橋本裕の日記
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最近雨が降ったり、寒かったりで、散歩がちょっと億劫になった。家を出るのだが、木曽川までたどり着けなくて、その手前の神社まで行って、帰ってくることがつづいた。昨日は日差しがあり、あたたかだったので、木曽川までフルコースを歩いた。
河原を見下ろす堤の上で、いつものように腕立て伏せ20回、腕振り運動100回、つま先の屈伸運動や、ストレッチ体操をした。そうするとうっすらと肌が汗ばんできた。運動の後歩き出すと、体重が10キロほど軽く感じられた。
散歩に出ると血液の循環がよくなり、気分が爽快になる。それは運動のおかげもあるが、お日様のおかげでもある。川や木立、青い空、白い雲や小鳥のおかげでもある。つまりゆたかな自然のおかげだ。これによって心の屈託がとれて、心身ともに軽くなる。
散歩をしながらいろいろな事を考えている。これはとくに考えようと思って考えるのではない。いろいろな思いが自然に頭に浮かぶ。その多くは日常の生活を離れた遠い昔の思い出だったり、しばらく合わない友人のことだったり、人生についての思索であったりと、とにかく浮世離れのしたことが多い。
最近は連載中の小説「静かならざる日々」の構想を考えることもある。これも無理をして考えるのではなく、気がつくと考えているという具合だ。とにかくあれこれ夢中で考えているうちに、気がついてみると家の前に立っていたりすることもある。
たまには妻と二人で出かけるが、やはり散歩はひとりがいい。人間は集団生活をして助け合って生きていかざるを得ないが、人と人との関係ばかりでは息苦しくなる。そしてこの息苦しさが高じると不機嫌になったり、憂鬱になったりする。
散歩に出ることで、この息苦しさから解放される。ひとりで河原を歩いていると、心が次第に広々としてきて気持がいい。風に吹かれ、その心地よさにたまゆら我をわすれる。さとりとはこのようなものではないかと思ったりする。
この数年間で鬱病が倍増している。通院中の患者は1999年には44.1万人だったが、2005年には92.4万人になり、現在も増加傾向にある。私の周りにも鬱病の人はいるし、私自身もどちらかというと欝的な体質の人間である。
じつのところ南国の人から見れば、日本人はみんな鬱病患者のようにみえるかもしれない。こうしたウツの国の住人として、いかに病を悪化させることなく生きていくか、そうした心の健康術のひとつとして、だれでも気楽にできる散歩をおすすめしたい。
80年代は日本経済は絶好調だった。1987年には株式時価総額で東京市場がニューヨーク市場を追い抜き、1989年末には46.7パーセントも上回っていた。土地も驚異的に値上がりして、東京都の地代でアメリカが買えるとまで言われた。
この背景のひとつに日銀の異常な低金利政策があった。これによってお金がどんどん市場に供給され、マネーゲームが過熱した。しかし、実体経済を反映しないマネーの肥太りはいつか破綻する。
株価は上がり始めると、アクセルがかかり、自然に上がる。株価は上がるから上がるのであり、下がるから下がる。企業の業績や実態経済とはあまり関係がない。日本の株価や土地が加速度的に値上がりしたのも、こうした投機的なマネーの性格からきたものだ。
しかし、バブルはいつかはじける。加熱した日本経済にも、その日がやってきた。1991年に株価は下落へと転じ、つねに右肩上がりを続けていた日本の地価上昇もストップした。土地神話が崩れると、とどうなるか。こんどは「下がるから下がる」という負のエンジンが働き始める。そして一気に日本経済は不況の坂道を転げ落ちた。
三菱UFJリサーチ&コンサルティングの調査によると、バブル崩壊後の1991年から2003年の間に日本国内の土地や株式などの資産は1389兆円の損失が発生しているという。そのうち企業分は466兆円で、これによって企業は多額の不良債権を抱えることになった。
しかし、もっと深刻なのは家計部門で、その損失は623兆円に達している。土地や株を担保に住宅ローンをくんでいた人も多く、これが負の遺産となって大きくのしかかってきた。
大企業はリストラによる人件費の圧縮や資産の切り売りで、これらの不良債権を処理し、業績も回復し、最近ではバブル期をしのぐ大幅な黒字を出している。しかし、家計はそうはいかない。住宅ローンなどの多額の不良債権を抱えた上で、しかも失業や賃金カット、正社員からの格下げなど、家計の経済状態は依然としてきびしく、バブル崩壊の後遺症はなお続いている。
じつのところ雇用者報酬は97年の280兆円をピークに2004年には255兆円まで減少した。自営業者の所得は92年の43兆円から2004年には26兆円へと大幅に落ち込んでいる。そして、これが家計における過剰債務を生み出た。
企業業績が回復しているのに、どうして日本経済は復活しないのか。そのおおきな理由はこうした家計の貧困にある。大企業がいくら利益を上げても、家計が潤わなければ消費は拡大しない。バブル崩壊後、銀行は救済されたが、家計は依然として過剰債務状態がつづいている。この家計の貧困が元凶となって、日本はなかなかデフレ経済のトンネルを抜け出せない。
最近のメディアの論調で、この点をただしく捉えたものがほとんどみあたらない。たとえば朝日新聞の論調を見ても、過去一年間の日本の株価が中国やインドは別格にして、アメリカやヨーロッパと比較しても低調であることを問題視し、これは小泉首相によって始められた経済の構造改革がまだ不十分だからだと論じている。これは現状をただしく捉えた日本経済の分析とはいえない。
この1年間の株価の低迷についていえば、これは日本経済が構造的問題というより、むしろマネーゲームにうつつを抜かし、金融バブルへと走り続けた世界経済のあり方がおかしいのである。今、世界経済はサブプライム問題を端緒として危機を迎えているが、別に驚くにあたらない。マネー万能経済の当然の帰結だと捉えたほうがよい。
アメリカ経済がこれまで繁栄してきたのは、日本や中国がドルを買い支えていたためだ。これをよいことに、アメリカはさんざん浪費をしていた。もちろん、日本や中国も商品を買ってもらえるので、文句をいわなかった。アメリカの消費が世界経済を牽引しているなどと、マスメディアもこれを評価し、このカラクリにそのものに異論を出さなかった。
しかし、その結果どういうことが起こったか。以前、NHKの番組で見たが、年収200万円そこそこの人がプール付の豪邸に住み、贅沢の限りを尽くしている。そんなことができるのはサブプライム・ローンのせいである。
日本は土地を担保にして銀行からお金を借りたが、アメリカは住宅を担保にしてローンを借りることができた。しかし、土地が値下がりして日本のバブル経済がはじけたように、住宅価格が値下がりすればアメリカのバブルも弾けざるを得ない。
アメリカの銀行が悪質なのは、住宅ローンを証券化して売り出し、ファンドとして外国の銀行に買わせていたことだ。しかも格付け会社がこれを優良証券と評価した。そのため、アメリカのみならず世界中の銀行やファンドがこれを購入し、結果的にトラブルに巻き込まれてしまった。そして世界同時不況が心配される事態になってきた。
私はこれは市場にすべてまかせるというアングロサクソン型自由主義金融経済の破綻ではないかと考えているが、いずれにせよ、これで拝金主義の考え方がいくらか是正され、マネー万能の風潮が下火になり、世界が正常化することになればよい。しかし、前途はそう理想的には進まないだろう。
07年度下半期のサブプライム・ローン関連の損失は、シティ、メリルリンチ、JPモルガンの米金融3社だけで1121億ドル(約12兆円)にのぼっている。アメリカ政府やEUはこうした金融機関を救済するためにすでに30兆円以上の公的資金をつぎ込んでいる。さらには産油国やロシア、中国などの強力な国家ファンドにまで救済を求めている。
これによって、大手の金融機関は救済されるだろう。そして株価も持ち直し、世界の富豪も胸をなでおろすことができるかもしれない。しかし、過熱したマネーゲームのしわよせはどこかに行く。それは格差をさらに拡大し、中産階級を没落させ、貧しいものをさらに貧しく、悲惨な状態に追いやることだろう。
自由主義市場経済の原理をわかりやすく言えば、「お金儲けがすべて」「稼ぐが勝ち」ということだ。人間の価値も「年収」や「資産」で計られる。ようするにマネーゲームに卓越して巨万の富を築くことが、この世界でもっとも成功した生き方ということになる。
少し前まではそうではなかった。もちろんお金儲けを生きがいにしている人もいた。しかし、世間にはいろいろな生き方があり、またいろいろな価値観が存在した。だから、物質的にはゆたかとはいえず、生活に追われていたが、それでもひとびとの心はもっと多様で、自由度があった。
60年代後半から日本は世界の奇跡とよばれる高度成長が続き、80年代には庶民の生活も豊かになった。そして、日本は世界有数の経済大国になったが、どうもその頃から、「お金がすべて」という考えが次第に私たちの間に浸透してきたように思われる。
80年代後半になると、書店の店頭には「いかに資産を増やすか」という本がたくさんならび、ふだんの会話にもそんな話題が多くなった。勤労所得よりも不労所得が上回り、土地成金が高額納税所得者の上位を占めるようになった。
その一方で、「清貧の思想」などという本も売れたが、大方の人は「いかにお金をもうけるか。財産を増やすか」ということに熱心だった。土地を担保にお金を借りて、株や住宅に投資する人もいた。こうしたなかで土地は値上がりし、株価もうなぎ上りに上昇した。「株をやらない者は世捨て人だ」と書く経済評論家が現れ、ベストセラーになった。
さいわいバブルがはじけて、この風潮が少し後退した。お金もうけがすべてではなく、いろいろな生き方があっていいというふうに人々の意識が変化してきた。バブルの崩壊をとおして、日本社会がいくらか文化的に成熟したようだ。
しかしまだまだ世界はアメリカを中心にマネーゲームがさかんで、「お金がすべて」という風潮が蔓延している。その結果、石油や穀物が高騰し、サブプライム問題も起こってきた。世界が今後どのような方向に動いていくのか興味がある。
もう20年近くも前になるが、祖母が施設に入っていたので、福井へ帰省した折に見舞いに行った。その頃の祖母は、もうすっかり童女のようなかわいらしい表情をしていた。最後の方は、私が誰かも答えられなかったが、それでも母が「裕が来たよ」というと、私の顔を見てなつかしそうに笑っていた。
相部屋だから、ほかの人の様子も自然と眼に入る。祖母の隣のベッドで寝ていた老女は、いつも指をくわえて吸っていた。まるで乳飲み子とかわらない。そうした老人たちの様子を見ながら、「人はみんなこうして赤ん坊に還っていくのだなあ」と思ったものだ。
祖母はその施設で、92歳で死んだ。臨終に立ち会えなかったが、きくところによると、やすらかな往生だったという。その言葉のとおり、私の祖母の死顔には、赤ん坊のような無邪気な笑みが浮かんでいた。
こんな昔のことを思い出したのは、藤本義一さんの「歎異抄に学ぶ人生の知恵」(PHP出版)を読んだからだ。そこに藤本さんの父親の臨終の様子が書かれていた。家族が見守るなかで、臨終を迎えながら、72歳の父親はしきりにうわごとをいう。
「済んまへん、済んまへん。直に片付けますよってに……」
藤本さんは父親が何を詫びているのかわかった。入院する前に飼い犬が近所のゴミ箱を引返した。それで一軒ずつ謝りに回ったのだという。父親はそのときの状況を思い出していたわけだ。それから2分ほどして、またうわごとを言った。
「これは松ぼっくりや。ほれ、落ちてきた」
これはどうやら父親が孫(藤本さんの息子)を乳母車にのせて近所の浜寺公園に行ったときの記憶らしい。子どもの年齢から逆算すると、父親が60歳の頃のことだ。2分あまりで父親は記憶を12年もさかのぼっている。
<それから数分間の沈黙があった。一同は息をころして父の顔を見つめていた。父の顔に微笑が浮かんだ。なにやら友人知人とたちと酒を酌み交わしているようだ。頻りに手を動かす。 「まあ、世の中、新しいことや」 という。 時代が大正から昭和に変わった時に、店を自分ひとりの力で開くという喜びに満ち溢れている。考えれば、戦争、戦災という苦難を父は数分間で飛び越えてしまったのだ>
また2分ほどの沈黙があり、息遣いが激しくなった。そして大きな声で叫んだ。
「たっちゃん、まっちゃん、太鼓はあっちで鳴っているでェ! 早よ、早よ、行こ!」
これは子ども時代の祭りの記憶が蘇ったらしい。それから、2分後、父親の手が蒲団を押しのけて伸びてきた。
<父の手は周囲をゆっくり泳いで、姉の胸に触れ、そして指先で恥ずかしそうに胸のあたりを手探り、乳首を抓んだ。 「お父さん、それは、なに……」 姉が囁くようにいうと、父の顔は弛み、小さな声で、 「乳……」 と一言呟いた。この時、医師から臨終が告げられた。父は二十分ほどの間に赤ん坊に回帰していたことになる>
死に向かうにつれて、人はどんどん新しいほうから記憶を失い、最後は赤ん坊の頃にもどってしまう。そして母親のあたたかい肌に抱かれて臨終を迎える。それであんな無邪気な微笑みが浮かぶのだろう。
第一章 暑さのさかり(3)
木曽川の堤防の片側が桜並木になっていた。少し前までは両側に桜木が並んでいた。それが道路の補修工事で、片側の桜が切り倒された。広くなった道路をかなりの車が通る。これは信夫にとってあまりありがたくない変化だった。
桜並木を透かして、名鉄の赤い鉄橋がみえてきた。その橋のたもとに名鉄木曽川堤駅があって、駅のプラットホームの上に、御岳がかすかにみえる。冬が近づくとそれが真っ白になる。しかし、今はまだ夏のさかりで、御岳も青くかすんで空の中になかば溶け込んでいた。
信夫はこの春にこの堤防を歩きながら、「この川の流れをどこまでもさかのぼっていったらどこにたどり着くのか」という疑問にとりつかれた。そこで家に帰って、地図で調べてみると、どうやら木曽川は御岳を源流にしているらしいことがわかった。
その頃調べたある文献には「御岳火山東麓を源流部に持つ木曽川は,御岳の東麓に厚く堆積した降下テフラを取り込みながら,各地に御岳火山起源の軽石片を多量に含んだ砂礫層を堆積させたことが知られている」などと記されていた。
また、地図を眺めているうちに、そこに描かれている木曽川の形に違和感を覚えた。どうも実際のかたちと違うような気がする。信夫が日頃間近に目にしている川はあちこち大きく蛇行していた。その複雑な様子が地図には描かれていない。
ちなみに木曽川の長さは帝国書院の地図によると209kmとあるが、別の文献では227kmとある。文献によって長さがずいぶん違う。
このことで信夫が思い出したのは、スペインとポルトガルの国境線の話だった。おなじ国境線でありながら、スペインは987kmだといい、ポルトガルは1214mだという。これは両国が用いていた地図の縮尺の違いによって生まれたのだという。
つまり大きな縮尺の地図では細部の変化が省かれているのだ。そうすると線分はなだらかになる。しかし、細かい地図では線分の変化が細かく描かれるので、長さがのびるわけだ。川や海岸線など、自然が形作る生成物の多くはこうした細かい構造をもっている。
樹木にしても、枝から葉、そして葉脈へと、枝分かれのパターンが限りなく続いている。人間の血管の構造もそうだし、消化器管や、大脳皮質も、襞の中に襞が無数に折り畳まれている複雑な構造をしている。
宇宙の構造も、原子核のまわりを電子が運動するさまは、太陽系の縮図のようだし、原子核や電子も、その内部構造があることがわかっている。電子を発見したローレンツという学者は「電子といえども汲み尽せない」という名言を残した。
ギリシャ以来、数学者はすべての曲線はかぎりなく拡大すれば直線になると考えて理論を作ってきた。物質についてもデモクリトスが同様な世界観を提供している。しかしどこまで拡大してもざらざらした凸凹やクオリティを失わないのが自然界の実相ではないか。具体的な自然は人間の「点」や「線」、「原子」などといった抽象的な観念では収まりきらない豊かさをそなえているのだろう。
つまり実際の私たちの世界は、その細部をどこまで拡大しても、最後までその複雑さを失わないようにできているようだ。少し専門的になるが、どこまで拡大してもひとつのパターンが入れ子のように続いて見られる図形をフラクタルと呼ぶ。そして自然界にはこのフラクタル構造がふんだんに見られるらしい。
信夫はこの春に退職してから、いろいろなことに興味を覚え、学生時代に手にした哲学の本など読み返していた。しかし、春江が孫を二人も連れて帰ってきてからはそれどころではなくなった。信夫はいま、久しぶりにそんな現実からすこし身を離し、浮世離れしたことを考えながら堤防を歩いた。そうすると、ふいにやわらかな風につつまれたような気がした。
駅のほうから何人か人影が吐き出されてくるのが見えた。名古屋方面からの列車が少し前に到着したようだ。そのなかの一人に見覚えがあった。迷彩色の短パンにサンダル履きで、のんびり歩いてくる腹の出た男が神岡のようだった。神岡も信夫に気づくと、片手をあげて、「お出迎えごくろう」と大きな声を上げた。
「俺が電車で来ると、虫が知らせたのか」 「そういうわけでもないが、なんだか君に会えそうな気はした」 「お前が出迎えにきているような気がしたんだ」 「そうか、面白いね」
そんな挨拶の後、桜並木の木漏れ日の道を家のほうに引き返しながら、信夫は木曽川の長さが地図によって違っている話をした。神岡はいつものように信夫の話に耳を傾け、共感するようにうなずいた。
「縮尺の違いで海岸線や河川の長さがかわるのか。そうすると、人生の時間の長さも、測り方でかわってくるんだろうな。象と鼠では時間の流れの速さが違うというね。いや、これは別の話かな」
「時間も一直線ではなく、複雑な微細構造を持っているかも知れないね。人間の記憶の構造も、いや、人生そのものがフラクタルかも知れないわけだ」
「フラクタルというのは、全体の構造が部分の構造に反映されているということだろう。人生にあてはめると、今日一日の中に、おれの一生が写されているわけだ。そしておれの一生の中に、宇宙の永遠の時間が反映されているわけだ」
「そこまで大風呂敷を広げられると、なんともいえないね」 「なんともいえないところが、なんともいいね。良寛の歌にこんなのがあったな。淡雪の中にたちたる三千大千世界(みちおほち)またその中に泡雪ぞ降る」
神岡は国語科の教師だったが、幅広い分野に通じた知識の持ち主だった。好奇心が旺盛で、科学や数学について、信夫もいろいろと質問されて困ったものだった。しかし、信夫はそんな神岡のおおらかな無邪気さが好きだった。神岡は仏教についてもひとかどの知識をもっていた。
神岡によると、仏教は「因縁」で世界を考えているのだという。「因」というのが、近代科学の「因果律」である。直線的に原因と結果が繋がった「論理」「数学」「力学」の世界である。世の中を生存競争の原理で割り切るダーウイン主義などもこのたぐいらしい。
これにたいして、「縁」のほうは「偶然」が支配し、変幻自在な出合いがあり、複雑なクモの巣のように森羅万象がからみあっている。神岡によれば仏教は自然や生命現象を、こうした必然と偶然の織りなす織物(曼陀羅)のように考えているのだという。
仏教の教えがもし神岡の言うようなものだとしたら、それは自然や社会がフラクタル構造をもっているという現代科学の考え方に近いのではないか。信夫はそんなことをちらっと考えたが、その前に言わなければならないことを思い出した。
「ついさっき奥さんから電話があった」 「うん」 「とくに用事があるわけではなさそうだった」 「そうか」
遠くの山並みを見る仙人のような表情をしていた神岡が、ちょっと興ざめしたように信夫を見つめた。その変化が面白くて、信夫は笑いながら言葉を継ぎ足した。
「彼女と会っていたのか」 「英会話の先生だ。どうだ、お前も、英会話をやらないか」 「いやだね。英語は苦手だ」
神岡とは、二週間ほど前に一宮駅前の喫茶店でお茶を飲んだ。そのときシュレッグというフィリピン人の女性を紹介された。彼女は名古屋市の居酒屋でホステスをしている。神岡がたまたま去年の暮れにそこを訪れたとき知り合って、それから英語が堪能だという彼女から個人的に英会話のレッスンを受けるようになったようだ。
神岡はフィリピン人の若い女性から英語の手ほどきを受けていることを、妻の英子には伝えていない。「英子に余計な心配をさせたくない」と神岡は言う。これまで前科があったし、ホステスをしている若いフィリピン女性と聞けば、英子が許してくれるわけはないのだろう。
しかし、最近になって英子の監視の目が厳しくなってきた。そこで神岡は定年退職して暇になった信夫を英会話のレッスンに巻き込もうと考えたようだ。
信夫は駅前の喫茶店で神岡とシュレッグの英会話に耳を傾けたが、ほとんど何を言っているのかわからなかった。神岡は「日本人はみんな最初はそんなものだ」というが、信夫はこの先、自分が流暢に英語を話せるようになるとは思えなかった。またそんな必要も感じなかった。
神岡は今日も信夫と会うと言いながら、シュレッグと喫茶店でランチでも食べていたのだろう。そしてそのアリバイつくりにこうして信夫に会いに来たのではないだろうか。そんなことを考えていた信夫に、神岡がからかうように言った。
「どうせ暇をもてあましているんだろう」 「忙しく孫の世話をしている。英語も海外旅行も無理だ」 「春江ちゃんもきれいになっただろう」 「そうでもない」 「孫の世話は楽しいか」 「楽しいわけはない」
信夫の切り口上に、神岡は「おやおや」という風な表情を見せた。そして「そうか。楽しくないのか」と、小さな声でつぶやいた。
| 2008年01月26日(土) |
還暦近づき童心に還る |
私はあと3年ほどで60歳になる。いわゆる還暦である。人間はこの年を境にして、しだいに心が若返っていくらしい。ふたたび青春時代、少年時代、幼年時代を味わえるわけだから、こんなに楽しいことはない。
子どもの頃はいろいろなことにたくさんの好奇心を持っていた。ところが社会生活をするうちに、利害や打算ばかりに心を占領されて、次第にそうした純粋な心がやせ細ってしまう。これは生活していく上で仕方のないことでもある。
今の時代、60歳になって停年を迎えても、年金生活に安住できるわけではない。しかしそれでも、これまでのような忙しさはなくなる。世俗のしがらみからも解放されて、童心をとりもどすゆとりもできるだろう。そう考えただけで、こころがわくわくする。この年まで生きていてよかったと思う。
最近は散歩をしていて、よく童謡を口ずさむようになった。これもこころが若返りしている証拠かもしれない。孫でもできたら、一緒に手を繋いで散歩をしながら、「夕焼け小焼けで、日が暮れて」などと、唄ってやりたいものだ。
私は人と話をするのが好きだ。話の内容は気楽な雑談から、ときには私が日記に書いているような文学や宗教、政治、経済、科学や歴史、教育問題になることもある。こうしたことであれこれ談論することも、知的な刺激になって楽しい。
もっともこういう話題になると、相手もおなじことに知的関心がなければならない。私ひとりで盛り上がるわけにはいかないからだ。幸いなことに、私にはこうしたソウルメイト(魂の同胞)と呼べる人が何人かいる。
そのうちの一人はkeizoさんで、1年ほど前から毎月2回、定期的にあって話をしている。会う場所も決まっていて名古屋駅の構内にあるマクドナルドだ。そこで100円コーヒーを飲みながら、2時間ほどいろいろな人生問題を語り合う。
一昨日は、このマックの会に、keizoさんの友人のsaikiさんが加わって、3人で2時間ほど会話をはずませた。saikiさんは自然の摂理に従って腰痛や肩こりなど治癒する操体師だが、若い頃から海外滞在が長く、ニューヨークやスペインでの体験談も面白かった。またひとり、ソウルメイトが増えたようでうれしい。
私はkeizoさんに水を向けられるまま、万葉集との出合いについて語った。このときの話をまとめたのが、「私の光明体験」と題した昨日の日記である。こうしたソウルメイトとの会話が刺激になって、書きたいことがたくさん生まれてくる。これもありがたいことだ。
私は子どものころから、自然科学的なものに興味があった。小学生の頃は顕微鏡や望遠鏡が好きだったし、中学時代にはSF小説に熱中した。しかし、高校に入り、これに加えて、文学や哲学にも興味を持つようになった。「歎異抄」や「善の研究」「純粋理性批判」など、いろいろと読んだ。
大学では物理学を専攻したが、共産党の下部組織に属して政治活動をしていうるうちに、人生や社会問題について、さらにいろいろと根本的な疑問が湧いてきた。それらの問題は物理や数学を勉強していては解決できそうにない。そこで思い切って、哲学科に転学しようと思った。
ある日、哲学科の主任教授に面会して、「世界の根本的なありかたについて研究したい」と相談したら、「君のような意欲的な学生が欲しかった」と、あっさりと転科を許してくれた。そしてその先生のゼミに出席することになり、論文のコピーや雑誌をいただいた。
インド哲学について書かれたドイツ語の論文を理解しようと辞書を引いているうちに、だんだん辛くなってきた。ドイツ語の壁がどうしても乗り越えられない。結局、哲学科への移籍はあきらめた。そしてふたたび、物理学科に復帰した。
このあと私はすっかり物理や数学についての意欲を失い、留年をくり返した。なにもかも面白くなくなり、やる気もおこらない。生命力がしだに枯渇して、アパシーの状態に陥った。真昼中、いい年をした青年が、部屋にあおむけに寝転んでため息ばかりついているのだから、いわば一種の「引きこもり」だった。
これではいけないと、高校時代に親しんでいた「歎異抄」を読み返した。しかし、以前に感じた感動が蘇らない。小説を読んでみたがこれも楽しめない。物理や数学の勉強も依然としてやる気がしなかった。
それでも私は朝夕新聞配達をし、近所のスーパーに出かけて買い物をし、自炊をしなければならなかった。留年を繰り返したせいで家からの仕送りが絶え、私は学費や生活費を自分で稼ぎだす必要があった。生きていくということは何としんどいことかと思った。
私はあるときロープをズボンのポケットにしのばせて卯辰山に上った。死んだら永遠のやすらぎが得られる。だから死ぬことは怖くないはずだった。しかし、自殺はできなかった。まだ「生きていたい」という煩悩が残っていたようだ。
それからも真昼中、寺の一室でぼんやりとひとりで天井を眺め、無気力に暮らしていたが、夏のある日、たまたま聞き流していたラジオから、犬養孝さんの「万葉の人々」という番組がながれてきた。これを何日かぼんやりと聞いていた。そうすると、こんな歌が聞こえた。
信濃なる千曲の川のさざれ石も 君し踏みてば玉と拾はむ
(千曲川の河原の何でもない小石だけれども、あなたが別れ際に踏んで行ったから、私には大切な石なのです。それを宝物と思って拾います)
この歌に限らず、万葉の人々は全身で人を愛し、愛する人を失った悲しみを全身で歌っている。その人々のたましいの溌剌とした声が万葉集の歌をとおして、私の心にじかに届いた。
そこで私はこんなことを考えた。人間は煩悩具足でよい。この煩悩のゆえに人々は悲しんだり喜んだりする。しかしこの煩悩を、万葉の人々のように、清らかなものに昇華させればよいのだ。そうすればこの世は面白く、人生は味わい深いものになる。
そう考えると、私のまわりの風景が変わってみえてきた。たとえていえば、それまで白黒だった世界が天然色にかわった感じだった。色彩や音や匂いが、いきいきと感じられるようになった。世の中がこんなに美しく、光に満ちているのかと驚いた。
私は高校時代に「歎異抄」にであうことで、「色即是空」の世界を知った。しかし、人生が「空」という認識だけでは私たちは生きてはいけない。そこから「空即是色」と力強く現実世界に立ち戻る必要がある。
私は万葉集に出会うことで、「空」の世界からもういちど現実世界の只中に立ち戻ることができたのだろう。そしてそれと同時に私は活力を取り戻した。物理の勉強もはかどりだしたし、何よりもうれしかったのは、その後は人生をたのしむことを覚え、より味わい深く生きることができるようになったことだ。
私は後年、良寛が好きになった。彼の歌や詩を読むと、私はいつも万葉集と出合ったときの喜びが蘇ってくる。良寛は50歳を過ぎて万葉集を偏愛しているが、彼には私よりはるかに深い「空即是色」の光明体験があったのだろう。
さて、もし私がドイツ語に堪能だったら、おそらく哲学科に進学し、今ごろは大学の先生にでもなって哲学の論文を書いていたかもしれない。しかし、そうすると万葉集や良寛との出会いはなく、私の人生は別のものになっていただろう。ドイツ語が苦手でよかった。これも仏さまのはからいかも知れない。
私は超常現象を信じていない。霊魂も奇跡も信じない。その理由を書こう。じつは、今私たちがこうして存在することそのものがすでに奇跡だと考えているからだ。
ウィトゲンシュタインが「如何にあるかが問題ではない。存在そのものが奇跡である」と書いていたが、私もそのとおりだと思っている。宇宙には無数の星がある。そして地上にはたくさんの生物が存在する。まずはこのことが不思議である。
そしてこれらの存在を認識し、存在そのものに驚嘆できる人間の脳がある。知性や愛情といった意識現象が存在することも、考えてみれば驚嘆すべきことのように思われてくる。
天に星 地に花 人には愛 (ゲーテ)
宗教を飯の種にしている宗教家や宗教学者が主張する神仏や霊魂の存在は信じないが、この精妙な世界を作り上げた造化の力に対しては畏敬を覚える。そして私はこうした奇跡に満ち溢れた世界に生かされていることに感謝している。
なにもののおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる (西行)
私もまた神社に詣でたり、近くの川を散歩をしながら、この「造化の妙」を考える。そうすると、ますますこの世界が在ること、今ここに私が存在すること、そのことがすでに素晴らしい奇跡だと思えてくる。「ありがたい」と手を合わせたくなる。
私は超常現象を信じていない。霊魂も奇跡も信じない。死ねば肉体が滅び、精神もほろびる。こうして私たちは煩悩から解放されるわけだ。
煩悩のない世界は「涅槃寂静」の世界である。つまり死ぬことで、私たちは誰もが仏になることができる。これはありがたい。だから、私は死ぬことは楽しいことだと思っている。
キリスト教だとこうはいかない。人間は死んだ後は墓で眠っている。そして最後の審判の日がやってくると墓から抜け出して、一人ひとりキリストの審判を受けなければならない。そこで地獄へ行くか、天国へ行くか決められる。
キリスト教にもよいところはたくさんあるが、こういう死生観は私にはたえられない。日本に生まれて、仏教の信者になれて、よかったと思っている。
もっとも、私が信仰するお釈迦さんの仏教は、お寺の坊さんたちが説く教えとは違っている。彼らもまた、死後も私たちの霊魂は残り、地獄や極楽があるという。だからキリスト教と本質的にはかわらない。せっかく仏教の国に生まれたのに、もったいないことだ。
私は高校時代に「歎異抄」にであって、親鸞の教えに共感し、これこそ私が求めていた宗教ではないかと考えるようになった。ひとことでいえば、煩悩具足のわたしたちも、死ねば煩悩から解放されて、だれもが極楽浄土に行くことができるということだ。
ところが蓮如上人は「歎異抄」を門外不出にした。「悪人成仏」などとんでもないことである。死んで誰もが極楽浄土などされたら、それころ商売ができない。だから教団としてはこれを封印するしかなかった。
この気持もわからぬではない。生きているうちに善行を積めば極楽往生できるという教えは、人を善人にし、社会を安寧に保つために有効な方法かもしれないからだ。しかし、このことを口実にしてお金儲けばかりに励んでいると組織も人も堕落する。
嘘も方便と言うが、方便も過ぎると見苦しい。しかもその方便がいつか主役になって、真実を覆い隠そうとしている。その最たるものが地獄極楽という幻想であり、地獄に落ちるという脅迫だろう。宗教家は人の弱みや欲につけこんで商売をする詐欺師であってはならない。
初詣は毎年近所の神社に参拝することにしているが、今年はそのあと妻と二人で京都の清水寺や知恩院、八坂神社にお参りした。神社仏閣にお参りし、お賽銭をあげて、何か願い事をする。そのとき、いくらあげようか、100円にしようか、10円か20円で済ませようか、財布の中身をのぞきながらいつも迷う。
神様や仏様を前に「こんなに差し上げるのはもったいない」などと考えるのは我ながら恥ずかしい。また神様や仏様に金額で差をつけるのもどうかと思う。そこで、お賽銭としていつも50円を差し上げることにした。こう決めておけば迷わなくてすむ。
お賽銭を上げた後、手を合わせて何かお願い事をするわけだが、これも何をお願いしようか、いろいろと迷う。「家内安全」「世界が平和でありますように」など、いろいろとお願いしたいことは山ほど浮かぶ。しかし50円でこんな大それたことをお願いするのも、ずうずうしいような気がする。
今年も清水寺に参拝しながら、何をお願いしようかと少し迷った。ところが知恩院にお参りしながら、法然上人のことを考えているうちに、高校時代にならった仏教の授業で、「南無阿弥陀仏」は、「仏様、ありがとう」のことだと教えられたことを思い出した。
現世利益ではなく、感謝の気持で唱えるのが本当の念仏である。そして親鸞が法然上人から学んだ大切なこともこれだったはずだ。そうすると、お参りするときも、ただひとこと、「ありがとうございました」と手をあわせればよいのではないか。
将来について何かをお願いするのではなく、ただ現在無事生かされていることに感謝すればよい。これだと神様や仏様によぶんな負担をかけなくてすむ。
じつのところ、お賽銭も「ありがとう」と感謝しながら差し上げればよいわけだ。こんなことに気づくのに40年もかかってしまった。これも煩悩具足のゆえだろう。
私はこれまで、「感謝の念仏」などと日記に書き、人にも説いていた。それでいて、神社仏閣でお賽銭を上げたあとは、つい参拝の人に押されたりしながら、いそいで何かお願い事をしてしまっていた。
そんな私が、この歳になってこの大切なことに気づかせていただいたのも、知恩院の法然上人の遺徳かもしれない。あるいは旅の道連れに読んだ、藤本義一さんの「歎異抄に学ぶ人生の知恵」(PHP出版)のおかげもあるのだろう。
さて、一昨日の土曜日は穏やかな晴天だったので、妻と次女と私の三人で久しぶりに金華山にのぼった。そしてふもとの伊奈波神社にお参りした。お賽銭を50円さしあげ、無心に手を合わせて、「ありがとうございます」と、さっそく感謝の祈りを捧げた。そうすると、いつになくすがすがしい気持に満たされた。
第1章 暑さのさかり(2)
信夫がこの家を買ったのは20年ほど前だった。それまで名古屋に住んでいたが、家がほしくなって、25年ローンを組んで買った。ちょうどバブルの盛りのころで、手ごろな家を買うとなると、こんな県境の田舎まで都落ちする必要があった。
庭に白や赤の夾竹桃が咲いている。それらは信夫が引越しと同時に近所の店で苗を買ってきて植えたものだ。ハナミズキや菩提樹、百日紅、馬酔木なども手当たり次第に植えた。
石灯籠まで買って庭造りに励んだものの、その後、信夫は心の余裕を失って庭の手入れを怠るようになった。そのせいで大方の潅木は枯れ、めぼしい庭木は垣根の山茶花をべつにすれば、あとは夾竹桃くらいしか残っていない。
荒れた庭を見ていると、それはそのまま信夫の心の姿のようだった。定年後にこの庭の手入れも始めるつもりだったが、この数ヶ月間、これという努力をしていない。ただ、ときおり庭に下りて、雑草を抜くぐらいである。それもこう暑くてはやる気がしなかった。
信夫は昼食の後は昼寝をしていたが、今日はその気にもならず、縁側の踏み石においてあったサンダルを履いて、いつもより早く散歩に出た。庭の木漏れ日の外に出ると、熱い日差しが信夫の薄くなりかけた頭部に容赦なく突き刺さった。
それでも住宅街を抜けると、青田の上を渡ってくる風がいくらか心地よかった。一宮市でも北のはずれにあるこのあたりはまだ田んぼが残っていた。その田んぼや畑の中を用水の清流が流れ、農家の蔵が点々と見えた。木曽川が近いので、鴨や五位鷺などの鳥もやってきた。
家から木曽川の河原まで、歩いて十数分だった。河原にも日差しが照りつけ、青汁の匂いのする草いきれがたちこめていた。河原に人気はなく、子どもの遊ぶ姿もない。信夫は日差しを避けて、木立のほうに歩いた。そして蝉時雨を浴びながら、午後の日差しにきらめいている川の流れを眺めた。
春江が5歳になる典子と乳幼児の純也を連れて戻ってきたのは十日ほど前だった。一人を抱き、もう一人の手を引いた薄汚れた女が庭先に立ったとき、信夫はその女が一人娘の春江だとは気づかなかった。春江の顔を見るのは十年ぶりくらいだろうか。
家を出た後の生活について、春江は何も語らない。信夫もあえて聞こうとはしなかった。二人の孫の父親がどんな男か、興味がないわけではない。しかし、どうせろくでもない馬の骨だろうと見当はついた。そこで信夫は孫たちの父親の影を頭から追い払った。
ところが、さきほど電話がかかってきて、春江が純也を父親に預けて電話口に急ぐ様子を眺めたとき、信夫の頭に真っ先に浮かんだのは、その男のことだった。電話の相手は神岡の妻だったが、男からの電話を待っているらしい春江の様子が、信夫に苦い記憶を呼び覚ました。
妻の静子にも電話をかけてくる男がいた。そして静子は男の気配を信夫に隠さなかった。それどころか、男は一人だけではなさそうだった。そんなわけで、信夫は春江を自分の血を分けた娘ではなく、それらの男の一人の子どもではないかと疑っていた。
そんな思いがあったせいで、静子が死んでから反抗的になって家を飛び出した春江に、信夫は父親らしい愛情を覚えることができなかった。春江の能面のような仏頂面を見るたびに、「なぜ、今ごろになって帰ってきたのだ」という思いさえこみあげてきた。
思い返してみると、妻が生きていたころも、信夫はよく川へ散歩に来た。家庭の問題だけではなく、職場の問題も含めて、30代、40代の信夫は悩みが多く、鬱屈していた。川のほとりへ来て、木立の木漏れ日の中で空を流れる雲や、水鳥や、鳶たち、さらには水の流れを眺めながら、何とか心の平衡を取り戻そうとしたものだ。
川を眺めていても慰められることは少なかったが、それでも信夫は休日の午後になるとここにやってきた。そしてときにはじっとしていられなくて、傷ついた獣のように河原を歩き回り、小石を拾って、対岸へ向けて投げたりした。思わず奇声を発したことさえあった。
信夫はあるとき、この河原を歩きながら、妻の冷淡な態度がいよいよ腹に据えかねて、「いっそ俺の前から消えてくれればいいのに」とつぶやいたことがあった。妻さえいなくなれば、どんなに清々するかと思い、その夜に離婚話を口にした。静子は「しばらく考えさせてください」と言ったきり、だまっていた。
静子が交通事故で死んだのは、その数日後だった。妻が死んだ後、信夫は「消えてくれればいいのに」と口にしたことを思い出して後味が悪かった。しかし、大学院で物理学の研究をし、高校の数学教師になった信夫は、何事につけて理詰めで合理的な考えをする方で、心霊現象や迷信を信じてはいなかった。
だから信夫が妻の死を願うような呪詛の言葉を吐いたことと、現実の妻の死が関係しているとは思わなかった。あの世も神仏も信じていない信夫には、妻の死もただの偶然だとしか考えられなかった。
たしかに信夫が駅から家に電話をかけて、妻に定期券入れを持ってくるように言わなかったら、妻が車に轢かれることはなかったが、彼女が自転車で家を出るのがもう少し早いか遅ければ、交差点で左折するトラックの後輪にまきこまれたりしなかったはずだ。
トラックの運転手も同じような事情だろう。静子の死は多くの偶然の糸が複雑にからみあって生じた不運な出来事である。その成り行きのなかで、信夫の果たした役割はわずかな部分でしかない。
彼女の不注意や彼女を轢いた運転手の過失もあったが、それ以上にさまざまな偶然がそこに働いていた。運転手にはそれでも業務上過失致死の嫌疑を免れないが、信夫までが妻の死に責任を感じなければならないいわれはない。
それでも春江は母親の交通事故を父親のせいだと思っていた。それはおそらく、当時中学生だった彼女の耳に離婚話のことが入っていたからだろう。離婚話でショックを受けた春江は、そのあと、母親の事故死を体験することになった。
父親に反抗的になって、やがて高校を中退した春江は、「私がこうなったのも、みんなお父さんのせいよ」というのが口癖になり、家を飛び出して行った。
春江は今でも母親の死を父親のせいにしているのだろう。そればかりではなく、その後自分の身の上に起こった不幸さえ、すべて信夫の責任だと考えているのかもしれない。それが信夫には心外だった。そして、家の中で春江と顔を合わせるのが苦痛になっていた。
還暦を過ぎた信夫は河原を走り回り、奇声を発する元気はなかった。信夫はただ川面を眺め、風に吹かれてじっと立っていた。そうすると、信夫は、「俺の前から消えてくれればいいのに」という呪詛に似た言葉を、春江につぶやきたい誘惑にかられた。
それはかって信夫が妻に投げかけた言葉だった。そのときは信夫の願いはかなえられて、妻は永遠に信夫の前から姿を消した。同じことが再び起こるかどうか、信夫は試してみたくなった。もちろんそれは、悪魔の誘惑に魂を売り渡す行為にちがいなかった。
信夫はそんな自分に気づいて、少し恐ろしくなった。それから、このような思いを抱いて生きていることが、なにやら無性にさびしく、かなしいもののように感じられた。信夫は15年前の妻の死についても、はじめて罪の意識のようなものを覚えた。
そのとき風が正面から強く吹いてきた。そうすると、信夫の目から涙がこぼれおちた。信夫は涙がこぼれたのは風のせいだと思った。しかし、それは妻の死のあとはじめて流した涙だった。そのことに気づいて、信夫は苦笑した。
信夫の頬を風が乾かしてくれた。見上げると、鳶が二羽、悠々と輪を描いている。信夫は河原をあとにして、堤防にあがった。さらに上流の鉄橋の方に、いつものゆるやかな足取りで歩いて行った。
(毎週日曜日連載1月13日〜)
私は毎晩、晩酌をしている。仕事から帰り、寝る前に「松竹梅」のお冷を小さな杯で一杯だけいただく。これがたのしみで毎日生きているといったらおおげさだろうか。しかし、この一杯の酒を味わっている数分間は極楽浄土である。
どうして酒がこんなにうまいのか、説明はできない。おそらくこれも「煩悩」だろう。このほかに私はたくさんの煩悩を持っている。通勤途中の電車で、女性たちの色気をたのしむのもそのひとつだ。それでいて、「悟りを開きたい」とか、「人類を救いたい」などという途方もない煩悩もある。
人はだれでも「煩悩」を持っている。私たちは、地獄、餓鬼、畜生、修羅といった六道の境涯に身をおき、ときには女性の色香に迷い、利害得失に走って右往左往し、あくせく生きている。そしてそうして煩悩に使われているうちに、おおかた一生を終える。
仏教はこの煩悩を解脱せよと教える。そしてそのために、「正しい生活」をすることを進める。しかし、私たちはなかなか煩悩から離れられない。そしてそれもまた、じつのところ煩悩のせいである。
それではどうしたら煩悩から自由になれるか。それには、煩悩でとことん苦しんでみる必要があるのかもしれない。そしてさらに、そうした境遇に置かれているとき、煩悩から離れて清らかな境涯にいる人に出会う必要があるのだろう。
しかし、順風満帆の人生を謳歌し、煩悩に安住している幸せな人や、またそうした夢のような生活を求めている多くの人たちには、この出会いは滅多に訪れない。なぜならこうした人たちは、あえて自分の人生を変えようとは考えないからだ。
私たちは私たちが求めている世俗的な幸福を最高のものだと考えている。しかし、仏教ではこうした境遇を六道という。そして、六道ではその最上の天界でさえ地獄の上に浮いていると説く。
俗世のしあわせは移ろいやすい。それは不安や絶望と隣あわせだ。だから、こうした人々が本当に幸せといえるのか疑問である。
仏典はこの世にはもっと別な世界があると説いている。それが「声聞、縁覚、菩薩、仏」の「四聖」の世界である。そしてだれしも「仏性」をもっているので、原理的に私たちがこの世界に入ることができる。
しかし、現実はなかなかそう容易ではない。私たちが自分の仏性に目覚めるには、しかるべき「仏縁」がなければならないが、この仏縁にめぐり合うことはなかなかむつかしい。だから、私たちの多くは「縁なき衆生」として、六道の「迷いの世界」に取り残される。
私たちは仏性を恵まれているが、これを生かすすべを知らない。そして煩悩のまま根無し草のように生きている。人生が苦しみの連続であり、世界に争いや悲惨が絶えない理由がここにある。
しかし、そんな私たちにも救いがある。私たち凡夫も煩悩を断ち切る方法がある。それは「死ぬ」ことだ。どんな凡夫でも、死ねば煩悩かから解放される。そして私たちは必ずいつかは死ぬ。だからだれしもがいつかは仏となり、「仏界」の住人となることができる。
親鸞は「慈悲に聖道、浄土のかはりめあり」(歎異抄第四条)と説く。聖道というのは修行をして煩悩を解脱する道だ。これは私たち凡夫にはとてもむつかしい。そんな難しい修行をしなくても、死ねばだれでも煩悩がなくなり、仏となって浄土に生まれ変わることができる。これは私たち凡夫にとって、ありがたいことだ。
自殺をすることは、もっとも手っ取り早く仏になる道である。しかし、そういわれても私たちはそうやたらと自殺できない。それはまだこの世に未練があるからだ。これもまた煩悩のせいだ。親鸞は「歎異抄」でこう語っている。
<浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり>
<久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ>
煩悩のおかげで、私たちはこうして生きている。煩悩が興盛なおかげで生かされているわけだから、これもまたありがたいことである。こう考えると、煩悩に対する考えもすこし変わってくる。
空海は「自らを主となし、煩悩を客人となせ」(一切経開題)と教えている。煩悩を否定したり、捨てたりする必要はない。煩悩も私たちの人生を面白くしてくれる大切な客人だ。ただこの客人に主人の座を明け渡して、のさばらせてはいけない。庇を貸して、母屋を取られてはいけない。
「随所に主となる」という人生の基本さえ外さなければ、煩悩をたのしむことは悪いことではない。煩悩もまた仏様からいただいた宝物である。こうおおらかに考えて、これを客人として大切にもてなせばよい。煩悩具足の凡夫だからこそ、私たちの人生はこよなく面白く、味わいの深いものになる。
小説の取材で刑務所を訪れた藤本義一さんに、そのベテラン詐欺師は小説かも詐欺師ではないかと持論を展開した。読者を作り話で楽しませ、そしてお金をまきあげる手口は詐欺師とかわらないというわけだ。これを横で聞いていた刑務所の所長が怒り出した。
「お前は一向に反省していないな。なんのために幾度もここに服役しているんだ」
「ま、一服しているんですな、ここで。悪いことをしたと反省しているわけではないんですな。今回逮捕された失敗について考えたりしているんですな。次にやる時は、ああいうドジを踏まないようにしようとか……」
この詐欺師は前科七犯で詐欺師の首領格だったという。所長は舌打ちして、「ここにはあいつのようなのが多い。奴のいっていたように、たしかにここに一服しているのかもわからん。ここで新しいダチを作って、出所してからグループを組んで、また詐欺行為をしでかすんだな」と藤本さんに語ったという。
それから30年ほどして、藤本さんは高齢者専用の刑務所で、再びこの詐欺師と再会した。お互いに70歳代後半で、白髪である。藤本さんは声をかけられて、その猫背の白髪男が、かって取材した詐欺師だと気づいたという。
彼の正業は詐欺師で、すでに前科13犯になっていた。老眼鏡をかけ、柔和な表情をしており、かっての精悍さはどこにもない。藤本さんはそんな彼と1時間あまり話し合ったという。
「人間、誰も死にますね。死ぬのは大きく分けて二通りあると思うのですがね、最近」 「二通り……」 「いや、自殺、事故死とは別ですがね」 「その二通りというのは……」 「人間というのは枯れるか、それとも腐るかのどちらかですね」
枯れるというのは筋肉が衰えて自然死していく様子をいう。腐るというのは腫瘍になったり病気に侵されたりして苦しんで死んでいくことらしい。そしてこれは心のありようも関係しているのだろう。詐欺師だった老人の言葉を藤本さんの本から抜き出してみよう。
「今になって、悪いことをしてきたとつくづく思いますねえ。以前は騙される者は欲に目がくらんでいたと思っていましたが、よくよく考えてみると騙した方がずっと悪かったと思い当たるようになったですな」
「もう、ここを出ても働ける身ではないですよね。そういうことですから、これから出ても病気の人の世話をして……。カイゴというのは介抱看護の漢字を略したものだとここではじめて教えてもらいましたがね」
「阿呆な回り道をしてきたものだと思いますが、自慢できるのは、給料なし、休日なし、停年なしで今まで生きてきたことです。これはあんたも同じことかね」
この詐欺師は若い頃は予科練に入り、特攻隊を志願したらしい。しかし、出撃を前にして国は敗れた。国に騙されたと思った彼は、こんどは自分が騙す側に立って生きる道を選んだ。彼もまた時代の犠牲者だったわけだ。
人生の終着駅に近づいて、そのことにようやく気がついた。ずいぶんと回り道をしたが、青春時代のあの純粋な自分を取り返した。そして、残りの人生を人を助けるために介護師として働きたいという。その気持の根底には「このまま腐った死に方をしたくない」という思いがあるようだ。
私の父は67歳で死んだ。糖尿病で、肝臓がんで、脳にも腫瘍があった。いわば体中が腐った状態で満身創痍だったが、心は晴れ上がっていた。母にはいつも感謝の言葉を告げていたという。
最後の数ヶ月間はほとんど何も食べなかった。そして自宅で末期の発作に襲われた。母が救急車を呼んだが、父は母に支えられて玄関に立つと、近所の人たちに挨拶をしてから、自分で車に乗り込んだ。
翌日、病院で息を引き取ったが、その死顔はやすらかだった。まさに父は枯れたように死んで行った。父の死はある意味で断食死である。私もできることなら、こういう死に方ができればと思っている。
藤本義一さんは「歎異抄に学ぶ人生の知恵」(PHP出版)のなかに、さまざまな出会いを描いている。そのなかには刑務所に収容中の詐欺師もいる。
北海道のK刑務所には、関東から北のベテラン詐欺師が収容されている。藤本さんはかって詐欺師を主人公にした小説を書くために、そこに何度か取材に行ったのだという。詐欺師には高学歴の者が多かった。そこで、藤本さんはある詐欺師とこんな会話をした。
「あなたも作家という職業だろ。小説を書いて読者を騙しているのではないか。それなら詐欺師と変らないじゃないか」
「読者に喜んで貰えたならという気持は詐欺とは違うだろう。あんたのように善良な人を騙して金を巻き上げるのとは根本的に違うだろう」
「本を売るじゃないか。その小説がつまらなかった読者は途中で投げ出す。ということは、読者を騙して金を巻き上げている行為と一緒じゃないか。いや根本的には一緒だ。詐欺の類だ。ただ、作家、小説家という職業で救われているだけの話だ」
「税金も払っているしな。作家というのは読者に楽しい夢を、楽しい想像を描いてもらおうと思って書いている。あんたとは違う」
「なにいっているんだよ。おれだって相手に楽しい夢を語っている。この土地は絶対に値上がりするとか、この株で損はない、必ず得をするとかいっている。向こうの欲を引き出すわけだ。向こうがそれにのってくるわけだ」
昔、私の教え子で恋愛詐欺にかかった生徒がいた。やさしいお兄ちゃんにたぶらかされ、大阪まで駆け落ちした。そこで男に裏切られ、暴力団関係の飲食店で働かされているところを保護された。しかし、その生徒は自分を騙した男を恨まなかった。
彼女にとって、それはこれまでの人生になかったような、ほんとうに胸を躍らせるたのしいひと時だったからだ。彼女にはその体験こそが貴重な青春の記憶であり、人生の宝だったのだろう。
藤本さんが必死で抗弁したように、小説家は詐欺師とは違うのだろうが、小説に限らず、ときとして書物は人をたぶらかす。私も大いにたぶらかされた口かもしれない。
青春18切符を使った各駅停車の旅は、ゆったりとした読書の旅でもある。一昨日の京都の旅に持参したのは、藤本義一さんの「歎異抄に学ぶ人生の知恵」(PHP出版)という本だ。200ページあまりの薄い文庫本だが、藤本さんの人生が一杯つまった、内容のある重い本だった
<「方丈記」「徒然草」につづいて「歎異抄」を三冊目に選んだのは60歳に入った頃だった。それも一冊をくり返し3年間は読もうと考えた。三年読めば、古典が自然に現代に融合してきて、自分のなかに浸み込んでくる気配がある>
これは冒頭の書き出しである。「歎異抄」を読み始めて、藤本さんはこれを手放さなかったという。原稿用紙にしてわずか30枚の短編だが、読めばかならずその度にあたらしい発見がある。それが面白くて、手放すことができなくなったという。
<ボロボロになっているが海外に旅に出かける時持って行って機内とか車中で展げると、必ずそこには「人生」についての発見がある。哲学書と感じる時もあれば、心理学の本だと思う時もあり、文学書だと考えてしまうときもある。宗教書とは思わない>
「歎異抄」はいうまでもなく宗教書である。これを「哲学書」「心理学の本」「文学書」だと考える藤本さんは異端の読者というべきだろうか。しかし、この感性はなかなか面白いと思った。
<私は新幹線の中でボロボロになった「歎異抄」の一行を読みながら、三十数年前に行ったアフリカ中央部の大草原を不意に想いだす時もあれば、二十数年前に旅立った北欧の荒んだ海岸を思い出す時もあり、パリやロンドンの街角が浮かび上がってくることもある。
また、祖母や母が台所で働いていた姿を思い出したりする。そして「六道・四生」という文字に空襲や焼跡を思い出したりする。闇市の中で痩せた体で働いていた自分に慈悲をかけてやりたい気がする。
自分の選んだ本が一生に数冊あれば、それが宝である。その一冊の一頁、一行、熟語から立ち上がってくるのは、人生の記憶の蘇りであり、現実を非現実の世界に連れて行ってくれる道標である。十三世紀の「歎異抄」の中には、現在も宿っているし、絶対に生の眼では確かめることが出来ない22世紀の世界も想像できる>
藤本さんは、古典は過去ばかりではなく、人類のはるか未来をも照らし出すという。古典を読むことで、私たちはそうした「遙かな視線」を手に入れることができる。その光はいうまでもなく、現在の私たちの足元を照らし出す光にもなる。
私が「歎異抄」に出合ったのは高校時代だ。県立高校の受験に失敗し、失意のなかで評判のよくなかった私立高校に通った。その学校でたまたま3年間仏教の授業を受けた。3年生のときは僧籍にある教頭先生から歎異抄の授業を1年間受けた。
それからもう40年近く私は歎異抄に親しんでいる。人生の折節、この書は私の伴侶として近くにあって、私の人生の歩みを照らしてくれた。この古典に若くして会うことが出来た私は、ほんとうに幸せ者だと思う。
もっともその幸せに気づいたのは、かなり最近のことである。やはり古典は、年を経て、あるていど人生体験がなければ、「自分のなかに浸み込んでくる」ようには読めないものらしい。
昨日、青春18切符を使って、妻と二人で京都へ遊びに行った。関ガ原をとおり、長浜あたりまでは日がさしていたのに、京都に近づくにつれて雲行きがあやしくなった。
京都駅を降りると、雪がちらついていた。「雪の京都も風流だ」などといいながら、まずはバスで清水寺へ行った。12月に忘年会の後、K先生と来ていたので、一ヶ月ぶりである。やはりそのときと同じように茶屋に入り、好物のぜんざいを食べた。
清水寺に来たのは私は5回目くらいだろうか。妻に訊くと、「私は50回目くらいかな」という。これには驚いた。若い頃、京都に凝っていた時期があるらしい。「あと、何回来れるかな」というので、「20回くらいじゃない」と答えておいた。
そのあと三念坂で買い物をした。妻がひいきにしている「かめや」という竹細工の店があって、妻はそこで愛用のバターナイフを3本買った。一本は長女にやり、もう一本は行きつけの喫茶店のマスターへのお土産だという。もう一本もそのうちだれかにやるのだろう。
そのあと、円山公園を通り、知恩院、八坂神社へ行った。それから祇園を散策。忘年会の会場だった「美登喜」という店を妻に見せた。残念ながら舞妓さんは見かけなかったが、着物で着飾った女性にはたくさんであった。成人式のあと、晴れ着で街に繰り出したのかもしれない。
祇園から四条川原町まで歩き、加茂川の四条大橋のたもとにそびえている東華菜館という歴史を感じさせる中国料理屋で少し遅い昼食をとった。ここは数年前に万葉の旅で来たところだ。妻と二人で酢豚、春巻き、水餃子、スープなど四品ほど注文した。
<四条大橋のたもとに、ひときわ目立つ洋館がある。玄関まわりのデコラティブな造作が印象的なこの建物は中華料理店。昔は西洋料理店だったそうだ。北京料理の東華菜館は、高級なコース料理もあるが、ビールのつまみに一品料理も気軽に楽しめる>
あるブログから引用させてもらったが、大正時代に外国の設計士によって設計されたというスペイン風の建物はなかなか風格がある。ただし二人で中華の四品は食べきれなかった。「安くてうまい店だ」と言って妻を連れてきたが、結局5千円あまり請求された。妻は予想外の出費に、少しお冠だった。
京のまち妻と歩けば小雪降る
木曽川の堤防の片側が桜並木になっている。以前は堤防の両側に桜木が並んでいた。それが道路の補修工事で、片側の桜が切り倒された。広くなった道路をかなりの車が通る。これは私とってあまりありがたくない変化だった。
桜並木を透かして、名鉄の赤い鉄橋がみえる。その橋のたもとに名鉄木曽川堤駅があって、駅のプラットホームの上に、御岳がかすかにみえる。冬が近づくにつれてそれが真っ白になる。
私はあるときこの堤防を歩きながら、「この川の流れをどこまでもさかのぼっていったらどこにたどり着くのか」という疑問にとりつかれた。そこで家に帰って、地図で調べてみると、どうやら木曽川は御岳を源流にしているらしいことがわかった。
その頃調べたある文献には「御岳火山東麓を源流部に持つ木曽川は,御岳の東麓に厚く堆積した降下テフラを取り込みながら,各地に御岳火山起源の軽石片を多量に含んだ砂礫層を堆積させたことが知られている」などとも記されていた。
また、地図を眺めているうちに、そこに描かれている木曽川の形に違和感を覚えた。どうも実際のかたちと違うような気がする。私が日頃間近に目にしている川はあちこち大きく蛇行している。その複雑な様子が地図には描かれていない。
ちなみに木曽川の長さは帝国書院の地図によると209kmとあるが、別の文献では227kmとある。文献によって長さがずいぶん違う。
このことで思い出したのは、スペインとポルトガルの国境線の話だった。おなじ国境線でありながら、スペインは987kmだといい、ポルトガルは1214mだという。これは両国が用いていた地図の縮尺の違いによって生まれたのだという。
つまり大きな縮尺の地図では細部の変化が省かれているのだ。そうすると線分はなだらかになる。しかし、細かい地図では線分の変化が細かく描かれるので、長さがのびるわけだ。川や海岸線など、自然が形作る生成物の多くはこうした細かい構造をもっている。
樹木にしても、枝から葉、そして葉脈へと、枝分かれのパターンが限りなく続いている。人間の血管の構造もそうだし、消化器管や、大脳皮質も、襞の中に襞が無数に折り畳まれている複雑な構造をしている。
宇宙の構造も、原子核のまわりを電子が運動するさまは、太陽系の縮図のようだし、原子核や電子も、その内部構造があることがわかっている。電子を発見したローレンツという学者は「電子といえども汲み尽せない」という名言を残した。
ギリシャ以来、数学者はすべての曲線はかぎりなく拡大すれば直線になると考えて理論を作ってきた。物質についてもデモクリトスが同様な世界観を提供している。しかしどこまで拡大してもざらざらした凸凹やクオリティを失わないのが自然界の実相ではないか。具体的な自然は人間の「点」や「線」、「原子」などといった抽象的な観念では収まりきらない豊かさをそなえているのだろう。
つまり実際の私たちの世界は、その細部をどこまで拡大しても、最後までその複雑さを失わないようにできているようだ。少し専門的になるが、どこまで拡大してもひとつのパターンが入れ子のように続いて見られる図形をフラクタルと呼ぶ。そして自然界にはこのフラクタル構造がふんだんに見られるらしい。
第一章 暑さのさかり(1)
春江は信夫に幼い純也を渡し、そそくさと背中を向けた。そして受話器を取り上げた。その間に信夫はまるでスローモーションの映像のように畳のうえに尻餅をついた。倒れるまでにずいぶん時間がかかった。信夫がもちこたえようとして、ふんばったのがいけなかった。その分、派手な倒れ方をしてしまった。
それだけならいいが、その反動でさらにうしろに体が転がり、薄くなった頭を障子戸の桟にぶつけた。グギッといやな音がした。頭蓋骨が割れたのかと思ったが、先に障子の桟が折れたようだ。
尻餅をついたのは、春江からいきなり孫を渡されたからだ。それで体の重心を崩した。まだ乳幼児の孫を放り出すわけにはいかないので、抱いたまま仰向けに倒れるしかなかった。孫の純也は信夫に抱かれたまま、きょとんとしていた。
かたわらで5歳になる典子が一部始終を見ていた。祖父がはでに転がるのを見ても、典子は目を大きく見開いたほかは特別な反応を見せなかった。ひと声も出さなかったし、視線もすぐにわきにそらせた。
純也を信夫に預けた春江は、信夫が倒れたところは見ていない。信夫の頭が障子にぶつかり、音がして、はじめて振り向いた。そして受話器の口に手を置いて、何事もなかったようにひらたく父親に言った。
「神岡さんから」 その声は電子機械の合成音のようで、血の通った肉声のようではなかった。春江には尻餅をついて後頭部を打った父親をいたわろうという気持もないようだ。
信夫は純也を畳の上に置くと、後頭部を撫でながら立ち上がった。 「お前がいきなり純也をよこすからだ」 信夫は吐き捨てるように言って、少し邪険に春江から受話器を受け取った。春江は無表情のまま、目を伏せて、信夫から遠ざかった。
電話は神岡の奥さんからだった。やわらかい声が耳元でささやくように聞こえた。 「今の、春江さんね」 「ええ」 「どうかなさったの」 「ちょっと、尻餅をついたのです」 「それは大変。大丈夫」 「いや、尾骶骨をいためたらしい。全治一ヶ月でしょうか」
冗談をいうことは滅多になかったので、自分でも驚いた。 「お医者さんにみてもらったら」 受話器の向こうで、奥さんが笑っていた。信夫の気持は、こんな会話で少しほぐれた。
「それで、何か……」 「神岡がお邪魔していないかと思って」 信夫はつい奥さんのやわらかな口調に載せられて、 「そうですな、最近はご無沙汰ですね」 と余計なことまで答えてから、まずかったかなと思った。
奥さんからの用件はそれだけで、とくに急用でもないという。そうするとやはりさぐりを入れてきたのかも知れない。
神岡はこれまで、奥さんの目を盗んで、外でこっそり愛人と会っていた。そのアリバイ工作に友人である信夫を利用することがあった。こんな口実に利用されるのはたまらないと、信夫が怒ったこともある。
神岡は女性にもてた。いろいろ浮気もしている。それにも関わらず、夫婦仲はよい。信夫は神岡と違って、浮気もしないで、まじめに、どちらかというと仕事一途に生きてきたが、夫婦仲はよくなかった。その挙げ句、妻は死んだ。娘は家を飛び出し、子どもを作り、出戻りを決め込んでいる。
受話器を置いてから、かなり大きな声でつぶやいた。 「まったく災難だ。人生は怖い」 春江の耳に届いたかもしれない。なあに、かまうものかと、信夫は薄くなった頭を撫ぜた。たんこぶができていた。
縁側の方に歩きながら、信夫は典子を眺めた。薄汚れた細い腕を、袖なしのワンピースをから出した典子は、縁側近くの畳の上に腰を下ろし、前に純也を抱いて、信夫を上目使いで見た。そして信夫と目が合いそうになると、縁側の方に逸らした。5歳の子にしては、妙なことに気が働く子だった。
これも母親譲りかもしれない。春江は信夫の視線を避けるだけではなく、ときには挑むような目をした。そうした視線に出あうと、信夫は自分の目の前に立っているのが春江ではなく、15年前に死んだ妻の静子ではないかと錯覚することがある。
信夫に対する敵意が、DNAによる遺伝のように、静子から娘の春江へ、そして孫の典子にまで受け継がれているのだろうか。
信夫は重苦しい気持を振り切るように縁側に出た。8月も半ばにさしかかっていたが、まだ暑さのさかりだった。生命力を感じさせる強情な夏の日差しが、廃園のように捨てられた庭にあふれていた。
3学期に入って最初の4年生の授業で、地球の円周についてのクイズを終え、それでは授業をと思ったら、K君がすかさず第二弾を出した。これも面白かったので、授業でとりあげることにした。
<40人のクラスがある。この中に誕生日が同じ人がいる確率は次のどれか?>
�� 約10パーセント �� 約30パーセント �� 約50パーセント �� 約70パーセント �� 約90パーセント
これは�,箸��△氾�える生徒が多かった。その気持はわかる。一年は365日もある。経験的に見ても、誕生日が同じなんていうことは、それほどあることではない。私自身、これまで交際した人はかなりいるが、誕生日が同じだったのは一人だけだ。(その女性とは、それが機縁になって、何回かデートをした)
たとえば、私が道を歩いていて、だれかとすれ違ったとしよう。私とその未知の人とが同じ誕生日である確率は、1/365である。パーセントにすると、わずか0.27パーセントである。これはとても稀なできごとである。
しかし、40人のクラスだと、少し事情が違ってくる。たとえば40人から二人を選び出す組み合わせの総数は、40×39/2=780 通りもある。だから、誕生日が同じ人がいる確率は、かなり高くなるわけだ。じつは正解は�ヌ鵤坑哀僉璽札鵐箸任△襦�
計算は少し面倒だが、これも高校で確率の授業を受けていれば基本的に解ける問題だ。私の4年生のクラスの生徒も、確率については2年生のときに学習している。しかし、出題者のK君をはじめ、だれも解けなかった。
この問題は正攻法ではなく、裏技を使うとよい。つまり、40人のなかに誕生日が同じ人がひとりもいない確率を計算する。そして1からこの確率を引けばよい。Aである確率を求めるために、Aでない確率(余事象の確率)をもとめて、全体の確率1からの引き算でAの確率を求めることはよく用いられる手法である。
40人のなかに誕生日が同じ人がひとりもいない確率は割合簡単に求められる。たとえばいまクラスのメンバーとして、A君、B君、C君、D君、……の40人がいるとしよう。そうすると、B君の誕生日がA君と重ならない確率は、364/365である。
さらにC君がA君、B君と重ならない確率は363/365である。同様にD君がA君、B君、C君と誕生日が違っている確率は363/365となる。この確率を最後の一人までもとめ、これを掛け合わせれば、40人のなかに誕生日が同じ人がひとりもいない確率が計算でできる。
364/365×363/365×362/365×……×326/365 =0.106
私はこの計算に計算機を使ったが、それでも10分近くかかった。エクセルのセル計算を利用すれば、もっと早くできる。それはともかく、したがって、だれか誕生日が同じ人がいる確率は、次のようになる。
1−0.106=0.894
つまり、40人が集れば、約90パーセントの確率で、そのなかに誕生日がまったく同じ人がいるわけだ。これは思ったより大きな値である。2人ではまれな出来事も、40人あつまればあたりまえのことになってしまう。その理由は人数が増えると組み合わせの数が、飛躍的に多くなるからだ。集団の効果は大きく、馬鹿にできない。
さて、昨日私はエクセルの表計算機能をつかって、クラスの人数と誕生日が一致する生徒が存在する確率の相関表を求めてみた。その結果を最後に紹介しておこう。
23人 …… 50.7% 40人 …… 89.1% 50人 …… 97.0% 60人 …… 99.4%
これによると、23人あつまれば誕生日が同じ人がいる可能性が半分あることになる。50人もあつまれば、もうまちがいなく、誕生日の同じペアが存在すると考えていいだろう。
| 2008年01月11日(金) |
地球の一周はなぜ4万キロか |
今年は7日が始業式で、8日から通常の授業だった。最初の授業は4年生の数学の授業である。二学期に「微分」を終えていたので、新学期からは「積分」を教えることになる。事前の授業研究はばっちりで、すでに10時間分のプリントも作ってある。
定時制に来て3年になるが、4年生を教えるのは初めてだ。だから微分や積分の授業も初めてである。そのせいで授業プリントを作るにも力が入った。これに十数時間をついやし、我ながらいいプリントができたと自画自賛していた。
そしていよいよ最初の授業でプリントを配り、「さあ、今年もやるぞ」とやる気満々黒板に向かったとたんに、生徒たちから、「えっー、もう授業始めるの」と大ブーイングが巻き起こった。「授業するに決まっているじゃないか」と私。そうするとすかさず、「今日くらいはクイズでもしょうよ」という声があがる。私がクイズ大好き人間だと知っているからだ。
「だめだ、だめだ」と言っていたが、「僕が出題します」とK君に執拗に言われて、「そんなら、言ってみろ」といくらか腰砕けになってしまった。さらにK君が出した問題が面白かった。そこで積分の授業は次回からということで、クイズの時間に切り替えた。
<地球の円周は約4万キロメートルである。4万キロメートルの縄があれば地球を一回りして張り巡らせることができる。そこで問題。もし、地上1メートルの高さで地球一巡りしたら、どれだけの長さの縄が余分に必要だと思うか。次の選択肢からえらべ>
�� 約6メートル �� 約60メートル �� 約6キロメートル �� 約60キロメートル
これは有名な問題なので、私は分かったが、とりあえず、全員の生徒に答えを言わせた。そうすると��や�い鯏�える生徒が多かった。実は意外なことに正解は�,任△襦L簑蠅鮟个靴�K君は答えを知っていたが、計算の仕方はわからないという。他の生徒もわからないらしい。そこで、私が黒板で計算してみせた。
まず、円周率をπ、地球を半径Rメートルの球だとする。そうすると地球一周の長さは、円周の公式を使って、2πRとなる。
さて、地表から1メートル高くなると、円の半径はRからR+1へ変化する。そしてこの半径が1メートルだけ大きな円の円周は、これも円周の公式から、2π(R+1)である。だから、余分に必要な縄の長さは、この二つの円周の長さを引けば求まる。
余分に必要な縄の長さ=2π(R+1)−2πR =2πR+2π×1−2πR =2π×1 =6.28(メートル)
ちなみに地上2メートルの位置で縄を一周させれば、余分に必要な長さは、4π=12.6メートルということになる。つまり1メートル高くなるごとに、6メートルあまりの縄を継ぎ足してやればよいわけだ。地球の大きさに比べて、意外と短く感じられるのではないだろうか。
このことを説明したあとで、「それでは、なぜ地球一周が4万キロなのか知っているか」と生徒たちに質問してみた。「4万キロなんて、わりと切のいい数字だろう。たまたま偶然、地球の一周が4万キロだったのかな」と訊くと、みんな「たしかに不思議だよな」という顔をしていた。
「実は、1メートルの長さを決めたのはナポレオンなんだ。彼は地球の円周の4万分の1を1キロメートルとし、その1000分の1を1メートルだと決めたのさ。それまでは尺とかマイルとか、国によって長さの単位がまちまちだった。日常生活ではそれでいいが、国際的な活動をする学者や技術者たちは不便だった。そこで世界共通の長さの単位を作ったわけだ。」
長さの単位を、地球の円周から割り出すというグローバリズムの発想は素晴らしい。いかにも普遍的真理を愛したナポレオンらしい合理的な発想である。生徒たちはこの話は初耳らしく、「へえっ、そういうわけか」と驚いていた。
「しかし、地球の長さには測定の誤差があるからね。それでナポレオンはメートル原器というのを作り、それを1メートルの基準にした。おなじように、重さの単位も決めた。それがキログラムだ」
生徒から「重さの単位も地球を基準にしたんですか」と質問が出た。とっさに答えがうかばず、「それはどうかな」とクビを傾げて終わったが、職員室に帰る途中に「1立方センチメートルの水が1グラム」であることを思い出した。ナポレオンは「水」を用いて、重さの基準を定めたようだ。そういえば「万物は水からなる」と言ったギリシャの哲学者がいた。
おかげで積分の授業はおあずけになったが、これはこれで実りある授業だった。じつは、K君はこのあともう一つ数学クイズを提供してくれた。これもなかなか面白い問題なので、あしたの日記で紹介しよう。
原油の高騰がとまらない。これにともないバイオ燃料の原料になるトウモロコシなどの国際価格も上昇している。需要の増加に加えて、投機マネーの動向も大きく影響しているようだ。
原油が高くなると、ガソリンだけではなく、いろいろなものに影響する。最近ではハウス栽培が多いから野菜なども高くなる。また、輸送費のコスト高はあらゆる商品の流通コストをおしあげる。勤労所得が毎年減少する中で、物価が上がっていくわけだから、庶民の暮らしはたいへんである。
しかし、私自身は原油高にはメリットも大きいと思っている。なぜならこのまま石油を使い続けたら、近い将来資源が枯渇するし、それよりも何よりも地球の環境破壊を加速すると思うからだ。温暖化対策が叫ばれているが、一番の対策は石油の消費を抑えることである。そしてそのために一番有効なのは価格を上げることだ。
最近、私の回りでも、自家用車の使用を抑制している人が増えている。ガソリンがさらに値上がりするようなら、公共交通機関を使った通勤に切り替えるつもりだという人もいる。そういう人が増えてくればよいと思う。
JRで通勤していて、貨物がよく通るようになったのに気づく。しかも以前と違って、コンテナ満載である。こういう形で公共交通による人や物資の運送がふえれば、排気ガスによる汚染もすくなくなり、街中の環境もよくなる。
さらに原油高が進めば、太陽光や風力による発電もさらに加速されるだろう。今後は日本の省エネ先端技術が生かされる場面が増えてくるに違いない。省エネ産業はこれから大きなビジネスチャンスを迎えることになる。
ただ、マネーゲームの結果、価格が高騰するという現在の状況は改善されるべきだ。むしろ国際的に環境税か何かを設定して、ガソリン価格を政策的にコントロールする政策がのぞましい。いずれにせよ、これからの世界は脱石油という方向に動き出す必要がある。
福井に帰省して30数年ぶりに高校のクラス会に出たが、二次会の会場まで10分ほど雪道を歩きながら、町会議員をしているK君と話をした。
「いつから、議員やっているの」 「4年前からだよ。今、二期目なんだ」 「議員の前は何をしていたの」 「フツーのサラリーマンだよ。結構いい給料をもらっていたんだ。議員になったおかげで、収入が1/3になっちゃった」 「お子さんはいるの」 「4人いるよ。男女2人ずつ。一番下がまだ小学生なんだ」 「生活がたいへんだろう」 「まあね。女房も働いて、共稼ぎでしのいでいるよ」
安定したサラリーマンをやめて、政治家になるのは、たいへんな決断だったことだろう。それでも政治家になりたいと思ったのは、仕事柄いろいろな人と接していて、その苦労を肌身で感じ、もっと身近なところから社会を変えて行きたいと思ったからだという。さいわい家族も父親のこの転身に理解を示してくれた。
「君のような庶民派の政治家が増えれば、日本の政治も変わるだろうね」と言うと、うれしそうに笑っていた。二世、三世のひ弱なおぼっちゃん政治家や、大企業や地元の利権がらみの腹黒い政治屋にまかせていたら、いつまでたっても私たちの暮らしはよくならない。彼のような現実に足をつけた志のたかい政治家を、もっと私たちの身の回りで増やしたいものだ。
| 2008年01月08日(火) |
格差競争が生み出すもの |
A国とB国はライバルである。最近、A国の首相が法人税を下げると言い出した。その理由は、そうしないとA国の企業がB国との競争に負けるからだという。法人税を下げることで、B国の企業が生産拠点をうつしてくれるかも知れない。これでいくらか税収は挽回できる。残りの税収不足は行政の合理化と、消費税の値上げでまかなうらしい。
そうすると、すかさず、B国の首相も同じことを言い出した。企業がA国に逃げ出したらたいへんだ。競争に勝つためには、法人税をさげるのもやむをえないという。こうして両国とも法人税が下がり、その分、福祉が切り詰められ、消費税が値上がりした。庶民の暮らしがきつくなった。
やがて、A国の首相が、個人の累進課税を見直すと言い出した。それから相続税もうんと安くするという。理由はそうすると、お金持ちが移住してくるからだという。B国もすぐにこれにならった。そうしないと、お金持ちがA国に逃げ出してしまうからだという。こうして両国とも、金持ちや資産家にはとても住みやすい国になった。
さらにA国の首相が、労働者の最低賃金を下げたいといいだした。同時に休日も減らし、労働時間の規制も大幅に緩めたいという。さすがこれには国民の多くは反対したが、結局はそうしないとB国に負けるという首相のいつもの論理に押し切られた。
B国もすぐにこれに追随した。こうして両国の労働者は朝から晩まで低賃金で長時間働かされることになった。その一方で、株主や資産家はどんどん豊かになった。
しかし、金持ちたちの幸福も長続きしなかった。凶悪犯罪がはびこり、安心して暮らせなくなった。それに、国民が所得が下がった分、購買意欲がなくなり、不況が深刻化し、倒産する会社が出始め、株価が下がり、金持ちの中にも破産する人が出始めた。
そこでA国の首相は軍事費の増額を言い始めた。戦車や軍艦を作れば景気がよくなると考えた。それに軍事力があればB国から攻められずにすむ。B国もすかさずこれに応じた。こうして戦車やミサイルがたくさん作られ、その分、企業は儲かったが、国家は巨大な借金をかかえることになった。
やがてA国の首相は「B国と戦争するしかない」と言い出した。その理由はB国が大量破壊兵器を隠し持っているからだという。B国の首相もこれに応じて、同じことを言い始めた。こうして国民の生命と財産を守るために、戦争やむなしという声が両国の新聞やテレビで報道されるようになった。しかし、これに反対する人たちも両国にいた。そこで両政府は解散し、選挙で一気に主導権を握る作戦にでた。
しかし、意外なことに、両国で戦争反対派が勝利を収めた。戦争反対派の必死な訴えを前にして、土壇場で、庶民は悪夢から覚めた。国民は戦争よりも平和を望んだ。こうして、両国とも政権が倒れ、あたらしい政権ができた。
両首脳は会談をして、これからは両国民の生活を第一に考えて、庶民にやさしい政策をしようということになった。それから10年ほどして、ようやく両国の国民に笑顔がこぼれるようになった。
お正月にふさわしく、ハッピーエンドで決めてみたが、アメリカ主導のグローバル経済競争で、国際的に格差がひろがり、日本の貧困率もどんどん悪化している。A国とB国のように、格差競争が新たな貧困や社会の不安定化を生み出し、これが戦争やテロを誘い出さないとも限らない。2008年が日本と世界にとって平和な年であることを祈りたい。
青春18切符の旅をするときには、かならず本を携帯する。なぜなら車中で本を読むことも、この各駅停車の旅の目的だからだ。本を読み、目が疲れたら、車窓の景色をながめる。そしてときにはそこはかとないよしなし事を考える。そして、一休みしてから、また本の世界に戻る。
今回の旅で持参したのは「角の三等分」(矢野健太郎著、一松信解説、ちくま学芸文庫)だ。もうずいぶん前に購入して、いつか読もうと思い、書棚においてあった。しかし、なかなか読む機会がなかった。家にいるとつい手軽な時事問題の本や、娯楽小説に手がいってしまう。数学や哲学に関するアカデミックな本はどうしても敬遠したくなる。
青春18切符の旅だと、じっくり本を読む時間がある。その上、鞄の中にその本しか入っていなければ、それを読むしかないわけだ。それに哲学や数学の本でも、読み始めるとこれが結構面白い。今回持参した「角の三等分」は、アカデミックと言っても一般向きの啓蒙書に近いから、とくに楽しく読めた。
古代ギリシャ時代から研究されてきた難問のひとつに、「任意に与えられた角を3等分せよ」という「角の3等分問題」がある。ここで3等分するために使われるのは定規とコンパスだけである。角の二等分は簡単だが、三等分となるとむつかしい。2千年間以上にわたり、多くの数学者がこの問題に挑戦したが、だれも成功しなかった。
私も高校生の頃、この問題に凝って、いろいろ考えたことがある。しかし結局駄目だった。それもそのはず、じつは19世紀に、「定規とコンパスを使って、任意の角を3等分することはできない」ということが厳密に証明されている。
それではこの難問はいかにして解決されたのか。これについてやさしく解説したのが、「角の三等分」(矢野健太郎著、一松信解説、ちくま学芸文庫)である。
正三角形はコンパスと定規で描くことはできる。だから60度の角は求められる。しかし、その1/3である20度の角はコンパスと定規だけではどうしても描くことができない。その理由を簡単に述べれば、コンパスと定規で求められるのは、加減乗除の四則演算と開平(平方根を求める)だけだからだ。
たとえば∠AOPを2等分する問題は、コンパスと定規で平行四辺形AOPBを描けば、∠AOBがその求める答えになっている。これを座標平面を使った方程式に置き換えると、A(1、0)、P(a、b)、B(x、y)とすれば、
x=1+a、y=b
となる。つまり角の2等分線を求めるという問題は、この1次方程式を解くという問題に還元される。そして、ここに含まれている演算は「足し算」だけなので、これはコンパスと定規で容易に作図できる。ところが角の3等分を求めようとすると、こう簡単にはいかない。
たとえば、60度の角∠AOPを3等分してできる角を∠AOBとし、A(2、0)、P(a、b)、B(x、y)、a^2+b^2=4 であるとすると、角の3等分線を与える点Bのx座標は次のような方程式の解として与えられる。
x^3−3x−a=0
これは3次方程式である。そしてこの解は一般的に3乗根を含むことになる。したがって、角の3等分は四則演算と平方根の式では表されないので、コンパスと定規で作図できないということになる。
もっともここで、「何故コンパスと定規を使って3乗根が求められないのか」という疑問が起こってくる。これについても、「角の三等分」の後半で、一松信さんが解説している。
2乗根については円の性質をつかえば簡単に作図できるが、「3乗根が作図不可能であることの証明」は群論を使ったかなり高度なテクニックが必要になる。ここでやさしく紹介することができないので、興味のある人は直接この本にあたってほしい。
| 2008年01月06日(日) |
「静かならざる日々」の連載 |
今年の抱負は「週一回日記に小説を連載する」ことだ。連載日は日曜日にした。来週の日曜日(1月13日)からはじめて、健康さえ許せば、毎回欠かさず連載したい。小説の題は「静かならざる日々」である。連載を前にして、作品の「あらすじ」を紹介しておこう。
―――――――――――――(あらすじ)――――――――――――――
主人公の川端信夫はこの3月に高校教師を退職し、悠々自適の身分になった。すでに15年ほど前に妻を亡くしていたので、一足先に退職した友人の神岡に誘われ、温泉旅行をしたり、俳句教室に通ったりして、のんびりと独身生活を謳歌していた。
ところが、夏のある日、一人娘の春子が男と別れて帰ってきた。しかも5歳になる女の子と2歳の男の子を連れていた。二人も孫がいたわけだ。上の子は典子といい、下の子は純也というらしい。
信夫の娘の春子は中学生の頃に母親を交通事故で失ってから父親に反抗的になった。母親の交通事故を父親のせいだと思っている。高校を中退し、男を作り、その後、家を出た。音信不通だった春子の出現に、信夫は戸惑う。しかも孫までいるので、信夫の平穏な引退生活は台無しになった。
春子は二児の母親になり、一人前の女になったが、父親に冷淡な態度を崩さなかった。信夫の方もいまさら肉親の情もわかず、3人とは距離を置いてつきあっている。そうして数ケ月が過ぎた12月のある日、ふいに春子の姿が家から消えた。「遠くに行きます」という自殺を予告するような置手紙と一緒に、二人の子どもが残された。
信夫はこうして二人の孫の世話をすることになった。定年後の悠々自適の生活はわずか数ケ月でまぼろしとなり、二人の孫をかかえて悪戦苦闘する毎日である。こうしてなんとも滑稽で、どこかものかなしい生活がはじまった。
しかし、やがて信夫は大腸にポリープがみつかり病院に入院して手術する羽目になる。そこで孫たちを友人の神岡夫婦に預けることにした。一ケ月ほどして退院すると、二人ともすっかり神岡夫婦になついている。典子は信夫と一緒に帰るのをいやがる。
子どものない神岡夫婦も二人をそのまま養子として引き取りたいようだ。信夫はいったん二人を手放す決意をするが、しかし、思い直して、二人を引き取りに行く。そして、また孫二人との悪戦苦闘の日々がはじまる。
この小説で物語られるのは、川端信夫という老境にさしかかった男の、ほぼ1年間にわたる生活である。主人公の退職教師はどこからみても偉物ではない。欠点の多い平均的な俗人である。そうした平凡な男の頭に浮かぶ他愛のない独白や心象風景を、木曽川河畔に訪れる四季の変化の中で、なるべく淡々とていねいに描いてみたい。
―――――――――――――――――――――――――
月4回のペースで書けば、50回ほどの連載ということになる。50回で完結するかどうか自信はない。その場合は来年も続編を書くことになるかもしれない。反対に20回や30回で挫折するかもしれない。これはやってみなければわからない冒険だ。だからスリルがある。
| 2008年01月05日(土) |
北陸・高山線の雪景色 |
昨日は朝食を食べた後、8:00頃、弟の出勤する車で、家から福井駅まで送ってもらった。そのあと、富山まで北陸本線で行き、そこから高山線に乗り換えて木曽川に帰ってきた。ずいぶん遠回りだが、北陸や信州の雪景色がたのしめた。
(昨日の旅程表) 福井発 8:44 金沢着 10:07
金沢発 10:58 富山着 12:07
(昼食)
富山発 13:24 猪谷着 14:14
猪谷発 14:28 高山着 15:33
高山発 16:20 美濃太田着 18:51
美濃太田発 19:03 岐阜着 19:42
岐阜発 19:56 木曽川着 20:02
昼食は富山駅のビルの3階にある食堂街で食べた。2200円のカニ丼を張り込もうかと迷ったが、財布の中身と相談して、結局900円の昼定食におちついた。鰤の山かけ丼に蕎麦がついてこの値段だから、まあ値打ちだった。
沿線の雪景色は思ったとおり美しかった。私は山や川の自然と調和して暮らしている山村の風景を眺めるのが好きだ。とくに雪景色は独特の情緒があり、見ていて飽きない。青春切符18切符を使った各駅停車の旅だから、余計に素朴な旅情がそそられる。しかし、乗り降りを含め12時間の旅で、さすがに最後はくたびれた。
木曽川駅から歩いて帰るつもりだったが、疲れた上に腹まで減って歩く気がしない。家に電話を入れて、車で妻に迎えに来てもらった。家に帰って、夕食に焼餅を2個食べ、あたたかいお茶を飲んだ。そして湯につかった。これで生き返った。
| 2008年01月04日(金) |
30数年ぶりのクラス会 |
昨日はお昼の12時ごろに帰省して、母や弟の家族と一緒に正月料理をいただいた。4人の甥たちに合わせて2万円、それから母にも1万円のお年玉をやった。ほんとうは母にもう少し出したかったが、今回はこれが限界だ。そのあと会費1万円のクラス会が控えている。
食後も母や弟といろいろつもる話しをした。ビールを飲みすぎたせいか、母の思い出話を聞いているうちに頭がしだいに痛くなってきた。母の長話を、これもたまの親孝行だと思って耳を傾けていたたが、途中から我慢しきれなくなって、頭痛薬(バッファリン)を飲み、一休みさせてもらった。
1時間ほど蒲団に横になっていたら、頭痛がいくらか軽くなっていた。5時40分ごろ、弟の車で高校のクラス会の会場まで送ってもらった。福井駅前の「日本海庄や」という店だった。部屋に入ると、入り口に幹事の竹澤君が紳士然として座っていた。30年ぶりだが、すっかり見違えている。他のメンバーもみんな貫禄があって立派にみえる。おそるおそる頭を下げて「橋本です」と小声でいうと、「やあ、よく来たね」とあちこちから声がかかった。
名簿には44人の名前が並んでいた。出席者は私をいれて16名。住所不明が5人いたが、さいわい物故者はいないようだ。宴会がはじまって、ひとりずつ自己紹介した。少しずつ顔と名前が一致し始めた。大学教授や校長先生、町会議員、公認会計士など、多士済々である。しかし酒が入ると肩書きが外れて、座がくだけて昔の思い出話に花が咲いた。
8時ごろ、近くのバーに移動した。私たちだけの貸切である。ママが短いスカートで私の前に座った。おもわず目が膝頭の奥に行く。困ったなと思っていると、「気になるといけないので、最初にみせてあげるわね」と言って、股を広げて水色のパンティを見せてくれた。おかげで、そのあとはそれほど気にならなくなった。
ママさんに薦められるまま、カラオケで「青春の城下町」を歌った。手拍子が起こり、まわりの者も一緒に歌うので、私の声が聞き取れないくらいだった。これで気をよくした私は、ママさんと体をぴったりあわせてダンスを踊った。踊りながら耳元で、「パンティ見せてくれてありがとう」とお礼を言っておいた。こんなことを口にするのは、水割りを飲みすぎて、ちょっと酔ったようだ。
そうすると昔から軟派で知られていたY君がやってきて、「橋本はすっかり変わったな。あんなにまじめだったのに」と茶化すようにいう。これはすこしハメを外しすぎたと反省した。しかし、頭痛もすっかりおさまって、気分がよかった。最後はみんなでスクラムを組んで「高校三年生」を歌った。町会議員をしているK君の音頭で万歳を三唱して幕を閉じた。
同窓生I君が芦原温泉で一番大きな旅館の支配人をしているそうで、来年の同窓会はそこで泊りがけでやることに決まった。宿泊込みで1万2千円でなんとかするという。「カニは食べ放題だろうな」「コンパニオン込みだろうな」「来年までにクビになるなよ」などという声が飛んでいた。
男子ばかりのクラスだが、これがまたざっくばらんで雰囲気がいい。来年のクラス会にも是非参加したいと思った。
今日は青春18切符で福井へ帰省する予定だ。実家で一泊して、明日はやはり青春18切符を使って、金沢、富山、高山経由で帰ってこようかと思う。これはかなりの強行軍になりそうだが、車窓から見える北陸や信州の雪景色を楽しみたい。写真もたくさんとりたいと思っている。
大晦日の夜、福井の実家に電話をして、母や弟と話した。母は去年の冬は大変だったが、今年は風邪をひくこともなく元気なようである。私より8歳年下の弟も元気そうだった。3日に帰省すると告げると、母も弟も喜んでくれた。
父が生きていたころは家族4人で盆と正月には帰省していたが、この十年間は盆や正月に家族で帰省することはほとんどない。たまに帰省しても、私一人で、ぶらりと予告なしに帰る。そしてたいていは日帰りである。
今日帰省するのは、高校時代の同窓会に出席するためだ。30数年ぶりに再会するわけだが、おそらく誰が誰か最初は見分けがつかないだろう。名前も大方は忘れている。それでも酒を飲み、これまでの人生を語り合う中で、昔の記憶もよみがえってくるに違いない。どんな再会があるか、いまから楽しみである。
そんなわけで、明日の帰宅は8時過ぎになる。そうすると日記の更新も深夜になりそうだ。同窓会の様子や、旅のレポートは、今後何回かに分けて書くつもりだ。それでは行ってきます。
ふるさとの雪なつかしや同窓会
今年の元旦は、ときおり霙が落ちてくるとても寒い一日だった。朝は妻と二人だった。食卓には数の子やぶりの照り焼き、棒だら、煮しめ、昆布巻きなどの正月料理が並んでいる。しかし、看護婦の長女は病院の夜勤で、警察官の次女は元旦は休みだったが、大晦日の夜から彼氏のところに遊びに行った。というわけで夫婦二人で「あけましておめでとう」を言い合い、おとそを飲み、雑煮を食べた。
9時過ぎに、看護婦の長女が病院から帰ってきた。そこで10時過ぎに寒さの中を、妻と長女の3人で、近所の中島神社に参拝した。それから木曽川に行って、鳶にエサをやった。
鳶のエサはかしわの皮である。妻の実家の近くの市場でこれが安く手に入るので、妻は毎週実家に帰るたびにこれを買ってくる。これが鳶の好物らしい。これを川の中に投げてやると、鳶が空から次々と舞い降りてきて、上手に足の指でつかむ。そしてすかさず空中で食べて、また舞い降りてくる。
昨日は14,5羽ほどの鳶がやってきた。それからカラスや鷺などもやってきた。今の季節、鳥たちも食料が乏しいのか、奪い合うようにして食べる。その眺めが見ていてなかなか壮観だった。
それから木曽川の堤防を走り、各務ヶ原のはずれの鵜沼まで行った。そこの池に毎年鴨がやってくる。それにエサをやりに行った。あらかじめ妻が喫茶店で食パンの屑を安く分けてもらっていた。それを3人で池の水鳥たちに与えた。これも正月の恒例行事になっている。
家にかえって一休みした。次女が彼氏とデートでなかなか帰ってこないので、4時ごろ3人だけでカラオケに行った。正月にカラオケに行くというのも、去年から我が家の恒例行事になっている。長女のおはこは、「名古屋はいいでよ」である。私は最後に美空ひばりの「柔」を歌った。妻が最後に歌ったのは三橋道也の「怪傑ハリマオ」だった。どれも懐かしい懐メロだ。
2時間ほど歌って帰ってくると、次女が帰っていた。ようやく一家4人そろったところで、もちを焼いて夕食のかわりとした。こうして我が家の正月は今年もめでたく過ぎていった。
二日の今日は、次女は通常勤務で6時過ぎに出かけて行った。長女と私はまだ休日である。3人で、金華山にでも登ろうかと思っている。そこでリスやヤマゲラにピーナツをやりたい。しかし、こう寒くては意志がくじけそうだ。
初夢に鳶がでてくるめでたさよ 裕
昨日の夕方、玄関に注連縄を飾り、正月を迎える準備も大方整ったところで、妻を誘って自宅から少し離れたシルビアという喫茶店に行った。そこで二人でコーヒーを飲み、ケーキを食べた。お金は私が大部分(1000円)を出した。昨年の春に私のお小遣いが3万円ほど上がってから、妻とこうして喫茶店へ行く機会がめっきり増えた。
そこで妻に「日本語教師になりたい」という私の定年後の計画を話した。停年まであと3年ある。この間に日本語教師になるための勉強をして、検定試験に受かりたい。そして定年後は、主に外国で日本語を教えながら暮らす。
日本語教師はあくまでボランティアなので、定年後は退職金や年金で暮らすことになるが、それでも多少の小遣い稼ぎにはなるだろう。また、そうした経済的な問題を超えて、多くの人たちと語学の学習をとおして交流するのは素敵なことではないか。
このことはこの3年間、セブに語学留学して痛感したことでもある。私の場合、英語の学習をとおして、フィリピン人やアメリカ人の先生、韓国人、中国人の学生たちと交流した。そしておなじ日本人とも、異国の地でまた一味違った楽しい心の交流ができた。
何かを学習しながら交流の輪を広げるということはすばらしいことだ。これは語学の学習に限らず、俳句や短歌でもよいし、妻のように近所の人たちと畑仕事に精を出したり、書道教室に通うことでもよい。そうした交流の場をもっていれば、心の糧にもなるし、人生がますます豊かで楽しいものになるだろう。
さて、今年の抱負としては、日本語教師の勉強の他に、もう一つ、文学の創作ということを考えている。そしてできれば今年か来年中には同人誌を創刊したい。小説を書くということは、私の若い頃からの夢だったが、これも定年後の私の生きがいの柱にしたい。そのための助走をそろそろ始めたいと考えている。
具体的には今年から毎週日曜日の日記に小説を連載したい。かなりの長編になりそうなので、今年1年で完結するかどうかわからないが、とにかく失敗覚悟で連載小説をひとつ完成させてみようと思っている。また、同人誌という場を通して、よりゆたかな出会いと交流の場が生まれればと思っている。
これまで小説を書くことに消極的だったのは、これに熱中すると正業である教師家業の方がおろそかにならないか心配だったからだ。しかし、そうした心配をしていてはなにもできない。ときには「自己本位」を押し通すことも必要だ。
あとどのくらい生きられるか分からないが、幸い二人の娘たちは独立した。もうこの年になったら、あくせく他人の顔色をうかがいながら生きるのは馬鹿らしい。私もこれからは自分が本当に好きなことをして、たのしく自己本位に生きて生きたい。こんな手前勝手な話を、妻は「それでいいんじゃない」と了解してくれた。ありがたいことである。お茶やケーキのおごりがいがあった。
喫茶店から帰ってくると、次女がソファで寝ていた。警察官をしている次女は宿直明けである。しかし、さいわい元旦は1日だけ休めるらしい。看護婦をしている長女は元旦の早朝まで病院勤務だという。我が家の娘たちは働き者だ。社会の底辺をささえる仕事は大変である。働きすぎて体をこわさないようにして欲しい。
今年がどのような年になるかわからないが、私自身は健康を第一に考えて、多少は他人や社会のことも考えながら、自分のできることをぼちぼちがんばりたいと思う。
年越しの蕎麦を食べれば除夜の鐘 ふるさとの寺思い出したり
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