橋本裕の日記
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2005年09月30日(金) モアルボアルへの旅(2)

 モアルボアルで降りると、私は青年が選んでくれたトライシクルに乗り込んだ。運転手はみるからに人のよさそうな中年男で、そのおだやかな笑顔が、幼なじみのM君に似ていたので、よけいに安心した。

「6時までにセブに帰らなければならないので、時間がありません。ビーチで海を眺め、食事をしたら戻りたいのです。いくらですか」
「400ペソです。あなたをビーチに案内し、レストランで食事をしていただき、一休みしたらまたここにお連れします。どうですか」
「わかりました。それでお願いします」

 400ペソ(800円)は少し高いと思ったが、値段の交渉をする気になれなかった。それよりも彼の英語がきれいに聞き取れたので、安堵感が先に立った。彼は給油所に向かい、ガソリンを補給した後、海岸へと続く一本道を走りだした。

「ゆっくりできないのですか」
「今夜6時に友人と約束があるのです」
「またいらしてくだだい。私の名前はビリーです」
「よろしく、ビリー。私はシンです」

 トライシクルというのはバイクの横にサイドカーを付けて走る簡易タクシーである。スピードはあまりでないが、そのかわり窓越しに運転手とのんびり会話ができる。ビリーは私が日本人だとすぐにわかったらしく、知人の日本人の名前を何人かあげた。モアルバウルには日本人が何人も住んでいるという。

 ときどきトライサイクルとすれ違う。そのたびにビリーは親しげに声を掛けていた。このあたりの顔役という感じである。両側に椰子の木立がそびえ、所々に風情のある民家が点在していた。快い気分で異国の旅情を楽しんでいると、15分ほど走ったところで、突然、ビリーのバイクに異変が起きた。

 前のタイヤが突然ガタガタいいだし、回転軸からハブがはすれてみごとに変形してしまったのである。ビリーは車を止めて、何だか困ったように現地語でぶつぶつ言っている。私が心配そうに覗き込むと、笑顔に戻って、「心配するな」と言った。

 ビリーは彼のトライサイクルを道端に寄せると、通りがかったトライサイクルを捕まえて、何やら交渉し始めた。それから、私にそれに乗るように促し、自分はそのバイクの後部座席に乗った。こうして私たち3人はビーチに向かった。

 ビーチには茶屋がならんでいた。そこに運転手を残して、私とビリーは波打ち際に歩いた。白い砂浜に静かに波が寄せていた。若い母親と少女が水浴びをしていたので、「写真を取らせてください」と声を掛けてから、カメラを向けた。

 ビリーが写真を撮りましょうかというので、私も一緒に撮って貰った。セブへ来て動かなくなったデジタルカメラが、この日の朝、電池を入れ替えると突然動き出した。壊れたと思ったのは私の勘違いで、電池切れだったのである。カメラが動かなくなって最初に電池を入れ替えたとき、あやまって使い古しの電池と交換したらしい。

 とにかく旅行のために1万8千円も出して買った新品のデジタルカメラである。間が抜けた話だが、最終日になってようやく役に立ったわけだ。渚を歩きながら、私は白浜とその向こうに広がる青い海を何枚か撮った。

 海岸にはほとんど人気がない。日差しが白い砂浜にはじけてまぶしい。しかし、木立の蔭にはいると、潮風が快かった。少し離れた木立の中にバンガローが点在している。12月から1月にかけての観光シーズンには日本や韓国からかなりの客が来るらしい。このバンガローは安く泊まれる。ここにとまって、ダイビングなどをたのしむのだという。

「腹が減った」というと、「近くにレストランがあります」とビリーがいう。浜辺を10分ほど歩くと、それらしい建物が見えてきた。そのレストランはホテルやバンガローを含めた施設のの一部で、上院議員がオーナーで、大統領も来たことがあるのだという。

 あいにく、午後からここを会場にして結婚式の披露宴があるので、準備のためレストランは営業していなかった。しかし、ビリーが交渉すると、海の見えるテラスの片隅にテーブルをセットしてくれた。メニューを見ながら、「どれがおすすめか」ときくと、「ステーキがうまい」というので、それを頼んだ。スープと野菜、ドリンク付きで180ペソ(360円)ほどである。ビリーにも同じものをおごることにした。

 ビリーは名前は西洋風だが、顔立ちは日本人と変わらない。私の幼なじみとそっくりである。二人で向かい合って食事をしていると、何だかその幼なじみと会食しているような錯覚がした。

 ビリーは沖合に浮かぶのがペスカドール島だといい、その近くまで舟で行って潜ると魚がたくさんいて面白いと言った。さらにその向こうに見えるのがネグロス島らしい。何とかという火山があるという。

「きれいな海だ。いつもこんなにおだやかなのか」
「そうでもない。しかし、今頃の季節はおだやかだ。時間があればダイビングが楽しめるのに残念だ」
「サメはでないのか」
「この辺は大丈夫だ」

 ビリーによると、今日ここで結婚するのは日本人男性とフイリピン女性のカップルだという。フイリピン女性と結婚して棲みつく日本人もかなりいるらしい。海を眺めながらステーキを食べていると大きな犬がやってきた。私は食べのこしのステーキを犬にやった。

「またゆっくり来てくれ。ホテルは高いが、バンガローは安い。オーナーは僕の友達だから口を利くよ」
「またくる。そのときはビリーをあてにするよ」
「12月ごろ手紙を出す。ここにシンの住所をかいてくれないか」

 食事を済まして、また白浜を歩いた。茶屋にいた運転手もやってきて、彼の車でバス停まで戻った。ちなみにタクシーでセブまでいくらだと聞いたら1500ペソだという。セブのタクシーの運転手の提示した額とおなじだった。ビリーに400ペソ渡し、もう一人の運転手に30ペソ渡して、「これでビールでも飲んでくれ」と言った。

 バス乗り場でビリーと別れた。隣りに坐っている少年に、「君もバスを待っているのか」と聞いたら、「いいえ」と答えた。「英語はできるの?」と聞くと「学校でならっています」と割合癖のない発音で答えた。その少年と話していると、ビリーがやってきて、「バスが来ました」と知らせてくれた。バスに乗り込むと、ビリーと少年に手をふった。

 帰りのバスに乗ったのが2時半頃だった。それから3時間ほどバスに揺られ、セブのバスターミナルに帰ってきた。タクシーを捕まえてディプロマットホテルに着いたのが5時55分である。6時から約束していた韓国人学生たちとの会食会に間に合った。

(注)セブ島で書いた日記もふくめ、これまで日記に連載したものを、「セブ島留学体験記」としてまとめました。
 http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/cebu.htm



2005年09月29日(木) モアルボアルへの旅(1)

 セブ島西海岸のリゾート地モアルボアルへはセブ市のサウス・バスセンターからバスで2時間半だと観光案内に書いてある。さっそく地図でサウス・バスセンターを探したが見当たらない。ままよと、CPILS(学校)からタクシーを拾った。

 タクシーの運転手はスポーツマンタイプの感じの良い青年だった。ちなみに「モアルボアルまではいくら?」と訊いてみると、「1500ペソ(3000円)です。行きましょうか」いう。「いや、そんなにお金を持っていません。私は貧乏な学生です」と答えると、運転手は残念そうな顔をして笑った。バスセンターまでは65ペソだった。70ペソを払い、「keep change」と言ってタクシーを降りた。

 バスターミナルへきて途方に暮れた。バスの発着所が無数にあり、とにかく雑然としていてわけがわからない。ひとめぐりしてみたが、案内所も乗り場案内の掲示も見当たらない。それでも机に向かっている職員らしい人物を見つけて「Excuse me」と声を掛けてみた。

 モアルボアル行きのバスに乗りたいと告げていると、近くにいた男がすかさずよってきて、「私が案内しましょう」という。目つきがあまりよくないので心配になったが、机の前の男が「Follow him」というので、ついていった。

 その男に教えられたバスに乗り込んだ。乗り込むとき5ペソ硬貨を渡すと男は嬉しそうに笑った。日本では走っていそうもない大型のおんぼろバスである。すでに乗客でいっぱいだった。前の方にひとつだけ席が空いているのを見つけて、そこに坐った。

 となりの青年に「このバスはモアルボアル」に行きますかと確かめると、「ええ、行きます」ときれいな英語で答えてくれた。私はほっとして、次々と質問した。

「モアルボアルは終着点ですか」
「そうではありません。その先にもう一つあります」
「モアルボアルまでどのくらいかかりますか」
「約3時間です」
「あなたはどこで降りるのですか」
「バリリです」
「そこはモアルボアルの手前ですか」
「そうです。バリリの二つ先がモアルボアルです」

 青年はパソコンを抱えていた。「ビジネスですか」と訊くと、「ええ、ビジネスです」と言って白い歯を出して笑った。それからお互いに自己紹介をし、個人的な会話が続いた。青年は結婚していて息子が一人いること、ソングという名前だと言うので、私も「シンです」と言うと、親しげに握手を求めてきた。ソングは32歳だという。

 私はセブに来て、日本人以外に少なくても50人と英語で会話することを目標にしていた。すでに私は40人近くのフイリピン人や韓国人の顔が浮かんだ。この旅でできれば10人ほどのフイリピン人と英語で話してみたいと思っていた。話好きのソングと隣り合わせになれたことはうれしかった。

 バスがセブ市内を抜けるのに1時間ほどかかった。土曜日だというのに大変な渋滞である。ジプニーがたくさん走っているので、バスはその間を縫うように走る。そしてバス自身も停留所で急停車する。明け離れた窓から容赦なくなま暖かい排気ガスが流れ込んできて、息苦しい。

 途中で車掌が切符を売りに来た。「モアルボアルまでいくらですか」ときくと、「74ペソです」という。タクシーの1500ペソの20分の1である。この安さなら文句は言えない。100ペソを渡すと切符をくれたが、おつりをくれそうな気配はなかった。チップと思えばよいと思ったが、ずいぶんあとになってお釣りを持ってきた。

 セブ市を抜けると、三車線あった道路は二車線になり、交通量はぐっと減った。排気ガスのかわりに、新鮮な田舎の空気が吹き込むようになり、暑さも退散して心持ちがよくなった。くつろいだ気分になり、車外の風景やバスの内部を観察するゆとりもできた。隣の青年との会話も弾んだ。

 バスに乗って2時間半を過ぎた頃、バスは少し賑やかな町に到着した。そこがバリイの町らしく、青年が立ち上がり、「Thank you, shin 」と別れの握手を求めてきた。私も「Thank you 」と握手を返したが、相手の名前までは出てこなかった。

 そこでバスは10分ほど休憩してから走り出した。相変わらずバスは満席に近いこみようである。こんど私の隣りに坐ったのも青年だった。「学生ですか」と訊くと、「いえ、高校を卒業して、いまはセブで働いています」という。23歳だと言うことだった。

「どこまで行かれるのですか」と訊くと、「モアルボアルまでです」という。これで私はすっかり安心した。「私もそうです」というと、「それでは一緒におりましょう」と言ってくれた。あと50分ほどでモアルボアルだという。

 青年はセブ島南部のアルコイというところの出身だという。そこに実家があり、ときどき帰っているが、今日はモアルボアルにいる恋人に会いに来たのだという。「恋人を愛しているのか」ときくと、「ええ、もちろん」と少しはにかんだような笑顔を見せた。この青年の英語もほとんどなまりがないので聞き取りやすかった。

「What make you go to Moalboal? 」と訊かれたので、「sightseeing」と答えた。
「ホテルのとまるのですか」
「いえ、日帰りです。ビーチまでトライシクルで30分ほどだと聞きましたが?」
「ええそうです。バスを降りるとたくさん待ちかまえていますよ。私が選んであげます」
「それはありがたい」

 バスの窓からときどき青い海が見え、沿線の粗末な造りの家々からは田舎の人々の暮らしが想像できた。子供も大人も裸に近い姿で家の前や道端の木陰に腰を下ろしてのんびりしている。休日のせいばかりでもないのだろう。そこにはセブ市の喧噪とは違った別のゆったりとした時間が流れていた。やがて、バスはモアルボアルに着いた。


2005年09月28日(水) 悪徳ドライバー

 セブのタクシーには気を付けなさい、という忠告を何度か訊いた。とくに女性が一人で夜遅く乗るときはよほど注意しなければならない。私がこのことを思い知らされたのは、ゆみの体験談を聞いたときだった。

 学校からホテルへ帰るときは、スクールバスが出ている。私はいつもこれを利用したが、夜の7時を過ぎると運行間隔がひろがる。ゆみは夕食後フィットネスクラブで運動していたので、私よりも帰りがおそくなる。

 その夜、ゆみは宿題を抱えていたので、スクールバスを利用せず、学校からホテルまでタクシーを使ったのだという。ところがなかなかホテルにつかない。メーターをみるとすでに90ペソを超えている。

 ドライバーは比較的若いフィリピン男性で、しきりに英語でゆみに話しかけてくる。最初はゆみも相手をしていた。自分が日本人であることや、英語の勉強をしにきていることなど、むしろ運転手の友好的な雰囲気にほっとしていた。しかし、そのうちに会話の内容が変わってきた。

「君はきれいだね。とても魅力的だよ。セブにいるあいだでいいから僕とつき合ってくれないかな」
「いつも何時にホテルをでるの。僕が毎日迎えに行くよ。これからは僕が送り迎えして上げるから」

 ゆみはだんだんこわくなってきて、「ここで降ろして下さい」と言った。そうすると男は手を伸ばしてきて、後部座席のドアをロックしてしまったのだという。これでゆみの恐怖心はさらに高まった。

「あぶないからね、ロックしたんだ。大丈夫、もうすぐ付くから。渋滞を避けるためにちょっと回り道しただけだよ。それに100ペソ以上は要求しないからね」

 しばらくして、タクシーはホテルに着き、ゆみは悪夢から解放された。「でも、ホテルに迎えにこられたらどうしよう」と、不安な様子だった。ゆみを守ってやりたかったが、その後私はセブを離れてしまった。ゆみの無事を祈るしかない。


2005年09月27日(火) セブの交通事情

 セブには電車がないし、地下鉄もない。移動の主な手段としては、タクシーかバス、ジプニー、トライシクルということになる。私はこの4つとも体験した。

 ジプニーというのは、小型バスで後ろに常時開いたままの昇降口がある。車体に書かれた番号によって行き先がわかり、手を上げれば止まってくれる。降りるときは運転手に声を掛けるか、天井を叩けば、これもまたどこでも止まってくれる。

 料金は5ペソ(10円)か6ペソ(12円)である。遠距離になれば追加料金を払わなければならないが、とにかく安くてたくさん走っているので、これがセブ市民の欠かせない移動手段になっている。

 トライシクルというのは、バイクの横にサイドカーをつけたもので、ジプニーが簡易バスであれば、これは小回りの利く簡易タクシーといった感じで、私もモアル・バウルでこれを利用した。バイクのかわりに自転車が付いているものもある。地方に行くとこれらが身近な庶民の足になっている。

 さて、観光客が一番利用するのがタクシーだが、これは30ペソ(60円)が基本料金で、あとはメーターで高くなる。ジプニーの5倍から10倍の高さだと思えばよい。もっとも中には悪徳なドライバーもいて、メーターを無視して、規定外の料金を要求する者もいる。

 いつか、ゆみと二人でホテルに帰るとき乗ったとき、運転手が何か言ったがよくききとれない。「English, please 」と言うと、ゆみが小声で、「英語みたいだよ」と言った。英語が話せないドライバーはいないようだが、訛がひどくてききとれないことが多い。

 とくにこのときのドライバーの英語は私にはまったく聞き取れなかった。おそらく渋滞があるので回り道をするとでも言ったのだろう。SNマートからホテルまでの距離がいつもより長くて、メーターの料金も90ペソ(180円)近くになっている。

 やっとホテルについて、100ペソはらうと、運転手は首を振り、「one hundred and twenty」という。これは聞き取れたが、メーターは95ペソをさしていて、これでも通常よりかなり高いのに、その上に20ペソ以上も上乗せして要求している。

 高いと言っても数十円である。しかし、フィリピンでは数十ペソはかなりのお金である。私たちの金銭感覚もペソに近くなっている上に、「理不尽なお金は払いたくない」「騙されたくない」という心理がはたらいた。

 腹が立ったが、らちが明きそうもないので払おうとすると、ゆみが私に「メーターのお金を渡して、さっさと降りましょう」と言った。私は「I pay just for meter」と言って、運転手に100ペソを押しつけそのまま降りたが、金を受け取ったドライバーはむっとしていた。

 このときはこれですんだが、このあとゆみは一人でタクシーに乗って、もっと怖い体験をすることになる。これについてはあしたの日記に書いていよう。


2005年09月26日(月) 旅のトラブル

 旅立ちの一週間前に得体の知れない頭痛と視力障害におそわれ、一時は旅をあきらめかけたこともあったが、結果から言えばこの障害があって、よけいにセブ島語学留学に対する思いが強くなったようだ。終わってみればすべて「塞翁が馬」である。

 旅にトラブルはつきものだ。しかし、その一つ一つのトラブルを解消していくなかで、少しずつ旅の心構えを学んでいく。これは人生という大きな旅の場合も同じだろう。

 海外に行くのは3月に家族でタイに行って以来だが、今回は視力障害をかかえたままでフィイリピンへの一人旅というわけで、最初はかなり緊張した。飛行機は予定通り9:30分に名古屋空港を飛び立ったが、着陸したのは予定より1時間遅れの13時30分である。

 これだとマニラ空港での国内線への乗り継ぎ時間が少なくなる。たいへんあせったが、しばらくしてようやく、日本とフイリピンとの1時間の時差に気付いた。これで少しほっとしたが、勝手の知らないマニラ空港での乗り継ぎそのものも、くわしく書けばトラブルの連続だった。

 マニラ空港でどうにかセブ行きの飛行機に乗ったものの、この飛行機が滑走路に入ったところで停止してしまった。それからまたもとの搭乗位置に引き返し、動かなくなってしまった。狭い機内でまたされること1時間以上である。

 もうとうにセブに着いていなければならない時間に、まだマニラ空港にいて、しかもいつ飛行機が飛び立つのかわからない。その間に2回ほど機長がフイリピン語と早口の英語でなにやらぼそぼそ行ったが、これが私にはまったく聞き取れない。

 ガソリンの高騰で、多くの航空会社が経営危機に落入っているという。無理な合理化を進めれば、安全が脅かされかねない。現にたくさんのトラブルが発生しているという記事を読んだばかりだったので、なおさら不安だった。

 結局セブに着いたのは、4時15分予定から1時間以上遅れた5時半過ぎだった。名古屋から送られてきた荷物を受け取り、空港の外に出たときにはもう夕方で、私の視力ではほとんど何も見えない。

 学校の出迎えの人は「ダークブルーのTシャツ」を着ていて、それが目印だと観光会社の注意書きに書いてある。そして、旅行三日前にも東京からの電話で、絶対に親しげに近づいてくる人の指示にしたがってはいけないと念を押されていた。

 しかし、このときは全体がダークブルーだから、私にはだれが出迎えの人だか分かりようがない。出迎えの無数の人垣を前にして、このときはほんとうに心細かった。現地の人を容易に信じるなという言われていたが、このときは親切なフイリピンの人に助けられて事なきをえた。

 このように、行きのときは大変緊張し、トラブルにあわてふためき、過剰反応したりしたものだが、帰りのときはかなり心理的にゆとりがあった。視力が回復していたことに加え、2週間の語学研修のせいで、いくらか英語に自信がもてたからだろう。

 言葉が通じないということが、海外旅行ではかなりストレスになる。言葉が通じ、他人の善意が少しだけ信じられれば、旅はそれほど不便でも、恐ろしくもないということがわかった。


2005年09月11日(日) 民営化は私有化

 今日から15日間、日本を留守にする。折しも今日は総選挙の日である。すでに私は不在者投票をすましてある。無事にフイリピンに着けば、選挙の結果についてはセブ島のホテルのテレビで確認することになるだろう。

 結果はどうなるかわからないが、今回の選挙で小泉首相の排他的な姿勢が浮き彫りになった。小泉首相は対立候補をつぶすために、中央から地方へ刺客を送り込んだ。ライブドアのモリエモン社長や、財務省のキャリアウーマン、そして親密な仲をうわさされた女性議員などなど。

 本来、その地方と縁もゆかりもない人物が落下傘候補としてやってくるのはいいのか悪いのか。森田実さんがHPで『秋田魁新報』2005.9.6「時評」の佐藤隆三ニューヨーク大学教授の批判的な意見を紹介している。孫引きしてみよう。

<筆者の教え子で東京生まれニューヨーク大学院出身の女性が、「自民党の落下傘候補・刺客」としてスカウトされた。米政治の専門家は、小泉戦術の刺客の是非について、米国にもハードボール・ソフトボールの政治手法がある、と答えた。

 ハードボールとは、容赦のない強引な手段で対立候補を追いつめる、まさに小泉式やり方だ。だが、米国のハードボール選挙戦には幾つかの厳しいルールがある。

 第一によそ者侵入の落下傘は許されない。米国は全て小選挙区制で上院議員は各州二名、下院議員は人口を基準とした選挙区で決定される。議員は選挙区有権者の意思を代表するのだから、外部の人間がある地域で立候補するためには一定期間その地域の居住者となることが義務づけられる。まさに小泉政権がせっせと送り込んでいる、俄づくりの有名人刺客を防ぐための規則である。その意味で日本の今年の選挙は日本式民主主義の後進性を露呈している。

 第二のルールは比例制度安全ネットの否定だ。よそ者落下傘が落選しても日本のように比例で救われる道はない。民意と無関係に落選者が甦るのは不可解な民主主義とされる。

 第三に日本の国会議員は民間業務との兼業が許されている点で、これも、なんでもアリの日本式民主主義とみなされている。米国の民間人が国会議員になれば、利害の対立を避けるために一切の他の職業からの辞任を求められる。堀江氏がライブドアの社長職に留まり、しかも落下傘候補として縁もゆかりもない地域で立候補できるのは日本だけの現象だ。・・・

 地縁、血縁、地盤が物を言うよそ者排除の従来型選挙にも問題がある。その悪弊を除くためには刺客や落下傘も当然と見るむきもある。だが今回は殆ど全てが中央から地方への落下傘で地方分権が泣いている。

 冒頭に述べた私の教え子は政治にはズブの素人で刺客として当選する確率は低い。だが比例上位を約束されたことで、こうした人間の議員バッジは確約されている。七百億円の税金を使った小泉独演劇はどこかが狂っている>

 そもそも小泉氏自身が財務省(大蔵省)と銀行・保険業界や運送業界から政界に送られた刺客である。小泉氏の選挙にはこれらの業界が多額の資金援助や人的援助を惜しまない。

 郵政民営化法案を作った内閣府の郵政民営化準備室には民間企業からの13名もの出向者がきているが、その内訳は、日本銀行1名、全国銀行協会2名、損害保険協会1名、金融系シンクタンク4名、そして日本路線トラック連盟2名、JR関係2名、電力1名だという。

 郵政民営化はこうした業界に加えて、アメリカ政府とその背後にある国際金融業界も強力に後押ししている。小泉首相が髪を振り乱して「民営化」を絶叫するのも、この一戦に彼自身の刺客としての政治生命がかかっているからだろう。

 ところで、政府は景気が回復しているという。たしかに株価はあがり、大企業は空前の収益をあげている。政府の発表するさまざまな経済指標をみるかぎり、日本経済は踊り場を脱したようにも思える。

 しかし、本当はどうなのだろう。私はそれを判定する一番の経済指標は個人消費だと思っている。このところ個人消費は伸びているのか。

 内閣府の景気統計部は毎月全国消費動向調査を発表している。それを見ればよくわかるのだが、8/10、9/9と、二月も発表を見送っている。これは選挙を前にして、与党に都合の悪い数字を出したくないからだろう。今は小泉さんを勝たせるために何が何でも株価をあげなければならないからだ。

 明治大学政治経済学部の高木勝教授は現在政府でおおがかりな「情報操作」が行われていると警告を発している。選挙に勝つためなら、何でもありというのは恐ろしいことだ。

 セルジオ越前さんによれば、「民営化」はプライバタイゼーションという英語が原語で、「私営化・私有化」と訳すべきで、「民(たみ)」の意味など含んでいないのだという。たしかにここにもメディア(+政治家+官僚)による情報操作の意図が感じられる。

 さて、明日からこの日記帳はしばらく更新されない。そのかわり、HP掲示板に、「セブ島日記」を連載しようと思う。語学学校のインターネット・ルームには日本語入力が可能なパソコンが用意されているという。それを用いて、毎日書くつもりである。HP掲示板のアドレスも書いておこう。
http://otd6.jbbs.livedoor.jp/625905/bbs_plain

(参考サイト)
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/


2005年09月10日(土) 明日からセブ島

 今日から私の学校は8日間の土日・休日もふくめて16日間の「秋休み」に入る。夏休みが11日早く始まったときにはつらかったが、その見返りとしてこれから一休みできるわけだ。私はこれを利用してフイリピンのセブ島へまるまる15日間、英語の語学研修に行くことにした。

 先週は頭痛に襲われ、そのあげく物が二重に見えるという視覚異常をきたした。そのため今週はほぼ毎日病院に通い、CT、MRIなど様々な検査をした。結論として動脈硬化が進行しているほかは脳に目立った異変はないということだった。相変わらず視覚障害を抱えているが、医師から海外旅行の許可も得たので、予定通り明日の朝、出発することにした。

 この15日間の短期留学に必要な費用は19万円である。往復の航空運賃に加えて、セブ市にある語学学校の学費、ホテル代、三食の食事代、海外旅行の保険料など、すべての費用がふくまれている。物価の安いフイリピンだから可能な額なのだろう。

 旅行に先立って、フイリピンについて何冊か本を読んだ。日記で紹介したフイリピン在住の崎山克人さんの本にも出合い、彼がオーナーだというカオガハン島のことも知った。その島で働いていたという人が、セブ島に住んでいて、takeというハンドル名で興味深いブログを書いている。その中からひとつ紹介しよう。

−−−−−比べない生き方−−−−−−−

 フィリピンのセブ島沖にある、カオハガンという周囲2キロの小さな島で、しばらく過ごしました。日本人の崎山さんが15年ほど前に退職金で購入し、美しい自然環境を守りながら、前から住んでいた人々と静かに暮らしています。まだ経済社会に巻き込まれていない、自給自足に近い平和な島です。

 朝早く、大人や若者たちは、その日に必要なだけの魚介類を海からとってきます。浜辺を散歩していると、子どもたちが海で楽しそうに遊んでいるのを見かけました。みんなとても人なつっこく、やさしい目をしています。

 彼らの家の多くは、日本では小屋と呼びそうになるような、きわめて質素なものです。中に入れてもらいましたが、モノはほとんどありません。でも、とても安らかで幸せそうなのです。

 カオハガンに滞在中、船でセブ島に遊びに行きました。セブはマニラに次いで、フィリピン2番目の都市です。観光地よりも、橋の下のスラム街や、下町の貧しい地域を見てきました。

 セブの子どもたちは、カオハガンと比べて、キツイ目つきをしていることに気がつきました。あれこれ売りつけてくる大人たちも、どこか殺伐としていて、あまり幸せそうには見えません。彼らの持っている家やモノは、カオハガンの人々とそう変わりはないのですが…。

 同じような生活レベルなのに、なぜこんなに雰囲気が違うのだろう、と考えてみました。カオハガンには海しかありませんが、セブには都心や観光地のリッチな生活があります。ひょっとすると、自分たちの貧しさを実感させられるような、比較の対象があるからかもしれません。

 では、彼らがうらやましがる裕福な人々は、本当に幸せなのでしょうか。ビジネスで成功してお金を稼ぎ、いわゆる「勝ち組」に入っているので、プライドや満足感は持っている。日々忙しく仕事をして、さらに上をめざして目標を達成する充実感もあるでしょう。

 しかし、一見何の不満もなさそうな彼らにもまた、逃れられない比較の対象があるのです。自分たちよりも、さらに多くのカネやモノを持っている人たちです。そのギャップにいつも欲求不満を感じながら、毎日競い合う生活を続けているのが実情のようです。

 帰国してサラリーマン生活に戻ると、ストレスをためながらあくせく働く人や、組織の中で出世しようと必死な人、金持ちになる成功法則に夢中な人が目につきます。いずれも、他人と競って比べる生き方のように思えます。カオハガンで見た幸せそうな人々の笑顔を思い出すと、何かが違うような気がします。

 私も30代までは、目標に向けてがむしゃらに頑張るタイプで、それなりの結果も残してきました。それが間違っていたとは言いませんが、達成感や充実感はあっても、心の中はいつも焦っていて、しみじみと小さな幸せを感じる余裕などありませんでした。比べる社会である日本にいても、カオハガン島で知った「比べない生き方」は、今後の人生の大きな財産だと思っています。>

 takeさんがカオガハンに行ったきっかけは、崎山さんの「何もなくて豊かな島」(新潮社)を読んだからだという。カオガハンに客として来て、崎山さんと意気投合し、島で生活する道を選んだ。一冊の本との出会いが、ときとして人の人生を変えることもある。

 さて、私は明日からのセブ島での15日間を、「世界放浪」の第一歩と位置づけている。まずこの第一歩を踏み出すことで、私の前に新しい人生が開けてきそうな予感がしている。

 野ざらしを心に風のしむ身かな  (芭蕉)

http://www.miyazaki-catv.ne.jp/~nakamoto/column16.html


2005年09月09日(金) 円空仏の魅力

  一昨日、いつもより早く家を出て、名古屋市博物館で開催中の「円空仏」を見てから、学校にいった。円空(1632〜1695)は江戸時代初期から中期に活躍した放浪の仏師だが、荒削りで独特な陰翳を持つ木彫りの仏像や神像を多く作ったことで有名である。

 博物館には北海道から奈良県まで、各地に残る円空仏が何十体と並んでいた。円空仏だけではなく、手紙や経典の書写、仏画なども多く展示され、円空という人の大きさを多面的に体験し、彼の芸術の豊かな奥行きを堪能した。

 円空が生まれたのは岐阜県の羽島市だという。私の住んでいる一宮市に近い。羽島を中心に岐阜県や愛知県のあちこちの寺にたくさんの円空仏が残っている。私も寺を訪れて円空仏の実物を何体か見たことがあるが、これほどたくさんの円空仏にであったのははじめてである。

 円空は生涯に十数万体もの仏像や神像を彫ったといわれる。その多くは失われたが、それでも5000体あまりが残っている。円空がこれほどまで彫り続けたのは、西行が和歌で行った衆生済度の道を、円空は仏像を創ることで行ったのだろう。それにしても30歳代で北海道にまで旅をし、厳しい修行をしながら一心に彫り続けたその不屈の意志は桁外れのものだ。

 円空仏を初期のものから晩年までみていくと、後期になるほどその表現が簡潔になり、造形が大胆で自由になっている。そしてあるときから、あの彫りの深い独特な微笑が現れる。そこに底知れず深い世界が立ち現れ、慈悲の精神の美しさに涙ぐみたくなる。

 梅原猛さんは「弥生人に征服された縄文人。円空は、そんな反逆精神をどこかに秘めていたような気がする」というが、私も円空仏を眺めながら、縄文時代の土偶を思い浮かべた。東北地方、北海道を旅し、異境の地に触れた体験が、彼の生涯を決定づけたのではないか。そう思わせる独特な神秘性と豊饒な生命力が彼の彫像に漲っている。

 あいかわらずものが二重に見えるという障害が続いていて、最初は円空仏を見るのも苦しかったが、そのうちにそうした視覚障害を忘れるほど、仏像に見入っていた。そして不思議なことに、博物館を出た後、障害が少し軽くなっていた。これも円空仏の御利益かも知れない。博物館を出て、近くの喫茶店でおいしいコーヒーをいただいた。

−−−−  円空 (資料) −−−−
         1632‐95(寛永9‐元禄8)
 
 江戸初期の遊行造像僧。美濃国(岐阜県羽島市上中町)の生れ。若くして出家、尾張国(愛知県)師勝村の高田寺で金剛・胎蔵両部の密法を受け、諸国遊行の旅にでる。1664年(寛文4)ころまで美濃地方にいて名古屋荒子観音寺などで造像,65年蝦夷(えぞ)地に渡る。74年(延宝2)には志摩半島、その後は美濃・飛騨地方に入り、袈裟山千光寺や山間僻地(へきち)に多くの仏像をのこす。

 89年(元禄2)には伊吹山、日光などに遊行、翌90年ふたたび美濃・飛騨地方にもどって晩年の円熟した彫像を刻む。生涯、東日本を遊行し、造像活動をつづけた。円空の没年は岐阜県関市の弥勒寺にある墓碑銘から明らかであり,生年については不明であったが、上野国(群馬県)一宮の貫前(ぬきさき)神社旧蔵の写経の断簡に「壬申生美濃国円空(花押)」とあることから、1632年の生れであることが判明した。

 円空は12万体の造像を発願して,多くの木彫仏を特異な彫法で刻んだ。現存作だけでも5000体を数える。丸木の原材をいくつかに割り,割った面を巧みに生かして、そこに岩肌のような面(プラン)の構成を生み、正面性を強調した。その「鉈(なた)ばつり」といわれる荒彫り彫法の生むバイタルな表出は、現代造形の根底を刺激して大いに注目された。

平凡社「世界大百科事典」 丸山 尚一
http://www.hiyama.or.jp/enku/

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2005年09月08日(木) 何もなくて豊かな島

 フイリピンのセブ島の沖合10kmのところに、周囲が2kmしかない珊瑚礁の小さな島が浮かんでいる。昭和10年生まれの崎山克人さんがこのカイハガン島に出合ったのは1987年だった。

 ダイビングのためにセブ島に遊びにきて、現地の人から1000万円でこの島が売りに出されていると聞いて、その場で決断したのだという。そのあたりのことを、「何もなくて豊かな島」(新潮文庫)から引用しよう。

<その時、私は53歳。これから二十年、いやひょっとすると三十年ちかくも元気に過ごせるかも知れない。それは、学校を出て働きだしてからと同じくらい長い時間だ。これからをどうして過ごすかを真剣に考えた。

 そのまま出版社経営の仕事を続けることを考えた。責任ある仕事だったし、報酬も申し分ないものだった。時間に追われる忙しい生活が続くが、その間島を別荘として使ってもいい。

 責任ある仕事をし、南の島に別荘を持ち余暇を楽しむ。格好いいではないか。ビジネスマンとしては最高の「上がり」だったかもしれない。しかし、どうもそのような気にはなれなかった。

 三十年も続けた「ビジネス」を中心とした生活から、抜け出したかったのかもしれない。何か違う価値観を求めて生活したかったのかも知れない。仕事の合間に考えるのではなく、考えることが中心の生活がしたかったのかもしれない。

 ほんとうに「縁」としかいいようのない出会いで、カオガハン島が手に入ったことを、運命のようにも感じた。留学、仕事と、アメリカで約十年生活したおかげで、外国に住むことに違和感はなかった。「やはり、島に行こう」と心に決めた>

 こうして崎山さんは1991年に外資系の出版社の社長を辞めて、この島に移り住んだ。 島にはココ椰子の木が茂っていて、300人ほどの住民がいた。人々は椰子でできた簡素な家に住み、ココナッツのミルクや遠浅の珊瑚礁の海でとれた魚を食べる。

 一本のココ椰子の木があれば人が一生たべていけるのだという。ほとんどお金のいらない自給自足の原始的な生活だ。崎山さんはこの島の人々なかに溶け込み、一緒に生活することにした。

 さらに、小さなホテルを建てて、そこに日本人の観光客を呼ぶことにした。ホテルの従業員は現地の人たちである。利益はすべて島のために使う。これで小学校や教会を建てた。島にとって貴重な現金収入である。

 宿泊客の定員は4人そこそこで、かならず三食を島崎さん一家と食べる。いろいろな人生経験を持つ男女がやってくるので、話題は尽きない。日本からきた人々はそこに日本社会とは対極に位置するような異次元の世界があるのに驚くという。

<たしかにかれらの持っている「もの」は少ない。日本人のおそらく、数百分の一ももっていないだろう。・・・しかし彼らはゆとりをもって生活している。

 あくせく働くこともないし、あせることもない。島のみんな知り合いだし、どんな人も島の社会で役割を持っている。島には何人かの知能の遅れた人がいる。生活自体シンプルだから、彼らも一人前に自活できる。誰も差別をしない。私の目には、カオガハンの人たちはいつもハッピーな生活を送っているように映るのだ。事実かれらの目はいつもやさしく輝いている。

 昔からあるジョークがある。太平洋の小島に金持がヨットでやってきた。島民が「お金があっていいなあ」と言うと、金持は「冗談じゃない。私は一生働いて、お金を貯め、やっと休暇をとって南の島にやってきたのだ。あんたたちは初めからここに住んでいるじゃないか」>

 たしかにこの島には文明の利器はないが、ピュアで美しい自然がある。文明に汚されていない島の人たちのもてなしや、子供たちの愛らしい笑顔がある。そうした豊かさのなかに身を置いているうちに、日頃の生活の中で見失っていた豊かな世界を心に取り戻す。島ではだれもが詩人なり、思索家になる。

<カオガハンの生活には、いわゆる「情報」はほとんどない。物も少ない。物の情報も少ないから生活は簡単になる。そして、大きな海と空と風に囲まれ、自然の驚異、美しさ、大きさに接して生きている。

 そうすると、人は「大きな、大切な」何かを感じ、それを時間をかけてしっかり考えるようになる。時間があって、自然の大きな大きな刺激があると誰でもが何かをしっかりと考えるようになる。

 私もカオガハンに来て、いろいろなことをゆっくりと考えるようになった。日本の忙しい中では浮かんではすぐに流れ去ってしまった「思い」を、ゆっくりと考えるようになった。自分をじっくりとと考える。すると徐に自分の考えがしっかりと固まり始める>

 崎山さんの願いは、この島の自然と、そこに暮らす人々の豊かな暮らしをこれからも守り通すことだという。同時に、島の子供たちに勉学の機会を与え、将来、崎山さんがいなくなっても、島の人々が自分たちでこのゆたかな生活を維持できるようにしておきたいという。

 私もできればこのカルガハン島を訪れ、崎山さんや島の人々と人生のひとときを、ゆったりと過ごしてみたいものだと思った。 


2005年09月07日(水) 改革幻想にだまされるな

 選挙戦もたけなわです。テレビの政見放送を見ていると、自民党の公認候補はみんな「改革を止めるな」と呪文のように唱えています。ところでこの「改革」とは何か。その中身をどれだけの国民が知っているのでしょう。

 その中身を知れば、おそらく国民はあきれるのではないでしょうか。「改革」によって何がどう変わるのか。「官から民へ」ということは実際どういうことなのか。まずは、朝日新聞8/22の「声」から引用します。

 −−− 目を覚まそう改革幻想から −−−
     古書店主  刑部 泰伸(47)

 小泉劇場は4年前に異例の拍手喝采で幕を開けた。一時期客足が引いたとはいえ、財界がパトロンで二大政党が協賛し、マスコミが毎日「改革幻想」切符をばらまいてくれるお陰で盛況である。劇場では観客が厳しい現実を忘れて勧善懲悪バトルに見入る。

 小泉改革仮面が「官から民へ」「小さな政府」と呪文を唱えると、悪人面の造反派は退散してしまうので、控えの主役・岡田改革仮面には出番はない。実は「民」といっても庶民ではなく民間大企業のことで、「小さな政府」というのは企業負担の小さな政府のことなのだが。

 一歩劇場を出れば、リストラ、営業不振による自殺、福祉切り捨て、政府税調による大増税計画、首相の靖国参拝による外交の行き詰まり、海外派兵のための憲法改悪など荒涼たる風景が広がっている。

−−−−−−引用おわり−−−−−−−−

  バブル経済を引き起こして、多くの不良債権をつくりだした主な責任は財務省(旧大蔵省)と当時の自民党政府にあります。つまり財務省(大蔵省)と特殊法人や銀行の失策で大量の不良債権が生まれたのです。

 ところが今、その責任が政府に命じられて大量の国債を買った郵便局に押しつけられています。郵便局が国民からお金を集めすぎて国債ばかり買っているから、国の経済が活性化しないのだというわけです。

 たしかに郵政公社は郵貯と簡保として、国民から330兆円のお金をあつめ、これで217兆円の有価証券(国債170兆円、地方債16兆円、社債26兆円、海外証券5兆円)を購入し、他に財務省に預託金118兆円を供給してきました。

 国債、地方債、預託金をあわせれば304兆円になります。財務省へ預けた118兆円も、実質的には国債です。郵政公社は一口で言えば、国家への巨大な貸付機関です。国民が国に投資するための窓口だとも考えられます。

 しかしこうした実態をもつ郵政公社を政府案のように民営化して、その巨大な資金を民間に回すということはつまり「国債」を売却するということです。小泉首相も竹中郵政担当大臣も「郵貯・簡保の資金を民間に回すのが、民営化の目的である」と明言していている以上、民営化の最大目的がこの国債の売却であることはあきらかです。

 どこに売るのかと言えば、「国際的な金融市場」ということでしょうが、実際に低金利の国債を大量に引き受けるのは日銀しかありません。国債を日銀にひきとってもらい、そのかわり現金をもらうわけです。

 もちろん一度にこれを行えば国債が暴落しますが、円相場の様子を見ながら、年に20兆円くらいの規模でおこなえばよいでしょう。これで円高が是正され、輸出企業には大いに追い風になります。

 問題はこの20兆円をどう運用するかですが、現在の郵政公社にはその能力はありませんし、民営化された郵貯銀行もそうです。やはり民間の銀行からヘッドハンティングをするか、外資にその運用をまかせることになると思います。

 こうしたことを実現すること、つまり「国債を売却し、そのお金でもっと金利の高い金融商品(たとえば米国債)を購入すること」ことこそが郵政民営化の本当のねらいであり、そのほかのことはじつが枝葉に過ぎないわけです。

 なお、これは国内経済政策としては竹中大臣も理解を示しているという「インフレ・ターゲット論」に実質的に近いのではないでしょうか。デフレを解消し、金利をあげるためには、とにかく巨大な国債を解消しなければなりません。最終的には日銀がこれを引き受けるしかないわけです。そのための道ならしが「郵政民営化」ではないでしょうか。

 もちろん、「インフレ・ターゲット論」には賛否両論があり、まともに政府が言い出せば大きな非難をうけることでしょう。しかし、郵政を民営化すれば、これと同じ効果が得られるわけです。

 ところが小泉首相はこうした話をほとんどしません。郵政民営化によって大量の公務員が削減できるという話ばかりです。国民にはこちらの方がわかりやすいからでしょう。それに民営化の本質をわからせてはいけないのです。こうした「めくらまし戦術」は小泉首相のもっとも得意とするところです。


2005年09月06日(火) お金とマネー

 貨幣というのは、もともとは交換の媒介手段です。それはまた、ものに値段をつけたり、貯蓄しておいたりする働きももっています。私たちがいわゆる「お金」と呼んで親しんでいるのはこうした手に取ることのできる貨幣です。

<われわれは交換のための象徴として貨幣をもつ>(プラトン「国家」)

<交換されるべき事物がすべて何らかの仕方で比較可能でなければならない。こうした目的のために貨幣は発生したのであって、それはある意味においての媒介者となる>(アリストテレス「倫理学」)

<貨幣は商品流通において主題の一つになりうるものではなく、財貨の交換を円滑にするために人々がたがいに同意し合った交換用具にすぎない。貨幣は商品流通の車輪の一つなどではけっしてない。そうではなく、それらの車輪の回転を円滑にするための潤滑油のようなものである>(デーヴィッド・ヒューム「市民の国について」)

<人が貨幣を求めるのは、貨幣そのものが欲しいからではなく、貨幣で買うことができる財貨が欲しいためなのである>(アダム・スミス「国富論」)

<諸生産物はつねに諸生産物によって、またはサーヴィスによって、買われる。貨幣はたんに交換をおこなう媒介物にすぎない>(デーヴィッド・リカード「経済学および貨幣の原理」)

 ところが、やがて「お金」としての貨幣だけではなく、「マネー」と呼ばれる貨幣が誕生しました。これは私たちが働いて手に入れる「お金」とはかなり違っています。どこが違っているかというと、貨幣そのものが「商品」になっているところです。

 ほんらいは商品を売ったり、買ったりするときに仲立ちとなり役に立つのが「お金」なのですが、マネーはそうしたものとははっきり違っているのです。それはマネーはマネー自身の世界を持ち、とめどもなく自己増殖しようとする存在だからです。

<金は価値を持つから流通するのに、紙幣は流通するから価値を持つものである>(マルクス「経済学批判」)

 簡単に言えば、マネーとはガン細胞のようなものです。ふつうの細胞は協力して生命体の維持のために働きますが、ガン細胞はただ自己増殖することしか念頭にありません。そして健康な体をむしばみ、やがてはこれを死に至らしめます。

 どうようにマネーに支配された社会はとめどなくその健康な姿を失っていきます。マネーは労働の意味をかえ、人生の意味を人々から奪い尽くします。自然を破壊し、人間らしいゆたかな感情さえも破壊して、マネー万能人間を世の中にばびこらせるます。

 「モモ」などの作品で有名なドイツ人作家ミヒャエル・エンデは「お金」と「マネー」の違いについて、こう書いています。

<重要なポイントはたとえばパン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、二つのまったく異なった種類のお金であるという認識です>

 評論家の内橋克人さんは人々の日常とともにあるそれを「お金」とよび、商品(資本)としてとりあつかわれるそれを「マネー」とよぶことにしているそうですが、私もこの使い分けが大切だと思っています。

 マネーの年間通貨取引高は300兆ドルです。世界の輸出入の決済に要する貨幣は8兆ドルです。世界のGDPの総計でさえ、30兆ドルに過ぎません。この世界の実体経済よりもはるかに巨大な虚構経済が存在し、そこでマネーが活躍しているわけです。

 問題はほんらい財やサービスを交換する<媒介物>にすぎない貨幣が今ではその本来の目的を離れて人間世界に君臨し、巨大化した虚構経済が実体経済をハリケーンのように襲来し、支配していることでしょう。

 タイのバーツ危機から始まったアジアの通貨危機もそうです。イギリスのポンドも危機に見舞われ、アルゼンチンのように国家破産する国もあらわれました。そして現在、横暴をきわめているグローバリゼーションの正体もそうです。

 もはやお金は財やサービスの潤滑油とはいえない時代に私たちは生きているのです。お金は巨大な車輪そのものとなって、あらゆるものを蹂躙しつつ、お金そのもののために牙を剥いて動きまわります。

 こうしたお金による人間疎外が深刻になるにつけ、人間はますます拝金主義者となってお金の奴隷にならざるを得ません。そうした外見だけは人間の姿をした<お金の亡者>が周囲にあふれてくるわけです。

  いま世の中を「お金がすべて」という価値観が覆いつつあります。ホリエモンが著作でそうかくと、若い世代を中心にしてクールでたいへんかっこいいと人気がでるのです。しかし、これは私たちの社会の将来を考えると、とても危険なことだと思います。

 それでは私たちはこうしたマネーの横暴からいかに平穏な日常生活を守ったらよいのでしょうか。そのために私はエンデや内橋さんの言葉に耳を傾けたいと思っています。内橋さんは著書の中で、ドイツ人作家エーリッヒ・ケストナーの次の言葉を引いていました。

<世界の歴史には、おろかな連中が勇気を持ち、かしこい人たちが臆病だったような時代がいくらもあります。これは、正しいことではありませんでした。勇気ある人たちがかしこく、かしこい人たちが勇気を持ったときにはじめて−−いままではしばしばまちがって考えられてきましたが−−人類の進歩というものが認められるようになるでしょう>

 マネー万能の思想がどんな人間や社会をこの世界にもたらすかを洞察し、マネーの魔力に支配されない賢さと、そうした大勢に流されないで、これに抵抗して生きる勇気を持ちたいものです。

(昨日は病院に行き、5時間あまりかけていろいろな検査をして貰いました。まだ、検査が途中なのですが、今のところの医者の診断では、脳幹に脳梗塞が生じている可能性があるということでした。まだ、文章を書くゆとりがないので、かって掲示板に投稿した文章を日記に採用しました)


2005年09月05日(月) アジア友好で難題解決

 日本が国際的、国内的にかかえる問題の多くは、「アジア友好」の実現によって解消される。なかでも中国と韓国、日本の関係が大切で、この三国の関係が良好になれば、いろいろな難問にすっきりとした解決の見通しがたつ。

 まず、アメリカ軍基地の問題が解決の方向に向かうだろう。アジアの国々、とくに中国は、世界第二位の経済大国である日本が再び軍事大国になることを警戒している。アジアの国々にとって、アメリカ軍が日本に駐留することは、自分たちの国の安全保障なのだ。

 また、日本にとっては、軍事大国化しつつある中国の脅威がある。アメリカ軍が日本に駐留することで、日本は守られているという安心感がある。アメリカ軍の存在は、日本にとっても安全保障なわけだ。

 もしアジア諸国との間に信頼感が築かれれば、この両方の不安がなくなる。アメリカの軍事基地を皆無にするのは難しいだろうが、アジア友好が進展すれば、削減の方向に持っていくことは可能だ。このことは憲法第9条に抵触する自衛隊の存在についてもいえる。

 アメリカ軍が日本に駐留している限り、日本はアメリカの属国である。この状態では主権国家だとは言えない。しかし「アジア友好」を羅針盤にすれば、日本は平和な独立国家として名誉ある地位を国際社会の中に築くという憲法の理念を実現することも夢ではない。地域の平和を促進する中での軍縮という戦略は、日本国憲法の理念にあっている。

 また、教育基本法についても、これを改革して教育を完全に国家の管理のもとに置こうという必要もなくなるだろう。そうした国家主義的な教育改革の発想が出てくるのは、殺伐としたナショナリズムの心理的背景があるからだ。こうした大衆心理そのものがアジア友好によって力を失う。

 日本の初等教育はいろいろな問題を抱えている。しかし、日本の中学生の学力は国際比較ではいつも世界のトップレベルだ。さらに注目すべきは、日本は他の先進国に比べて、少年犯罪が奇跡的に少ないことだ。

 人口当たりの少年による殺人事件は、アメリカは日本の13倍もある。ドイツは日本の6倍、フランスやイギリスでも5倍もある。少年犯罪全体ではアメリカは日本の30倍以上にもなる。

 これは日本の教育が他の先進国とくらべて格段に立派だということよりも、日本国自体が犯罪の少ない社会だということだろう。しかしこうしたデーターを眺めている限りでは、一部の人々がヒステリックに主張するほど戦後日本の自由主義教育がまちがっていたとは思えない。

「改革」には二つの改革がある。国民を幸せにする「改革」と、国民を不幸せにする「改革」だ。後者の改革については、たとえ守旧派だ保守反動だといわれても、反対しなければならない。

 なお、アメリカ軍を駐留させておきたい勢力は「アジア友好」を破壊しようとする。また、憲法を変えて日本の自衛隊を正式な国軍にしたいと思っている人々もアジア友好を面白く思っていないはずだ。こうした動きには警戒しなければならない。

 今日の精密検査の結果にもよるが、万が一健康が許せば、9月11日から2週間、学校の秋休みを利用してフイリピンのセブ島に語学留学をしようと思っている。そこで韓国や中国の留学生と交流し、「アジア友好」の輪を少しでも広げられたらと願っている。

 なお、昨日の日記について、掲示板やメールで多くの人たちから温かいはげましのお言葉をいただきました。このことをとても感謝しています。ありがとうございました。

 皆さんのアドバイスに耳を傾け、ここしばらくは健康管理に細心の注意を払いたいと思います。検査の結果については、分かり次第日記でお知らせします。


2005年09月04日(日) 足が4本、妻が二人

 実は現在、私の足は4本である。昨日の朝起きて、スリッパを履こうとして驚いた。いつの間にか自分が4本足の動物になっていたのだ。スリッパも4足そろっていて、私の4本の足がそこに落ち着いた。4本足でトイレに歩いた。

 生殖器も2本あり、そこから流れ出る水流も2本である。水流は裾に行くほど広がっているが、さいわい便器も二箇あったから床が汚れるということはなかった。朝食の時、妻と顔を合わせたが、妻も二人いる。

 二人の妻の距離は私が近づくにつれて小さくなる。充分近づくと、二人の妻は一部重なって見える。それでも鼻が二つあり、目が四つあるので何だか化け物のようだ。食卓の私の前に上にパンが二枚あった。コーヒーもふたつ。食器棚の上の貯金箱も二つ。

 一夜にして私は二倍の財産家になったようだが、どこか変である。それで、片目を閉じてみると、みるみる片方の世界が消えた。妻のお化けは退散し、貯金箱も一つになった。私の足も手も2本になった。こうしてようやく私は正常な日常世界に戻った。

 それでも両目を開くと、また元の木阿弥である。昨日は妻の運転する車で外出したが、道が二股に分かれて見えた。両方向から車が押し寄せてくるので、恐ろしくてならない。思わす目を閉じて「なむあみだぶつ」と唱えた。

 どうしてこのようなことになったのか。5日ほど前からひどい頭痛に悩まされていた。バッファリンを飲んでも治まらない。医者にいって頓服をもらっても治まらないような頭痛である。ちょうど学校が文化際の準備で忙しいときで、この忙しさが頭痛の原因だと思っていた。症状としては両脚に蕁麻疹も出ていたが、とくに熱があるわけではない。頭痛を我慢して毎日学校に行った。

 その頭痛が昨日の朝目覚めると、嘘のように消えていた。そのかわり、世界が二重に見えるようになったわけである。家の中に妻が二人いて、自分の足が4本もあるというのは困るので、さっそく眼帯を買ってきた。これをつければ、一応正常な生活ができる。

 インターネットで「ものが二重に見える」と入れて検索すると、医学的な様々な事例が出てきた。分かったことはこれはかなり深刻な状況だということだ。たとえば脳腫瘍が疑われる。動脈瘤の破裂も考えられる。くも膜下の前兆症状だとも書いてあった。

 つまり、これは生命の維持にかかわることで、足が4本になったといって浮かれている場合ではないようだ。あいにく週末で病院は休みなので、月曜日には病院へ行って、精密な検査をして貰おうと思う。その結果入院や絶対安静を命じられるかもしれないが、そうしたら橋本日記はしばらくお休みということになる。

 あるいは、今日にも脳の中で血管が破れ、おだぶつと言うことになるやもしれぬ。その場合は、今日の日記が最後ということになるだろう。そういう可能性がないでもないので、一応読者の皆さんに事情を説明し、これまでのご厚情に対する感謝と、お別れの挨拶をしておこうと思ったわけだ。

「死」についてはほとんど恐怖感はない。発作が起こり、一気に死ねるものなら、それはそれで本望だと思っている。問題は中途半端に生きながらえることだ。延命治療はしないでほしいと妻に書類で残してある。あくまで尊厳死を望む。

 それから葬式もしないことにしている。仏教は好きだが、坊主がきらいだから仕方がない。死亡通知も出さない。なるべく静かにこの世から消えていきたいと思っている。もっとも死後のことまで注文をつけるのも気が引ける。まあ、遺族が好きにすればよいことだ。

 最悪のことに備えることが私の流儀なので、一応ご挨拶もかねて書いて置いたが、私自身は自分の健康については楽観的である。9月11日には、ぜひフイリピンへ旅立ちたいと思っている。命がある限り、前向きに人生を楽しみたい。

 かたみとて何か残さむ
 春は花夏ほととぎす秋はもみじ葉  (良寛)


2005年09月03日(土) 才能・能力はみんなの宝

 人間はみんな向上心をもっています。そしてそれぞれにいろいろな才能をもって生まれてきます。それぞれの人が持っている能力を最高度に育てることが教育の目標です。

 才能を育て、実力が発揮できるということはその人自身にとってもしあわせなことですし、社会にとってもうれしいことです。だから、それぞれの人が持っている能力は、その人だけのものではなく社会の共有財産であり、それは社会が援助して育てていくべきものです。だから、私は大学教育までふくめて、学費は無料でよいのではないかと思っています。

 残念ながら、日本には「才能は社会の宝であり、みんなで育てていくものだ」という意識が稀薄なような気がします。それぞれの人が持っている才能を見いだし、これを伸ばしてやろうという親切心もありません。

 才能は本人の所有物ではなく、どうじに社会の宝であるという立場に立てば、才能はもっと伸びます。そして、才能の持ち主もまた自分の才能を自分の利益だけではなく、社会のために役立てていこうという気持になります。そうした生き方ができれば、本人にとっても社会にとっても、しあわせなことです。

 以上に述べたことは、「才能」を「企業」におきかえてもよいかと思います。そうすると「才能はみんなの宝」という趣旨の文章が、「企業はみんなの宝」という文章にまります、いかに、それを書き下しておきましょう。

<企業を育て、企業がその持てる力を発揮できるということはその企業にとってもしあわせなことですし、社会にとってもうれしいことです。だから、それぞれの企業持っているいる能力は、その企業だけのものではなく社会の共有財産であり、それは社会が応援して育てていくべきものだと思います。

 残念ながら、日本にはこうした企業は社会の宝であり、みんなで育てていくものだという意識が稀薄です。それぞれの企業が持っているすばらしさを見いだし、伸ばしてやろうという親切心もあまりありません。

 企業は企業だけの所有物ではなく、どうじに社会の宝であるという立場に立てば、企業はもっと伸びるますし、企業もまたその能力を自分の利益だけではなく、社会のために役立てていこうという気持になるでしょう。そしてそうした生き方が出来れば、企業にとっても社会にとっても、とてもしあわせなことではないかと思います。>


2005年09月02日(金) 資本主義の歴史

 資本主義の歴史をふりかえってみると、アダム・スミスが「国富論」を書いて強調したことは、政府は市場に介入するなということだった。市場における自由な競争が産業を育て、国を富ませると、彼は考えたわけだ。

 彼がどうしてこんな主張をしたのかといえば、当時、多くの商人は王室や貴族と癒着して特権的な商売をしていたからだ。こうした癒着を絶ち、市場を開放的な経済の場にしなければ、国は豊かにならないというのが彼の考え方だった。これは当時のイギリス社会を考えれば、大正解だったわけだ。

 アダム・スミスのこの市場優先主義はアメリカに移植され、アメリカという国はこの自由主義経済で大きく成長した。政府は市場にあまり介入せず、経済のことは経済にまかせることは、おおいに成功したように見えた。

 こうした自由主義経済体制のもとで巨大な資本家が育ち、財閥があらわれた。摩天楼がそびえ立ち、だれもがその威容を見て、資本主義経済の成功と繁栄を信じた。そしてこの繁栄は将来も続くと思われた。

 しかし、この資本主義成功の背後で、低賃金にあえぐ労働者がいた。彼らは多くは移民だった。貧困問題が深刻化し、犯罪が増加したが、政府はこれを取り締まるのみで、経済は自由競争にまかせた。

 自由経済は貧富の格差を生む。そして放置すれば、この格差はどんどん広がる。一部の富裕層と大部分の貧困層に別れたとき、何が起こるかというと、供給と需要のアンバランスだ。

 大衆の貧困化は内需の伸びを抑える。これに対して、競争は技術の向上を生み、生産性の増大をもたらす。生産性の増大と需用の減少の結果、必然的に生じるのが、生産の過剰である。

 この過剰をなくし、需要と供給をバランスさせるのがほんらいの市場原理だった。アダム・スミスが「神のみえざる手」と呼んだ自動調節機構がはたらき、生産が縮小してこのバランスが回復するはずだった。

 しかし生産の縮小は、労働者の解雇を生み、大衆の貧困を加速する。需要はますます冷めて、さらなる生産の縮小を生み出した。こうして市場は制御をうしない、おそるべきデフレスパイラルに見舞われた。こうしたことは、アダム・スミスの古典的経済学では考えられないことだった。

 そこにケインズにあらわれて、市場は市場にまかせてはいけない。国がこれを管理し、市場に適正な競争原理が働くようにしなければならないと主張したわけだ。また社会福祉制度を充実させ、所得の配分を適正化するのも政府の大切な任務だと考えた。

 とくに不況時には、政府の力で需用を創造しなければならない。ルーズベルト大統領はこれを受け入れ、ニューディール政策を発動した。

 アダム・スミス流の自由主義市場経済はこうして、ケインズによって修正された。そしてこれがそのご、経済学の主流を占めた。しかし、ここにきて、アメリカを中心に、ケインズ主義を批判する声が高くなってきた。日本でも今は、自由主義をとなえる声が大勢をしめている。歴史はふたたび繰り返されるのだろうか。


2005年09月01日(木) 宝探しのゲーム

 今日は経済学の本に書かれていた「宝探しのゲーム」を紹介しよう。100平方キロメートルの草原の土地があって、この草原のどこかに100万円の入った壷が隠されているとする。100人の人が1日だけこの土地を探す権利を買った。

 さて、人々はどうやって宝探しをしたらよいか。その戦略を考えよ、という問題だ。ただし一人の人が一日かけて捜せる範囲は1平方キロメートルとする。まず、考えられるのは、次の二つの戦略である。

�ー�由競争戦略
 各自がそれぞれ独立に自由に宝探しをする。宝は見つけた者がひとりじめにする。

��共同共生戦略
 区画を100に分け、分担して探し出し、宝物は100人に平等に分配する。

 さて、どちらの戦略が優れているかということだ。�,寮鑪�だとすべての土地が探索されるわけではなく、宝物が見つからない場合がある。しかし、各自について1/100の確率で100万円を手に入れることができる。

 �△寮鑪�だと、確実に宝物が見つかるように思えるが、実際はどうだろうか。人間の心理として、だれかがみつけてくれるだろうという手抜き心が起こらないともかぎらない。また、発見しても、手にはいるのは1/100の1万円だけだ。これで労働意欲が湧くかという問題がある。

 結論として言えるのは、どちらの戦略がすぐれているかということは、経済学的に証明することも結論づけることもできないというだ。それはその100人が所属する共同体の性格に多くを依存している。

 アメリカ型の一攫千金を狙う自由競争社会であれば、�,龍チ萓鑪�が有効かも知れない。しかし、かっての日本のような農耕文明の集団主義を色濃く持った社会では�△龍�生戦略のほうが成績がよいだろう。

 なお、実際には�,鉢△涼羇崚�な戦略が無数に存在する。たとえば、共同共生をベースにして、個人のインセンティブにも配慮した次のような戦略だ。これが現実的な戦略といえるかも知れない。

�6莢茲鬘隠娃阿吠�け、分担して探し出し、宝物は発見者が半分の50万円を所有し、残りの50万円を99人で分配する。

 区画の割り振りは抽選がいいだろう。発見者の取り分を少なくすれば、これは連続的に��共同共生戦略に移行する。さてあなたがこのゲームに参加するとしたら、発見者の金額をいくらに設定したいと思いますか?


橋本裕 |MAIL |HomePage

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