橋本裕の日記
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2007年04月30日(月) 新緑の片知渓谷

 昨日の土曜日は「昭和の日」だった。この日は戦前は「天長節」と呼ばれ、戦後は「天皇誕生日」と呼ばれた。昭和天皇が亡くなられて「みどりの日」となり、これはいい命名だと思っていたが、今回どういうわけか4回目の改名で「昭和の日」となった。

 この日、妻と次女と私の3人は岐阜県の片知渓谷まで、久しぶりに家族でドライブをした。ところどころに山桜が咲き残り、新緑が美しかった。そこでこんな短歌を詠んだ。

 新緑の片知渓谷ひさしぶり
 妻や娘とおむすび食べる

 今年の1月1日から毎日一首ずつ短歌を書き始めた。今日の場合のように、あらかじめできたものを今日の一首として載せることもあるが、ふつうは日記を書いた後、少し気持ちを落ち着けて、心に浮かんだ一首を書き留める。日記の内容に影響されることもあるが、たまたま浮かんだ言葉をキーワードにして、一首が生まれてくることが多い。

 短歌を書くに当たって、28音のリズムを尊重すること以外に、とくにむつかしく考えたりはしない。心に浮かんだことを、そのまま書くだけだ。「勝手気ままに好きなことを書く」というのが、私の日記のスタイルだが、短歌のスタイルでもある。

 日記も短歌も読んだ人がどう思うか、あまり念頭にないが、短歌の場合はお手本がないわけではない。それは「万葉集」である。清らかに情熱的に生きた万葉の人々にあやかり、できるだけ美しい日本語を使って、専門の歌人としてではなく無名の庶民の一人として、生活の現場から実感のこもったやさしい歌を詠みたい。

 日記を書き、短歌を詠むことで、自分の人生をより深く味わうことができればと思う。しかし、どんな短歌ができるか、それは神様の思し召である。こうして、4月も短歌らしいものが30首できあがった。

上臈や腰元たちも美しく往時をしのぶ姫様道中

たのしみは小鳥とともに目を覚まし生きる意欲がよみがえるとき

黄砂にて満月に似た日が沈むこの世の終わりもかくの如しか

風邪薬飲んでもきかず悪寒あり夢にうなされ枯野をめぐる

風邪ひきて食欲はなし喉痛し妻が剥いたリンゴはうまし

菜の花の夢をも破るうめき声電気毛布は温かなれど

いつの世も辛きこと多し泣きつつも人は生きたり小手鞠が咲く

わが風邪をもらって妻は寝込みたり病人が二人花冷えの夜

新しい子らを迎えて始業式すこしときめくこころは青春

子どもらの叩く太鼓が鳴り響くお祭り気分でみんなともだち

24の生徒あずかり今日もまた夜学はたのしオアシスなれば

咳やまず夜中に起きて水を飲む喘息患者もかくのごとしか

亀吉と亀子がいたよリリスケもハルコもいたよむかしの我が家

あやまちの多き人生それゆえに人にやさしく我にもやさしく

旅に出る最後の言葉決めてあるたのしかったよみんなのおかげ

遠き日の薪のにおい思い出す五右衛門風呂を友と焚いた日

たのしみは人の心に火を点しよろこび輝く笑顔を見ること

よきところ数えてみればしあわせがあふれてくるよ今日も青空

何気なく使う言葉もはるかなる太古の恵みいとほしきかな

難解な書にあこがれて背伸びしてふと垣間見た神秘の宇宙

ふるさとの春にテレビでめぐり合う越美北線桜がきれい

道端の水仙たちが風にゆれそっとささやくしばし憩へと

はじめての娘の月給ありがたしうなぎを奢られ親はうれしい

はかなげで美しきもの空わたる七色の虹かそけき葉音

勝ち負けのこの世にあってさわやかな泉はあふれ人はほほえむ

コーヒーを片手に友と語りあうこのひとときは値千金

左派と右派激しく争うフランスは政治を学ぶ生きた教科書

さわやかな風にふかれて今日もまた遠き空見るふるさとの山

ほのかなるかおりなつかし思い出の小道たどればライラックの花

新緑の片知渓谷ひさしぶり妻や娘とおにぎり食べる


2007年04月29日(日) プーチンの反米戦略

 4月25日に前ロシア大統領のエリティンが死んだ。ソ連を崩壊させ、ロシアに民主主義革命をもたらした立役者でありながら、彼の人気は、その後急速に崩壊した。それもそうだろう。経済オンチのエリティンはアメリカや世界銀行の言いなりになって国営企業を民間に売り渡し、ロシア経済を完全に破壊した。

 92年のGDP成長率は、マイナス14.5%で、インフレ率は2600%になった。1千万の貯金がなんと1年間で38万円になってしまう。これはお金が紙くず同然になるということだ。ロシアは92〜98年でGDPを43%も減らし、国家の財政は破綻し、国民は塗炭の苦しみを味わった。庶民の生活は最低で、平均寿命が毎年減少した。

 その一方で新興財閥がのさばった。エリツィン時代「クレムリンのゴッドファーザー」と呼ばれたベレゾフスキーは、「7人の新興財閥が、ロシアの50%の富を牛耳っている」と公言していたという。ベレゾフスキーは、99年、エリツィンの後継者にFSB(旧KGB)の長官のプーチンを選ぶ。彼はその見返りに自分の地位と富を保障してもらうつもりだった。

 ところが2000年、プーチンは大統領になると、ベレゾフスキーの一派をさっそく切り捨てた。当局から手のひらを返したような冷たい仕打ちを受け、横領や脱税の罪で追いつめられたベレゾフスキーは、たまらずイギリスに政治逃亡した。こうして新興財閥を退治すると、プーチンはふたたび歴史の針をもとにもどした。エリツィン政権下で次々と民営化された天然ガスなどの基幹産業はふたたび国営化された。

 政界に眼を向けると、フラトコフ首相もイワノフ第1副首相もKGB出身者である。そして、下院の4党のうち3党が彼の与党である。上院も、司法も、軍も警察も掌握した。テレビ局も、NTVを支配したグシンスキー、ORTのベレゾフスキーは国外に逃れた。現在、ORT・RTRは国営に戻り、民放最大手NTVも世界3位の巨大企業に成長した国営ガスプロムが資本を握っている。こうして、国内の3大ネットは事実上、すべて政府の指導下に置かれることになった。

 この冷徹な独裁的指導者プーチンの人気がロシアではダントツである。就任以来一貫して70%台という驚異的人気をほこっている。理由は簡単明瞭である。財閥を退治し、海外資本を一掃して、国を豊かにし、庶民生活をよくしてくれたからだ。国民の平均月収は98年に80ドルだった。これがこの10年間で5倍の400ドルになった。彼が大統領に就任して以来、ロシア経済は順調に成長し、00〜06年まで平均7%の経済成長をつづけている。

 そして、国家財政を立て直し、莫大な対外負債も前倒しして返済すると、プーチンはEUや中国に接近し、国際政治の舞台でも大きな影響力を発揮するようになった。アメリカのイラク戦争には最後まで反対だったし、アメリカの経済と軍事面における覇権主義にも異を唱えるようになった。

 これにいらだったアメリカとその同盟国は、NPO・NGOを通して、革命資金を野党に流し、03年末グルジアで、04年末ウクライナで、05年3月キルギスで革命を成功させ、ロシア周辺国家を次々とロシアに離反させた。しかし、06年3月、ベラルーシの革命は武力で鎮圧され、失敗した。

 ロシアが成功した背景には、ソビエト崩壊後、唯一の超大国となったアメリカの拙劣な外交政策があった。ブッシュ大統領はネオコンの主張を受け入れて、力による覇権主義の外交に頼り、国際社会の信頼を喪失した。とくにイラク戦争が命取りになった。これについては、またべつの機会に書くことにしよう。

(参考文献)

 北野 幸伯 【ロシア政治経済ジャーナル】NO454、NO455

(今日の一首)

 ほのかなるかおりなつかし思い出の
 小道たどればライラックの花


2007年04月28日(土) サルコジの夢

 フランス大統領選はわかりやすい。右派と左派の主張がまともにぶつかりあい、がっぷりと横綱相撲をしているからだ。国民も選挙で盛り上がっている。今回の投票率は前回を約10ポイント以上上回る、過去最高レベルの84.60%だった。

 決選進出決定を受けて、サルコジはパリのUMP本部で「フランス人が新たな夢の下に結集することを望む」と支持を求めた。昨日の日記に引き続き、次期フランス大統領に一番近いサルコジ候補についてもう少し補足しておこう。

 サルコジの父親はハンガリー移民である。母親はユダヤ人。こうした出自に加え、彼は背が低かったので、コンプレックスのかたまりだった。裕福なクラスメイトの前に出ると、劣等感に打ちのめされた。彼は自分の子ども時代を振り返り、このように述べている。

「今日の私があるのは、子ども時代に受けた侮辱の積み重ねによってである」

(What made me who I am now is the sum of all the humiliations suffered during childhood.)

 サルコジはこの境遇を抜け出すべく努力をしようと思った。しかし、彼の父親は「ここはフランスだ。アメリカのように我々は大統領にはなれない」と言ったという。そして、やがて父親は子どもたちを置いて、家を出てしまった。

 サルジコは母や兄弟と祖父が持っていた狭いアパートで暮らし始める。しかし、彼はここで祖父の薫陶を受けた。祖父はユダヤ人だったが、カソリックに改宗し、サルコジもカソリックの洗礼を受けた。サルジコは「父よりも祖父に影響を受けた」と述べている。こうして彼の精神的なバックボーンが形作られて行った。

 彼は努力してパリ大学を卒業し、弁護士になった。1983年にはパリ郊外にあるヌイイ市の市長になり、これを足場に政界入りを果たした。シラク大統領の片腕として、内相や経済相として辣腕を振るった。移民2世の彼にはあまり気取った官僚臭がない。庶民派を演じて単純で率直な言い回しを好み、国民の人気を得た。移民や犯罪についての厳しい姿勢は、一部では大きな反発を受け社会問題にもなったが、これによってかえって右傾化した国民の保守層からは絶大な人気を得ることになった。

 移民2世で下層社会から這い上がってきたサルコジだが、彼の政策自体は移民や庶民に厳しい。それは彼自身が努力家だったからだろう。彼の兄ジェローム・サルコジも経済界で成功し、フランス経団連(MEDEF)の副会長をしている。サルコジ一家は階級社会のフランスにあってアメリカンドリームを実現しつつある。

 アメリカ嫌いのシラク大統領と違って、サルコジはアメリカとの関係を重視する。アメリカのイラク戦争にも賛成の立場だった。国の秩序や治安を重視する保守派でありながら、彼の経済政策は伝統的な社会福祉主義ではなく、これを打破しようとする急進的な新自由主義であり、経済のグローバル化を推し進める立場である。フランスをアメリカのような規制の少ない自由競争社会にしなければならないと彼は考えているようだ。

(今日の一首)

 さわやかな風にふかれて今日もまた
 遠き空見るふるさとの山


2007年04月27日(金) フランス大統領選の行方

 4月22日に行われたフランス大統領選挙で、セゴーレ・ロワイヤル候補(53)が25%の得票率で、民衆運動連合(UMP)のニコラ・サルコジ前内相(52)の31%についで2位となった。この両者で5月6日に、決戦投票が行われる。フランスに初の女性大統領が誕生するかもしれない。

 彼女はENA(フランス国立行政学院)を卒業して行政裁判所判事になった。その後、下院議員となり、ピエール・ベレゴボワ、リオネル・ジョスパン両内閣で入閣する。1999年、教育相だったロワイヤルは、高校での避妊薬の無料配布に踏み切った。この措置は保守派から、高校生のセックスを奨励するものであるとの批判を浴びた。

 2004年には55%の得票率でポワトゥー=シャラント地域圏知事になった。これらの実績をもとにして、今回社会党から大統領選に立候補した。正式に結婚はしていないが、彼女の事実上の夫は、社会党第一書記のフランソワ・オランドで、二人の間には4人の子供がいるという。

 彼女の政治的立場は弱者にあつい高福祉社会をこれからも堅持しようという立場である。そのために最低賃金の増額を大統領選の公約に掲げている。これに対して、与党候補のニコラ・サルコジはハンガリー系の移民の子孫で、エリートの保証ともいえる国立行政院(ENA)も出ていない。しかし、頭がよく舌鋒は鋭い。行動力もある。

 シラク大統領は彼を内務・治安・地方分権相に据えた。警察の最高責任者として、彼は辣腕を振るい、犯罪率を下げた。交通事故なども劇的に減った。ついで、経済・財務・産業相になった彼は、ここでもサルコジは辣腕を振るい、「フランス人よ、もっと働け」と言い出した。

 サルコジは欧州型の高福祉政策は国家から競争力を奪うという。終身雇用や高い最低賃金、長期休養制度と短い労働時間など、労移動者に優しい福祉政策は、彼らから勤労意識を奪い、フランスを怠惰な人々の住む国にしてしまった。この結果、企業は国際競争力を失い、国民は高い失業率に苦しんでいるのだという。

 欧州型の福祉社会を堅持したいという左派のロワイヤルは下積みの労働者や若者に人気がある。一方、アメリカ型の自由競争主義を導入して、企業を育て、国の経済を活性化したいという右派のサルコジの主張は、資本家や企業経営者など社会の上層部を中心に受け入れられ、経済界の圧倒的な支持をあつめている。

 5月6日に行われる決選投票では、サルコジ候補が若干有利ではないかという。フランス国民の選択はヨーロッパの未来を変え、世界の未来を変えることになるだろう。来るべき社会の理想像として、アメリカ型の弱肉強食的な競争社会ではなく、欧米型の人々に優しい高福祉共生社会を支持している私としては、ロワイヤル候補の健闘を期待したいところだ。

(今日の一首)

 左派と右派激しく争うフランスは
 政治を学ぶ生きた教科書


2007年04月26日(木) 演劇部始動

 昨年は7人ほどいたわが演劇部だが、今年は4人に減った。残念なことは、新入生のなかに一人の希望者もいなかったことだ。今後、いろいろなチャンネルを使って部員を増やしたいと思うが、とにかく4人で昨日から授業後の発声練習を再開した。

 4人の部員はすべて2年生で、そのうちの3人は私のクラスの生徒である。もう一人は隣のクラスに入ってきた転入生の女生徒だが、もうすっかり溶け込んで、元気がいい。数は減ったが、その分まとまりがよくなって、活気がでてきた。

 さらにうれしいことがある。今年転勤してきた社会科のM先生が、演劇の専門家で、自ら希望して演劇部の主顧問を引き受けてくれたことだ。だから、素人の私はサブ顧問ということになった。M先生は長年全日制の高校で演劇部の顧問をしていただけではなく、自らも役者として舞台にあがっているという。だから、素人の私とは違って、本格的な指導ができる。これで部員たちがますますやる気になってきた。

 先日、M先生と学校の近くの喫茶店でいろいろと話をした。彼は日本史が専攻で、一人旅が好きだという。この3月には出雲や隠岐の島へ3泊4日の旅をしたそうだ。日本の古代史の話をいろいろと聞いた。私も万葉集の話をした。それからセブ島へ英会話の勉強をしに行く話しもした。私の話を聞きながら、M先生の頭が混乱したようだ。

「国語科の先生かと思ったら、英語の先生のようでもあるし、でも、ほんとうは、たしか・・・・」
「数学の教師ですよ。もっとも大学では物理を勉強していました」

 話をしていると誰も私が数学の教師だとは気づかないようだ。私の話題は文学、哲学、歴史、政治、経済と豊富である。何にでも興味があるので、誰とでも話が弾み、友達になれる。そして話はじめると、なかなかとまらない。いくらでも話題が出てくる。M先生ともこうしてお互いにバックグラウンドを理解し、打ち解けることができた。

 今年も部員たちは夏には合宿がしたいようだ。今年はM先生の指導のもと、去年とは一味違った実りのある合宿ができそうだ。はたして秋の文化祭にどんな芝居が上演できるか、すこし楽しみになってきた。

(今日の一首)

  コーヒーを片手に友と語りあう
  このひとときは値千金

 昨日は名古屋駅のマクドナルドで、啓造さんと恒例の「100円マックの会」をたのしんだ。話題が尽きることはなく、2時間があっという間に過ぎた。私が貸した犬養孝さんの万葉集のラジオ講演のテープを毎日聴いているという。今度、青春18切符で、万葉集の旅を一緒にしようということになった。万葉集を愛する人がまた一人ふえて、とてもうれしい。


2007年04月25日(水) 戦時下の作家たち

 戦争中、多くの作家が従軍記事を書いた。戦争というものは悲惨なものだ。作家の冷静な目がその現実をとらえ、これを生々しく描写してもよさそうだが、もともと戦争に協力するためである。作家たちはその文才を駆使して、戦争を賛美する華麗な文章を書き、これを読んだ人々もまた、戦争へと鼓舞された。

 吉川英治、高村光太郎、佐藤春夫、北原白秋、西条八十、高見順、阿部知二からサトウ・ハチローまで、戦争翼賛的な作品を発表した作家はその数を知らない。たとえば、南京陥落直後の昭和12年12月13日の朝日新聞には、吉川英治が「南京陥落に寄す、われらの将来の使命に任ず」、萩原朔太郎は「南京陥落の日に」を寄稿している。それがどんな調子のものだったか、北原白秋の「大東亜戦争小国民詩集」から「言葉」という詩の冒頭を引いておこう。

 「轟沈」といふ言葉を聞いた時、
 僕のたましひは爆発した。
 「自爆」といふ言葉を聞いた時
 僕の心臓は一塊の火となつて落ちて行つた。
 何とすがすがしい一本の「雷跡」よ、
 ああ、「戡定」はボルネオの大太鼓の音で終止した・・・

 しかし、例外はある。昭和13年二月下旬のある朝、石川達三は私服の特高に寝込みを襲われ、警察へと連行された。警察で調書がとられ、起訴された。石川は武漢作戦に林芙美子たちと一緒に従軍し、「生きている兵隊」を「中央公論」の3月号に書いた。

<「えい!」一瞬にして青年の叫びは止み、野づらはしんとした静かな夕景色になった。首は落ちなかったが傷は充分に深かった。彼の体が倒れる前にがぶがぶと血が肩にあふれて来た>

<近藤一等兵は拳銃を左手に持ちかえると腰の短剣を抜いて裸の女の上にのっそりと跨った。女は眼を閉じていた。彼は物も言わずに右手の短剣を力限りに女の乳房の下に突き立てた。白い肉体はほとんどはね上がるようにがくりと動いた>

 こういう描写が軍部の忌憚に触れた。これによって、石川達三は禁固4ケ月(執行猶予3年)の判決を受けた。また「中央公論」の編集長・雨宮庸蔵も同じ判決を受け、責任をとって退社した。じつはこのおなじ号に、谷崎潤一郎の連載小説「細雪」の2回目が掲載されていた。これも問題になり、連載が中止になった。

 さらに4年後の昭和17年(1942年)に横浜事件が起こっている。当局は「改造」に掲載された論文「世界史の動向と日本」が共産主義的で、ソ連を賛美し「政府のアジア政策を批判するもの」などとして「改造」を発売頒布禁止処分にした。そして、捜査中に見つかった出版記念会の写真を、当局は日本共産党再結成の謀議しているものだと断定し、改造社と中央公論社をはじめ、朝日新聞社、岩波書店など所属する関係者約60人を次々に検挙した。

 「改造」や「中央公論」は廃刊になり、このとき逮捕された被疑者を神奈川県警特別高等警察(特高)は革や竹刀で殴打するなど激しい拷問を行い、4人が獄死した。この事件は終戦直後の8月、9月に横浜地裁で判決が言い渡され、3人の裁判官は当時まだ廃止されていなかった治安維持法を持ち出して約30人に執行猶予つきの有罪判決を下した。ただし、GHQによる戦争犯罪訴追を恐れた政府関係者によって当時の公判記録は全て焼却され、残っていないという。

 こうした状況下でも、多くの作家たちは生活のために書かなければならない。たとえば石川達三は「生きている兵隊」が有罪判決を受けた後、すぐに「武漢作戦」を書いた。ここで彼は一転して生き生きと躍動する帝国軍人の姿を描いている。そして彼はやがて日本文学報告会実践部長の要職につき、こんな文章を書いた。

<極端に言ふならば私は、小説といふものがすべて国家の宣伝機関となり政府のお先棒をかつぐことになっても構わないと思ふ。さういふ小説は芸術ではないと言はれるかも知れない。しかし芸術は第二次的問題だ。先ず何を如何に書くかといふ問題であって、いかに巧みにいかにリアルに書くかといふ事はその次の考慮である。私たちが宣伝小説家になることに悲しみを感じる必要はないと思ふ。宣伝に徹すればいいのだ>(「実践の場合」文芸1943年12月号)

 戦時中にこうした戦争協力の強力な発言を公にしていた石川達三だが、敗戦後はまた主張を一変させる。「風にそよぐ葦」の中で、彼はこう書いている。

<近衛が人望を失ったのは、開戦の決意をなし得なかったからである。十月、十一月、国民はすべて開戦論者であった。東亜共栄圏はかくして出来上がるであろう。美しい虹だった! 青年たち、少年たち、婦人に至るまで英米を打倒することの美しさにあこがれていた。勝った時にはみんなが軍国主義者になってしまう。もしも敗けたらみんな反戦主義者になるだろう。それが庶民というものだ>

 石川はたしかに「生きている兵隊」で当局から告発され、有罪判決を受けている。しかし、その後は、進んで戦争に協力し、宣伝部隊のなかで枢要な地位をしめていた。戦後の石川はこのことにほおかむりしている。

 そればかりか、悪いのは軍部であり、その宣伝に踊らされた庶民であるという。自由主義を奉じていた良心的な出版社や作家・知識人たちは、そうした巨大な流れに呑み込まれ、抵抗したものの、圧倒的な力の前に破れた犠牲者だという。しかし、これは少し虫の良い言いぐさではないだろうか。

(今日の一首)

 勝ち負けのこの世にあってさわやかな
 泉はあふれ人はほほえむ


2007年04月24日(火) 戦時下の「細雪」

「口語訳源氏物語」の成功に気をよくしたせいかどうか知らないが、谷崎潤一郎は中央公論に、昭和18年の新年号から隔月で、長編小説「細雪」の連載を始める。「細雪」はこんな書き出しで始まっている。

<「こいさん、頼むわ。−」 鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛を渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長橋袴姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据えながら、「雪子ちゃん下で何してる」と、幸子はきいた。「悦ちゃんのピアノ見たげてるらしい」なるほど、階下で練習曲の音がしているのは、雪子が先に身支度をしてしまったところで悦子に掴まって、稽古を見てやっているのであろう。>

 大阪船場の古いのれんを誇る蒔岡家の四姉妹(鶴子、幸子、雪子、妙子)、その中でも美しい雪子のお見合い話などが、優雅な四季おりおりの風物を交えながら優雅に描かれている。昭和10年代の関西の上流社会の生活を生き生きと伝える風俗小説と言ってよい。

 小説の連載が始まった昭和18年にはガダルカナルでは2万5千人もの戦死者・餓死者が出ていた。5月にはアッツ島で日本軍守備隊2千5百人が玉砕している。しかし、この小説にはほとんど戦争の影が落ちていない。蒔岡家の四姉妹は、この戦時下をものともせず、美しく着飾って物見遊山にあけくれている。

 姉妹たちは南禅寺の瓢亭で夜食を食べ、都踊りを見物し、祇園の夜桜を見る。あくる日は嵯峨から嵐山へ行き、中ノ島の掛け茶屋で弁当を食べ、それから市中に引き返して、こんどは平安神宮の桜を眺める。芝居見物をし、オリエンタルホテルで食事をするなど、戦時下の庶民の生活からは考えられない優雅さである。源氏物語の現代版とでもいうべき「もののあはれ」にあふれた小説である。

 この小説も読者には好意的に迎えられた。しかし、さすがに当局は見逃しはしなかった。4月2日、中央公論の畑中編集長は陸軍報道部に呼び出された。そして、「決戦段階たる現下の諸要請よりみて、或いは好ましからざる影響あるやを省み、この点遺憾に耐えず」ということで、連載中止になった。もっとも谷崎は小説を書き続けた。中央公論社も毎月決まった稿料を払い続けたのだという。

 中央公論はすでに昭和17年に社員が思想弾圧を受け、死者を出していた。その後も何かと弾圧は続き、19年7月にはとうとう情報局から自発的廃業を申し渡された。しかし、敗戦後、すぐに再建され、21年10月に「細雪上巻」を発売する。これがベストセラーになった。そして続編が「婦人公論」に連載された。

 連載の舞台が「中央公論」ではなく、どちらかというと格下の「婦人公論」だったのは、戦後さらに急進的になった編集部が、ブルジョア趣味に満ちたこの小説をあまり評価しなかったためらしい。しかし、「細雪」はよく売れた。上中下をまとめた定価350円の縮刷版は、発売されるとたちまち20万部を売りつくしたという。戦時中、戦後の窮乏時代であればこそ、庶民は谷崎の描く夢のような美しい世界にあこがれたのかも知れない。

 なお、雪子のモデルは谷崎の妻(松子)の妹の重子で、彼女はいったんは結婚したが、数年で夫をなくし、谷崎家でくらしたという。晩年の谷崎の旺盛な創作は、彼が再婚して御寮人と仰ぎ、その美しさの前に跪拝した松子をはじめ、妻の妹たち(重子、信子)や妻の連れ子の美しい娘(恵美子)に囲まれ、彼女ら美神たちと身近に暮らす心の華やぎがもたらしたものだろう。まさに幸福な作家であった。

(今日の一首)

 はかなげで美しきもの空わたる
 七色の虹かそけき葉音


2007年04月23日(月) 戦時下の源氏物語

 第二次大戦中は国家総動員体制が敷かれ、国民は有無を言わさす戦争に協力させられた、ということになっている。私はこれに少し異論がある。なぜなら多くの国民は「協力させられた」のではなく、進んで「協力した」というのが本当のところらしいからだ。これは政界や教育界のみならず、ジャーナリズムや文壇にもあてはまる。

 戦後、ジャーナリストや文壇人は、軍部によって強制的に戦争に駆り立てられたとして戦争責任を逃れた。しかし、じつのところ、誰にもまして戦争に協力的だったのは彼らである。その動かぬ証拠が国会図書館に眠っている。そこに二、三日通い、戦時中に発刊された新聞や雑誌を少しでも読んでみれば、このことは明らかだ。

 もちろん、戦争中も熱に浮かされず、戦争に批判的だった人々はいないことはない。しかし、こうした人々はほんの一握りだった。多くの人々が軍部の中国大陸進出をよろこび、太平洋戦争の開戦を拍手喝采して迎えた。戦争に勝てば国威が発揚され、自分たちの生活がよくなると誰しもが思ったのである。

 戦争に批判的だった少数派の人々も、日本が負ければよいと考える人はほとんどいなかった。「無茶なことをして、きっと大変なことになるぞ」と腹の中で思っていても、「もし、万が一勝てたら、うれしい」と考える。実際、批判的だった人たちも、真珠湾攻撃が成功したと聞かされて、主戦論に走った人はいくらもいる。文藝春秋社の菊池寛などもその口である。

 日中戦争によって朝日や読売、毎日などの中央紙は爆発的に売れ行きを伸ばした。多くの雑誌も同じである。社長以下戦争協力に走った「文藝春秋」もそうだが、こうした時流に最後まで乗り切れなかった雑誌もあった。たとえば「中央公論」は何度か発行停止処分をうけたあげく、とうとう自主的廃業に追い込まれている。しかし、これはもっとあとの、太平洋戦争末期の話である。

 戦争中は文壇も戦争に大いに協力した。耽美派作家として戦争からもっとも遠い世界にいる谷崎潤一郎でさえも戦争遂行に協力する日本文学報国会の小説部門の名誉会員だった。もっとも、日本芸術院の会員であり、すでに大家の風があった彼の場合はまだ余裕があった。彼は日中戦争が始まると、「源氏物語」の口語訳に没頭する。

 これはじつは、中央公論社の嶋中雄作が谷崎に持ち込んだ話だという。嶋中がどういう意図で谷崎に持ちかけたのかは知らないが、国が命運をかけて軍隊を大陸に展開しているとき、「源氏物語」の口語訳というのは浮世離れをしている。しかも恐れ多くも宮中を舞台にした「姦通小説」である。こんなきわどいものを出版して、当局ににらまれる心配はないのだろうか。

 谷崎も嶋中もこの点は心得ていた。国体明徴派の国文学者、山田孝雄博士の校正を受け、さらに光源氏と藤壺の情事は省き、他の部分も描写を曖昧にした。こうして谷崎は日中戦争の最中の昭和10年9月にこれに着手し、昭和13年9月に完成している。

 中央公論はさっそくこれを本にして出版した。これがおおいに売れた。5万部売れれば成功だが、18万部も売れたのだという。戦時下でこれだけ愛読されたということは、国民の心もまだまだ戦争一色に染め上げられていなかったようだ。

(参考文献)
「婦人公論にみる昭和文芸史」 森まゆみ  中公新書ラクレ

(今日の一首)

 はじめての娘の月給ありがたし
 うなぎを奢られ親はうれしい

 この4月に婦人警官になった次女が、一昨日の土曜日に初月給を手にして合宿から帰ってきた。警察学校にいる半年間は、5万円しか現金がもらえず、あとは強制的に貯金だそうである。その5万円のなかから寮の食事代を払ったら、2万円しか手元に残らない。しかし、それで私たち夫婦にうなぎの蒲焼をおごってくれた。私たちはついでに烏賊の塩焼きも食べた。行きつけの大衆食堂でのささやかな贅沢だったが、とってもうれしい食事会だった。


2007年04月22日(日) 政治テロを許すな

 17日、世界に向けて核廃絶を訴え続けてきた長崎市長の伊藤一長さんが、選挙運動中、暴力団員の凶弾に倒れた。許すべからざる凶行である。

 このとき、安倍首相の第一声は、「捜査当局において厳正に捜査が行われ、真相が究明されることを望む」」というそっけないものだった。これにがっかりた人も多いのではないだろうか。一国の首相であれば、「いかなる理由があろうとテロや暴力は許されない」という明確なアピールを出すべきだろう。

 選挙期間中におこなわれた候補者に対するこのような暴力行為は民主主義を破壊するものだ。安倍首相にはこうした危機意識がない。一国の首相として落第である。

 もし、アメリカのブッシュ大統領が暴漢に襲わて倒れても、安倍首相は第一声として、「真相の究明を望む」などとノー天気なことを言うのだろうか。まず、そのようなことはないはずである。国際社会の笑いものになるだけだ。

 昨年8月15日に小泉政権下でも右翼による加藤紘一元自民党幹事長の自宅放火事件があった。このとき安倍氏は官房長官だったが、小泉首相とともに約2週間も犯行を非難する言葉を口にしなかった。この沈黙も不可解である。

長崎市では平成2年にも、「昭和天皇の戦争責任」を口にした本島市長が右翼に銃撃された。このときは幸い一命を取り留めたものの、3ヶ月の重傷を負っている。犯人は平成12年刑期満了で出所し、今は所属する右翼団体のNo2の幹部となっているという。

 政治家への脅しや暴力は、「言論の自由」へのあからさまな挑戦である。これを放置すればどんなことになるのか、日本がとんでもない「恐ろしい国」になることは眼に見えている。安倍首相はこの危機意識を持って欲しい。

ーーーー長崎宣言(資料)ーーーーー

「人間は、いったい何をしているのか」
被爆から61年目を迎えた今、ここ長崎では怒りといらだちの声が渦巻いています。
1945年8月9日11時2分、長崎は一発の原子爆弾で壊滅し、一瞬にして、7万4千人の人々が亡くなり、7万5千人が傷つきました。人々は、強烈な熱線に焼かれ、凄まじい爆風で吹き飛ばされ、恐るべき放射線を身体に浴び、現在も多くの被爆者が後障害に苦しんでいます。生活や夢を奪われた方々の無念の叫びを、忘れることはできません。

しかし、未だに世界には、人類を滅亡させる約3万発もの核兵器が存在しています。

10年前、国際司法裁判所は、核兵器による威嚇と使用は一般的に国際法に違反するとして、国際社会に核廃絶の努力を強く促しました。

6年前、国連において、核保有国は核の拡散を防ぐだけではなく、核兵器そのものの廃絶を明確に約束しました。
核兵器は、無差別に多数の人間を殺りくする兵器であり、その廃絶は人間が絶対に実現すべき課題です。

昨年、189か国が加盟する核不拡散条約の再検討会議が、成果もなく閉幕し、その後も進展はありません。

核保有国は、核軍縮に真摯に取り組もうとせず、中でも米国は、インドの核兵器開発を黙認して、原子力技術の協力体制を築きつつあります。一方で、核兵器保有を宣言した北朝鮮は、我が国をはじめ世界の平和と安全を脅かしています。また、すでに保有しているパキスタンや、事実上の保有国と言われているイスラエルや、イランの核開発疑惑など、世界の核不拡散体制は崩壊の危機に直面しています。

核兵器の威力に頼ろうとする国々は、今こそ、被爆者をはじめ、平和を願う人々の声に謙虚に耳を傾け、核兵器の全廃に向けて、核軍縮と核不拡散に誠実に取り組むべきです。

また、核兵器は科学者の協力なしには開発できません。科学者は、自分の国のためだけではなく、人類全体の運命と自らの責任を自覚して、核兵器の開発を拒むべきです。

繰り返して日本政府に訴えます。被爆国の政府として、再び悲惨な戦争が起こることのないよう、歴史の反省のうえにたって、憲法の平和理念を守り、非核三原則の法制化と北東アジアの非核兵器地帯化に取り組んでください。さらに、高齢化が進む国内外の被爆者の援護の充実を求めます。

61年もの間、被爆者は自らの悲惨な体験を語り伝えてきました。ケロイドが残る皮膚をあえて隠すことなく、思い出したくない悲惨な体験を語り続ける被爆者の姿は、平和を求める取り組みの原点です。その声は世界に広がり、長崎を最後の被爆地にしようとする活動は、人々の深い共感を呼んでいます。

本年10月、第3回「核兵器廃絶−地球市民集会ナガサキ」が開催されます。過去と未来をつなぐ平和の担い手として、世代と国境を超えて、共に語り合おうではありませんか。しっかりと手を結び、さらに力強い核兵器廃絶と平和のネットワークを、ここ長崎から世界に広げていきましょう。

被爆者の願いを受け継ぐ人々の共感と連帯が、より大きな力となり、必ずや核兵器のない平和な世界を実現させるものと確信しています。

最後に、無念の思いを抱いて亡くなられた方々の御霊の平安を祈り、この2006年を再出発の年とすることを決意し、恒久平和の実現に力を尽くすことを宣言します。

2006年8月9日 
長崎市長 伊藤一長

「長崎宣言」
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/abm/heiwasengen/sengen_j.htm

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(今日の一首)

道端の水仙たちが風にゆれ
そっとささやくしばし憩へと


2007年04月21日(土) 何が人を殺すのか

4月16日(月)に、米バージニア工科大学で韓国出身で同大学英文学科在学中のチョ・スンヒ(23歳)が銃を乱射、教授や学生32人が射殺され、15人が負傷した。アメリカではこうした銃乱射事件がたびたび起きている。

 ジョージ・ヘナード事件(1991年、22人死亡)、ジェイムズ・ヒューバティ事件(1984年、21人死亡)、テキサスタワー事件(1966年、16人死亡)やコロンバイン高校銃乱射事件(1999年、15名死亡)が有名だが、今回の事件はこれらを上回る過去最高の死者をだした。

 チョ・スンヒは8歳の時に一家で韓国ソウルからアメリカに移住し、姉と両親の4人家族だという。犯行に使われた拳銃は、最近7万円ほど出して購入したらしい。彼は精神科の治療も受けていたが、そうした事実を隠して銃を購入していた。

 アメリカには約1万2000のチェーン店を展開するマクドナルド店のざっと24倍にのぼる銃器販売業者が存在している。そして約2億2千万丁以上の銃が出回り、銃による殺人で03年には1万1700人もの犠牲者が出ている。これは一日あたりになおすと32人になる。

 つまり、アメリカでは銃による殺人は日常茶飯事であり、格別ニュースにならない。今回ブッシュ大統領が遺憾の記者会見を行い、世界のマスメディアが大きく取り上げたのは、まとめて一箇所で32人が殺されたからである。犯行の現場が大学だったことも大きい。

 アメリカでは3分の1以上の家庭が銃を所持しているという。そして、毎年、人口10万人あたり4人が銃で撃たれた犠牲になっている。これは銃が野放しになっているからだ。それが証拠に銃規制がきびしい隣国のカナダでは、8分の1の0.5人である。銃の所持が禁止されている日本では、わずかに10万人あたり0.02人である。

 しかし、日本の場合も問題はある。たしかに銃による犯罪は少ないが、そのかわり自殺がとびぬけて多いことだ。日本では銃による犠牲者は20人そこそこだが、自殺者は毎年3万人を越えている。これはなんとアメリカの銃による犠牲者の数の3倍もある。日本では自殺が日常茶飯事なので、とりたててニュースにはならない。

 アメリカ社会は「自分は自分で守る」という開拓時代から続くコンセンサスがある。これが銃ビジネスをびこらせ、ライフル協会は政界に大きな影響力をもち、銃の規制を一段とむつかしくしている。たしかに、銃が人を殺すわけではない。銃を持った人間が人間を殺すのである。しかし、銃が人の心に与える影響も考えなければならない。

 日本の場合は、何が人を自殺に追い詰めるのだろう。自殺率は失業率と相関が大きい。経済的な原因も大きいのだろう。しかし、これだけ多くの人々が自ら死を選ぶのはやはり異常である。銃社会のアメリカ、自殺社会の日本、それぞれ抱える課題は重く深刻である。

(一日一首)

 ふるさとの春にテレビでめぐり合う
 越美北線桜がきれい


2007年04月20日(金) 数理哲学入門

 私が「数とは何か」という問題に熱中したのは、高校二年生のことだった。このとき私は一冊の書物に出会った。それがバートランド・ラッセルの「数理哲学序説」(岩波文庫)である。ラッセルはこれを、1918年5月から9月の間に書いたという。しかも、彼はこれを刑務所の中で書いた。

 なぜ彼は刑務所に入れられたか。それは戦争に反対したからである。当時、イギリスは国をあげて第一次大戦を戦っていた。ラッセルは「戦争は犯罪である」と言って、これに敢然と反対した。ところがあろうことか、ラッセルの方が「犯罪者」に仕立て上げられてしまった。

 それはともかく、ラッセルは檻に入れられてもへこたれない。ここで一気に、「数理哲学序説」(原題は数理哲学入門)を書き上げてしまう。これは彼がホワイトヘッドと共同で創造した「数理哲学」の世界を、一般の人を対象にわかりやすく解説したものである。

 ラッセルはまず、「自然数列」の定義から書き始めている。私はこれを読んで、はじめて数学のとてつもない奥深さに引き込まれたものだ。ここで原著の目次を示しておこう。

「Introduction to Mathematical Philosophy」

Preface. Editor's note.
1.The series of natural numbers.
2.Definition of number.
3.Finitude and mathematical induction.
4.The definition of order.
5.Kinds of relations.
6.Similarity of relations.
7.Rational, real, and complex numbers.
8.Infinite cardinal numbers.
9.Infinite series and ordinals.
10.Limits and continuity.
11.Limit and continuity of functions.
12.Selections and the multicative axiom.
13.The axiom of infinity and logical types.
14.Incompability and the theory of deduction.
15.Propositional functions.
16.Descriptions.
17.Classes.
18.Mathematics and logic. Index.

 もっとも入門書だとはいえ、十分すぎるほど難解である。私はこの岩波文庫に没頭して、まず、視力を奪われてしまった。それまで2.0を誇っていた私の両眼の視力が、みるまに落ち込んで0.6になった。おまけに眼が真っ赤に充血して、痛くてかなわなくなった。このため、数ヶ月間眼科医に通った。

 それでも痛い目をして、眼帯をずらしながら、この本を読みふけった。その結果どうなったか。学校の成績がみるみる低下した。中でも数学と物理がひどかった。

 当時私は微分や積分を習っていたが、「1+2がなぜ3になるか」という数学の根本問題に没頭していた私には、微分や積分の問題は砂上の楼閣のように脆弱な建造物のように思えた。「数とは何か。なぜ、人間はこのようなものを作り上げたのか」といった、もっと論理的に厳密で、より本質的なことが知りたくてたまらなかったのである。

 しかし、この問題は考えれば考えるほど深みにはまり込むようになっている。そうしているうちに、私にまた新たな悲劇が襲いかかった。私の頭がこの問いの加重に耐えられなくなって破壊され始めたのである。私は様々な奇妙な強迫観念に襲われた。そしてある日、視野狭窄が始まり、私は失明するのではないかという恐怖に襲われた。

 さいわい私の精神異常は「数理哲学序説」を読み終えたころから下火になった。この難解な書をともかくも読破したことで自信を得たせいか、その後学校の成績もみるみる回復し、一年後に私は大学の物理学科に現役で合格できた。大学に入学してからは数学の試験でトップの成績もいただいている。「数理哲学序説」はこうして私にとって記念すべき書物になった。

 私が数に「序数」と「基数」という二つの性格があることに気付いたのも、この書によってだった。そして「数の体系」は、この両者を縦糸と横糸にして織り上げられた織物であることを知った。そしてその織物のなんと見事なものであろうか。

 今、その感激を新たにすべく本棚に「数理哲学序説」を探したが見当たらない。蔵書整理で出したのかも知れない。これを再び座右において、「入門の入門」を書こうとしていた私は、大いにあてがはずれてしまった。

http://www005.upp.so-net.ne.jp/russell/KAIDAI04.HTM

(今日の一首)

 難解な書にあこがれて背伸びして
 ふと垣間見た神秘の宇宙


2007年04月19日(木) 序数と基数

 数学の本を読むと、数には二種類のものがあると書いてある。ひとつは、1番目、2番目、3番目という具合に、番号や順序を表すために使われる数で、「序数(順序数)」と呼ばれる。

 もう一つは、犬が3匹いるとか、猫が5匹いるとかいうふうに、集合の個数をあらわすもので、「基数(集合数)」とよばれる。この二つの数は本来は別物である。その証拠に、英語では別々の呼び方がされている。

(1)序数 first、second、third、 ……
(2)基数 one、two、three、……

 序数(順序数)はその個体の全体の中のでの位置をあらわすものである。私が病院に行って、10番という番号札をもらえば,それは私が10番目に診察を受けることを意味している。だから、序数はその個体に所属している。

 これに対して、私のクラスは生徒が23名いるという場合は、この23という数字はクラスの人数を表しているわけで、クラスの構成員である一人の生徒に所属しているわけではない。基数はその集まり全体の要素の個数を表しており、集合に所属している。

 しかし、この二つの数はまったく別物かといえば、そうもいえない。たとえば、ここに3匹の犬がいるとき、私たちは「1,2,3」と順番に指を折り曲げて、最後に残ったのが「3番目」であることを確認する。そして、同時に、犬が全体で3匹いることを確認するわけだ。だからここでは「最後の序数=基数」という関係が成り立っている。

 子どもがお風呂で「1,2,3、…100」と数えるとき、これは「序数」を唱えているわけだ。しかし、子どもが40まで数えたとき、もし教育的な父親が、「さて、いままでのところで、いくつ数を数えたの?」と訊けば、子どもは自分が今口にした同じ数が、これまでに数え終えた数の総数であることに気づく。100まで数え終わった子どもは、自分が数えた数の総数が100であることを知り、「100まで数える」ということは「100個数える」ということだと理解する。

 こうして子どもは、序数を手がかりにして、ここから基数を手に入れる。英語圏の子どもであれば、「third」まで数えれば、そのものの集まりの数(基数)は、「three」であると理解するわけだ。たとえば、「21世紀」は英語では「21th」と序数であらわす。「21歳」は「21old」で基数であらわす。だから、序数か基数かという区別はいつもついてまわる。

 中国や日本の子どもはこの面倒な読み替えはしなくてよい。序数も基数の区別があいまいだからだ。しかし、このことが「数」についての理解もあいまいにしているところがある。このことを踏まえた上で、「数とは何か」という問題に、明日の日記でもう少し迫ってみよう。

(今日の一首)

 何気なく使う言葉もはるかなる
 太古の恵みいとほしきかな


2007年04月18日(水) 数の不思議

 小さい頃、だれしもお風呂の中で、数を数えさせられたのではないだろうか。私も二人の娘を風呂に入れながら、「100まで数えたら、上がろうね」などと湯船のなかで数えさせたものだ。二人とも「いち、にい、さん、・・・」と、可愛い声を張り上げた。

 私の場合、はっきり記憶に残っているのは、福井の東別院の大仏さまの前で、父に「九九を言ってごらん」と言われて、一所懸命に暗誦したことだ。福井に帰省して大仏さまの前を通るとき、私はいつもそのまえに足を止め、手を合わせることにしている。大仏さまはすべてをごらんになっている。そのおだやかな顔を眺めながら、私はしばしば在りし日のなつかしい思い出を回想する。

 それはともかく、数を唱えることを覚えた私たちは、やがて「ものを数ぞえる」ことができるようになる。そして、「リンゴは何個ありますか」と訊かれて、「3個あります」と答える。リンゴだけではなく、ミカンも犬や猫も、空の星でさえ数えることができる。これはとてもすばらしいことだ。

 おそらく犬や猫も、おぼろげな数の概念は持っているのかもしれない。たとえば、リンゴを3個見せると、「ワン、ワン、ワン」と三回吼えるというぐあいに、犬やカラスでも訓練をすれば、ものを数えることができるという人もいる。しかし、3回吼え。3回鳴いたからと言って、ほんとうに犬やカラスが「リンゴを数えている」のか疑問である。

 小さな子どもの場合でも、「数を暗誦」できたからといって、それでただちに、「ものを数える」ということができるわけではない。この二つはじつは別のことがらである。この二つの間には、思考の飛躍がある。そしてこの飛躍を可能にするのは、私たちが持っている「ものごとを抽象化する能力」である。

 ここに3個のリンゴと、3個のミカンがある。これをみて、私たちはこの二つのもののあつまりの中に、何か等しいことがらが隠れ潜んでいることに気づく。この「等しいことがら」が「数」という概念を作り出す。こうした抽象化する能力によって、私たちの「ものを数える」という知的な行動が可能になる。

 こうした抽象する能力は、私たちの先祖が「数」を発明したときに不可欠なものだった。おそらく何万年もかけて人類はこの能力を発展させ、ついに「数」を発明し、「ものを数える」という高度な知性を獲得したのだろう。それは私たちが「言葉」というものを獲得する過程とも分かちがたく結びついている。このことについて、明日の日記で、もう少しくわしく述べてみよう。

(今日の一首)

 よきところ数えてみればしあわせが
 あふれてくるよ今日も青空


2007年04月17日(火) 数学が好きになる教科書

 定時制高校を希望したことの理由の一つに、数学の教科書を自前で作りたいということがあった。日本の教科書は数学に限らず、読んでいて面白くない。整然と要点が書かれているが、生徒の学習意欲を掻き立てる筋書きにはなっていない。30年近く教師をしていて、これが不満だった。

 そこでもう少し面白い教科書を自前で作りたいと思った。できることなら、算数の基本から高校で学習する微分・積分までをカバーする総合的な教科書を完成させたい。これをインターネットで公開して、多くの人に読んでいただき、数学の目的である「自分の頭でものを考える」ことの魅力を伝えられたら嬉しい。

 残念ながら、この計画はまだ絵に描いた餅である。この二年間、毎回授業プリントを作ってきたが、まだ補助的な「授業プリント」という段階である。しかし、これに肉付けして、いずれは私の目指している理想の教科書を実現したいと思っている。

 今年は4年生の理系クラスで、「微分・積分」を教えることになった。毎日学校でその授業に向けた学習プリントを創作している。「微分とはなにか」「積分とは何か」を分かりやすく解説するだけではなく、実際、これを使って、身近ないろいろな問題を分析し、様々な問題がこれを使って解決できることを示したい。そのためにこれをどう教えるか、いろいろと本を読んだり、自分で考えをめぐらせたりしている。

 さいわい、大学を卒業した次女のノートパソコンが家に置いてあったので、さっそくこれを学校に持参することにした。これまでは職員室のパソコンを遠慮しながら使っていたが、これで心置きなく、時間を気にしないで教材を製作できる。三年目にして、ようやく教科書を書くための環境が整った。

 数学はともすれば「難しくて役に立たない」ものの代名詞のように言われるが、これは誤解である。この誤解を吹き飛ばすような、読んでいて楽しい、しかもパワーのある教科書を、残された4年間のうちに書いてみたい。できればその英語版も書いてみたいものだと思っている。

(今日の一首)

 たのしみは人の心に火を点し
 よろこび輝く笑顔を見ること


2007年04月16日(月) 長屋暮らし

 若狭小浜にいた小学生の頃、しばらく長屋で暮らしたことがある。長屋には警察官の家族ばかり4世帯が入っていた。壁が薄いので、隣の声が筒抜けである。プライバシーなどどこにもない。

 私の一家は一番右端だった。隣が川口さんで、そこに3人姉妹がいた。真ん中のU子が私の一つ下で、私たちは仲がよかった。学校へいつも一緒に行ったし、学校から帰ってきてからもよく遊んだ。

 長屋には共同風呂があった。五右衛門風呂だった。釜を洗って、水を入れ、さらに薪を燃やして湯を沸かす。これが輪番で回ってきた。これはどこの家でも子どもの仕事だった。私が沸かしているとU子が手伝ってくれたし、その反対もあった。子どもたちもそれなりに助け合って暮らしていたわけだ。

 私たちは一緒にお風呂にも入った。狭い五右衛門風呂のなかで、ふざけあって彼女のわきの下をくすぐったりもしたが、これも仲のよいことの証拠だろう。一つ年下だったが、3姉妹の中で揉まれてていたせいか、U子は私よりしっかりしていて、どこかお姉さん風をふかすところがあった。

 近くに、私と同い年のK子が住んでいて、彼女ともよく遊んだ。いわば両手に花といったあんばいだった。この頃、紅顔の美少年だった私は、よくもてたのである。私が小浜を離れるとき、二人の少女が見送りにきてくれた。そのとき、家の前で撮った写真がある。左側がU子、右側がK子である。

http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/syasin/b2.jpg

 プライバシーもなく、貧しい長屋暮らしだったが、私には一番楽しい時代でもあった。母もこの頃が一番楽しかったという。それは長屋のみんなが暖かい気持ちで助け合って暮らしていたからだろう。

(今日の一首)

 遠き日の薪のにおい思い出す
 五右衛門風呂を友と焚いた日


2007年04月15日(日) 見事な最後

 もうすぐ祖母と父の17回忌である。父は67歳で死んだ。そして、父の葬儀の翌日、祖母が息をひきとった。こちらの方は享年96歳だった。ほぼ同時に死んだわけだが、死ぬまでの経過は対照的である。

 祖母は晩年は病弱で、20年近く病院や施設に入っていた。そこで手厚いケアを受け、何度か瀕死の瀬戸際に立ちながら、そこから奇跡的によみがえった。母もそのたびに献身的に祖母に尽くした。最後は老衰だった。

 母は弟夫婦の男の子の面倒を見ながら、祖母を病院や施設に見舞い、なかなか大変だった。これを見ていた父は、癌になっても病院に入ろうとはしなかった。そしてこちらの方は、在宅のまま、これという治療もしないで1年後に死んだ。

 発作が起こり、母があわてて救急車を呼んだが、父は玄関口で威儀をただし、集まってきた近所の人におじぎをしたあと、自分で歩いて救急車に乗り込んだという。そして翌日には病院で息をひきとった。父の意思を尊重して、病院も延命治療はしなかった。

 老衰で大往生した祖母も立派だが、私は父の死に心を引かれる。父は母に「死ぬときは、迷惑はかけない」と言っていたそうだ。その言葉のとおりの潔い死だった。母もこれで助かった。

「二人もやんちゃな幼子がいて、その上におばあちゃんがいたでしょう。そこにおとうさんが癌になって、私も高血圧が心配だし、ほんとうに大変だったのよ。ところが、おとうさんは愚痴も言わずに、自分で耐えていたのね。最後は仏様のように、ありがとうって、そればかりだったわ」

 私はこの父を誇りに思っている。そして、私も父のように潔く死にたいものだと思っている。そのためには、60歳を過ぎたら、もう医者にも行かず、薬も飲まない。そしてすべてを自然にまかせて、寿命が尽きるのを待つ。日本にいてはなかなかこうした自然死はできない。だから、できればどこか遠い異国で、静かに最後を迎えたいと思っている。

(今日の一首)

 旅に出る最後の言葉決めてある
 たのしかったよみんなのおかげ


2007年04月14日(土) 過ちから学ぶ

 新学年がはじまって、1週間が過ぎた。昨日は新入生歓迎会で、みんなで楽しくバイキング料理を食べ、そのあとビンゴゲームをした。こうしたことは定時制ならではのことだろう。

 昨日の私のクラスの出席率は23/24だった。わけがあってひとりだけ、まだ一度も学校に顔を見せていない。そのN君をのぞけば全員が出席した。クラス席に勢ぞろいした生徒たちを見ていると、いかにも活気に満ちていて、楽しいものである。

 この一週間は、毎日放課後に精力的に面接をした。他の学校から編転入試験を受けてやってきた5人については、N君をのぞく4人は真っ先に面接した。4人とも「前の学校では勉強についていけず、落ちこぼれたけど、夜間高校でもう一度やり直したい」という。3人の女子生徒たちはもうすっかり仲良しになって、昨日も一緒に他の生徒も交えながら楽しそうに食べていた。

 わけありのN君はまだ一度も顔を見ていないないが、両親には学校に来てもらい懇談した。母親の話だと、早くても5月の連休明けまでは登校は無理ではないかという。学校に登校できても、うまく他の生徒たちとやっていけるか、両親は心配のようだった。「定時制にはいろいろな生徒がいて、ふところが深い世界なので大丈夫です」と、まずは両親の不安を取り除いた。そのあと、こんな話をした。

「若いときには、いろいろと過ちをした方がいいのです。そうすれば過ちから学ぶことができます。過ちを避けて、事なかれ主義では、人間的に成長できません」

 教員になってしばらくして、自動車教習所に通った。そのときコースからはずれないように、できるだけ慎重に運転していると、教官がこんなアドバイスをしてくれた。

「もっと思い切りよく運転しなさい。車を敷石にぶつけたり、脱輪したりしないと駄目です。車が壊れても保険に入っているから大丈夫。練習はもっと思い切りやりなさい。そうしないと運転はうまくならないよ」

 これは人生にもあてはまるのではないか。失敗をしないように慎重に生きているだけでは、成長ができない。いろいろと他人に迷惑をかけたり、時には暴走して怪我をしたり、コースを外れて脱線したり、いろいろと体験することで、人間の幅が広がっていくのではないだろうか。

 振り返ってみると、私もいろいろと事件を起こし、何度も脱線した。おかげで、若者のあやまちや脱線について、かなり寛容な見方ができるようになった。あやまち恐れていてはいけない。おおいに過ちを為すべし。いつか、そのあやまちに気づくときがある。そのとき、人間は大きく成長する。これが私が自分の過ちの多い人生から学んだことである。

(今日の一首)

 あやまちの多き人生それゆえに
 人にやさしく我にもやさしく


2007年04月13日(金) 品性のない政治家たち

 1月27日に柳沢厚労相が、女性は「子供を産む機械」と発言をして注目を浴びた。多くの女性に幸せな結婚をして、安心して子どもを育てられる社会にしたいというのがまともな政治家の言うことだ。

 柳沢厚労相の発言にはこうした社会的な視点が欠落している。「ただ機械のように子どもを産め」というだけでは、少子化対策について有効な政策は出てこない。残念なこととである。

 埼玉県の上田清司知事は4月2日の新規採用職員就任式の式辞で、「自衛官は人殺しの練習をしている」と発言し、さらに続いて、「警察官も大変なんです。人を見たらドロボウと思えと教えられ、人を取り押さえるために格闘技の練習をしている。人を痛めつける練習、ねじり押さえる練習をしている」などと言ったそうだ。

 たしかに自衛官は戦争になれば「人殺し」もしなければならない。これは大変なことだ。警察官は犯人を捕らえなければならない。だから格闘技も練習する必要がある。しかし、これを「人殺しの練習」「人を痛めつける練習」と表現するところに、殺伐とした教養のなさを感じてしまう。

 今月2日には、愛知県の神田真秋知事が入庁式で、「弱い、悪い遺伝子を持った方にきちんと対応しなければいけない」と発言した。障害のある人を「弱い、悪い遺伝子を持った方」と表現してよいのだろうか。

 知事は3日に、記者会見し、「障害のある方々に不愉快な思いをお掛けし、不適切だったと考えており、おわびする」と謝罪したが、こういう無神経なことを入庁式でいう神田知事の人間性を疑わざるを得ない。

 暴言といえば、石原慎太郎東京都知事も相当なものである。なかでも、『週刊女性』 2001年11月6日号に載った、「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なる物はババァ」発言は、「女性は産む機械」「悪い遺伝子」という発想とつながっているようで恐ろしい。

<『週刊女性』 2001年11月6日号 (インタビュー記事)

 これは僕が言ってるんじゃなくて、松井孝典が言ってるんだけど、�猜弧世�もたらしたもっとも悪しき有害なる物はババァ�瓩覆鵑世修Δ澄��狃�性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です�瓩辰董C砲枠�〇、九〇歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって……。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)>

 ちなみに石原慎太郎氏が引用した松井さんの発言は都内の講演会のもので、彼はそこで、石原慎太郎氏とはまったく反対のことを主張している。

<おばあさんが存在すると、おばあさんの経験が活かされ、次の世代の出産はより安全になる。さらに、おばあさんに子供の世話をしてもらえるので、次の出産までの期間が短くなり、出産回数が増える。これらは人口増加をもたらす。こうして人口の増えた現生人類は世界中に散らばり、その過程で様々な道具を生み出し、さらに脳の回路が繋がり、言語が明瞭に話せるようになったことで、抽象的な思考ができるようになり、人間圏をつくるまでに繁栄したと考えられる>

 石原氏は4月8日の都知事選挙で圧倒的な支持をあつめ、3選を果たした。こうした品性のない人間に権力を与えるとどうなるか、私たちはずいぶんと大きなリスクをかけて民主主義の勉強をしているわけだ。

「石原慎太郎暴言データ集」

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/ishihara/data/index.htm

(今日の一首)

 亀吉と亀子がいたよリリスケも
 ハルコもいたよむかしの我が家

 娘たちが子どもの頃、いろいろなペットを飼っていた。「亀吉」「亀子」というのはその名のとおり亀である。リリスケはマルチーズ犬だ。ハルコは鶉である。このほか、ハムスターもいて、なかなか賑やかだった。


2007年04月12日(木) 夜中の咳

 一週間前から、咳でつらい思いをしている。とくに、夜中に咳の発作に襲われるのがつらい。きまって2時ごろである。困った習慣がついたものだ。おかげで起床が遅くなる。ということは、日記を書く時間がそれだけ少なくなるということだ。

 じつはこの一週間に限ると、かなり手抜きをしている。少し前に掲示板「ひとりごと」に書いた文章を急場しのぎでコピーしているのだ。「ひとりごと」を読んでくださっている人は、せっかく日記を読んで、「何だ、また手抜きをしているな」と大いに不満ではないかと思う。もうしわけのないことである。

 今日の起床は4時半だった。書きたいテーマがいくつかある。それをじっくり腰を落ち着けて書いてみたい。それだけの時間はありそうだ。しかし、やはり体調が完全ではないせいか、「根気」がわかないのである。今も咳は続いている。そして、「咳」をするたびにエネルギーが抜けていく。

 咳が立て続けに出ると、息を吸い込むゆとりがなくなる。つまり、呼吸困難に陥るわけだ。これはほんとうに死ぬほど苦しい。こんな体験は初めてである。おかげで喘息の患者の苦しみが少し理解できた。

 妻が30代前半の頃、原因不明の喘息で苦しんでいた。咳が止まらないので、しまいには肋骨まで痛くなった。見ていて気の毒だが、回りのものはどうすることもできない。もちろん医者で貰った薬は飲んでいたが、ほとんど効果はない。ところが、人に進められて名古屋市大病院に行き、そこでもらった「黒いどろどろの薬」を飲んだら数日で嘘のように治ってしまった。

 この「黒いどろどろの薬」の正体が長い間謎だったが、看護婦の長女が調べてくれた。妻がそれを昨夜私に教えてくれた。それは「なんとかかんとか」という薬である。私は聞いてもすぐに忘れてしまう。メモをしなかったので、書くわけにはいかないが、後日、正確な薬の名前をここに書き加えよう。

 というわけで、あまりに咳が続くようなら、病院へ行って、この「黒いどろどろ」の薬を貰ってくればよい。なんだか正体が分からなくて気味がわるかったが、ちゃんとした名前のある薬ならいくらか安心である。しかし、この薬はどこの病院にでも置いてあるわけではないようだ。また、置いてあっても、薬を知らない医者もいるようだ。

 夜中に発作に襲われて、「ひーひー」断末魔の悲鳴をあげていると、家人には迷惑だし、ひょっとして近所迷惑になっているかもしれない。しかし幸いにして、昼間はあまり咳が出ない。だから、病院に行くのがつい面倒になる。あえて、「黒いどろどろ」を飲む気にもならない。私の場合は風邪から来ている咳なので、風邪が治ればおさまりそうだという安心もある。

 風邪を治すほうが先決なのだが、私は病院が嫌いなので、じつは今回は医者には行っていない。最初は市販の風邪薬を飲んでいたが、胃が痛くなったので、それもやめている。医者や薬に頼らず、食事と睡眠で免疫力を高め、自然治癒をめざしたいと思っている、それだけに、睡眠を妨害し、私から体力と気力を奪う「夜中の咳」は困りものである。

(今日の一首)

 咳やまず夜中に起きて水を飲む
 喘息患者もかくのごとしか


2007年04月11日(水) 私のシンプルライフ

 週に2,3回と思って書きはじめた英文日記だが、結局毎日書いている。朝食前に日本語で日記を書き、散歩のあとそれを英語に翻訳する。こういう生活のリズムができてしまった。

 何事もそうだが、続けようと思えば習慣にしてしまえばよい。そうすれば慣性の法則で、ものごとが自然に成就される。英文日記も時間を決めて書くのを習慣化すれば、書くのが当たり前になる。

 英文日記を書くようになって、海外の英語サイトを読む機会が多くなった。たとえば「バウチャー制度」について書くときは、グーグルでバウチャー制度について検索する。そしてそこに現れた英文を手がかりにして、翻訳を進めるわけだ。たとえば、次のような英文が現れる。

<The Florida Supreme Court ruled on January 5 that the state's original voucher program violates the state constitution>

 ここで、裁判所が判決を下すというのは、「rule that 〜」でよいし、法を犯すというのは「violate」という動詞を用いればよいことがわかる。日記にはこの英文をコピーして使わせてもらった。

 ときには5本ほど英語の文章を参考にする。それらのあちこちにちらばっている有用な表現を探し当てたときは、パズルが解けたときのような楽しさがある。

 もっとも英文日記を書いていると、他の事はほとんどできなくなる。9時過ぎに散歩から帰り、書き終わるのが11時近くになるからだ。大急ぎで風呂に入り、昼食を食べる。そして、12時には家を出て、学校に行く。帰宅するのは、夜中の11時過ぎである。あとはそのまま寝床に倒れこむだけだ。

 好きな本を読んだり、DVDを見たり、録画したTVの番組を見たりできるのは、休日くらいだ。酒も飲まないし、美食家でもない。最大の楽しみが散歩だというから、ずいぶん味気のない人生のようだが、こうしたシンプルライフをこれからも続けてみようと思う。

「英文日記」
http://9128.teacup.com/hasimoto/bbs

(今日の一首)

 24の生徒あずかり今日もまた
 夜学はたのしオアシスなれば

私のクラスは24名である。男子が13名で、女子が11名。「24の瞳」ならぬ、「48の瞳」である。今日の短歌に「夜学はたのし」、と書いたが、もちろん楽しいことばかりではない。仕事としてみれば、つらいことが8割、楽しいことが2割である。

 しかし、生徒たちにとって、夜学は心がくつろげるオアシスであってほしい。私たちの仕事は、学校をそうした学びと成長のオアシスにすることである。そのための苦労は、少しも苦労ではない。それは私たちのたのしみなのだ。子育てが苦労であると同時に、たのしみであるように。


2007年04月10日(火) 町内のお祭り

 先日の日曜日は、町内のお祭りだった。そろいの水色のはっぴに白い鉢巻のりりしい子どもたちに担がれた神輿が、威勢のよい掛け声とともに町内を練り歩く。そして、集会所の前には屋台が並び、終日人が絶えない。私たち一家の昼食も屋台の焼きそばやたこやきである。

 一角に「あなたの血管年齢を診断します」というコーナーがあったので、さっそく測ってもらった。指先を機械の穴の中において、しばらくすると結果がプリントアウトされてきた。見ると私の血管年齢は「57歳」である。実年齢そのものである。つまり私の血管は年相応に老化していますよ、ということらしい。

 妻も測ったが、「60歳」と出た。実年齢より7歳も老化が進んでいるということだ。妻はショックだったようだ。しかし、近所の人の血管年齢がわかってくるにつれて、妻のショックはやわらいだ。

 心臓に障害があり、病院に通っている人が実際よりも20歳も若い結果が出てきた。そうかと思うと、60歳前半でばりばり現役の男性が80歳と診断されている。つまり、私の「57歳」という診断はまったくまぐれのようなものだ。

 この機械はどうもあてにならないという結論になった。しかし、こんなことで町内の大人たちが楽しく交流できるのだから、まあ、お祭りの余興としては成功したのだろう。

 太鼓の出し物があった。はっぴを着た小学生の子どもたちが、太鼓を叩く。日ごろ練習しているだけあって、なかなか見ごたえがあった。太鼓のリズムにしばらく陶然と身をゆだねた。

(今日の一首)

 子どもらの叩く太鼓が鳴り響く
 お祭り気分でみんなともだち

 この日、妻も私も風邪で体調が悪かった。しかし、子どもたちの元気な太鼓の音を聞いて、「風邪なんかにまけないぞ」という気分になった。再来年は私に町内会の役がまわってくる。前回は防犯委員だったが、次は会長か副会長か会計、この三役からまぬがれそうもない。そろそろ町内のために何かお役にたたなければならない年齢になってきている。


2007年04月09日(月) あらたな1年の始まり

 今日学校は始業式の日である。あらたな1年のはじまりだ。去年は23人の1年生の生徒を担任として預かり、17人を進級させた。今年は24人の2年生の生徒を担任として預かることになった。そこで、昨夜は第一号の学級通信を自宅のパソコンで書いた。

 そこに「24人全員が3年生に進級できるようにがんばろう」と書いた。そのためには一人ひとりががんばるだけではいけない。担任も生徒も一緒になって、おたがいに助け合ってがんばるのである。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」というのが、理想的なありかたである。私はこれを最近は「大和心」と呼ぶようになった。もっとも学級通信には「大和心」とは書かなかった。誤解を与えるといけないからね。

 学級通信を書いていると、去年退学した二人の生徒から電話を受けた。S子は10月頃に退学した生徒である。施設に入っていたが、退学と同時にそこを出て、一人暮らしをし始めた。在学中は毎日のように電話をしてきたが、退学してからもときどく電話をくれる。だから、彼女の近況はだいたいわかる。

「先生、今晩は。S子です」
「やあ、元気か」
「先生、○○高校の定時制に合格したんだよ」
「えっ、そうか」

 勉強嫌いのS子がまた高校に受験したというのがちょっと意外だった。彼女は春日井市にあるレストランでウエイターをしていたはずだ。それから、ボーイフレンドができて、自分のアパートで同棲をはじめたことも聞いていた。

「もう、ウエイターはやめたの。でも、一度も食べに来てくれなかったわね」
「あいにく車がないからね。そのうちについでがあれば行こうと思っていたんだよ」
「ほんとうに?」

 前のボーイフレンドとは別れたが、また別の恋人が見つかったのだという。「うちの学校に来ればよかったのに」と言うと、「ほんとうは行きたかったのだけれど・・・」と言葉を濁した。いろいろな想いがあったのだろう。彼女の場合、在学中は電話はいつも「ワン切」である。だからこちらからかけなおす。

 退学してから、さすがにそれはなかったが、今回はまた「ワン切」である。これでだいたい経済状態がわかる。私の経済状態も良好とはいえないし、それにまだ喉が痛い。仕事もある。さびしがり屋の彼女と話しているときりがない。「それじゃあ、とにかくがんばりなさい」と言って、こちらから強引に切った。少し後味の悪い別れ際になった。 

 そのあと、もう一人、N子から電話を受けた。彼女は6月頃から登校拒否がはじまり、9月に退学している。こんど再び、妹と一緒に私の学校の定時制を受験した。二人とも合格した。合格発表のとき、いい笑顔だった。「先生、妹と一緒のクラスにしてね」と頼まれたので、1年生の担任の先生にそのようにお願いした。

 ところが、入学式を直前にして、二人とも入学辞退届けを出してきた。「どうして?」と疑問思ったが、あいにく風邪で声が出ないので、電話をしそびれていたのだ。昨日は何とか話せるようになったので、昼間、こちらから電話をした。そのときは、電話がつながらなかった。携帯の着信記録を見て、電話をよこしたようだ。

「ごめんなさい、月曜日に電話するつもりでした」
「どうしてやめたの。二人で合格して、あんなに喜んでいたのに」
「先生、ほんとうに妹と二人で学校に行きたかったのよ。でも、いろいろあって」

 プライベートな話なので、ここには詳しく書けないが、要するに病弱な母親を抱えた母子家庭で、経済状態が悪いのだ。期限までに何とか一人あたり5万円の納入金を収めなければならないが、それを二人分用意できなかったのだろう。「そうか、それは残念だな」と、私も同情し、肩を落とすしかなかった。

「叩けよ、さらば開かれん」という聖書の言葉のとおり、せっかく挑戦して道が開かれたのに、そして妹と二人であたらしい門出を踏み出そうと喜びに満ちて身構えていたのに、これはとても残念である。「来年もあるさ。待っているから、お金をためて、またやってきなさい」とはげますので精一杯だった。

 電話の後、気を取り直して、学級通信を完成させた。これを今日、24名の生徒に配布する。もっとも欠席者が何人かいるだろう。そのうちの一人は、現在、警察の拘置所に入っている。転入生なので、まだ顔も知らないが、先日、両親からいろいろ詳しい事情を訊いた。子を思う親の熱い思いに触れて、この親がいれば彼は大丈夫だろうと安心した。

(今日の一首)

 新しい子らを迎えて始業式
 すこしときめくこころは青春


2007年04月08日(日) 朝日に匂う花

 木曽川堤の近くに大きな桜の木が今を盛りに咲いている。一昨日の朝の散歩のとき、妻と二人でその桜の枝の下で写真を撮り合った。

 しきしまのやまと心を人とはば
 朝日ににほふ山ざくら花

 本居宣長の歌が思い浮かぶ。ここで彼が詠んだ「やまと心」は、本来の「大和心」である。すなはち、森羅万象すべてを同胞として受け入れる「大きな和心」である。、長谷川櫂さんも「週刊現代4/14」の「国民的俳句100」でこの歌を取り上げて、こう書いている。

<遠い昔、桜は人を戦場に駆り立てたりする勇ましい花ではなかった。むしろ、その反対、和心の花だった>

 宣長が日本の心として愛した大和心は、もののあはれを愛でる優しい心でもある。彼が愛した「源氏物語」で、紫式部は美しいヒロインの紫の上を桜にたとえている。

<ものに紛るべくもあらず、気高く、清らに、さと匂ふ心地して、春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜(かばざくら)の咲き乱れたるを、見る心地す>

 ここで樺桜というのは山桜の一種らしい。桜はこのようにどこかはかなげで美しい佳人にたとえられる。そしてこの花は、西行はじめ、多くの日本人のこころに、ふるさとの花として咲いていた。

 ところがこの1世紀の間に、平和を愛するおおらかな大和心が、どういうわけか国のために命まで投げ出して戦争をする狂気じみた大殺戮心に生まれ変わった。桜の花も平和の愛の象徴でなくなり、戦争を愛する心のシンボルになった。これには天国の本居宣長もびっくりしているだろう。

 ちなみに、HPの表紙を飾っている写真の桜も、去年の春まで木曽川堤に咲いていた桜である。残念ながら、堤防の改修工事で、多くの桜の木が切り倒された。この木は真っ先に切られてしまった。

 昨日、妻と二人で写真を取り合った見事な桜の木は、奇跡的に生き残った。これもまた、首切りが横行する経済優先の世の中では、人間同様にいつ無残に切り倒されるかわからない。さびしいことである。

(今日の一首)

 わが風邪をもらって妻は寝込みたり
 病人が二人花冷えの夜

 一昨日の朝、妻に「誰か僕の風邪をもらってくれないかな」と冗談を言ったが、これが冗談でなくなった。妻が頭と喉が痛いと言い出し、昨夜夕食を食べずに寝込んでしまった。これでは家事も停滞する。余計なことを口にしなければよかった。


2007年04月07日(土) バウチャー制度を悪用

 米フロリダ州には、標準テストによる判定で「失敗学校」と認定された公立学校の生徒たちに学費(バウチャー券)を支給し、私立学校へ転校する道を切り開く制度がある。現在、730人の子どもたちが、この制度の恩恵を受けているという。

 1月5日に、米フロリダ州最高裁は同州政府が実施しているバウチャー制について、これが「公教育の公平と平等」をうたった州憲法に違反しているとして違憲判決を下した。これに対して、ジェフ・ブッシュ州知事(大統領の実弟)は、州憲法の改正を含むあらゆる法的手段を駆使し、バウチャーの存続を図る方針だという。

 もともとバウチャー制度は公教育の統制から子どもたちを解放しようというリベラルな運動として始まった。ところが市場万能主義者のフリードマンがこれを「教育の市場化」としてとらえることで、事態が一変した。おなじく公教育に対する批判でありながら、新保守には貧しい子どもたちを画一的な抑圧的な教育から救うというリベラルの発想はない。

 それどころか、共和党の新保守がバウチャーを推進するのは、民主党リベラルの牙城となっている「公教育」をたたき潰したいからだ。その先頭に立っているのジェフ・ブッシュである。彼は公教育に注ぎ込むべき税金を、バウチャー制度を通して、特定の宗教色を持つ私立学校へ注ぎ込む道をつけた。これにたいして、裁判所は違憲だと主張したわけだ。

 日本でも安倍首相がバウチャー制度に熱心である。その前段階として統一テストの実施が行われようとしている。これが組合潰しのためでないことを祈りたい。

(今日の一首)

いつの世も辛きこと多し泣きつつも
人は生きたり小手鞠が咲く


2007年04月06日(金) 声のない生活

 昨日は学校に行き、全日制と定時制の合同の職員会議や、入学式や新年度に向けての準備などをした。あいかわらず声がほとんど出ない。みんなから「どうしたのですか?」と訊かれた。隣のS先生にも訊かれて、「気合が足りなかったようです」とささやくように答えた。

 S先生の口癖は「風邪を引くのは気合が足らないからだ」である。私も「そうだ、そうだ」とこれまで尻馬に乗っていた。ここで自説を曲げるわけにはいかない。S先生はさすが気の毒そうに、「いや、いや、過労でしょう」とフォローしてくれた。もちろん過労で風邪を引いたわけではない。

 あえていえば原因は電気毛布だと思っている。よく風邪を引いていた私が、10年ほど前に電気敷毛布を使うようになって、ほとんど風邪をひかなくなった。このとき私は夜の冷え込みに弱いのだと気づいた。だから、私は毎年4月になっても、用心して電気毛布を使ってきた。

 ところが今年は暖冬で、2月があたたかかった。そこで3月になると早々と電気毛布を片付けた。電気を使わずにすませればそれにこしたことはない。しかし、3月、4月になっても寒い日が続いた。結局このところの夜の冷え込みに、電気毛布であまやかされた私の体が悲鳴を上げて、風邪をひいたわけだ。

 以前、視覚に異常をきたして不便な思いをしたが、声を失うということも不便なものである。いつものことだが、失ってみて、はじめてそのありがたさがしみじみとわかる。健康であるあることは、実にすばらしいことなのだ。

 昨日はそんなわけで、5時間ほど年休をいただいて学校を早退し、6時過ぎに家に帰ってきた。そして、妻に再び寝床に電気敷毛布をセットしてもらった。これで昨夜はぬくぬくとした暖気につつまれた寝床に身を横たえたが、熟睡というわけにはいかなかった。うなされて3度ほど夜中に目を覚ました。

 うなされ方が尋常ではない。痛い喉元から思い切り息を絞り出すから、断末魔のような悲惨なうめき声になる。これを自分の耳で聞いて、驚いて眼を覚ます。不思議なのは、その寸前の夢の中で、私は菜の花畑のようなところで春風とたわむれていたことである。そこへ、突然、不気味な声が響いて眼を覚ますと、何とその声の主は自分だったわけだ。

 そんな声を聞くと、傍目にはどんなに苦しいかと思われるが、本人は花畑で光につつまれて遊んでいる夢を見ているくらいだから、それほど苦しいわけではない。断末魔のときも、これと同じかもしれない。死に際が苦しそうに見えても、本人は案外、お花畑を歩いている夢を見ているのかもしれない。そうだといいのにと思う。

 今朝はいつもより早く3時過ぎに眼を覚ました。誰もいない台所で水を飲んだあと、「おはよう」と空になったグラスに話しかけてみた。かすれているが、一応声になっている。これで今日の入学式の勤務はなんとかしのげそうだ。そうすれば、明日から連休である。ここでしっかり風邪をなおして、9日の始業式は晴れやかな笑顔で臨みたい。

(今日の一首)

 菜の花の夢をも破るうめき声
 電気毛布は温かなれど


2007年04月05日(木) 根気が大切

 人生に大切なものの一つは、根気である。主婦が子育てをして食事を作るにも、サラリーマンが会社に通勤するにも、毎日これを続けるには、それなりの根気が必要だ。根気がないと、いくら才能があっても、人は何事も成就することができない。

<人は才能の前に頭を下げない。根気の前に頭を下げる>

 これは夏目漱石の言葉だ。才能も大切だが、たしかに才能を生かすものは根気だろう。人生の成果は才能と努力の掛け算になっている。私など才能はないので、その分は根気で補うしかない。だから根気だけは人に負けない。

 根気をつけるのに役立ったのは、中学、高校時代の山仕事だったかも知れない。杉苗を担いで山に登り、斜面を鎌で切り開いて、それから穴を掘って杉苗を植える。これを暑い夏の日に行うのは、なかなかの重労働である。しかし、これを続けたおかげで、多少のことではへこたれない精神が養われたようだ。

 大学時代に朝刊と夕刊を毎日配り続けたのも、私の中で自信になっている。雪の降り積もる早朝、真っ暗な中で新聞を配り続けるのも、それなりに根気がいる仕事である。私はこれを何年か続け、そして朝晩、お寺の間借りで自炊しながら学問に打ち込み、大学院に進学した。

 大学院に合格しとき、友人の一人から、「君は才能があるからいいね」と言われたことがある。同じような言葉を、教員試験に合格したときも聞いた。私はこれを心外に思った。才能がないのは自分が一番知っているからだ。だから、現在の私に多少とも他人に秀でたところがあるとすれば、それは努力の成果に違いない。もう一つ、私の好きな言葉がある。

<静かに行く者は健やかに行く。健やかに行くものは遠くまで行く>

 これはパレートというイタリアの経済学者の言葉らしい。「玉磨かざれば光なし」(No gemstones shine without polishing)という中国の諺もあるが、非才の私にとって、「健やかに行くものは遠くまで行く」という言葉は、とても大きな励ましである。

(今日の一首)

 風邪ひきて食欲はなし喉痛し
 妻が剥いたリンゴはうまし

 妻に「何か食べたいものがある?」と訊かれて、迷わず「リンゴ」と答えた。昔は私が風邪をひくと、母がリンゴをおろして食べさせてくれた。そのせいか、私は病気のときはリンゴを食べるものと思っている。熱っぽい喉越しに、ひんやりしたリンゴの感触がこころよい。


2007年04月04日(水) 頭痛と悪寒に襲われる

 風邪を引いたらしい。昨日は朝から頭痛と寒気がした。風邪薬を飲んで出かけたが、学校で時間割を組んでいるうちに、頭痛がひどくなってきた。教務の5人で昼食を食べに出かけ、午後も引き続き、根をつめた作業が続いた。時間割を組み終わると、夕方近くになっていた。

 地下鉄とJRを乗り継いでどうにか木曽川駅についた。そこに自転車が置いてあるのだが、どうも気力がわかない。妻に車で迎えに来てくれるよう電話をしたが、運悪く応答がない。しかたがないので、寒い風の中を自転車を漕いで帰ってきた。これでさらに体力を消耗した。

 痰がからみ、咳がしきりにでる。咳をするたびにズキンと後頭部に痛みが走る。食欲はなかったが、餅を焼いて1個だけ食べた。それから風邪薬を飲んだ。病院の勤務を終えた長女がやってきた。県の条例が改正(改悪?)になり、公立病院に勤めている看護婦の長女も「休息」がなくなったと言って怒っていた。毎日サービス残業が続く上に、休日も勉強会だという。

 そのうちに、看護婦や教員もなり手がなくなるのではないか。管理ばかりが厳しく、待遇が悪ければ、優秀な人材はあつまらない。今後日本の医療や教育がどんどん悪くなっていくのだろう。長女は去年の暮れに、高校の恩師から、「看護婦をやめて教師にならないか」という勧誘を受けた。少し迷ったようだが、看護婦を続けることにした。大変だがやりがいがあるのだという。しかし、先のことを考えると現場の仕事は大変である。

 大変といえば、次女も2日から婦人警官になるための6ケ月の宿泊研修に入っている。最初の2週間は外出もできない。去年までは携帯電話の持ち込みは禁止だったが、今年から許可になったのだという。次女から妻に、「自由時間が少しもない」とメールが入った。私には耐えられないことだが、4年間馬術部で鍛えた次女なら大丈夫だろう。

 そんなことを考えながら、早々と寝床に入ると、毎年グループで旅行に行っているTさんから電話が入った。「夏休みに入った最初の土日でどうですか」というので、「セブへ行くのでそこは無理です」と答えた。声がしわがれていて、思うように声がでない。

 久しぶりの電話で、いろいろ語り合いたかったが、こちらにその余裕がなく、「私をはずしていただいてもいいので、皆さんでどうぞ」と言うのが精一杯だった。そのあと、生徒の一人から、メールが届いた。しばらくこんなやりとりをした。

「学校て、いつからでしたか。すみません」
「9日からです」
「始業式だよね?」
「そうだよ」
「今週はないということだよね?」
「うん」
「9日は普段着でいいんだよね? ありがとうございます。くどくてごめんなさい」
「いいよ」
「ありがとうございました。先生て2年生の数学も教えてくれるの?」
「多分ね」

 メールの交換をしながら、イライラが募ってきた。頭痛と悪寒がますますひどくなってきた。こうなったらもうやけくそである。そのままコンピューターの前に座り、昨日の日記を英語に翻訳した。何かに夢中になっていると、その間だけは苦痛を忘れていることができる。

 訳し終えて、「今日も英語日記が書けた」という充実感は味わえたが、頭が割れるように痛くて、体調は最悪だった。寝床に入って、芭蕉の「夢は枯野をかけめぐる」という句を思い出した。

(今日の一首)

 風邪薬飲んでもきかず悪寒あり
 夢にうなされ枯野をめぐる


2007年04月03日(火) 黄砂襲来

  昨日、近畿や中部地方を中心に黄砂が襲来した。私が住んでいる一宮も、勤務先の名古屋も、一日中白いもやがかかったようにあたりがかすんで見えた。はじめは春霞かと思ったが、そんな風流なものでないことは、そのほこりっぽい匂いでわかった。夕方の太陽が満月のように西の空に傾いていたのが、かなり不気味だった。

 黄砂は中国・モンゴルの乾燥地帯を襲う砂嵐によって大量の砂が舞い上がり、強い西風に乗って運ばれてくる。飛来量は、発生域の強風の程度に加えて、地表面の状態(植生、積雪の有無、土壌水分量、地表面の土壌粒径など)や上空の風の状態によって左右されるという。中国はオリンピックが開催されることもあって、急速に工業化を進めている。このため今現在中国国土の18パーセントが砂漠化している。今後ますます黄砂が日本列島にやってきそうだ。

 日本で観察される黄砂の粒の大きさは、タバコの煙の粒子の直径(0.2〜0.5μm )よりやや大きいくらいで、成分分析では、シリコンが24〜32%、アルミニウムが5.9〜7.4%、カルシウムが6.2〜12%、微量の鉄、このほかに、マンガン、ヒ素、クロム、ニッケルなどの有害な物質も含まれている。

 さらに、名古屋大学太陽地球環境研究所の大気化学の研究グループの分析では、窒素酸化物や硫黄酸化物といった大気汚染物質が、黄砂の一粒ずつに多量に吸着していることが確認されている。韓国では病原菌なども検出されているという。

 黄砂は汚染物質を多量に含むので、気管支炎の人には最悪で、アレルギー症状を誘発することもあるそうだ。花粉症が、花粉単体ではなく、窒素酸化物などの大気汚染物質と混合されることで発症しやすくなるのと同じ原理だ。私もこうした埃っぽい空気を一日吸い続けたせいか、黄色い鼻水が出始めた。今朝は痰のからんだ咳もでる。今日も黄砂は続くようなのでつらい。

 黄砂は中国で死者を出すなど、大きな社会問題になっているが、韓国や日本でも農作物や人体への被害が出ている。目の炎症や、肺炎になる人もいる。浜名湖より東の地域には、大量に黄砂が飛散することが少ないので、東京中心のメディアで黄砂が話題になることは少ない。

 しかし、昨日は東京でも黄砂が舞ったという。これからは環境問題として中央のメディアも取り上げるだろう。日本政府も中国や韓国に働きかけ、国際協力事業として黄砂対策に本腰を入れてほしい。

http://www.okadaue.com/health/e58.htm

(今日の一首)

 黄砂にて満月に似た日が沈む
 この世の終わりもかくの如しか


2007年04月02日(月) 人生を楽しむ力

 幸せになるのに何が必要か。健康やお金、友人などいろいろ思い浮かぶが、じつはもっと根本的なものがある。それは人生を「楽しむ力」である。たとえば旅に行く。同じところに行っても、「つまらなかった」という人と、「面白かった」という人がいる。人生の旅も同じで、同じような境遇にあっても、楽しいと感じる人とつまらないと感じる人がいる。

 人生を楽しく、意欲的に生きようと思ったら、「楽しむ能力」を養う必要がある。たとえば散歩に出て、空を鳶が飛んでいるのを見て、ああ面白いと感じる。散歩から帰り、水を一杯飲んで、ああうまいと思う。こういう感性を養っておけば、人生に退屈するということはない。

 人生を楽しむ能力は、学校では育たない。むしろ学校は「人生を楽しむ力」を破壊することが多い。それは教師たちが生徒を他人と比較して競争させるからだ。これでは自然や社会に関心がある子どもたちも、学校で理科や社会の勉強をしているうちに、かえって世の中の出来事に興味をなくす。

 そしてそうした子どもたちが赴くのは自己中心的な狭い欲望の世界である。現実の世界で傷つけられた自己を補償するために、ゲームの世界で敵を倒し、勝利感を味わう。こうした子どの現状を見て、親は子どもに勉強しなさいといいながら、本人もじつは勉強嫌いだったりする。

 教師もじつのところ、自分が教えている教科にさえ興味をもてない教師が多い。いまさら勉強しても、給料が上がるわけではない。彼自身勉強するのは試験でいい点数をとるためだと割り切っている。この点は親とあまりかわらない。

 学問ほど面白いものはない。しかし、多くの親も教師も彼自身が受けてきた受験教育で、この面白さを感じる能力を破壊されている。人生を楽しむ道具である学問が、かえって子どもたちを苦しめる拷問の道具になっている。そしてこのことにあまり気づいていない。これは残念なことである。

 それでも学校教育が「人生を楽しむ能力」を完全に破壊することはない。学校教育は万能ではないし、教師も全能ではないからだ。学校に完全に適応した優等生は別だが、多くの人間の中で本来の能力は生きながらえている。

 そういう人たちは、学校を卒業してから、学問の面白さに目覚めたりする。試験も成績も関係ないのに、自然科学や社会科学の本を読みはじめたり、古典文学を学びはじめたりする。そして、学校では死ぬほど退屈に感じられた学問が、とても輝いていて面白いものだと気づく。

 もっともそうした人は一部かもしれない。社会で生きていくうちに、人々は営業成績や収入で競争させられ、さらにはコマーシャルの餌食になって消費中毒になる。この結果、さらに自己中心的になって視野が狭くなり、人生をおおらかに楽しむ能力はますます破壊されることが多い。

 こうして日本は自殺大国になってしまった。学校でいじめが蔓延し、社会でも格差が広がり、強者による弱者いじめや、さらに陰惨な弱者による弱者いじめが横行している。どうしてこうなったのか。私は日本人が経済優先に走り、しだいに精神的なゆとりを失い、「人生を楽しむ能力」を減退させたからではないかと考えている。

 こういした社会を変えたいものだ。もっと楽しく、人間が自由にのびのびと生きることができる社会にしたい。そのために何が必要か。それは多くの人々に、自らの中に眠っている「人生を楽しむ力」に気づいてもらうことである。自分の人生を他人の手に預けてはいけない。人生は自分自身で意欲し、おおらかに楽しむのがよい。

(今日の一首)

 たのしみは小鳥とともに目を覚まし
 生きる意欲がよみがえるとき

たとえ逆境にあっても、笑顔で人生を楽しみたい。逆境に安住するのではなく、これを変える事に生きがいを見出せばよい。人生は一生勉強、この志を持って、意欲的に生きていきたい。




2007年04月01日(日) 浜松の姫様道中

 昨日は妻と次女と私の3人で浜名湖へ桜見物に行ってきた。青春18切符を使って東海道本線を木曽川から新所原(しんじょはら)まで行き、そこから天竜浜名湖鉄道に乗り換えて、「気賀」(浜松市)というところで降りた。そこでたまたま隣に座った人から「姫様道中」という行列のお祭りをやっていると聞いて、「それを見よう」ということになった。

 江戸時代に「気賀」は街道の宿と定められ、徳川家康によって関所が設けられた。この街道を往時は公家や大名家の貴婦人たちが通り、いつしか姫街道と呼ばれるようになった。「姫様道中」はこの行列を再現したもので、籠のお姫様に従う侍や奴、上臈、小姓、腰元、茶坊主、典医など、総勢百名以上のきらびやかな行列だという。練り歩くだけではなく、途中で手踊りや奴踊りも披露する。お姫様も籠から降りて、一緒に踊るよだから楽しみである。

 私たちは行列の始まる12時ごろに気賀駅に着いた。パレードは2時間あまり続くというので、まずは腹ごしらえをすることにした。隣に座った人から、「うなぎがうまいのは清水屋です」と聞いていたので、駅から少し離れたところにあるその店に直行した。混んでいて少し待たされたが、たしかに鰻はおいしかった。

 その店の近くが都田川の堤だった。そこの桜が有名だというのでそれを見に行った。しかし並木の桜はまだ4、5分咲きと言ったところである。家族3人で河畔を散歩したあと、いよいよ「姫様道中」を見物することになった。街中をにぎやかな音楽や人だかりのする方へ歩いていくと、運のよいことにたまたま踊りの最中だった。

 上臈や腰元たちにまじって、お姫様も踊っている。大勢の人がカメラを構えて写していた。私たちも人の肩越しに踊りを眺め、ときには前に出て写真を撮った。お姫様は愛嬌がよく、上臈や腰元たちも踊りながら笑顔を絶やさない。同じところを輪になって何回か回ってくれるので、こちらはじっとしていればよい。写真を撮るにはありがたかった。

 パレードを見終わって、お土産に名物の「みそまんじゅう」などを買った。それから駅に急ぐと、3時少し前の電車に乗ることができた。車窓から浜名湖が見え、ところどころ桜が咲いているのが見えた。これで青春18切符は使い切り、春の旅は終わりである。これからは木曽川の桜を眺めて、満足することにしょう。

(今日の一首)

 上臈や腰元たちも美しく
 往時をしのぶ姫様道中


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