Diary?
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最近、ささやかに戸惑う出来事が続いたので報告する。
■まずはキッチンにて。ペンネを茹でていると、なぜか毎回ペンネが総立ち。揃った断面が恐ろしくて戦慄する。この現象を「ペンネ柱が立つ」と名付けてみた。
■続いてもキッチンにて。フライパンで焼いていると、あまりにも見た目が「おやき」あるいは「大判焼き」に酷似してきて、一体自分は何を焼いていたんだったか、ふとわからなくなる。チーズはんぺんですけど。
■練習しているカラオケ屋にて。時々ファミリールームに通されるのだけど、今日は何だか喪失感。いつもはこの子供用プレイスペースにはトーマスがいるはずなのに。彼の身に一体何が。容赦ないお子様方にフルボッコにされたのだろうか。
在りし日のトーマス
私はほとんどお菓子を食べる習慣が無いので、ちょいと小腹が空いた時にはパンや麺などをおやつとして食する。家にいればトーストを焼いたり、小さなおにぎりにすることもある。外にいて近くにあれば必ず選ぶのが、はなまるうどん。はなまるの小うどんは、味・量ともにおやつにぴったりでお気に入りだ。
今日も午後の半端な時間にお腹がすいて、はなまるに立ち寄った。「青唐しょうゆうどん」なる新メニューが発売されていたので試してみる。すだちと大根おろしに青唐しょうゆ。予想以上にハラペーニョ度が強く、顔から汗が噴き出す。これはなかなか癖になりそうな旨さだ。
旨いのは良いのだが、顔をタオルでぬぐいながらふと思う。 今の私は 「とてもあっさりした、冷たいうどんを食べている」 のに、 「首から上が滝の汗」 である。
チゲ鍋をつついているわけではないのだ。見た目はすだちしょうゆうどんと見分けがつかないだけに、なんだかわからないが言い訳をしたくなる。「これ、青唐なんです!こう見えて辛いんです!」…いや、誰に対しても何についても言い訳する必要などないのだが。熱くもなく赤くもない食べもので汗だくになるのは、何故だか罪悪感を伴うようだ。でもまた食べよう。
以前、芝浦の職場に通っていたころ、昼休みによく運河沿いを散歩した。 ある日、ランドセルを背負った学校帰りの小学生、1年生か2年生くらいの男の子二人が運河をはさんで両岸を歩いていた。たぶんおしゃべりをしながら帰ってきて、橋で分かれて寂しいのだ。運河越しにおしゃべりをはじめた。
「ねえ、話をしようよー!」 「うん、いいよー!」 「あっ、みてみて、あそこにゴミが浮かんでるよー!」 「ほんとだー、きーもちわるいよねー!」
なぜだか時々この光景を、周りの風景や温度やちょっと臭い運河の匂いとともに思い出す。
私には子供がいないし、これからも子供を持つことはないだろう。だから親の気持ちにはなれない。それはもう、どうやったって無理。子供がいない人にはわからないと言われたら、それでおしまい。だから親じゃなくて、他人として一人の大人として後の世代のことを思うしかなくて。
子供が好きか、という問いは、なんだか漠としていて答えようがない。親戚の子供や友達の子供といった直接関わりを持った子供、なぜだか覚えている運河の子供、あの子たちのことは好きだ。でも他の子供のことは、知らないから。子供たちを「子供たち」としてひとまとめに考えることができないのは、私が親じゃないからかもしれない。
とにかく大人になってほしいと思う。大人になって、理不尽で不条理でくそったれのこの世界に一度は絶望して、それでも楽しいことや嬉しいことや美しいものも少しはあるもんだと、驚きをもって発見してほしいのだ。親だったらたぶん、子供に絶望なんてしてほしくないと思うだろうけれど。
後の世代のために「良い世界」を残すなんてことは傲慢なんじゃないかと思う。どうしようもない世界の中で生きる楽しみを見つける力、きーもちわるいゴミを指差して友達と笑い合う力、どうかそれが失われませんようにと、祈るしかない。「子供たち」のためじゃなく、運河の此岸と彼岸でおしゃべりをしていたあの子たちのために祈ってる。
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