橋本裕の日記
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| 2006年08月31日(木) |
暴力による言論封殺を許すな |
8月15日の夕方、山形県鶴岡市にある加藤紘一自民党元幹事長(67)の実家と事務所が、右翼団体の幹部によって襲われ全焼したが、小泉首相はようやく28日になって、「暴力で言論を封じるのは決して許されることではない」と発言した。
安部官房長官も28日の記者会見で、「仮に加藤議員の言論を弾圧し、あるいは影響を与えるような行為であるとすれば許されない」と語った。事件が起こってから、すでに13日が過ぎている。言論の自由は民主主義の根幹である。これを暴力で否定する行為について、たとえ「捜査中」でも、もう少し迅速に対応してもよいのではないか。
30日の朝日新聞朝刊によると、この点について記者から質問された首相は次のように答えたようだ。
「私はいつも聞かれたことに答えている。この問題も、(28日まで)聞かれなかったから答えなかった」
この小泉首相の距離を置いた発言にがっかりした。首相の政治家としての資質について、ますます疑問を持たざるをえない。朝日新聞も、「首相の対応に象徴的なように、真っ先に警鐘をならすべき政界が危機感を募らせているとは言い難い」と書いている。
そうしたなかで、この事件に積極的にコメントした政治家も少ないながらいないわけではない。火中の加藤氏はじめ、何人かのコメントを、朝日新聞から拾っておこう。
「私や母、支持者が受けた被害は大きいが、発言を変えたら被害はもっと大きくなる。国のために思うことは今まで通り発言しなければならない」(加藤紘一自民党元幹事長)
「暴力による言論封殺を意図したのなら言語道断」(谷垣財務省)
「国際的なテロに毅然としなければならない、という日本は、国内のテロにも毅然としてほしいと願っている」(河野洋平衆院議長)
「郵政民営化に反対するのは悪いやつだ。靖国神社(参拝)で何が悪いんだという手法や考え方が、日本の社会に危険な結果をもたらす」(小沢民主党代表)
しかしながら、多くの政治家はだんまりを決め込んでいる。メディアや言論人の動きも控えめだ。田原総一郎さんによると、「朝まで生テレビ」でも、小泉前首相の靖国参拝反対の論客が、ここにきて急に出場を辞退するようになり、スタッフが困っているという。田原さんは、週刊現代9/9号の記事の中で、こう答えている。
「それはメディアが自分たちに被害がおよぶことを恐れているからです。いってみれば自己保身ですよ。加藤氏の実家放火事件を報じた新聞を見ても、とても臆病で脅えた書き方になっているのがわかります」
メディアの世界に通じている田原らしい発言である。田原さん自身、自己保身と自己宣伝の名人だと思うが、それは別にして、彼もこの事件に言論封殺の危機感を覚え、この言葉を残したのだろう。言論人として、是非、言論の自由擁護の毅然とした立場を貫いてほしい。
| 2006年08月30日(水) |
遊就館、反米的展示を変更 |
靖国神社に行ったのは、もう10年近く前のことだ。そのとき戦史博物館「遊就館」も覗いてみた。零戦やさまざまな戦争の遺物・遺品が展示してあり、それなりに見応えはあった。どうじに何か異様な精神のオーラのようなものを感じた。
靖国神社が戦死者の御霊を祀るだけのものでないことは、遊就館を訪れてみればわかる。戦争の悲惨さを訴えるのではなく、日本人がいかに勇敢に、けなげに戦ったか、涙を誘うようなセンチメンタルな内容だ。その一方で、日本軍の侵略で蹂躙された2000万人以上のアジアの人々に対する反省や贖罪はない。
太平洋戦争についても、不況でおいつめられたルーズベルト大統領が、国内経済の復興を目的に対日開戦を画策したような説明がしてある。つまり日本アメリカに強要されて戦争を行ったと考えている。展示されたパネルにはこう書かれていた。
「米国の戦争準備『勝利の計画』と英国・中国への軍事援助を粛々と推進していたルーズベルトに残された道は、資源に乏しい日本を、禁輸で追い詰めて開戦を強要することであった。そして、参戦によってアメリカ経済は完全に復興した」
小泉首相の靖国参拝が海外のメディアでも取り上げられ、遊就館の存在も少しずつ知られるようになった。そうすると、当然、こうした靖国神社の戦争観も問題になり、アメリカのマスメディアもこうした靖国神社の一面的な戦争観について疑問や苦情を呈し始めた。
たとえば、アメリカの保守派の論客であるジョージ・ウイルは、8月20日の米紙ワシントン・ポストで、こうした靖国神社の戦争観を「唾棄すべき不誠実」な見方だとし、安倍晋三氏は新総理となったら靖国に参拝すべきでないと主張している。
「遊就館の展示によれば、『大東亜戦争』は、ニューディール政策が大不況を駆除できなかったので、資源の乏しい日本を禁輸で戦争に追い込むという、ルーズベルト大統領の唯一の選択肢として起こされたものであり、その結果、アメリカ経済は完全に回復した、と言う。これは唾棄(だき)すべき安っぽい(あるいは、虚飾に満ちた、不誠実な=dis−gracefully meretricious)議論であり、アメリカ人の中で、アンチ・ルーズベルトの少数ながら声ばかりは大きい連中が同じようなことを言っていた」
アーミテージ前米国務副長官も産経新聞との会見で、戦史博物館「遊就館」のありかたについて、「戦争に関する一部展示の説明文は日本で一般に受け入れられた歴史の事実とも異なり、米国人や中国人の感情を傷つける」と、同様な苦言を述べている。
こうした事態をうけて、ようやく靖国神社も重い腰をあげた。「ルーズベルトの大戦略」と題して第二次世界大戦での米国の戦略について触れた部分については、「誤解を招く表現があった」として、遊就館の展示をかえるのだという。
これまでどんな圧力にも屈しせず、頑なにその姿勢を押しとおし、昭和天皇をもさえ困惑させた靖国神社が、その主張を変えるのは異例のことだ。小泉首相の靖国参拝が国際的に注目されたことの、おもいがけない副産物と言えるのかも知れない。
以前、中国や韓国を含め、近隣諸国の多くは自国の経済発展を日本の協力に仰いでいた。日本のODAや技術援助は彼らにとっては死活問題だった。だから、日本に対する不満はさまざまなレベルで抑えられてきた。
1990年代に入って、日本は経済的に行き詰まり、これと対照的に中国などが台頭してきた。東南アジア諸国が日本から経済的自立を始めたのだ。それと時を同じくして、日本の戦争責任問題も追求されるようになった。
大量の借金をかかえる日本政府も経済援助でこの国際世論を押さえきれなくなっている。国際社会で日本がどう見られているかは、去年、安保常任理事国入りをめざした日本が、ついに足許のアジア諸国でさえ冷たくされたことでもわかる。もはや日本の得意とする札束外交が通用する時代ではない。
しかし、日本は冷戦構造下における経済大国時代の認識から脱却できていない。そして中国や韓国など、これまで援助対象国だった近隣諸国が自主的な主張をしはじめたことに、苛立ちを感じ始めている。さらに「嫌韓」「嫌中国」の心情や敵対的な意識が一部に広がっている。
最近、主要閣僚から「核武装論」がでたり、憲法をかえて、自衛隊を軍隊にするなど、軍国主義復活を懸念させる動きがでてきた。国会議員が集団で靖国神社へ参拝したりするパフォーマンスも目だつ。またこれを後押しする世論の動向もある。
一般に、国際問題を解決する方法として、次の4つの方法がある。
�〃从囘�解決(経済援助など) �∪�治的解決(外交努力) �7鎧�的解決(軍事力による威嚇や行使) �な顕重�解決(文化交流、相互理解)
軍国主義というのは、政治的解決、経済的解決、文化的解決といった平和的な手段を二の次にして、軍事力を優先させる考え方だ。日本は平和憲法を持ち、これまで平和的な手段を用いてきた。しかし、ここにきて、そうした平和主義を否定するような動きが見られる。札束外交がだめなら、軍事的プレゼンス重視でという流れである。
過去に大きな被害を受けた経験のある近隣諸国は、最近の日本のこうした一連の動きを見て、軍国主義が復活したのではないかと疑念を深めている。この疑念は近隣諸国のみではなく、日本国内の平和を愛する人々の間にも広がっている。
私がセブの語学学校で出会った韓国の若者は、男子の場合、全員軍隊の経験があり、日本の動向にも関心を持ち、こうした日本軍国主義復活の疑念を持っていた。にもかかわらず、彼らは大変友好的だった。
彼らの主張は、歴史認識の違いなど、さまざまな点で日本に疑問を持っているが、そうした障害を乗り越えて、韓国や中国は日本と真の友好関係を築くべきだということだった。日本を敵視するのではなく、あくまで未来を見据えて、友好関係を維持・発展させたいと願っていた。私たちもまたこうした韓国の良識ある若者たちの願いに応えていくべきだ。
そしてそのために必要なのは、相互理解と友好の立場に立った、本当の意味の経済的、政治的、文化的解決をめざすことだろう。軍事的プレゼンスに解決を求めることは、日本にとっても、世界の平和と安全にとっても最悪の選択であり、世界をふたたび地獄へと導く道であると知るべきである。
| 2006年08月28日(月) |
無知による寛容と傲慢 |
アジア地域での戦争犠牲者数について、私が目を通した多くの著作や新聞ではおよそ2000万人以上となっていましたが、文部省の検定した平成18年度用中学校歴史教科書には、「清水書院」のようにその数が明記されていないものもあります。参考までに検定済みの中学校歴史教科書の記述を紹介しておきましょう。
○扶桑社
大戦全体の戦死者は2200万人、負傷者は3400万人とも推定されている。
○日本文教出版
第二次世界大戦の被害 死者は5500万、負傷者は3500万、戦費は1兆5000億ドルともいわれるが、実数は不明である。
○大阪書籍
こうして、第二次世界大戦は、全世界では約6000万人、アジアで2000万人にのぼる犠牲者をだし、特に一般市民の犠牲者が多数であったことなど、深い傷あとを残して終わりました。
○東京書籍
こうして、数千万人の死者を出したといわれる第二次世界大戦が終わりました。注釈:アジア各国の犠牲者は合計で約2000万人以上といわれています。
○日本書籍新社
この戦争での日本人の死者は、軍人・民間人をあわせて約310万人(朝鮮人・台湾人5万人をふくむ)、アジア諸国の死者は中国だけでも1000万人をこえるといわれている。
○帝国書院
第二次世界大戦での日本軍の死者は130万人以上といわれ、民間人も60万人以上が亡くなったといわれています。(中略)世界中での死者は、3000万人をこえたといわれています。
○清水書院
日本は、このみずからおこした侵略戦争によって悲惨な体験をし、また、戦った中国や東南アジア、欧米の国ぐにだけでなく、戦争に動員した朝鮮・台湾などの人びとにも、大きな被害と深い傷あとを残した。(実数の記載なし)
http://dec2750.dhs1.sst.ne.jp/MyHomepage/text.html
日本軍が東南アジアに進軍して、多くの戦争犠牲者を出しました。それではなぜ、2000万人もの被害者が出たのか。これについて、いろいろな原因が考えられますが、やはり日本軍の採用した「現地調達方式」が一番の問題ではなかったかと思います。
つまり充分な食料補充計画がないので、日本軍はその生存を「現地調達」に頼らざるをえませんでした。食料のみならず、車両や商船を没収しました。さらに大量の「軍票」を発行し、現地の経済を壊滅状態に追いやりました。(殖産興業にはげんだ朝鮮半島や台湾などの一部の例外はあるかと思います)
日本軍の死者もその大半は餓死によるものです。これは敗戦が濃厚になり、現地調達ができなくなったためと思われます。どうような被害は日本軍の侵出によって食料を没収され、生産手段までうばわれた現地の人々にも過酷にのしかかりました。
なお、日本軍の「現地調達式」は戦争の拡大を必然化します。食料を求めて、日本軍はどんどん戦線を拡大しなければならなかったからです。
こうした失敗は、すでに秀吉軍がおかしています。そして西洋史に目を向ければ、ナポレオンが犯しています。ロシアの奥地に侵出したものの、ロシアは全てを焼き払い退却したため、食料が尽きました。
同様の失敗をナチスドイツも繰り返しました。いずれも食糧補給を現地調達に求めたための悲劇です。こうした方式のもとでは、略奪やレイプ行為が常態化し、現地人の被害がいやがうえにも大きくなります。第二次大戦ではロシアが最も大きな戦争犠牲者を出しました。
日本軍とちがって、連合国軍は食糧補給を現地には頼らず、本国から豊かな物資を前線に運んでいました。したがって略奪など起こりようがありませんでした。それどころか物資を占領地域にまで施しました。また日本軍と違ってアメリカは「軍票」を発行しませんでした。戦後、日本がアメリカに友好的になったのも、こうした占領政策のたまものだったのです。
なお人類の長い歴史の中で「現地調達式」が唯一成功した例があります。それはジンギスカンのモンゴル帝国でした。しかしそれは彼らが遊牧の民であり、現地調達に必要な牧草が各地に恵まれていたためだと考えられます。
いろいろな歴史認識がありますが、日本の始めた戦争によって、2千万人以上のアジアの人々が命を落としたことが事実だとすれば、「日本は本当に、アジアの人々に対して、言われているような悪逆非道なことをしたのか。語ることを封じられているが、本当は、良いこともいっぱいしたのではないか。惨劇を招いたことに、中・韓の人々の問題はなかったのか」(moriさんの掲示板での発言)といった発言はありえないのではないでしょうか。
なお、私は今年8月にセブに3週間滞在しましたが、私の接したフィリピンの人々はとても友好的でした。しかし、どうじに彼らは小泉首相の靖国神社参拝も知りません。いや、靖国神社そのものの存在もしらないのです。これは無知から来る寛容であり、もし事実を知れば、おそらくまた別の感想をもつのではないかと思いました。
この無知の上にあぐらを掻いていて傲慢になってはいけません。彼らもやがて道から目覚めるかも知れません。すでにフィリピンでも啓蒙活動がはじまろうとしています。なにしろ当時2000万人に満たない国民のうち、100万人以上が日本軍の侵略により生命を奪われているのですから。しかもその犠牲者の家族がまだ生存しています。
今後経済が発展し、日本の援助がそれほど必要でなくなれば、韓国や中国同様、日本の戦争責任問題が顕在化する可能性は大きいと思います。事実、去年、私がセブに滞在中に、日本軍の残虐行動を批判する映画が封切られ、かなりの観客を動員していました。
なお、戦争犠牲者については、各国の専門家が統計を出していますが、犠牲者の定義や範囲を決めるのはなかなか容易ではないと思います。統計の取り方によっては、犠牲者の数は3000万人にも4000万人にもふくらむからです。
たとえば、インドを代表する映画監督サタジット・レイといえば、代表作は「大地のうた」ですが、彼には第二次大戦中のベンガル地方を舞台にした秀作映画「遠雷」があります。一口に言えばこの地方で米の買い占めが起こり、豊かだった村が崩壊していく話です。
米の買い占めが起こったのは、日本軍のマレーシア侵略が引き金でした。「遠雷」というのは遠くの戦争を象徴しています。この映画は史実をもとにしており、サタジット監督によればこの年ベンガル地方の餓死者は二千万人を越えたそうです。こうしたことまで思いを致すならば、今更ながらあの愚かな戦争の罪の大きさを考えずにはいられません。
一部に若者の右傾化は「自虐史観」せいだという論調がある。また戦勝国の戦争責任も問うべきだという声もある。私も戦争責任は原爆を投下した米国にも及ぶと考えるが、戦勝国側の戦争責任を追及するためには、まず自国の戦争責任をしっかり受け止める必要がある。
Nさんが「戦争を語り継ごうブログ」で主張されているように、大切なのは「自省史観」である。そして、「自省」は決して「自虐」ではない。若者の右翼化の原因は「自虐史観」によるものではなく、むしろ戦争の悲惨さや、歴史についての無知によるものではないだろうか。
http://nishiha.blog43.fc2.com/
さて、昨日の日記の「右翼に阿るなかれ」を補足しておこう。朝日新聞社阪神支局襲撃事件(小尻記者殺害 もう1人は重傷 迷宮入り)は見落としてはいけない。この事件以来、マスコミの「自主規制」が強くなった。さらに、遡れば、1960年に日本愛国党員が引き起こした「嶋中事件」がある。
これは深沢七郎が中央公論に発表した「風流夢譚」を不敬とみた日本愛国党員が、中央公論社長宅のお手伝いの女性をめった刺しにして殺害した事件で、日本の言論界はこれによって沈黙した。
深沢七郎は右翼の迫害を逃れて、漂泊の旅に出たが、深沢の支持者だった三島由紀夫も深刻な精神的打撃を受け、これを契機に自ら右翼に転向した。(『三島由紀夫の生涯』安藤武著)
脅迫されればだれしも身を引く。沈黙するのであればまだ良心的だが、中には保身のために「阿る」政治家や言論人がでてくる。軍部に阿り、自己保身を測った戦時中の日本のマスコミや政治家がいやでも脳裏に浮かぶ。
5.15事件や2.26事件が起こったとき、青年将校も悪いが、襲われた政治家も悪いという言説がはびこった。言論を封殺する暴力については、とくに言論人は毅然とした態度で臨む必要がある。
フイリピンで通用する日本語に、「カラオケ」と「ヤクザ」がある。ジセール先生は「カラオケ」が日本語だとは知らなかった。日本にもカラオケがあるというと、意外そうだった。しかし「ヤクザ」が日本語なことは知っていた。授業中に「ヤクザ」について話し合ったが、日本人にとってフィリピンは治安の悪いところというイメージがあるが、フィリピンの人たちにとって日本とは「ヤクザ」が支配する恐ろしい場所というイメージがある。
実際、ヤクザは日本で大きな勢力を持っている。なぜ、そうなったのか。そして現在の彼らの活動はどうなっているのか。カプランとディプロの「ヤクザが消滅しない理由」(不空社)を読むとよくわかる。アメリカで出版されたこの本は9ケ国語に翻訳され、世界中で読まれている。しかし、日本ではこれを引き受ける出版社がなかなか見つからなかった。
日本のヤクザはアメリカのギャングやマフィアにたとえられる。しかし、実は、それ以上の存在である。それは「極右」というその独特の政治的スタンスと結びついているからだ。「ヤクザが消滅しない理由」から引用しよう。
<ヤクザは日本の極右と密接に結びついており、一つの政治勢力とこれほど関係している組織犯罪グループは世界にはほとんど例がない。少なくともアメリカでは、政治的に極端な団体とマフィアのような組織を入れかえてみても、区別がつかないなどということは考えられない>
<何十年にもわたって組織暴力を容認してきた結果、ヤクザは社会の奥深くに根ざしてしまっているので、静かに退却することはないと思われる。イタリアでは勇敢にも行く手を妨げる警察、検察、聖職者たちをマフィアが爆弾で吹き飛ばしたり、機関銃で乱射したりするが、ヤクザはそんなやり方で反撃したことはない。しかし、彼らの汚職や暴力の使い方は大変陰険である。ヤクザは日本株式会社のすみずみにおよぶ腐食性が強く、影響力も絶大な汚職構造を育て上げている>
8月15日の夕方、山形県鶴岡市にある加藤紘一自民党元幹事長(67)の実家と事務所がある右翼団体の幹部によって襲われ全焼するという事件が起こった。犯人はその場で割腹自殺を図った。たまたま加藤氏の実母は外出中で難をのがれた。犯行の動機は、加藤氏がテレビで小泉首相の靖国参拝を批判したからだという。この右翼団体の構成員は92年にも当時の宮沢喜一首相の私邸前で「天皇訪中反対」を叫んで訪朝で割腹している。
88年には当時の長崎市長・本島等氏が「昭和天皇にも戦争責任がある」と議会で発言して、右翼に襲われた。これらはほんお氷山の一角である。右翼に襲われないまでも日常的に脅迫を受け、圧迫を受けている政治家や言論人は数知れない。田中元首相は日中国交回復にあたり死を覚悟したと言う。じっさい殺害計画もあったようだ。
私の知人にも右翼に脅されたという人が何人かいる。私自身も実は「新右翼」と名乗る男から、深夜に長時間電話を受け、新聞投書の内容について難詰された。電話は明くる日にも及び、電話口に出た妻にまで家族構成について尋ねたあと、「今からそちらに行く。まっていろ」と捨てぜりふを吐いた。新聞に投書した内容について、家族まで持ち出して脅迫されてはたまらない。それまで毎月のように新聞に投稿していたが、その後、私は新聞への投稿を控えるようになった。
これは家族の安全を最優先させる必要からやむを得ないと判断したからだ。無力な一市民としてこれはやむをえないことだと思うが、政治家や言論人が私と同じようにそのような自主規制をしはじめたらどうなるのか。自主規制ばかりではなく、政治家や言論人の中には、こうした勢力に阿る者も出てくるにちがいない。
右翼から脅されない確実な方法は、みずから右翼になるか、右翼的にふるまうことだ。私は小泉首相の靖国神社参拝もたぶんに右翼対策のパフォーマンスではないかと考えている。
8月15日、小泉首相は公約通り、靖国神社に参拝した。現職首相としては中曽根康弘氏以来21年振りである。毎日新聞の調査だと、小泉首相のこの靖国参拝を、約半分の国民が支持しているという。小泉首相は就任当時80パーセントを越える国民が支持した。現在も支持率は50パーセント台を維持している。
どうしてこう支持率が高いのか。それはマスコミを使った世論操作がうまいからだろう。その典型が「自民党をぶっこわす」とか、「構造改革なくして景気回復なし」という庶民にもわかりやすいワンフレーズ・ポリティックスだ。また、たくみに抵抗勢力を作りだし、これを叩くことで庶民の喝采を博してきた。去年の9月に衆議院を解散して郵政民営化法案を通したときも、この手法を使って大成功した。
ハンチントンは「文明の衝突」の中で、「外に敵を作れば、国はまとまる」と書いている。ポピュリズム政治家が支持率を拡大するために使うパフォーマンスの常套手段が「外に敵を作る」ということだ。たしかにこれで自国はまとまり、政権は安定するが、しかしその代償も大きい。それは外交上の失点が大きくなるからだ。小泉首相の場合も中国や韓国を敵に廻し、安保常任理事国入りという大魚を逃した。「ハンチントンの罠」に落ちたわけだ。
小泉首相は「なぜ、靖国に行くのか」という問に対して、「中国や韓国が反対するから、参拝に行ってはいけないのか」と開き直る。しかし、この開き直りはおかしい。「反対するから行くな」というのではない。「なぜ反対するのか」をもう少し考えるべきだろう。それは靖国にA級戦犯が祀られているからだ。
先の戦争について言えば、小泉首相はこれが日本の侵略戦争であることを認めている。いわゆる「村山談話」を踏襲し、過去の日本の行為を謝罪し、A級戦犯の罪を国会で認めた。また、中国の盧溝橋にある「中国人民抗日戦争記念館」を訪れ、日本政府首脳としては初めて中国の戦争犠牲者に献花し、黙とうを捧げた。彼は「いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます」という首相書簡を出している。
しかし、こうしたさまざまな地道な努力も、「靖国参拝」によってすべて否定されてしまった。これは小泉首相にとって不本意なことかもしれないが、それも結局は小泉首相の歴史認識が足りないからだろう。日本が行った侵略戦争について、本当に反省していれば、現職首相として8月15日に靖国神社に参拝するということはできなかったはずである。
先の戦争について、中国も韓国も日本国民には罪はなかったという寛容な立場をとった。天皇も含めて、一般国民は日本軍国主義の犠牲者だったという立場である。そのかわり、一部の軍事指導者、とくに戦争の最高指導者である「A級戦犯」については、厳しい処置を求めた。東京裁判はこうした視点に立って裁かれている。
たしかに天皇や一般国民に戦争責任はないのか。東条英機を代表とするA級戦犯にすべての罪を被せて、国民は被害者とばかり頬カムリをきめこんでよいのかという疑問は残る。この意味で、私もまた東京裁判の戦争観には疑問を持っている。しかし、これによって、A級戦犯の戦争責雄が免責されるわけではない。
A級戦犯を靖国神社に祀り、日本の首相がこれに参拝するということは、戦争被害を受けた国々からすれば、A級戦犯の免責としか映らないことはあきらかだ。すでに天皇が免責され、一般国民が免責されている以上、これでは戦争責任を引き受ける者はだれもいなくなる。これは先の戦争は侵略戦争ではなく、自衛のための戦争だという戦争観そのものの変更にもつながりかねない。
小泉首相は「中国や韓国が反対するから行かないのか」とひらき開き直ったが、中国や韓国ばかりではなく、国内にも首相の靖国神社参拝に反対する声があることを考慮すべきだ。そして何故反対しているのかを熟慮し、それでも参拝が必要だというのなら、しかるべき見解を明らかにすべきだろう。小泉首相は自らの意志で選択した行動を国民にわかりやすく説明する政治責任がある。
昨日は妻と二人で神戸に行ってきた。神戸ではケーキを食べ、それから三宮へ行き、ちょっと洒落た店で昼食にステーキを食べたあと、山の手の異人館街を巡って帰ってきた。例によって青春18キップの旅だ。途中、天満宮があったのでお参りした。そこから神戸市が一望された。妻の携帯で記念写真をとった。
平成7年1月17日の大地震で神戸は大きな被害をうけた。異人館もすべて被災したそうだが、10年余りを経て、災害の爪痕は修復されたようだ。もっとも、人々の心の中の爪痕は、いまも残っているのだろう。
私は連日の青春切符の旅なので、少し疲れた。それにこの暑さである。精神的には「青春」のつもりでも、肉体の方は加齢による脆弱化が進んでいる。今日は夏休み最後の休日である。明日からの勤務にそなえて、あまり無理をしないで、自宅で読書でもして静養することにしよう。
妻とふたり坂道登れば異人館 古き家具にも異国の匂い 裕
青春切符はあと二枚残っている。さてどこへ青春しようか。
| 2006年08月23日(水) |
お父さん、ごくろうさんでした。 |
昨日は青春18切符を使って、福井に帰省した。JR木曽川駅7:44発の電車に乗ると、途中、大垣、米原、敦賀で乗り換えて、10:40分に福井駅に着いた。勝木書店で本を立ち読みしたあと、11時半ごろヨーロッパ軒に行った。ここでソースカツ丼を食べるのが楽しみである。
ところが火曜日が定休日だという。しかたがないので、その近くの蕎麦屋に入り、これも福井名物の「おろしそば」を食べたが、やはりヨーロッパ軒のカツ丼が食べたかった。何だか物足らない。火曜日が定休日だということを知っていたら、帰省を一日延ばしていたことだろう。
腹ごしらえを終わって、実家に行った。C型肝炎でインターフェロンの治療を受けている母は、副作用で食欲がなく、肌も荒れていた。しかし、6月に入院していた頃とくらべるとだいぶん元気になっていた。弟夫婦は共稼ぎで、4人の男の子を母が面倒をみて育てた。これは大変なことである。
病気に加えて、子育てのストレスがかなり溜まっている。2時間ほど母はしゃべり続けた。私には母の愚痴を聞くくらいしかできない。母は友人がたくさんいるが、やはり家庭内の立ち入った話はしずらいという。「あなただから話せるのよ」と、日頃の鬱憤をぶつけてくる。母の話は愚痴のようでいて、半分は自慢話だ。聞いていておかしくなり思わず笑うと、母も大声で笑った。
「いろいろあるけど、家族が健康でいられるのが一番の幸せだね。あなたも、どこもわるくないの」 「ああ、健康そのものだよ」 「私も体がずいぶん楽になった。それに、お父さんの恩給がたくさんあるので助かっているのよ」
父は軍人をしていたので、その恩給がある。さらに、警察官を15年務めた。さらに、自動車学校の教員を15年間と保険の検査士を15年間。その各々に年金がついているのだという。あいにく父はこの恩給をほとんど貰わずに死んでしまった。勿体ない話だが、それでも母が半分もらえる。
私は母の話を聞きながら、兵隊で苦労したあげく、45年間も働き、そして体がぼろぼろになって死んでいった父のことを思った。まさに苦労の連続の一生である。「おとうさん、ごくろうさんでした」と、心の中で手を合わせた。
そういえば、父の好物が「おろしそば」だった。蕎麦を食べるときの、嬉しそうな父の顔をふと思い出した。
56年間も生きていると、数知れぬ失敗がある。中には取り返しのつかない失敗もないではない。大小さまざまな失敗に彩られたわが人生だが、こうした失敗を通して、私の人生が形作られてきたのだと思う。こうした感懐を抱いたのは、10年ほど前に自伝を書いたときだ。私の自伝はこうした失敗のエピソードで満ちている。
他人の自伝を読んでいて面白いと思うのは、その失敗談を読むときである。反対に、成功談を読んでも面白くはない。成功談ばかりの自伝は何か嘘臭さを感じさせる。そして何だか「自分はこんなに優秀な人間です」と自分をひけらかしているようで、鼻持ちならない。
もっとも、私の自伝も今読み返してみれば、鼻持ちならないところが多々ある。それは結果として、自分の人生が成功したように書いているからだ。「失敗は成功のもと」と言った安易な、予定調和的なところがある。たとえば、大学院の受験でラブホテルに泊まり、寝不足のもうろうとした頭で数学の問題をとく羽目になった。しかし、それでも合格した。これは一種のホラ話になっている。いい気なものである。読む人によっては不快だろう。
そもそも私は自分の人生で最大の失敗だと考えていることを、自伝にも日記にも書いていない。それは私の恋愛問題なのだが、こればかりはどうしても書けない。それはその失敗があまりに大きすぎるからだ。そしてわたしの過ちの故に、現にまだ苦しんでいる人がいるからである。
いろいろ考えてみると、私は多くの人を踏みつけて生きてきた。そして踏みつけて生きてきたという自覚さえ乏しかった。私のエゴイズムによって傷を負った人は無数にいる。そして現在もなお、私は多くの人に傷を与え続けているのかも知れない。このことを考えると、生きるということが何だかとても重苦しくなる。
今日の日記にこんなことを書いたのは、過去の書類を整理していて、私が人に与えた手紙の写しが出てきたからだ。20数年前のその手紙は、あらためて私に「とりかえしのつかない失敗」があったことを教えてくれた。しかし、この手紙をここに引用することはできない。下手に引用すると、この手紙自身も、自分が如何に女にもてたかという一種のホラ話になりかねないからだ。
なぜなら、その手紙自身がそうした調子で書かれているからだ。いい気なものである。しかもその手紙は、現在の私の姿をも容赦なく映している。「文は人なり」というが、これは真実であるだけに恐ろしい。
私が勤務している定時制夜間高校は25日から2学期が始まる。夏休みもあと僅かだ。今年は3週間セブへ行き、そのあと病院で大腸の検査をしたり、2泊3日の合宿があって、自宅でのんびり休むことがなかった。今日からの4日間が、はじめて迎えるくつろいだ夏の休日ということになる。
今日は久しぶりで長女が帰ってくる。看護婦の長女は日曜日も勤務で、夜勤明けだそうだ。長女とはおたがいの日程がすれ違って、同じ一宮に住んでいながら、もう一ヶ月以上も顔をあわせていない。セブのお土産を手渡してやろうと思う。
お昼は友人のtenseiさんと喫茶店でランチの予定。妻と長女は別行動で名古屋の妻の実家に行くようだ。私は午後はのんびりDVDでもみて、骨休めをしようかと思っている。
明日は青春切符を買って、福井に帰省しようと思っている。6月に母が肝炎で入院し、そのとき妻と次女でお見舞いと墓参りをした。その後、母とは電話で話したが、実際に顔を見てみたい。会いたい気持は母も同じだろう。福井に帰省したら、毎回ヨーロッパ軒でカツ丼を食べる。これも楽しみだ。
青春切符は9月10日まで使える。あと4枚をどう使うか。若狭へも行きたい。小浜で海の幸を味わい、青葉山の麓にある青郷という村にも行ってみたい。小学生時代を過ごした土地を訪れ、山や川を眺めているだけで私は幸福になる。残りの2枚は妻と二人でどこかへ行こうと思う。たぶん日帰りで神戸に行くことになるだろう。これは妻の希望である。
こうして、あれこれ旅のことを思案しているのもまた楽しいことだ。お金はないが、青春切符を使った日帰り旅行も小回りが利いていいものだ。青春切符に感謝しよう。
午前中、S先生の別荘から少し離れた鱒釣り場まで、山の中の渓流沿いの道を一人で散歩した。この道は秋の紅葉が見事だそうだ。S先生はこの紅葉の美しさに惹かれて、ここに別荘を買ったのだという。今は青葉の季節である。これもまた、清々しくてよい。
私はどうも集団生活というのが苦手で、合宿などというのはもとより性分にあわない。だから、一人になって木洩れ日の中を散歩していると、えもいわれぬ幸福感に襲われる。ひとりでいることが、こんなにすばらしくて、こんなにも恍惚とさせてくれるとは。我ながら孤独癖の強い生まれつきだと思う。
途中、清水のわき出ているところで、顔を洗い、口をすすいだ。ハンカチで顔を拭いていると、緑の樹間を渡ってきた風が快い。これもまた、得も言えぬ快感である。思わずベートベンの「喜びの歌」を口ずさんでいた。
鱒釣り場には家族連れの姿があった。魚釣りの趣味は私にはないが、人が釣っているのを見るのは好きだ。しばらく時間を潰してから、また山の中の道を引き返した。途中、蛇が車にひかれていたりしたが、滅多に車は通らない。人にもほとんどあわない。この静寂がよい。蝉の声、風の音ばかりだ。何という散歩によいところだろうと思った。
散歩から帰ってくると、生徒たちは半分は部屋で眠り、半分は音楽を聴きながらお喋りしていた。台所ではS先生が葱を刻んでいた。生徒があまり動かず、その分S先生が孤軍奮闘している。来年退職するS先生は始終温顔だが、顧問としては何だか申し訳ない。私もS先生を手伝って、ラーメンの麺を袋から出したり、食器を並べたりした。そうしているうちに、生徒もやおら手伝い始めた。
合宿のために、一人あたり5000円を集めたが、1万数千円残った。そこで、一人1100円ずつ返金した。2泊3日、大いに食べて飲んで、温泉に浸かって、交通費もただで、4千円でお釣りがくるわけだから、生徒たちにとってこれは安上がりの合宿である。しかもまだ残金が3500円あまり残っていた。それをお世話になったS先生に貰ってほしかったが、「部費の足しにしてください」と受け取らない。お金よりも、生徒たちの喜ぶ顔を見るのが楽しいのだろう。
生徒たちを学校に送り、一宮の自宅に帰ってくると5時を過ぎていた。妻が「夕食にラーメンでも食べに行かない?」という。お昼がラーメンだったので、「ラーメンだけはいやだ」と答えた。結局近くの「角」というくるくる寿司へ行った。二人で2千5百円も取られたが、久しぶりに食べる寿司はうまかった。
この数日間で、いちばんのご馳走は鉄板でみんなで焼いたバーベキューだろうか。しかし、私にはもうひとつ、とっておきのご馳走があった。それは「山の中の散歩」である。すがすがしい日差しに体を晒して歩いたこの夏の想い出は、しばらく私の中で生き続けだろう。幸福でいられるためには、ときにはこうして魂の栄養をたっぷり摂る必要がある。
S先生の別荘は足助町から20分ほど山の中に入った、渓流沿いの静かな一軒家だった。夕方到着するとさっそく手分けしてカレーを作った。そのあと簡単なミーティングをして解散。私は9時頃、二階の一室のベッドに落ち着いた、S先生は何と庭にテントを張って、その中に寝るのだという。
何だか申し訳ないような気がしたが、「こちらの方が安眠できます」とのこと。その意味は夜になって分かった。生徒たちが興奮して眠らないのだ。時計を見ると、何と4時である。癇癪をおこした私は、最後まで居間で話していた2人に「即刻、床に就きなさい」と厳命した。たのしい合宿の雰囲気を壊したくないが、これでは寝不足になる。演劇の練習ができるわけがない。
ようやく静かになってやれやれと思ったら、今度は隣室からすごい鼾が聞こえてきた。たまらず私は外に出て、車の後部座席に体を縮めた。ようやく安眠の場所を得た。最初からここで眠ればよかった。
今日は7時に起床。8時頃から朝食。生徒たちが用意したのはホットケーキである。これに加えて、S先生が御飯と味噌汁、漬け物を用意してくださった。これがたいへんおいしかった。
9時から生徒7人と私で朝の散歩に出た。それから生徒たちは演劇の練習。私はS先生に椅子を借りて、庭の木洩れ日の中で読書をした。読んだのは広島原爆を描いた漫画「はだしのゲン」である。S先生の書棚に全9巻のうち5巻を除く8巻がそろっているのを見つけて、合宿中にこれを読破してやろうと決心した。読み始めたら夢中になった。
お昼はそーめんを食べた。それから3時過ぎにみんなで足助のマーケットにまで買い出しに出た。今夜はバーベキューである。女生徒5人は野菜の下ごしらえをし、S先生の指示にしたがって、男子生徒2人と私は炭火をおこす手伝いをした。炭はS先生が自ら窯で焼いたものだという。なかなか本格的なバーベキュー大会になった。
そのあと、全員で足助町にあるスーパー銭湯に行き、露天風呂でくつろいだ。9時過ぎに帰ってきて、花火大会。そのあと生徒7人と私は懐中電灯を持って山の中の道をあるいた。肝試しである。頭上に星が輝いていた。数が多すぎて、星座が読みとれないくらいだ。流れ星をいくつか見た。
別荘に帰ったあと、私は一人ベッドで「はだしのゲン」を読み耽った。生徒が「先生、トランプやろう」と言ってきたが、「今、読書中」と断った。集中していると、生徒たちがさわいでも気にならない。11時過ぎにこっそり家を抜け出して、車の後部座席へ行った。すぐに前後不覚の眠りに落ちた。
昨日は一日学校をお休みして、「セブ島留学日誌2」を書き上げた。書き上げたと言っても、日記の文章にデジタルカメラで撮った写真を配置しただけである。それでもこの作業に3時間ほど費やした。写真を眺めながら、楽しかったセブ島のことを考え、追憶に耽っていたからだ。
http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/cebu2.htm
ところで、セブ滞在のために、演劇部の指導がお留守になった。8/13に帰ってきて、さっそく14日と16日の両日、演劇部の練習を見たが、練習どころか、まだ、シナリオもできていないのに愕然とした。こんなことでは、秋の文化祭で本当に上演できるのか、おぼつかない。
そもそも練習日だというのに集まりが悪い。14日に顔を見せたのは、7人のメンバーのうち、3人だけである。16日にも5人しかそろわなかった。この両方に欠席した部員が一人いる。もっとも、肝心のシナリオが出来ていないのだから、たとえ部員がそろっても、本格的な練習などできない。それにしても、これまで何をしていたのか。部長に問いただすと、アルバイトで忙しかったという。それに、他の部員が協力的でないという。
シナリオについては、細かいことは練習しながら肉付けしていけばよい。「とにかく、あら筋だけでも書き上げなさい」とアドバイスした。シナリオもあくまで生徒に書かせ、内容については口を出さないことにした。とりあえずは静観して、部の活動にかかわる一切のことを部員たちで何とか工夫して自主的にやらせたい。その結果失敗しても、それもまた大切な体験だ。失敗から学ぶことで成長できればよい。
夏休み中の合宿については、生徒達の様子を見て中止するつもりでいたが、これについては部長はじめ他の部員も、「合宿でもしないと、志気がもりあがらない。ぜひ、早めにやりたい」と口を揃えていう。さいわい大腸内視鏡の検査も無事終わり、足助に別荘を持っているS先生も協力して下さるというので、明日から2泊3日で行うことにした。あまり堅苦しく考えずに、半分はレクレーションだと考えることにした。
S先生は同じ1年生の担任で、バトミントン部の顧問をしている。演劇部員の多くは、バトミントン部にも所属しているし、私自身も実はバトミントン部の副顧問である。S先生とはこれまで親しくお話しする機会もなかったが、これを機会にお近づきになれればと願っている。
| 2006年08月17日(木) |
フィリピンの対日感情 |
セブでフイリピン人の先生二人(ジセール、ミミ)に、「第二次大戦で日本軍はフィリピンに侵略し、大勢の人をレイプしたり殺傷したりした。私の考えでは(In my opinipn)これは容易に許し難い非人道的なことであり、しかもその償いを日本はまだ充分していないと思うが、あなたはこのことをどう思うか(How do you feel about it)」と尋ねた。
ジセールもミミも判で押したように、「日本人は過去に悪いことをしたが、今はフィリピンにとって必要な友達だ。私も日本のことが好きです。多くのフィリピン人も同じ思いだと思います」と答えた。会食中の会話であり、そのときはこれ以上踏み込めなかった。
そこでジセールに、授業の時にさらに、「本当の気持ちを教えて欲しい。フィリピンの学校で日本軍の侵略行為をどう教えているのか」と踏み込んでみた。ジセールは少し表情をこわばらせたものの、「フィリピンは長い歴史を持っており、その間にスペインやアメリカ、日本に侵略された。日本だけが悪いわけではない。それに彼らは侵略しただけではなく、フィリピンにいろいろなものをもたらし、フィリピンの文化や経済を豊かにしてくれた」と友好的なスタンスを崩さなかった。
たしかにマクタン島のセブ空港の建物も、マクタン島とセブ島を繋ぐ大橋も、日本のODAで創られたものだ。セブには多くの日本企業が進出し、現地の雇用にも一役買っている。ジセールはこのことを指摘したあと、今はニューヨークにいるという彼女の恋人も「日本が一番好きだ」と言っていると付け加えた。コンピューターのプログラミング技術者としてアメリカの企業に就職した彼の夢は、日本で就職し生活することなのだという。ニューヨークでの日本食ばかり食べていて、一番の好物は寿司らしい。
ジセールによれば様々な国がフィリピンを支配するなかで、人種の混血が進み、もはや純粋なフィリピン人は小数派なのだという。スペイン人、アメリカ人、中国人、日本人、ひいてはインドやパキスタン人など、さまざまな民族の遺伝子が流れ込み、バラエティにとんでいる。ジセール自身も肌は色白で、容貌もフィリピン人というより、日本人に近いものがある。
去年と今年、あわせて5週間セブに滞在し、私は旧日本軍のアジア侵略についての質問を何人かのフィリピン人や韓国人にぶつけてみたが、誰もが「それは過去のことであり、今は違う。私たちは日本が好きだ」という。そして多くの人たちが日本に対する憧れを口にした。これは私にとって、少し意外な体験だった。
セブ島は日本軍とアメリカ軍の熾烈な戦いが行われた。その戦跡を訪ねてみたいと思い、ジセールに旧日本軍の施設があった跡地ののことも訪ねてみたが、「それは、もう、わからない」ということであった。戦争の被害者であったフィリピン人が、戦争の惨禍をそう簡単に忘れているとは思えない。この問題は来年セブを訪れたとき、引き続いて追求してみようと思っている。
昨日は内視鏡検査のために朝食はなし。そのかわりに朝7時に錠剤を4粒飲み、8時から1時間半かけて2000mlの下剤を飲んだ。この下剤の効果は覿面だった。9時頃からトイレに通い詰めになった。さらに指示された通り、スポーツドリンク1000mlを12時頃まで飲み続けた。そうすると、最後は米のとぎ汁のようなものが勢いよく肛門から迸るようになった。
12時20分に車で家を出て、40分頃には一宮市民病院についた。検査の予約は1時からだったが、その少し前に検査室に入れられた。まずは更衣室で検査着に着替えた。検査着の下は後ろの部分が割れている。検査台の上に横たわると、腕に注射を打たれた。なんでも、腸の運動を押さえる薬らしい。
そのあと、肛門にゼリーのような油を塗られ、いよいよ内視鏡が挿入された。「個人差がありますが、少し痛いかと思います。あんまり痛かったら、言って下さい」とのこと。強く押し込まれるたびに違和感が募り、痛みもあったが、堪えきれないほどではなかった。それでも二度ほど「痛い」と悲鳴を上げた。
10分ほどかけて内視鏡の先が大腸を通過し、盲腸に達した。これから内視鏡を抜きながら、大腸の様子を観察するのだという。この段階になると、違和感はあっても、もう痛みはなかった。傍らのモニター画面に私の大腸内の様子が写し出されている。私もそれを医者と一緒に眺めた。
案外きれいなピンクである。こんな機会でもないと、自分の体内を眺めることはできない。不安と好奇心の混じった、奇妙な感情を体験しながら、私の視線は画面に釘付けになった。やがて、小さなポリープが見つかった。「5ミリほどですね。サンプルを採取します」と医者が告げると、助手がスコープの管の中に、もうひとつワイヤーを挿入しはじめた。
画面で見ていると、小さな採取装置がポリープを千切り取るのが見えた。そこから血が流れ出している。随分乱暴なことをすると思ったが、痛みは感じなかった。ポリープはもう一カ所見つかった。こちらも5ミリくらいだという。「ポリープは普通に見つかるものですか」と聞くと、「普通というわけではありませんが、よくあることです」という返事だった。
検査を終えて、トイレに行った。下腹部を中心に違和感が残っていた。トイレで大きなオナラをして、少し楽になった。腕時計を見ると1時を20分ほど過ぎている。長いと思ったが、検査は正味30分もかからなかったようだ。検査結果は8月29日に判明する。今はポリープが良性のものであることを祈るしかない。
2時頃に家に帰った。それから、「サガミ」に妻と二人で蕎麦を食べに行った。朝食も昼食も食べていないので、腹が減っているはずだが、それほど食欲はない。その上、腸がまだごろごろいっている。それでも食べ始めると、蕎麦はうまかった。蕎麦を食べたあと、喫茶店に行き、アイスコーヒーを飲んだ。そして久しぶりに週刊誌を読んでいると、検査でいっぱいだった頭に、俗世間の風が流れ込んできた。
家に帰ってから、新聞を眺め、テレビをみた。昨日は終戦記念日である。小泉首相が靖国神社にモーニングを着て参拝したらしい。首相は「個人の心の問題だ」と言っているが、A級戦犯を合祀し、戦前の軍国主義を賛美する宗教施設に、しかもこの日を選んで参拝することが、どんな政治的な意味を持つか、首相はもっと慎重に考えて行動すべきだ。
「終戦記念日ではなく、敗戦記念日と呼ぶべきじゃないのか」と妻にいうと、「敗戦記念日なんてやめてよ。悔しがって、また、戦争がしたくなる人がいっぱい出てくるわよ」という。「それもそうだ。やはり終戦記念日のままがいい」と、私はさっそく自説を撤回した。
今日は大腸内視鏡検査の日である。肛門からカメラのついたケーブルを入れ、場合によっては粘膜一部を採取し、組織の顕微鏡検査をするのだという。要はポリープをみつけたら、その一部を採取して、それが良性か悪性(ガン)かを診断するわけだ。
実は、昨年、妻の兄(義兄)がこの検査を受け、悪性と判断されて、今年の1月に愛知県ガンセンターで手術を受けている。仕事を半年ほど休み、この7月に職場に復帰したばかりだ。私の場合も、悪性と診断されたら、同じ様な経過をたどり、職場を半年ほど休まなければならなくなる。
検査に先立って、昨夜9時過ぎに、ラキソペロンという下剤を飲んだ。予定では9時まで学校の部活だった。そこであらかじめ病院に電話をして、この下剤の効き目を問うた。
「夜の9時に仕事先で飲もうと思うのですが、この下剤はかなり効くのですか」 「かなり利くと思います」 「帰宅すると10時を過ぎるのですが、それから飲んではいけないでしょうか」 「それは困ります」
そこで演劇部の生徒に事情を話して、部活は8時でおしまいにして貰った。9時過ぎに家につくと、さっそくこの下剤を飲んだ。そして効果が現れるのを待ったが、一向にその気配がなかった。一夜明けた現在も同じである。まあ、おかげで昨夜は平和な睡眠に恵まれた。
このあと、7時にはふたたびガナトンという錠剤を4個服用する。そして8時にはマグコロールP2袋を2000mlの水に溶かして、何と1時間半かけて飲むのだそうだ。こんな風に指示書に書いてある。
<飲水後30分頃から排便があり、3〜4時間でほぼ排便が終わります。自宅にいる間は、水・お茶・スポーツドリンクをできるだけたくさん飲んで下さい>
もちろん、今日は朝から絶食である。朝起きていくと、食卓に私の好きな「なごやん」が置いてあるのを見た。おもわず手が出そうになったが自重した。ところで、この内視鏡検査を受けるために、「同意書」を提出しなければならない。そこに「検査時に起こりうる偶発症」についてこんな風に書いてある。
<穿孔:胃腸に穴があく。緊急に入院が必要です。手術になることもあります。血液を固まりにくくする薬を飲んでいる方は検査前に申し出て下さい>
他にも、出血やアレルギー、腹痛、嘔吐、下痢などの症状が見られることがあるという。同意書には患者の親族(妻)の署名捺印も必要だ。実はこの同意書を読んで、検査をセブ旅行のあとに持ってきたわけだ。旅行の直前にこんな事態に襲われてはかなわない。それにしても、やっかいな検査である。無事検査が終わったら、その詳細についてまた日記で報告しよう。
今朝の目覚めは5時だった。熟睡である。さっそくこれまでの日記を整理した。妻と二人の朝食のあと、これも23日ぶりの散歩に出た。雨季のセブとはちがい、日本はいま夏の盛りである。明るい日差しの中を、思い切り手を振って歩いた。木曽川の土手を歩いていると、緑のそよかぜが心地よい。散歩がこんなに気持がよいものだということを、あらためて認識した。
帰ってきて、再び日記の整理をした。そうすると、セブでの楽しい思い出が次々と思い浮かんだ。今頃、山口さんたちは授業を受けているのだろうか。ジセールは新しい生徒を迎えて、また英語のイデオムを熱心に教えているのだろうか。「ビッグ・ガン」「ビート・ミー」など、ジセールから教えられたイデオムの数々が思い浮かんだ。
次女が帰ってきて「おとうさん、おみやげは?」というので、ロビンソンデパートで買った腕飾りを渡した。妻には首飾りである。二人とも喜んでいた。長女も昨日夜、寸前まで私の帰りを待っていたようである。長女にも次女とおそろいの腕飾りを買った。名前のイニシャル文字が飾りになっている。娘も妻も気に入ってくれたようだった。
今日は昼食を食べたあと、学校に出かけて溜まった仕事を片づけなければならない。それから夜には演劇部の部活の指導もある。セブの余韻に浸っていたいのだが、そうもいかない。これからしばらく、あれこれあって、がんばらなければならない。
実は一つ気の重いことがある。あしたの午後1時から、大腸の精密検査を受けなければならないのだ。5月の人間ドッグで便に潜血が認められた。精密検査を要請されていたが、セブ旅行があったので後回しにしていた。あしたの午後の検査のため、今夜から厳しい食事制限をしなければならない。セブ旅行で2キロほど減った体重が、さらに減りそうである。
大腸の精密検査は憂鬱だが、朝の散歩で去年暮れに植えた柿の苗木が元気に葉を茂らせているのに出会って、うれしくなった。なかなか新芽が出ず、ようやく芽を出したあとも葉が枯れてしまい、もうだめかとあきらめていただけに、元気な「うまがき君」に出会えて、ほんとうにうれしかった。妻が私の旅行中に親切に面倒をみてくれていたようだ。
6時半にディプロマットホテルを出た。セブで3週間行動をともにした山口さんが玄関まで見送ってくれた。「あと、一週間、がんばってください」と言って、彼女と別れた。タクシーでセブ空港まで約25分ほど。運転手がしきりに話しかけてくる。ききとりやすい英語だったので、私も気軽に応じて、セブ滞在中に行ったモアルボアルの話などをした。
セブ空港で必要なお金は、峰観光の案内には100ペソと書いてあったが、実際は200ペソだった。最近値上がりしたのだろう。イギリスで旅客機爆破未遂テロが発覚した影響で、ドンリンクの機内持ち込みは禁止になり、私は持参していたミネラルウオーターを処分した。
セブ空港の待合いの売店に、欲しいと思っていたバナナチップが45ペソで置いてあったので、4袋、お土産に買った。10ドル札を出したら400ペソほどお釣りがきた。これでマニラでの空港税が値上がりしていても凌ぐことができる。
マニラ空港の乗り換えは、セブ空港ですでにチケットを受け取っていたし、荷物も名古屋までスルーなので、手続きは空港税の納入と出国検査だけでよい。マニラでの空港税は峰観光の案内通りの550ペソだった。
乗り換えは一階の到着エリア(自然の流れでここにたどり着く)から一旦外に出て、目の前にあるエスカレーターの階段をあがれば、そこが国内線の出発エリアになっている。そこから国際線の出発エリア(反対側のウイング)までどんどん歩いた。途中何人か係員がいて、寄ってきたが、チケットを見せれば「どうぞ」と通してくれた。国際線の出発エリアの入り口でパスポート、出国カード(記入済み)、チケットを呈示したら、中に入れた。あとは流れに従って空港税を払い、出国審査をうけ、出発ロビーに入った。待つこと3時間ほど。ようやく名古屋行きの飛行機に乗れた。
電車を2回乗り継いで、9時少し前に家についた。さっそく漬け物と味噌汁のごはんを食べ、お風呂に浸かった。セブのホテルではシャワーだけだったので、湯舟に浸かるのは23日ぶりである。気持ちの良いこと。
それから2時間以上かけて、メールをチェックした。この22日間に届いたメールが3466通も溜まっていた。このうち402通を残して、3064通を削除した。終わるとすでに11時を過ぎていた。大切なメールを削除してはいけないので神経を使った。もうくたくたになった。
表題や差し出し人から判断して保存した402通のメールにはまだ目を通していない。これから何日かかけて読むつもりである。削除した中にも友人からの大切なメールがあるかも知れない。いただいたメールには原則としてお返しをすることにしているが、今回は大量に見落としがあるに違いない。失礼があればゆるしてください。12時近くなって、突然、睡魔が襲ってきた。22日ぶりのわが家での睡眠である。熟睡できそうだ。
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