アナウンサー日記
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2001年07月30日(月) |
梅ちゃんのライブに行って来た!! |
WAHAHA本舗の梅垣義明さんこと、梅ちゃんのワンマンライブに行って来た。長崎では7年ぶりのシャンソンライブ。その日は長崎港で6500発の花火が上がるにもかかわらず、ファンの期待はそれを超えて熱く、会場の長崎市平和会館はほぼ満員だった。
私は梅ちゃんにラジオでインタビューし、似顔絵(似顔絵ページ参照)を描いたのが縁で「絶対ライブには来るように」と、梅ちゃんから命令されていたのであった。
会場に着くと、私が描いた似顔絵はきれいな額縁に入れられ、しりあがり寿さん(ご存知?)のイラストなどと一緒にロビーに飾られていた。聞けばその絵は梅ちゃんと一緒に各地のホールを回っているということで・・・これはもう、恐れ多いことである。
ライブは最高だった。きらびやかな衣装に身を包んだ梅ちゃんの爆笑トークに、職業歌手顔負けのシャンソン、飛んでくる豆、キャベツの千切り、靴下・・・。 アンコールは実に4回にも及び、3回目までは律儀に歌をうたっていた梅ちゃんだが、4回目では「お前ら早く帰れ!」と叫び、またまた笑いをさそうのだった。
だが、ショーが終わった会場出口では、拡声器を持った梅ちゃん自らが客出し。最後までサービス精神旺盛な梅ちゃんであったのだ。
梅ちゃんは、この秋にも長崎に来てくれる。今度はNBCビデオホールでのマジな(本人談)コンサートだそうだ。要チェック。
2001年07月29日(日) |
日本の夏・・・(未) |
2001年07月28日(土) |
坂本サトルさんと飲んだ2 |
坂本サトルさんは、「アンコールを絶対やらない」のだそうだ。
自分は、全力でライブをやっているのであり、最後の一曲が終わったときにはもう全精力を使い果たしている。だから、アンコールには応えられない。応える体力も気力も残ってない。かと言って、アンコールをするために最初から余力を残してライブをやるなんて、自分にはできない。予定調和は、まっぴらごめんだ。
だから、ファンのみんなも最初から全力で俺の歌を聴いて欲しい。俺が「最後の曲です」と言ったら、それがそのライブの本当に本当の最後の曲で、アンコールなんかやらないんだから、全力で集中して欲しいんだ・・・。
この言葉だけ聞くと賛否両論いろいろあるかと思うが、坂本サトルさんの歌を一度でも生で聞けば、きっと誰もが納得するだろうと思う。
「全力で歌う」坂本サトルの歌は、心の深いところに響く。カッコイイひとなのだ。
2001年07月20日(金) |
竹崎カニと氷川きよしクン |
「海の日」の今日、佐賀県は太良町に仕事で行って来た。
太良町の名物は、なんと言っても有明海で取れるワタリガ二と、温泉である。今日は「竹崎カニと温泉まつり」会場からのラジオ生放送なのだ。
このお祭りの目玉のひとつが、ゆでたてのカニを丸ごと一匹、先着1000名に配るというもの。今年は午前10時からの整理券配布に、なんと午前5時半から並ぶ人が出るくらいの盛況ぶりで、10時を待たずして行列の人数は1000人を超えてしまった。いつも思うのだが、「タダ」でもらえる品物へのサガンモンの情熱は凄まじいものがある。一方、それだけに主催者側も配布のしがいがあるのかもしれない・・・。 もうひとつの目玉が、ラジオ佐賀・川崎営業マンの努力で実った、氷川きよしコンサートである。東京から日帰りの氷川クンはちょっぴり「おつかれモード」だったが、相変わらずの力の抜けたトークとさすがの歌唱力で、炎天下、海沿いの特設ステージに詰め掛けた数千人のファンを魅了していた。それにしても、茶髪のギャル軍団が大挙して押し寄せる演歌歌手って、この人くらいだよなー。
今回、梅雨明け直後のイベントなだけに「ここはハワイか?!」と勘違いしそうなほどの強い日差しにめぐまれ、スタッフ一人当たり1.5リットルのペットボトル1本分位の汗は確実にかいたと思う・・・。でも、イベント終了とともに、スタッフ一同テキパキと放送機材を撤収し、名物の温泉で汗を流すことなく長崎に帰ったのだった(涙)。
10代の頃、自分は30才まで生きられない、と真剣に考えていた。
私は小学生の頃から「人は何のために生まれ、何のために死んでいくのか」いつも考えている少し変わった子供で・・・生まれてきたからには、命を燃やし尽くすような人生を生きるのだ、と強く願っていた。きっと自分には、天から授かった使命があるはずで、おそらくそのために無理をして早死にすることになるだろう、と思っていた。私は非常に激しい気性の持ち主でケンカっぱやかったし、思い込んだら絶対に譲らない頑固なところもあった。いかにもトラブルに巻き込まれやすそうな性格だったのだ。実際、私の手相は生命線が極端に短くて、占い師からも短命を指摘されたことがあった。
だが、結局使命は見つからないまま時は過ぎ、大人になって結婚もした。奥さんに「何のために生まれてきたと思う?」と聞くと「楽しく生きるため!」と即答され、ずっこける。「そんなこといくら考えたってどうせ分からないんだし、死んで見なきゃ分からないことかも知れないんだから、とりあえず死ぬまでは楽しく生きないとソン」という説明は至極もっともであった・・・。
やがて年もとったが体重も増え(笑)、もともとヤセ型でこけていた頬は逆にふっくらとしてきた。自分でいうのもなんだが、最近の自分は、少年時代とは打って変わって、話し掛けられやすい柔和な顔になってきたと思う。
ある日、ふと手相を見ると、手のひらの半分までしかなかった生命線が、うっすらと伸び、手首まで続いていることに気づいた。どうやら、運勢が変わったらしい。30才まで生きられないはずだった私の寿命は、劇的に伸びたと思われる。
きょう、おかげさまで33才になった。自分の生まれて来た理由は未だに分からないが、人間を含むあらゆる生命は、生きていくことそのものが目的なのだ、と思っている。今は長生きがしたい。長生きすればするほど、色んなものを見たり、色んなところに行ったり、色んなひとに会えるからだ。
そして、少年時代とは違い、今の自分には守るべき存在もある。
2001年07月15日(日) |
ノートン先生は困ったチャン(未) |
2001年07月04日(水) |
がんばれあかりちゃん 1 アザの話 |
私の娘、まもなく2才になる明夏里には、生まれつき、左顔面のかなり広い範囲に青紫色のアザがある。ちょっと見た感じには、ひどい打撲のようにも見えるし、普通はお尻にできる蒙古班が顔にできたようにも見える。
このアザの名前を「大田母斑」という。
モンゴロイド特有のアザで、特に女性に多い。原因は分かっていない。蒙古班と違って成長しても治らないのが特徴で、むしろ成長するとともに範囲が広がり、濃くなっていく傾向がある。
「大田母斑」の治療は長い間決め手が無く、患部をドライアイスで凍らせてアザのある皮膚を削り取る手術法が一般的だった。この方法は、大人でも悲鳴を上げるほどの激痛をともなう割りに、大きな効果は期待できなかった。削り取った皮膚が青黒く再生するとまた削りなおす治療の繰り返しで、数年に及ぶ治療の痛みに耐え切れず、結局断念する患者も多かったという。
数年前、レーザー光線による画期的な治療法が発明された。「黒色」に向かって飛んでいくレーザー光線の特性を生かし、「皮膚の黒い部分だけをレーザーで焼き、再生を待つ」というものだ。この場合、ドライアイス法と違って、再生する皮膚の色素は少しずつだが確実に薄くなっていく。完全にアザを消すには、3カ月おきに5回から8回ほどのレーザー治療が必要だが、100パーセントの効果が期待できる、夢の治療法だ。
難点は、レーザーで照射できる範囲が一発につき直径2ミリほどの大きさの円形なので、アザの範囲が広い場合、一回の治療で数百発のレーザー照射が必要であること。また、ドライアイス法ほどではないが、かなりの痛みをともなう。痛みの感覚はひとによって異なるものだが、「太いゴムを思い切り引っ張って、顔にぶつけられた感じ」という感想をよく聞く。一回や二回なら我慢できない痛みではないが、それが数百回続くとなるとやはり大変だ。一方、「顔の広い範囲の、しかも皮膚だけに効く部分麻酔」というのは存在しない。部分麻酔を行うなら、レーザー照射とほぼ同じ数だけしなければならず、神経の集中した顔面への注射はこれまた相当痛いものなので、部分麻酔をすることに否定的な医師が多い。さりとて、全身麻酔の実施については、大きく意見の分かれるところである。
さらに、レーザー治療の機械は数千万円する高価な外国製で、そのため治療費も跳ね上がる。私の娘のようにアザの範囲が広いと、保険の適用が受けられない場合(病院や都道府県によってかなり異なる)、完治まで150万円から300万円かかるということだった。
もうひとつ、私の娘には左目の白い部分にもアザがあるのだが、「黒い部分に飛ぶ」レーザーの適性から、誤って黒目部分を焼いてしまう危険性が高く、眼球へのレーザー治療はいまのところできない。(続く)
6年前の7月4日の夜、父は日付が変わる前に病院で息を引き取った。
「その瞬間」を、私たち家族は気づかなかった。昏睡状態の父は静かに、いつの間にか亡くなっていた。ナースルームで心電図をモニターしていた看護婦が「心臓が止まった」と血相を変えて飛び込んできて、私たち家族はやっとそのことに気づかされた。ただちに電気ショックなどの蘇生措置が施されたが、再び父が目覚めることはなかった。
享年65才。3ヶ月の激しい闘病生活の幕切れは、意外なほど静かだった。
母が父の寝巻きを脱がせ、入院前に注文していた一度も袖を通したことのない新しいスーツに着替えさせた。ダンディな父にふさわしい3ヶ月ぶりの背広姿だ。だが、ポカンと開いたままの遺体の口は、どうしても閉じることが出来なかった。
通夜と葬式は葬儀社の会場で行うことになったが、一晩だけでも父を家に帰してやろうということになり、真夜中、遺体を長崎市内の実家のマンションに運んだ。
葬儀社スタッフとの打ち合わせが終わったのが午前4時頃(葬儀社は24時間営業とのこと・・・ご苦労様です)。夜も白みはじめ、ほんの2,3時間だけでも横になろうということになった。私はおやすみの挨拶に、居間に寝かされた父の顔の白い布を取り、・・・一瞬息を飲み、「お父さんが」と叫んだ。
病院でどうしても閉じることができなかった父の口が微笑んでいた。無表情だった目元も緩んでいた。まるで湯上りのように気持ちよさそうな顔だった。それは「奇跡」と言っていいほどの、劇的な表情の変化だった。ガンであることが分かって以来見たことの無い・・・いや、ひょっとしたら私が知る限り、一番ステキな父の笑顔であった。
ふと、「ああ、お父さんは満足して死んだんだ」と胸落ちした。ちょっと短かったけど、いい人生だったのだ。でなければ、こんなに嬉しそうな顔で死ぬはずがない。父が死んで初めて、私の両目から涙がぽろぽろとこぼれてきて、止めることができなかった。父が昏睡状態になってから亡くなるまで、ついに会話を交わすことはなかった。したい話がたくさんあった。父の人生のこと、やがて生まれてくるだろう孫へのメッセージ、私たち残された家族への別れのことば・・・。
だが、父の死に顔は、なにものにも変えがたい素晴らしいメッセージだったと思う。
6年後のきょう、父の七回忌をした。
本当の命日は7月4日なのだが、出席者の都合などで、命日に一番近い日曜日を選んだ。とはいえ母の希望もあり、集まったのは私たち家族と親戚あわせて8人だけの、こじんまりとした七回忌だ。会場は実家のマンションである。
お経を読み終わって和尚さんが帰られると、姉が父の遺影を見て「お父さんが笑ってるような気がする」と言った。
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