橋本裕の日記
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2007年07月31日(火) ボホール観光(3)

 29日の朝、朝食を食べながらMさんに、ロバート・ジェームスから昨夜電話があったことを話した。彼女は「彼に今日、私達につきあってくれるかどうか聞いてみたら」という。そうすれば私達が予定しているヒナグダラン洞窟のほかにも、景色のいいところに連れて行ってもらえるかもしれない。

それに観光をしながら、いろいろと英語で話すことができる。だから何よりも英語の勉強にもなる。たしかに彼にボホールを案内しもらうのは名案だった。しかし、少しあつかましいような気もする。「一体誰が電話をするんだよ」というと、Mさんは涼しい顔で「もちろん、あなたでしょう」という。

 食事の後、部屋に帰り、フロントを呼び出した。ロバートの電話番号を告げると、さっそくかけてくれた。相手が出たので、「This is Mr. Hashimoto」というと、「Good morning」と彼のクリアーな声が返ってきた。

<Thank you for your help yesterday. By the way, are you free today’s morning. We are planning to go sightseeing of Bohol. So, if you like, would you join us.>

単刀直入に訊いてみると、「OK」という明るい声が返ってきた。Mさんが「すごい、すごい」という。私は自分の英語が通じたことでほっとした。現地に住んでいるロバートが私達の旅に加わってくれるのはありがたかった。

ロビーで待っていると、30分ほどしてロバートがやってきた。彼はホテルのフロントの女性たちとも親しげに話している。彼がFM局のディスクジョッキーだということは彼女たちも知っているようだった。「You are very famous.」と私が驚くと、彼は笑っていた。

タクシーを雇い、彼のガイドで、さっそくヒナグダラン洞窟に行った。鍾乳洞の中央に大きな池があり、その上をこうもりが飛び回っていた。天井に小さな穴が二つ開いていて、そこから光が差し込んできた。ロバートの話によると、戦争中、住民がここに避難していたそうだ。ボホール島は日本軍に制圧された時期がある。私は沖縄の洞窟を思い出した。

洞窟を出た後、海岸まで歩いた。穏やかな海が広がっていた。ロバートは私達の宗教を聞いてきた。私は仏教徒でMさんはプロテスタントである。ロバートはカソリックだという。「日曜日なのに礼拝に行かなくていいのですか?」と訊くと、「すでに礼拝をすましてきました。私は日曜日だけではなく、毎朝教会に行って礼拝をしています」という。そして「宗教は私にとってとても大切な生命の源です」と付け加えた。私は頭が下がった。

このあと私達は300年ほど前に作られた石作りの塔を見学した。これは敵の襲来をいち早く発見するためのものらしかった。塔に登ると海が見晴らせた。昔この海を渡ってイスラムの軍団が攻めてきたのだと言う。日本の兵隊もこの海からやってきたのだろう。

このあと山道をたどり、観光案内に書いてないような景色のいいところをいくつか見た。渓谷に下りて、滝を眺め、それを背景にして何枚か写真を撮ったりした。11時が過ぎて、私達はタグビラランに引き返した。

ホテルの近くにロバートが勤務する放送局があり、そこに立ち寄って2人のスタッフに紹介された。そのあとホテルに戻った。タクシーのメーターは850ペソほどだったが、運転手に1000ペソ(約2700円)払った。これでも昨日は2500ペソも払ったのだから、ずいぶん安上がりである。

ホテルでロバートも交えてランチを食べた。私が「ボホールに大学はあるのですか?」と訊くと、「2つあります」という返事だった。「来年からはボホールに来て、英語の勉強をしようかな」というと、「そのときは友人を紹介します」という。ロバートの友人には英語の教師もいるそうだ。これは名案かもしれないと思った。

ランチのあとタクシーでタグビララン港に行った。ロバートは改札口まで私達を見送ってくれた。そして私達は再会を約束し、友情の握手をして分かれた。最後までロバートはとても助けになった。

私の旅は日本でも大方行き当たりばったりだ。宿泊先も決めずに、「まあ、なんとかなるだろう」と一人で出かけることが多い。このため、いろいろなトラブルに見舞われることになるが、このはらはらドキドキも旅の醍醐味のうちだろう。

今回のボホールの旅は、このいい加減さが幸いして、臨機応変に旅程を変えることができた。その上、ロバートとも知り合えて、一段と印象深い旅にすることができた。こうしたことがあるので、私の旅はこれからも行き当たりばったりの、その場しのぎの旅になりそうである。

(今日の一首)

 滝つぼを背にして微笑む男女あり
異国の青年君と寄り添う


2007年07月30日(月) ボホール観光(2)

 28日のボホール観光では、フィリピンで一番古いという石作りのBaclayon教会を見学し、チョコレート・ヒルズにのぼり、世界一小さなターシャという猿に会ったりしたが、やはり一番面白かったのは、ロボック川のクルージングだ。

二人で一艘の舟を借りたので1200ペソ(約3000円)と高くついたが、運転する青年の英語のガイドつきで川を滝のあるところまでさかのぼり、椰子の葉の生い茂る南国の原始的な川辺の風景を堪能することができた。

途中、舟を岸のほうにつけて、地元の小学校の子ども達がギターを弾き、ダンスをしながら歌うショーを眺めた。私達ふたりのために一生懸命パフォーマンスしてくれる。ガイドの青年の話によると、休日は学校の先生に引率されて、いつもこうして演奏しているのだという。Donationとして200ペソ渡した。

クルージングを終えて、川沿いのレストランで食事をすることになったが、運転手に案内されたところはバイキング料理の店は350ペソもするのにろくなものがそろっていない。食欲がわかないので、昼食はパスしてタグビラランに戻った。気宿泊の予約をしておいたメトロ・センター・ホテルの前で車を降り、1日の車代として2500ペソ(約7000)を運転手に渡した。

このホテルは市の中心街にある立派なホテルだが、宿泊料金はスタンダード(2ベッド)で1250ペソ(約3000円)である。しかも朝食つきだという。このホテルには60ほどの客室があるが、最上級のプレジデンタル・スイートでも6000ペソ(約1万5千円)だ。ここでも私達は2つの部屋を別々に取ったが、部屋をシェアすれば泊まれない額ではない。飛び込みでこのホテルが取れたのはラッキーだった。

このホテルのレストランで、カルボナーラーとマンゴーシェイクのおそい昼食をたべた。150ペソである。このあと部屋で一休みしてから、7回にあるフィットネスクラブをのぞいてみた。卓球場があったので30分あまりMさんと卓球を楽しんだ。それからその隣のプールに行って両足を水の中に入れた。冷たい水が汗ばんだ体に心地よかった。

 それからシャワーを浴び、6時ごろ、ホテルから歩いて10分ほどのところにあるボホール・クオリティ・モールに出かけた。ここの最上階のレストランでタグビララン港の夜景を見ながら、焼き鳥とマンゴーに舌鼓を打ちながら、盛りだくさんで楽しかったボホールの一日を振り返った。Mさんに勧められてあと1日滞在をのばしたから、こうした豊かな時間がもてたわけだ。その分多少出費はかさんだが、この選択は正解だったと思った。

 ところが、ホテルへの帰り道、私達は道に迷った。人に聞きながら歩いたが、もホテルが見つからない。ホテルはモールから2ブロックも離れていないはずなのに不思議だった。私もMさんもかなり重症の方向音痴らしい。3人目に道を聞いた男性が、わざわざホテルの前まで送ってきてくれた。

 とてもきれいな英語を話すので、「先生ですか」と聞いてみると、「DYRD−KISS」というFMラジオ局でデスクジョッキーをしているのだと言う。セブでも聴けるので、ぜひ聴いてみてほしいという。どうりで綺麗な英語を使うはずだと思った。

 この男性から10時過ぎに、私の部屋に電話がかかってきた。私はすでにベッドインしていて、朦朧とした頭で最初相手が誰だか分からず、女性でも斡旋する悪い電話ではないかと思い込んで、「Who are you?」と思わず尖った表現をした。

そうすると、「今夜お会いしたロバート・ジェームスです」という聞き覚えのあるクリアな英語が返ってきた。私はこれで眠気が醒めた。ロバートと少し英語で話した後、とてもくつろいだ嬉しい気分に浸りながら、ホテルの大きなベッドに身を横たえた。

(今日の一首)

 小夜ふけて異国の街をさまよえば
 心もただよふ月の明りに


2007年07月29日(日) ボホール観光

 昨日は5時頃起き出して、ホテルの前の浜辺で、波の音を聴きながら夜が明けるのを待った。5時20分頃からうっすらと空が白み始めた。そして6時ごろになると、すっかりあたりが明るくなった。

 6:30頃、Mさんと浜辺のレストランで朝食を食べた。浜辺では子ども達が水浴びしていた。7:10頃、チャーターした車でホテルを後にした。予定ではこのあとボホールを観光し、2:00PMにはタグビララン港からセブに旅たつつもりだったが、Mさんから「せっかく来たのだから、もう一泊したい」と申し出があり、計画を変更して、ボホールでさらに1泊することにした。迎えに来た運転手には、こう説明した。

<I have something to tell you. We have changed our plan. We’ll have one more stay in Tagbilaran. So, at first, go to sea port where we change our tickets to tomorrow’s one. Then go to a hotel in Tagbilaran to make a reservation.>

 私の英語が通じたらしく、運転手は「OK」と答えてくれた。そして、このあと港でキップを翌日の2時に変更し、ホテルの予約もスムーズに取れた。いよいよボホール観光の始まりである。その様子については、また、おりを見て、日記に書いてみようと思うが、まずもっていくつかの短歌を紹介しておきたい。

 ロボックの川の流れはゆるやかで
 椰子の葉しげる岸辺は異郷

 いたるとこ泉がありてロボックの
 川はみどりを映していたり

 ま裸の少年ひとり泳ぎ来て
 船べりに寄る白き歯を見せ

(今日の一首)

 滝壷に舟を浮かべてあれ見よと
 異国の青年花を指したり


2007年07月28日(土) アロナビーチ

 昨日は授業を1つだけ受けて、Mさんと二人、12:00セブ発の船(スーパーキャット)でボホールに向かった。2時間ほどでボホールの州都タグビラランに着いた。そこでさっそく帰りのキップを買い、バンを雇って今さんお薦めのアロナビーチに向かった。

 宿泊先は8人クラスのデイビット先生お薦めのボホール・ビーチ・クラブのつもりで運転手に告げた。ボホール島から橋を渡ってパナグラオ島に渡り、さらに30分ほど椰子の葉が茂る田舎道を走らせるとおめあてのホテルに着いた。

しかし、あいにくダブルの部屋が一つしか空いていないという。ディスカウントしてもよいという話だったが、夫婦でもない私達が一つの部屋をシェアするわけにはいかない。しかたなくそのホテルをあきらめることにした。

「おなじアロナビーチで、他の安くて居心地の良いホテルに連れて行ってくれ」(please take us to another hotel which is cheap and good.)と運転手に告げると、彼は「OK」と言って、さらに5分ほど車を走らせた。

 私達が案内されたのは、ボホール・ダイビング・リゾートというところだった。ここで私達はそれぞれ3000ペソ(約8000円)で一室ずつ借りることができた。これで一安心である。

部屋に荷を置いた後、さっそくホテルの隣にあるレストランで少し遅い昼食をとった。白い珊瑚礁の砂浜の見える席で、風に吹かれながらランチを食べた。鶏肉と魚のフライにマンゴージュースがついて、150ペソ(約400円)だった。食べる前にデジタルカメラで写真を撮った。

それから浜辺を散策した。少し沖合いに白いボートがたくさん停泊している。歩いていると何人かのフィリピン人から「ドルフィンを見に行かないか?」と声をかけられた。私達は「Just warking」と答えて、散策を続けた。

ビーチにそってホテルやビラや、小さなバーやレストランが並んでいる。ちなみに私が泊まっているのは「CHATEAU」というタイプの部屋だが、5000ペソ(約13000)出せば、CHALTというタイプの一軒家(ビラ)に泊まることができる。価格表にはこう書かれている。

<A beach front house suitable for family vacation. 2single rooms and 2 double rooms with kitchen, refrigerator, toilet and bath, air-conditioned>

1人や2人で借りるのはもったいないが、6人まで泊まれるので、家族や友人達と宿泊すれば大いに安上がりである。浜辺は1キロあまりのこじんまりとしたリゾートだが、落ち着いていて静かである。プールも二つほどあり、浜辺では色の白い西洋人の子ども達も家族で海水浴を楽しんでいた。私も家族と来てみたいものだと思った。

 (今日の一首)

椰子の葉を揺らしていたり潮風が
われにささやくかかる日はよし


2007年07月27日(金) いざ、ボホールへ

 今朝の起床は3:45だった。睡眠時間は5時間と少ししかないが、途中、一度しか目覚めていないので、わりあい頭はクリアーである。起きるといつものようにマンゴーを一つ食べ、それから、マンゴージュースを飲みながらこの日記を書いている。

 今日は金曜日なので、学校は午前中で終わる。いつもは100分授業なのだが、今日は50分授業が4つある。もっともボホール行きの船が12時に出るので、2時間目が終わったら学校を出なければならない。8人クラスとマンツーマンクラスは欠席することになる。これについては昨日の内に先生に告げておいた。無断欠席は避けなければならない。

 昨日は夕食のあと、Mさんとロビンソンデパートへ行き、いろいろと旅の買い物をした。たとえばリュックを150ペソ(約400円)で、帽子を60ペソ(約150円)で買った。これはもう驚くべき安さである。3日前にブランド物のハーフパンツを買ったときも、その安さに驚いた。これは毎日穿いているが、旅にも穿いていこうと思う。

 どこに泊まるか、いろいろ迷い、昨夜はインターネットで調べてみたが、やはり今さんおすすめのアナロビーチが一番よさそうである。8人クラスのアメリカ人教師デービッドもアナロビーチにあるボーホールビーチクラブがよいと言っていた。ここだと一泊2000ペソ(約5500円)ほどだという。まずはこれを第一候補にしようかと思っている。

1時過ぎにボホールのタグビランに着いたら、まずはそこで昼食を食べ、ボホール島と陸続きのバングラオ島の先端にあるアナロビーチまでタクシーで行く。ホテルに着くのは3時ごろになりそうである。天候が許せば、浜辺を散歩したり、泳いだりしようと思う。日本から持参した水着を忘れないようにしよう。

翌日は、ボホール島の観光である。世界一小さいというターシャという猿やフィリピンで一番古いというバクラヨン教会、それからヒナグダナン洞窟を訪れるつもりだ。谷川を筏でくだるというジャングルクルーズも楽しみたい。チョコレートヒルズも有名なので、時間が許せば訪れてみたい。デジタルカメラを持参して、写真も沢山撮るつもりである。

今回はMさんと二人旅である。Mさんとは授業のほかはいつも一緒に行動しているので、よく夫婦と間違えられるが、「バッジメイトです。CPILSで知り合いました」と答えている。実際にとくに怪しい仲ではない。今後も仲のよい友達のままでいたいと思っている。Mさんのほかにも、CPILSにきて仲のよい友達がいっぱいできた。みんなオープンマインドで、話しているとすこぶる楽しい。

(今日の一首)

 真夜中に雨の音きく南国の
森のみどりを訪ねてみたし


2007年07月26日(木) セブでの日課表

 私の平日の日課はほぼ次のようである。

4:30起床 
4:30〜5:00 洗顔、歯磨き、登校の準備
5:00〜6:30 日記を書く。(メモリスティックに保存)
6:00〜7:30 宿題、テレビ観賞(NHKニュース、どんど晴れ)
7:40 スクールバスでディプロマットホテルを出る。

7:50 学校(CPILS)着
7:50〜8:30 朝食・休憩
8:30〜9:00 インターネット(日記のアップロード)
9:00〜10:30 自習室で「The Dignity of the Nation」を読む。
10:30〜12:10 4人クラスの授業
12:10〜13:10 昼食・休憩
13:10〜14:50 8人クラスの授業
14:50〜15:10 休憩
15:10〜16:50 マンツーマンクラスの授業
16:50〜17:30 休憩
17:30〜18:00 夕食
18:00 学校を出て、スクールバスでディプロマットホテルへ

18:10〜19:00 休憩・入浴・洗濯
19:00〜20:00 インターネット
20:00〜21:30 読書・テレビ観賞
21:30 就寝

 とても規則正しい毎日である。自由もそれほどあるわけではない。学校の食事もおいしくない。にもかかわらず毎年、ここに来たくなる。不思議なことだ。

 さて、昨日は、授業が終わった後、Mさんとボホールへの船のキップを買いに行った。学校の前でタクシーをつかまえて、「シーポートまで」と言うと、運転手が怪訝な顔をするので、「ボホールまでの船のキップを買いたいのです」と付け加えた。そうすると、「キップならSMマートで買えばよい」という。仕方がないので了解したが、これは予定外のことだった。

 私は思わずこんな推測をした。シーポートは目と鼻の先である。歩いてでもいける距離だ。タクシーの運転手としては、こんな短距離は走りたくない。そこで遠くにあるマーケットまで私達を運んでやろうとしたのではないか。もっとも、これは邪推かもしれない。

 SMマートの近くにあるキップ売り場の前でタクシーを降りた。そこで二人分のキップを買った。片道410ペソ(約1100円)である。そのあと、せっかくSMマートに来たので、夕食はそこのレストランで何か美味しいものを食べようということになった。

中国料理を食べることにした。いろいろ注文して腹いっぱい食べたり飲んだりしたが、一人220ペソ(約550円)ほどだった。これからはときどきここへ食べに来てもいいなと思った。

このように私の日課表は臨機応変に変えられることが多い。授業をサボることはないが、夕食はときおり外で食べる。ディプロマットホテルの近くのお気に入りのカサベラーデや、買い物がてらロビンソンホテルの中のレストランに行くことがある。それでもたいした出費にはならない。

(今日の一首)

 学校の韓国料理食べ飽きて
 しばし外食これもたのしみ


2007年07月25日(水) 4人クラスの紹介

 昨日は3時20分頃に目が醒めた。そこでさっそく24日分の日記を書き、メモリステックに収めた。それを学校に持って行って、空き時間にパソコン室でアップロードしたわけだ。これからもこの方法で日記を更新しようと思う。

ただし、出来ることなら、もう少し睡眠時間をとりたい。昨日は5時間ほどしか眠っていない。そのせいか朝から頭痛がした。バッファリンを持参したので、それを飲めば収まることは分かっていたが、薬に頼りたくはない。そこで最初の2限目(10:30〜12:10)の4人クラスの授業から、頭痛を抱えて望むことになった。

4人クラスのテーチャーはフィリピン女性のShing(シング)である。英語では最後の「g」の発音はふつう省略されるので、「シン」と聞こえる。ところが私のCPILSでの愛称が「Shin」だから、とても紛らわしいことになったが、まあ、仕方がない。シング先生から「なぜ英語を勉強するのにフィリピンのCPILSを選んだのか」と聴かれたので、次のように答えた。

<Because the teachers are very kind, beautiful and cut.>

 すかさずシングが「Except me!」と答えたが、これは謙遜である。私の目にはとてもキュートで可愛く見えた。しかも芯が強そうで、教師としての威厳を備えていて頼もしそうなところがよい。このキュートな先生が気に入った私は、「Do you have a boyfriend?」などとしつこく質問を浴びせかけて、「No more about my boyfriend」と困らせてしまった。

ちなみに大好きな人がいるそうである。「Is he kind to you?」と聞くと、「Yes, he is kind.」と顔を赤らめていた。それから、威厳を取り戻して、こう言った。

<I want be a good friend of you outside , but I am your teacher in my class.>

4人クラスの生徒は、私の他は3人とも韓国の青年である。3人ともとても誠実そうで、好印象をもった。ここで3人について紹介しておこう。

 まず、私の隣に座っていたサイモンである。彼は26歳。大学でロシア語を専攻し、去年は1年間ロシアに留学していたのだという。将来は韓国語と英語とロシア語を自由に使ってロシアでビジネスをしたいと言っていた。フットボールが大好きだというナイスガイである。

私の前に座っていたのは、ジョッシュというやはり26歳の青年で、大学では情報工学を専攻したのだという。CPILSで半年間英語のスキルを鍛え、さらにオーストリアで半年間英語の勉強をする予定らしい。英語が出来ないと、韓国では大きな企業に就職できないし、将来性がないのだという。

これは私の斜め前に座っていたディビッドも同じらしい。彼は大学で電子工学を専攻した。そして企業で数年間働いてお金をためた後、英語のスキルを磨くためにCPILSに入学したのだという。3人とも私のように世界中に友達を作りたいなどという道楽半分ではない。英語を自分の将来を切り開く最強のアイテムだと考えている。それだけに真剣である。

しかし、私の見るところ、韓国の学生の大多数が彼らのような真面目な勉強家というわけではなさそうだ。半分は勉強そっちのけで、青春をエンジョイしている。恋愛ごっこも盛んだ。そんな若く大胆な若人たちが、私の目にはいささか傍若無人にも見える。

今日の日記は夜中の2時ごろから書き出した。実は1時半ごろ、廊下で大きな声がして、せっかくの安眠を妨害されたからである。私はガマンがならなくなって、ステテコ姿で廊下に飛び出して、こう叫んでいた。

<You guys, please consider the time>

廊下で声高に話していた3人は私を見て、申し訳なさそうに「sorry」と言った。それからすぐに話をやめ、部屋に消えた。言えば分かるのである。しかし、言われなければわからないところがかなしい。

とういわけで、そのあと眠れなくて日記を書き始め、現在3時過ぎである。歯茎が腫れて痛い。まだ書きたいことが山ほどあるが、8人クラスとマンツーマンクラスの紹介も次の機会に譲り、今からふたたびベッドに戻ろう。もうひと眠りしないと、歯茎の痛みに加え、今日もまた寝不足の頭痛におそわれそうだ。無事眠れるとよいのだが・・・。

(今日の一首)

 椰子の木の葉陰に立てる少女あり
 われも憩へり少女の笑みに


2007年07月24日(火) クラス分け試験の結果

22日(日)は空港からディプロマットホテルに直行したので、CPILSは昨日が初めてだった。食堂で朝食を食べていると、少し離れた席にレオーニがいるのに気づいた。「ハロー」手を上げると、向こうも笑いながら手を上げた。今年も日本語ができる彼女にいろいろお世話になることだろう。

食事をすませてロビーに移動中に、昨年度お世話になったジセール先生にあった。ジセールは日本人ばかり4人も生徒を抱えているのだという。今年もジセールに習いたいと思ったが、これは無理のようだ。昨年は彼女と4度ほど食事に行った。先月結婚したのだと言う。その結婚指輪を見せてもらった。とにかく1度くらいは、ご主人同伴で彼女を食事に誘いたいものだと思った。

 それからタローさん(ハローさん)が声をかけてきてくれた。彼は6月から3ケ月間の予定できているのだという。3週間の私はとてもうらやましい。それから花田さん(明石ジジーさん)にあった。マクタン島に夫婦で暮らしている岩崎さんとこの週末に2泊3日の旅をするのだという。

「イロイロへ行きます。船で当地まで行き、あとは現地スタイルで、トリシクルに乗って移動したり、夜はカラオケをしたりします。予算は3000ペソ(7500円)もあればいいでしょう」

 2泊3日で3000ペソは安い。それに豪華なホテルにとまらずに当地スタイルというのが大いに気に入った。岩崎さん夫妻とはすでに去年面識があり、気心も知れている。おおいに心が動いたが、Mさんとボホールに行く約束もあるので、結論はしばらく待ってもらうことにした。

午前中にガイダンスルームで、クラス分けのテストとガイダンスがあった。去年は17名ほどいて、その中に私と同じ年代が5,6名いたのだが、今年は全体で8名ほどである。年配者は私とMさんくらいで、あとは20代の若者達だった。6名の内訳は女性が4名、男性が2名である。みんなおとなしく、去年と違った静かな雰囲気でガイダンスが進んだ。

ペーパーテストのあと、二人ずつ呼ばれて、「スピーキング」のテストがあった。私はMさんと一緒に呼ばれた。「日本で一番好きなところを言ってください」と聞かれ、Mさんは「京都です。花や紅葉がきれいです」と答えていた。私は「京都も好きだが、いま住んでいる一宮もよい。木曽川のみどりが大好きだ」と答えておいた。

そのあと、写真を見せられ、「自由に感想を述べてください」といわれた。去年は難民の写真だったが、今年は子ども達がプールで遊んでいる写真と、アメリカのハイスクールの授業中と思しき写真である。「ハイスクールの女生徒たちがのびのびとしていて、とてもかわいい」などと、適当に答えておいた。

テストの結果、私は2の上だった去年より2ランク上がって3の中になった。これで1年目のランクに復帰したわけだ。Mさんは2の下だという。「1にならなくてよかった」と胸をなでおろしていた。私は一昨年と同じ3に復帰できて、すこし嬉しかった。

(今日の一首)

 あたたかき風につつまれ南国の
 街を歩けばいつか夕暮れ


2007年07月23日(月) 旅は道連れ

名古屋空港でMさんと一緒になった。去年はマニラ空港で偶然CPILSの生徒だとわかり、一人で不安を抱えていたMさんはずいぶんほっとしたようだった。今年は名古屋空港から私と一緒だし、セブへ行くのも2回目だからずいぶんリラックスした様子だった。

私も3回目で、ずいぶんリラックスしている。その分、一年ぶりの海外旅行だと言うのに、思ったほどの感動も感激もない。飛行機に乗るだけで不安と緊張にどきどきした2年前がなつかしい。人間はこうして環境に慣れてしまい、あらたな刺激を求めるようになるのだろうか。

名古屋からマニラまで約3時間半である。機内食を食べ終えた後、持参した「The Dignity of the Nation」を読んだ。これは藤原正彦さんの「国家の品格」の英訳本である。藤原さんの原文もついているので、分からないところはこれを参照しながら読むことができる。たとえばこんな具合である。

<I find the idea that a company belong to its shareholders a terrifying piece of logic. A company belongs to the staffs who work in it --- that goes without saying ---and the shareholder are just one group among many stakeholders.>

(「会社は株主のもの」という論理は、私には恐るべきものに思えます。会社は、言うまでもなくそこに働く従業員のもので、株主は多くの関係者の一つくらいの存在でしかない)
 
 藤原さんは数学者である。それでいて政治、経済、文化、教育、すべてのものに関心を持ち発言をする。その主張はおおかた私の考えに近いので、この本を読むと、「日本語でこういいたいときには、英語でこう表現すればよいのだ」ということがわかり、大いに参考になる。これをこの3週間で読破できればと思い、機中でも読みふけった。

 読書に疲れて一休みする間に、となりのフィリピン女性に「名古屋にお住まいですか」と、日本語で話しかけた。彼女が隣に座ったとき携帯電話で流暢な日本語を話しているのを聞いていたので、英語を使うまでもないと思ったからだ。

「住んでいるところは、一宮です」
「私も一宮ですよ。一宮のどのあたりですか」
「市役所の近くです」
「お仕事も一宮ですか」
「いいえ、江南のお店で働いています」
「高いのですか?」
「そうですね。1時間4千円くらい」

 彼女の名前はシレッグ。日本に来て、3年目だと言う。今回は父親が入院したので、そのお見舞いの里帰りのようだった。私が英語の勉強でセブに行くと知ると、「偉いですね」と褒めてくれた。彼女は小学校から英語を習っているので、もちろん、だれとでも普通に話せるという。

「今度、教えてくれませんか」
「いいですよ。お昼はいつも空いています」
「私もお昼の方がつごうがいい」

 というわけで彼女の携帯電話の番号を教えてもらった。本当に彼女から英語のレッスンをうけるかどうかは、妻にも相談して許可をもらう必要がある。他に英会話に興味のある人を誘って、集団レッスンということにしたほうが無難かも知れない。

 マニラ空港でセブ便を待ちながら、この話をMさんにしたら、彼女も参加したいという。Mさんは中学校の先生だから、そうなると土曜日か日曜日のお昼ということになる。彼女のほかにも参加者を募って、土曜日の午後に2時間ほど一宮駅の近くの喫茶店で、シレッグ先生から英会話を教わる教室を立ち上げてもいいかなと思った。考えてみれば日本にはたくさんのフィリピン女性が出稼ぎに来ている。彼女達のなかにはそれなりに知的レベルの高い人もいるはずだ。

3時にマニラを飛び立つ予定が、どういうわけか4時ごろになった。セブへ着いたのは5時頃だった。CPILSの車でディプロマットホテルまで送ってもらった。そのあと、Mさんとロビンソンデパートへ行って、買い物をし、近くのレストランで食事をした。あいにく私はペソの持ち合わせがないので、彼女から500ペソ(約1400円)を前借した。

レストランの名前はカサベラーデで、去年も、一昨年もここに何度も来ている。この店はパスタも美味しかったが、お薦めはリブステーキである。これにガーリックライスと濃厚なマンゴージュースをつけて、一人あたり200ペソ(約480円)だった。この安さとおししさにまずは二人で感激した。

ホテルへ帰ってきて、シャワーで汗を流した後、さっそくパソコンルームへ持参のノートパソコンを持ち込んだ。しばらくがんばってみたが、どうしてもつながらない。だれかに聞こうと思ったが、あいにくまわりは韓国人ばかりなので気後れがした。

結局持参したパソコンでのインターネットはあきらめて、ホテルの備え付けのパソコンを使い、私のHPの掲示板に「無事にセブに着いた」という短い書き込みをしておいた。部屋に帰り、しばらくテレビを見たあと、11時にはベッドに入った。例によって10分ほどで眠りに落ちた。

今朝の起床は4時23分である。さっそくこの日記を書いた。現在の時刻は5時32分である。ホテルを出るのは7時30分頃なので、まだ2時間ほど時間がある。昨日買ったマンゴウでも食べ、そのあとマンゴージュースでも飲みながら、「The Dignity of the Nation」の続きを読もうかと思っている。

(今日の一首)

 一人旅なれどいつしか二人旅
 そして無数の出会いもたのし


2007年07月22日(日) 3回目のセブ

今日セブに飛び立つ。今年で3回目のセブ語学旅行だ。もう何ヶ月も前から、この日が来るのを待っていた。心身にほどよい緊張がみなぎっている。この緊張感がなんともいえない。

旅程表を見ると、中部国際空港を9時半に飛び立ち、12時35分にマニラにつく。ここで国際線に乗り換える。15時00分にマニラを出発して、セブに着くのは16時30分である。

セブ空港にはCPILSの職員が待っていてくれる。その車で学校に行き、まずは最初の食事をすることになる。こういうふうに段取りが分かっているので、不安はそれほどない。

去年はマニラ空港でMさんに出会った。たまたま入国審査カウンターの列に並んでいたら、すぐ前の日本人女性が私と同じ峰観光の案内を持っている。声をかけたら、私と同じく、名古屋から来て、CPILSに入学するのだという。Mさんは、私もそうだと知って、大喜びだった。今年はどんな出会いがあるか、少し楽しみである。

8月12日まで、セブ滞在中も日記を書くつもりだ。今回はパソコンを持参するが、学校のインターネットにうまく接続できるか心配である。日記は「エンピツ」に書くつもりだ。

http://www.enpitu.ne.jp/usr/7246/diary.html

ただし、ここに書けない可能性がある。そのときは、「橋本裕の独り言」に掲載したいと思う。また、この期間、掲示板を誰にでも自由に書き込めるようにしておくので、感想などいただければありがたい。

http://otd6.jbbs.livedoor.jp/625905/bbs_plain

それでは、行ってきます。

(今日の一首)

異国へと旅たつ朝は格別に
コーヒーうましひとり味わう


2007年07月21日(土) 納豆記念日

 私は食卓に納豆があり、妻や娘たちが「おいしい」と言いながら食べていると、急に不機嫌になる。「食品会社の宣伝に乗せられて、そんな豆の腐ったものを食べていると、ガンになるよ。健康で長生きしたいなら、そんなものは食べないほうがいいよ」といらぬ憎まれ口をたたく。

 私は冷奴が大好きだが、納豆はどうしても駄目だ。あの独特の腐臭とネバネバがいけない。どうして妻や娘たちが「うまいうまい」と言って食べているのか、不思議でならない。納豆は健康食品だというが、これも眉唾だと思っている。おそらく、みんな催眠術をかけられているのだ。

 先日、この持論を職員室で展開したところ、隣の席の理科のS先生が、「最近の納豆はそう臭くはないですよ。それに、料理法によって、おいしく食べられます」という。彼のお勧めは、「納豆入りのオムレツ」だそうだ。納豆と一緒にねぎを刻んでいれる。塩コショウで味付けすれば、とても美味なオムレツができるのだという。

 私はこれを笑って聞き流していたが、S先生が一昨日それを作って持ってきた。そして「どうか試食してみてください」という。私はおおいに戸惑った。納豆は私の天敵のようものだ。これを口にしないということは、私のアイデンティティの一部である。納豆を食べたら、自分が自分でなくなりそうな気がしたからだ。

 しかし、S先生がせっかく示してくれた好意を無にすることもしのびない。私はおそるおそるそのオムレツを一口食べてみた。苦いような塩辛いような独特な味がした。しかし、納豆のあの強烈な臭みはほとんどしない。決して美味とはいえないが、それほどまずくはない。そこでもう一口、二口と食べてみた。

「どうですか」
「納豆らしい臭みがないですね」
「そうでしょう」
「これなら、食べられます」

 S先生のくれた納豆オムレツはなかなのもので、スーパーで売り出せば人気商品になるのではないか。しかし私はお金を出してまでは買わないだろう。私は納豆オムレツを3分の1ほど食べたが、これが限界だった。やはり納豆を食べるのは、依然として苦手である。

なにはともあれ、一昨日の木曜日に、私は生まれてはじめて、納豆を食べた。かくして2007年7月19日は私の「納豆記念日」となった。

(今日の一首)

 真夜中に携帯鳴って飛び起きる
 「明日何時から」と気楽な生徒

 昨夜のことだ。真夜中の1時過ぎに携帯がなり、あわてて飛び起きた。何事かと思えば、「明日の終業式は何時から?」という男子生徒の声。内心ほっとしたが、熟睡中を起こされて腹も立った。「6時からだ。その前に給食がある」と少し不機嫌に答えた。夜中の電話は心臓に悪い。おかげで生活のリズムが狂った。

(お知らせ)

 これまで2系統だった日記帳を、エンピツの日記帳1本にまとめました。明日からセブへ行くので、日記をここに書きたいと思います。ただし、セブの学校のパソコンでエンピツ日記が書けないかも知れません。その場合は、掲示板「ひとり言」にセブ日記を連載したいと思います。


2007年07月20日(金) 裸の十九才

 若い頃に出会った無数の映画の中で、最近もういちど是非見てみたいと思う映画が何本かある。1970年に公開された新藤兼人の「裸の十九才」もそうした映画のなかの一本だ。

 私が18歳の1968年、世間を震撼させた連続射殺魔事件が起こった。東京、京都、函館、名古屋で警備員やタクシー運転手、4人が射殺された。犯人は永山則夫という19才の少年だった。新藤兼人監督は事件から2年後に公開されたこの映画で、この少年の生い立ちから犯行までの経緯をドキュメンタリータッチで描いている。インターネットで検索したら、この映画を手際よく紹介したHPに出会ったので、引用させていただく。

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 山田道夫(原田大二郎)は中学卒の集団就職の一人として青森県から上野駅に着いた。渋谷のど真ん中にあるフルーツパーラーに就職するのだ。4人部屋の寮に住み込み生活を始めた。大西先輩(河原崎長一郎)は厳しいが面倒見もいい。野川専務(渡辺文雄)から初めての給料を渡された道夫は母親に手紙を書いた。

 青森県で魚の行商をしている山田タケ(乙羽信子)は、道夫からの手紙を読む。『・・・・カアチャンニ、2000円オクリマス。コレカラモマイツキオクリマスカラ、タメテオイテ、テレビヲカッテネ・・・・』

背広を月賦で新調した道夫はいっぱしの大人気分だった。渋谷駅前は全共闘の学生たちのジグザグデモとそれを取り巻く機動隊とで騒がしい。群集の中の道夫はある種の羨望をもって見ていた。

一緒に就職した仲間が一人去り、二人去り、やがて道夫も辞めてしまう。外国に行こうと横浜港の貨物船で密航を企てた道夫は捕まり、千葉でタクシーの運転手をしている長兄の家に引き取られた。

夜中に隣の部屋から長兄の嫁の愚痴が聞こえてきた。「いつまで置いておくつもり?あの子のいってる肉屋の給料日、今日だったんでしょう。出て行ってもらえないの?」 「そういう訳にもいかないよ」
半年後、道夫は長兄の狭いアパートを飛び出す。

大阪の街をあてもなくさ迷う道夫。渋谷のフルーツパーラーを辞めて大阪の大きな自動車部品製造会社に就職したと母親に嘘を言ったのだった。米屋で住み込みで働き始めた道夫は、女将が夫に話すのを聞いてしまった。
「あの子の生まれは網走無番地になってますな。網走の番外地いうたら刑務所のあるところどっしゃろ」 「刑務所で生まれるわけないやろ。まあ、ええやないか、よう働くし・・・」と、主人の声。「それが曲者なんや、あの年で女を買いに行くらしいのだす。おとなしい顔してますけど、何をしでかすかわからしまへん」
道夫はそこを飛び出した。

道夫は再び東京へ舞い戻り、牛乳配達、クリーニング店、電気屋と職を転々とした。そして電柱のポスターを見て自衛隊の募集に応募する。「山田道夫さんですね。身上書で不合格になっています」 応募して一週間もたつのに連絡がないので、自衛隊東京連絡部まで出向いた道夫に受付嬢は応えた。「誰が僕を落としたんです。僕の身上書のどこが悪いんだ!」

プリンスホテルの敷地内に侵入した道夫。プール脇でガードマンに呼び止められる。挙動不審の道夫はガードマンに連行されようとした。道夫の手に拳銃があった。「バン」 ガードマンがくず折れ、大きく目を見開いて道夫を見た。2発、3発。道夫、必死にその場を逃げる。最初の殺人だった。

京都、八坂神社境内で寝ていた道夫の顔を懐中電灯が照らした。「・・・ここは寝るところじゃないぞ」警備員だった。道夫の肩を掴み立たせようとした、その時、「バン」 道夫の拳銃が鈍い音を発した。2発、3発。警備員、断末魔の悲鳴を上げて倒れる。道夫が茂みに身を隠すと、悲鳴を聞きつけ駆けつけた他の警備員たち。「あっ、やられてる」「まだその辺にいるぞ!」第二の殺人だった。

道夫は北海道網走の以前住んでいた家の前に立つ。朽ち果てた我が家。道夫の脳裏に幼い頃の極貧の日々が蘇える。貧乏な割に子沢山の家庭。博打好きな父親はろくに家に帰らず、帰ると家のものを持ち出し金に替えてしまう。母親が行商に出ると、幼い子供たちは僅かな食物を分けあい、飢えをしのいだ。長女の初子は借金を頼んだ人夫頭にかわりに強姦された。幼い道夫はその様子を見ていたのだ。初子は以来、精神を冒され精神病院の独房に入っている。

函館駅前からタクシーに乗った道夫は、うら寂しい郊外で運転手を撃った。痙攣している運転手を冷静に見ている。そして、売上金を盗んだ。第三の殺人。

名古屋の大衆食堂。板前が女の子を従えて道夫のテーブルへやってきた。
「今、この子に言ったことをそのまま言ってみろ!」
「このカツ丼がまずいって言ったんだ。こんなにまずいもんで良く金がとれるなって言ったんだ」
「まずけりゃ食うな!」 「客に向かって生意気な口を叩くな!」 道夫と板前は殴りあいになった。様子を見ていた中年のサラリーマンが板前に加勢して叫んだ。「近頃の若い奴は生意気だ!やっつけるんだ!」 道夫は袋叩きにあった。名古屋の寂しい倉庫街。タクシーで来た道夫が運転手を撃った。第四の殺人。

再び東京。名古屋で知り合った女と東京でアパートを借りて生活を始めたが、女にはやくざ者の男がいてひと悶着あった。夜、とある事務所に忍び込み、ロッカーを物色しているところをガードマンの懐中電灯が照らした。「誰だ!」 道夫、拳銃を構えて飛び出す。警棒が道夫の顔をとらえる。道夫、拳銃を発射しながら逃げる。

早朝、神宮外苑の参道を道夫が歩いていると、パトロールカーが止まり、二人の警官が降りてきた。「どっから来たんだ?」 「あっち」 「なにやってるんだ?」 「マラソン」 「職業は?」 道夫、震え始める。「これはなんだ?」 警官が道夫のポケットの拳銃を発見した。「おまえ、やったな」 こうして、山田道夫は逮捕された。

山田タケの家に報道陣が大挙押し寄せた。夥しいカメラのシャッターの音。
「お母さん、道夫君のことを話してください。道夫君が連続射殺魔として逮捕されて、どんな気持ちですか?」
タケは記者たちに囲まれ、ただ怯えるのだった。

拘置所の面会室でタケが道夫と面会した。二人は食い入るように相手を見つめた。タケも道夫も涙を流している。やがて・・・
「・・・母ちゃん・・・あの時、なんで僕を網走へ置いていったんだ」
「・・・道夫、ゆるしてくれ・・・ひもじかったべ・・・母ちゃんが悪かった・・・ゆるして・・・」 すでに年老いて白髪となった母は息子に両手を合わせるのだった。

道夫は独房の小さな窓を見上げる。
『私は生きる、せめて二十歳のその日まで。寒い北国の最後と思われる短い秋で私はそう決める』

http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/hadaka19.htm
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 新藤監督はこの映画を撮るために、永山則夫の生まれ育った青森へ行き、彼の母に会い、中学の先生や、友達など、可能な限りの取材をしたそうだ。しかし、新藤は「私たちが描こうとするのは、事実の永山則夫ではなく、永山則夫に集約された何千万という永山則夫である」と語っている。

 この映画を見て、私は衝撃を受けた。私もまた彼のような境遇におかれたら、そして世間から彼のような辱めを受けたら、連続殺人犯になりかねないと思ったからだ。そして、「もし、私たちが神の目を持っていたなら、そして一人の人間のその生い立ちから現在までをすべて目撃していたなら、私たちはその人間がどんなに凶悪な殺人犯であろうと、その人間を憎むことはできないだろう」と、こんなことを考えた。

 この映画を見て、私は「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉の深い意味を、とてもよく理解できたように思った。そして罪を憎むということは、つまりはそうした犯罪を生み出す社会を憎むということだと理解した。ある意味で私の人間観や世界観を変えるような、そういう記念すべき映画、それが「裸の19歳」だったわけだ。

 犯人の永山則夫もまた、独房の中でこのことに気づいたようだ。彼はマルクスや他の哲学書を読破し、1971年には手記「無知の涙」(合同出版)を発表した。この頃学生運動に参加していた私は、この本を買って、深い共感を持って読んだ。私の本棚の中に、マルクスの資本論と、殺人犯の手記とが仲良く並んでいた。

 永山則夫は「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟たちは凶悪犯罪を犯していない。」として、1990年に最高裁判所で死刑判決を受け、1997年8月1日、東京拘置所において死刑が執行された。享年48歳だった。

 彼の死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。ウイキペディア「永山則夫」によると、これは「著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしい」との永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められているのだという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%B1%B1%E5%89%87%E5%A4%AB

(今日の一首)

 罪人となるかならぬか紙一重
 罪を憎んで人を憎まず


2007年07月19日(木) 心に刻むべきこと

 我が家は私も妻もリベラル党である。安倍首相のいうところの戦後レジームの落し子といってよい。食卓では阿倍首相やブッシュ大統領の悪口がとびかう。戦争反対、憲法第九条賛成である。「反体制派」気取りの私たち夫婦だが、娘たちは、どちらかというと体制派である。

 先日も食事中、ニートや引きこもりが増え続けていることが話題になったとき、看護婦をしている長女が「徴兵制度でもあればいいのよ」という強行発言をした。若者を軍隊に入れて精神を鍛える必要があるという声を聞くが、どうやら長女もおなじ意見のようだ。私たちが「社会問題」だと捉えるところを、彼女は「自己責任」の欠如だと考えている。

 すかさず妻が、「あんたたちの子どもたちが軍隊にとられ、戦争にいってもいいの」と言い返して、長女はだまってしまった。私は、「みんながみんなお前たちのように恵まれているわけじゃないんだよ」と言い添えたが、長女は内心では納得していないようだ。

 我が家の二人の娘は、公立高校から国立大学へ進み、公務員として順調に就職した。まじめで曲がったことが嫌いだし、誠実な努力家である。難関を突破して大学に合格し、公務員に就職できたのも、本人たちの努力があったからだ。しかし、そういうことも含めて、私の娘たちはとても恵まれていたと思うのだ。

 それは、国立大学を卒業して、教師をしている私自身にも言えることだ。たしかに人に負けない努力はしたが、そもそも努力をしようという気持になるところが恵まれているのである。「天才とは努力する才能だ」と言った人がいるが、たえず修練し続けるということも才能である。そしてこうした才能や気質は幼い頃の環境の中で育てられるものだ。

<ぼくがまだ若く、もっと傷つきやすい心を持っていた頃、父が言ってくれたことがある。ぼくはその言葉をいまでも心の中でくりかえすことがある。「ひとを批判したいような気持ちが起きたときにはだな」と、父は言った「世の中のひとがみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみることだ」>
 
 これはスコット・フィッツジェラルドの小説「偉大なるギャツビー」の一節である。「世の中のひとがみんなおまえと同じように恵まれているわけではない」ということを、安倍首相をはじめとする、二世、三世の国会議員の先生方も、ぜひ心に刻んでほしい。そして世界を見渡したとき、恵まれた環境に生きている私たち日本人のすべてが心に刻むべきことではないかと思う。

(今日の一首)

 生かされてわれら生きたりありがたき
 恵みのなかで今日もすこやか


2007年07月18日(水) カンニングさせる教師

 昨日の朝日新聞の報道によると、東京都足立区が昨年春実施した学力テストで、14校の小学校と4校の中学校で、障害などがある生徒・児童を学力テストの答案を採点の対象から外していたという。さらに5つの小中学校で、前年のテストのコピーをとって事前練習を繰り返していた。これは足立区の教育委員会が禁じていたことだった。

 さらに1校の小学校では、校長と教員5人がテスト中に誤答の生徒に合図までしていたのだという。これは学校の平均点を上げたいためだろう。おかげでこの学校の成績は前年からはね上がってトップになったというが、学力テストは何ために行うのか、その本来の趣旨から逸脱している。

 これに類したことは私も体験した。たとえば統一模試の点数を上げるため、ある社会科の先生は事前にその問題の一部を教室で生徒に教えていた。その結果、平均点が非常に高くなったが、「どうしたら成績が上がるのか」と、他の学校から問い合わせが相次ぎ、その先生は苦笑していた。

 また、教師の中には平均点を操作する人もいた。これはまだ私が若い頃の体験だが、そのベテランの先生は自分の教えているクラスの平均点が私の受け持ちのクラスの平均点よりも低いとわかると、さっそく答案を回収し、採点をやりなおして、結局、職員会議に提出された結果を見ると、私のクラスより高くなっていた。ここまでするのかと、私は驚いたものだった。

 ちなみに、学力テストを行っているアメリカも、カンニング汚染で悩んでいるようだ。たとえばカンザス州にある公立大学が以前に行った調査(1999年実施)によると、「高校時代にカンニングをしたことがある」と答えた大学生は98パーセントもいたという。米国ではクラスや学校の成績にとって、教師の給料や待遇面で差がつく。学校の成績が悪いと校長の首もすげかえられる。そのため、校長命令で教師が事前に試験問題を生徒に教えて、カンニングを容認する雰囲気があるという。生徒の字体をまねて答案を書き換える教師までいたそうだから、事態はかなり深刻である。

  ニューヨーク市では1999年の暮れに公立32校の教員や事務職員がカンニングにかかわっていたと名指しされ、調査班が解雇や懲戒の勧告を出している。その中には校長や教頭も含まれていて、まさに学校ぐるみだったことがわかる。アメリカでは生徒に上手にカンニングさせることも、教師にとっては必要な能力のようだ。

 先日の新聞に高校でも学力テストを行うと報じられていた。これも何のための学力テストかということをはっきりさせる必要がある。そうしないと足立区のように学校ぐるみで不正が行われることにもなりかねない。日本もまたアメリカのような深刻な事態にならなければよいがと思う。

(今日の一首)

 助け合う社会に生きて善きことを
 競えば楽しみんなほがらか


2007年07月17日(火) 伝えたい言葉

 今年から2009年にかけて、団塊世代280万人以上が停年を迎える。厚生労働省の統計によると、04年に退職した労働人口のうち、女性の占める割合は29.4パーセントだという。女性が60歳まで働いて定年退職を迎えるというのは、まだ日本社会では一般的とは言えない。

 そうしたなかで、71年にアナウンサーとしてNHKに入局した山根基世さん(59)が、この6月に定年退職した。05年には女性で初のHNKアナウンス室長に抜擢された。これは異例のことだ。定年後は退職したアナウンサーたちと「言葉の杜」を立ち上げた。「子どもたちの言葉を育てる社会貢献」を目差すのだという。「女性セブン」(7/19号)で、山根さんはその動機をこう語っている。

<やっぱり言葉が好きなんですよね、私。言葉人間なのよね。人間の言葉ほどおいしいものはないと思います。ものすごくいい話を聞くと、体が喜ぶ。何かすごく体中に感動がわくのよね。それは細胞を活性化するんじゃないかと思うのよ。相手の言葉の背後にある暮らし方や生き方があって、それが心にしみるわけです。幼いうちに、言葉をかわすことで心を通い合わせることが、心地よいことだなと、体で覚えてもらおうと思って>

 そんな山根さんにも、35歳の頃にスランプになり、仕事を辞めようと思ったことがある。しかしその頃、「関東甲信越・小さな旅」のレポーターの仕事が回ってきた。これが山根さんの転機になった。

 それは「小さな旅」をはじめて2年ほどたった頃だという。「町や村の片隅でひそかに志高く生きている人々がいる。なぜこのことに自分は今まで気付かなかったのだろう」と思い、自分の仕事の中にたしかな手ごたえを感じ、はじめてテーマを掴んだと思った。

<そういう人たちの言葉をというのはやっぱりすごいものがある。こんなすばらしい人たちがいる。これはちゃんと伝えていくべきだ、と気づいたのです>

 さらに、山根さんは45歳のときに、NHKスペシャル「映像の世紀」のナレーションを担当した。このとき、山根さんははじめて納得のいく声の出し方を掴んだのだという。

<足の下からそわーっと感動がわき、上がってきて、これはどうしても伝えなければならないと思った。気づいたら立ち上がって、腰を振って読んでいた>

 「映像の世紀」はNHKが世界に誇るもっともすばらしい作品の一つだ。山根さんが思わず立ち上がり、そのナレーションを読んでいたという気持がよくわかる。伝えたい言葉、伝えなければならない言葉がある。そういう思いがこみあげてくるとき、その人の言葉は力を帯びる。

(今日の一首)

 志高き人あり世の中の
 にごりにありて少しも染まず


2007年07月16日(月) 楽しい英語のクイズ

 来週の今頃はセブにいる。今年もCPILSで3週間、英語の勉強をすることにしたからだ。それに先立って、一昨日の土曜日に名古屋駅前のデパートで、お土産にする団扇を買った。ほんとうは扇子を買いたかったのだが、安くても1600円はする。さすが一流デパートは高い。

 団扇でも一本700円もした。これを3本買った。これをセブの英語学校でお世話になる先生に差し上げるつもりだ。去年も一昨年も日本からは何も持っていかなくて、セブのデパートで買ったものをプレゼントした。しかし、やはり日本の土産の方がうれしいだろう。蛍や草花の絵が描かれていて、いかにも日本的で淡く繊細な美しさである。

 ついでに駅前の書店で英語で書かれたクイズの本を立ち読みした。これはセブで何かのときに使えそうだと思ったので、さっそくその場で暗記した。ここでいくつか紹介してみよう。

��10 is afraid of 7. Why?
 
 10は7を恐れている。どうして? 7,8,9を英語で発音してみればわかる。

��What flowers do you have in your face?

 眼、鼻、口、どれもflowersとはいえない。しかし、私たちは二つの唇を持っている。

��How can you make the following question true by drowing one straight line?

        5+5+5=500

 直線(棒)を一本引いて、上の式を正しくせよ。これは知っていた。教室で生徒に出されて立ち往生した覚えがある。

��It sometimes has legs, sometimes has arms, sometimes has a back, but can not move. What is it?

  ときには脚があり、腕があり、背中がある。しかし、動かない。それは何か。

��You are in a box which has no doors and no windows. But you can easily get out of there. What box is it?

 ちなみに、このBOXには壁さえもない。

��What is the longest word in your dectionary?

 これは有名な問題だ。

��He has a head and a tail, but no leg. What is he?

 彼には頭と尻尾があるが、足がない。さてさて、何者だろう。彼はもちろん人間ではない。生き物とも限らない。もっともこのクイズは英語を知らない人には通じないだろう。

��What city has no people?

 この世には人が一人も住めないcityがあるのだ。

��What clothing does a house have?

 これは少しむつかしい。答えはドレスなのだが、どうして?

��I am a kind of fish, but nobody eats me, and everybody hates me. What am I?

 この手の人間はまちがいなく嫌われる。

<答え>

��Because (7 ate 9)  つまり、9が7に食べられたからだ。10も7に食われるのではないかと、怖がっている。
��tuilips(チューリップ)。two lips を発音するとこうなる。
��545+5=500
��Chair。
��batter's box。ちなみにbatter boxは間違い。
��smiles。 先頭とsと最後のsの間に1マイルもある。
��coin。コインは表をhead、裏をtailと呼ぶ。
��electricity(電気)The machine is run on electricity.
��a dress。家は住所(address)を持っている。
��selfish

 こういうクイズは面白いし、社交の道具にも、英語の勉強にもなる。コツさえわかれば、自分でもつくれそうだ。来年は毎日1作ずつ、日記に連載してみようかしら。

(今日の一首)

 デパートの団扇のみやげ涼し気で
 一期一会の旅をたのしむ


2007年07月15日(日) アスピリン大国

 釈迦は人生苦の代表として、「生」「老」「死」とともに「病」をあげている。「病」にかかると、発熱、悪寒、頭痛、下痢といった不快な症状があらわれる。これを押さえるために、私たちは薬を飲む。不快な症状をやわらげてくれる薬はありがたい存在だ。私もこれまで多くの病気をし、たくさんの薬のお世話になっている。その代表格がアスピリンだ。

 昔から病に効くさまざまな薬草が知られていた。たとえば柳の木が解熱,鎮痛作用を持つことが、ヒポクラテスの時代には知られていた。19世紀になって柳に含まれるサリチル酸に、解熱,鎮痛作用があることがつきとめられた。ただし、サリチル酸には副作用として強い胃腸障害がある。

 1897年にドイツの化学会社バイエル社のフェリックス・ホフマンが、サリチル酸をアセチル化することで副作用の少ないアスピリン(アセチルサリチル酸)を合成した。アスピリンは世界で初めて合成された医薬品だそうである。ウイキペディアの「アスピリン」から引用しておこう。

<第一次世界大戦後のアメリカでは禁酒法や大恐慌などによる社会的ストレスからアスピリンを服用する人々が激増しアスピリンエイジという言葉が生まれたほどであった。また,アスピリンには血管を拡張する効果もあるため,少量のアスピリンを毎日摂取することで脳血栓や心筋梗塞などを予防できるといわれている。

 特にアメリカでは疾患を持っていなくても日常的にアスピリンを飲む人が多く,現在でもアメリカはアスピリンの大量消費国であり年間に16000トン,200億錠が消費されている。但し,アスピリンは過剰摂取すると胃潰瘍などの諸症状を引き起こす。さらに,鎮痛作用が仇となって,多くは致命的な合併症となって始めて病に気付く事が多いため,注意が必要である。

 アメリカでは年間で10万人弱が副作用の胃痛で入院し,2000人が死亡していると言われている。アメリカにおける薬の副作用被害の4分の1を,アスピリンが占めているとも言われている>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%B3

 昔から身をもち崩す三大道楽といえば、「酒を飲み、ばくちを打ち、女を買う」だった。しかし、現代のストレス社会に生きる庶民にとって人生の代表的な風景は、「胃薬を飲む、鬱になる。一攫千金を狙って宝くじを買う」ということらしい。これを反映してか、日本の年間の医療費は上がり続けていまや31兆円だという。これはGDPの8パーセントである。しかし、日本はまだ医療費が少ないほうで、G7では一番少ない。

 アスピリン大国のアメリカはなんと医療費がGDPの15.3パーセントも占めている。人口千人あたりの医師・看護婦数でも、日本はOECD各国のなかで最低水準である。これで世界一の長寿国を実現しているのだから、日本の医療制度は世界一「効率がよい」といえる。日本の官僚も政治家たちも、この庶民にやさしい安上がりの医療制度を「改革」して、製薬会社がもうかるアメリカ型の医療制度にしたくてしかたがないのである。

(今日の一首)

 初もののスイカを抱え妻笑う
 記念写真を携帯で撮る

 台風がくるというので、妻がいそいで畑に出かけ、大きなスイカを二つばかり収穫した。そのひとつを抱えた妻の写真を携帯で撮った。


2007年07月14日(土) 頭痛を散歩で治す

 台風4号の接近で、梅雨前線が刺激されたのか、最近はよく雨が降る。雨の中を傘を差して散歩することが多くなった。しかしこれだと、途中、河原でする腕立て伏せや腕振り体操などができない。だから、あまり雨がひどいと、コースを省略して帰ってくる。したがって、どうしても運動不足になる。

 昨日はさいわい雨があがったので、大急ぎでフルコースを回った。堤防の上で腕振り体操をしていると、小雨のようなものが落ちてきたが、それもやがてやんだ。帰ってくると、居間で新聞を読んでいた妻が、「おや、早いのね」と声をかけて来た。「雨が降りそうなので、大急ぎで回ってきたよ」と答えた。いいぐあいに汗ばんでいた。

 じつは昨日は朝から頭痛がしていた。薄い夏ふとん一枚で寝たので、夜中に体が冷えたようだ。私は体が冷えると決まって頭痛になる。これは肩や首筋の筋肉が凝って血行が悪くなり、脳に血液がいかなくなるためだ。そこで以前はバッファリンを飲んでいた。症状に応じて、1錠か2錠を飲む。これでたいがい頭痛は退散する。

 頭痛にかぎらず、腰痛やその他の場合でも、痛みが起こる原因の多くは筋肉の緊張による血行障害である。だから副交感神経を刺激して筋肉の緊張をとけばよい。これで体がリラックスし血管も広がる。血液をさらさらにすればさらに血行がよくなるので痛みはすっと消える。バッファリンの主成分はアスピリンだが、これは血液をさらさらにする効果がある。

 こういうわけで、頭痛もちの私は旅行に行くときはいつもバッファリンを持っていく。しかし、2年ほど前に、猛烈な頭痛に襲われたときは、これがなかなか利かなかった。そこで毎日のみ続けたが、頭痛がおさまらない。そしてある朝、ウソのように頭痛がなくなったと思ったら、物が二重に見えるという視覚障害に襲われていた。

 病院でさまざまな検査を受けた結果、軽い脳梗塞ではないかという診断が下されたが、くわしいことはわからない。おそらく、このこの頃ダイエットをして体重が急激に減少していた。その上に、これまでの習慣で降圧剤を飲んでいた。ダイエットで血圧が下がっているのに降圧剤をのみ続け、その上にさらに鎮痛剤のバッファリンを多量に飲んだことが間違いだったのだろう。

 これにこりて、その後、降圧剤を半分に減らし、さらに現在はまったく飲まないようにしている。これにくわえて、バッファリンについてもなるべく飲まないことにした。昨日も飲むのを控え、憂鬱な頭痛を抱えて散歩に出た。しかし、堤防の上で運動をしている頃からおもむろに頭痛はやはらぎ、家に帰ってくるころには症状がなくなっていた。これは運動することで筋肉の緊張が解けて、血行がよくなったせいだろう。

 毎朝散歩をするようになってからは、頭痛そのものが滅多に起きないし、生じても運動で沈静化できるようになった。だから、朝起きて頭痛があっても、以前のようにあわててバッファリンを飲むことはない。頭痛をかかえたまま散歩に出かける。そしていつもより入念に運動をする。そうすればたいがい頭痛は消える。

 こうして最近はバッファリンのお世話になることもなくなった。これはとてもありがたいことだ。これも2年前の強烈な頭痛と、その後に起きた視覚障害のおかげだ。私はその辛い体験から、自分の健康について、いろいろと有益なことを学ぶことができた。

(今日の一首)

 雨にぬれあじさいの花なつかしく
 でんでんむしと遊んでみたし


2007年07月13日(金) 現代西洋医学の限界

 病気の原因について、昔の人は「悪い霊」がとりついたせいだと考えていた。そこで病気になると祈祷師がよばれた。聖書によれば、イエスも「悪い霊」を追い出すことで、さまざまな人の病気を治している。こうした「悪霊病原説」は姿を変えて、現在も行われていて、これを利用した霊感商法も花盛りである。

 これに対して、古代ギリシャのヒポクラテス(BC460 - BC377) は「健康な人間は身体が調和しており、体の調和が乱れることで病気になる」と考えた。そして彼は、血液・粘液・黄色胆汁・黒色胆汁の4液を人体組成の基本成分とし、病はこの4液の不調和から起きると主張した。これは「液体病理説」と呼ばれている。

 彼は病気そのものを冷静に観察し、健康な人間の場合と比較した。そしてその発症のメカニズムを人体の生命活動の乱調だと考え、悪霊の存在を退けた。さらに彼は、体の調和を取り戻すために、薬草類を用いた。彼は西洋医学の父といわれるが、むしろ東洋の自然治癒の療法に近いものだった。

 しかし近代になって、西洋医学は大きく変わった。顕微鏡の発達によって、さまざなな病気に特有の「病原菌」が発見されたからだ、そしてペニシリンなど、この病原菌の働きをおさえる薬も発明された。こうして、病気の原因はヒポクラテスが考えたような内在的な要因ではなく、外部から進入してきた細菌やウイルスなどの病原菌によるものだということになった。

 この近代科学の考え方は、遺伝子の発見によって、病原体、もしくは劣化した遺伝子が病気をつくるというふうに一部修正されたが、病気の原因を特定の物質的な原因に求め、それを除去することが治療である考える点で、基本的な原理はおなじである。この病原体原理によって、医学はめざましい発展をとげた。

  現代の西洋医学はたしかにコレラや結核といった感染症や早期の悪性疾患、心臓病や脳溢血などの急性期の循環器系疾患などについては目覚しい力を発揮する。しかし、アトピーや花粉症などのアレルギーやその他、腰痛や肩こり、糖尿病や高血圧などの慢性的な疾患について、はかばかしい成績をあげてはいない。せいぜい消炎鎮静剤を処方して症状を緩和する程度である。そして実のところ、こうした慢性的な病気で苦しんでいる多くの人々がいる。

 こうした人々の中には代替治療として、鍼灸や漢方薬など、東洋の伝統的な医療に頼る人も増えている。しかし、出費がばかにならない。私の友人で、高血圧の治療に、漢方薬代として100万円も出費したという人がいるが、こうしたことはよほど経済的にゆとりがないとできないことである。

 現代人の多くは腰痛や心臓病など、ごくありふれた生活習慣病に苦しめられている。これらは病原菌や遺伝子異常によるものではない。ライフスタイルの偏りにより、自律神経の調和が失われて発病したものである。これを現代の西洋医学は苦手としている。西洋医学がもう一段の発達をとげるためには、ヒポクラテスの「病気の原因は心身の不調和」という原点に立ち返るべきではないだろうか。

(今日の一首)

 すこやかな少女のほほえみ草原の
 光にゆれる野花のごとし


2007年07月12日(木) 薬とオカリナ

 私が苦し紛れに発明した仮想の「ストレス遮断スイッチ」は血圧を安定させるためにも役に立ったようだ。しかし、この分野での主役は、やはり病院で処方されたニューロタンという「血圧降圧剤」の存在である。薬の説明書きには、こう書いてある。

<血管を拡張し、血圧を下げます。勝手に服用をやめないでください。掻痒、頭痛、嘔気などが現れることがあります。発疹が生じた場合は中止してください>

 ものの本によると、人間の体は交感神経と副交感神経という二つの自律神経によってコントロールされている。交感神経はアドレナリンを分泌し、心拍数を上げ、血圧をあげる。これによって私たちの心と体が活性化される。いわば「戦闘モード」になるわけだ。

 これに対して、副交感神経はアセチルコリンを分泌し、心拍数を抑え、血管を拡張して、血圧を下げる。これによって私たちの心と体はリラックスする。いわば「休息モード」に入るわけだ。交感神経をアクセルに例えれば、副交感神経はブレーキの役目を果たしている。私たちの健康は、この両者の働きが正常に機能することで維持される。

 ところがストレスの強い環境におかれると、私たちはどうしてもアクセルを踏んで、精一杯がんばろうとする。つまり、いつまでも交感神経の緊張状態を持続させることになる。そうしているうちに、心身に疲労が蓄積して、ついには自律神経のバランスが崩れるわけだ。そうなると、私たちはつねに「戦闘モード」に置かれ、心と体が休まることがなくなる。

 私の高血圧や不眠症も、自律神経の調節作用の不調によるものだった。私は新しい職場のストレスに対抗して、がむしゃらにアクセルを踏み続けていたわけだ。こうして私は交感神経優位の緊張状態に追いやられていった。そうしたときに病院で処方された薬は、副交感神経の働きを助け、過剰な交感神経緊張状態を緩和して、心と体をリラックスさせてくれた。事実、薬を飲み始めてから、血圧は下がっていった。

 もっとも、この薬は交感神経の働きを抑えるために、私から生き生きとした精力を奪う。朝食後これを飲むと、マイカーでの通勤途中にきまって脱力感や睡魔に襲われた。そこで一休みするわけだが、ときにはうとうとが長引いて、学校を遅刻することもあった。

 そこで私はオカリナを吹くことにした。毎日、木曽川の見える景色の良い堤防に車を止め、オカリナを取り出して、季節の曲を吹いた。春は「春の小川」、夏は「夏が来ぬ」、秋は「紅葉」といった按配である。オカリナを吹いていると、心がリラックスするだけではなく、ゆたかでさわやかな気分に満たされた。そして明るい気分で学校へ向かうことができた。

(今日の一首)

 オカリナを毎朝吹いてさわやかに
 こころたのしく笑顔の人生


2007年07月11日(水) 鈍感力で健康維持

 1年間担任をはずれ、1年間はノンビリ過ごしたものの、その明くる年には、再び1年生の担任をまかされた。結局このあと、定時制高校に転勤するまで5年間連続で前任校で担任をした。そしてまたストレスフルな毎日が襲いかかってきた。さいわい、すでに恐ろしい腰痛を経験していた私は、度を過ぎたストレスをしのぐ方法をあみだしていた。

 それは何かと言うと、心のなかに「感度調節ダイアル」をイメージし、必要に応じて、この「つまみ」を回して、外界からの刺激をコントロールするのである。ダイアルの目盛りを0に近づければ、刺激は遮断される。これでストレスを弱めようというしかけである。これはいつもうまく働くとはかぎらないが、それでも結構役に立つので、いまでも愛用している。

 もともとはシリアスな現実から逃避したいために発案されたのだが、もうすこし積極的な効用もある。つまりこの装置があれば、外界の出来事にいちいち敏感に反応しなくてすむ。日常の喧騒から一歩退いて、もうすこし深い視点から身の回りの現象を観察できる。そこからさまざまな知恵が浮かんでくるし、これまでよく見えていなかった事柄について腰を落ち着けて考えることができる。

 これは「鈍感力」という言葉に置き換えてもいい。鈍感力はゆとりを生み出し、ある種の「いい加減さ」を生み出す。生徒の乱暴な言葉にも、ただちに反応して、「何をいうか」と腹が立たなくなる。「なぜ、この生徒は、こんな乱暴な言葉を吐くのだろうか」と冷静に受け止めるわけだ。この冷静な反応ができることが、「ストレス調節つまみ」の利点だといえよう。

 生徒はしばしば授業中に私語をしたり、不登校になったり、暴力行為やいじめなどの非行に走る。そうした問題行動を目の当たりにして、教師も親も「困ったことだ」と思う。また、子どもたち自身が苦しみ悩んでいる姿を見て、可愛そうだ、何とかしてやりたいと思う。

 こうした問題が起こってくる根底には、いろいろな原因が考えられる。たとえば、本来人間はそうした悪を秘めた存在なので、これを教育の力で矯正しなければならないという性悪説の考えがある。しかし一方には、人間は本来善なる存在で、社会が悪いから非行や犯罪や起こってくるという性善説の考え方もある。

 私はどちらかと言えば、人間は本来「助け合って生きる」ように作られている存在で、私たちが犯罪や非行に走るのは、私たちが置かれている社会環境の問題が大きいと考えている。たとえば「いじめ」の問題でも、それは人間の本性ではなくて、弱肉強食を是とする社会の構造が生み出すものだと考える。だからいじめをなくすにはこうした社会のあり方にも眼をむけ、これを矯正していかねばならない。

 とはいえ、目の前で苦しんでいる子どもたちを見て、私たちは「社会のせいだ」と暢気に構えているわけにはいかない。ともかく、持てる力を総動員して、これを阻止しようと努力するわけだ。こうして一応は問題は終息するかもしれない。しかし、これはかりそめの対症療法でしかない。だからもぐらたたきのように、次々と休みなく事件が起こってくる。

 それではどうしたらよいのか。私は目の前の困った現象に対しても、そこに何か大切なヒントがあるのではないかと考えるようにしている。たとえば「いじめは悪い」ときめつけないで、「今のような社会では人間はいじめられたり、喧嘩をしたり、非行を犯したり、時には不登校を体験したりして、なんとかまともに成長するのだ」と前向きに考えるわけだ。

 フランクルはナチス体験を記した「夜と霧」のなかで、「異常な環境では、異常な行動が正常である」と書いているが、これは平和な時代にあってもいえる事だろう。人が非行や犯罪に走るのは、すこしも異常なことではない。それはある意味で「正常」な反応なのだ。「鈍感力」が身についてから、少し違ったふうに、おおらかに世界を見ることができるようになった。そしてこのおおらかさが、心身の健康を維持する上でも大切なのだと気づいた。

(今日の一首)

 人間は弱きものなり権力や
 金の力もはかなきころも


2007年07月10日(火) 薬を出さない医者

 私の近所のM医院の先生はかなりのお年寄りで、人柄はいいのだが、私が血圧を下げる薬が欲しいと言っても、「まあ、血圧をこまめにはかって、記録してみるんだね。そうすればいろいろなことがわかるよ」と、薬を出してくれない。M先生は万事がこの調子で、基本的に薬がきらいなのである。風邪を引いても抗生物質はださない。だから、M医院に行くと、なかなか病気がなおらない。

 それでも私はM先生に言われるまま、血圧計を買い、こまめに記録していた。そしてその記録をM先生に見てもらったが、やはり言うことは同じで、「どうです。いろいろとわかったでしょう」と笑うだけで、やはり薬は出してくれなかった。M先生は、「血圧は高いときもあるし低いときもある。それが自然なのだから、むりに薬を使って下げることはない」という。

 しかし、本を読むと、140を越えたら高血圧で治療をしなければならないと書いてある。放置すると心臓病や脳溢血など、恐ろしい病気の危険性が高まるらしい。この不安をM先生に訴えるのだが、「それは人によるからね。まあ、せいぜい運動をして、体重をへらすんだね。ストレスもありすぎるといけないよ」と、まるで高血圧など病気のうちに入らないといわんばかりである。そういうわけで、私は血圧を下げる薬を飲んではいなかった。

 1年生の担任をなんとか無事終えたあと、私は教頭に血圧のデーターを見せながら、「1年間だけ、担任を休ませてください」と申し出た。教頭は「しかたがないですね。それでは1年間だけ」と、しぶしぶ認めてくれた。

 担任を降りると、精神的負担が半減した。腰痛もすっかり影を潜めた。歯も痛くならなくなったし、痔で悩まされることもなくなった。実感としては仕事量が3分の1くらいになった感じだ。これで同じ給料がいただけるのだからありがたい。

 しかし、ひとつだけ気がかりなことがあった。それは血圧が、依然として高止まりを続けていることだ。さすがに180を越えることはなかったが、それでも最高血圧が160を越えた。

 担任を降りて少し時間にゆとりができたので、さっそく年休を取って、公立の大きな病院を訪れた。その病院の若い先生は、私の血圧記録を読むと、「よく、こんな高血圧を放置しておきましたね」と顔をしかめ、薬を処方してくれた。

 私は毎朝食後に2錠の血圧降下剤を飲むようになった。これを飲むと胃が痛くなった。そこでムコスタという消化剤も出してもらった。これで最高血圧が140を切るようになり、体が楽になった。もっと早く薬を飲めばよかったと、M先生を恨んだものだ。

 ただ、病院はM医院とちがって、夜は診察が受けられない。年休を取るのが面倒である。そこで病院でもらった薬のリストを持って、夕食後M医院を訪れた。「この薬を出してください」と言うと、M先生は「ああ、そうですか」と鷹揚に応じてくれた。これは少し拍子抜けだった。M先生は「馬鹿なやつだな。まあ、面倒だから、薬を出しておくか」と思ったのかも知れない。

 もっとも私はやがて、高血圧は「生活習慣病」だという考えに傾いた。M先生の言うように、運動と食事療法で体重を減らし、ストレスを適当なレベルに下げれば血圧も自然と適正レベルに落ち着くのではないか。そうすれば血圧降下剤を飲み続ける必要はなくなる。しかし、生活習慣を改めるということは、思ったよりむつかしかった。

(今日の一首)

 花街を歩いてみたし浅野川
 間借りしていた寺の界隈


2007年07月09日(月) クラス崩壊と腰痛(3)

  ある日、私は働きたいと言っているI君に、「働くあてはあるのか」と訊いて見た。そうするとI君は中学生の同級生が定時制高校に通いながら働いている。その同じ職場に行きたいという。働いてお金をため、「あるもの」を買いたいのだという。その「あるもの」というのが、「バイク」であることは、やがてわかった。

 I君は中学時代の友人のように働いて、バイクを買いたかったのだ。ところが、父親にはバイクを買うために学校をやめたいとは言えない。そんなことを許してくれるはずがないことを知っていたからだ。私は「バイク」の件は伏せて、父親に彼を外で働かせてはどうかと進言した。

 父親はこれに反対だった。学校にも行けないI君がきびしい労働が続けられるはずはない。それに、学校はアルバイトを禁止しているので、そのために学校を退学しなければならない。たとえ留年してもよいから、退学だけはさせたくないというのが父親の気持らしかった。

 そこで私は指導部に事情を話し、登校拒否中のI君にアルバイトを認めてもらうことにした。そして父親を再び説得した。さいわい夏休みが迫っていたので、まずはその間だけでも試験的に彼を働かせてみてはどうかと持ちかけた。父親はこれにしぶしぶ同意した。こうして、I君は学校に籍を置いたまま、近所の工場で倉庫係として働くようになった。

 この日を境に、I君は見違えるようになった。毎朝、家族より早く起きて朝食を食べ、作業着に着替えて仕事場に出かけて行った。部屋に閉じこもり、夜も昼もわからないような自堕落な生活が嘘のようだと、母親がうれしそうに語ってくれる。私は夕方、彼が工場から帰ってくるころをめがけて、様子を見に行った。

 公務員の父親が先に帰っていて、ビールを飲んでいる。そこに作業着姿のI君が帰ってくる。倉庫で朝早くから夕方まで、単調な荷造りばかりである。しかし、I君は血色がよくなり、見るからに生き生きとしている。「順調ですね」と父親に言うと、「まだまだ、この先続くかどうか」と渋い顔をしていた。しかし、I君は無事1ケ月間、働き続けた。I君はそれからもがんばって働き続けた。

 新学期が始まってしばらくした頃、父親がようやく「退学」に同意した。ある夕方、退学届けを渡しに彼の家を訪れると、工場から帰ってきたI君が「先生、みろよ」と通帳を見せてくれた。父親はビールを飲みながら、「どうせ、それでバイクでも買うんだろう」と苦笑いしていた。以前と比べると、親子の関係がずいぶんよくなっていた。

 退学届けを渡しながら、私はI君に定時制高校か通信制高校に通うことを進めた。父親もこれに賛成だったが、彼は大学検定試験を受ける道を選んだ。そして3年後にはすべての単位をとり、地元の短期大学に合格した。I君はみごとに勉強と仕事を自分の意志で両立させたのだった。そのとき、父親から、こんな手紙が届いた。

<今本当の幸福とは何かと深く考えています。家族の健康、子供の成長、自分の出世、財産等が原点ではないのかと考えておりました。しかし、心の中で他人をおもいやり、自分自身を律することではないのか。又、自分も生き、他人を生かし共生することなのかと。私も50半ばになり生きてきた目的、成果を見出したいと思うようになりました。人生の目的とはなにか、本当の幸福とは何かと自問しながら生きていきたいと考えています>

 この手紙を読んで、私は涙が出るほどうれしかった。I君の登校拒否は父親の人生観まで変えたのだ。ちなみに私の腰痛はI君が退学した後も続いた。それからも多くの問題生徒を抱え、ストレスフルな毎日が続いたからだ。

 しかし、とにかく私は転勤して最初のつらい1年間を乗り切ることができた。40人いた生徒のうち、I君をふくめて3人が退学したが、どうにか残りの生徒を進級させることができた。これはとてもうれしかった。しかもこのつらい体験によって、私自身ずいぶん成長することができた。とくに私の「教育観」や「人生観」が深くなった。

(今日の一首)

 つらきことあまたありけりしかれども
 うれしきこともちらほらとあり


2007年07月08日(日) クラス崩壊と腰痛(2)

 20年ちかく教員をしていたが、このときほど辛い思いをしたことはなかった。三河の管理主義の新設高校で教えた2年間もつらかった。しかし、この頃はまだ30代の前半で、気力や体力が充実していた。今回は40代の後半で、気力や体力が落ちている。このことが腰痛の発症に結びついた。

 さらにこれに追い討ちをかけるように、高血圧、不眠、眩暈や耳鳴り、歯槽膿漏による悪臭と出血、動悸が止まらないという心拍異常など、これまで経験したことがないことが次々と襲い掛かってきた。医者に通い、薬を処方してもらうのだが、一向に改善されないどころか、さらにひどくなって行った。

 専門家の本を読むと、腰痛は「筋力の減退」が原因だと書いてある。そして心理的な疲労やストレスが原因になる場合もあるという。私の場合は腰の筋力の減退に加えて、新しい職場でのストレスによる心理的な要因が大きかったようだ。だから、職場の状況が悪化するにつれて、症状はますます悪化した。

 歯茎がはれて痛いので歯医者に通ったが、治療の途中、何度も水で口を濯がなけばならない。ところが腰が痛くて、診察台から上半身を起こすのが大変だった。そのまま仰向けに起き上がれないので、体を横に向けて、腕の力で斜めに体を持ち上げる。これが大変だった。腰が痛い上に、歯茎まで膿んで痛くなり、さらに眩暈や耳鳴りまでするのだからたまらない。

  こうした中で、登校拒否をしているI君の家に、何度か家庭訪問をした。家に行くと、壁に穴があいていたりして、かなり荒れているようすが窺えた。I君は「学校には行きたくない。一刻も早く退学して、働きたい」と言うばかりだ。ところが、父親が「高校くらい卒業しなくては駄目だ」とこれを許さない。

 父親はI君が学校に行けないのは、学校でいじめを受けているのではないのかと疑っていた。学校にも来て、この問題で直接校長と話したりした。当のI君は「ただ行きたくないだけだ」としか言わないが、この点で、私も父親や校長の前で「いじめはありません」とは言い切れない。何しろ私自身が生徒達から「橋本、死ね」などと教室に落書きされ、それを消す毎日だった。登校拒否したいのは同じで、「できることなら教師を辞めたい」と考えていた。

 家庭訪問をすると、母親や父親としばらく応接間で話した後、二階のI君の部屋に入り、二人で畳に寝転んで、いろいろとりとめのない話をした。部屋に閉じこもっているI君に、腰痛と睡眠障害で人生に悲観的になっている私が、「そのうち、いいことがあるさ」などと語りかけるわけだから、あまり迫力がない。I君の登校拒否もおさまるわけではなかった。

 そこで、学校でカウンセラーをしている先生に家庭訪問をしてもらった。ところがカウンセラーの先生は、家庭訪問から帰るなり、「あの子はおかしい。精神病の疑いがあるから、専門医に見てもらうべきだ。両親に伝えてください」という。驚いて話を聞くと、I君は心を開かないままほとんど何も話さず、終始様子が尋常でなかったのだという。

 しかし、私の目にはI君は精神を病んでいるようには見えなかった。学校を続けろという父親に反発して家の中で荒れてはいるが、それは「学校へ行ってもつまらない、むしろ世間に出て働きたい」という気持から出たものだ。今の学校に魅力が見出せず、こういう反応をする彼の心や感受性は、むしろ健康で正常なのではないか。

 私はこう考えて、カウンセラーの先生を言葉を、両親には伝えなかった。そして息子の将来を考えるあまり、かえって視野が狭くなっている父親を、I君の意にそう方向で、何とか説得しようと決意した。(続く)

(今日の一首)

 われもまた悩みをかかえ天井を
 眺めていたり生徒とふたり


2007年07月07日(土) クラス崩壊と腰痛(1)

 昔はよく腰痛に悩まされた。とこう気軽に過去形で語ることができるのは、9年ほど前にわずらったメガトン級の腰痛を最後に、私はこの憂鬱な健康被害からいまのところ解放されているからだ。おそらく、今後私はこれほどの腰痛に悩まされることはないだろう。

 その理由は、現在の私は「人はなぜ腰痛になるのか」、「腰痛にならないためにはどうすればよいか」について、それなりの理解を持っているからだ。だからこの理解に基づいて、私が正しい行動をする限り、腰痛を恐れる心配はないし、たとえなっても、以前のように重症化することはないだろう。

 そこで私の腰痛体験を語ってみよう。この体験をとおして私は、「なぜ腰痛が起こるのか」について、いささか自分なりに納得できる理解を得ることができた。だから、まずは9年前の私のメガトン級の体験をここで語ろうと思う。

 9年前の4月に、私は職場を変わった。そして1年生の担任、進路部の担当、男子テニス部の正顧問などを任された。転勤の希望がかない、新しい高校に赴任して気分が高揚していたので、私はこれをこころよく引き受けた。ところが、職場の忙しさは私が想像した以上のものだった。

 とくに私が悩まされたのは、クラス経営だった。生徒が授業中にうるさいのである。私の授業はそれほどでもないのだが、英語のA先生の授業がひどかった。授業中に紙飛行機が飛び、鼻歌がやまない。A先生に泣きつかれて、私は自分の授業の合間に、A先生の授業まで参観するようになった。その他、不登校の生徒や、暴力行為をする生徒など、毎日のように何かの事件が起こり、私は心が休まるときがなかった。

 腰痛はこうした状況の中で起こった。たしか6月の梅雨の頃だったが、朝起きて靴下を履こうとして、腰が曲がらないのに気づいた。しかたなく椅子に腰を下ろして靴下を履いたが、そのとき腰に鈍痛を感じた。そしてこの痛みはなかなか取れなかった。それどころか日を追ってひどくなった。

 そしてとうとうある朝、仰向けに起き上がれなくなった。体を横向きにして膝を曲げる。それからうつむきかげんに両手をついて、腕と膝を使って起き上がるしかない。腰に負担をかけると、激痛が走るのである。だから毎朝起き上がるのが一仕事だった。起きてから椅子に座っても、腰に鈍痛が残っていた。

 当時はマイカーで学校まで40分ほどかけて通勤していたが、そのあいだ運転席にじっと座っていることが苦痛だった。しかし、他に適当な交通手段がない。途中で車を止め、後部座席で体を横にして休んだ。よほど家に引き返したかった。しかし、勤務を休むわけにはいかない。

 迷える羊たちのような40名ものクラスの生徒と、山のような仕事が学校で私を待っていた。ここで気を抜いたら、一気にクラス崩壊がおこりかねない状況だった。すでに同じ1年生で、ほとんどの授業が成立せず、崩壊状態にあるクラスがあった。こうした事態だけは避けたかった。

(今日の一首)

 腰痛のつらさ身にしむ朝起きて
 今日も一日負けじと思へど


2007年07月06日(金) なぜ人は病気になるのか

 私たちにとって一番関心があるのは、自分や家族の健康だ。ところが、私たちはほとんど自分の体のしくみについて知らないい。一番大切な問題について、無知である。灯台下暗しとはこのことだろう。

 病気になれば病院に行き、お医者さんに診てもらい、薬を飲めばよいと思っている。ところがそのお医者さんが曲者である。そして彼らが処方する薬がこれまたたいへんな曲者である。大学の医学部の高名な教授でも、じつのところ、人間の体のしくみについてどれほどの知識をもっているか、あやしい。

 世の中に健康に関した著作があふれている。ところが、それぞれに矛盾したことが書かれているので、読めば読むほど混乱してくる。一体何がほんとうなのか。医者の言葉や、専門家の書いた本の知識を鵜呑みにするのではなく、やはり自分やまわりの人の状態をしっかり観察して、自分なりの健康に関する知識を確立する必要があるのではないだろうか。

 こんなことを痛感するようになったのは、この10数年間、私自身がさまざまな肉体上のトラブルに見舞われたからだ。そのトラブルを解決する過程で、いろいろ勉強したり、考えたりした。そして、最近になって、自分のからだがどうなっているのか、そしてなぜ人は病気になるのか、その基本的なメカニズムがようやく理解できるようになった。

 たとえば、この十年間に私を悩ませたおもな肉体上のトラブルを上げれば、花粉症、頭痛、腰痛、歯周病、痔、高血圧、視力障害、耳鳴り、不眠症、皮膚疾患、心拍異常、便秘、などなどである。現在、私はこのいずれからも解放されている。しかし、私がこれらの頑固な持病から解放されたのは、医者に診て貰って薬を飲んだからではない。じつのところ、医者のくれた薬は何の役にもたたなかった。さらなる深刻な健康被害を私にもたらしただけだ。

 私たちは自分の身にふりかかってくる憂鬱な健康障害を克服するために、体のしくみの根本を理解し、病気がなぜ起きてくるのかを知り、このメカニズムの理解に基づいて、正しく行動する必要がある。このことについてはすでに「小食のすすめ」(何でも研究室53)におおよそ書いた。今回は他の発病体験もまじえながら、「なぜ人は病気になるのか。そしていかに病気を克服すべきか」というテーマに迫ってみよう。(続く)

(今日の一首)

 こころよき風をもとめてあさぼらけ
 河原に来れば鳶が悠々


2007年07月05日(木) しようがない防衛大臣

 一昨日、久間防衛相(衆院長崎2区)が原爆をめぐる「しょうがない発言」の責任を取って辞任した。久間大臣は6月30日に麗沢大学で行われた「我が国の防衛について」と題した講演で次のように述べていた。

「原爆を落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている。・・・国際情勢とか戦後の占領状態からいくと、そういうこと(原爆投下)も選択肢としてはありうる」

 久間氏は講演後、朝日新聞の取材に対し、「核兵器の使用は許せないし、米国の原爆投下は今でも残念だということが発言の大前提だ。ただ日本が早く戦争を終わらせていれば、こうした悲劇が起こらなかったことも事実で、為政者がいかに賢明な判断をすることが大切かということを強調したかった」と発言の意図を説明した。

 しかし、国防のトップにたつ政治家の核兵器の使用を容認するような発言に、世論の反発はおさまらなかった。久間氏も参議院選挙を控えていることもあり、これ以上阿倍内閣に迷惑を及ぼしてはいけないということで、辞職を決断したようだ。これにたいして民主党の小沢代表は3日の記者会見で次のよう発言している。

「辞めて済むという問題ではなく、阿倍内閣の本質にかかわる問題だ。核武装論が外相、自民党三役から公然と出た時も、首相は助長する態度に終始した。阿倍内閣の国家主義的、権力主義的な体質が背景にあって、このような発言が出るということだ」

 世界で唯一の被爆国として、日本は国際平和を世界に訴えてきた。ところがここへきて、防衛庁を防衛省に昇格させ、憲法を改訂して自衛隊を軍隊として位置づけようという動きが活発になってきている。久間防衛相の原爆容認発言もこうした最近の右傾化した政治の国家主義的、強権的体質が背景にあって生まれてきたのだろう。

 久間氏は「『しょうがない』は口癖だった」と述べている。そして「ぽろっと最後に出た」のだという。しかし、「口癖」だから許せるという問題ではない。それに「しょうがない」を口癖にしている政治家に、大切な国防大臣の地位をまかせていいのかという疑問も生じてくる。「しょうがない」からアメリカの要求を呑んで、自衛隊を海外に派遣されては困るのだ。

 久間氏に限らず、日本人はよく「しょうがない」を口にする。私もよくこれを口にする。とくに最近は、ややあきらめの境地で、「しかたがないな。なんともようがない」とつぶやくことが多い。久間発言は他人事ではない。これからは私も自重したい。

 私たち日本人の思わず口にする「しょうがない」だが、英語にも「I can't help it」という表現がある。これについてインターネットで調べてみたら、いくつかのサイトがヒットした。その中から、一つ紹介しておこう。

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英語には「仕方がない」や「しょうがない」という意味の表現がいくつかあるため、状況による使い分けが必要です。最も一般的なのは I can't help it. です。この can't help ... は「……を避けられない」という意味で、it は状況を指しています。これを受け身にして It can't be helped. と言うこともできます。これらの表現は、ご質問のいずれの状況でも使えます。「まあ、仕方ないか」というニュアンスを出すには、上記の表現の前に Oh well, と言うといいでしょう。

 2例目のように「……してもしょうがない」と言いたい場合は「It's no use +動詞の-ing形」(……しても無駄だ)で表すこともできます。It's no use arguing.(反論しても無駄だ)という具合です。

 ほかに、自分の力ではどうにもならない状況であるなら、I have no choice.(自分には選択権がない)がピッタリですし、「それならそれで仕方がない」なら Let it be.、また「I'm dying to +動詞の原形」を使えば「……したくて仕方がない・たまらない」と表現できます。それぞれの状況で使い分けてみてくださいね。

「石原真弓先生の英会話質問箱」より
http://www.alc.co.jp/eng/kaiwa/shitsumon/070402.html
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(今日の一首)

 雨の日のてるてるぼうずてるぼうず
 いのりをこめて遠くを見つめる


2007年07月04日(水) 南アフリカの好青年

 先週の水曜日、名古屋に向かう電車に、JRの一宮駅から黒人の青年が乗ってきて、たまたま私の隣に座った。眼が合うと、「Hi!Nice to meet you」と陽気に声をかけてきた。

 私も「Nice to meet you too.」と応じた。一昨年、昨年とセブに語学留学していて、英会話の実践をつんでいたので、自然に英語が出てきた。以下、私たちの会話を再現してみよう。

Where from?
I am from Souse Africa.

How long have you been in Japan?
About a few weeks.

How about Japan?
People are very kind and polite.

Do you speak Japanese?
Just a few. " arigatou gozaimas" "sumimasenndesita"

Oh! wonderful. By the way, your English is very easy for me.
Because English is very simple and easy to learn.

Oh! really?
Year, it is very easy.

 彼は南アフリカ共和国の出身で、小学生の頃から英語を習っているということだった。英語にほとんど訛りがないのでよく聞き取れる。それに私のレベルに合わせてやさしい表現をしてくれた。知的でさわやかな笑顔である。おそらく向こうの国ではエリートなのではないだろうか。

 彼は次の稲沢駅で降りたので、ほんのわずかしか会話できなかったが、できれば、「何の目的で日本に来たのか」とか、「どこに住んでいるのか」とか、聞きたいことがたくさんあった。時間があればこういう異国の青年と半日でも、一日でもつきあいたいと思った。

 別れ際に、彼は自分の名前を告げ、そして私の名前を聞いた。私たちはお互いに相手の名前を呼び合い、握手をして分かれた。私は車窓越しもう一度手を振りながら、一期一会の出会いというのもいいものだなと思った。

 なお、私は「How about Japan?」と訊いたが、これは「How do you like Japan?」と訊くべきだった。

 How about Japanese people?

 これならまだよいが、「How about Japan?」と聞かれても、あまりに漠然として、答えるの戸惑うだろう。こういう場合、ぴったりの表現は、たとえば次のような英語だろうか。

 What is your impression of Japan?

 What do you think of Japan?

 参考までに、このあたりの事情を丁寧に解説しているサイトから引用しておく。

ーーーーーーーーーーーーー
日本人でいきなり言い出すのが、、How about Japan? 
この様にいきなり言う日本人の方々は日本はどうですか?
日本は好きですか?と尋ねたいのでしょうね。

しかしいきなりこの様に質問されたネイティブは、何を
尋ねられているか即座に理解しがたいものが
あると思います。

其れではHow about〜?はどの様なシーンで使われるので
しょうか。

Do you like baseball? 野球は好きですか?

It's not my favorite sport. 野球は自分の好みじゃ
ないのよね。。

How about basketball?  バスケットボールはどう?

ココで注意して欲しいのは、
How about 〜?と尋ねる前に、
すでにこの会話では、スポーツがすきか嫌いかがテーマで
ある事をお互いが理解している事ですね。

この理解の上にたってはじめて、バスケットはどう思うか?
というセンテンスは成立している。

How about 〜?というフレーズには何らかの前提が必要で
あるという事ですね。

それなのに、日本人はネイティブの会話でいきなり
How about japan?と尋ねてくる。

以前にいくつかの質問がされているのであれば通じるでしょう
が、突然この様に言われるとピンと来ないのが
わかりますよね

人に何か勧める時 How about some coffee? 

コーヒーは如何? コレは自然ですが。。How about Japan? 

日本は如何?となるので 相手は、へ〜日本をくれるの。。
ついでに他の中国や韓国も頂けないかな〜みたいな返事
をしてやりたい気持ちになるかも知れません。

例えば、How about Japanese women? 日本女性如何ですか? 

相手は、心地よく Well,Uh..Sure! もちろん頂きますなん
て事にもなるかも?

例えば、いきなり、How about Japanese food?和食はどう?

日本人は好きか嫌いかが聞きたいはずですが、言われた方は、、
和食をいただけるとズーと待っているかも知れません。

変は誤解や相手に妙な期待をさせたりしない為にも
How about 〜?は何かの話題にすでに触れている
とき以外にはあまり使用しない方が
いいでしょう。

How about〜?は質問で相手の好みや感想を聞く尋ねるよう
に心がける。

他のHowでの言い回しは

How about like...?〜はどう思いますか?〜は好きですか? 

How do you like Japanese food? 和食は好きですか?
コレらは、OKですね。

How do you like Japan? 日本のご感想は?日本は好きですか? 
これだと誤解は生まれません。

具体的にいぅって具体的に答えが欲しい時

例えば、How do you like living in Japan? 日本に暮して
見てどうですか?

例えば、Do you enjoy living here?  ココの暮らしは楽しい?

例えば、What are some of the things you like about Japan? 
日本の気にィッて居る所は?

例えば、What is your impression of Japan? 日本の印象は?

例えば、So ,What do you think of Japanese women?
Pretty cute, Huh?それで、日本女性についてはどう思うの?
かなり可愛いだろう。。なあ? と言うう感じで話す。。

この様な言い方になると、相手も面白い感想を聞かせてくれる
に違いありません。

How about〜?で誤解を受けないフレーズ。。

好みや感想を尋ねる時、 How do you like〜?

印象を尋ねる時   What do you think of 〜?口にだして是非試して見て下さいね。

http://maririn77ny.blog61.fc2.com/blog-category-9.html

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(今日の一首)

 かりそめの出会いなれども名を聞きて
 笑顔で分かれる青年さわやか


2007年07月03日(火) コムスンとグッドウイルの闇

 コムスンは人材派遣会社大手のグッドウイルの子会社である。会長の折口雅博(46)は防衛大学卒業後、任官拒否をして、日商岩井などに勤め、95年にグッドウイルを設立した。そして2年後の97年にコムスンを買収し、介護福祉の分野に進出した。このころ現首相の阿倍氏は自民党の社会部長として介護保険制度を推進している。

 こうした国策に乗り、コムスンはみるまに業界トップの地位を築いた。一方、阿倍氏も小泉内閣で頭角をあらわし官房副長官になった。そして阿倍氏は03年にコムスンの広報誌5月号で折口会長と対談し、「コムスンは一生懸命やっておられる」などと持ち上げている。しかしこの頃、すでにコムスンは事業所指定を受けるために実態のない勤務状況を届けたり、介護報酬の水増し請求をしていた。たしかに「一生懸命」だったが、その内容が問題である。

 厚生労働省はようやく今年6月6日に、「コムスン」に対して4年半のあいだ事業所の新規指定と更新を認めない処分を下した。これは事実上の「退場処分」である。介護報酬の不正請求や、処分逃れなど悪質な違法行為を繰り返していたのだから、厳しい処分が下ってもしかたのないところだ。

 坂口会長は人材派遣業のグッドウイルでも「給料から不透明な天引きをしていた」事実が明らかになって、6月21日に厚労省が調査に乗り出すと発表した。グッドウイルは派遣一回あたり200円を保険料として給料から天引きしていたという。6月22日の朝日新聞によるとその対象は80万人で、総額は37億円だという。

 1990年には労働者にしめる非正規労働者の数は5分の1だった。それがいまは3人に一人が非正規労働者である。こうした社会の労働環境の悪化背景に、ワーキングプアから最後の一滴をしぼりとる過酷な利益優先主義があった。こうしてグッドウイルは業績を伸ばし、わずか10年余りで業界トップの上場企業になった。04年11月に折口会長は財界総本山の経団連の理事になった。

 いまや折口会長の総資産は500億円だという。40億円もする自家用ジェット機を所有し、「ホリエモンのは中古だがおれのは新品だ」と得意になっていたようだ。このような折口会長を「週刊現代7/7」は「弱者を利用し、自らの欲望のためにカネを搾取した、許されざる悪党」と弾劾している。コムスンやグッドウイルを通して折口会長がしてきた悪行の数々を知れば、こうも言いたくなる。

 コムスンの老人ホームの買収に名乗りを上げた居酒屋チェーン「ワタミ」の渡辺美樹社長は、阿倍内閣の教育再生会議の委員をしている。阿倍首相にとっては、坂口会長が教育再生会議の委員でなかったことがせめてもの救いかもしれない。

 そもそも小泉内閣が「痛みを伴った構造改革」の一環として推し進めた介護保険制度の狙いは何か。「週刊現代7/14号」で中里憲保さんがこう書いている。

<介護保険制度は、給付を抑制し、要介護者や家族の負担が増す方向で「改悪」された。その背景には高齢者医療者の負担を国民に転嫁しようと目論む政府と厚労省の意図が透けて見える。その一方で政府は、先に述べたように巨大資本の福祉ビジネスへの参入を導いた。

 こうして日本の福祉は崩壊寸前にまで追い詰められてしまったのである。「一億総中流」と言われたのは、もう遠い昔のこと。格差はますます広がり、弱者が貧困に喘ぐのが、「美しい日本」の正体である>

 利益優先の市場経済は、その自然な傾向として貧富の差を拡大する。これを適正なレベルに抑制するのが、社会的公正を目的とする政治の役割である。しかし日本の政治を担っているのは、阿倍首相をはじめ、二世、三世議員たちである。彼らによって庶民の生活とはもっとも遠いところで、大企業の利益を優先し、派閥や閨閥優先の政治が行われている。

 この現状を何とかして変え、庶民の暮らしを優先した政治を実現しなければならない。そのためには私たち一人ひとりが「主権者」であることの自覚に目覚める必要がある。そして私たちをとりまく社会問題について認識を深め、政治を他人事としないで主体的に関わっていくことだ。まずは参議院選挙で主権者としての権利を行使しよう。

(今日の一首)

 花咲けど見る人もなし忙しく
 行きかう人の靴音さみし


2007年07月02日(月) 年金の高リスク運用に疑問

 昨日の朝日新聞の記事によると、社会保険庁のコンピュータにある1億3900万件の国民年金納付記録のうち、市町村や社会保険庁に保存されている原簿は1億件ほどにとどまり、4分の1にあたる3千数百万件については、原簿が存在しない可能性があるという。

 原簿が存在しないと、コンピュータの記録が正しいかどうか検証ができない。そればかりか、コンピュータに入力漏れの記録はその存在さえもわからないわけで、こうした「消えた年金」が大量に生じるおそれがある。こうした問題をどう解決したらよいのか、政府は「第三者委員会」の設置を口にするだけで、明確な方針を出せないでいる。いずれにせよ、この難問に取り組むために、政府はさらなる財政出動をしなければならないだろう。

 こうした中で、政府は年金の積立金の運用を弾力化しようとしている。厚生労働省が所管する独立行政法人が管理・運用している公的年金の積立金は約150兆円ある。前にも紹介したが、日本の公的年金の積立金は、給付額の5.55年分もあるが、米国が1.55年分、英国が1.2ヶ月分、ドイツは1ヶ月分しかない。

 そもそも日本以外の国では年金は積立てるものではない。そのつど必要な金額を政府と現役世代が拠出するものだ。したがって巨大な年金積立金は存在しない。だからこれを基盤に政官業の巨大な利権が生まれることもないわけだ。年金改革をいうのであれば、まずこの積立金をなくすことを考えるべきだろう。

 ところが政府の計画案はそうではない。6月19日の朝日新聞は田村耕太郎内閣府大臣政務官(金融・経済担当)が取材で明らかにした年金を独自のファンドで運用する構想について、次のように紹介している。

<政府100パーセント出資の株式会社を設立する形で運用ファンドを設立。独立行政法人の資金のうち20兆〜40兆円程度の運用を委ねる。「安全」に重点が置かれている運用方針を見直し、株や不動産、デリバティブなどへの分散投資を進める。トップも含めて外資系金融機関などで働く優秀な人材を手厚い報酬で雇うことで、運用利回りを上げる構想だ>

 これはこの積立金を温存し、これを土地やハイリスク・ハイリターンのファンドやデリバティブで運用して、利ざやをかせごうという市場経済の流れに乗った発想である。しかしこの巨大な公的資金を市場で運用すれば、どういうことがおこるか、十分考えた上でのことだろうか。

 これは国が国際的なカジノ経済に加担することであり、しかも委託された運用者にリスク感覚はなく、結局巨大な損失が出た場合のつけは国民にまわされることになる。しかも運用に当たって現在よりさらに大きな利権がうまれることになりかない。国際金融市場がゆがめられ、新たな国際問題も発生するだろう。

 私の見るところ、年金問題の根本的解決は「積立金」の解消を置いてほかにはない。積立金をすべてこれまで納付していた人に返し、公的老齢年金を65歳以上の国民に一律に定額を支給することにして、その資金は税金で負担することにする。これで年金を徴収したり管理する組織や特殊法人もいらなくなる。公務員改革法で天下りを規制するよりも、天下り先をなくすほうがすっきりしている。

(今日の一首)

 夜更け道ひとりで歩く靴音が
 ひびいていたり満月の夜


2007年07月01日(日) 一日一万歩で楽しい毎日

 毎朝、木曽川の河原まで散歩をしている。先日、万歩計で測ってみたら、約5千歩だった。マイカー通勤もやめ、こまめに歩いているので、毎日1万歩は歩いているはずだ。

 散歩の途中、木曽川を見下ろす堤防の上で、腕立て伏せを20回ほどする。それから爪先立ちを30回、腕振り運動を100回、この他上体そらしや前屈などを交えた柔軟体操もする。これをすると冬の寒い季節でもうっすら汗ばんで心地がよい。

 散歩を日課にするようになって2年と数ヶ月が過ぎたが、これと腹八分目の食事のおかげで体重はベストの60キロを維持している。数年前までは70キロほどあり、腰まわりが90センチのズボンが苦しいくらいだった。今は20年前の82センチのズボンがはけるようになった。

 しかし一番ありがたいのは、180を越えていた最高血圧が140にまで下がったことである。毎日2錠ずつ飲んでいた高圧剤も1錠になり、1錠の半分になり、今では服用を控えるまでになった。病院に行く手間もかからないし、毎月2千円以上かかっていた薬代もいらなくなった。

 ものの本によると、歩くことは脳の働きをよくして、知的活動を促進させるそうだ。爪先に刺激が与えられると脳が活性化されるからだという。たしかに散歩をしながら、いろいろなことを考える。俳句や短歌が浮かんでくることもある。

 何事もたのしくなくては長続きしない。功利的な理由や、義務でせかせか歩くのはつまらない。散歩そのものをたのしむゆとりを生活の中に作り出すことが大切なのだろう。

(今日の一首)

 たのしみは風にふかれて散歩する
 神代のごとき山をみながら


橋本裕 |MAIL |HomePage

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