日記×エッセイ...みち

 

 

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つらつら - 2017年11月27日(月)

ACIM勉強会にて要介護3のお義父さんがいらっしゃる方のお話を聞いていたら、自分の中でなにか動き出すのがわかりました。
亡くなった母もそのくらいの介護度だったので、そこで何か刺激された感じですかね。

なんだろうな、これ。
と思いながら、自分の中に動いた感じを感覚していました。
あまり触れたくないような気持ちもしました。

勉強会が終わりました。
今週に出された宿題が「今という瞬間を思い出す」というようなものだったので、早速、今、今、と意識していたんですが、そうするとやっぱりそのもやもや〜っとした感覚があったので、「今」、感覚しました。

そうしていたら、なぜか胃の辺りがポカポカ温かくなってきました。

???

すごーくそれを解釈したくなる誘惑が出ました。
まずは百歩譲って「温かくなってるから恐れではない!以上!」という解釈をしました。そして引き続き、おなかを感覚しました。

そうしたら、ぽん、と出てきたもの。

「忘れてほしくなかった」

そして涙が出てきました。

認知症の出ている母と接していた当時、わたしはその「忘れてほしくなかった」という気持ちはわたしのエゴから来ているものだなあって思っていたし、それを母に言ったところで仕方ないし、母は自分の責任と捉えやすいからより緊張させてしまうだろうしで、わたしの中では誰にも言わないようにした声でした。
一応当時もそれを感覚してはいました。見ないようにしていたわけではありませんでした。

「わたしは、忘れてほしくなかった」

昨日、その言葉が自分の中から出てきたとき。
もう現在では母は亡くなっていて、もう自分の中で封印しておく必要はない状況で。

“これはエゴから見た視点だということはわかるけど、『でもわたしは!』”という強い気持ちが出てきました。

「忘れてほしくなかった」

その強い気持ちで、感じました。

その強い気持ちは、わたしは普段ほとんど持っていません。そしてお腹の調子がよくないことが多いです。
そして、今回お腹がポカポカしました。

どこか、なるほどねー、って感じがしますが、これって考えてできることでもないんじゃないかなあと思っている本日です。

そして、この文章を書いていたらまたお腹の調子が怪しく感じてきて、そして手足も冷たくなってきたので、うーむ、こっちじゃないのかもな、と感じました。

そうしてストーブをつけて冷たい感じに気付いていたら、ぽんと出てきたこと。

「わたしは、忘れてほしくなかった、と当時誰にも言いたくなかった」

というのが、「忘れてほしくなかった」というものと同じ、強い気持ちで出てきました。

そうして、お腹の緊張した感覚が緩みました。

コントロールをしたい頭の中のわたしはそれをもうどうしたらいいかわかりませんが(笑)、まあそうなんだなーと思っているとお腹は穏やかなのでそうしとこうかなと思いました。

少しわかったのは、わたしは矛盾を持っていて、その上、その片方を「正しい」としたときにもう一方を「間違ってる」と自動的にしてしまうところがあるっぽいぞと。
実際に体で感覚しているときにはそういうことは思っていなかったのに、書いてまとめていくということをしていたら段々と「忘れてほしくなかった」のほうを正しくする感じになってきていて、そうしたら当時のわたしの「それを母や誰かに言って母に伝わってしまうことは避けたい」という気持ちに対しての敬意が薄れてきてたなあという思考の流れに気づきました。

そして、そういうことをわたしは頻繁によくやるなあとも。
正しいものはひとつしかない、とどこかわたしは思い込んでいるのかもしれません。
もしくは、ひとつなのかもしれませんが、その「ひとつ」というのはもっとわたしの設定しているものより大きいものなのかもなと。

これが正しかったなら、これではない別のものは間違っているんだ、と自動的に扱ってしまうところがあるのかもな、ちょっと意識しててみようかなと思いました。

どちらも、それはわたしのもの。
(そうそう!って感じがしますし!)


...

つらつら - 2017年11月23日(木)

知人がしんどそうにしてるから、という話題でした。
その方の知り合いの方は、お付き合いしてる相手の人が喜んでくれるから自分はそれをするのが嫌なのだけどやっている、という感じの方ということでした。

「それって承認欲求でしょ?自分に自信がないから相手にやってあげて、でもそれじゃあしんどくなってしまいますよね」

わたし自身も承認欲求があるので、わたしもそれと似たようなことになるのってあるなあ、と思いながら聞きました。
そうなのよ、しんどくなるよねえ、みたいな。
しんどくならないためにこういう行動をするよねえ、みたいな。
でもこの話に出てくる方はわたしのような行動にはしないんだなあ、わたしよりも人とつながることへの価値観が高いんだなあ、みたいな。
それもいいなあ、と思ってみたり。

それらのことは特に言葉にして伝えてはないですけど、その会話があった後、じわじわと自分自身のことが自分が使った言葉を通してわかってきました。

わたしの辞書には、自分がやりたいことを諦める選択は載ってないようです。

その場は退いたとしても、なくそうとはしないということに気づきました。
(気づいていなかったことに気づいた)

今回の話だったら、それがたとえ承認欲求が混じっていたとしても自分がやりたいことをやらせよう、心地よくなるようにしてやらせよう、とわたしは自分自身にしているのだなと。

でももちろんこれは意識できているときの話。
承認欲求があるな、と認識していればそれがあったとしても別に問題がない、みたいな感覚ですかね。

やりたいことはやっていいよとして、むしろ嫌だなあと感じるもののほうに意識を向けてみる、そしてそれが取り去れるかどうかを見る。
そういう自分の傾向に気づきました。

「それって『今』嫌なものなのかしら?」
「過去の出来事から何か学習してそれを使ってるだけだったりしない?」
「それとも・・・?」

そう問いかけて、嫌だなあと感じてたものが「今」新たに感じてみるもの、「今」新たに感じてみようと興味を持つものに変化するかもしれない。
もしくは「やりたいこと」だったはずのものの興味がぎゅうっと激減するかもしれない。

そういうことをしてるなあ、と思ったのでした。

誰かと話すことで気づくことってわたしはだいぶ多いですねえ。
自分がいつもどうしているのか、ということすらわたし自身はよく知らないのだなとそう認識できるのは楽しいです(笑)



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ACIM自習とACIM勉強会 - 2017年11月19日(日)

ACIM勉強会での先週の宿題は、テキストの第十四章の終わり頃に出てくる祈りを用いたものでした。

「私には、これを含むあらゆることが、何を意味しているのか分からない。そして、それに対してどう応答すべきかもわからない。だから私は、自分の過去の学びを、今、自分を導く光として用いることはしない。」
I do not know what anything,including this,means.
And so I do not know how to respond to it.
And I will not use my own past learning as the light to guide me now.

という祈り。

そして、そうしたときにどうなっていくかを見ていくという宿題でした。
過去に依拠していないのだ、という認識をもって今にいる、という宿題。

わたしたちは思考を使って「わかっている」ということをよくします。
自分が「わかっている」と思うことで妨げをしてしまうということもよくあることです。あるあるー

ということで、一週間その宿題をして過ごしました。
(ちなみにわたしは宿題は超やるタイプです)

で、一週間どうだったかなといいますと。

「わからないぞ」
そう思うと、わたしは判断をしなくていいのでそれがとても楽でした。
物事の初めから判断を放棄しているというのは、わたしにとってとても楽でした。

「判断(良い悪いのジャッジ)をしないようにしよう」
これまではそう思うことが多かったのですけど、今回宿題をして感じたのは「しないように」というよりは、「判断してると疲れるから、わからないって場所から見るほうがいいわあ」というシンプルな感覚でした。
「しないようにしよう」と思うってことは「すること」に価値があるわけだなあと。
だから、わたしが価値を感じてる部分が少し変わったのかな?という感じもあります。
(変えようとしたわけではないですが)

この期間中にウィーンに旅行した方から景色の画像を送っていただいたのですが、それはわたしが普段目にするものではないからとても新鮮なもので、わたしは旅行などをあまりしないものですからもう馴染みがあまりないもので。
だからかもしれませんけどその画像から得られた感覚に、「今、わたしはこの感覚を感じている」と認識がとてもしやすくて。
「これは、今だ」って認識をしやすくて。
ありがたいなあと思いました。画像自体もとても好みだったのもあります。(秋色が好きなので)

頼みごとをされて、咄嗟に嫌だなあ、面倒だなあ、行きたくないなあ、と反応が出たときにも、その反応に気づいて今回の宿題をしました。
「この判断は過去の学びだなあ。今、この依頼されたことを新たに見るとしたらどんなかな?」
そう思ってみると、それまで出てきていた「嫌だなあ」という気持ち、その気持ちの底にある恐れの感覚は出てきませんでした。というか、どうなんだろう〜とむしろ楽しみなことになりました。

胃がなんだか通常しないような動きをして、それは特に痛みがあるとかではないのだけど通常しないような、馴染みのない動きをして。
それで恐れがやってくる、みたいなこともこの一週間の中にありました。
その時も、今回の宿題をしました。
そうしたら、やっぱりこの恐れは過去の学びから来ているものでしかなくて、今確かに馴染みのない動きを胃ではしているけど、頭で響いているこの考えは今の胃の動きのことに本当に関わってる情報ではないよなあ、と感じられたので、改めて今の情報、「わたしは今、胃の部分でどのようなことを体で感覚しているか」ということに意識を向けました。
意識を向けて感覚していると、それまでしていた馴染みのない動きは変化してなくなっていって、「体を通して今を感覚した」という名残りだけが残りました。

週末、わたしは職場の建物の4階に置いてある機械の清掃をする当番でした。清掃をし終えて戻るときに、何気なく4階にある窓から外の景色が見えました。
遠くの山や建物、それからよく晴れた青い空や、風がそよいで木々が穏やかに揺れている感じが目に入りました。
そんな何気ない、いつでも見ようと思えば見られる風景、自分の近くにいつでもある風景で、わたしはその時に「これが今だ」と感じました。

自然の中にいる、というのか。
大きな生命の中にいる、というのか。
人の思考する考えるマインドの中ではなく、もっと大きな範囲の中にいる自分というのを感じました。
自然の中にいるときに感じられるあの感覚は「今にいる」「今を思い出してる」感覚なんだ、と日常の、職場の建物の中にいるときにそう感じました。
そうして、幸せだ!と無性に感じました。
その日の夕方、職場に夕日が窓から差してきたときにも同じようなことを感じて、本当に「幸せだ!」と感じました。

その感覚を感じた後に、仕事をしながら自分の体の感覚に意識を向けてみて、血液がどくどくと体内を動いている感じとか、ざわざわと何かが動いている感じ、呼吸をしてその影響が体にある感じを見ていると、そこでも「わたしは生命の中にいる」と感じられました。
ああ、ここにもある、と感じました。

それらの感覚はわたしにとってとてもいい感覚で、この感覚は忘れないだろうと思っていました。そのあとで仕事帰りに鍼灸に行って、こちらの治療院の先生はこういう話を聞いてくれそうだからこのときの話を話そう!と思ったのですけど、ところがどっこい、あまりに自分から言葉が出てこなくて驚きました(笑)

「すごくよかったです」とか、、、。

自分が感覚して素敵だと感じて、職場だから泣かないようにするくらいの感覚に対して、それを表現しようとしたわたしの言葉との差に、ひ、ひどい・・・と思いました。(^_^;)

また、景色などから感じたその「今」の感覚がよかったので、次の日になってもその感覚を思い出したりしてて、思いっきり過去に依拠したくなってる自分を見たりして苦笑しました。しゅくだいは過去に依拠しない今にいるってにんしきだよー。

まあ、それらの経験をACIM勉強会でシェアしました。
勉強会では言語化できるというのはすごいなと思いました。
わたしがシェアをしてそれに対しての応答で、
「そう、わたしはそういう言葉を言いたかった」
「そういうことをわたしも感じていた」
同じものかどうかはわからないけど、自分の感覚したものとその返していただいた言葉はとても重なっていて、そう感じる言葉を返していただいたことで、自分が向かいたいところが見える感じもありました。

自分の経験から言葉にする、自分の経験にしっくりする言葉が自分から出てくる、ということにわたしはもっと慣れていきたいですね。

ちなみに、シェアして返していただいた言葉はこんな感じのものでした。↓
「生命を包容(抱擁?)し大事にして、そして今度は自分は空っぽになって永遠の生命に入っていく」

満たして、空っぽになって。
その繰り返し、、、繰り返しと言っても同じことを繰り返してるのではないけど、そういった動き、脈動、流れの中に「わたしはいる」。
そういう感覚。
そう、それだった、と感じました。

こうして今それらを振り返って書いていたら、ひとつ思ったこと。
今、深く感覚することで言葉にするということが初めてできるのかもな、ということ。
鍼灸師さんに伝えようとしたときにわたしの言葉がへぼへぼでした。
そのときわたしは、「リアルタイムだったらもっと言葉にできたのに、その時言語化しておかなかったからだ」と思いました。
でも、他者に伝えようとしたときにもリアルタイムで感じたその感覚を深く感じていたならば。
リアルタイムと変わらずわたしから言葉が出てきたのかも、と思いました。



最後に、今回の勉強会で聞いたことで「なるほどねーほんとだー」と思ったことをメモ。

「知っている」ということはコントロールに使われる。

自分が「知っている」ということを使うときって、まさにコントロールしようとしてる感覚があるので、それにすごく納得したし自分がそうなるときに意識してそれをみてみようと思いました。



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ACIM自習 - 2017年11月14日(火)

前回の宿題。
「その人が愛の表現をしているのか、愛を求めている呼びかけをしているのか、聖霊にそれがわかるように助けてもらう。聖霊に聞く。」

1週間目は先日記述した通り。

2週間目はどうなったかというと、自分に対して
「それは愛の表現なのかい?」
「それとも愛を求めている呼びかけ?」
そういったしこたま聞かれ続けるような感覚は1週目よりも弱まったものの、やっぱり「他者を見る」という感覚にはなりませんでした。

でも明らかに「愛」と感じさせてくださった方はどちらの週もひとりずつ表れてくれました。

どちらの方もほんの少しの時間、2、3分とか、そのくらいのやり取りしかなかったのですけど。


数年前、友人が「理由がないのに触るとか、理解ができなくて混乱する」「理由がないのに親しげにして来たりとかわけがわからない」と言っていたことがあって、わたしはそのときそれを聞いて「え!」と思いました。

でも、それとわたしも同じじゃーんと現在思っているところです。
理由がないと、条件がないと受け取ってはいけないものだったみたいです。
2週目で愛を感じたものに関しては特に、「どうして今のやり取りから愛を感じられたか」の理由がはっきりわからなくてそわそわしたので、ああ、わたしもだな、わたしも理由がないと受け取れないとしてるのだわ、と思ったのでした。
(そのあと、その感覚に対してフォーカシングを促されて行ったら、そこに“悲しみ”のようなものがあることに気づきました)

宿題の2週目には、そもそも愛ってなんだっけ?どういうものが愛なんですかね?みたいな状態になっていました。
そしてその宿題期間は先週で終えました。

今日は、ある感覚とともに起きました。甘やかな感覚。
言語化しておこうと思っていたのですが、はっきり目が覚めている今はもう忘れてしまっています。
残念ですけれどそれほど残念感がないのは、朝目覚めてこうした感覚が現れるということがこれからもまたあるという信頼がどこかあるからです。たとえそれが同じものではなくても。

先週、ひたすらしていた問いかけ。
「そもそも愛ってなんだっけ?」
「どういうものが愛なんですかね?」

それに対する今のわたしにとっての「答え」がそれです。



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鍼灸にっき - 2017年11月13日(月)

久々に雑談ゼロVerで施術を受けました(笑)

いいわー (*´Д`*)

雑談は雑談でおもしろいのですけれど、やっぱりかなりマインドが動くのだなと雑談なしで受けてみることで明確でした。

というか、雑談的なやりとりがない場合、自分のマインドがくるくると動いていたとしても他者のせいにはできないわけですよ。
マインドが動く理由にするようなやりとりがないのに自分のマインドがくるくると動いてるのを感じる、それを認識できるのはとてもいいです。

「今、わたしのマインドが動いている」
「それによる体感はこういうものが今感じられる」

と、静かな気持ちで見ることができたのでとても良い時間でした。

施術の印象を比べてみて、�〇�談での感覚込みでの施術の印象と、�∋椽僂搬里隆恭个亡悗垢觚斥佞里笋蠎茲蠅琉�象、その違いがとてもわかります。
興味深いのは、雑談タイムはわたしにとって楽しいことなのにも関わらず、雑談ゼロVerと比べてみると、だいぶ損してしまうんだなと思ったこと。

わたしが損してるという感覚よりも、施術者に対してわたしから見た評価、見え方、つまりは施術者側が損をすることになってるかも、、、と思ったのでちょっと考えなくてはならないと思いました。
(「せっかくの技術が〜」「もったいねえ〜もったいねえ〜」ともったいないオバケが現れました)

静かな感覚の価値をわたしは少しだけ知ってきているので、、、。
ただそれは一般的ではないだろうから、施術者にとって「どうしたいか」というのが出てくるかもしれないなあと思いました。

そうして受けた今日の施術後の体の感覚は、これまで感じたことのない感覚を感じることができています。
頻度の意味でも強さの意味でも、頭痛はわたしを悩ませるようなものではないので、あまり訴えとして伝えることはありません。
ですが、今日施術を受けたことで夜勤明けの日は頭の内圧が大きくなって力が入っているような感覚がいつもしているのだな、ということを認識できました。
そしてその感覚の変化を施術を受けながら観察していたら、どんどんその強さは穏やかになって、脳みそ辺りにあったその内圧は徐々に目の裏を通り、鼻の高さまで下りていく感じになりました。

家に帰ってきた今は、とても軽やかです。
この今感覚している頭部の感覚は、わたしはあまり覚えがなくて、過去にあったかもしれないけど記憶にないくらいには覚えがなくて、とてもいい感じです。

この文章書いてたら、また少々内圧が上がりましたが(笑)、「あの感覚を知ってる」「覚えてる」ので全然大丈夫な感じです。



...

つらつら - 2017年11月11日(土)

20�埀嫗瞭�りの段ボール箱を脛で思いっきり蹴っ飛ばし、しばらく時間が経っても痛かったので「青くなったかな?」と足を確認したら、ズボンが流血で赤く染まっていました。
周りにいた人に見せびらかしました。(なぜか得意げ)



一定の条件があるものについて、「そうは言ってもきっとこうなるから」「別の業者では大丈夫としてるものだから」「〇〇さんはいつもそれでやってるんだって」、だからいいよね、と意見を求められたので、「わたしはやらないけどね!」と答えました。わたしのそういうとこは強い(ぶれない)なと自分でも思います。

わたしが同意しなかったのもあり、大丈夫じゃないかもしれないけどそのまま続行しますか?と相手方に確認するということをしてくれました。
そうそう、確認大事。

ただ、このやりとりで自分の中に少々怒りが混じってるのを気づいたので、何に怒ってるのかしら、と振り返ったところ、わたしは過去に忖度のよくない面を見ていて、それによる自分に起こしていた影響に気づきました。

「思いやって」行ったことだとしても、それを相手に確認していない以上相手が望んでいることかどうかはわからない。
そして過去にわたしが見たものは、そうして自分自身をどんどん厳しい状況にしていくというものでした。

そうかー。
それを今も持っていたのだなあ、あの時に感じた嫌な感じを今も持ち続けていたのだなあ、と思いました。

そうしたら、怒りはなくなって「確認しよう」と思いました。
別の業者では大丈夫だから、について確認しました。比べてみよう、と思いました。

すぐに調べられるところで比べてみたところ、これは同じものではない、ということがわかりました。同じものに関してのものだけれど、同じ方法だけれども、同じものではないなと判断できるものが確認できました。
なので、それを説明しました。
確認大事です。




自分で言っていて興味深かったこと。
わたしは電子書籍も読みますが、使っていない人に先日「電子書籍ってどう?」と聞かれました。
そこでわたしが言ったのは、わたしは物欲があるのだと思います、と。
本屋さんに行くこと自体も好きで、本屋さんで自分の好きそうな本を手に取って手に入れて、家に持って帰って、、、そういう一連のことでもうかなり満足する、と。
読んでいないのに、手に入れた時点でとても満足する、と。
(手に入れなくても、本屋に並んでいるのを見ること自体で満足してることもあります)
それは触れるし、形を見れるし、存在を感じられるから。

電子書籍の場合は、その(わたしにとっての)甘いムードがない。
触れないから、即・情報、みたいな感じ。
ある部分では「物足りない」かもしれないけれど、それがないからこそのダイレクトさがあって、むしろそれはわたしにとって嫌いではないものです。

そういうことを自分の口から出てきた言葉で、わたしはどちらも好きなのだなあって確認した感じです。



ACIM勉強会。

うーん、なんでわかるのかな(笑)
今わたしが知りたいことが、しかもわたし自身はそれを言葉にもできていないことに関わるような言葉をいただくと、噛みしめることしかできません。もぐもぐ。

ACIMを学べば学ぶほど、わたしはACIMで書かれている実相から離れるようにこれまでずっと生きてきたんだなということがよくわかります。
だからこんなに惹かれるのかもしれません。

お値段お高い本ですけど、これをわたしは読み飽きることができるのを今のところ想像がつかないので、まだまだ何度も読めることでしょう。


...

鍼灸にっき - 2017年11月07日(火)

本当は施術時間は30-40分なのだけど、なんか長く時間を取っていただいてるなーと思ってたのですが、意識的にそうされてるのかな?と思いました。
わたしはあまり鍼を多く使えない(多くなると冷えてしまう)のだけど、長く時間を取ってもらっているかも。
わたしにとってそれのいい点は、自分の体を感覚することに集中する時間が持てるところ。30分間隔で入れられているときは、次の方が受付のところで待っている気配に気が取られたりすることもあるので、そういったことがなくて自分の体に集中できるのはとてもありがたいのでした。

話をすることが好きな鍼灸師さんで、わたしも鍼灸師さんが話す話題が好きなので受けながら雑談をします。
もっか意識して行っているのは、雑談をしつつも体を感覚し続けることです。
興味深いことは、体から離れて話に夢中になると体の反応として出てくることですね。例えば手汗をかいてきたりとか。そこで施術だけ集中するやり方に戻ってみたりとか、体の感覚から離れていたなと認識してみたりとか。

ちなみに体の感覚を感じながら雑談をしているとき、雑談といっても自分自身の経験に関係するような内容だからできるのかもしれませんが、わたしも会話の相手の鍼灸師さんに対して伝え返しのようなフォーカシング的な問いかけかたをしたりして、異種格闘技戦みたいなことになってるなーと思ったりしてます。
鍼灸師さんは鍼を使い、わたしは言葉を使い。

ということで、前半は施術に集中、後半は雑談もしながら施術みたいな感じです。

その雑談の何がわたしにとっておもしろいのか。
鍼灸師さんとの雑談のネタは、禅とか仏教とかそういったものや、それらの教えや考え方を実際の日常でどう行うか、みたいなものです(笑)
どちらかというと鍼灸師さんは質問者になってくれていて、「こういうことがあるんですけど、そういう時どうしますか?」とか「どういう意味ですか?」とか尋ねてくれるのですが、それがわたしにとっては自分の中にある感覚を探る、それを言語化する機会になっていて、それがとても助かっているし楽しく感じています。これはできてるなと認識したり、これはできてないですと言えたり、そういったことができることが。

わたしの答えを聞いて「そこがピンとこないところです」とか「深く入るようで怖い」とかおっしゃるのですが、そういうこともわたしには興味深い。

深いと思ってなかったけど深いところの話か、そうか、そうかも、と認識したり。
ピンとこない感覚もわたしに覚えがあって、あ、わかる、でも今そうしてないな、ということを認識したり。
でも、自分のそうした変化はほとんどが意識的なものではない(いつの間にかそうなってたもの)ので、説明がぱっと出てきません。

今のわたしの感覚との違いって何だろうな?わからないぞ?
昔のわたしと今のわたし、それぞれどういうことに意識が向いてたのかな?

問われて初めて疑問に思う感じ。

質問をされて、そういえばこの間そんな内容の文章を読んだばかりだな、と思い出したとしても、あらま、読んだ内容を伝えられるほどわたしはわかってないのだわ、と認識したりとか。(読んだことしか覚えていない)

でも最も、わたしにとっていちばーん興味深いのは、以前のわたしだったらそういうことがあったらすぐに調べて相手の人に伝えたりするのだけど、それをしようとしないことです。してもいいけど、しなくてもいい。
以前はそれは嬉々として行うことだったのだけど、それに意味があまりないと思ってきたというか、価値を感じなくなってきた感じです。
情報を入れるということ、相手が知らない情報を伝えるということに以前はわたしにとって価値があったのだけれど、現在はそうではない。
現在は、今の瞬間の真新しい自分で情報に触れるということ、その経験を共有すること、そういうことに価値を置いているなあというか。
(うまく言えてますか?)

担当の鍼灸師さんは、わたしへの施術時間は長く取ってもいいようなことをおっしゃってたし話をするのも楽しいようなので、同じ料金で自分の得てるものが多くなってるのですけど、win-winかなーとありがたーく受け取ってるところ。


...

ACIM自習 - 2017年11月05日(日)

今週のACIM課題は、
「その人は愛の表現をしているのか、それとも愛を求めている呼びかけをしているのか、それがわかるように聖霊に教えてもらう。聖霊に聞く。」
でした。

課題を受け取ってそれを始める前は、わたしは自分の周りにいる方々や日常ですれちがったり、そういった自分の目に入ってくる関わった方々を見る、それを聖霊に問いながら行う、そういうことをするのだと思ってました。

ところがいざ実際始まってみると、ひたすら「自分自身を見る」そういう感じになりました。

「わたしのそれは愛の表現なの?」
「それとも愛を求めてるもの?」

ひたすらそう聞かれる感じ。

そもそも自分が「愛」の基準がわからないと他者が見られないじゃないの、とも感じました。



また、人と会って物事が起きているリアルタイムの時にはなかなか聖霊に問いかけることはできませんでした。物事が起こってそれが終わってから、あ、聞いてなかった、と気づく感じ。

「自分だけで決めようとする」「耳を傾けない」ということが自分にとってどれだけ習慣になっているかを知らされた感じがあります。

そんな感じだったので、朝起きて自分に言い聞かせるということは毎日行いました。
「その人が愛の表現をしているのか、愛を求めている呼びかけをしているのか、聖霊にそれがわかるように助けてもらうぞ。聖霊に聞くぞ。」
宣言する感じ。(忘れ続けましたけどね!)

そうして人と会う前に問いかけておくと、リアルタイムでは「聖霊に聞く」ということを忘れていても、例えば「嫌だな」という感情や感覚が自分の体に出てきたときに、それを含めて観察がしやすかったなあと振り返ります。
あ、わたし今嫌だと感じてるね、とそれを単に認める感覚。「嫌だ」に没頭しない感じ。

物事が終わってからそれについて問いかけると、聖霊ではなくわたしのエゴのジャッジの声だなって感じられたこともありました。
「それは愛だね」「それは求める声」と聞こえるのだけど、その後に「ほんと?」「それ、ほんと?」ってもう一度精査しなさいって尋ねられる感じ。
それなので、ほんと?と思いながら終わる感じでした(笑)
今週起こったことは、どれも結局愛の表現だったのか、愛を求めている呼びかけをしてるものだったのか、どちらかわかりません。
ひとつだけかな、これは愛の表現だって間違いない感覚で感じられたのは。

判断はわたしの役割ではないんだなと、そういったことからなるほど納得ができました。



この一週間のうちに他者の差別の言葉を聞いたことがありました。
それを聞いて「わあ、すごい差別の言葉だ」と思ったのだけど、そこに心地よくなってる自分の部分も同時に見つけました。
わたしはそういったことを自分では言いたくないけれど、ある部分でその差別的な発言をした人と同じジャッジをわたし自身持ってるんだなと気づきました。
んー、というか、ある部分では間違ってる感じはないのだけど、「そうでなければ愛されない」という信念も一緒にあるのだな、ということに気付いたという感じか。



それから今朝おもしろかったのは、何の脈絡もなく、
「あ!愛は時間が関係してないんだ!」
と起床したこと。

「愛って、いつかなくなる感情、時間が経つと失う、そういうふうに時間が関係してないのか」
「時間が関係するものも、愛って思ってたりするのか」

そういう発見の感覚で起きました。

そういったことを考えていたわけでもなく、そういった夢で見たわけでもなく、朝一でそう思った、その脈絡のなさが気に入っています。


...

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