部活の試合は昨日で終わってしまったので、今日はこれから青春切符の旅に出かけようと思います。高山まで道中を楽しみながら遊びに行ってきます。気まぐれ一人旅の道連れは、ポール・クルーグマン教授の「嘘つき大統領とデタラメ経済」という本です。それでは、行って来ます。


2004年01月10日(土) 戦時中の文化人たち

 以前の日記で、戦前から戦後にかけての「文芸春秋」に連載された菊池寛の「話の屑籠」より文章を拾ってみたが、今日は戦時下の新聞・雑誌に書かれたものをもう少し引用して、当時の日本の好戦的な雰囲気を見てみたいと思う。まずは、「戦争を語り継ぐリンク集」に収められた北原白秋の「大東亜戦争小国民詩集」から「言葉」という詩の冒頭を引こう。

 「轟沈」といふ言葉を聞いた時、
 僕のたましひは爆発した。
 「自爆」といふ言葉を聞いた時
 僕の心臓は一塊の火となつて落ちて行つた。
 何とすがすがしい一本の「雷跡」よ、
 ああ、「戡定」はボルネオの大太鼓の音で終止した・・・

 戦争中は国民総動員体制がしかれた。そうした中で、多くの文化人もまたやむをえず、あるいは自ら進んで、戦争に協力した。たとえば昭和十六年、陸軍大臣東条英機が示達した「生きて虜囚の辱めを受けず…」で有名な「先陣訓」の校閲は島崎藤村が行い、志賀直哉、和辻哲郎までが協力したといわれている。

 戦争賛美の詩や短歌もたくさんつくられた。たとえば、昭和二十年の元旦の朝日新聞には「決勝」の題で斉藤茂吉のこんな短歌が載っている。

 決戦の気運めぐれるこの年を決勝として極めざらめや
 またたくひまもとどまらぬ戦いに忠のあらはれ特別攻撃隊
 神国のちからを見よと黒けむり空にうづまきてB29墜つ

 澤地久枝さんの著書「自決」の中から孫引きさせてもらったが、澤地さんは「(戦時中の報道を読み直して)気付いたのは、新聞記事、とくにその見出しと、大本営発表の間にあるズレである。見出しの方が誇大なのだ。・・・大本営発表はなく、新聞記事が先行して書く戦況も目につく」と書いている。新聞の見出しをいくつかあげておこう。
 
「米鬼鏖殺(皆殺し)のみ」
「神風工員、神州護持の誓い」
「生か死か、断呼国体護持」

 吉川英治、高村光太郎、佐藤春夫、北原白秋、西条八十、高見順、阿部知二からサトウ・ハチローまで、戦争翼賛的な作品を発表した作家はその数を知らない。たとえば、南京陥落直後の昭和12年12月13日の朝日新聞には、吉川英治が「南京陥落に寄す、われらの将来の使命に任ず」、萩原朔太郎は「南京陥落の日に」を寄稿している。

 吉川英治はともかくとして、戦争や軍隊とはまるで体質があわない真性の芸術家である萩原朔太郎までが、戦争協力詩を発表しているのは驚きだ。もっとも彼が書いた戦争翼賛詩はこの一編だけで、しかも彼はこれを悔やんで、こんな手紙を友人丸山薫に書いている。

<朝日新聞の津村氏に電話で強制的にたのまれ、気が弱くて断り切れず、とうとう大へんな物を引き受けてしまった。・・・とにかくこんな無良心な仕事をしたのは僕としては生まれて始めての事。西条八十の仲間になっようで、懺悔の至りに耐へない。>(丸山薫宛書簡)

 戦時中、多くの国民がそうであったように、多くの文化人や報道人もまた進んで戦争に協力した。戦争が終わり、「生命の危険を感じた」「生活のためだった」「だまされていた」などとという弁明が聞かれたが、ほんとうにそうだろうか、それですむのだろうか、という疑問を拭いきれない。私は萩原朔太郎などは例外ではないかと思っている。

 口直しに、バートランド・ラッセルのことを書こう。彼は戦争反対を叫び続けた筋金入りの知識人だが、「回想の面影」(Portraits from Memory and Other Essays, 1956)のなかで、第一次大戦を目前にして、当時のイギリスの雰囲気がいかに好戦的であったか、そうした中で反戦を訴え続けた彼がいかに孤独を味わっていたかを回顧している。

<7月の末は暑い日が続いていたが、私はケンブリッッジにいて、その状況について論じあっていた。私はヨーロッパが戦争に飛び込むほど狂気じみていると信ずることは不可能だと判定した。しかし私は、もし戦争が起りでもしたら、イギリスもそれに巻き込まれるかも知れないと信じた。それで私は、中立擁護のための声明書を書き、大多数の教授や学士院会員の署名を集めた。それは、「マンチェスター・ガーディアン」に掲載された。その当日、宣戦が布告された。彼らの多くは、殆んどすべて、その意見を変更してしまった。>

<私は8月4日の夕方、あちこちの街を廻って見た。特にトラファルガー広場の近傍で、その夕方を過ごした。私は歓呼する大衆を注視し、また通行人の感動を自ら敏感に感じとっていた。この日、またそれに続く日々において、私が驚愕の念をもって発見したことは、一般の男性も女性も、戦争の前途を喜んでいたことである。多くの平和論者が主張したように、それまで私は、戦争はいづれもいやがる大衆に対して専制的な、マキャベリ的な政府によっておしつけられるものであると、浅はかにも想像していた。>

<私の生涯は2つの時期に鋭く区別される、1つは第一次世界大戦の勃発する以前の時期、1つはそれ以後の時期である。第一次世界大戦は私から多くの偏見を除き去り、また私をして改めて幾多の根本的問題を考えしめるに至った。>

 ラッセルは反戦を貫き、戦争反対の言動を止めなかったので、1918年には、4ヶ月半にわたって投獄されている。そして、牢獄で名著「数理哲学序説」を書いた。ちなみに、この「数理哲学序説」は私の高校時代の愛読書で、私はこれを岩波文庫の小さな活字で読みすぎて、一時視力を大幅に落とし、眼科に通ったなつかしい思い出がある。

(参考サイト)http://j-texts.com/hakushu/daitoaah.html


2004年01月09日(金) 初秋

17.仲居の女

 修一が良子に最後にあったのは、会社の忘年会の宴会場でだった。酌にきた仲居の一人が良子だった。和服姿の良子を見るのははじめてで、印象も違っていたので、修一ははじめ気付かなかった。

「お久しぶりです。お元気ですか」
 前に坐った良子に声を掛けられて、修一は驚いた。うっすら化粧した良子は、もうもう三十代の半ばだった。その目がいたずらっぽく微笑んでいた。

「見違えたね」
「あら、今のはほめ言葉ですか」
「もちろんだよ。いい女になった」
 良子はほそかった首にもやわらかな豊かさが感じられ、襟足からあたたかな女の匂いがたち上っていた。

「あなたは、少しも変わりませんね」
「あいかわらず、骨皮筋右衛門だ」
「奥さんにちゃんと餌をもらっているのですか」
「まあ、なんとかね」

 会話と言えばそのくらいで、良子はすぐに横の席に移って行った。そして次々と客に酌をしながら、愛想をふりまいていた。
(女は変わるものだな)
 客商売とは縁がなさそうだった生真面目な良子が仲居になって、しかも身のこのなしや口のききかたまで板についていた。

 良子は一通り酌をし終えると、もう一度修一の前にきて、
「また、こちらをひいきにして下さいね」
「もう行くのか」
「忘年会のシーズンで、宴会が立て込んでいるの。私、これでも看板娘なのよ」
「看板おばさんだろう」
 良子はぴしゃりと修一の膝を叩いて、立ち上がった。

 それがもう十年以上前のことで、その後、修一は良子に会っていない。翌年も同じ店で忘年会をしたが、もう良子はいなかった。酌に来た仲居に聞くと、半年ほど前に辞めて、若狭に帰ったようだという。娘が一人いるという話だった。

 島田に良子のことを聞こうと思っていたが、そのままだった。芳子と結婚してからは島田とは滅多に会わなかったし、たまに島田から「さと」に呼び出されて酒を飲んでも、女将のさと子の前で島田の昔の女の話をするわけにはいかなかった。

 島田の口から良子の名前が漏れて、修一は仲居姿の良子を思い出したのだが、その頃はまだ良子は島田と続いていたのだろうか。島田ならその後の彼女の消息を知っていたかもしれない。修一は島田の額に汗が浮かんでいるのに気付いてタオルで拭いた。ついでに身体も拭いてやろうと思った。


2004年01月08日(木) 自決した軍人一家

 澤地久枝さんの「自決〜こころの法廷」(NHKライブラリー)を読んだ。陸軍士官学校騎兵科を首席で卒業しながら、陸軍大学へは進級せず、陸軍の参謀として中国大陸やガダルカナル島の最前線の作戦を指導し、また後には大本営報道部の将校として、軍部の宣伝をし、新聞や雑誌、講演などで活躍した一人の軍人が、終戦を迎えて、一家で自決するまでの話だ。澤地さんはこんな風に書きだしている。

<東京湾に停泊したアメリカ戦艦ミズリー号。その艦上で、昭和二十年九月二日、日本側代表が連合軍諸国に対する降伏文書に調印し、戦争は終わった。世界を相手に戦っていたのは日本一国であり、これが第二次世界大戦の終幕だった。

 この夜から翌三日の明け方にかけて、小学四年と二年の子供たちを手にかけ、父親も母親も自ら死んだ一家がある。・・・敗戦をさかいとして、高名な軍人達の自決事件が次々と報じられたが、そこにひっそりとかくれるような軍人一家の自決。肉親たちの記憶も不確かになりつつある一家の、「死」にいたる道をたどろうと思う>

 軍人の名前は親泊朝省(おやどまりちょうせい)という。彼はガダルカナル島などの激戦地から帰った後、大本営の報道部員として、新聞や雑誌、講演をとおして軍部の宣伝をしなければならなかった。澤地さんも彼の文章を読んだ記憶があるという。たとえばこんな文章を彼は戦時中に書いた。

<われわれは誇るべき我が国史に現れた女性としての神功皇后の如く、あるいは敵手に委ねることを潔しとせず愛児を刺して籠城した会津の女性の如く、烈しい中のも無限の物やさしさを含んだ烈婦としてのわが皇国女性の伝統をうけついで、各々その職場に勤労挺身し、この国難を克服するため一意増産に向かって烈しい気迫を以て驀進して貰いたいのである>(「婦人画報」十九年七月)

<大東亜戦争の総力戦たる特質、また戦場が広く、敵が物量を豊富に持ってるというような条件と現下の戦局から考えるとき、これからの戦を勝ち抜いていくには、国民全体の不撓不屈の頑張りということが何よりも重大な要件となってきました。極端を申せば、頑張るということが唯一の勝利への道となりましょう>(「婦人の友」二十年三月号)

 このとき親泊は大佐に昇格していた。大本営にあって、彼は本心から戦争の勝利を信じ、戦意高揚のための文章を書き続けた。しかし、軍部のありかたについては、かなり批判的だったようだ。その本心を親しい仲間にはこう、うちあけている。

<戦争の経験のない者が戦争の指導をしているのは、戦場の実相が認識できず無理があり、危険である。中央部にもその種の人が多くて困ったものだ。ことに戦場に行くことを懲罰と心得る者があるに至っては、武士道も地に落ちた>

 親泊は陸軍士官学校第37期の卒業生だが、同期には2.26事件に連座して銃殺刑になった者が二人、禁固刑を受けたものが二人いる。禁固刑を受けた菅原三郎と親泊は親友であり、妹を彼に嫁がしている。この関係で親泊も軍から事情徴収をうけている。彼は政治行動に関与することはしなかったが、その容疑を受けたことは、のちに参謀として長く激戦地を転戦しなければならなかったことと関係があるのかもしれない。ガダルカナルから内地に召喚されたとき、彼はすでに上下の歯をすべて失い、別人のように頭がはげ上がっていたという。

  彼は敗戦後、遺書とおぼしき「草芥の文」(そうもうのふみ)という文章を、大本営の部局の中で印刷して配布している。彼はこの中でこれまでの鬱憤をぶつけるようにいろいろと書いている。あわせて、彼がアメリカ占領下の日本の将来について抱いていた危惧も紹介しよう。

<軍が本然の姿を失って政治に興味を持つ面を作った事は、実に大東亜戦争敗北の有力な原因であった。かくて官も民も横暴なる軍から離反して行き、就中、東条陸軍大臣の総理兼摂かつ参謀総長兼摂に迄至った事は、当に陸軍の自殺行為であり、之を責める重盛無かりしは千載の恨事である>

<某高級将校は「云う事を聞かねばニューギニアの第一線にやるぞ」と部下に放言していた。また機密書類を紛失せる」橋口中佐はその罪としてサイパンにやられたのである。軍人が第一戦に征くことが懲罰となるようでは、国軍が弱くなるのは当然である>

<世の人の多くは、敵の暴力・強姦、殺戮・略奪を恐れるのであるが、私は大和民族の永遠の生命の立場より見て、敵が暴力を用いることは決して恐れないのである。逆に敵が柔軟の手を用いてくるときが恐ろしいのである。物資を与え、彼らのいわゆる善政を施くことが恐ろしいのである。その結果は、我らの子孫は、婦女子は自らその貞節を彼ら敵に捧げることになるのである。つまり強姦よりは私姦によって骨抜きとなり、民族の血が濁り麻痺するのが最も恐ろしいのである>

 妻子を道連れにした親泊大佐の行為には疑問が残る。しかし、沖縄の王族の血を引き、南方の激戦地を転戦し、草木さえ食べるこの世の地獄の中で、おびただしい部下や戦友の死を見てきた彼にはとうてい生き延びる選択はなかったのだろう。しかも文章家であった彼は戦意高揚のため大本営報道部員として数々の勇ましい文章を書いてきた責任がある。その責任をとるため、彼は死を選ぶわけだが、そこには彼なりの「一貫性」がある。彼は又「草芥の文」でこうも書いている。

<特に最後に私は、軍の幹部・青年将校に一言いいたいのは、国力の増進に何の寄与をなさざる無益の死・自殺をさけよということである。この国家非常のとき、諸君の力こそ最後の国家の危急を救うべきものである。・・・小なる面目にこだわり、死に急ぎするなかれ>

 彼は自分が死ぬことで、多くの戦友の命を救おうと考えたのかも知れない。妻子を道連れにすることは最初考えていなかったようだ。澤地久枝さんは、やはり武人の妻として死にたいという妻の真剣な願いを斥けることができず、あとにのこるされた子供たちのことを考えると不憫に思い、一家で死地に赴いたのではないかと書いている。

 澤地さんは、参謀だった頃、その下で働いていた人々を丁寧に捜し出し、親泊の人となりを詳しく調べているが、いずれも部下にはとびきりやさしかったようである。弁当箱を返すときには、底にわざと食料を残しておいた。ひもじい思いをしている部下へのいたわりだったという。いつも穏和で、怒鳴ったりするのをみたことがなかったという。こうした性格の優しさが、最後の場面で出てきたのかも知れない。

 なお、親泊は東条には批判的だったが、阿南陸軍大臣は終始尊敬していた。自決する前に阿南は「米内を斬れ」という言葉を残している。親泊はこの言葉を知っていたらしい。澤地さんは、妻子を手に掛けた後、彼は米内海軍大臣を誅すべく、ひそかに行動を起こしたのではないかという。しかし、結局かれは米内の所在をつきとめることはできなかった。このことをほのめかす親泊の遺書が別に残っているのだという。


2004年01月07日(水) 文化とは何か

 私は人生を明るく便利にするものが「文明」で、人生に生き甲斐や意味を与えるものが「文化」だと考えている。美輪明宏さんは「精神に栄養を与えるものが文化である」と書いているが、まさにそのとおりである。和魂洋才でいえば、和魂が文化で、洋才が文明ということだ。

「人はタフでなければ生きていけない、優しくなければ生きるに値しない」(If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.)という言葉があるが、私たちは文化という精神的な営為の中で人生に意味を与え、己の人生を生きるに値するものにしている。

 文明は合理的で普遍的な力で世界を一つのものに変えていく。しかし、文化はそこに暮らす人々の地域性や歴史に根ざしていて、多様な独自性を備えている。そして、そうした固有なすがたかたちのなかにゆたかな価値を宿らせる。

 便利であることが唯一の価値だと考えている人、そしてお金がすべてだという人は、ついには虚無主義にならざるをえない。お金をどう使うかにはその人の文化が現れるが、お金を儲けるのことは少しも文化的ではない。これは国の場合もおなじである。

 近代的な科学文明が世界的な規模でいきわたりつつあるなかで、地域や歴史に根ざす文化の影が次第に薄くなり、文化的な伝統が滅び去ろうとしている。文化という土壌を失うとどういうことになるか。そこに暮らす人々の精神が栄養不足になり、虚無主義が横行して、殺伐とした社会になるのではないか。美輪明宏さんの文章を、北さんのHPの雑記帳から孫引きしてみよう。

<日本人は、匂い、色、音に対して特別な感性をもっています。昔から香をたき、声明を聞き、お題目を唱え、高次元の世界へ向かって文化を築いていったのです。

 世界広しといえども、自然の音を愛でることができるのは日本人だけ。フランスにも、イギリスにも、自然の音を愛でる文化はありません。「古池や蛙飛びこむ水のをと」「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」「秋深き隣りは何をする人ぞ」・・・こうした一句のなかに感じる音は、何も俳句の世界だけではなく、日本人の日常の生活のなかでも生かされていました。虫の音、小川のせせらぎ、小鳥のさえずり・・・そうしたものを聞いて季節を知り、人生を感じて生活してきたのです。

 この素晴らしい文化が次第に失われ、代わってアメリカの文化に洗脳されてきています。ガンガンと耳をつんざくばかりのロックが流れ、映画といえば暴力的なものばかり、家庭の中にあっても母親の子守唄は消え、テレビの音ばかり。家からも木の素材が消え、コンクリートに囲まれた生活。緑が失われ、アスファルトによって固められた道からは、虫がはいでてくる余地もない・・・。

 人間は、肉体というハードを養うために、十分な栄養を摂取しようと心がけます。しかし精神はどうでしょう。精神の栄養とは、いったい何なのでしょうか。実は、精神の栄養とは文化なのです。

 日本人が営々と築き上げてきた文化が失われつつある今、私たちの精神は栄養失調に陥っています。アメリカナイズされた文化によって栄養を補給しようとしても、それは日本人の精神には害毒にしかならないのです。それは化学肥料や化学農薬で汚染され、食品添加物が加わった食べ物と同じことです。

 この害毒が、現代のさまざまな問題を生み出しています。しかし、日本人はもともと素晴らしい文化への独特の感性をもった国民です。日本人の感性が要求している文化と触れ合うことが、今、一番大切なことではないでしょうか。>(「生きるって簡単」佼成出版)

 ちなみにアメリカ人やイギリス人はあまり「文化」という言葉をつかわないようだ。「文化」というのはドイツやフランスでよくつかわれるらしい。文明という言葉の語源はギリシャ語で、ギリシャ人にとっては文明=文化だったのかもしれない。文明の反対は野蛮で、ギリシャ人はギリシャ語を理解しない人々をバーバリアンと呼んでいた。この自己中心的な考え方は今も西洋文明に色濃く残っている。

(参考サイト)「北さんの雑記帳」(12月15日)
   http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/zakkicho.htm


2004年01月06日(火) 初秋

16.島田の絵

 洗濯物を籠に収め、再び病室に帰ってくると、ベッドに島田が戻っていた。座椅子に上半身を起こして、膝の上に広げた画帳を眺めていた。
「やあ、調子はどうだい」
 修一は洗濯物を畳んでから、画帳を覗いてみた。

 クレヨンでそこに何やら女性らしい人物が描かれていた。一目見た印象では、幼稚園児の絵のようだった。
「これ、大将が描いたのか。誰だろうな。看護婦の服は着ていないから、葉子さんじゃないな。もっとも非番のときの彼女かも知れない」
 島田は笑っているだけで答えない。

 修一は画帳を取りあげると、他のページも覗いてみた。五、六枚ほどの絵がどれも女の絵らしいのに苦笑した。事故にあって脳が壊れても、女性に対する関心は失っていないようだ。

 おかっぱの髪をして、看護婦らしい白い服を着た女性は葉子らしい。そしてベッドに寝た女の子は、隣で寝ている少女だろう。頭から爪先までが水平に細長く描かれていて、緑色をした髪の毛だけが不思議に生き生きとしていた。
「大将にこんな才能があるとは知らなかったな」
 修一は画帳を島田の膝の上に返した。

 画帳を取りあげられて機嫌を損ねていた島田の表情が少しゆるんだ。それから、口の中で何かつぶやいた。島田が口を利くのを見たのは初めてだった。
「りょ……、りょ……こ」
 それたたしかに「良子」と聞こえた。記憶喪失の島田にようやく、記憶の薄明かりが差し始めたのかも知れない。

 修一はもう一度画帳を覗き込んだ。ベッドに寝た少女の絵が広げてあった。島田は隣の少女を良子だと錯覚しているのだろうか。
「となりに寝ているのは良子じゃないよ。美枝子というんだ」
 島田は黙っていた。そして物憂さそうに画帳を閉じた。

 修一が芳子と結婚したあと、良子は島田とともに会社を辞めた。その頃、彼女が妊娠したといううわさが立っていた。相手は島田だといううわさも流れたが、修一は気に留めることもなく、島田にも訊かなかった。修一はその頃、新婚生活に浮かれていた。


2004年01月05日(月) 金沢への旅

 今日は「初秋」を書く日なのだが、起床が6時過ぎになってしまった。加えて、学校にいかなければならないので、ゆっくり日記を書いている余裕はない。小説の執筆は明日にまわすこことにしよう。

 起きるのが遅くなった原因は昨日の旅の疲れかもしれない。青春切符を使って金沢まで日帰りで行って来たが、その日程を少し紹介すると、こんなふうだった。

 7:49 木曽川発、米原で乗り換えて、10:50福井着。ここで早い昼食。
 11:32福井発。12:51金沢着。

 金沢駅からバスに乗り、兼六園へ言った。石川門をくぐり、もと金沢大学のあった城趾公園を散策。そこから、学生時代に下宿していた卯辰山の麓のお寺(慈雲寺)まで歩く。途中、昔遊郭のあった「おひがし」の街並みを見物。お寺で住職と再会。御神酒をいただきながら、歓談。退出して、浅野川を歩き、尾張町のバス停へ。金沢駅の近くのホテルでコーヒーを飲み、駅弁を買う。

 16:57 金沢発。途中、敦賀、米原、大垣、岐阜で乗り換えて、21:33に木曽川駅についた。家に帰ったのは10時に近かった。就寝は11時頃。

 11時に寝て6時に起きるというのは私には異常である。これまでは12時に寝ても、4時には起きていた。やはり旅の疲れかも知れない。例によって、車中は移動書斎のようなもので、本を一冊読んだ。澤地久枝さんの「自決、心の法廷」(NHKライブラリー)で終戦後、妻と小学生の二人の子供を道連れに自殺した軍人の一生の軌跡を描いた本だ。これについてはまた、別の日にしっかり書きたい。最後に、旅で詠んだ短歌を並べておく。

 学舎はあとかたもなしみとせぶり佇む我に古松なつかし

 堀端にたたずむ我に鳩が来て小首をかしぐ物問いたげに

 物理科の乙女の家は古びたり表札はなしその前を過ぐ

 砂時計かえしてみても「好きだよと」言えぬ思いは今も変わらず

 金沢の色街あはれ浅野川あるけば想う遠き日のこと

 東湯の暖簾なつかし雪中を通う日もあり湯上がりの道

 色街の近くの寺の山門はむかし変わらず我を迎えり

 ひさかたに訪ねてみれば住職は身内の如く我の名を呼ぶ

 住職のすすめる御神酒はうまし茶を飲めば茶も又うまし

 友二人ともに暮らせりその庫裡の畳に立てば障子戸白し


2004年01月04日(日) ひめゆり学徒隊の悲劇

 戦争についてかかれた数ある手記のなかで、私が一番こころを動かされたのは、何と言っても沖縄戦における「ひめゆり学徒隊」の方々の手記である。仲宗根政善さんの「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」(角川文庫)は、自らの体験を語りつつ、そうした彼女たちの手記を縦横に引用して、沖縄戦の現実を立体的に再現している。

 1945年6月18日夜、沖縄軍の牛島司令官は軍の解散命令を出した。同時に学徒動員もとかれ、生徒や職員はあとは自分で判断して行動するようにということになった。迫り来る米軍の圧力の前に、第一外科、第二外科、本部の生徒たちは伊原の壕で、という具合に次々と解散したが、第三外科だけは解散が遅れて、米軍の襲撃にあった。その惨劇の様子を山城好子さんはこう書いている。

<轟然と音がひびいたと思ったら、もうもうたる硝煙が壕をおおい、パッと青い光りが目に映じた。先生! 先生!と叫ぶ声。お母さん! お母さん! と呼ぶ声。兵隊の怒号も入りまじった。・・・すっかり意識を回復して気がつくと、私はとがった岩の上にあがっていた。私の上には兵隊の屍がのしかかっていた。屍にはウジがわき、腐った肉を蚕食する音がはっきりと聞き取れた。頭は石のように重く手足の自由もきかず、身体中がずきずきいたんだ。神谷さんがまだ手をしっかり握っていた。ゆり動かしてみても返事がない。よく見ると神谷さんの頭はなかった>

 職員5名、生徒35名、看護婦と炊事婦29名、兵隊と民間人6名、あわせて約100名が第三外科壕で悲惨な最期を遂げた。現在はその洞窟の上に、ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念館が立っている。仲宗根政善さんは学徒引率教師の生き残りとして、これらの創立に努力され、平和祈念館の館長もしてみえた。ひめゆりの塔には16名の職員と194名の生徒の御霊が祭られている。

 ひめゆり学徒隊の手記を読めば分かることだが、そこに描かれているのは戦場の非人間的な現実である。乙女達はあまりの恐怖と緊張で生理を失い、中には精神異常を来す者もいた。その上、常に軍人の横暴と獰猛な性欲に怯えなければならなかった。三外科壕で九死に一生を得た座波千代子さんの手記から少しだけ引用してみよう。

<南風原陸軍病院壕にいたときから、満州から戦いに疲れて転進し、人間性をすっかり失い、獣欲にうえた兵隊のみにくい姿をいやほど見せつけられた。看護のつらさや、砲弾よりもくされきった兵隊のほうがもっとこわかった>

<あるとき、壕の中で、近くにいる兵隊の軍刀をこっそりぬいて見た。鋭いきっさきに肝をひやすものとおそるおそるぬいた私は、驚きあきれた。刀はまっかにさびれているのである。刀も兵隊もくされきっている。これが皇軍か。これで戦争に勝てるものかとつくづく思った>

<外間安子さんはいつもしずみがちで、中央の米俵のおいてあるそばにうなだれていた。突然、「あなたは生きる運命よ。私は死ぬ運命! 私の母は今帰仁の大井川にいる。私がここで死んだことを知らせてね」と、まっさおになり、目を槍のようにとがらせてさけび、半狂乱になって、私にしがみついた。ぞっとして、つき離そうとも、どうしても離せない>

<あたりを見渡すと、先生も、お友達も、看護婦も兵隊もおりかさなってふくれあがって死んでいた。誰の顔だか全然見わけがつかなかった。銀バエが何万匹とたかり、悪臭が鼻をつく。生きようという気力もなく、ただぼうぜんと坐っていた>

<南風原病院から私は獣欲にうえたくされきった兵隊におびやかされ通しだった。清らかなお友達のそばにそんな醜い兵隊の屍がよこたわっているのではないかと思いぞっとした。死のまぎわまでその恐怖がつきまとって離れなかった>

<ある日、卸屋に果物を仕入れに市場に行った。人ごみの中で、ある婦人から、「あなたはひめゆりの塔の生き残りだそうですね」と突然きかれた。「宮城藤子」をしっていますか」「はいよく存じています。大変親切にしていただきました」と答えるとわっと泣きくづれて抱きついて離さない。周囲には黒山のように人がたかった。私も泣きくずれるだけで、どうお慰めしてよいかわからなかった>

 座波千代子さんは、戦争が終わってからも、毎夜、戦場の悪夢にうなされた。戦争の話をすると、その晩はきまって発熱をした。彼女がひめゆりの塔のある第三外科壕のあとを訪れる決心をしたのは5年もたってからだという。

<口が大きくあいている洞窟の中は漆黒の闇にとざされて、ひきこまれそうな気がした。岩につかまり、身をのりだしてやっと洞窟の底をのぞいた。おりかさなってなくなった先生、お友達の視線が、いっせいに射るように私に注がれてぞっとして身をひいた。全身がふるえた。・・・ついて来たお友達がよって来て、慰めてくれた。一歩一歩歩くごとに脚の傷がうずく。それよりも一層心の傷がいたむ>

 第一外科壕で解散命令を受けた石川節子さんの場合は、65日間、戦場をさまよって、「戦争が終わった」と聞かされて米軍に投降したのは8月22日だったという。そのあいだ、死体が押し重なり、悪臭のこもった壕の中に寝て、昼は米軍の銃に怯えながら水や食料をあさる毎日だったという。

<入り口にさしてくる光りにお友達の死に顔が照らされた。銀バエが真っ黒くたかっていたので、ハンカチをかけてあげようと浩子さんがはい出ていった。しばらくしてのぞくと、ハンカチを風が飛ばしていた。疲労と空腹感で睡魔がおそい、あの黒いハエを見ながらも、もうハンカチをかけてあげることができなかった。>

 こうして悲惨な沖縄戦が終わった。累々たる屍と、多くの残された人々の心に、生涯癒えることのない傷を残して。しらゆり学徒隊はじめ、戦死した方の多く人々の胸には死んで再び靖国神社で再会したいという気持があったのだろう。そうしたことを大切に思って参拝される遺族の方もたくさんおられるに違いない。そしてその胸にあるのは、ひとしく戦争の悲劇を二度と繰り返したくないという思いではないかと思う。

 この正月に靖国神社に参拝した小泉首相もおなじく平和を願って参拝されたと思いたいが、現職首相の公人としての参拝には、靖国神社を政治的に利用しているのではないかという疑問が持たれる。戦前、天皇が軍部に利用されたのと同じ危うさを感じさせる。

 小泉首相も靖国に眠る戦争犠牲者を大切にお考えなら、聖書にもあるように、ひとりの人間として、心の内で静かに哀悼されてはどうか。衆人環視の騒々しいパフォーマンスは、御霊にたいする冒涜でしかないだろう。そしてぜひ、この「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」を心静かに読んでいただきたいものだ。


2004年01月03日(土) 今年の正月

 大晦日夜は11時40分まで起きていたが、ついに睡魔に破れて寝てしまった。今年も除夜の鐘は聴けず。108つもあるという煩悩にまみれた一年になりそうだ。起床は5時少し前で、いつものようにHP日記を書いた。「あらたな豊かさへの旅」と題して、少し長く書いた。

 大学3年生の長女は30日の夜に三重県の津から帰省した。彼女は高校生の頃から歯科助手のアルバイトをしている。大学生になっても続けており、医学部の看護科なので病院実習があったりして、とても忙しいという。風邪をこじらせてもう1カ月も咳が止まらないという。ちょっと心配である。

 大学一年生の次女は馬術部なので、毎朝6時には家を出る。馬術部は馬に乗るだけではなく、その世話が大変らしい。それで一年生の部員がどんどん止めていくらしいが、次女は馬が大好きで、世話も楽しいのだという。勉強そっちのけで、馬に狂っている。落馬も3回しており、病院に行ったりしているが、少しもひるまない。

 大晦日の夜は次女は厩舎に泊まりで、帰ってきたのは、午前9時頃だった。泊まり込んだのは一年生の部員6人で、女性は次女一人だけだというから、ちょっと心配だ。もっともみんなでわいわいトランプをしたりマージャンをしたりして、ほとんど寝ていないという。「今時の大学生は」と言いそうになったが、私も身に覚えがあるので言うのを止めた。

 次女が帰ってきて、家族4人そろったところで、近所の神社に初詣をしてから、恒例の凧揚げに出かけた。毎年、庄内川の河原に行って、そこでユリカモメの群にパンをやり、それから凧揚げをする。今年もたくさんの鴎がやってきて、中には指先まで取りに来る勇敢なのがいた。まわりがユリカゴメで埋め尽くされたようになり、そのけたたましい鳴き声に包まれて立っていると、なかなか迫力があり壮観である。

 ユリカモメの他に、ハトや鴨もいる。去年はカラスがやったきたが、今年はその姿がなかった。足許に落ちたパンを、愛犬のリリオが食べている。リリオは13歳で、心臓が弱っていてもうこの冬が越せないなどと言われていたが、年の暮れに獣医を変えて、違う薬を飲むようになってから元気を取り戻した。変な咳をすることも少なくなり、こうして今年も恒例の正月行事に参加してうれしそうに走り回っている。

 たのしみは年あらたまり妻と子と
 雑煮をたべて凧揚げすること   

 ユリカモメに与える餌は、食パンの耳が3つのビニール袋にいれてあって潤沢にあったが、やがてそれも与え尽くして、いよいよ凧揚げになった。空は晴れてほとんど雲がない。そしてちょうどいい加減な風が吹いている。晴れ渡った青空に、二つの凧が勢いよくあがった。

 一日もはやく、
 この地上から戦争がなくなりますように、
 飢えた人々がなくなりますように・・・

 帰ってきて年賀状を見る。去年から年賀状は全廃していたが、私宛に30通ぐらい来ていた。去年は返しに封筒に文章書いて届けていたが、ことしも「先生の書かれた文章を読むのがたのしみです、主人も読みたいと言っています」と書いたものもある。「全廃されたことは知っていますが、あえて出します」と書いている人もいて、こうした賀状はほんとうにうれしい。今年も去年同様、私の書いたもの(12月31日の旅の日記)を印刷して、さっそく封筒に入れて送った。

 夜のニュースで、小泉首相が靖国神社に参拝したのを知った。紋付き袴の小泉首相が「日本の伝統を大切にしたい」というようなことを言っている。神社詣は私たちもしているが、「靖国神社」というところが小泉さんらしい。伝統というよりは彼の個人的な習慣ではないか。彼独特のパフォーマンスでもあるのだろう。中国や韓国の政府はさっそくこれに不快感を示している。小泉さん、世界の中の日本という認識に立って、日本丸の舵取り間違えないで下さいね。というわけで、こうしてわが家の元旦の日はつつがなく終わった。こうした平和がいつまでも続くよう祈りたい。

 なお、小泉首相の靖国参拝について、友人のtenseiさんが、今日の日記にとてもいいことを書いているので紹介しておく。こんなによい文章はそうないので、是非多くの人たちに読んでもらいたい。

<なぜ「参拝するぞ」と意地を張らなきゃいけないのか。何も、そうムキになることはないのである。慰霊なんてことは心の問題で、どこにいてもできる。神社に祀られているとか言ったって、所詮は虚構である。表面上の雰囲気を作っている仮の場所に過ぎない。それよりも、海岸から海に向かい、大陸に向かって祈る方がよい。そして最後にこの日本の大地にひれ伏して祈るのがよい。犠牲者たちの霊は、まだそのあたりを恨みがましく漂っているかも知れない。少なくとも、名簿登録されているだけの場所よりは実質的である。それよりももっといいのは、戦争の恐れを払拭する日々の努力である。戦争放棄の理念を実現するために最善の努力を惜しまないことである。そもそも、国と国との過度な競争やもめ事をなくすことである。それが、犠牲者たちに報いる最高の慰霊である。形式的な慰霊にこだわって国家間のもめ事を大きくするのは愚かである。>
 
 50歳をすぎたら、人生、遊ぶのが一番だと思っているが、どうせ遊ぶのなら、なにか人のためになること、世の中のためになることをしてあそびたい。遊びのなかから、なにか世の中の役に立つものが生まれてくればよいと思う。それが私は本当の文化であり、ほんものの伝統とだと考える。それはともかく、穏やかな晴天が続きそうなので、今日あたり、また青春切符でぶらりとどこかへ行きたくなってきた。さて、今度はどんな本を持って行こうか。


2004年01月02日(金) 初秋

15.迷いの中で

 病院の屋上で過ごす時間は一時間ほどだった。乾燥機にかけてある洗濯物はすでに乾いていたから、あとは日差しにしばらく干せばよかった。その間の暇な時間を、修一も日光浴をしながら楽しんだ。いろいろな考えが浮かび、修一は自分がこれまでにない思索家になったような気がした。

 修一は昭和二十五年生まれで、あと数ヶ月もすれば五十歳になる。十八歳でS工業に就職していたから、三十年以上働いてきたことになる。時間に追われて、余裕のない毎日だった。技術畑の仕事は修一の性格に合っていたこともあり、S工業での仕事を天職だと思って疑わなかった。ある意味では幸福な人生だった。

 そうした仕事から解放されて、修一はいま始めて自由を味わっていた。英語の学術論文を読むことももうほとんどなかった。今年の夏はとうとう電子工学の学会にも出席しなかった。いつもそこで顔を合わせているF工業の杉田から残暑見舞いの葉書をもらったが、そこには自分の会社にこないかと書いてあった。

 S工業には恩義もあったし、愛着もあったが、技術開発担当の佐藤が常務を退職してから会社の方針がかわり、最近は消費者金融のような分野にまで投資しているらしい。どうも訳の分からない会社になっていた。島田の入院がなければ、修一はこの求めに応じていたかも知れない。病院に通うようになって、修一はいつか少し違った目で人生を考えるようになっていた。

 もはや終身雇用の時代ではないし、一つの職場、一つの職業に縛られ必要はないのかも知れない。せっかくの人生だから、もっといろいろな経験をしてみてはどうだろう。NGOのような営利に関係がない組織でボランティアとして働くのもいいし、中国やタイ、あるいはフイリピンあたりで技術を教えるのもいい。

 福井の田舎に帰って林業や畑仕事をするという選択もないわけではない。晴耕雨読の生活をしながら、囲碁や将棋、俳句などに楽しみを求める生き方もあるだろう。あるいは世界を放浪して歩くのも面白いかもしれない。

 こうした生き方があるとは、半年前の修一には想像もできなかった。これまでの体制のなかではこういう生き方はむつかしかった。考えもしなかったのは、日本の雇用システムがそうした生き方にむいていないからだろう。現実問題として、年功序列の賃金、定年を前提にした退職金制度や、年金問題、社会保険の問題がある。

 つまり終身雇用を前提にしたさまざまな制度が、こうした第二、第三の人生への転出をかなりハイリスクなものにしていた。失業して転職を余儀なくされた場合は別だが、まがりなりに定年までの雇用が可能な場合、生涯賃金が何千万、退職金や年金もふくめれば1億円以上も違ってくる。いまさらリスクのある人生に挑戦しようなどというのは、よほどの物好きか、世間知らずだと思われるだろうし、家族の同意を得ることも、そう容易なことではない。

 しかし、これから先、時代はかわるかもしれない。現に多くの大企業でリストラが始まっている。滅私奉公で会社のために働いて、企業戦士などと呼ばれたこともある団塊の世代でさえ、年功序列や終身雇用、さらに年金制度までもう維持できないからといわれ、リストラの対象にされはじめた。たしかに会社としては時代に対応できなくなり、仕事が出来なくなった中高年お荷物以外の何でもない。

 場合によっては露骨ないやがらせをして、会社を追い出そうとする。会社に忠誠を誓い、社畜とまで呼ばれながらも毎朝朝礼で声を張り上げて社歌を歌い、ようやく出世もして、これから定年まで少し安穏に過ごそうと思っていた時期に、掌を返したような冷酷な待遇を受けることになり、煮え湯を飲まされる思いで会社を去っていく人もでてきた。

 どうしてこうしたことになったのか。右肩上がりの経済成長の終焉がその原因なのだろうが、終身雇用や年功序列というシステムにそもそも問題があったとも考えられる。たとえ経済が右肩上がりでも、こうした人間を会社という小さな世界の所有物にしてしまうシステムはやはり望ましいものではない。人間を自由な個人として扱っていないのではないか。

 若い頃自分の働きに見合った収入を得て、生活にゆとりがあれば、その余剰をどうするかという自由がうまれてくる。それを自分の能力開発に投資するのもよし、株で儲けるのもよい。また将来のために貯金をするのもよい。そうした様々な道を自分の責任で選択することが大切なのかも知れない。こうしたなかから、視野の広い物の見方や自立的で個性的な生き方が可能になるのだろう。

 それではこれから先、家族を養わなければならない中高年はどうしたらよいのだろう。とくに教育にかかる費用はばかにならない。家のローンがあったりしたら、それこそ悲惨である。とても能力給ではやっていけない。

 日本の中高年は金がかかりすぎる。子供の教育費や住宅ローンにこんなにベラボーに金がかかる国は他にないだろう。外国の場合、義務教育は国家負担だし、大学も公立はほとんどタダだときく。親が丸抱えで、大学生の授業料や生活費を負担しているのは日本くらいだという。住宅問題も含めて、これははっきり言って、政治の貧困ではないのか。

 「僕はお父さんのような生き方はできないし、したいとも思わない。朝から晩まで会社のことしか頭になくて、夢の中でさえ仕事をしているなんて、どう見ても異常だよ。そんなのアルコール中毒と変わらないじゃないか」

 修一はこれまで、政治には無関心だった。しかし、最近はひまにまかせて雑誌を読んだり、こうして病院の屋上でいろいろなことを考えるようになった。そうすると、「本当に生きているという感じがしないんだ。もっと本物の生き方をしてみたいんだ。このままじゃ自分が駄目になる」という息子の言葉が、少しずつ胸に響くようになってきた。


2004年01月01日(木) 新たな豊かさへの旅

 去年はイラク戦争やイランの地震など、いろいろとあったが、今年は幸多い年であることを祈りたい。今後の予測についていえば、私は日本と世界の未来について、かなり楽観している。もっともその楽観は、長谷川慶太郎など大方の経済評論家や経団連の重役が書いているような希望的観測に立ったものではない。

 実を言うと、私の楽観は長期的展望に立ったもので、近未来の破局を肯定した上での楽観である。つまり、日本のみならず、アメリカもここ十数年のうちに大破局をむかえるという前提に立っている。日本が先の敗戦の中から立ち直ったように、世界はこの破局の中から立ち上がるにちがいないという読みから生まれたものだ。

 近い将来、日本が国家破産をするであろうことは、もう避けられない。前にも書いたが、財務省の発表によると、2003年3月末現在、政府債務残高が668兆円に達したという。1年間で60兆円も増えたわけだ。これに地方自治体の債務合計200兆を加えると、868兆円で、両方合わせると、年間70兆円ずつ借金がふえている。

 さらにこれに特殊法人などがかかえる不良債権が200兆円以上あるらしい。これらの合計がいわゆる公的部門が現在かかえる負債で、その合計額は1150兆円にものぼる。GDP比にして実に230パーセントだ。

 長谷川慶太郎は日本人の個人金融資産は1400兆円あるから大丈夫だという。しかし、実は個人は住宅ローンなど膨大な借金をかかえていて、その額は400兆円もある。そこで単純な計算をすると、1400−400=1000。1000−1150=−150。つまり、現在日本人は、150兆円のマイナス資産を抱えている。

 日本が大丈夫だという人は、おそらく小学校の算数ができない人なのだろう。足し算や引き算が出来て、まともに物が考えられる人なら、もはや日本の財政がどうにもならない領域に入っていることがわかるはずだ。敗戦時、日本政府の財政赤字はGDP比200パーセントだったが、それをもうこえている。しかも、毎年70兆円ずつ天井知らずで増殖している。冷静に見れば、この先、国家破産という破局を待つしかないわけだ。希望的観測ではなく、まっすぐにこの現実を見れば明らかなことである。

 戦後日本は年率400パーセントのハイパーインフレに見舞われ、庶民は塗炭の苦しみをなめた。おかげで国や個人の借金はなくなったが、国民は財産もすっかり失って、裸一貫から出直しだった。こうしたことがふたたび起こると考えた方がよい。

 国家破産は何も珍しいことではない。イメージが浮かばない人は、ソ連崩壊後のロシアを思い浮かべればよい。10年ほど前のロシアでは年率7000パーセントという途方もないインフレが数年間続いた。銀行にあるすべての預金と貸金庫は封鎖され、その資産はすべて没収された。治安は極端にわるくなり、死亡率があがって平均寿命が縮んだ。ホームレスが街にあふれ、国民のほとんどが食料品を求めて、店先に長い行列を作った。

 トルコでも国家破産によって、年率100パーセント近いインフレがもう30年あまり続いている。2001年2月にはこれは一週間で70パーセントにもなり、貸し出し金利がなんと1万パーセントを越えた。トルコ全土がパニックに陥ったらしい。

 同じく国家破産したアルゼンチンでは、市長が「経済危機下で市内の貧困層人たちは、カエル、ネズミまで食べることを余儀なくされている。特に子供たちの栄養失調が目立つ」と特別声明をだしている。(2002年6月6日朝日新聞)。昼間から強盗が出没し、資産家の家族は誘拐の危機にさらされているという。

 日本もいつ国家破産がおこってもいいタイタニック号状態だということを、認識しておく必要がある。結局、どん底に落ちなければ、太平楽の夢に酔い続ける私たちの目はとうてい醒めそうにない。そのあいだは、経済評論家たちは暢気なことを言い続けるだろう。

 もっとも彼らは国家破産してもあまり被害はないらしい。野口悠紀夫さんによると、多くの経済人は主張とは裏腹に資産を外国に移すなど、すでにかなり手を打っているらしい。いつも割を見るのは、彼らの無責任な言動を信じた庶民なのだ。私は長谷川慶太郎がバブルのとき「いまどき株や土地に投資しないのは世捨て人だ」と書いた文章を忘れはしない。バブルをあおった彼らがバブルで借財を背負ったという話は聞かない。

 国家破産の危機はアメリカにもある。タカ派のシンクタンク「アメリカン・エンタープライズ研究所」は最近、アメリカの老人医療保険と貧困層向け医療費補助、それから社会保障制度が、近い将来合計で44兆ドルの大赤字を抱えるという予測を発表した。巨額の財政赤字にもかかわらず、野放図に債権を発行して、人気取りの減税と軍事支出をやめないブッシュ政権のアメリカも、確実に破滅に向かってカウントダウンに入っている。ドルが世界の基軸だから大丈夫だというが、最近ではユーロというものがある。ドルは日本が必死で買い支えているがどこまでもつか。この先、いつまでもドルが安泰だとはいえない。

 しかし、浪費大国のアメリカや日本の経済破綻は、地球環境にとってなによりの朗報になるだろう。国家が破産すれば、庶民はいやがうえにも貧乏になる。そして様々な悲劇が人々の上に襲いかかる。これはとても暗いシナリオだが、これによって人々の目が覚め、まったく新しい人生に一歩を踏み出す可能性が生じる。大局的に見れば、日本のような金権主義国家が破産することはそれほど悪いシナリオではない。ただその覚悟と準備をいまのうちから、しておいたほうがよい。

 繰り返し書くが、「経済成長」で問題が解決すると考えるのは、あまりに楽天的で現実を知らなさすぎる。もし世界中の人々がアメリカ人並に一人一台ずつ車をもったらどうなるか。石油は数ヶ月で地上からなくなると言われている。現在地球上に住む2割の豊かな人々が、資源の8割を消費している。もし、残り8割の人が同じだけ資源を消費したらどうなるだろう。

 実のところ、いくら経済成長しても、みんなが豊かになるわけではない。そして、みんなが豊かになったりしたら、そもそもこの地球がもたないのである。こうした基本認識があれば、経団連会長奥田碩氏(トヨタ自動車会長)のように「死にものぐるいで成長を実現せよ」(文芸春秋新年号)などという主張がいかに能天気で愚かなものか、子供にでも分かるだろう。

 それではどんな生き方がこれからの社会で主流をしめたらよいのか。それは「成長主義」や「競争主義」の幻想から自由になった自然や社会と共生的な生き方である。ソローは「森の生活」の中で中国やインドやギリシャの哲学者を例にひき、「ぼくらが自発的貧しさと呼ぶ、優越した視点から見るのでなければ、人間生活を公平に賢明に見ることのできる者はひとりもいない」と書いている。

 これを補うように、政治学者のダグラス・ラミスは「対抗発展」という考え方を提案している。「自発的貧しさ」をこれからの人間に必要な「発展」だと考えるのである。物質的な資源には限界があるが、精神の世界にフロンティアはない。そこにはまだまだ巨大な夢やロマンが隠されており、その可能性は無限に広がっている。この地上で有限な資源を奪いあって戦争をするより、無限の精神世界をともに手を携えて開拓する方がよほど楽しいし、実りのある生き方だろう。

「対抗発展」という考え方に立つと、これまでのモノサシがあべこべになる。たとえば国の豊かさはこれまでのように「一人当たりのエネルギー消費量」や「二酸化炭素放出量」の「大きさ」ではなく、その反対に「小ささ」で測られる。車の数の多さではなく、少なさで国の豊かさが測られる。つまり、このモノサシをつかうと、世界で一番の開発途上国はアメリカや日本ということになる。

 私はこのモノサシが世界のモノサシになる日がくることを願っている。しかしこのことは、何も私たちが先進的な科学技術を捨てて、原始時代に戻れということではない。まさにその反対である。科学技術や私たちの良識をさらに高度に発展させて、レベルの高い文化や文明を築こうという壮大な計画なのだ。ケネディにならえば、これこそが21世紀に生きる私たちに求められるニューフロンティア精神である。

「対抗発展」というのは、つまりは未来に向けて私たちが生き延びるための哲学であり、叡智と夢にあふれた挑戦なのである。そのベクトルの向きはこれまでの豊かさの向きとは反対である。そこには巨大な建物も塔も空母も原子力発電所もないかもしれない。それは一見貧乏への後退のようだが、新しいモノサシが分かる人には、それはもう一つの豊かさへの美しい前進である。

 今、私たちの住む地球は大きな危機を迎えている。実のところ、それは人類の存亡にかかわるほどの危機である。ラミスはこれを氷山に衝突して沈んだタイタニック号の悲劇になぞらえている。衝突寸前まで、船の中では宴が催されていた。誰一人、まさか自分たちの載っている船が沈むとは考えていなかった。もしそんなことを口にする人間がいても、相手にされなかっただろう。

 現在の人類の危機がタイタニック号と違っているのは、この危機を口にする人がたくさんいて、しかも氷山の在処まで分かっているという点だろう。たとえばすでに1972年にローマ・クラブが「成長の限界」という本を出して、経済成長が地球を破壊するという警告を発している。これを受けて、国連も毎年のように国際会議を開き、さまざまな議決をしている。

 たとえば1999年には国連環境プログラムがナイロビで会議を開き、「地球環境展望2000」という報告書を出した。そこにいかに地球の環境破壊は危機的な状況にあるかが書かれている。そして「先進工業国の資源消費量を9割減らすことを目標にせよ」と提言している。そうしないと、人類はやがて重大な生命の危機をむかえるのだという。

 これより少し前、様々な専門家を動員して書かれた「グリーンニング・ザ・ノース」という本がドイツでベストセラーになった。この本ではドイツ政府に具体的な提案をしている。たとえば、石油や石炭の使用を2050年までに80パーセントから90パーセント減らす。原子力発電は2010年までに100パーセントなくす。そしてエネルギー消費量そのものも半分にするということなどだ。

 このように、資源の消費を大幅に減らさなければ人類に未来がないことはもうだれもが分かっている。しかし、実際にこれを行おうとすると、各国の利害がからんできて、足並みがそろわない。そして、景気が悪くなり、エネルギーの消費量が落ちると、これはたいへんだと大騒ぎになる。たちまち「経済成長優先」に戻ってしまう。その先頭を走っているのがGDN大国のアメリカと日本なわけだ。

<これはまるでタイタニック号が氷山にぶつかる前に、船のエンジンが故障して止まってしまったというような状態です。乗っている人たち、船員があわてて一生懸命エンジンを直そうとしている。早くエンジンを直し、もう一度スピードを出して走りたい、そういう状況です。止まってよかったと考えている人は、あまりいない。しかし、もう一度走り出す、進み出すということは、もう一度その氷山に向かって進み出すということです>(ダグラス・ラミス、「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」)

 ラミスは再び成長路線にもどるのではなく、これを契機にして、「経済成長なしで、どうやって豊かな社会を作るか」という問題に解答を与えることが大切だという。しかし小泉首相やブッシュ大統領の頭の中にあるのは、エンジンを直して再び成長路線を走りたいという焦りばかりだ。タイタニック地球号に乗っている大方の人の願望もそうである。バブルの夢よ、もう一度というわけだ。

 私たちに必要な思想や感性は、たとえば「我なんじらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その装いこの花の一つにもしかざりき」(マタイ伝6章)という聖書の言葉の中にさりげなく語られている。摩天楼という文明のバベルの塔をではなしに、野に咲く一本の楚々たる花を通して、自然の不思議といのちの美しさをしみじみと感じ取る心を、もっと大切に慈しむべき時代にきているのだ。それが成熟というものだが、どうもまだしばらくそうはならない。まだまだ私たちの意識は「発展途上」にあるからだ。

 みんなが金持ちになることはできない。しかし、みんなが豊かになることはできる。こうした単純な真理が分かるためには、私たちはまだしばらく時間がかかるだろう。十数年後、日本やアメリカが国家破産して、はじめて私たちはこの賢人の知恵から学ぶにちがいない。そのときこそ、新しい日本が生まれ、世界が新しくなるときだ。もっともその頃私は、モンゴルの草原で、全く違った生活をしているだろう。それまで命があればのことだが。

 年の初めにあたり、日ごろから私が一番大切だと考えていることを、「新しい豊かさ(生き方)への提言」としてまとめてみた。今すぐこの提言が実行されるとは思っていないが、多くの紆余曲折をへて、いずれこうした方向に世界が進んでいくことを私は楽観し、信じてもいる。

(参考サイト) C・ダグラス・ラミス「世界がもし100人の村だったら」
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/sekai100.htm


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