日記×エッセイ...みち

 

 

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つらつら - 2017年05月31日(水)

またネコさんにメロメロになってきました。
ただし主題はそっちではなく。(たまりませんでしたが・・・なんなんだ、あのかわいさは!)
世田谷にて「身体は露呈する」クラス参加してきました。

おもしろかったです。
特に残っているものとしては、

・乳がんになってその後の選択が普通の人には見ない、超カッコイイ(とわたしは思いました)女性の話

・クライエントの手を感じながら、クライエントの肘や肩を感覚するジャックさん
(習いはじめの頃に見てたら神秘的に見たり、ジャックさんだからなーとか思ったりするかもしれないけど、今だと「すごい」と思いつつ、経験していったらできそうな気になっている)

・過去の出来事を今に使う必要はない、ということ

・パーキンソンのおじいさんの施術前と施術中の表情と体の動きの変わり方

この辺りかなー。
あと、家族に施術するというのは、対等さみたいな部分で難しさがあるということも思い出しました。こちらは習ったことではなく、自分の経験を思い出したという感じです。

仕事としてやっていくといいよみたいなことをジャックさんに言われ、自分でも考えてはいるので(とはいえ、どこかの部分では「やらないことで何かを得てる自分」も感じているのですが)「お金を貯めます」と答え、それに対するジャックさんの答えを聞いて、「あ、そうか。聖霊さんにお願いするの忘れるなあ。」と気づき、お願いねーと思ってみました。

そして帰りの新幹線の中で、何気なく石井ゆかりさんの占星術をアプリで読みました。
わたしの生年月日の財運、それからお金との関わりの部分を読んだら、「あー、こりゃお金を貯めてからとしてたらいつまでも始まらないわ」
と思いました。
(コツコツ貯めてそれからとか、そういう類の関係性(お金との)ではないため)

とりあえず、わかりやすくてありがとう。考えるのをやめられます。
でもそうすると方法がよくわからないので、また引き続き任せます。

(というか、やらないことで何を得てるんですかねわたしは)

あと、どうでもいいようなことをひとつ。
言葉を使って体を感覚していってもらうということに関しては上手にできていると思うのですけど、「おもしろい施術ができない」と思っている自分がいます。わたしにとって「おもしろい施術」というのはああいうもの、というのがあって、それができない、みたいなところになんだかこだわっています。

いやあ・・・おもしろさをそんなにわたしにとって重要にしてるんだなとわかると同時に、これまで自分自身から生み出すことにおもしろさを求めたことはなかったので新鮮でもあります。
(行う事柄がおもしろいかどうかというのは求めてましたけどね)
だって、求めれば「受けられる」んだもの。受け手としては「おもしろい施術」は受けられる状況になっています。それができる方をたくさん見ていますし、職業でボディワーカーをすでにされている方のプレゼンシングソマティクスの施術で「おもしろさ」を感じるんですよね。

わたしがそれをやらなくてもいいのに「いいなー」って思うんだなあ、ということを思いました。

と書いて、・・・あれ?「やらなくていいのかな?」と思いました。
やらないといけない、という必要なことみたいなことではないんだな、単にこれまでの人生でわたしはやってこなかったことで、やりたいことなんだなってことがなんかわかりました。
なんか興味深いのは、「わたしはそこに興味ない」としてなかったか?と過去の自分を思い出すことです。いやはや変わるものですな。

わたしの求めてる「おもしろさ」って、なかなかおもしろいものを指してるかもしれない。


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ACIM Lesson141 (121と122の復習) - 2017年05月29日(月)

知恵熱なうです。
風邪?なのかな。鼻水がふいに落ちてしまう感じなのでティッシュが大切です。
ジャックさんのところでのわたしと、職場バージョンのわたしとの温度差で風邪を引いたんじゃないか、くらいの感じです。外側の温度差が大きいというよりも、自分に温度差があるというほうがしっくりしていて、環境によってこれだけ自分を変えているんだなと思います。

朝いつも通りに仕事へ行って、なんだか不思議な感じがしました。いつものわたしじゃないんですよね。こういうわたしが職場にいる・・・みたいな違和感。自分で自分のどこにそう感じたのかわからないですが。
段々といつものわたしに戻りそうになっていたのですが、まだ戻り切っていない感じがあります。戻らなくていいんですけども。
ちなみにこの感じは覚えはあって、母が亡くなった頃にもわたしはこうなりました。

一昨日ACIMのクラスを受けて帰ってきて、お休みを家で過ごしていたら、わたしは自分のからだに「ごめんなさい」と言いたくなりました。
「うわーん!ごめんなさいー!」というレベルで言いたくなりました。というか言いました。

なぜなら自分の傲慢さがすごくわかったからです。
傲慢さがあるから、わたしは自分のからだをこう扱っていたのだな、からだはどう反応していたかな、とそういうことが見えたから。
どのようにわたしは自分のからだと接していたのかがわかったから。

そしてごめんなさいの後の、今日のACIMのワーク。Lesson141。

「私の心は神とともに思うことだけを抱く」

「赦しこそ幸福へのカギ」

「赦しは私の望むすべてのものを差し伸べる」

からだに対してわたしが、ごめんなさい、と思ったこと。
それが「罪ではないよ」となったとき、罪でなくなったそれは、わたしの望むものを差し伸べてくれることになるなと納得する感覚になりました。

というのは、もう気づくことができた今しか見えなくなるから。
「気づいたこと」しか残らないから。
赦しが起きて、それを罪と扱わなくなったとき、気づいたね〜って祝福されている感覚になりました。

この感覚が消えないうちに、また31日に東京へ行きます。風邪っぴきのままかしら。
ある意味、時期を集中的に通う今季クラス。


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ACIM集中クラスに参加してきました。つづき。 - 2017年05月28日(日)

昨日の続きです。

わたしは「手をあてて感じる」というシンプル極まりない瞑想で毎回のように涙が出ます。昨日もそうで、また泣くんだなあ、と思いながら涙を拭きました。

今朝、目が覚めて。
昨日のワークをやってみようとふと思いました。手をあてて感覚するワーク。
初めは、昨日不快感があった丹田。それと一緒にハートチャクラに手を置きました。そうして布団の中にいるままで感覚してみました。

手の温度、そして手のほうでは体から感じる温度を感覚して、呼吸の出入りで体が動く感覚を感じて。

そうしたらやっぱり涙が出てきました。
やっぱり泣くのね、と思い、ふと、首にもやってみたい、と思いました。
というのは、以前ワークをしていただいた際にわたしがいちばんリリースしたのが首だったからです。
以前起きたことは以前のことなのですが、その時も例えば喉が痛いだとかそういうこともなくわたし自身は特に気にしていなかったので、ある意味今もそれと似た感覚ではあるのでやってみようかな、と思いました。お腹とかはお腹壊して痛いとかがあるので手をあてる機会はあるのですけど、首ってあまり自分では何もやってあげてないのですね。鍼灸ではやってもらっていますが、わたし自身がわたしの体に自分から参加するという意味では、首に対しては何もしようとしていなかった、という感じ。
何も起こらなければそれはそれで何かを確認できる、とやってみました。
今日も喉はやはり痛いわけではなく、でも風邪の引きかけみたいに喉が少しいつもと違うかな?という感じがあり、頭の後ろ側だったり首の後ろ側に手を置くと心地がよくて手を置いていたいなあという感じがありました。それからパソコンをよく使うということもあって、首の凝り自体はあります。
首の背面に手を置いて感覚してみました。

丹田とハートチャクラに手を置いたのと同じように感覚してみます。
手を首の後ろ側に沿うように穏やかに手を置いて、手の温度を感じて、手のほうでは首の温度を感じて、とやりとりをしてみました。

丹田とハートとの比較にならないくらい、ぽろぽろと涙がこぼれました。

んん???

そのあと、今日のACIMのワークの文章を読んでも泣く始末で。

こ、これは・・・?と起きてから第五チャクラを確認してみました。

第二チャクラ以上にまんまでした。
ちなみに参照させていただいているサイトさんはこちらです。

自覚としては、表現に困ったとか、言いたいけど我慢したとかそういうことはあまりなかったので、表現のチャクラである第五チャクラをそれほど気にしたことはなかったのですが、読んでみたら当てはまるものしかありませんでした。まんまのことを日記でも自分で書いていますし・・・「相手に怒られたくないから怒らせないように」とかね。

第五チャクラもコミュニケーション。そして言葉を発信することだけじゃなくて、相手の言葉に耳を傾ける、というのも第五チャクラ。
それから言葉だけではなく、触れたり芸術だったり、そのようなことでのやり取りも第五チャクラ。
ああ、わたしを示すチャクラだ、と思いました。わたしは本を読む時もそのように読みます。その作者とのやり取りを自分の中で楽しむ、みたいなことをします。

わたしは基本的に他者に興味を持ちにくくそれは弱点でもありますが、一方で他者を変えたいとかそういう欲求は出難い感じがあります。
個人主義というか。

でも、昨日このようなワークを他者に行なってその人が変化をした、印象が穏やかなものに変わった、朝のその人と何かが違うということを感じて。
そこに一緒にいることができたこと、わたし自身はその人を変えようとか思うこともせずただ一緒にそこで参加して変化を見せてもらって。

それが、本当に素晴らしい、本当に美しいと思ったんですね。
(わたしもそのように誰かに見せられていたらよいな)

占星術でわたしの火星は魚座で、弱いところ悪いとされるものにスポットを当てたくなる、そこに隠されている宝物を見たくなる、みたいなところがあるのですが、今回のクラスでは自分自身に対してその魚座が発揮された感じがしています。

それはジャックさんの表情を見て感じたことで、わたしはその時に自分の言っていることには気づかなかったのですが、ジャックさんの表情を見て「・・・あれ?」って思って、自分が言った言葉に意識を向けていました。
そうして、「・・・ああ、なんかわたし随分離れたところまで来ちゃってたんだなあ。そしてそこから動こうとしてるんだなあ。」って思ったのでした。
弱いところに惹かれるようなところがあるわたしは、今も一緒にいるそうしたこれまでのわたしに対して、そうしてまだ弱弱しい足取りながらも踏み出そうとしてるわたしに対して、とても愛しく感じました。

やっぱりこれを仕事としてやりたいものですなあ・・・。


あと、もう1個書いておこうかな。昨日のクラスでわたしに起こったこと。
手を当てて感覚するだけの簡単な瞑想のとき、その感覚をキープしたままでどのように周りのものが見えるのか、見え方がどのようにいつもと違っているのか。そして、その感覚をキープしたままで何が聞こえるのか、ということに意識を向けました。
見え方は、とても穏やかな視線でいつもよりソフトフォーカスで、心も落ち着いていて、みたいな感じでした。
わたしがおよよ?と思ったのは「何が聞こえるのか」というもので、クラスの中でシェアはしなかったですが、とりあえず鳥の声が聞こえて、葉擦れの音が聞こえて、それらの普通にも聞こえるものがより鮮明に聞こえてきました。

そして、その聞こえるものの奥に「静けさ」が聞こえました。他に音が聞こえているのに、同時に静けさが聞こえました。

言葉で表現するとそうなってしまうのですけども。
心が静かというのもあるのですけど、耳から聞こえるような感覚で「静けさを聞いた」と感じたのですけど、他の方々はこういうのをどう表現しているんですかね。。。



ACIMを学んでいる人にとっては、自分が聖霊と共にあるという感覚、聖霊に自分の体を通して行ってもらう、そういったものを自分の体の感覚を通して感じられるので、ジャックさんのワークはとてもおすすめです。
また、ACIMをジャックさんのように説明されている人や書籍をわたしは他に知りませんし、話を聞いている際に感じられる感覚を含めて、この上なくしっくりくるのです。

ちなみに今日も
「聖霊さん近い。近すぎるほど近い。パーソナルスペースって概念ご存知です・・・? うーん。そんなに近くなくても、、、」
という感覚で過ごしています。



追記。

他も読んでみよう、と先ほどのサイトさんを参照して全チャクラの説明を読んでいます。
もう一度じっくりと読み返してみると、自分に重なる感覚があります。あまりそういうことにはならないけどわかるなあというものと、わかるところあるなあというものと、よくわかる!というものとがあります。わからないなんてものはないです。まあ、バランスが取れているとき、取れていないとき、どちらかには少なくとも当てはまりますしねえ。
一度読んだときは「自分には当てはまらない」「しっくりこない」としていた文章も、そこで言いたいもの、エッセンスとしてはわかるものがあるぞ、と読めました。

今日は1日中ずっと眠くて、だらだらを楽しんでいます。録りためていたTVでも見よう。


さらに追記。

クラスでいただいた資料を読みました。まだ途中ですが。
わたしは本当に間違っていました。
鍼灸に通うことになった経緯と重ね、自分の体に感謝があふれました。
わたしはこの体と共に生きたい。


...

ACIM集中クラス「身体の役割」に参加してきました - 2017年05月27日(土)

ACIM集中クラスに参加してきました。
今回のお題は「身体の役割」です。

始発の新幹線に乗って行くつもりが、起きた時間が新幹線の発車時刻の20分後でした。(二度寝しました)
きゃー!発車時刻に間に合わなーいと用意しようとしたら、その時点で間に合っていないということに気づき、じゃあいいや、ええとこれから乗れそうな時刻は・・・と検索、チケットの手続きをしたり遅れますと連絡をしたりしてゆっくりと向かいました。

確実に間に合わないので落ち着いているその一方で、からだにはある感覚があって、あらら、罪悪感が出たぞ、ということでその感覚を感じることにしました。

ちなみに、今日のコースのワークはLesson139。
「私は私自身のために贖罪を受け入れる」
I will accept Atonement for myself.
まんまだのう。

からだに出てきた感覚は、それを感覚してみても特に変化はしませんでした。
体の感覚としては変化はしなかったのだけど、マインドは変化して罪悪感の感覚からは少し空間を持つことができました。
そんな感じのまま、少し遅れてクラスに参加しました。

今年のACIM集中クラスは、なんかわたしにとってはすごく来ます。ジャックさん、攻めてくるなあって感じです。
前回わたしはちゃぶ台ひっくり返したくなりましたが、今回は「おえー」って感じがします。体感として、内臓が動いて気持ちわるい、そんな感じ。前回とは違って、気分としてはすっきりしています。

今回も傾聴のワークが中心です。
ペアになって言葉で話すことをもう一人はただ耳を傾けて聞くというものと、相手の体に耳を傾けて聞くというものとをしました。
こうしてやってみると、わたしは人の話を聞くの好きだなあって思います。それは普通におしゃべりしているのを聞くということに関してというよりは、耳を傾けて相手の方が本当に言いたいことを聞くということをするのが、わたしは好きかもしれないなと思いました。

一緒にクラスを受けてきている方に対して、これまでと話し方の印象が違うぞ?と感じたりして(なぜ声や話し方の印象が変わるのかがわからないのだけど)、人が変わる姿というかそういうものを見せていただけると、自分の励みにもなるなあと思いました。

ハンサムな子猫ちゃんが今回はクラスの開催場所にいらっしゃってるので、とろとろになりました。
写メは撮りませんでしたが、完璧に脳内に保存されております。最高です。近々あるクラスにまた伺うのでまた会えます。
(第一の目的がネコさんに会うことになっている)

クラスの帰りの道のりで、今朝寝坊した時の罪悪感のことを考えました。
わたしは今朝何に対して罪悪感を感じたのかというと、新幹線チケットの払い戻しが特急券分はできなかったので、3000円くらいを失った、そのことに関してでした。無駄にした、という罪悪感。

これは、自分では驚くことでした。
「罪悪感を感じるの、クラスに遅れることじゃないんだ?」
「え?3000円のためにわたしは罪悪感を感じるの?」

3000円。
わたしにとって少ない感じがするわけではないけど、でもちょっと何かを節約したり調整したりすれば生まれるような額だし、そのためにわたしは罪悪感を感じてまで?みたいなことを思いました。
あんまり気分良くないですよね、罪悪感。3000円と引き換えに罪悪感を感じる、その価値はあるか?それって釣り合ってる?と考えてみても、いやあ・・・?としっくりきません。

謎だったのと、まだからだに朝の感覚が残っていたので見つめてみました。
お金っていうことは、第一チャクラ関連なのかしら?って。

で、第一チャクラ関連の情報を照らしてみるのだけど、どうもしっくりきません。
安心感がどうとかとか幼少期になんたらとか説明を読むのですけど、どうもしっくりきません。

お隣の第二チャクラ?とまた照らした時に、あ!これだ!と思いました。

感情とか欲求とかですね、第二チャクラ。
そのままを、ただ受けとる。

知性でそれを制御しようとしたり、コントロールしようとしたり、、、まんま今自分自身に対して取り組みたいテーマのことが書いてあるわけですけど、なんかその説明を読んでいて思い出したのは子供の頃のことでした。

わたしは子供の頃、「自分のやりたいことをやる時にはそれを無駄にしてはいけないんだ」と思いました。
それは自分のやりたいと思ったことが経済的なことが理由にされて許してもらえなかったことだったり(結局はできましたが)、ゲームとか遊び道具を買ってもらったら、安いわけでもなくて自分が欲しいと言って買ってもらったのだからちゃんと長く遊びなさい、と言われたこととか、そういったことが思い出されました。

クラスの参加は、わたしがやりたくてやっていることです。内容は、自分の好きなことです。
「それなのに、そのための費用をわたしは無駄にした」
罪悪感、これか、、、と思いました。
こんなの全く忘れているのに、守ろうとしてたわけでもないのに、ずっとこうして言いつけを守ってきたんだな、と思いました。

ということで、今、ハッキリと丹田の辺りに痛みではないけど感覚があって、そして気持ちがわるいです。

そんなわけなので、今夜はボディフォーカシングしながら眠ることにします。
今日は傾聴のワークをして、体の感覚を通してACIMを経験するということを学んで、そうして朝のわたしよりも自分の体の声に耳を傾けることができるようになって。
そしてそのきっかけは朝に起こって。
計画してできない類。


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鍼灸にっき - 2017年05月26日(金)

先日でお願いしていた実験くん期間は終了したのでお礼を伝えたのですけど、今日治療院へ行ったら、

「(施術の実況を)言うほうがいいですか?」
「まだあと1回、頼まれていた期間あると思ってた」

とおっしゃるので、

「言ってもらえるならそれに越したことはないです」
「はい、まだあと1回あります!」

と答えて今日も実験くんを続行させていただきました。おら幸せだー。

施術としては通常のプレゼンシングソマティクスとは少し異なっていて、まあプレゼンシングソマティクスを習っているのがクライエント側のみという変則形態であるからそりゃそうだなのですが、それはそれでおもしろいことになってるなと思いました。
鍼灸師さんがマインドフルネスをご存じな方なのでできるのですよねー。いやあ偶然ってすごい。自分が意識的に探し求めていなくて見つかるときのしっくり感がすごい。
これを意識してもできればいいなー。執着や期待から離れられたらいいなー。そんなことを思っています。

鍼灸師さんにわたしの体にワークをしていただきながら、わたしは鍼灸師さんが「今」わたしの体に触れていることから体感で感じられることを、さらに伝え返したり確認したりしながら深く感覚できるようにわたしのほうでも聞いていきます。
そしてわたしはわたしで、鍼灸師さんからのそれに対する返答を聞くと同時に
「その同じ部分でわたしのほうはどう感覚しているのかな?」
と自分に問うていって感覚していきます。
(これも言葉かけしてもらえると助かることがわかったから、様子を見て追加でお願いするかもしれません)
以前、実験くん数回目の時。その時はこれと似たようにやったけど「しまった」感がありました。「あれはわたしが自分の体を感覚するところから抜けてしまったからだな」と今日はそんな感じがしなかったことから気づきました。


超楽しいのですが、

わたしだけかしら、この楽しい感じ?

という思いが頭をよぎります。

でもまあ少なくともわたしは全開で楽しいし、他のクライアントさんに対してもそうなのかもしれませんが鍼灸師さんも素の部分だろうものを見せてくれるので、まあこれでいいっぽいなーという感じでいます。
わたしがお客さんなのだから、わたしだけが楽しくてもいいのでは?と自分に聞いてみるけど、「NO」なんだって。

変な話、鍼灸をしに行っているはずなのですが、お互いにフォーカシングしてる感じで、わたしはフォーカシング大好きなので楽しいのでした。


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ACIM Lesson135「もし私が自分自身を守ろうとするなら、私は攻撃されているということです。」 - 2017年05月23日(火)

If I defend myself I am attacked.

こちらも超好きなワークです。
このワークの説明に出てくる言葉のひとつひとつが、全部マーカーで引きましょうか?というくらい、その通りなので楽しくなってきます(?)

「あなたが将来の計画を立てたり」
よくやりますよ。

「過去のことに影響力を与えたり」
過去にこんなことがあったから、なんつって今に及ぼす力を過去によく与えます。

「現在を望み通りにまとめようと試みている時には」
超やりますねー。

このワークをしている日に、
「こういうことをしたら(しなかったら)この人は以前に怒ったから、怒られたくないからわたしは先にこうしておいたほうがいいな・・・」
みたいなことをふわっと思いました。
ワークをしていたから、ワークと自分の思いとの差がはっきり見えて、うわーめっちゃ防衛!と気づいたので、その時に「やったほうがいいな・・・」と考えていたすべて、行うことをスッパリやめました。

そうしたら、とても楽で!
起こるかどうかもわからないことに対して恐れている、そこから離れられてとても楽で。
もういいや!怒ってきたら怒られよう! そう決めた時の自分の内側のしっかりした心地。

これを選ぼうって思いました。


「からだが果たせない役割や、手に負えない目標をからだに割り当てて、その期待に応えてくれない!と攻撃する。」

文章でみるとなんという理不尽、と思いますけど、自分のやっていることを振り返るとそういうことをじゃんじゃんしていて、うわーと思いました。
それと同時に、うわーと思うけれども、ちゃんとそういう時に気づけるといいなと思うのでした。


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ACIM Lesson134 「赦しをありのままに知覚することができますように」 - 2017年05月22日(月)

今日はとても好きなワークです。そしておもしろかったです。

「赦す」ということがどういうことかということを説明されています。

「憤りを感じるのは当然なことに対して、不公平な犠牲を負わせること」
「正当化できない不相応な贈り物」
「真実を完全に否定したこと」

赦すというのはそういうことではないよ、ということが説明されています。
それらの導入の文章から、もうわたしはウキウキしてきます。


「錯覚ではなくて、真実を赦さなければならないと信じている」
「罪を本当だと思っているから、赦しをごまかしだと見ている」

そうだよなあ、って思います。

「罪が実在しないということが、赦すことを自然で健全なものとする」

ほんとにそう!
本当に、自然。

「許してください」「許してあげよう」そういうやりとりではなくて。
「私は罪と思っているんです」「罪じゃないですな」みたいなやりとり。

前者だと、やっぱり罪をやり取りしてるんだよなあ。
後者だと、罪の存在がなくなっちゃうから、罪でのやり取りではないんだよなあ。
そしてこのふたつから感じられる感覚も、それぞれからまったく違った感じを得られます。

どちらの感覚が好きかといったら、後者のほう。軽やかで、赦される側でも赦す側でも、すんごく楽ちんな感じがあります。ずっと持っていなくていいし、偉そうにならなくていいし、卑屈にならなくていいし。普通の、体に力みのない、自然の自分でいられる。

今日のワークは、次のようにお願いすること。
「赦しをありのままに知覚させてください」ってお願いすること。

今日は日中なぜかイライラしてきて、この人の発言や行動でわたしはイライラしているな、ということはわかるのだけど、なんでそれで自分がイライラしているのかがわたしにはわかりませんでした。
だから、「わたしはなんでイライラしてるんだろう?」って思っていました。

今日のワークもカードにして、ポケットに入れてたし覚えていたので、
「赦しをありのままに知覚させてください」
と繰り返しました。

そうしたら、あ!と思うことがあって。

最近わたしは、「わたしには、物事や自分の体だったりをコントロールしようとするところがあるなあ」と思っていました。
コントロールできる、というといい意味でも使いますけど、わたしが嫌だなあと思っていたのは流れに沿うのではないコントロールで、例えば自分の体だったら体の傾向を踏まえないで一方的に従わせる、思い通りにする、みたいな、そういうことをするなあ、それもうやりたくないなあ、そう思っていたところでした。

今日の日中のイライラは、わたしのその「コントロールしたがりの部分」が刺激されたのだなと気づきました。
自分がコントロールしたいのに「他人にコントロールされた!」と受け取ってイライラしていたようでした。

意識できる部分では、「わたし、もういろいろコントロールしたくないなあ」と最近しばらく思っていたので、今日、「他者にコントロールされた!(怒)」と反応してる自分を認識できた時、とてもおもしろくなっちゃいました。

えー、これ、コントロールしない練習ができるじゃんねえ!

そう思っておもしろくなっちゃいました。

そうしたら、イライラする(=相手に罪があると思いたくなる)ことが終わってしまいました。

これが今日のわたしの、赦しの知覚です。
赦しのありのまま。
単に、「コントロールしようとした」それだけだったね、という。そこに罪はなかったなあ、という。

対象が同じでも、それを罪にすることもできるし、練習相手にすることもできる、じゃあどちらで扱うのかという、本当にそれだけなんだなあ、みたいな。
そういうことを思った本日でした。


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今日見た夢(眠ってみるほう)とACIM - 2017年05月21日(日)

今日見た夢。

女性3人と共に、チェーンのコンビニで働いています。店長だけ男性です。
店長は、たくさん話す押しの強い女性(外部の方)の相談相手になっています。
わたしはそれを見てその女性に対して、気を引いてずるいなーと思いながら、その横の道をてくてくと枕を抱えながら歩きました。働いているコンビニへ向かいます。

お店につくと、わたしの他の店員の女性3人は店内で何かおしゃべりをしていて、わたしが帰ってきたので、じゃあ帰ろうかーと手を洗うために水道へ皆で向かいました。わたしは手を洗うために、枕をそっとカウンターの奥の台の上に置きました。
わたしはそこで働くことは初めてで皆に倣う感じです。
そのコンビニは忙しい時間だけ4人+店長で動かしていて、ピークを過ぎたら1人だけ働いてみんな帰るというコンビニでした。まだ日も明るくて、15時とか16時くらいの感じ。同じチェーンのほかのコンビニは24時間営業なので、なんかおもしろいなと思いました。



で、起床。

ずるいなーと思った感覚はとてもわかる感じがありました。

そして、わかるなーと思った後に、
「そうか。こういう時のわたしは、愛というものを、失うもの、奪われるもの、早い者勝ちなもの、得るために手段が必要なもの、と思っているんだな」
と思いました。
うおー、思ってたわー。

そんでもって、“これで仮に「失った」としても、その失うようなものをわたしは欲しいの?”と自分に問うてみると、わあ!微妙!と思いました。

夢の中の店長さんは、神の投影でしょ?わたしにとっての。
神さまにわたしの話を聞いてもらいたい的な。聞いてもらえてないと思ってる的な。
そう思ってみると、ACIMで述べられている神さまと全く一致しないので、なかなか興味深いものがありますです。


ちなみに、この夢を見た後の今日のACIMワークは、Lesson133。
「価値のないものに価値を置かない。」
I will not value what is valueless.

ですよねー!

(全然関係ないですが、原書で value と valueless と言葉を重ねてきているのを公式翻訳はちゃんと言葉を重ねて表現されていて、わたしは公式版のそういうところが好きです)

今日のワークの解説文では、価値のないものとあるものの見分け方が書かれていて、「全世界を包括する高邁(こうまい)な概念について話すのではなく、あなたにとって利益になることについて話をする。」と語り始めます。
なんかもうわたしは心の中で、・・・というか声にも出してましたが、歓声を上げながら読みました。
きゃー!イエスさんすてきー!
そうなのよ!概念について話されると、これまで自分がすでに学んできたものがあるからなかなか・・・という感じがあるのですよ!
きゃー。すてきー。

若干、テンションがおかしいのは認識しています。


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つらつら - 2017年05月18日(木)

駐車場から職場までの道。
通常ルートで行くと、信号待ちをすることがとても高確率で起こります。3、4分くらいなのかな、じいっと待たないといけない。それが好きではないので、少し遠回りだけど止まらずに歩いて行けるルートを歩いてみました。
とても気持ちが楽です。体を動かすことを「健康のために」と言いますけど、気持ちも上がって、職場についたらテンションが高かったという。
テンションが高くなった理由はもうひとつあります。
(ほおー、テンション上がるんだなーって思いました)
良き朝でございました。また、向こうルートで行こうかな。



今日は鍼灸に行きましたので、実験くん。

うーん。
受ける側のわたしがさぼってしまったなあと反省しているところ。もっとわたしが言葉を出して、鍼灸師さんが今何を感覚しているかを聞いていったりしないと、わたしの望んでる感覚とは別の方向へ行くよねえって思いました。そりゃそうだよな。これが一般的な施術でのやりとりだとは思うのですけどね。
(鍼灸師さんの手の動きが早い感じに戻ってしまいました)
プレゼンシングソマティクスを受けているとき、自分の感覚にだけ集中すればいいのはとてもありがたいことだなと思いました。

鍼灸を受けている時に話していた内容は、わたしの好きなものなのでとても楽しかったのですけど、普通のおしゃべりでのやりとりになってしまったなあという感じです。
楽しかったけど、やっぱり「あの感じ」じゃないんですよね。
「あの感じ」があった上で、今日の楽しさもあるとよいなー。

そんなわけでソマティクス的に施術を受けるということに関してはもう一歩という感じだったのですが、他の収穫は多かったと思います。
「自分自身を好きじゃない人が、自分自身を好きになるには」みたいな内容の話を鍼灸師さんと今日はしたのですが、体に触れるということと自分自身を好きになるということとのつながりを思ったりとか、自分を好きになることとマインドフルネスのつながりを思ったりとか、ふとACIMを思い出して、自分自身を知らないから嫌えるのだなと思ったりとか、まあいろいろ思うことができました。

ということで、「自分を好きになる近道」の今のところのわたしの答え。

1、自分のからだとの関係性を変える
(からだの感覚を通して自分を好きになる)

2、周りの人と関わろうとする
(自分ひとりだけでやっていると超時間がかかる)

うーむ。思った通りにいかなくても充分なのだわ、これは。
いつもいい質問をしてくださいます。そしてその答えをわたしは「私」から聞ける、みたいな。ありがてえ。



ACIM。
今日はLesson130。「ふたつの世界を見ることは不可能です。」
It is impossible to see two world.

今朝ふと思ったこと。

「世界Aを見たり、世界Bを見たり、そうして両者間を行ったり来たり動いているということは、世界Aを見てることがある、そのように思えるけど実際は“見てない”ってことだよなあ・・・」

見たり見なかったりを選んでる、ということに少し疑問を感じました。
だから、今日は片方だけを見る、そう意識しました。
午後になって、ちょっと雲行きが怪しくなったのだけど、誘惑を感じた時に用いる言葉の助けを借りて、望んでいないものの存在を傍に感じながら、もう一度、自分の望んでいるものを見る、ということをしました。
誘惑はそこにあるなあと感じながら、望んでいるものを見ました。


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「ひよっこ」 - 2017年05月17日(水)

見よう見よう録画しよう、と思っていたのに最初のほうは忘れ続け、奥茨城編はまだ見ていないのですが(時間ができたらそのうちオンデマンド)、今は録ひよを連日楽しんでおります。

脚本が岡田さんって時点でわたしの好きなものだということはわかるのですが、今日のひよっこはとてもよかった。
これまでの放送でも「泣いた」とかSNSで感想を見ていたけど、わたしはそこまでではなくて、いい話で好きな話だけど泣くほどではないなという感じでした。
初めて今日のお話で泣きました。

ひよっこに流れる甘やかな空気。
これにわたしはとても覚えがあります。
ずうーっと昔の子供の頃の記憶だったり、ジャックさんやこいとさんから話を聞いているときの感覚だったり(特に、わたしの母が亡くなった頃の時に受け取った感覚)、とてもそれは覚えがあるもので。
のび太のおばあちゃんも思い出す感じだなあ。

少し前のひよっこで時子が豊子に言った言葉でも感じたのですが、
「あなたは自分をそう思っているかもしれないけど、それは違うのよ」
「本当はこういう人でしょ?」
って、自分自身では見えなくなっているきれいな自分、かわいらしい自分を見えるようにしてくれる、あの感じを今日のひよっこでも感じられました。

みね子(有村架純ちゃん)が時子に、「わかっけ?」って言うところで泣けてきます。
「わかるかな?」とかの標準語にない、方言による親しみみたいな感覚。それで浸透力がさらに増すというか。
ACIMを福島弁にして読んでみたらどんなだろう?とか妙なことも思う次第です。(変な興味)

TVとかに比べて見ている人数は違うかもしれないけど、という部分にも、ああ、って思いました。
見ている人は少ないかもしれないけど同じことをしているんだよ、っていう。

わたし自身も、人数とかさ、目に見えて見える効果、そういうものに目が行きがちで、興味がないと言いながらも結局そこに目が行きやすくて、そうして自分がもうすでにしていることを見られなくなりがちだから、だからこの感情が出るのかもなあって思いました。

目に見える効果って、他者に対して証明できるんだよね。
証明。
今のわたしにとってはただ本当にそれだけだったなあ、と思っているところです。証明かあ・・・。
それだけのことなのに、執着するんだなあ。

「わたしはわたしなりに行くしかないんだな」って改めて思うことができた、今日のひよっこでした。
それから、わたしが与えたいもの、与えられたいもの、だから学びたいと思っているものも、新たにわかったって感じです。
こんな風に、自分の内面を刺激してくれたり見えやすくしてくれたりする物語が大好きです。


...

つらつら - 2017年05月16日(火)

ヒヤリハットについて、職場で話を聞きました。
そういうミスは起こるだろうとは思うのですが、それに対してのミスをした方の反応がわたしの想像しているものとは少し違っていたので驚く、ということがありました。

驚いた一方で、自分がやったという確信がないとそういう反応になるなあとも。
そして、あープレゼンスじゃないということか、と思いました。

自動車を運転する人は経験があるかもしれませんが、自動運転モードに自分がなるときがあります。何かほかに考え事をしていたり、はたまた疲れていたりして、運転している意識が薄いままいつの間にか家に着いていた、みたいな。
それと似ているのかな?と思いました。

「自分をプレゼンスに戻すという作業をところどころに入れる」「マインドフルネスで業務を行う」というのがミス防止にいいのかも?と少し思ったので、気にしててみようと思います。

(というか本を貸すか)



昨日も鍼灸に行きましたが、忙しそうで時間も押している様子で、「今日は実験はなしでお願いします」と言われたので、残念ながらセルフでプレゼンシングしながら鍼を受けました。

うん!物足りない!(笑)
これまでずっとやってきて、満足してたのになセルフ。まじかー。物足りないのかー。
鍼の効果を感じられてるので、効果というところではどうなのかわからないのだけど(通常がどうなのかがわたしにはわからないから)、物足りなさという違いを感じました。おもしろいものだなあ。

ということで、わたしにとってはこれもまた実験と確認になります。
「果たしてそれぞれの違いを、わたしはどのように感じているだろうか。」
壁がない、一方はある、そんな感じかな。
ふーん。何に壁を感じるんだろうな。

わたしは冷えてしまいやすいのであまりいろいろと鍼ができないみたいで、それが悩ましいと鍼灸師さんがおっしゃっていました。
抵抗が出てくるときは、より小さい動きで。
ジャックさんのこの言葉を思い出します。
プレゼンシングを使うと、わたしのようなクライエントに対してより効果を出せるのかもしれない?という仮定が出てきたので、その辺も少し気にしててみようかな。
鍼灸師さんが「わたしも勉強になるので」と言っているのはこの辺なのかしら。

今回のことで確認できたのは、声掛けがどれだけ助けになるか、ということですね。たとえクライエントがやり方を分かっていたとしても、声を掛けられるということがどれだけ助けになるかが実感できました。
それから、やりとりがあるということから得られる感覚ね。すばらしいね、やっぱりね。




今日の夢は「結婚することが決まったのに(自分で同意したのに)、結婚したくない!」という夢でした(笑)

感覚として、とてもよくわかる夢でした。
相手の人とは一度だけしか会っていなくて、顔も覚えていません。そして、
「困ったー。決めちゃったのに結婚したくないー。」
と思っています。
一度無理だと思っちゃうと本当に無理な自分を知っているので、そして一度決めたものを変更することが不得意なので、そして相手の人に申し訳なくて、わたしは困っています。
(この感覚がよくあるパターンなのです)

そんな感じのまま相手の人と2回目お会いしました。容姿は正直なところ好みではないのだけど、いい人なのです。一緒にいて楽しいし、わたしに無理がないし。
でも結婚・・・と夢の中で躊躇していました。

で、夢から覚めて起床。
前回の日記を何気なく読み返しました。
あ!と思ったのがこの部分。↓


無理やりだったり、痛みがあったり、そうしたことを「与えること」としているさまをたくさん見てきました。「そうしないといけない(無理やりじゃないといけない、痛みがないと覚えない、恐れさせないとやらない)」という価値観とか。
そうして「与えられる」ことにわたしは嫌だなって感じていました。
もちろん、わたしのことや与えようとしてる相手の方を思ってくれているということや、与えようとしてくれること自体に関しては、それはとてもありがたいことです。それに、そうやって「与えてもらった」ことはわたしの役に立つものも多かったことは確かだなと感じます。

ですが、あんまりうれしくなかったというのが一緒にあるので、わたしは自分が誰かに「与えること」がしたいとは思いませんでした。「わあ!わたしも与えたい!」って憧れはあまり出てこなかったのでした。



これに似た構造が、「結婚」と「愛」というもので、自分の中にあるなあと思いました。そして、この先に続く文章と同じ展開でもありそうだなと。
当てはめてみるとこんな感じ。↓


できてない、やっていないって思ってきたから、結婚をしたいと思わないで来ていたから、「愛すること自体をしていない」「愛そうとしていない」、意識の奥でそういう思いがあったことに気づきました。
でも、結婚とは別のかたちの愛し方を目にしていた、経験していた、それらのことを認識したときに、「あ、わたしもそれをできていたかもしれない」って。「それなら愛するってことをできるかもしれない」って。その気づきにも感謝があふれました。

それから、「マネをする対象」も近くにいることに気づきました。自分の心よりも近く、自分の手よりも近いところに。(← Lesson125の内容)
「いない」って思っちゃうなあ。



なるほど。
自分のことながら興味深いです。


...

ACIM Lesson126 「私が与えるものはすべて自分自身に与えられる」 - 2017年05月14日(日)

今朝目覚めて、いちばん最初に思ったことは、「与える練習をしたい」ということでした。
それから、「与える」ということの意味合いは、これまで長くずっとわたしが思っていたものとは違うよ、ということも一緒に思いました。

無理やりだったり、痛みがあったり、そうしたことを「与えること」としているさまをたくさん見てきました。「そうしないといけない(無理やりじゃないといけない、痛みがないと覚えない、恐れさせないとやらない)」という価値観とか。
そうして「与えられる」ことにわたしは嫌だなって感じていました。
もちろん、わたしのことや与えようとしてる相手の方を思ってくれているということや、与えようとしてくれること自体に関しては、それはとてもありがたいことです。それに、そうやって「与えてもらった」ことはわたしの役に立つものも多かったことは確かだなと感じます。

ですが、あんまりうれしくなかったというのが一緒にあるので、わたしは自分が誰かに「与えること」がしたいとは思いませんでした。「わあ!わたしも与えたい!」って憧れはあまり出てこなかったのでした。

そうしたことを(布団の中で)思っているうちに、気づいてきたことがありました。
それは、自分が憧れるような「与えること」をしていた人たちのことをわたしは全然気づいていなかった、ということでした。
わたしは何もそこに感じていなかった。当たり前のことのように、大したことないことのように感じていたなあって、それに気づきました。

それらのことがそうじゃない、「大したことないこと」ではまるでないってことは、もうわかります。

わかるぞって認識をしたら、これまで「あまりうれしくなかった」というものさえも、全部引っ繰り返ったような感覚になりました。
そのありさまはわたしにとってうれしくない、それは変わらないのに、です。
そこじゃなかった、みたいな感じです。
(うまく言語化できないシリーズ)
あまりうれしくなかったことも、うれしかったことも、当時は何も感じていなかったことも、ぜーんぶ含めたうえで、それらに感謝が止まらないというようなことでした。



今朝、夢も見ていました。
わたしはバイオリンをしていて(現実では弾けません)、椅子を何列か作って音楽室みたいな室内で練習していて。
「こうやったら、このようになる」というような弾き方ではなくて、マネしてその場でやったというだけだから、同じようにできるかはわからなくて、どうマネしたかとかも覚えていなくて、わたしは心配になりました。
またマネをしてと言われたらできるけど、マネをする対象がそこに一緒にいないとマネができないなと思いました。
隣の席の子と仲良くなったり、席を変わらなきゃいけなくなったり、小さなバイオリン弾きの男の子とハグしたり、席の並びが3次元ではありえないことに夢から覚めてから気づいたりしました。



これらのことは布団の中で起こりました。
それらのことを経由して体を起こし、椅子に座り、今日のワークは何かな?と読みました。


「私が与えるものはすべて、私自身に与えられる」
All that I give is given to myself.

「これが本当だと習うに必要な手助け(をしてくれる方)は、今私と共にいてくれる」
The Help I need to learn that this is true is with me now.

「だから私はその方を信用する」
And I will trust in Him.


与えられていることに気づいて、与えられたことに感謝をして、そうしてからこの言葉を読んだので、「ああ、わたし、自分から与えることができているのかもしれない」って思いました。
できてない、って思っていたのですよね。やっていないって思っていたのですよね。あんな風に与えたいと思わないってきていたから、与えること自体をしていない、と思っていました。でも、「あんな風」ではない与え方をしてもらっていたことに認識をしたときに、「あ、わたしもそれをできていたかもしれない」って。「それなら与えるってことをできるかもしれない」って。その気づきにも感謝があふれました。

それから、「マネをする対象」も近くにいることに気づきました。自分の心よりも近く、自分の手よりも近いところに。(← Lesson125の内容)
「いない」って思っちゃうなあ。

自分を通して与えられるように、今よりももっとなっていきたいですけど、少しずつちゃんと自分でも馴染んでいかないと、自分が与えてもらっていることへの感謝でずっと泣いているようにも思います。

別に、泣きっぱなしというか、涙が漏れてる状態でも構いはしないといえばしないのですが、それでは視界がよくないのでやっぱり泣かないくらいには馴染んでいきたいなあと思います。

見えてることしか見ていなかったなあ、ということをこうして書いていたら気がついたのですが、一方で、見えてることも見ていきたいです。


...

つらつら - 2017年05月13日(土)

年単位で久しぶりに、知恵熱みたいな頭の痛み?重み?を体験中。以前はよく経験していたのだけど、とても久々です。眠いです。
どういうときにこの感覚が出るのかなあと思っているところ。
この体感のするときは仕事とかミスをしやすいので気を付けないとなのですが、こまごまとミスしました。

今週はなにか絶好調だけど、落ち着けって感じです。
失敗しても落ち込まないけど、落ち着けって感じです。
この絶好調で失敗しても落ち込まない感覚で、そうしてもう少しだけスピードを落としてやりたい感じかなあ。
この「絶好調」の感覚も、年単位で久しぶりです。
「絶好調」の感覚には失敗も一緒にくっついてきたりしがちだったので、あまり好きな感覚ではなかった(警戒する感覚だった)のですが、今は前ほど嫌ってはいないかもしれないなあと思いました。

あ。ちょっとわかった。
「絶好調」だから失敗があるんだ。
失敗って何にとっての失敗かといったら、エゴにとっての失敗。
コミュニケーションの機会なわけだから、失敗は失敗ではないのよね。
それに、以前はエゴが今よりも鎮まる機会が少なかったから、失敗は「より痛みがあるもの」だったかもしれないなあとか。




今日のACIMのワークは、傾聴って感じのものです。

Lesson125「今日、静かに神の言葉を受け取る。」
In quiet I receive God's Word today.

今日はワークの時間に、God's Word を傾聴するぞ、と意識すると、わたしの頭の痛み?重み?が軽くなる感じがあって、ん?それってどういうこと?頭の重みはエゴのなにやら?とか思っていたのですが。
耳を傾けることでエゴが鎮まるからかもなあ、と少しだけ思いました。わたしにとっては、頭痛に効果があるACIM。




「これって変じゃないですかね。お母さん大丈夫かなって思って。」と話してもらったお話しがなんだかとてもいい話でした。まったく変と思わない(むしろ素敵だなと思う)ものでした。
でも、物質的にある、ない、という視点だけで見ると「変」ってなるのかもしれないなあとも思いました。
全然変じゃないよ、いい話だなあって思う、と伝えました。


...

鍼灸にっき。 - 2017年05月11日(木)

現在、施術をしていただく時に、通っている治療院の鍼灸師さんに実験に協力していただいています。
先日鍼灸を受けたときは満足感しかなかったのですが、ふと振り返ったところ、あ、これはいかん、と思ったことがありました。

わたしはクライエントなのに、プラクティショナーみたいなことをしてたことに気づいたんですよねー。施術にクライエントも参加するという意味ではいいと思うのですけど、そうではなくて・・・。

ええと、鍼灸師さんに、その時に感覚していることを言葉で教えてくださいってお願いしてたんですけど、施術中に鍼灸師さんご自身の体の感覚のお話しをされたことがあって、それについてわたしもどんな感覚かに入っていく言葉がけをしてしまって、おーいどっちがクライエントだよ!ということになってたことに、後から気づきました。

フォーカシング楽しいので、わたしは声かけするの好きなんですけど、自分がクライエントなのに「自分の体について」ではないことにそれをすると、やっぱり妙な感じがあるんですね。自分の体をより感じるためのヒントとして問うことであるならまた違うとは思うのですが。
交代で、とかではなく、混じっているとちょっと妙な感覚があるなあって思いました。

クライエントはちゃんとクライエント役をしないといけまへん。

プラクティショナーとしての練習はしていたけど、クライエントの練習をしたことはなかったので(そりゃそうだ)、「ああそうか、こうすると混ざっちゃうんだ!」と気づいておもしろい経験でした。

ということで、鍼灸師さんに少し修正しますとその旨を説明をして(少し話すとすぐに理解される方なので、わたしはとても楽ちんです)、今日また受けてきました。
ちなみにこのお試しは、4回分ほどと期間を決めてお願いしています。
ありがたいことに、鍼灸師さんにも「勉強になる」と言っていただけて、一方的にわたしの実験君を押し付けていないようでよかった〜と一安心しております。

そんなわけで、今日は受けているときは「うん」とか「はい」とかそんなもんしか言葉を発していなかったのもあって、うっかり眠りに落ちそうでした。
基本わたしは施術中寝ないのですけど、全然話しかけてもらわない時よりも超眠くて、終わったら寝起きのようにふら〜っとしました(笑)

体に当てている鍼に自分から「会いに行く」、鍼灸師さんが触れている手に内側から触れていく、そういうことを今日は(こっそりと)やってみました。言葉で実況すること、鍼灸師さんがわたしの体を感覚したときに感じられている感覚を言葉にしてもらうことをリクエストしているので、いつもよりも触れ方がゆっくりになります。なので、こっそりそれがしやすいのでした。
これまで鍼灸受けている時もセルフで意識してやっていたのですけど、「手を感じる」というのは正直難しかったのでした。感覚して内側から触れてみるということをするには動きが早かったので。

どこに鍼があるかわからないときには、どこにあるのか、どの方向に向かってあるのかを問いました。
いや、聞いたところで感じられなかったですけど、その情報を受けて、感じられるのかな〜どうなのかな〜って探っていく感じを得ました。

わたしが「体が緩む」「楽になった」という感覚は、それが強いと必要な分まで全部出て行っちゃう、みたいな感じなのかもなーと思いました。

あんまり説明をしていないので鍼灸師さんから質問をされるのですけど、すごくいい質問が来ます。

「(プレゼンシングソマティクスって)何が目的のものなの?」

もくてき?

聞かれて思ったのは、わたし今、目的とかソマティクスに考えてなかったなーということ。
でも、そうか、目的はなんだろうなーと改めて思いました。

「ずっと実況していくというのは、そうして確認していくということなの?」

かくにん?

うーん、確認してるけどそれがしたいわけじゃないなあ・・・。

どちらにも答えは出ました。そうだなあって感じ。
ひとつは聞かれたときに答えられたのですけど、自分で答えておいて「ああ〜すごいいい答えだ。」と思いました。

あと2回受けられます。わーいわーい。


...

昨日の日記の振り返り。 - 2017年05月09日(火)

頭では解決してるのだけど、もやーっとした罪悪感(自分がそういうことを考えたということに関して)だったりが、昨日書いている時点ではありました。
自然になくなるのを待ってたんだけど、今日は待つ必要がないことに気づきました。

罪悪感は、過去から来ること!

ということで、今日はそれを手ばなしました。
「愛とは、恐れを手ばなすこと」を読んでいて、ちょうど書いてあったのでそのやり方で。
罪悪感等々を風船のなかに入れて空に飛ばしてしまうというもの。
さいなら〜と見送りました。イメージワークとか久しぶり〜と楽しみながら。
もし空中で風船が割れたとしても、中身は過去だから今には関係しないわーとかも思いました。




昨日の鍼灸。

昨日は、受け手としては充実感が半端なかったのでそれに夢中だったのだけど(受けたい施術が受けられたから)、ジャックさんのところで習っていない(知識として持ってらっしゃらない)施術者側としてはどんな感覚を感じられたのだろうなーと思っているところです。
(やってほしいことだけ伝えたけど、あまり説明をしていないのです)
とりあえず、あと3回くらい同じ感じで実験できないでしょうかとメールを送りました。

充実感は今日も保ったままで、ふと思い出したのはジャックさんの話していたこと。

何かケガをして、何かを楽しんでいるときにケガをしたときは治りが早い。
でも、同じようにケガをしても、それが辛いことや悲しいことと一緒にあるときはその記憶に執着してしまって治りが遅い、みたいなお話。

あー、今わたし、治りが早いモードになってるわ、と思いました。

それに、自分にちゃんとケアしようとする感じも生まれています。
うーん、わたし汗をかいてそこから冷えるのですけど、それに対処しようとしてなかったんですね。わかってるけどさーみたいな。汗かいちゃうんだもんだってー、みたいな。
でも、わかってるのだから、水はけをよくしよう、汗をかいてもずっと湿っていないようにしよう、ということで、昔買った絹の5本指靴下を履いてみました。
汗をかいても靴下が、あっさり吸収してあっさり乾く。
あっさり解決して、足から感じる感覚が超快適だし冷えない。
昔履いていたのだからわかってるのだけど、やらなかったのだよね。
昔履いた時は、外からの情報をきっかけに気になって履くようになった、という感じで、試すことが楽しくて始めたので試し終わったら別にいいやー、みたいな。
だから「わかっていてもやらない」感じだったかなと。知らなかったことを確認する、それは満足しちゃってたから。

で、今回は知識欲、体験したいから、ではなくて、心地いいから、が出発点って感じです。


果たしてこの次の日にも続く充実感はどこから来ているのか。
どこから感じられているんだろう。
受けたいように施術が受けられた、それだけのこと?本当に?と観察中。


...

つらつら&鍼灸にっき - 2017年05月08日(月)

これまでに感じたことがなかった感情があって、なんだろうこれは、としばらく観察をしていました。
感情の発生するきっかけとなってることは、このことから刺激されているなとわかる。でも、その感情がどうして出ているのか、どういう感情なのかがわかりませんでした。
戸惑いと、なんとなく漂う悲しい感じ、寂しい感じ。

それらを観察していたらいくつか見えてきて、その中のひとつはわたしの思い込みで。

わたしは、

・遠い距離があっても行こうとする
・お金をかける
・時間を費やす

これだけのことをしている、それだけの意欲がある、本気さがある、そうしたときに、「そうしたら、得られるものだ」と思っているらしいぞと気が付きました。
今回、それに対しての「単なる自分の思い込みの可能性」が見えて、それで戸惑ったり悲しく感じたりしていたようでした。

努力は実る。
夢は叶う。

純粋ではあるけど、ただそれだけでいいというある種の妄信さというのか。

ある部分ではこれまでと変わらない同じ考えだったりします。そこに向かいたいという欲求は、その人の才能だと思います。
距離があってもとか、お金や時間をかけることはそれだけ何度も繰り返してやっているわけで、それってトレーニングなわけですし。
「ただそれだけでいい、それだけで十分」というのも、言葉の使い方によってはそうだと思うのです。

ただ、妄信する相手?対象?・・・それに対して、それってどうなんだろう?それを信じてやってるってことか・・・と感じてがっかりしている・・・。
例えば、英語学習本を買っただけで満足するわたしみたいな感じ。
(やってないのに買っただけでやった気になる、みたいな)

この感覚のきっかけは、「なんか優先順位がおかしい」と感じたことからだったのですけど、信じてるものが別のものだから優先順位が違うのかもしれないな、と。
そう思いましたが、なんだかなあ、という感じが漂っています。

自分の持っていた期待にも気づきます。

一緒に。同じように。同じ速度で。同じものを見たのだから。

実際は、同じものを見ていないんだなって。
そう思う自分も出てきました。


今回この感情を感じてみて、なんか悲しい感じがしつつも得たことがあります。

・わたしは自分よりも先に進んでいる人を孤独に感じさせるようなことはしない、という思い
(今は離れているかもしれないけど、ちゃんと行くからね!みたいな)

・自分が大変だった時期に、どのように自分は接していただいていたかを思い出していこう
(自分も同じことをしていて、同じ道を歩いているということを認識した)

・同じものを見ていないように見えることもあるけど、同じものを見てることを再確認


先日のACIM集中クラスのときに自分自身に対して感じたものと、質としてはとても似ていて、あの続きのような気がしています。
いまだ消化中なのだな。




鍼灸にっき。

先日のジャックさんのクラスで、鍼灸をプレゼンシングで行うことへのチャレンジを見せていただきました。
ジャックさんがクライエント役で、鍼灸師の生徒さんが鍼を使って施術をしました。

(ちなみにわたしもその時に脈診のまねごとをさせていただきました。脈とか血管の感触とか、あんなに瞬間瞬間で(体感で感覚できるほどに)変化するものと思っていなかったのでそれもおもしろかったです。)

で。
わたしも今、鍼灸に通っているわけで。

えー。そんなの見ちゃったらわたしもお願いしたーい。
わたしもジャックさんが体験したことを感覚してみたーい。

と思ったので、早々にわたしがお世話になっている鍼灸師さんへメールしてみました。

わたしは思いたつと行動が早いのでそこに何の躊躇もないように見られることもありますが、内部ではいろいろと起こっています。

わたしは自分の本心を伝えるということをとても苦手にしています。
不和が起こることを恐れるところがあるからです。
だから、初対面で話すことは気が楽だし(そういう意味では人見知りをしない)、長く付き合うほどに難しく感じる部分が出てきたりします。

が。

「不和が起こること」
「起こるかもしれないと、起こってもいないときから恐れること」
それらに対する自分にとっての価値、重要度が最近高くはなくなってきていて。

それは、思い切って自分の本心を言ってみたらうまくいく、という成功体験が経験できてきてることも関与していて。
そもそもそんなに強い感じで自分の考えを押し付けるようなこともしないので、結構おもしろがられたり受け入れられたりしていて。
そしてわたしが相手の人にとって謎の人ではなくなる分、コミュニケーションも楽になったりして。

そんなわけで、今回も若干の「えいやっ!」と飛び込む感じを感じながら、結果を楽しみに待つ、みたいな感じで問い合わせをしました。

「治療体系と違っていたらごめんなさいだけど、できることは協力しますよ」というような内容のありがたいお返事をいただき、今日はレッツトライでした。

で、感想としては。

超!満足!
ある部分で、「成就!」という感覚がしました。

というのは、わたしは昔からマッサージとか整体などのワークを受けに行くと、どこか不満があったんですよ。
どこで不満を感じたかはわかるのだけど、それを施術者さんに伝えたとしても、罪悪感や正しさへの固執みたいなものを施術者さんに与えるだけであまり伝わらない、伝え方がわからない、みたいな感じでいたので、どうにもこうにもでした。

わたしはそういう感じだったので、
「癒しって何だろう?」
「どういうことで人(わたし)は癒されるんだろう?」
ってずっと思い続けていて、そこから心理的なことやスピ的なこと、そして痛みのないボディワークへと興味が向かったのですけど。

そうだったんだ!と今日思ったのは、
「自分がどのような施術を受けたいのかを、それを伝えられるようにわたしはずっとなりたかったんだ!」
ということでした。
わたしが受けたいと思っていた施術は、「共有する施術」「やりとりのある施術」だということもはっきりわかりました。
わからなかったのだから伝えられないわなー。

もともと、わたしの通っている鍼灸師さんには素養(?)を感じていたのですが、ここに「共有」というのを加えられたら!と感じました。
自分にとって無理なことは断り、無理じゃないかもしれないことにはチャレンジしていただける、そこがまずわたしが感じられた「素養」かもしれないです。
(なんでもかんでも言ったことをそのまま受けてくれそうな人だと、逆に言いづらくなるわたしです)

メールでは、「施術中にもっとマインドフルネスをやってみたいんです」というようなことを伝えていました。
今日お伺いしたときに、実は施術するときには(鍼灸師さんは)マインドフルネスになってるんですよ、とおっしゃっていて、そりゃあそうでしょうとも!と思いました。

わたしはマインドフルネスがやりたいのでそれがうらやましいんだよー!という自分の心の叫びを聞きながら、「それをわたしも共有したいんです!」と実際にも言っていました。

いやあ・・・すごい満足です。
なにこの満足感。
ここまで、これまでずっと奥底で自分が望んでいたものを感覚できるとは!という感じです。

鍼灸師さんは言葉の使い方が上手で、たとえ判断のような内容をおっしゃったとしてもそれをIメッセージで伝えてくださるので、その判断との間に空間を持つように聞けました。
そしてそういうように聞こえるということをわたしのほうでは伝えたり、鍼灸師さんがやっていること、今感じられていることと関係するような感覚があったら伝えたりすることができたし、感覚の表現がわたしにとってわかりにくいときには問いかけることができたり、鍼灸師さんは今そういうことをこの体の箇所で感じられているんだな、ということでわたしのほうはどうだろう?と体の感覚にも興味を向けることがしやすかったり、などなど・・・。
あと、そう! 共有できてる感覚。やりとりがある感覚を感じられました。

うーん。
ジャックさんのクラスを受けたことない方だけど、超うまくてすごーい!って感じでした。


...

ACIMにっき。 - 2017年05月07日(日)

CIRCLE OF ATONEMENT のACIMの続きを読みました。
ちゅうても、まったく読む時間を確保していない&わたしの英語力にて、いまだ超最初。
どなたか翻訳お願いします! Urtextのほうでもいい。どなたかー!
(「お医者様はいらっしゃいませんか!」的な気持ち)


・・・話を戻しまして。
この本を読んでいたら、こんな文章がありました。


兄弟を解放することは、解放された者の義務です。
It is the duty of the released to release their brothers.

赦された者は、贖罪の方法です。
The forgiven are the means of Atonement.


義務。
「やらなきゃいけないこと」。
そこには「やりたくないこと」という意味もわたしにとっては後ろに隠れていまして、それでわたしは「なんかなあ、、、」とこれまではよく思っていたわけでした。

でも今回、この文章を読んだときに、そうではなくて全く違ったふうに読めました。
自分の中で「義務」の意味合いが変わっていました。
「やらなきゃいけないこと」という言葉の意味は単に、「自然の流れがそうなので避けられないこと」ってだけなのかもなあ、と思いました。


それは先日起こったことが関係していると思います。
連休中にボディワークのクラスに出てきたことは前回の日記で書きましたけれど、その参加日の前日、同じクラスを受ける予定の友人からメールが届きました。
内容としては、今、明日のクラスのために新幹線で東京に向かっています、みたいな感じだったかな。

わたしは友人よりは世田谷に着くまでの時間は短くて済むので、当日朝に出発します。
それなので、そのメールが来た時間はちょうど「明日は始発だし、もうそろそろ寝ようかな。」ということを思っていた頃でした。

メールの返信には、ちょうどこれから寝ようと思ってるんだー、教わった手技を忘れてるけど今回は復習とかもしないで行くんだー、みたいなことを書いて送って寝ました。

そうしたら、それは彼女にとってはとても大きいことだったようで。
後から知ったのですが、その日彼女は「やらなきゃいけないこと」としてこれまで習ったことに関する復習をしようとしていたそうでした。やらないと自分は欠けている、そんな感じだったようでした。

で、わたしがのほほんと、「これから寝る」「復習しない」とか書いたので、「え! あ、・・・それでいいんだ。」と思ったそうでした。
これって許されることだったんだ、みたいな。

わたしとしては友人が何を考えていたのかは知らなかったし、単に自分がこれから寝ることを伝えた、それだけのことでした。
そんな感覚だったので、2日間のクラスの間に少なくとも5〜6回はそのことを友人に感謝され続けたことに、わたしは若干戸惑い(さぼって寝たことを褒められ続けることにあまり経験がありません)、最後のほうにはもうそれ以上言わないでほしい、みたいな感覚が出てきたりして(笑)、そういう自分にもおもしろいなと思いました。
自分が効果を狙ったことではないことで感謝されることに戸惑う、コントロールするだのしないだの、ということに価値がないことをまざまざと見せられてる感じで、「あー、これエゴだわー」と思いました。


ACIMのテキスト第一章で奇跡の原理を説明していて、そこに、意図して奇跡を起こそうとすると妙なことになる(ざっくりしすぎる説明ですみませぬ)、みたいなことが書かれてますがそれを思い出して、ああ本当だー、と思いました。

でもって。
そういったことがあったので、

兄弟を解放することは、解放されたものの義務です。
It is the duty of the released to release their brothers.

赦された者は、贖罪の方法です。
The forgiven are the means of Atonement.

これらの文章がこれまでとは違ったふうに読めたのでした。
復習しないで寝ることに罪を感じてないから、罪を感じやすい状態だった人がそれでいいんだーって解放された。

自分が「(贖罪の)方法」になるってこういうことかーと思ったし、おもしろいなあと思いました。

「自分が方法になる」っておもしろくないですか?
「ガスレンジになる」とか「インターネットになる」とかそういうことだよなあ、と思って、なんというか人なのに人っぽくなくておもしろいなーと思いました。


...

ヒーリング�兇離�ラスに参加してきました。 - 2017年05月05日(金)

連休中にまたも世田谷でボディワークのクラスに参加してきました。

今回のクラスでわたしが得られたものはいろいろあるのですが、その内のひとつは、トレガーの動きの練習でのことでした。

ゆらゆらと、クライエントのリズムで揺らすトレガーの動き。
わたしは、そのトレガーの動きができるときもあったりできないときもあったりして、できるときはなんでできてるのかわからないし、できないときもなんでできないのかわからなくていました。

わたしがそれをできないときは、肩に力が入ってしまって、肩に力を入れないようにすると今度は手がしっかりクライエントの体に触れなくなって、手でしっかり触れようとすると今度は足から動きを入れられない、もう相手のリズムもよくわからない、みたいな、すごくばらばらな感じになります。
できていないところをひとつひとつ個別で直そうとし、個別では直せたとしても全体性がないみたいな、もろにそんな感じ。

できないときは、相手のリズムに添いたいのだけどクライエントの体を押している感じになっていました。
押すとどんな感じかというと、ぎゅーってクライエントの体に強めに密着する感じと、それから逆に手が相手の体から離れてしまう感じとが交互にやってきます。
なので、共に動く、お互いがダンスをしているように動く、そういう感覚を感じられません。
どうあってほしいかというと、手がしっかりとクライエントの体に密着したままで、着いたり離れたりではなく共に動く感じです。

例えば受け手の人に、「押されてる感じがするなあ」ってご自身の感じられていることを伝えていただいても、わかる!わたしも押してる感じがする!って共感する感じで。。。
共感できるのはいいですけど、そういうものではないことで共感したいわけで。
こうじゃないってわかるけど、わかっててもどうしたらいいかわからーん、というね。
そこにどうやって行きつくのかがわからなかったのでした。



今回のクラスでわたしは受け手(クライエント役)になって、トレガーの動きを感覚しました。
そうしたら、それがとても!おもしろかったのです。
これまで習ったことあったっけ?と、とりあえず記憶にないことも入っていて、それはまだその動きを感覚することもした記憶もなくて。

自分の体が揺れて、そして自分の体の部分部分が個別にそれぞれ動いて、でも全体ではひとつの体でひとつの動きをしていて、臀部とか一塊のように普段は感じている体の部分が、「ここ、一塊じゃない!こんなに動けるんだ!」って臀部の組織がそれぞれ個別に動いている、そしてそれがお互いにつながりあっていることを感じられて、もう、超楽しかったのでした。
なんでこんな動きが出ることになるの!?みたいな。

これまで習ったことがあることもやったのですけど、そっちはそっちで「あ!そういうことだったんだ!そういうことをしてたんだ!」ってわかった感じを得られました。

クライエント役をした次は、わたしが施術者役になります。
初めからすぐに、わからない〜と煮詰まったので、教えていただきました。
そして、とても楽しくできました。とても楽しく「できました」。できたんですよー。
「どうしてできないかということがわかった」というより(わたしはずっとそれを求めていた感じでしたが)、「もうできる」って感覚を得られたし、もしまたできないぞ!ってなっても気をつけるところがわかった気がします。

わたしが気をつけること。
「難しくないよ!難しくしないように!」って思い出すこと。
超かんたーん〜、超らく〜、おちゃのこさいさい〜、って思い出すこと。

「そう思おう」とかそういうことではなく実際にそうで、自分が思っていたよりもっとシンプルでした。
単純、シンプルですが、そこからは複雑な感覚を得られます。
だからわたしはその得られる感覚から、「複雑なことをしている」と思いこんでいたのかもしれません。そんで「複雑なむずかしいことをしてるから、頑張らなきゃ!」みたいな思考が出てくる、と。

だから今回、「あれ?(笑) ・・・あ、違うん?」という若干の戸惑い。

耳にタコができるくらいに「足から動きを入れる」と聞いていましたが、今頃「ああ、本当だ」って思いました。
「手はほとんど仕事をしない」ということにも、「ああ、本当だ」と思いました。
テキトーですよ。テキトーでいいんですよ。プレゼンスで感覚しているなら、手の動きなどはもうテキトーでよくて、充分の働きはもうしてるのですよ。

全然、頑張らなくていい。
なのに、体のいろいろな箇所にすごく動きが出て楽しいの。
それから、少し前に自分が感覚した、すっごい楽しい動きの感覚をクライエントに与えられてる!という喜び。

楽しくて、「あれ?わたし、実はすごく上手じゃない?」とまで思いました(笑)

その時に教えていただいたのは、「必ずできるということを、初めにもう思ってしまう」ということ。
それを聞いて、本当にそうだなあって思いました。
必ずできるのだから、今ちょっとへんちくりんでもそれを許せて、そうしていろいろ試そうと実際に動くってことができるなあって思ったのでした。
どうしたらいいだろう、なにがいいんだろう、って考えるのではなくて。そしてそうして考えたことから動くのではなくて。

試してみたいなって動く時と、うんうん考えてそれを動いてみる時と、感覚って違うなあってことも思いました。



それから、最後にさらっとジャックさんが話したことで、自分の父の最期のときを思い出しました。
父が亡くなったときは本当に突然な感じで、母のときとは違っていろいろできた感じはわたしにはありませんでした。

その頃わたしはプレゼンスとかソマティクスとかもちろん全く知らなかったのですけど、知らないままにわたしは父に対して最後、「与えることができていた」って、それに気づいてちょっと泣きました。

たくさんの方々がこうした経験を体験してほしい、体験していることに気づいてほしい、と思いました。
ありがたいしかないもんな・・・。

クラスでの体験の一部を書いてみてこんな感じです。
すごーく楽しかったのでした。どうしましょう。


...

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