チェコ出身の文書伝道者がある時こう言いました。「僕は、文書伝道に一生を
ささげる。文書伝道は、とっても厳しい。戸別訪問をすると、玄関口で
強い拒絶にあうこともしばしば。でも誰かがやらなければならないんだ。」
と、ここまでは良かったのですが、その後、「牧師の仕事なんか簡単だ」と
言うのです。要約すると、牧師の仕事なんか生ぬるい。文書伝道者のように
強い拒絶にあったり、つらい思いをすることなどあまりない、とのこと。
また、別の文書伝道者は、こう言いました。「バイブルワークは簡単だ。
バイブルワーカーは、聖書を学びたいと言う人のところに行って、
教えるだけなんだから、文書伝道をしてきた学生なら、すぐにできる」。
でも、文書伝道の経験のあるバイブルワーカーは、こう言いました。
「文書伝道は簡単だ。いくら、玄関先で強い拒絶にあったとしても、
次のドアに行けばいいだけなんだから。それに比べてバイブルワーカーは、
一人の人と何ヶ月も何年も関わって、時には個人的で、深く複雑な問題に
関わらないといけない。そして、そんなに長い間付き合ってきたのに、
信じることが違うからと、ついには拒絶されてしまうかもしれないんだから。
そっちのほうが、ドアでの強い拒絶よりもよっぽどつらいよ。」
3人のうち、私にとって一番説得力があったのは、三番目の人でした。
なぜなら、彼は文書伝道も、バイブルワークも両方経験しているからです。
もちろん、人によっては両方やってみて、文書伝道の方がつらいと言う人も
いるでしょう。それは人それぞれです。それが問題なのではありません。
このことに関わらず、似たような発言を時々耳にします。もしかしたら、私も
気づかないで言っているかもしれません。また、口にはしなくても心の中で
思っていることもあります。
そういう発言を耳にするたびに、ああ、自分は人のことを本当に理解して
話しているかな、本当に相手の立場に立っているかな、高慢になっては
いないかな、と考えてしまうのでした。
2003年08月23日(土) |
長年のお祈りと人の名前 |
私には、情けない性質?があります。
それは、人の名前をすぐに忘れてしまうこと。
仲良くしていた人でも、長く会わないでいると忘れてしまうことがあるのです。
会った時は調子が良いのに、次に会う時には名前を忘れているというのは
何とも情けないものです。
特に、相手が私の名前を覚えていてくれる時には尚更です。
数年前、昔の宣教師が久しぶりに日本にやってきました。
その時、もう何年も経っているというのに、「◯◯は元気?」「☐☐は?」と
次々と以前の生徒さんの名前を口にするのです。私が感心していると、
横にいた友人が、「彼はきっと、今までずっと生徒さんたちのことを
お祈りしてたんだねえ。だから名前を覚えているんだよ。」と言いました。
それを聞いて、私はますます感心してしまったのです。
今日もまた、人の名前を忘れてしまっていました。
「名前、何でしたっけ!」と勇気を出して聞いてみると、「あ、忘れちゃった?」
とがっかりした答えが返ってきました。その瞬間、あの宣教師のことを
思い出しました。「あー、私は祈ってないからだ」とずっしり反省したのでした。
そして、イエスさまのことを思いました。イエスさまは、私たちの髪の毛の
数までご存知です。もちろん私たちの名前はすべてご存知です。あー、
イエスさまは、いつも私たちのために神さまにとりなしの祈りをささげて
おられるんだ。いつも、いつも、いつも。だから、私たちの名前をイエスさまが
お忘れになることは決してないのかもしれない、と思ったのでした。
私たちのことは、いつもイエスさまの心の中にあるんだな、と考えると泣けてくる
思いでした。イエスさま、ありがとう。イエスさまごめんなさい。