橋本裕の日記
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数日後、国原はわずかな身の回りの品を抱えて、文絵のアパートにやってきた。4年ぶりの同棲だったが、もう二人は兄と妹ではなかった。文絵は買い物に出て、国原のために夕食のメニューを考えるのが楽しくなった。
そうして半年ほどした10月のある日、文絵は朝食の支度をしていて、嘔吐に襲われた。病院で診て貰うと、妊娠だった。国原は素直に喜んだ。明くる日、二人は役所に婚姻届けを出しに行った。そして、その足で福井に帰省した。
文絵の両親はすでにいなかった。若狭の小浜市で教師をしていた父が死んで、母は文絵が小学生の頃、福井に帰ってきた。まもなく母も病気で死んだ。文絵は母方の実家に引き取られ、そこから学校に通った。母方の実家というのが、国原の家だった。
国原の両親は二人の結婚に反対だった。しかし文絵の妊娠を知り、さらに二人が婚姻届けを出したと聞いて、それ以上反対しなかった。二人は披露宴を福井で内輪に行うことにした。名古屋からは国原の直属の上司の他、限られた友人を選ぶことにした。その友人として、国原は真っ先に洋子の名前をあげた。
「洋子のおかげで結婚できたんだ。洋子は縁結びの神だよ」 「まだ未練があるんじゃないの」 「嫌なら、招待しなくてもいいよ」 「とにかく、会ってみるわ」
福井から帰って、文絵は洋子のアパートを訪れた。洋子は文絵を見ると、鹿島とのことが嘘のように、満面に笑みを浮かべた。文絵は指先まで緊張していた。
「ご無沙汰しています」 「国原さんも、お元気?」 「おかげさまで」
文絵は固い表情のまま、ソファーに腰を下ろし、コーヒーを飲んだ。洋子の部屋は変わっていなかった。文絵が誕生日にプレゼントしたプーさんのぬいぐるみがソファーに置いてあった。少しだけ、文絵の表情が和らいだ。
「洋子さんも、お元気そうですね」 「そうでもないの。鹿島とも別れたし、いろいろあったから」 「鹿島と別れたんですか」
文絵には洋子の言葉が思いがけなかった。それは文絵にとって悪くない情報だった。文絵はバッグから結婚披露宴の招待状を取りだした。招待状を受け取った洋子は、文絵を上目使いに見て、それをテーブルの上に置いた。淋しい影が彼女の瞳をかすめた。
「せっかくだけど、お受けしないことにするわ」 「そうですか」 「ごめんなさい」 「いいんです」
文絵は無表情のまま、招待状をバッグに戻した。たしかに、洋子は文絵を鹿島から解放してくれたが、親友に裏切られた痛手は大きく、洋子を許せる心境ではなかった。洋子は文絵の気持を察して、出席をためらったのだろう。黙って立ち上がった文絵を、洋子も無言のまま玄関まで送った。
洋子と別れたあと、文絵は秋の明るい陽射しのなかを歩きながら、死んだ母のことを思い出した。父が死んだあとの母の口癖が「一期一会」だった。文絵は立ち止まって、バッグから招待状を取りだした。それをもう一度、洋子のアパートに届けようと思った。
12月に福井の放送会館で行われた内輪の披露宴はあたたかい雰囲気だった。名古屋からは洋子も駆けつけてくれた。そして、文絵のために、短いながら心のこもったスピーチをしてくれた。
「バンコクの夜、文絵さんが迷子になって、国原さんがどんなに取り乱したか、そのとき私は文絵さんに一番相応しい人が誰だかわかりました。彼ならきっとあなたを大切にしてくれると思います。ご結婚、おめでとう」
文絵はバンコクの恐ろしかった夜を思い出した。そして国原と洋子から受けた温かい抱擁を思い出した。隣をみると、国原が四角い顔を崩して泣いていた。文絵は洋子を披露宴に招待してよかったと思った。
新婚旅行先はバンコクだった。二人は文絵の希望で洋子と泊まったホテルの、同じ部屋に泊まった。文絵はアユタヤの遺跡を国原と歩きながら、洋子の姿がないのが淋しかった。ひょっとして自分は、国原よりも洋子を愛しているのではないかと思った。
(おわり)
文絵は国原を外に待たせて、アパートに入った。テーブルの上の灰皿を茶箪笥の中に入れた。それから、鹿島が買ってきたワイングラスも片づけた。それでも男の匂いがどこかに残っていた。文絵はベランダを開けて、風を入れた。
国原が文絵の部屋に入るのは、引っ越しの時以来だった。文絵がカレーライスの用意をする間、国原はベランダに出て、あたりの景色を眺めていた。ベランダには鹿島が持ってきたサボテンの小鉢が並んでいた。国原はそれも珍しそうに眺めた。
「やあ、ここから御嶽がみえる」 国原の声で、文絵もベランダに出た。国原の指さす方を見ると、たしかに白い山がかすかに見えた。 「ほんとね。山が見えたのね」
福井に住んでいた頃は、周囲が山だった。春先でもまだ山が屏風のように白く連なっていた。名古屋に住むようになって、文絵は雪山を眺めることもなくなった。自然に抱かれたふるさとのくらしが懐かしかった。足羽川の桜並木も咲き始めたかも知れないと思った。
茶卓に二人分のカレーライスを並べ、文絵は国原と向かい合って坐った。数年前、二人は毎日こうして食事をしていた。文絵はそんな頃を思い出し、カレーライスを食べた。国原も思い出したようだった。
「料理の腕をあげたな」 「そうかしら」 「前は薄くてしゃぶしゃぶだった」 「おかわり、あげようか」 「いや、もういい」
食べ終わると、国原は畳の上に寝転がった。国原は横向きに肘枕をしながら、ぼんやり文絵を見ていた。文絵はまだ半分も食べ終わっていなかった。食べながら、スカートの素足が気になった。
しかし、国原に見つめられるのが不快ではなかった。むしろ、文絵は国原の感情のない無表情が物足りないくらいだった。文絵は膝頭を崩すと、指先でスカートの裾を膝の上に伸ばした。国原は戸惑ったように視線をはぐらかし、やがて目を閉じた。
文絵はカレーライスを食べ終わると、タヌキ寝入りをしている国原の枕元を通って食器を台所に運んだ。食器を洗いながら、思わず微笑が零れ、鼻歌を口にした。そのとき、後ろに人の気配がした。振り向くと、国原が立っていた。
文絵はグラスに水を注いで、国原に渡した。国原はグラスを置くと、文絵を見つめた。 「水が欲しかったわけじゃないんだ」 国原の視線に男の欲望がこもっていた。文絵の頬がみるみる赤くなった。そんな文絵を、国原はしっかりと抱き寄せた。
国原の口づけはカレーの匂いがした。国原の愛撫には素朴な温かさとやさしさがあった。文絵はいくども快楽の頂に登り、谷に溺れて我を失った。最後は、国原の胸の中で子供のようにむせび泣いた。(明日に続く)
喫茶店の窓越しに、桜並木を行く人が見えた。白いマスクをつけている人がちらほらいた。先週の水曜日、鹿島と会ったとき、彼も白いマスクをしていた。文絵も軽い花粉症だったが、マスクをするほどではない。
ホテルで体を合わせたとき、鹿島はマスクを外さなかった。マスクをつけたまま、文絵の体をのぞき込み、もてあそんだ。文絵は自分まで変態になったようで恥ずかしかった。そんなことがあって、白いマスクの男を見ると落ち着かなかった。
国原から聞かされた話は文絵を絶望させたが、国原の顔を見ているうちに、少しだけ元気が出てきた。鹿島といずれ破綻することは分かっていたことだ。これを機会に、鹿島との関係を清算しなければと思った。
窓ガラスから差し込んだ光は、しばらくの間に日脚を伸ばし、テーブルの上に日溜まりを作っていた。そのぬくもりの中で、国原の注文したアイスコーヒーは飲まないうちに氷が溶けていた。文絵の注文したホット・コーヒーも口がついていなかった。
「昨夜はいろいろと考えて眠れなかった。明け方からうとうととして、目が覚めたところで、お前に電話したんだ。顔が見たくなった」 「こんな顔でよかったら、いつでも見せて上げる」
充血した国原の目がはれぼったかった。文絵は国原に同情したが、鹿島に裏切られ、洋子に裏切られた自分のほうが、よけい可哀想かもしれなかった。それにしても、国原に落ち度があったとは思えない。洋子はなぜ善良な国原を、ここまで痛めつけるのだろう。
「声も聞きたかった。お前はむかしのままだ」 「それって、誉め言葉かな」 「もちろんだよ」
文絵は名古屋に来た短大生の頃、国原のアパートで一緒に自炊していたのを思い出した。カレーライスやシチューを交代で作ったものだ。わずか5年ほど前のそうした生活が、今は遠い昔のようだった。
一緒に暮らしていた頃は、二人はお互いの下着まで洗っていたものだ。いとこいうより、兄と妹に近い間だった。それは二人の生い立ちがそうさせたのだった。
国原は昔から他人も自分と同じようだと思い、人生を単純に考える嫌いがあった。文絵が鹿島にもてあそばれていたと知ったら、国原はあきれて、文絵の顔など見たいとは思わないのではないだろうか。
しかし洋子には文絵や国原などが足許に及ばないような奥深い世界があるのだろう。ときとして見せる洋子の憂いを帯びた横顔は文絵が息を呑むほど美しかった。鹿島もニヒルでありながら、ぞっとするほど深い表情を見せるときがあった。
文絵はそんな鹿島の横顔を思い出し、ため息をついた。鹿島とはまったく雰囲気の違う国原の顔が目の前にあった。四角四面の健康そのものといった国原だったが、今は憔悴しているせいか、表情に翳りがあった。
剃り残した髭の陰翳も、国原を少しだけ渋い二枚目に見せていた。文絵はしばらくそんな国原の顔に見とれた。文絵の視線に気付いた国原は頬を撫でると、ストローに口を近づけた。文絵もコーヒーに手を伸ばした。
「お昼、食べたの?」 「いいや。でも、何か食べようかな」 「家にカレーライスならあるわよ」 鹿島に食べさせようと作ったカレーライスだったが、もう鹿島を部屋に上げることはないだろう。コーヒーを残したまま、二人は席を立った。桜並木を歩いていると、白いマスクをした男が通り過ぎた。木洩れ日のなかで、文絵の顔が少し上気していた。(明日に続く)
コーヒーを飲みながら、国原はいつになく寡黙だった。国原はもともと無口なたちのエンジニアだったが、文絵には幼なじみの気安さからか口が軽かった。文絵も冗談が言える男性は国原くらいかもしれなかった。
「結婚式は6月でしょう。いよいよ大詰めね。お互いに年貢の納めどきね」 文絵が水を向けると、国原は苦笑した。 「実は、洋子のことで、迷っている」
今さら何を迷うことがあるのだろうと、文絵は首を傾げた。3年前、文絵が今のアパートに引っ越したとき、手伝いにきた洋子と国原は初めて顔を合わせた。引っ越しが終わって、この喫茶店で3人でお茶を飲んだ。ちょうど今頃の季節で、桜並木に花吹雪が舞っていた。
その時、国原が洋子に一目惚れしたのだった。それから、国原がいかにして蛮勇を奮い、果敢に洋子にアタックしたか、文絵は洋子から逐一聞いていた。はじめてのキスの時、緊張で国原のお腹がグルグル鳴っていたという話まで、文絵は聞いていた。
それはとてもほほえましかった。文絵は国原を応援し、二人の恋が成就することを願っていた。婚約が成立し、式の日取りを決めるだけになったころ、国原が外国勤務になった。式のめどが立たなくなったと、洋子がこぼしていた。
「今が一番幸せでしょう」 「そうでもない」 「問題でもあるの?」 「洋子との結婚を考え直そうと思っている」
国原の口から、そんな言葉を聞こうとは思ってもいなかった。 「婚約を解消するということ?」 文絵は思わず身を乗り出した。国原は文絵から視線を逸らすと、はぐらかすようにして窓の外を眺めた。しばらくして、独り言のように呟いた。 「洋子には他につき合っている男がいる」 寝耳に水のことだった。 「それはほんとうなの」 「同じ会社の鹿島という男らしい」
文絵は息が止まりそうになった。そんなことがあるだろうか。洋子は鹿島を嫌っていた。それに、鹿島は文絵と付き合っている。
「そんなはずはないわ」 「まちがいない。洋子がそう言ったんだ」
昨夜、文絵と別れた後、国原は洋子をホテルに誘ったのだという。ホテルで国原は洋子を抱こうとした。ところが、洋子はそれを許さなかった。そればかりか、いきなり男がいると告白したのだという。
「鹿島という男とはつき合っていたことがあるそうだ。ところが他に女がいることがわかって、わかれた。その頃、僕が現れて、洋子は結婚する気になった。ところが最近、どういうわけか、鹿島とのよりが戻ったようだ」
国原は肩を落として、相変わらず外を眺めながら淋しそうに笑った。文絵も窓の外を眺めた。花吹雪が冷たい光りを散らしながらひとしきり舞っていた。文絵は一段と深い虚無の底に落とされたような気がした。(明日に続く)
翌日、三人はバンコク郊外のアユタヤ遺跡を訪れた。しかし、文絵は楽しくなかった。国原は昨夜の出来事の後遺症だと思っているらしかった。いろいろ気を使ってくれるのだが、文絵には鬱陶しく感じられた。
洋子も腫れものに触るような目で文絵を見ていた。文絵は洋子の視線を感じると、すぐに顔をそむけた。洋子に腹を立ててはいなかった。ただ、無知だった自分が情けなかった。そしてそんな男に体を許し、それを幸福のように感じていた自分があわれでもあり、はずかしかった。
タイ旅行から帰り、文絵は二日ほど寝込んだ。アパートの窓から見える冬の空は青く澄んでいたが、文絵の心は晴れなかった。鹿島からは何も連絡がなかった。文絵はいつか、鹿島からの電話を心待ちにしている自分に気付いた。
三日目の朝、文絵は思い切って鹿島に電話した。「君と別れてからひどい風邪を拾ってね。おかげで寝正月だったよ。でも、今日はだいぶん気分がいい。会おうか」という屈託のない鹿島の声に、文絵は力無く電話口でうなずいていた。
その夜、二人はラブホテルへ行った。そして、その次の日、文絵は鹿島を自分のアパートに上げた。ベッドで鹿島の愛撫に身を委ねながら、文絵はもう自分がかっての自分でないことを感じた。
それから二ヶ月ほどが過ぎた。3月の移動で、文絵は本店勤務を離れた。新しい職場は名古屋市の近郊にある小都市で、通勤は不便になったが、洋子や鹿島と別の職場になったことでホッとした。
鹿島とはその後も交際していたが、洋子には内緒だった。洋子も何も訊いてこなかった。4月には婚約者の国原がタイから戻ってきた。金曜日の夜、文絵は誘われるままに、洋子や国原とレストランへ行き食事をした。
明くる日、突然、国原から電話を受けた。近くの喫茶店で待っているというので、文絵は化粧もしないで、素足にサンダルを穿いて出ていった。川沿いの桜はもう花がほとんど散っていた。風に乗って、花びらが午後の日盛りの中を舞い落ちた。
喫茶店は川沿いにあった。日当たりのよい窓ぎわの席で、国原は文絵が来るのを待っていた。ガラス戸越しに文絵を見て、軽く片手を上げるのが見えた。文絵は肩や頭についた桜の花弁を払ってから、喫茶店に入った。(明日に続く)
25歳の文絵と26歳の洋子は同じ商事会社の総務部につとめる仲のよいOLである。社内の夏の親睦旅行で、文絵は営業部の鹿島俊行という32歳の青年と知り合った。青年からデートに誘われた文絵は、洋子に相談した。
洋子は鹿島についての悪い噂を知っていた。そして彼がかなり女性関係にルーズな男であることを理由に、文絵が鹿島と交際することに反対した。文絵は洋子の言葉を信じて、鹿島を斥けたものの、彼が残念そうに別れを告げたときには、心残りがしないでもなかった。
数ヶ月後のある秋の休日、街角で偶然であった文絵と鹿島は、久しぶりにお茶を飲んだ。そして、別れ際に、「また、お会いしませんか」と声を掛けられて、文絵はあいまいに頷いていた。それから、洋子に内緒にして、何回かデートをした。クリスマスの夜に、二人は結ばれた。それは文絵にとってはじめての体験だった。
数日後、洋子に誘われて、文絵はタイへ旅行をした。タイのバンコクには洋子の婚約者で、文絵の従兄弟でもある国原泰夫がいた。彼はバンコクに進出している家電会社の技師として、もう1年近く現地で暮らしていた。
文絵と洋子は、国原に案内されてタイの観光地を回った。レストランで夕食をしたあと、市場を見物しているとき、文絵は雑踏に二人を見失った。一人でホテルへ帰ろうとして、文絵はスラム街へ足を踏み入れてしまった。
そこから抜けだし、呆然と夜の街角に佇んでいると、スラムからつけてきたらしい男に後ろから押し倒され、ハンドバックを奪われそうになった。文絵の悲鳴を聞きつけて、通行人が何人かかけつけてきた。その中に国原がいた。
舗道に倒れていた文絵を、国原は抱き起こした。国原に抱きしめられて、文絵はようやく恐怖から自由になった。国原に支えられてホテルに帰ってくると、事情を聞いた洋子も文絵を抱きしめた。文絵は子供のように涙ぐんだ。
その夜、文絵は洋子に鹿島と結ばれたことを告白した。洋子は一瞬驚いたような顔をしたが、何もいわなかった。二人でワインを飲んだあと、文絵は誘われるまま洋子のベッドに入った。洋子は姉のように添い寝しながら、文絵に意外なことを打ち明けた。
鹿島は文絵より先に洋子に言い寄ってきたのだという。洋子はこれを断った。その後、文絵にも声を掛けたと知って、その正体を知っていた彼女は、文絵にアドバイスしたのだという。
文絵は洋子の話に驚いた。鹿島は自分をただもてあそんでいるだけなのだろうか。文絵は信じたくなかったが、洋子が嘘をつくはずはなかった。文絵は力なく起きあがると、自分のベッドに行った。その夜は眠れなかった。(明日に続く)
中国の温首相は、日本の安保理常任理事国入りに反対したが、インドの常任理事国入りには賛成した。アジアの将来をになうのは日本ではなく、日本抜きにした中国とインドであると、はっきり意志表示したわけだ。
こうした一連の中国の動きに触発されて、小泉首相は4月22日アジア・アフリカ会議(バンドン会議)で、10年前の村山首相の「日本による侵略と植民地支配」に対する反省の表明談話を引用して反省とお詫びの表明を行った。
しかし、同じ日に麻生総務相と複数の副大臣らを先頭に自民党・民主党の80人の国会議員が靖国神社を参拝している。これでは何のための謝罪とお詫びかわからない。小泉首相がどこまで本気で日中関係の修復をはかろうとしているのか、疑われても仕方がない。
実際中国外務省の秦剛(チンカン)副報道局長は、「現在中日関係が厳しい情勢にあるとき、日本政界の一部の人が大局を顧みず消極的な行動をしたことに対して強烈な不満を表明する。彼らが両国人民の根本利益をふまえて、責任ある行動をとり、中日関係の改善と発展に有利になることをするよう希望する」という談話を発表している。
支離滅裂な日本の外交と対照的なのがドイツ政府の一貫した姿勢である。1月25日、ベルリンの国立劇場で開催された国際アウシュヴィッツ委員会による追悼行事で、シュレーダー首相はこんな演説をしている。梶村太一郎さんの訳で、一部を紹介しよう。
<現在生存しているドイツ人の、圧倒的多数は、ホロコーストに対する罪を負ってはいません。しかしながら、彼らは特別な責任を負っています。国家社会主義の戦争と民族虐殺を心に刻むことは、私たちの生きた状態の一部となっております。かなりの人々にはこの一部が堪え難いのであります。
しかしながら、この心に刻むことが私たちの国民的アイデンティティーに属していることが変わるものでは全くありません。国家社会主義の時代とその犯罪を心に刻むことは、ひとつの道徳的義務であります。私たちはこれによって、犠牲者、生存者、また彼らの係累に対してのみ責任があるのではなく、否、私たち自身にとっても責任があるのです。
淑女、紳士のみなさま、
忘れてしまおうとすること、記憶を抑圧してしまおうとすることの誘惑が、大変に大きなものであることは確かです。しかし私たちはそれに負けてしまうことはないでしょう。
ベルリンの中心部のホロコースト警告碑の石柱の広場は犠牲者たちに生命も尊厳も返すことはできません。生存者と彼らの子孫たちには、たぶん彼らの苦悩の象徴となりうるでしょう。私たちすべてにとっては、忘却への警笛として役に立つでしょう。
ここで、私たちに確かなことは、私たちが、かつて国家権力によって、自由と正義と人間の尊厳が踏みにじられことを忘れるならば、自由も正義も人間の尊厳もあり得ないということです。ドイツの多くの学校で、企業で、労働組合で、また教会で私たちの手本になることが行われています。ドイツは自らの過去に立ち向かっているのです>
小泉首相は23日夜(日本時間同)、ジャカルタ市内のホテルで中国の胡錦涛(フーチンタオ)国家主席と約50分間会談した。会談終了後、首相は英語で記者団に「非常に良い会談だった」と語ったという。
しかし、胡主席は、記者団に対し「最近の日本の歴史や台湾問題でのいくつかのやり方が、中国とアジア関係国の人民の感情を傷つけた。中国やアジアの人民の強い反応は、日本の反省に値する」と述べたという。
シュレーダー首相の演説を胡主席は読んでいるだろう。小泉首相にも全文をよんでもらいたい。そして相手の心に響く言葉がどんなものか、参考にして貰いたい。
先日、私のスローライフぶりを紹介した。そこで今日は、私が夜間定時制で行っている「ゆとり教育」ぶりを紹介しよう。まず、2時少し前に学校に着いたあと、職員会議のはじまる4時50分まで、私はそのほとんどをその日の授業のプリント作りにあてている。
プリントを作りながら、授業の展開をいろいろ考える。私が教えているのは、一年生の一クラスと、二年生の二クラスだ。だから、二種類のプリントを作ることになる。プリント一枚作るのに、1時間半ほどかかる。
その際、教科書は一応参考にするが、ほとんど無視する。日本の数学の教科書は生徒の教育心理を無視し、学問の歴史過程をないがしろにしている。これでは生徒の関心や興味を育てることもできないし、数学のほんとうの面白さも理解できない。
これほどお粗末なものはないと常々考えていたが、これまでだと、その無味乾燥な教科書を無視することができなかった。なぜなら、ひとつの学年を複数の教師が受け持ち、統一試験を実施していたからだ。考査が近くなると、あわてて指定された範囲まで教科書の問題を片づけることになる。
定時制でも一つの学年を複数の教師が持っている。たとえば1年生の3クラスを、私も含めて3人の教師がそれぞれ1クラスずつ持っている。2年生の二クラスは2人の教師が、それぞれクラスを習熟度に分けて持っている。しかし、授業展開はそれぞれの教師が自由に行い、試験も別々である。だから、私は私の思ったとおりの授業や考査を実施できるわけだ。
十数年ぶりに手にしたこの「自由」が嬉しい。この「自由」があるからこそ、授業に創意工夫ができるし、話題をふくらませたり、脱線することもできる。つまり、私がこの27年にわたってつちかってきたものを思い切り発揮できるわけだ。
1年生の数学�気亮�業は、まず整数の足し算と引き算、かけ算を教えた。3−5=2、−5+2=−3、−2×3=−6というレベルである。これを機械的に暗記するのではなく、じっくりその意味までさかのぼって教える。
二回目の授業では、整数の割り算と累乗のかけ算や割り算である。三回目の授業では、分数の足し算や引き算、割り算を教えた。書き込み式のプリントの出来具合を見て回り、授業の最後には検印を押して回る。
1年生は一クラス19名だが、数名の欠席があるので、14,5名である。2年生も同じくらいだ。このくらいだと一人一人に目がいきとどく。1年生のクラスの最前列には、私と同じ50歳年輩の男性が座っていて、私の言葉にいちいちうなずいている。
生徒達は髪型も服装もまったく自由で、前任校だったら、まず「その髪はなんだ。直してこい」というところから授業がはじまるが、その必要はない。まず、授業が和気藹々とした雰囲気ではじまるのがよい。そして、驚くべきことだが、だれも私語をしない。私の苦心のプリントをみんな熱心にやってくれる。だから、授業が楽しいし、ほとんどストレスも感じない。
ただ、いまだに一度も授業に顔を出さない生徒が数名いる。定時制の卒業率は毎年5割を切っている。授業の最初に、「数学は面白いよ。僕の授業を聞けば、ぜったい数学が好きになるからね」と生徒たちに暗示をかけたのだが、いまだに顔を見せない一部の生徒がこの先どうなるか心配である。
日本は国連にアメリカに次ぐ拠出金を払っている。それも律儀に、滞納することもなく払い続けてきた。資金不足にあえぐ国連にとって、日本はありがたい存在である。経済でもアメリカに次ぐ規模を誇る日本を、常任理事国に迎えておかしいことは何もない。
ところが、これに反対する声が、中国、韓国から起こってきた。反日デモが繰り返され、「日本を常任理事国にさせるな」と大使館に投石までする。とくに中国は日本から経済的援助を受け、大量の投資を受け入れて、経済発展してきた国である。
日本は常任理事国になるために、多数派工作に余念がない。加盟国の2/3から日本を支持して貰おうとがんばっている。しかし、拒否権をもつ中国が反対に回れば、日本が常任理事国になることは不可能である。
私が不思議に思うのは、もし小泉政権が本気で常任理事国入りを考えているのなら、首相の靖国神社参拝など、なぜ、中国や韓国の神経を逆なでするようなことを平然と繰り返しているのかということである。
小泉首相は温家宝首相との久々の首脳会談でも、ODA打ち切りを持ち出して、プライドを傷つけ、中国側の態度を硬化させている。島根県議会が「竹島」の領有を議決したときにも、政府や自民党はこれを許した。もし、本気で常任理事国入りをしたいなら、この微妙な時期にこうした動きき出ることを牽制したはずである。
同じ敗戦国でありながら、ドイツは近隣のフランスやオランダなどから暖かい支持を得ている。中国もドイツには反対しないだろう。この違いはどこから生まれたのか。それは戦後、両国がどれだけ戦争を反省し、近隣諸国との友好関係を大切にしてきたかの違いだといえる。
日本はドイツのような地道な努力をしてこなかった。ただひたすらアメリカのいいなりになり、その軍事力と経済力に依存して、ここまでやってきた。こうした戦術は冷戦構造のなかでは有効に働いたが、アメリカの覇権が急速に失われつつある現在、もはや神通力を失いつつある。こうした国際政治のダイナミックスを、小泉首相や外務省はどれほど理解しているのか疑われる。
これにたいして、中国は外交上手である。反日デモのさなか、温首相は経済界などから約150人をひきつれてインドを訪問し、シン首相と会談している。そして、温首相が「両国間に友好の橋を築き上げたい。IT産業のソフトウエア部門に秀でたインドと、ハードウエア部門が得意な中国が手を結べば世界をリードできる」と表明すれば、シン首相も「両国が協力すれば世界の秩序を新たに形成することも可能だ」と語っている。
1994年には10億ドル規模だった両国の貿易額が、2004年には136百三十六億ドルにまで、10年間で10倍も拡大している。今回の訪問では投資の拡大や科学技術、文化交流の促進を定めた文書なども調印された。英紙フィナンシャル・タイムズは「中国はインドとの関係強化を通じITだけでなく宇宙工学や生物化学を含めた高度技術の獲得を狙っている」との見方を伝えている。
アメリカに気を使い、アジアでの立場を失い、国歌・国旗がどうのこうのとますます内向きになる日本に対し、中国はこれまで敵対していたインドとも手を結び、アジアのみならず世界で政治的にも経済的にも指導的な地位を築こうとしている。日本外交の不在はいつまで続くのだろうか。
| 2005年04月21日(木) |
日中友好の灯を消すな |
中国の反日デモの広がりを受けて東京株式市場が大幅下落した。米経済の減速懸念も強まるだけに、日本のエコノミストの間では、「中国の反日運動が長引けば、踊り場にある日本経済の足を引っ張りかねない」との見方も出始めている。
財務省の貿易統計によると、2004年に日本の対中貿易が戦後初めて対米を上回り、香港と合わせた貿易総額は22兆円を超えた。「中国の経済成長で最も恩恵を受けたのが日本。反日運動拡大は日本企業のイメージ悪化につながる」と株式関係者は心配しているという。
それにしても、中国の反日運動は当局が本腰を入れて取り締まらないこともあって、なかなかおさまらない。テレビでみると、デモに参加した学生や市民は「愛国無罪」と称して、投石などを警官隊の前で公然と行っている。これに対して、中国政府の公式謝罪はない。あくまで、日本側に責任があるという立場である。
終戦後、毛沢東指導部は「戦争を起こし、中国を侵略したのは一部の軍国主義者で、日本人民もまた被害者」という立場をとり、日本に賠償をもとめなかった。しかし、いつのまにかその軍国主義者たちが靖国神社に祭られ、日本の首相が公然と参拝を繰り返している。その他にも日本の戦争責任を否定するような政治家の発言や教科書の採択が続いた。中国にとってこれが容認できない事態であることは想像がつく。
中国はこれまでまがりなりに、「日中友好」を国是としてきた。その背景には日本の援助で経済を発展させたいという思惑があったはずである。実際に日本のODAは中国にとってもありがたかったはずである。
しかし日本から中国への技術移転も一段落した。そして、中国の貿易額は日本を抜いて、アメリカ、ドイツに続きて世界3位だ。中国が反日活動を容認している理由の一つとして、こうした経済的背景が考えられる。中国はもはや日本に依存しなくてもやっていけると判断したのではないだろうか。日本の代わりになるパートナーはアメリカでもよいし、EUという選択もある。簡単に言えば、中国による日本切り捨てである。
小泉首相はODAの中止を示唆したが、これも中国にとってはそれほどの打撃にはならない。日本から貸与されたODAを中国は誠実に返還している。現在では日本からの貸与額より中国からの返還額の方が多いくらいだ。中国はいざとなれば「歴史認識の問題」を持ち出し、この返還に応じないという手段さえ持っている。
貿易の内訳を見ると、昨年一年間の日本から中国(含む香港)への輸出は 11 兆 8,278 億円、輸入は 10 兆 3,727 億円である。日本は中国のおかげで、約 1 兆 5,000 億円もの黒字を稼ぎ出し、これによって景気がたもたれてきた。中国から見ると、約 1 兆 5,000 億円も日本に稼がしてやったことになる。
中国は日本を失っても、その代わりをEU(ドイツ)などに見いだせるが、日本は巨大な中国市場を失っては困るので、経団連の奥田会長も小泉首相に中国と仲良くして欲しいと申し入れてきた。こうした中で、小泉首相は、今後アメリカ一辺倒のやりかたを、見直さなければならなくなるだろう。そうしないと、日本経済の将来があやうくなる。
こんどの反日デモの責任は、「日本の誤った歴任認識に基づく一連の行動が原因だ」と中国政府は言っているが、これはひとつの理由であって、中国政府の強腰の背後には、こうした経済問題の読みや戦略転換があると考えた方がよい。
この本質を理解しないで、過去にばかり捕らわれ、反日デモの現象面ばかりに目を奪われていると、日本は将来をあやまることになる。日本の過去が問題にされる場合でも、問題の本質はあくまで現在にあることを忘れてはならない。
中国政府が反日デモをしっかり取り締まろうとしないのは、さまざまな思惑があってのことだろう。日本の多くの論者がいうように、中国政府は国内の不満を過去の日本の侵略行為に向かわせガス抜きをしているという面もあるに違いない。しかし、中国の反日活動をこうした観点でのみで割り切るのは問題である。
中国政府としては、アジアで日本と友好関係を築き、パートナーとして共存共栄するという世界戦略も考えらる。たしかに、最近はこのシナリオが後退し、中国はむしろEUとの連帯を深め、日本やアメリカに対抗し、アジアの覇権を握ろうと考え始めているようだ。しかし、中国をこうした覇権主義に向かわせてはいけない。そのために日本は何を為すべきか。
日本の戦略はあくまでアメリカ追随だが、この方向で日本の未来が開けるのか疑問である。下手をすると、中国はアメリカとさえ手を握り、日本は完全に世界の孤児になるかも知れない。中国、韓国という大切な近隣の二国の世論が反対であれば、日本は安保理の常任理事国になるべきではない。日本はもっとアジアに目を向けて、近隣諸国との友好関係を築き上げるべきだ。
| 2005年04月20日(水) |
スロー・ライフの楽しみ |
この4月から夜間の定時制高校に勤務している。これにともなって、生活の時間帯がシフトした。起床は5時である。これまで3時に目が覚めていたから、2時間ほどずれたわけだ。
起きるとまずコーヒーを飲んで、2時間ほどかけてHP日記の更新をする。7時になると妻が「ごはんですよ」声をかける。食事のあと、新聞を読んだり、テレビのニュースや、「クローズアップ現代」の録画を見る。
8時15分からNHKの朝の連続ドラマ「ファイト」を見る。夜の大河ドラマは大嫌いだが、朝ドラは好きだ。20年ほどまえに、やはり夜間定時制に勤務していたときも、毎朝「おしん」を見ていた。「ファイト」も楽しみに見ている。
このあと、2時間ほどは読書をしたり、物を書いたりする。いわば私の「黄金時間」である。今はとくに「万葉集」について勉強している。いずれHPに「小説・大伴家持」を連載する予定で、そのための下準備だ。
10時から11時までは散歩である。もっとも最近はこの時間に妻と二人でガレージのリフォームをしている。玄関先にもう一台車を置けるように、階段をスロープに改造するわけだ。そのためにレンガとセメントを大量に買い込んである。疲れないように少しずつ、楽しみながらやっている。
11時から風呂に入る。風呂からあがり、11時半ごろから妻と二人で昼食。そのあと、12時から12時25分までNHKテレビで英会話を勉強する。12時40分に家を出て、木曽川駅までゆっくり20分ほど歩く。
JRと地下鉄を乗り継いで、学校に着くのが2時少し前だ。この間、録音してあるNHKラジオの英会話を聞いたり、読書をしたりする。勤務を終えるのが9時半ごろである。それから地下鉄とJRを乗り継いで家に帰る。
帰宅は10時40分頃。妻や娘の顔をみて、薄いお茶を一杯いただいてから寝床に入る。枕に頭を置いて3分もすると、もう深い眠りの中だ。目が覚めると朝の5時で、また判を押したような私の一日が始まる。
Aさんには父方の叔父がいた。この叔父夫婦には子供がいなかった。叔父の口癖は、「お前はわしの息子だと思っている。俺が死んだあとはよろしく」だった。Aさんもそのつもりで、この叔父夫婦に尽くしてきた。幼いときに父を亡くしているAさんにとって、叔父は父親のようなものだった。
この叔父という人は人使いの荒い人で、「京都に遊びに行きたいから、車で連れていってくれ」などと突然電話してくる。Aさんはそのたびに叔父さんの家に駆けつけて、御用運転手のようにして一日を費やしたりした。
叔父さんが入院すると、Aさんはまっさきに病院に駆けつけ、医者から余命いくばくもないと告げられると、いろいろ気を使った。「あれをしたい、これをしたい」と、叔父さんの要求はエスカレートするばかりだったが、Aさんはそのたびに学校を休んでまで叔父に仕えたのだという。
ところが叔父が死んで、家に駆けつけると、すでに叔母の兄弟達が葬式の手配を終わっており、Aさんは仕事の割り振りもされず、完全なお客さんあつかいだったという。叔母の様子も、叔父が生きていた頃とはうってかわって冷淡だった。
そのうち、叔母さんが「財産めあてで近づくような人は信用がならない」と、Aさんの悪口を言っているのが聞こえてきた。Aさんは叔母方の親戚の誰かが、叔母にそのように吹き込んだに違いないと思ったという。
こうしてAさんを親族会議から外しておいて、財産相続が話し合われ、Aさんをはじめ叔父の親戚の方にはほとんど何も与えられなかったという。Aさんは自分が叔父や叔母の口車にのり、利用されていたと知って、次第に腹が立ってきた。
財産分与についてもどうしても納得がいかない。そこで東京で大学教授をしている兄夫婦に相談すると、「訴訟を起こして、徹底的に戦え」と励まされたのだという。兄夫婦に紹介されて、相手よりも何倍もキャリアのある弁護士をつけたので、費用も馬鹿にはならなかった。
最終的には叔母の親族団が白旗を掲げ、示談が成立した。しかし、叔父の財産は生前叔父が吹聴していたほどではなかったのだという。生前は叔父や叔母によいように使われ、死後は訴訟にふりまわされて、厖大な精力と時間を費やしたAさんは気の毒である。
考えてみれば、Aさんは叔父や叔母に利用されたあげく、裁判をけしかけた兄夫婦にも利用されただけだった。こうした体験が重なれば、人はだれでも他人を信用しなくなり、他人に利用されないよう警戒するようになるのではないだろうか。
人に利用された人間は、こんどは人を利用しようと考えるようになる。しかし、そうした人間にはだれも近づかないので、身辺が孤独で淋しいわけだ。いきおい、「人間というやつは、一皮剥けば欲のかたまり」だと、人生に悲観的になる。Aさんの叔父さんや叔母さんも、そうしたタイプの淋しい人間だったのだろう。
同僚で友人のAさんは、私の「土地を盗られた話」を聞き、「子孫の為に美田を残さず」という言葉を聞くと、「それはその通りかも知れない」とうなずいた。そして、彼自身の体験を語ってくれた。
彼は幼いころに父を亡くしている。財産家なので金銭的には不自由はしなかった。それに母は元気だったし、年の離れた姉や兄がいた。彼の兄はとくに優秀で、東京大学を出て、偉い学者になり、NHKのテレビ講座も担当していたことがあるのだという。
母が死んで、末子のAさんが家を相続することになった。兄さんは東京に住んでいて、なかなか実家に帰ってこないので、Aさんが相続の手続きをまかされたのだという。母の遺言にしたがって、それぞれに財産を分けた。もちろん家を相続し、先祖を祭ることになったAさんが多くを相続することになった。
ところがこれに対する不満が親戚から一斉に起こった。とくに兄さんは学者にも似合わず、夜中にも「財産をよこせ」と、怒りの電話を寄越してきた。Aさんを驚かせたのは、兄さんの妻までが電話口に出て、Aさんを口汚く罵ったことだという。この人も学者で、ある有名大学の学部長をしているが、知性などかけらもなく、1時間以上も電話口で怒り続けたのだという。
Aさんは偉い大学教授の二人から「訴えてやる」と言われて、おどろいて財産を処分し、いわれただけの額を送ったが、このことがきっかけになって、これまで仰ぎ見ていた兄夫婦に対する尊敬をすっかりなくしたという。そして、「人間なんて、いくら学問を積んでもだめだ。欲の深さを上品に包んでいるだけだ」と思ったのだという。
そして、Aさん自身、何か起こると「訴えてやろう」と考えるようになった。隣家との土地争いもそうだが、他にも財産相続で係争中の事件があるのだという。Aさんは「本当に頭に来た」といいながら、その事件について語り始めた。私はこれも社会勉強だと思って、Aさんの話に耳を傾けた。
母から土地謄本のコピーを見せられて驚いた。コピーは10枚ほどもあり、そこに山林や田畑が30カ所以上も列記されていた。随分たくさんの土地を所有しているようだが、よく見てみると、大部分は小さな飛び地である。細切れの土地があちこちに散らばっているので、財産目録が大きくなったわけだ。
どうしてこんなことになったのか。それは一言で言えば、先祖が強欲だったからだろう。例えば父は生まれてすぐに養子に出された。しかし、養父母が死ぬと、父はすぐに籍を戻されて、実家に帰った。そのとき養子先の土地もおみやげにいただいたのだという。
これは私が高校生の頃、父から聞いたことだが、土地の登記簿を見て、私が真っ先に思い出したのはこの話だった。これはとんでもない詐欺行為ではないだろうか。こんな手を使って、先祖はあちこちの田畑や山林を買い占めた結果が、この複雑な登記簿なのだろう。
その目録に記載された土地の所有者は父の名義のものと祖父のものとがある。問題の屋敷の土地を見ると、半分は父の名義になっていたが、残りは祖父のままになっていた。その理由を母に訊ねると、こんな答えが返ってきた。
「長兄が死んだ後、遺族が日本に帰りたいと言ってきたの。すでに約束では長兄の一家は相続権を放棄していたわけだけど、長兄の死で事情がかわって、相続の手続きを依頼したときには、素直に財産分与に応じなかったのじゃないかしら。そこでお父さんも、ひとまず半分だけということで妥協するしかなかったのでしょうね」
父が田舎の家を相続したのは30年以上も前のことで、母の記憶も曖昧だった。しかも母は田舎の家を継ぐことに反対していた。そんなわけで、父も相続の問題について、母にはあまり相談しなかったらしい。
父が死んだいま、祖父名義の土地を弟の名義に書き換えるには、父の兄弟ばかりではなく、ブラジルにいる長兄の遺族にまで了解を取る必要がある。彼等がこちらの要求に応じるかどうかわからない。これを機会に、再び財産の分与を要求してくるかも知れない。
長兄が財産を譲ると言ってきたわけだから、その手紙があればよいような気もするが、法律上はそれほど単純ではないようだ。母はこの問題で何回か市民サービスの法律相談を受けていた。
「法律上はブラジルの遺族にも権利はあるようだけど、お祖父さんが死んで30年間も税金を払い続けたのよ。山林の世話をしてきたのも私たちだし、今さら土地を返せと言われてもね。だけど、お父さんが解決できなかった問題を、私たちが解決できるわけがないわね。この問題は触れないでおいた方がいいわね。ブラジルの遺族や伯父達も、いまのところ何も言ってこないのだから」
しかし、Yさんが北陸電力に相続権が曖昧だと言っていた。伯父さんをはじめ親戚はこの問題を知っている違いない。ブラジルの遺族を動かして、私たちから山や畑をとりあげようとするのではないだろうか。
私たちのこの予感はやがて現実のものになった。Yさんはこのころすでにブラジルの遺族と連絡を取り合っていたらしい。やがて親戚の一人から、「ブラジルの遺族に財産を半分譲ってはどうか」と提案があった。
母が法律相談に行くと、「これはむつかしい問題です。相手次第ですが、裁判になるかも知れません」と言われた。「そんな面倒くさいことはたまらない」という訳で、相手の条件を全面的に呑むことにした。こうして祖父の名義分の土地がほとんど長兄の遺族の名義に書き換えられることになったわけだ。
屋敷の土地の半分は私たちの手を離れ、Yさんはそこを今は自由に使っている。Yさんの薦めに従って、倉を壊し、屋敷跡に父が植えた杉の木を切ったことが仇になったわけだ。父はこうした成り行きを見越して、「屋敷の木を切るな」と言ったのだろうか。これについては、なんとも言えない。
Yさんの家は父の母方の実家だった。小学生の頃母を亡くした父にとって、Yさんの家はなつかしい母の実家であり、父が心を許し、さびしさを紛らわすことのできる貴重な場所だったという。Yさんとは従兄弟同士だが、兄弟のよう育った。
さらに脳卒中で倒れた祖父の食事の面倒を見てくれたのもYさんの一家だった。私たちの一家はYさんにはたいへんお世話になっていた。こうしたことを考えれば、一概にYさんを非難する気にもなれない。実際、母や弟はYさんともふつうにつき合っている。
「土地を盗られた話」という題で書き始めたが、立場を変えればまた違った題が浮かんでくる。「それは盗られた土地を取り戻す話」である。
「子孫の為に美田を残さず」という言葉がある。私自身も子供に財産を残そうとは考えない。親の財産などないほうが、子供はまともに育つ。あれば兄弟姉妹の喧嘩のもとである。なくなってむしろ清々した部分がある。おかげで、私と弟は財産のことで一度も喧嘩をしたことがない。
倉がなくなり、敷地の木も切られて更地になった土地を、Yさんは駐車場として自由に使っていたが、私たちは何とも思っていなかった。しかし、そこにいつのまにか北陸電力のプレハブが建てられていると聞いて驚いた。
「Yさんが勝手に北陸電力に貸したようなの。でも地主の私たちに挨拶ないのはおかしいわね。Yさんは北陸電力から月々お金も貰っているようなのよ」
母から電話があって、私はこれは座視できないと思った。さっそく日曜日に福井に帰り、弟と母を伴って、田舎のYさんの家を訪れた。あいにくYさんは不在だったが、Yさんの奥さんや娘さんがいたので、「勝手に土地を又貸ししては困る」と苦情を述べた。
その夜、田舎からYさんがやってきて、私たちの前で神妙に頭を下げた。北陸電力からもらった金は空き地の管理のために使ったが、地主に断りもなく貸したのはまちがいなので、全額返してくれるということだった。
数日後、北陸電力の人がきて、同じように頭を下げた。管理人のYさんから当然地主に話が通っていると思ったのだという。それに、Yさんからは正式の地主がはっきりしない土地だとも言われていたらしい。
私は不審に思った。祖父が死んで、三男の父が財産を正式に相続したと思っていたからだ。父が死んで、今度は弟が相続し、税金を払ったものだと思っていたが、相続については書類がややこしく、あまり進んでいないのだという。
「とにかく、屋敷の土地も半分は死んだお祖父ちゃんの名前になっているのよ。山林も名義の書き換えができていないところがたくさんあるの。とにかく飛び地がいっぱいあって、わけがわからないわね」
祖父が死んだとき、長男一家はブラジルにいた。長男は三男の父に財産を相続して欲しいと手紙に書いて寄越した。それと引き替えに、木を切って数百万円を送るように指示してきたらしい。父はその手紙を親戚に見せて、了解をとりつけたのだという。
「相続するにしても、兄弟が6人もいると、ひとりずつ印鑑をもらったりして、大変なのよ。それにそのあとすぐにブラジルのお義兄さんがなくなったでしょう。そうすると、今度は、その奥さんや息子さんたちと交渉しなくてはならなくなって、お父さんも、途中であきらめちゃったのね」
母の話を聞きながら、これは容易なことではないと思った。土地の大半が祖父の名義だとすると、「本家の財産なんてみんな巻き上げてやる」という人づてに聞いた伯父の言葉も、笑ってすませられなくなる。Yさんの様子からしても、これは何か起こりそうだなと思った。
父は死ぬとき、「屋敷の木をきるな。杉の木と、欅をきるな」と言い残した。屋敷には大きな欅があり、父はこれを家の守り本尊だと思っていたようだ。杉の木は父と私が植えたものがかなり大きくなっていた。
しかし、後に残された私たちはこれを守らなかった。まず、屋敷の杉の木を人に言われるままに斬ってしまった。まさかこれで土地を失うことになるとは思いもよらなかった。しかし、あとで考えてみれば、父の植えた杉の木が残っていれば、私たちはその所有権を主張できたはずだ。そう簡単に土地を奪われることもなかった。
それではどうして、父の遺言に逆らって、屋敷の何百本という杉を切ってしまったのか。それは料理屋をいとなむ親戚のYさんが「最近、屋敷にゴミが投げられている。このままだとそこがゴミ捨て場になってしまう。何とかしてほしい」と苦情を言ってきたからだ。
そこで「ゴミ捨てるべからず」と立て札を立てたが、効果はなかった。困ったものだと頭を抱えているところに、Yさんやってきて、「私の方でもいろいろ対策を考えてみました。実は耳寄りな話があります」という。
それは屋敷の杉の売って、その費用でそこを更地にするというのである。きれいな更地にすればもう人はゴミを投げたりしない。それに、将来、土地が高く売れるかも知れないという。ある業者にかけあったら、今なら仕事のついでにやってあげてもよいという。
Yさんのこの提案を私たちは受け入れた。私たちは今さら田舎に住む気はなかったし、ゴミの不法投棄に頭を悩ませていたので、更地にすればこの厄介な問題が解決するだけではなく、将来高く売れるかもしれないというのは魅力だった。
工事は迅速に行われた。盆に墓参りしたついでに寄ってみると、千坪もの土地がきれいな更地になっていた。そして大きな欅が一本だけ残っていた。やがて、この欅を売って欲しいという人が現れて、これも斬ることにした。
すっかり更地になった土地を眺めて、「父が生きていたら怒るだろうな」とは思ったが、田舎で生まれ育った父に比べて、私たちは先祖の土地や山に対してほとんど愛着をもっていなかった。Yさんがゴミを不法投棄させないように、そこを臨時の駐車場として使いたいと言ってきたとき、これでゴミ問題が片づいたと、私たちは胸をなで下ろした。
やがて、ゴミを不法に投棄していた張本人がYさんだという情報をつかんだ。私たちは「なんだ、そういうことだったのか」と納得した。Yさんに失望したが、非難まではしなかった。これがもっと大きな計画のほんの一部だとは気がつかなかった。Yさんの立てた計画の全貌を知るのは、二、三年もあとのことだった。
私の父方の実家は福井県の田舎にある。江戸時代は苗字・帯刀を許された庄屋で、祖父や伯父は村議会の議長を務めるなど、村の有力者だった。広大な山林と田畑を持ち、千坪ほどの敷地に大きな母屋や倉が建っていた。
伯父がかなりの山林を売り払い、ブラジルへ渡った後、三男の父が家を継いだ。私が中学生の頃で、それまで気軽なサラリーマンだった父に、村に何十軒とある家の本家としての責任と重圧がかかってきた。私たち家族も福井市に住みながら、日曜日には父の運転する車で田舎に行って山仕事をした。
そんな生活を30年ほどしてから父が死んだ。山林や田畑、千坪ほどの家屋敷が残され、山には何万本という木があったが、外材に押されて日本の林業は壊滅していた。山の木を切っても赤字になるだけだから、大した財産ではない。
その上、父が死んだ頃は、母屋も倉もすでに処分してあった。敷地の一部を村の公民館や近所の料理屋の駐車場として使ってもらっていたが、残りの大部分は父と私が植えた杉が一面に繁っていた。こんな状態だから、それほど相続税がかかるわけではない。
私は家のことは福井の弟にまかせていた。高校卒業と同時に家を出て、名古屋で結婚し、今は一宮で暮らしている私は、相続についてはあまり期待していなかった。母や弟がくれるというなら、もらえるだけもらえばよいと考えていた。
母も弟も福井で暮らしてたから、田舎の財産について執着があるわけではない。父は山仕事をしながら土地や山の境界を教えてくれたが、財産に関心がなかった私たちは、ほとんど覚えようとしなかった。最後は父もあきらめて何もいわなくなった。
父もまた家の敷地の中に公民館を建てさせ、料理屋を経営する従兄弟のYさんに頼まれれば、気前よく駐車場として貸した。その上、倉が欲しいという人があれば、二束三文で売り払った。
倉の中には家宝の刀や先祖伝来の鎧兜があったが、これは祖父が死んだとき盗まれた。父は「どろぼう」がだれか知っていたが、「そのうち罰があたるさ」と言って笑っていた。実際、それから数ヶ月後、父の兄弟の一人が交通事故にあって入院したので、私はきっとこの人だろうと思ったものだ。
父が死んだ後、いとこの一人がやってきて、「M伯父さんが、本家の財産などみんな巻き上げたやる」と言っていたと私たちに告げた。私は「そんなことができるのだろうか」と半信半疑だったが、やがてこれが現実になった。
もっとも仕掛人は料理屋を経営するYさんだった。父は倉を壊したあとの敷地を、無償で駐車場として貸していたことでもわかるように、長年の友人であった従兄弟のYさんを信頼していた。私たちも村に行くたびにYさんの店に顔を出して世間話をしていた。だから、Yさんの仕掛けてきた罠にはまってしまったわけだ。その手口を明日の日記で紹介しよう。
かっての同僚で友人のAさんは、いつも何か係争中の事件をかかえていた。隣家との境界で争い、伯父さんの相続で争い、さらには施設で死んだ叔母さんのことで施設を訴えたりと、なかなか忙しそうだった。
そのたびに弁護士を雇い、学校を休んで裁判所に出かけなければならない。たとえ裁判に勝ってもどれほどの収入の足しになるのかわからない。私に言わせれば時間と精力の無駄使いのように思われるのだが、本人は私に愚痴をこぼしながらもやるき満々である。彼にとって訴訟を起こし、誰かと争っているのが生き甲斐なのかもしれない。
隣家との土地争いの場合は、その境界線がほんの10センチほどずれているというだけの話である。そもそも彼の家の敷地は何百坪とある。本宅があり、別棟が二つ、さらに倉や車庫がある。敷地の中に畑があり、本格的な庭がある。私の家の敷地の10倍は悠にある。
そして他に田んぼや畑がたくさんある。コンビニエンス・ストアに貸している土地もあれば、駐車場にして臨時収入を得ている土地もある。これだけの財産を持ちながら、屋敷のわずか10センチほどの境界で争うところがわからない。
しかも相手は同じ姓を名乗る彼の分家である。その分家もAさんほどではないが、大きな屋敷と庭がある。お互いに財産家なのだが、1センチも譲れなくて双方が弁護士を立てて正面から争うわけだ。
Aさんに言わせると、この分家は土地のことで夕食中に家に怒鳴り込んできたこともあるという。そして近所中にAさんの悪口を流しているという。分家のしわざかどうかわからないが、あるとき本宅の壁にガソリンがぶちまけられていた。
しかし、Aさんがやとった弁護士は高等裁判所の判事をしたこともある大物弁護士だから負けるはずがないのだという。 私はこの話を聞きながら、わが家に起こった土地争いの話をしてやった。
実は私も父が死んだ後、親戚に土地を取られた。それも半端な土地ではない。1千坪もあった屋敷の半分を奪われた。Aさんにこの話をすると、彼はいよいよ私の「ごくらくトンボ」ぶりにあきれた。明日の日記で、「土地を盗られた話」と題して、これを書いてみよう。
私はどちらかといえば、極楽とんぼである。そもそも性善説なのだから、まずは人を信用する。たとえ裏切られても、何かの事情があるのだろうと考える。生まれつきどうしょうもない悪人はいるだろうが、それも生まれつきとなればしかたがない。彼が悪いのではなく、進化の仕組みの一貫だから、彼を悪人とするわけにはいかない。
こうした極楽とんぼの生き方は敵をつくらない。敵がいなければ攻撃されることもない。人と喧嘩することもないし、たいていの人は親切にしてくれる。友人もたくさんできる。和気藹々としていて、人生が楽しい。
昨日の日記で紹介した友人のAさんは、私の極楽とんぼぶりをみて、「橋本君は、あまいな」という。「人間なんて、一皮むけば欲のかたまりなんだから」という。そしてその実例を、私にいろいろと示してくれる。
たとえば、こんなことがあった。もう十数年前だが、その頃私はAさんと一緒の職場で、同じ卓球部の顧問をしていた。私が正顧問で、彼が副顧問だった。卓球部は夏休みに、数日間学校の合宿所に泊まり込みをする。
顧問の私たちは、保健室で寝泊まりするのだが、彼と二人でよもやま話をしながら缶ビールを飲んでいると、二人の若い教員が「ごくろうさまです」と、差し入れのビールやおつまみを抱えてやってきた。4人でしばらく盛り上がったあと、二人は帰っていった。
「親切ないいやつらだね」 と私がいうと、さっそくAさんは、「だから君は、極楽とんぼだというんだ」と、私の認識がとんでもない見当違いだといいはじめた。
「何のために彼等がやってきたのか、君は何にもわかっていないんだね。彼等が善意でやってきたと思うのかね。彼等はだだ、教頭に言われて、僕らがちゃんと仕事をしているかスパイにきただけなんだよ」
「それはどうかな。僕はそんなふうに、彼等を考えたくはないね。教頭もそこまでやるかね。そこまで僕たちを信用していないとは思いたくないね」
「わかった。それじゃ、今から証拠をお目に掛けよう。二人が保健室に入ってきて、どういう行動をしたか思い出してごらん。彼等はベッドの方に行ったよね。そして、君が読みかけていた本の方に視線を投げただろう。それから・・・・」
Aさんの言うとおりだった。思いかえしてみれば、二人の行動や目つきにはおかしなことが多かった。Aさんは二人が入ってくるのを見たとき、「やはり来たか」と思ったという。教頭の性格を考えればスパイを送ってくるのは分かっていたし、来るとすればあの二人だということも分かっていた。Aさんはスパイに来た二人を、逆にスパイしていたわけだ。
Aさんは「人の心の底が見える」のだという。そうすると、私のように「極楽とんぼ」ではいられなくなる。だからよけに、私のような世間知らずのお坊ちゃんに好意をもつのだろう。いつか好意は友情に変わり、私にとっても彼は世間を知る貴重な情報源になった。
Aさんのおかげで、私はその学校の人間模様がよくわかった。教頭をトップにスパイ網がはりめぐらされて、教員一人一人の言動が見張られていること。教頭も誰かが印刷した後、必ず印刷室へ入り、その印刷物をチェックしていること。誰もいなくなった職員室で、教頭は教員の机の引き出しをあけ、中身をチチェックしていること。
にわかには信じられないことばかりだったが、Aさんの話は具体的な裏付けがあり、そのまま事実として認めるしかなかった。私のクラスの副担任をしていたBさんは、そのことに気付いて、帰りに机の中に「勝手に覗くな」と書いた紙切れを置いておくのだという。
雰囲気が暗く、毎年自殺者や病気で死ぬ職員が出ている。「今年はだれの番かな」というのが話題になる。Aさんは、「こんな学校にはあまりいたくない」という。私も転勤することにした。私と同時にAさんも転勤した。
私が転勤した翌年に、Bさんが自宅で首を吊って死んだ。彼から毎年送られてきた家族写真入りの年賀状がそこで途絶えた。そしてその翌年には、教頭がガンで死んだ。やはり、Aさんと一緒に転勤してよかったと思ったものだ。
こうした点で、Aさんにはとても感謝している。しかし、彼のような生き方はあまり幸せな生き方ではないだろうと思う。私にはスパイに来た若い二人にしても、これをスパイと切り捨ててしまう気にはなれない。彼等の気持ちの中にはもっと別の感情もあったはずだ。教頭も職務に忠実な余り狂い、ついにはガンに犯されてしまったのだろう。私はそう考えて、実生活ではいぜんとして「極楽とんぼ」を決め込んでいる。
私の友人で、かっての職場の同僚だったAさんは、夫婦で教員をしており、その上田んぼや畑をたくさんもっている。立派な邸宅を構えた財産家である。しかし、かなりの締まり屋だ。簡単に言えばケチということになる。
私の友人は、このAさんをはじめ、ほとんどはケチである。なぜなら、私自身がケチの部類だからだ。浪費家と友人になったら、交際が大変である。その点、Aさんとなら安心である。入る喫茶店や食堂もなるべく安いところだし、旅行に行っても1円を惜しんで絶対贅沢はしない。そういうわけで、十年以上のつき合いが続いている。
Aさんは今もときどき「会おう」と電話をかけてくる。しかし、この数年間はあっていない。「あってもいいけど、コーヒー、おごってくれる?」というと、「うーん、また電話するからね」と残念そうに電話が切られる。
会いたいのだが、350円のコーヒーはおごりたくないというわけだ。本当に会いたければ、コーヒーくらいおごってくれるだろう。私はそう考えて、そのままにしている。Aさんにはいろいろ世話になった。かってはケチなAさんがコーヒーどころか食事までおごってくれたこともある。しかし、最近は少し醒めてきたようだ。こんな薄情でケチな友人を持った不運に気付いたのかもしれない。
私のモットーは「いかにお金を使わずに人生を楽しむか」ということに尽きる。Aさんはケチだが、檜作りの豪邸に住み、最上級のクラウンに乗っている。そして「農地解放がなければ、もっと田んぼや畑があったのに」と私に愚痴をこぼす。
ケチはケチでも、私の場合は収入や財産がないので必然だが、彼の場合は、何だか欲張りのケチのように見える。価値観や人生観が私とは180度違うのだが、それでも何となく気が合うところもあり、お互いに本音をぶつけあったりできるので、長いことつきあってきた。今後も、彼は私に電話をよこすだろうし、「コーヒーおごってくれる」という私の定番の受け答えも繰り返されるだろう。
今年は花粉症がひどい。転勤先の学校でも職場で白いマスクが目立った。前後左右を白いマスクの人たちで囲まれていると、何か異様な気がする。マスクをしているので、顔を覚えるのに苦労した。
花粉症の原因は前にも書いたが複合的なものだと思う。しかし、根底にあるのは環境破壊である。大気や土壌が汚染されると、杉や檜、松などの弱い植物は生きていけない。そこで、子孫を残そうと大量の花粉をまきちらすわけだ。
もちろん花粉そのものは花粉症をひきおこさない。これに大気の汚れが付着して化学的刺激物になるのである。さらに、環境汚染で過敏になっている人間の体が、これを異物として排斥しようとする。これが鼻水やくしゃみを引き起こすわけだ。
花粉症はあきらかに人災だが、問題はこれで儲けている人たちが大勢いることだ。ティッシュやマスクは飛ぶように売れているし、製薬会社も薬局も病院も笑いがとまらない。花粉症にもこうした経済効果はあるのだろうが、一方では個人の生産性が減退する。長期にわたり何千万という人々が不快感をよぎなくされるわけで、負の要素が圧倒的だ。
昨日は青春18切符を使って敦賀へ行ってきた。敦賀でも桜がほぼ満開だった。あたたかい陽射しの中で、桜を眺め、海を眺めて、自然のよさを満喫した。気比神宮の清浄な境内を散歩し、大きな楠木に感動した。
珍しく花粉症の症状はおさまっていたが、旅から帰ると、てきめん鼻水とくしゃみに襲われた。くしゃみをしながらメールを点検していたら、「鎮守の森は千年の森」というメールマガジンの文章に出会った。一部、引用しておこう。
<森とは木が集まっただけではない。高木、低木、下草、さらには野鳥や昆虫、地中の小動物群、カビ、バクテリアなどいろいろな生き物がいがみ合いながらも一生懸命生きている共同体社会である。
日本列島では2千年ほど前に稲作が始まり、森を切り開いて水田とし、さらに道や集落を作ってきた。しかし、私たちの祖先はその際にも、かならずふるさとの木による森を残した。それが鎮守の森である。
「鎮守」とは、その土地の地霊をなごめ、その地を守護する神である。その言葉通り、鎮守の森は地震、台風、火事から、住民達を守ってきた。さらに神社を守ることによって文化を伝えてきた。
鎮守の森は強い。荒れ地には一気にはびこるセイタカアワダチソウなどの帰化植物も、鎮守の森には侵入できない。かつては日本中の樹木を食い荒らすと恐れられていたアメリカシロヒトリも、鎮守の森には歯が立たなかった。
またスギやヒノキなどを人工的に植えた森では、下草刈り、枝打ち、間伐と、常時、人間が手を入れてやらねばならないが、その土地本来の樹木でできた鎮守の森は、そんな必要はない。鎮守の森は千年の森なのである>
(伊勢雅臣、「国際派日本人養成講座」 H17,4,10より) http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm
| 2005年04月09日(土) |
青春18切符でどこへ? |
この春に買った青春切符が一枚だけ残っている。今日はこれでどこかへ行こうと思っている。最初は奈良へ行くつもりだった。大伴家持ゆかりの土地をめぐり、興福寺では阿修羅像や仏頭をじっくり眺めてみたいと思っていた。
しかし、職場が変わり、この一週間の疲れがではじめている。奈良への日帰り旅行は少し慌ただしいし、桜の季節でもあり、人も多いだろう。いろいろ考えているうちに、今回は少し近場ですませることにした。
具体的に言うと、敦賀へ行って、好物の「ソースかつ丼」を食べるのである。気軽な一人旅だから、車中読書でもしながらのんびり行くことにする。妻や娘たちへのおみやげはもちろん、持ち帰りの「ソースかつ丼」である。これが今日のわが家の夕食になるだろう。
夜間定時制高校に勤務が代わって、就寝時間が11時を過ぎるようになった。夜に弱い私にとって、これはかなりつらいことである。今日の起床は5時だった。このあと旅の準備があるので、今日はじっくり日記を書いていられない。このくらいで、お茶を濁しておこう。
60年前の昭和20年4月7日、戦艦大和は九州沖で米軍機の猛襲を受け沈没した。全乗組員3332名中、3063名が戦死したという。奇跡的に生き残った吉田満さんが、戦後「戦艦大和ノ最期」を書いた。
昨日の朝日新聞「天声人語」は「世界の列強と競って建造した軍艦の象徴だった巨艦の最期は、軍国・日本の敗北をも象徴していた」と書いている。そして、「戦艦大和ノ最後」の文章を引用しながら、断末魔の様子を描いている。
<時ニ『大和』ノ傾斜、九十度ニナンナントス……アナヤ覆ラントシテ赤腹ヲアラハシ……火ノ巨柱ヲ暗天マ深ク突キ上ゲ……全艦ノ細片コトゴトク舞ヒ散ル」。漂流中、一本の縄ばしごをつかみ助け上げられた。
漂流者で満杯の救助艇では、こんなこともあったという。「船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク……ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバツサ、……敢ヘナクノケゾツテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン>
早速手元にある吉田満さんの「戦艦大和」」(角川文庫)を取り出してきて読んでみた。そこには作者自身の体験として、こんなことも書かれていた。
<その手首に二、三度綱を巻き付け、「アゲーエ」と甲板に叫ぶ。甲板より覗く顔に手を挙げて合図。綱静かに引き上げられる。一本の手首、辛うじて一人の体重を支う。その足首に武者振り付く者。・・・
一本の手首は、二人の体重を支うるに堪えず、どうと外れ、折り重なって墜つ。すべて空し。さらば一人の手首を引き上げ、その下に構えて、纏つく腕をなぐり返さざるべからず。彼らの生きんとする力、貴きか、醜きか、思い惑うな。
兵一人にても多く救うべきなり。責務なり。生きんとする彼らは必死、生かさんとするわれらも必死、避け難き死闘>
まさに芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思わせる描写である。吉田さんは、「出撃気配の濃密化とともに、青年士官に瀰漫せる煩悶、苦悩は、夥しき論争を惹起せずんばやまず」と書いて、出撃前の戦艦大和の艦内で交わされた兵士達の議論も記録している。これも引用しておこう。
「国のため、君のために死ぬ、それでいいじゃないか。それ以上なにが必要なのだ。もって瞑すべきじゃないか」
「君国のために散る、それは分かる。だが一体それは、どういうことにつながっているのだ。俺の死、俺の生命、また日本全体の敗北、それを更に一般的な、普遍的な、何か価値というようなものに結びつけたいのだ。これらいっさいのことは、一体何のためにあるのだ」
「それは理屈だ。無用な、むしろ有害な屁理屈だ。貴様は特攻隊の菊水のマークを胸に付けて、天皇陛下万歳と死ねて、それで嬉しくはないのか」
「それだけじゃ嫌だ。もっと、何かが必要なのだ」
「よし、そういう腐った根性を叩きなおしてやる」
こうして論戦は加熱し、ついには「鉄拳の雨、乱闘の修羅場」となって終止符が打たれた。しかしそうしたなかで、白淵大尉の下した次の結論には、敢えてだれも異論を唱えるものがなかったという。
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」
吉田さんは、「一兵士の責任」と題した文章の中で、次のように書いている。「戦争責任」を論じる上で、これはとても重要な点ではないかと思う。
<召集令状をつきつけられる局面までくれば、すでに尋常の対抗手段はない、そこへくるまでに、おそくとも戦争への準備過程においてこれを阻止するのでなければ、組織的な抵抗は不可能となる。目に見えない「戦争への傾斜」の大勢をどうして防ぐのかにすべてがかかっている。・・・
戦争協力の責任は、直接の戦闘行為あるいは、軍隊生活への忠実さだけに限定されるのではなく、さらに広汎に、われわれがみずからをそのような局面までおいつめていったすべての行動、あらゆる段階における不作為、怠慢と怯懦とを含むはずなのだ。
私の場合でいえば、戦争か平和かという無数の可能性がつみ重ねられながら一歩一歩深みに落ちていった過程を通じて、まず何よりも政治への恐るべき無関心に毒されていたことを指摘しなければならない。また国家と国民のあり方について、自分の問題として具体的に取り組んだことがほとんどなかったといっていいだろう。・・・
戦争から得た利益の度合いや、これに関与した大きさによって、戦争責任の具体的な追訴を論ずることも必要だが、それよりも前に、このような基本的な戦争協力責任、戦争否定への不作為の責任を改めて確認することが、敗戦によって国民が真に目覚めるということであるにちがいない。
またこのような、根源的な戦争責任を認めればこそ、さらに開戦謀議や、残虐行為などの責任問題を現実的に処理することが、はじめて本来の意味をもつことになる。それらのいわば個別的な責任を、正義や平和の名において裁くための根拠が、ようやく国民の間に用意されるといっていいだろう>
吉田さんは先の戦争は「虚妄」だったと書く。そして、「平和な自由な時代に、自分自身の道を歩くことを許されたならば、どれほどの豊かな実りを結んだかと惜しまれるような資質が、最もふさわしくない虚妄のために散り果ててしまったむなしさ」を説く。
戦争が「人を殺す」やりかたは千差万別だが、いずれの場合でも、悲惨なことにかわりはない。こうした悲惨な戦争を二度と起こさせないように、私たちは日常的に努力を継続していかなければならない。自由と平和はこうした地道な努力の上に維持される。自由と平和を守ること、そしてこれを育てて、次の世代に受け渡すこと、これが私たちの世代の義務であり責任である。
人を殺すという体験は、なかなか味わえるものではない。社会的に許されない犯罪行為だし、良心の上からもとてもできることではない。しかし、戦争の場合は別である。兵士は戦場で人を殺さなければならない。
たとえ戦場でも、ふつうの人間にとって人を殺すということは大変なことである。戦争体験者の手記をいろいろ読んだが、自分の殺人体験を赤裸々に書いたものはほとんどない。多くの体験者は、書くのを避けている。
そうした中で、井上俊夫さんの「初めて人を殺す」(岩波現代文庫)は異色である。井上さんは自分の殺人体験を包み隠さず、それと真摯に向かい合い、その体験を掘り下げることで、戦争というものの残酷な本質に迫っている。
井上さんが、初めて人を殺したのは、1943年(昭和18年)3月下旬、中国紅西省にある田舎町の外れの宿舎で初年兵として訓練を受けていたときだった。就寝中に非常召集がかかり、井上さんたち初年兵は村外れまで行軍させられた。
そして東の空が白む頃、楠木しばりつけられた中国人を銃剣で刺し殺す訓練をさせられることになった。そのときの上官の言葉を、井上さんはこう書いている。
「今からお前たちの度胸をつけ、実践に役立つ兵士にするために、実物の人間を使った銃剣術の刺突訓練を実施する。相手はわが軍に敵対した憎っくき中国兵だ。なんらためらう必要はない。日頃、銃剣術で習った通りに動作すればよろしい」
もと中国兵のリョウは井上さんたちの兵舎の食事係として働いていた男だった。「ワタシ、コロス、イケナイ! ワタシ、コロス、イケナイ!」と絶叫を繰り返すので目隠しさせられた。そしていよいよ刺突訓練が始まった。そのときの様子を、井上さんはこんなふうに書いている。
<(えらいことになったぞ。誰もこの場から逃げることは出来ないんだ。俺も人殺しをやらねばならないのだ。しかし、これも俺が男らしい男になるための、試験に違いない。こんな経験を積む機会はめったにあるもんじゃない)
私はこのように自分に言い聞かして、順番が回ってきた時、銃剣をもって型どおりの突進をした。しかし、五体を蜂の巣のように突かれて朱に染まった軍服から内蔵をはみ出していたリュウは、既に死んでしまっているのか、それともまだ息があったのか。無我夢中で銃剣を突き立てた私には、なにか豆腐のようなやわらかい物を突いたという感触しか残らなかった。・・・・・
「おい、みんな、チャンコロを殺すなんて、ほんまに簡単なことやないか。これから俺は何人でも殺したるぜ」 と武村二等兵が大きな声で、誰にともなく話しかけてきた。しかし、誰もこの男の相手になる者はいなかった>
井上さんは日本兵の多くは善良な市民たちだったという。それではなぜ、その善良な市民達が残虐行為をしなのか。それはその背後に、「大日本帝国」の後ろ盾があったからだという。
<兵士が所属する帝国が、敵国とみなした国に侵略し、その国の軍隊と戦い、敵兵を殲滅せよと命じているからだ。時と場合によっては、敵国の非戦闘員を殺傷しても構わないとしていたからだ。
恐ろしいことだが、兵士は一度残虐行為がもたらす愉楽を覚えてしまうと、もう病みつきになり何度でもやりたくなってくるのだ。殺人ばかりではない、略奪然り、放火然り、強姦然りである>
善良な市民を獰猛な兵士に仕立て上げるには、オペラント条件付けの典型ともいえる日本軍隊の内務班教育が大いに力があったことも事実だろう。第二次大戦中の日本軍の発砲率はアメリカ軍兵士をかなり上回っていたのではないだろうか。アメリカ軍はこの日本式教育方を学び、ベトナム戦争では驚異的な発砲率を達成した。
しかし、そのためにアメリカ社会そのものが大きく変質したことも事実である。戦後、戦時中の教育のあり方を反省し、平和路線を歩んだ日本とは大きな違いである。その日本でも、再び戦前・戦中への回帰がみられる。
戦争体験者が世を去りつつあるなかで、井上さんたち戦争体験者の赤裸々な証言を、私たち戦後世代は注意深く読んで、その反戦の心を次の世代へと伝えていく必要がある。そうしないと、私たちはふたたび国の命令で「人殺し」をさせられることになるだろう。
| 2005年04月06日(水) |
反面教師としてのアメリカ |
いまや世界で唯一の超大国・覇権国家となったアメリカだが、その内情はどうだろうか。自由と民主主義を高く掲げ、「民主国家にするため」と称して、イラクに戦争をしかけたアメリカは、大統領の華麗な就任演説通りの立派な国なのだろうか。
ドストエフスキーは「秀でた人がどう処遇されているかではなく、犯罪人がどう取り扱われているかを見れば、その社会を判断することができる」といった。そこでアメリカの現実を知るために、犯罪に関する統計を見てみよう。
米司法省の推定によると、アメリカ人は平均して一人に一挺の銃があるという。そして、銃による殺人、事故、自殺などで命を失った人の数は毎年3万人を越えている。1995年の統計によると、3万5673人が凶弾に倒れている。
アメリカのキャンパスでは銃による殺人事件が跡を絶たない。コロラド州のコロンバイン・ハイスクールでは、2人の生徒が銃と手製の爆弾で13人の教師と学生を殺害し、25人に傷を負わせている。こうした事件がその後も毎年のように起きている。アメリカの青少年10万人につき毎年平均して15人が銃によって命を落としているが、この数字はその他の25の先進国における合計の15倍も多いのだという。
米司法省司法統計局が発表した数字によると、98年にアメリカで服役中、執行猶予中、および仮釈放中の成人犯罪者は592万人に達している。アメリカでは34人に一人の割合で犯罪者がいることになる。
各州あるいは連邦刑務所に服役中の囚人は、1985年末には74万4千人だったのが、98年には180万人、そして2000年にはついに200万人を越えた。人口10万人でみると、313人(85年)から668人(98年)へと、10年あまりで倍増している。ちなみに日本は一桁少なくて、約30人ほどである。全世界の犯罪者の1/4がアメリカにいるという。
カリフォルニア州の刑務所の服役者数は、1980年の2万3511人から2000年には16万2000人と、20年間で約7倍にはねあがっている。刑務所関連の州の予算は、1985年には7億2800万ドル(約800億円)だったものが、2000年には46憶ドル(約5060億円)と、15年間で6倍以上になっている。
犯罪を抑えるために政府が打ち出した対策は「厳罰主義」である。たとえば窃盗などの非暴力犯罪であっても、3回罪を重ねると、25年から終身の懲役刑が科される。いわゆる「三振ノックアウト法」である。
アメリカでは2000年の段階で38の州が、国連の議決に反して、少年への死刑を認めるようになっている。さらにこの年齢を11歳にまで引き下げる動きがあるという。しかし、こうした厳罰主義が充分な効果を上げているとはいえない。むしろ安易な死刑判決と無罪の人間に対する死刑執行を多発させ、深刻な人権蹂躙が生じている。
それでもアメリカでは犯罪を抑える手段として、あまり効果の期待されない「厳罰主義」に走るのではなく、貧富の格差の是正といった社会福祉政策を考えるべきだという声はあまりきかれない。
刑務所の運営や治安に費やされる予算は莫大なものになってきている。しかし同じお金を使うのなら、これを福祉や教育につかうべきではないか。アメリカ社会に必要なのは、そうした対症療法ではなく、もっと根本的な治療ではないのだろうか。 人権侵害の最たるものは殺人をはじめとする犯罪である。さらに、市民を縛る過酷で殺伐とした法が、人々の上に重苦しくのしかかっている。アメリカの犯罪統計から浮かび上がってくる実像は、ブッシュ大統領が自画自賛するほどすばらしい「自由の大地」ではないということだ。日本はこれを反面教師として学ぶべきだろう。
人間には3種類のタイプがある。善良でやさしい羊たちと、これを守る力強くタフな牧羊犬、そして羊を襲う冷酷な狼たち。この図式はいささか安易だが、多くの映画やドラマが採用し、世間の人々が暗黙に認めている人間観だといえるだろう。
この図式によると、私たち一般市民の大多数は善良な羊である。それでは、この善良な羊をいたぶり、ときには殺害することもいとわないサイコパス(狼)はどのくらいの割合で存在するのだろう。グロスマンは「人殺しの心理学」にこう書いている。
<アメリカ精神医学界(APA)の「精神障害の診断と統計の手引き」によると、国内の男子全員における「反社会的人格障害者」(社会病質者)の割合はおよそ3パーセントであるという。
本質的に権威に反抗する傾向が強いので、社会病質者は軍隊には向いていない。だが何世紀にもわたって、軍は戦時中、このような攻撃性の強い人々をかなり使いこなしてきた。
3パーセントの3分の2が軍の規律を受け入れられたとすれば、数字の上では兵士の2パーセントが、APAの定義にいう「みずからの行為が他者に及ぼす影響に自責の念をもたない」人々だということになる>
こうしたサイコパスも軍隊では目を見張るはたらきができる。それは軍隊の本質が破壊であり、殺人だからだ。戦闘能力にたけた彼等にとって戦場はもともと願ってもない楽園なわけである。
善良な羊たちにとって、戦場は地獄である。しかし、羊たちもそこでは銃を握り、戦わなければならない。しかし、彼等の多くは精神的ダメージを受けて、発砲することもできず、役に立たない兵士でしかなかった。
第二次大戦に従軍した兵士達の発砲率はわずか十数パーセントだったという研究がある。しかし、その後、兵士たちの戦闘能力をたかめる訓練が行われ、ベトナム戦争ではこれが9割を越えたという。
<第二次大戦では、個々の兵士の発砲率は15〜20パーセントだった。それがベトナムでは、脱感作、条件づけ、そして訓練の体系的プロセスによって、つねに95パーセントもの効率を維持するまでになったのである。これとよく似た脱感作、条件づけ、代理学習というプロセスが、今アメリカに疫病を解き放とうとしている。暴力というウイルス性の疫病を。ベトナムでの発砲率を4倍以上に高めるのに使われたのと同じ道具が、いま一般社会で広く使われているのだ>
<映画「時計じかけのオレンジ」では、薬物の投与を通じてそのような条件づけが行われ、暴力への嫌悪感が植え付けられていた。つまり、暴力的な映画を見せながら薬物を投与して、吐き気と暴力行為を関連づけたわけである。ナルート中佐による現実の訓練では、吐き気を起こす薬は用いられず、逆に自然な嫌悪感を克服した者には報酬が与えられ、それによってスタンリー・キュブリックの映画とは正反対の効果を上げていたのである>
<私たちの社会は、世代をとわず全アメリカ人に殺人能力を与える強力な処方箋を手にしているのだ。映画製作者、監督、俳優は、想像を絶するほど暴力的で陰惨な映画をつくって莫大な収入を得ている。罪のない男女や子供たちが刺され、撃たれ、虐待され、拷問されるさまが微に入り細をうがって描写される映画。そんな暴力的であると同時に娯楽でもある映画を、青年期にある観客が、キャンデーだのソフトドリンクだのを口にしながら、仲間たちといっしょに、あるいは恋人と身を寄せ合って観ている。ここで理解しなければならないのは、若者たちはいま観ている映像と、いま得ている報酬との関連づけを学習しているということだ>
こうして善良でやさしい羊たちも、しだいに戦闘能力のある狼集団にかわっていく。現代の文明は人工的にサイコパスの集団を大量に創り出そうとしているわけだ。現代社会はその巨大な実験室(スキナーの箱)になったかのようである。
軍隊での殺人教育の理論である「オペラント条件付け」がそのまま一般社会にもちこまれたとき、社会そのものが軍隊化し暴力化することは避けられない。アメリカの受刑者数は、1975年には20万人そこそこだったのが、92年には80万人をこえ、20年間で4倍にもなっている。しかもその数字はその後も上がり続けている。
グロスマンはこの統計を引用したあと、「人を殺すために兵士を送り出す国家は、一見すると本国とは無縁に思える遠い国での行為にたいし、最終的にはどんな代償を支払わねばならないか理解せねばならない」と警告している。
| 2005年04月04日(月) |
羊たちを狼にする方法 |
この世の中には1〜2パーセントほどのサイコパスが存在する。彼等は平気で人を殺すことができる。ときには人をいためつけ、殺戮することに快楽を感じる。そして戦争はこういう人間をたちまち英雄にする。
しかし人口の数パーセントでは軍隊を作れない。そこで、その他大勢の善良な羊たちを、平気で人を殺し、ときには殺人に快感さえ覚えて果敢に戦う兵士へと作りかえなければならない。羊を狼に仕立てるシステムが成功するとどういうことになるか。グロスマンの「人殺しの心理学」から引用してみよう。
<銃を所持し、発砲してきた多くの男たち、それもフルオートの銃を好む男たちは、胸のうちでは認めているに違いない。銃弾の奔流を爆発的に射出するときの力と快楽は、奔流のように勢いよく射精するときの感情に通じるものがあると。
私が面接したある古参兵は、ベトナムで六期を務めたあと、ついに「これ以上ここにいちゃだめだと思った」と語っている。このままでは破滅すると思ったというのである。「人を殺すのはセックスに似ている。中毒になるんだ。セックスとおなじで、へたをすると溺れる」>
ところで、そうした殺人プログラムは現実に存在するのだろうか。そうした軍隊が存在し、世界中で成果を上げているのだから、存在することはまちがいない。それではそれは、いかなるプログラムなのか。ふたたび「人殺しの心理学」から引いてみよう。
<私が面接調査を行ったとき、発砲率を15パーセントから90パーセントへ高める訓練法のことをプログラミングとか、条件付けと呼ぶ帰還兵が何人かいた。それはどうやら、古典的なオペラント条件づけの一種のことらしかった。・・・・
現代の訓練法は、本質的にはB・F・スキナーのオペラント条件づけである。これによって、兵士に発砲という行動様式を植え付けるのだ。訓練というより、実際の戦闘状況のシュミレーションに近い。・・・
伝統的な射撃訓練が戦闘シュミレーターに変容したのである。・・・この強力な条件づけプロセスにより、第二次大戦以降のアメリカ兵の発砲率は劇的に上昇している。このことは、それぞれ別個に行われた複数の研究によって裏付けられている>
人口比で数パーセントを占める「生まれながらの殺人者」は別として、ごくふつうの市民はこうした近代的な殺人プログラムで訓練されてはじめて人が殺せるようになる。そして単に殺せるようになるだけではない。スキナーによって開発された「アメとむち」の条件付けを利用すれば、殺人を快楽とさえ感じるようになるわけだ。
それは「敵を抽象的にとらえ、非人格化してしまうプロセス」である。日本軍もかっては中国人を「まるた」呼び、銃剣で突き刺す訓練を新兵達に強要した。こうした訓練を経て、羊たちもまた、狼の一族に生まれ変わるわけだ。
そしてこうした訓練は、集団で行われる。殺人訓練の集団化は罪悪感の希薄化をもたらすだけではない。行動をともにする中で、集団としての一体感を与えられ、これが高揚感を生みだし、戦闘行為をより勇敢で容赦なきものにする。
<人間を殺すのは途方もなくむずかしい。しかし、殺さなければ仲間が失望させると感じれば(罪悪感をみんなで分かち合うことになり、個人の責任は分散される)、殺人はずっと容易になる。集団の人数が多いほど、集団への心理的な結びつきが強いほど、集団が密に集まっているほど、一般に殺人は容易になってゆくのである>
戦時において、愛国心が宣揚されるのも、集団への結びつきを蜜にして、殺人を容易にするためだろう。さらに「正義」という名前で殺人の合理化がおこなわれる。こうして羊たちはしだいに獰猛な狼の群へと姿を変えてゆく。
(デーヴ・グロスマンは米陸軍に23年間奉職し、中佐としてレンジャー部隊を指揮したあと、陸軍士官学校の軍事社会学教授などを務めた軍人教育の専門家。「戦争における殺人の心理学」は陸軍士官学校や空軍士官学校の教科書として使用されているという。グロスマンはこれを書くために、戦争体験を持つ何百人もの軍人に面接をしている)
ふつうの人間は人間を殺すことはできない。恐怖心がそうした行動をとらせないためだ。しかし、例外もある。人口比で数パーセントを占めると思われる反社会性人格障害(APD)、いわゆる精神病質者(サイコパス)の人々は、人殺しを恐れず、平然と他人を痛めつけ、これを死においやることができる。
コロンビア大学ヘア教授の著書「診断名サイコパス」によると、サイコパスには、全般的な共感能力が欠如しているという。彼らは家族であろうと他人であろうと、その人たちの権利や苦しみに無頓着で、配偶者や子供たちとの結びつきを維持していても、それは家族を自分の所有物と見なしているからにすぎない。
それではこうしたサイコパスはどうして作られるのか。これは遺伝的なものと環境によるものがあるという。その割合はおよそ半々と考えられている。つまり、生まれながらのサイコパスが1〜2パーセントは存在するわけだ。
第二次大戦の戦闘を分析した研究によると、戦闘が6日間続いた場合、生き残った兵士の98パーセントは何らかの精神的被害があらわれたという。しかし、2パーセントの兵士にはこうした被害は見られなかった。そしてこうした2パーセントの兵士に共通するのは「攻撃的社会病質」だという。デーヴ・グロスマンの「人殺しの心理学」から引用しよう。
<戦争とは人間が参加しうる最もトラウマ的な行為のひとつではないか、と思わずにはいられない。ある程度の期間それに参加すると、98パーセントもの人間が精神に変調をきたす環境、それが戦争なのだ。そして狂気に追い込まれない2パーセントの人間は、戦場に来る前にすでに正常ではない、すなわち生まれついての攻撃的社会病質者(ソシオパス)らしいということである>
どうして遺伝的なソシオパスが存在するのか。それは種族保存の立場からいうと、そうしたソシオパスがいたほうが生存に有利だからだ。ソシオパスはどんな場合も冷静である。ふつうの人がパニックに陥る場面でも冷静な判断を下すことができる。
ソシオパスの人々が人殺しや犯罪者になるわけではない。自分の感情を殺し、その職分を立派に果たす人もいる。こうした人々は兵士としてばかりではなく人命を救う外科医としても優秀だろうし、ときには科学者としても、企業の経営者としても一流になる可能性をもっている。
さらにソシオパスは悪質なサイコパスに対する有力な対抗勢力となることもできる。ふたたび「人殺しの心理学」から引用しよう。
<面接調査に応じたある復員軍人はこう語ってくれた。彼の考えでは、世界の大半は羊なのだ。優しくておとなしくて親切で、真の意味で攻撃的になることはできない。だがここに別の種類の人間がいて、こちらは犬である。忠実でいつも油断がなく、環境が求めれば充分攻撃的にもなれる。
だがこのモデルにならって言えば、この広い世界には狼(社会病質者)や野犬の群(ギャングや攻撃的な軍隊)も存在するわけで、牧羊犬(兵士や警察)は環境的にも生物的にもこれらの野獣に立ち向かう傾向を与えられた者だ、ということになる。・・・・
社会病質者の存在を私たちが知っているのは、その症状が病気すなわち精神障害であると定義されているからだ。だが心理学者は、もうひとつの種類、つまり牧羊犬にたとえられる人間の種類を認識していない。なぜなら、その人格型が病理でも病気でもないからだ。それどころか、かれらは貴重にして有用な社会の一員であり、その特徴が表に現れるのは戦争中か、警察活動の場にかぎられる。・・・
牧羊犬は羊の群に牙をむくことはない。それと同じように、みずからの攻撃性を濫用したり誤った方向に向けることはないが、かれらの多くはひそかに正義の戦いにあこがれている。自分の能力を正当かつ合法的に発揮する機会として、狼の出現を待ち望んでいるのだ>
私たちはテレビや映画で牧羊犬タイプの軍人や捜査官、弁護士にであうだろう。私たちがヒーローとして喝采するのはこうしたタイプのソシオパスである。ドラマの世界では、羊は狼に対抗できないが、この悪に敢然と挑戦し、われわれ一般市民の生活を守ってくれるのは、こうした正義のスーパーマンだというわけだ。
ソシオパスは戦争時には兵士として、あるいは指揮官として、大いにその能力を発揮する。偉大な社会改革者や革命家として名前を歴史に残すこともある。しかし、「牧羊犬は羊の群に牙をむくことはない」という命題はほんとうだろうか。
平和時にはソシオパスはしばしば厄介な存在になる。戦争の英雄がそのまま平和時の国家の指導者になったとき、その攻撃性が仇になる場合がある。スターリンや毛沢東はこうして何千万という同胞の生命を奪った。だから、ソシオパスやサイコパスをかかえるということはこうしたリスクをもつということである。
狼達(サイコパス)の多くは牧羊犬(ソシオパス)の仮面をかぶっている。牧羊犬だと思っていたのが、狼に変身する悲劇を、私たちは歴史の教科書の中にいくらでも発見できる。
| 2005年04月02日(土) |
アメとむちによる支配 |
過ちを許す寛容さが大切だと書いたが、これには反論がある。失敗したとき、親や教師はこれを容認するのではなく、むしろ譴責しなければならない。そうしないと、子供は失敗したということにさえ気付かない。寛容さがむしろ子供をダメにしているというわけだ。
親や教師の与える「アメとむち」によって子供は成功と失敗を知り、善悪をさえ学ぶ。これはスキナーのオペラント条件付けの考え方で、今日のオーソドックスな教育理論である。この理論は教育者の被教育者に対する介入を積極的に支持する。
教育とは基本的にアメとむちによる「条件付け」だという考え方は、「人間の心は生まれながらにして白紙だ」というジョン・ロックの経験主義的教育論としばしば混同される。しかし、「人間の自由」を積極的に求めたロックが、こうした条件付け理論を歓迎するとは思えない。
それでは「条件付け」以外に、どのような教育理論が可能なのだろうか。これを批判するだけではなく、これに代わるもっと有効で人間性の本質に根ざした教育理論の構築は可能なのだろうか。
私はもちろん可能であると答える。それは「アメとむち」のかわりに、「内発的な欲求」に訴える方法である。犬や猫を教育するには「アメとむち」が有効だろうが、人間の子供までこれによって調教しようとするのは間違っている。なぜなら人間はだれでも「向上心」を持っているからだ。「共感する心」や「愛情」というデリケートな心も持っている。
こうした内発的な精神的欲求を育てていくことが大切であり、これは「アメとむち」からは生まれてこない。むしろ「アメとむち」による方法はこの内発的な精神を損ない、これを別のもので代用させようとする。その代用品とは「世間的成功」であり、つまるところ「金銭的な報酬」である。
今日の文明社会では、「アメとむち」によって教育された人がその大半を占めている。そして彼等はすべてのことを「収入の多寡」で判断するように条件付けられている。そしてこのことが、社会を共生的なものから競争的なものに変え、まっとうな人間にとって耐え難い場所にしている。
アメとむちによる方法は、「恐怖と不安」に根ざした方法である。こうした原始的な欲望を基盤にして、しかもこれを強化する。こうした方法で教育された人間に、精神的な成長は望めない。
「アメとむち」による条件付けは、人間性を育てる教育ではなく、人間を破壊する教育である。文明という名前のもとに、私たちはこうした方法で社会を弱肉強食の横行する野蛮な場所にしている。
人間は過ちを犯すことで成長する。人生は試行錯誤の連続だ。だから失敗を恐れていては、大きく成長することはできない。「七転び八起き」というように、七回失敗しても八回目に成功すればよい。
とはいえ、なるべく失敗したくないのが人情である。とくに親や教師は子供が失敗するのを見るのはつらい。だから自分の失敗体験を振り返り、自分と同じ轍を踏まないように、いろいろとアドバイスをしたくなる。
しかし、これも行きすぎると問題である。何でも先回りして、子供が失敗しないようにお膳立てしていると、結局子供は自分の失敗体験を持つことができなくなる。そして失敗から学ぶというもっとも貴重な人生体験を奪われることになるからだ。
だから、英明な親や教師は、先回りをして子供が失敗しないように導いたりはしない。むしろ子供がつまずき、倒れるのを容認する。安易に手をさしのべたりしないで、子供が泣きながら立ち上がるのを待つ。
そうすることで子供は失敗を恐れないようになる。失敗しても自分で立ち上がる自信を持つからだ。転んでも大丈夫、また立ち上がって歩けばよい。子供にその自信を与え、生きる力を与えるために、あえて手を貸さずに見守っているのも愛情である。
教育的な社会はこうした失敗に対する寛容さをもっている。こうした寛容さは一見効率的でないように見えるが、内実のあるしぶとい人間を育てる上で、長い目で見れば充分効率的であり、合理的である。こうした社会で育った人間はしっかりした自分を持つことができる。
大器晩成という言葉があるが、これもこうした教育というものの本質が分かれば理解されるだろう。効率的なものが非効率であり、非効率と思われるものが効率的であるという逆説がここに成り立つ。
知識偏重の詰め込み教育が効率的に見えるのもはじめのうちだけである。試行錯誤し、失敗を積み重ねるゆとりがなければ、人間は本当の意味で成長することはできない。そしてこうしたゆとりのなかから、本物の向学心が生まれ、生涯におよぶ学びの心が育つ。
私たち大人が失敗を人生の必要なステップと考え、過ちから学ぶゆとりを持てば、子供もまたのびやかに大きく育つだろう。「ゆとり教育」の大切なゆえんである。
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