”BLACK BEAUTY”な日々
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Boogie
とうとう10回目を迎えてしまった。ドラマとかだと最終回の一つ前。一般的には「最後はどうなるんだろう」的な盛り上がりが最高潮に達する場面である。
我々に残されたカードはとうとうたった1枚となってしまった。 カードの裏には「ソフト君」と記されていた。
前回のスタジオ以降、過去のスタジオテイクを本人に渡してあるので、ひょっとしたら大化けする可能性だってある。 その可能性を胸にしまい込み、小岩のMセカンドへ向かう。
曲順はライブを想定してある程度固めている。
それに沿ってソフト君に叩いてもらう事とした。
だが・・・・・・・。ソフト君は相変わらずのソフト君であった。
とにかくバスドラの踏み込みが甘い。というより、ほとんどバスドラの音が聞こえない。俺はバスドラとそれに合わせるベース音を聞きながらギターを弾き、歌うので、とても困ってしまった。
そして何より困ってしまうのが、ある程度ノッてきた時のソフト君である。 ドラマーがノッてくるのは大いに歓迎しなくてはならない。 けれどソフト君には重大な欠点があった。それは、
『ノッてくると、目を閉じちゃうのである』
これではアイコンタクトなど成立しようがない。極めて痛恨である。
スタジオ録音のMDを聞いてみたところ、音の小ささは顕著だった。
スタジオ後、ベーシストと津田沼のジョナサンでコーヒーを飲みながら話し合う。
「大失恋とかしたらもっと音大きくなるかなあ?」
「いや逆に凹んでもっと小さくなるかもよ」
そもそもソフト君のプロフィールに「60年代MODSが好み」書いてあったのが事の始まりである。MODSと聞けばやっぱりキースムーンを想像してしまうのが普通の感覚だろう。なのにソフトロックって・・・・・・。
カウント9のぎりぎりの状態が続く。
子供達に大人気のアニメである。平日放送なので、俺は録画したものを毎週観ている。この後も「きらりんレボリューション」も好きだ。
そんなケロロ軍曹が津田沼パルコにやって来るという。 朝帰りでほとんど睡眠をとっていなかったが、息子の楽しみを奪うことはできない。
ケロロとクイズ、ダンスなどを満喫した後、記念撮影。
妻は一眼レフ、俺は携帯で撮影。
とってもかわいく撮れていたので、待ち受け画面にした。
先日の自慢☆毛ライブのお疲れさん会にご招待を頂いた。 夜8時に小岩で待ち合わせ、「ガッツグリル」なるレストランに到着。
この店は1500円以下の値段で肉、パスタ、ピザその他諸々のメニューが食べ放題という我々食獣にとって大変魅力的な店だった。
まず生姜焼をいただく。うー美味しい。ビールも美味しい。白米が恋しくなるものの、ここで白米に手を染めるとあっという間にギブだ。
さらにピザを食する。これも1枚だけ手堅くいただく。
さらにサイコロステーキ。いいぞ、だんだんペースが掴めてきた。
色々食べ尽くした後、デザートのケーキでご満悦。いやー美味しかった。
藤本からライブのDVD、スタジオテイク入りのCDをプレゼントされた。 有難う、藤本。しかも市販品と比べて遜色のないケース入りである。
この後、ヨッシー、ブラックとジョナサンに行き、前回食せなかった「抹茶パフェ」をいただく。
二人に俺のメンバー探しの日記は「ネタ」ではないのか、突っ込まれる。 とんでもない。あれは全て真実だ。多少の脚色はあるが大筋で真実だ。 まあ、俺自身「なんでこんなクセのあるドラマーばかり集まるのか」 という疑問は正直あるけれど。
気がつくと空が白みはじめていた。 ヨッシー号で家まで送ってもらう。サンキュー。
DVDはゆっくり楽しもうと思っている。
小泉政権のアキレス腱ともいえる靖国問題。竹島問題を含め、中国、韓国とのアジア外交の健全化は今や小泉政権の急務といえる。
靖国問題の核をなすものは「A級戦犯が奉られている靖国神社に内閣総理大臣が参拝するとは何事だ。かつての侵略戦争に対し、日本はちっとも反省しとらんじゃないか」という中国、韓国の主張である。
中韓の国民感情を考えると、なるほど一理あると言わざるを得ない。
だけど、俺がずーっと前から不思議に思って思ってた事ががある。
それは「昭和天皇の誕生日に日の丸の旗を振って万歳を繰り返す国民の姿」である。
昭和天皇は戦前の憲法では「陸海空軍全ての統括者」とされていた。 つまり「あらゆる軍隊のトップ」ということだ。
ところが、終戦後の東京裁判では昭和天皇の責任は一切問われなかった。 「軍隊のトップ」であったにも関わらずだ。
この「昭和天皇の戦争責任」は戦後最大のタブーとされ、この問題を正面から語るジャーナリストは皆無であった。間違いなく右翼団体に命を狙われるからだ。
マッカーサー率いるGHQはこの問題には一切触れず、天皇制を保持したまま、戦後日本の民主化を進めた。その理由は天皇の戦争責任を認め、極刑に処することは、精神的支柱を失った日本において共産主義政権が樹立する可能性があったからだ。
第二次世界大戦において、日本が戦争を終結させる機会はミッドウェー海戦で海軍が惨敗を喫した時だと思う。このタイミングで日本が無条件降伏をしていれば、ガダルカナル島の死の行進も、東京大空襲も、沖縄本土決戦も、広島、長崎への原爆投下も回避できたはずだ。
ところがミッドウェー海戦後、東条英機内閣が成立し、東条率いる陸軍の暴走が始まる。
これら敗戦に向けて突っ走る軍隊のトップは昭和天皇だ。その昭和天皇の誕生日に国民が日の丸を掲げ万歳を繰り返す事は「国民が超A級戦犯の存在を圧倒的に肯定し、賛美してること」と同じではないのか。その光景を中国、韓国の国民は軍国主義の再来を感じなかったのか?
一説には東条内閣樹立後の戦局については、天皇は真実を全く知らされる事はなく、プラスの情報のみが伝えられたとも言われている。
だが、その事を差し引いても天皇陛下の戦争責任は存在したと俺は考えている。
俺は別に極左の政治志向者ではない。経済学部出身だが、マルクス経済に傾倒した事もない。卒論のテーマは資本主義の象徴であるアメリカの大統領ロナルドレーガンの経済政策「レーガノミクスの功罪」だった。
おそらく靖国問題は韓国、中国の政治的優位を維持するための材料の一つなのだろうと思う。
それは何より、靖国に奉られた20歳前後の特攻隊員の無数の死を愚弄するものであると考える。
人間の命を政治的交渉の手段としてはならない。
| 2006年04月26日(水) |
ロックバンドとテレビ |
今でこそロックバンドがテレビに出演するのは珍しい事ではない。 J−POPとかJ−ROCKと呼ばれる市場が成熟した為、ライブをするのと同じ位テレビにロックバンドが出演するのは当然の事となったのだ。
俺が高校生の頃はテレビで「動くロックバンド」を見る事は極めて稀だった。
「夜のヒットスタジオ」にストリートスライダーズが出演した時は凄まじい衝撃を受けた。司会者の古館のトークにほとんど反応しないメンバー。 最後に古館から、「テレビの前の皆さんに一言」とマイクを向けられたハリーが始めて口を開き、こう言ったのだった。
『ボリュームを上げて下さーい』
この番組を俺は両親と見ていたのだが、父は蘭丸が男である事を知ると、「本当か?本当か?」と唖然としていたのを思い出す。
また「広島平和記念コンサート」なんてのもあった。 団長が日記で指摘している通り、ダイヤモンド☆ユカイが「平和はいいよね、セックスできるし」と国営放送のカメラに向かって言ってのけたコンサートだ。 反対に超マジメなコメントを残したのがアップビートの広石武彦だった。
「趣旨の難しいイベントなので、少し戸惑いました」
あと、忘れてはならないのが阿蘇山のふもとで開催された「ビートチャイルド」というイベントだ。多分、日本で最初に大規模なロックフェスが開催されたのはこれが最初なのではないだろうか。
この時凄かったのが、ニューヨークから戻ってきた尾崎豊。 瞼がというか顔全体がぶおーっとむくみ、尋常ではない汗を流しながら、絶唱する尾崎。多分この時もいけないお薬と仲良くなっていたのだろう。
そして、豪雨の中ステージに登場したスライダーズ。 雨の中、演奏を始めるも、ハリーのとんがった髪の毛があれよあれよという間に雨にさらされ、しなしなに垂れ下がっていく。 最早「トカゲ人間」と化したハリー。こんなハリーは二度と見たくない。
この頃からロック系のライブ映像を放映する番組が登場する。 「HITS!」だとか「EZ」だとか大晦日に放送される「ロックロールバンドスタンド」などなど。
そして「イカ天」が放送開始。バンドブームの到来を迎える。
「ハーレー野郎」がドラマー候補者から外れた現在、候補者は「ソフト君」ただ一人となってしまった。 ベーシストと相談した結果、我々がとるべき方法は2つに絞られた。
1.ソフト君を正式にドラマーとする 2.再び、ドラマー探しの旅に出る
どちらの方法をとるにせよ、今回のメンバー募集あるいは参加させて頂いたバンドとのセッションの中で俺が強烈に実感した事がある。
それは「スキルとセンスがほどよく調和しているバンドマンは極めて少ない」ということだった。
スキルは個人練習、あるいはスクールに通う事で身につける事ができる。
問題はセンスの方である。曲を書く人間は当然ながら「カッコイイ曲」を作る事を望んでいる。そして楽曲の中の例えばイントロ、リフ、メロディー、転調などに「カッコよさ」を詰め込んでスタジオに持っていく。
そこでメンバーは作曲者が楽曲に込めた「カッコよさ」を即時に感じ取り、作曲者の考える「カッコよさ」を共有できなくてはならない。
要するにここで言うセンスとは「カッコいいもの」に対する嗅覚が優れているという事と同義となる。
では、その嗅覚を磨くためにはどうしたらいのか。 当然スクールではそんな事は教えてくれない。毎日楽器に触れていたとしても会得できるものでもない。
では、色々な音楽を幅広く聴き、感覚を養うという方法はどうだろうか。 これは一見、効果的に見えるけれど、絶対的なものではない。
何故なら、感覚というものは量の大小ではなく、はじめから備わっているか否かという有無の問題だからである。
自分の事を棚に上げ、偉そうな事を並べているのは十分承知のうえだが、結局特にドラマーに関しては、このセンスの有無がことのほか重要なのだとつくづく感じた。
結果、二つの方法のどちらをとるかの結論はいったん保留とした。
しかし、このメンバー探し、就職活動より骨の折れる作業である。
俺が初めて行ったライブハウスは新宿のアンティノックだった。高校1年生の梅雨の時期だったと記憶している。
中学時代の俺は実に普通の少年だった。聴く音楽は尾崎豊、浜田省吾、長渕剛、ハウンドドッグ、洋楽はREOスピードワゴン、マドンナ、ブライアンアダムス、ワム、カルチャークラブ等々。中学生でアルバイトもできないから親から貰った小遣いを工面し、当時地元にあった「麗紅堂」とか「友&愛」とかのレンタルレコード屋に行ってはこれらのレコードを借り、カセットテープにダビングしていた。 よくあったパターンで、46分のカセットテープでLPのA面を録音してたら、A面の収録時間が23分以上あった為、A面の最後の曲の間奏の途中でテープ残量が無くなってしまい、「ああー!!54分を買えばよかったー!!」なんて事があった。 今も明け方近くに放送しているが、土曜の夜の「ベストヒットUSA」は毎回欠かさずチェックしていた。
そして、高校入学。席が近かった岡部君というクラスメートと仲良くなった。 細かい部分は記憶があいまいだが、多分「どんな音楽聴いてんの?」みたいな質問を受けたのだろう。俺の音楽の趣味は相変わらずだったので上記のアーチスト名を挙げると、これまた記憶があいまいだが岡部君が以下のような事を俺に言ったのだった。
「ヘイ、そんな商業音楽なんてクソ喰らえだぜ!俺がもっとカッコイイロックを教えてやるぜ」
数日後、岡部君は俺に1本のカセットテープを貸してくれた。家に帰ってラジカセでそのテープを再生してみた。
スピーカーから飛び出してきたのは超高速で1曲があっという間に終了してしまう楽曲の嵐だった。ギターはチェインソーの如き殺人的サウンドで、ボーカルは何を歌っているのかさっぱり分からない。 これは最早、「音楽」というより「シロモノ」と呼んだ方が適切であった。
岡部君が俺に貸してくれたテープは、当時「世界最速」と謳われた日本のハードコアパンクバンド「S.O.B」のアルバムだったのである。
翌日、岡部君に感想を求められると、「うん。結構いいね」と俺は大嘘をついた。生意気盛りのこの時期、「カッコイイ」と言われたものを否定するのはやっぱりカッコ悪く、許せる事ではなかったからだ。
ただ、S.O.Bには何というか甘いものを全て排除するようなストイックさがあった。何か切実な衝動のようなものを感じる事ができた。
岡部君との親交はさらに深まり、放課後、岡部君の家に遊びに行く事が多くなった。 岡部君の部屋は俺の全く知らないポスターが何枚も張ってあり、本棚に目を移すと雑誌「宝島」のバックナンバーが並んでいた。レコードのコレクションもまたすごく、俺が知っているレコードなんて1枚もなかった。
そして極めつけはラフィンノーズのソノシートだった。 これはまだインディーズだったラフィンのボーカルであるチャーミーが新宿アルタ前でソノシートを無料配布した時のもので当初の予測を遥かに上回るファンが殺到した「新宿ソノシートばらまき事件」の戦利品だった。 けど俺はそんな価値を知る由もなく、ただのクニャクニャした薄いビニールにしか見えなかった。
※最初は短くまとめようと思ってたのですが、すごーく長くなってきました。20代の読者のみなさん、頑張ってついてきて下さい。
そして高校1年の6月頃、岡部君に「ライブを観にいかないか?」と誘われた。場所は新宿アンティノック。出演はリップクリームとS.O.Bの2バンドだという。 正直、何か得体の知れない恐怖を感じた。しかし、ここでひるんではならない。何しろ何かと多感な15歳である。盗んだバイクで走り出す事を真剣に夢 見ていた15歳である。
恐怖を悟られないよう、行く事を岡部君に告げた。岡部君はニヤニヤしながら頷いた。
ここで俺は最大の問題に直面した。
「一体、ライブハウスという場所にはどんな服装で行けばよいのか」という問題だった。
とりあえず、津田沼のパルコに入っていた中高生御用達の洋服店「LEO」に行ってみた。まさかパーソンズやセーラーズを着てライブハウスに行くのはおかしい。散々迷った挙句、当時の俺がパンク的だと判断した長袖のTシャツを購入した。Tシャツの表面には色んな字体で色んな単語が散りばめられていた。 そして、家に帰るとGパンのヒザの部分をカッターナイフで切り、裏からガーゼをあてがい、安全ピンで止めた。
そして運命の日がやってきた。船橋に住んでいた岡部君と駅で待ち合わせた。 約束の時間に現れた岡部君の姿に俺は愕然とした。上着は梅雨の湿気が多い天候にも関わらず皮ジャン、もちろん鋲つき。下はブラックジーンズ、髪型は多分ダイエースプレーで固めたであろうツンツンヘアーだった。
俺は失敗した。素直に岡部君に相談して「ライブハウスの服装」についてレクチャーを受ければよかった。もっともたとえレクチャーを受けたところでそんな格好をする勇気はなかっただろうが。
総武線で新宿に到着。目的地アンティノックへ向かう。俺の心臓はBPM190のブラストビートを刻み続けていた。
店内に入ると店員、お客さん、誰一人笑っている人はいなかった。 そして客の鋲つき皮ジャン率は確実に90%を超えていた。 学校では今の日本は戦力を放棄した徹底した平和主義に立脚していると教わった。けれど、ここアンティノックではそんな理屈は全く通用しなかった。
時間と共にどんどん客が入ってくる。そして満員に膨れ上がったとき、S.O.Bが登場。今は亡きボーカルのトッツァンが絶叫する。 客同士が激しくぶつかり合い、殴り合いも始まっている。岡部君の姿が見えない。俺は生まれて初めて「生命の危機」を感じた。 そしてあろうことかぶつかり合いの波が後方にいた俺の場所に少しづつ押し寄せて来たのである。そして間もなく俺はその暴力の波に飲み込まれた。
モヒカンのお兄さんが「ダセエ乗り方してんじゃねえぞ!」的な言葉を吐くと、俺に向かって思い切りぶつかってくる。それに便乗して他の客がどんどん俺めがけてぶつかってくる。目の周りが腫れているのを感じた。それと同時に体中のあちこちが痛い。
そうこうしてるうちにS.O.Bが終演を迎えた。すると若干の静けさが会場に訪れた。すると岡部君が放心状態の俺を見つけ、ゲラゲラ笑いながら俺の肩を何度も叩いた。
そしていよいよジャパニーズコアの帝王、リップクリームが登場する。 暴徒と化した客に、またしても俺は飲み込まれていった。 後半、多分俺は泣いていたかもしれない。
嵐の2時間弱が過ぎ、岡部君と帰路に着いた。総武線の車中で岡部君が「俺も最初の頃は怖かったよ。けど結構慣れるとそうでもなくなるんだよなー」 と言っていた。
家に帰ると腫れ上がった俺の目を見て母に「あなたは一体どこで何をしてきたの!!」と叱られた。
こうして俺のライブハウスデビュー戦は終了した。 そして岡部君の言うとおり、何度かライブハウスに行き、慣れると負傷する確率はぐっと低下した。 ガーゼの「消毒ギグ」でも俺は無傷で生還する事ができた。そんな実社会では何も役に立たないスキルが磨かれていったのである。
あれから20年の歳月が流れ、ライブハウスは健康的な場所に変貌した。 着ていく洋服に迷う事もなく、生命の危機にさらされる事もない。モッシュも一定の秩序の下に行われ、被害といえばせいぜいTシャツを脱がされる位となった。
岡部君は今何をしてるだろうか。もう結婚してパパになっているだろうか。 そして、今もライブハウスに通っているのだろうか。
もし連絡が取れるのならば、自分のバンドのライブに呼んであげたい。 彼と出会わなかったら、俺の人生は音楽とは全く無縁のものになっていたかもしれないからだ。
| 2006年04月23日(日) |
とんでもないモノを見てしまった。 |
話が前後してしまい恐縮だが20日の金曜日、会社が休みだったので四谷フォーバレーにタイガーバンドを観に行ってきた。 タイガーは今回のライブを含めてあと2回のライブで解散が決まっている。 本人達で決めた事だから外野はとやかく言えないが、残念というのが自分の気持ちである。
この日のライブはトリがアメリカから来たDEAT RITESというバンドだという。こばじゅんにどんなバンドなのかを尋ねると「オールドスクールのハードコア」との事。ディスチャージやカオスUKみたいな感じなのだろうか。
一応メンバーはこんな感じ
ボーカル:ピクシーズのフランク・ブラックみたいな巨漢。グラサン着用だが、時々グラサンをずらした時に垣間見える瞳が以外な事にとても綺麗でかわいい。
ギター� �団長曰く「あいつはテリーゴディーだ!」これは笑った。ちなみにテリーゴディーは全日本プロレスで「パワーボム」を日本に定着させた名レスラー。「人間魚雷」の異名を持つ。
ギター�◆Ю嵬咾波韻�つんつん。見ようによってはジョンライドンに似てる。
ベース:黒髪で髪つんつん。外人さんにしては背が低い
ドラム:90年代初期のバブル期に流行した「2ブロックカット」を彷彿させる髪型。なお髭ボーボー。一応タンクトップを着ているものの、どうしてもグンゼの下着にしか見えない。
とまあ、こんな5人がタイガーの演奏を最前列で観戦していた。こばじゅんがすさまじいブロークンイングリッシュで「アメリカのどこから来たの?」 と尋ねると「ジョージア!イエー!」答える米国パンクス。 次に気になるのが年齢だが、どうやら19歳から21歳位らしい。
彼らはタイガーの激し目のナンバーでは盛り上がるものの、「乗換列車」が始まると急に大人しくなる。ひょっとして感動してるのかもしれない。
やがてタイガーの出番が終わると、いよいよDEAT RITESの出番である。 幕が上がり、演奏が始まる。ボーカルの巨漢はシャウトしっぱなし。 ところが...
「演奏陣が恐ろしく下手だったのである」
どうも原因はドラマーにあるらしい。ベーシストは曲によってピック弾きと指弾きを使い分けて上手だった。 ギターのテリーゴディも一生懸命ソロを弾いているが、残念な事に音が殆ど聞こえない。もう一人の赤毛つんつんギター君はソロは一切弾かず、ひたすらリズムに徹している。マルコムヤングが好きなのだろうか。あるいはシンデレラのトムキーファーじゃない方のギタリストに憧れているのだろうか。 曲調は確かにハードコアが中心だが、途中でメロコアっぽいのをやったり、ミスフィッツのカバーなんかをやっていた。 何はともあれ、こんな酷い状況でもボーカルは最前列のKIDS達とハイタッチを欠かさず、「アリガト」を連発する。
ライブが終了して、ふと横をみると、なんとこのバンドの物販コーナーがあった。せっかくの記念だからと思い、CDを1枚購入した。ついでに「メンバー全員のオートグラフが欲しいです」と赤毛つんつんに頼むと、彼はメンバー全員を一人一人回り、サインを書いてもらってくれた。 どうもこの赤毛つんつんが一番格下らしい。
こうして俺の「ロック固定観念」の一つが脆くも崩れ去った。
それは「アメリカのバンドの演奏力は半端じゃない」という固定観念である。 アメリカのバンドはレコード会社との契約を勝ち取る為、アメリカ全土のクラブサーキットを行い、その土地のラジオ番組に出演したりといったプロモーション活動を行う。アメリカ全土を回るのだからライブの本数はすさまじいものとなるが、またそれ故にタフな演奏力を身につけることができる。 話はそれるが、ニルバーナのデビュー後のワールドツアーの日程をみると、休みが殆どなく、おまけにツアー中にセカンドアルバムのレコーディングまでしている。ライフルでズドンといっちゃたカートの錯乱状態も少しは分かる気がする。これに対し、この地獄のようなツアーを経て、カートの死後、フーファイターズを立ち上げたデイブクロールのタフさはもはや人間のレベルではないと思う。
で、彼らはおそらくそういう過酷なツアーを経験していない段階で日本に来ちゃったバンドなのかもしれない。ひょっとしたらこの後アメリカに帰り、 クラブサーッキットで成長し、2年後のサマソニあたりに出演!!!!
て事はまずねーだろーな。。
いよいよ本日は「ハーレー野郎」とのセッションである。 小岩駅に着くと、待ち合わせ場所であるお相撲さんの銅像のそばにスキンヘッドにキャップを被った男性がいた。しかも髭をたくわえ、目が鋭く光っている。ハーレー野郎の正体はちょっと小柄な小岩の武藤敬司であった。声をかけ、本人である事を確認し、スタジオへ向かう。
スタジオに着くと1時間予約時間を間違えていた事が判明。1時間早くスタジオ入りしてしまったのだ。 いかん。こういう時は軽いジョークで場を和ませ、謝罪をするというのが大人というものだ。俺が軽いジョークを考えていると、ベーシストがすかさず無難な話題ですでに場を和ませていた。結局俺の軽いジョークは陽の目を見る事はなかった。
小柄な武藤君のプロフィールはこんな感じだった。
『熱い?ロックをトリオでやりたし。好みは、ジミヘン、ZEP、BBA、グラファン、クリーム、KISS、などなど。結構何でも聞きますが、自分のドラムのスタイルは手数よりもパワーとノリとリズムアクセントで押すタイプではないかと思います。やる曲は、リフ物が好きです。加入もしくは新規募集。ブーツカットやベルボトムを履きこなすような雰囲気をもった人が良いです。ステージ衣装もそれなりに派手に行きたいです。初心者は申し訳ないですがパスいたします。』
トリオでKISSをやれるのかはなはだ疑問だが俺とベーシストはこれらのバンドについて「俺達も好きっすよ!」「リフ物の曲もありまっせ!」等々のアピールをし、何とか1時間をつぶした。
そしてスタジオに入りセッティング中、小岩の武藤が「手数はそんなに多くないです。割と淡々と刻む感じですね」と言うので俺はチャーリーワッツを何となく想像していた。
セッティングが終わり、俺は小岩の武藤に「じゃあ、オリジナルを何曲かやってみましょう。シンプルな曲が多いので、ついて来て下さい」と言って、1曲目のリフを弾き始めた。 する小岩の武藤がそれに反応し、ドラムを叩き始めたのだが、その音量が半端じゃなくでかい。最早爆音に近く、俺はドラムにマイクを立てているんじゃないかと錯覚を覚えるほどだった。 そして、「手数は少ない」と言っていたにも関わらず、とんでもなく手数が多い。 今回のバンド結成で俺が狙っている線は「引き算の感覚で楽曲を組み立てる事」だった。音を出す瞬間に3人がビシッと揃い、かつ音を切る時も3人が同じタイミングで音を切る。そして音を切った後の空白を大切にしたかった。 その空白が「キレのある演奏」につながるからだ。
ところが小岩の武藤はその我々が大切にしている空白を爆音で埋め尽くしてしまう。結果、Aメロとサビの区別がほとんどつかない恐ろしい状況となってしまった。
やがて、数曲演奏して武藤に感想を求めると武藤はこういった。 「僕はブルースベースのバンドより、ハードロックのバンドの方が好みなんですね。例えばパープルとかの」
ちょっと待ちたまえ、君のプロフィールにパープルなんて書いてなかったぞ。しかも君の好みのジミヘン、ZEP、BBA、グラファン、クリームは見事にブルースベースのバンドではないか!
でもここでそんな事を言ってみても始まらない。ただ一つ言えるのは、武藤は俺達のバンドに加入する意思はないという事だ。
さらに驚いたのは、自分も歌いたいのでマイクを立てて欲しいと武藤が言い出した。初セッションでドラマーが歌いだすってのは想定外だった。
ちなみにフリークスの「乾いた風」もやってみた。結果は風が乾いてるか湿っているかの騒ぎではなく、カトリーナクラスのハリケーンが楽曲を粉々に粉砕してしまった。 これでは「お前の夢の続きも、あのメロディーの続き」も聞けやしない。
トホホ。誰か俺にポーションをくれ。
現在のところ、ドラマー候補者は2名。いずれもベーシストがネットのメンボサイトで見つけてきた人物である。
ドラマー候補暫定1位は「ソフト君」。「ガリガリ君」の姉妹品ではない。 立派な人間である。 ネットでソフト君のプロフィールを見てみる。
「60年代のMODS等、シンプルなロックを好みます」
WHOとかKINKSが好きなら結構合うかもしれない。 ソフト君をスタジオに招いた。
ところがこのソフト君、よくよく話を聞いてみると、「ソフトロック」が一番好きだという。ソフトロックというジャンルは俺も全然詳しくないが、簡単に言うと「カーペンターズ」に代表されるジャンルらしい。
というわけで、彼はキースムーンではなく、むしろ全く逆のドラマーだった。 とにかく音が小さい。繊細なオカズが俺のマーシャルで一瞬のうちにかき消されてしまう。 試しに彼に尋ねてみた。
「今、結構力を抜いて叩いてる感じ?」
「いえ、緊張で結構力が入ってます」
力が入ってこの音量って事はリラックスしたら、もっと小さくななっちゃうのだろうか。
さらにソフト君は1曲終わるたびにノートに何やら書き込んでいる。 多分、曲の構成とかをメモしていると思われるが、それだったらMDで録音したほうが早いのではないのだろうか? それにロックにノートは組み合わせ的に有り得ないと思う。
他方、暫定2位は「ハーレー野郎」という人物。 「ベルボトムやブーツカットの似合う人達とバンドがやりたい」 プロフィールにはそう記されていた。 ちなみに好きなドラマーはミッチミッチェルとボンゾ。 少なくとも音量の問題はクリアーしていると思われる。
その「ハーレー野郎」と土曜日にスタジオ入りする予定。 俺もブーツカットで挑む予定。
昨日の日曜日、本八幡ルート14にて自慢☆毛のライブを見に行く。 この1ヶ月位、週2回行われる自慢☆毛のスタジオリハにお邪魔させて頂き、その延長で当日スタッフとして参加させて頂いた。
前日は自分が出演するわけでもないのに明け方まで眠れず、睡眠不足のまま会場入りした。 リハが終わり、PAシート等、チケットリストに必要事項を記入すると少しリラックスしようと缶ビールを飲み始めた。ところが飲み始めたらこれが止まらなくなってしまった。都合6本のビールをノンストップで飲んだ。 これで緊張も溶け、楽しくライブを見れそうだ。 だけどスタッフだというのにこの体たらく。下働きもそこそこに俺はただの酔っ払いと化していた。
自慢☆毛の出番はトリだった。ルート14は満員に近く膨れ上がっていた。
ライブは文句のつけようのない、素晴らしい内容だった。 スタジオで「ここでお客さんが盛り上がってくれるといな」と思っていたポイントでことごとくお客さんが反応してくれる。何だか自分の事のように嬉しさが込み上げてくる。
この1ヶ月、実に色々な事があった。バンドのプライバシーに関わる事柄だから詳細は控えるが、終演後メンバーはとってもいい顔をしていた。 終わり良ければすべて良しである。
サチコ、ブラック、藤本、ヨッシーへ
『本当にお疲れ様でした。最高のライブを有難う』
バンドへの加入プロセスにおいて、前に記したようにいきなりスタジオに赴き、セッションするパターンもあるが、もう一つのパターンがある。
それは「お互いの音源を交換して、まずは話をしましょう」というパターンだ。
このパターンも結構多かった。待ち合わせ場所は新宿か渋谷。 待ち合わせ場所に到着すると、あらかじめ教えられた相手の携帯に連絡する。ネットつながりで知り合いになっているため、相手の本名を知らない事も結構多い。
だから「あの、モビルスーツ第25号さんですか?はいジンです。あ、服装ですか?Gパンに黒いTシャツを着て、肩から鞄をかけてます…あっ見えましたか?今右手上げます…あっこっちも分かりました。どうもです」
なんか同性愛テレクラの待ち合わせ場面みたいで、このやりとりは結局慣れることはなかった。
新宿も渋谷もすぐ近くにマックがあるので、まずはそこに向かう。 席に着くと簡単な自己紹介をした後、それぞれの音源を交換する。
そしてここから、実に奇妙な風景が展開される。 大の大人二人がテーブルに向き合ったまま耳にヘッドフォンをし、互いに一言も発する事なく目を合わせることもなく30分近く無言のお見合いをするわけだ。
けれど心の中では色んな独り言が浮かんでは消えていく。 「『オイラの心は野良猫ロック』ってどんな心だよ。あっなんかボーカルが『オイオイオイ』を連呼してるぞ。きっとライブだとここで客を煽るんだろうな。でも盛り上がる客はいつもの常連さんだけなんだろうな。痛いよなーそういうの」
相手もきっと同じように独り言を言ってるだろうと思う。 「『信号を七つ無視したエンジェル』てどんな天使だよ。違反してんだからとっと警察行けよ」 「『8ビートのリボルバー』ってチバユウスケかっつうの。あ、そう言えばこの人千葉から来たとか言ってたな。まあでもそれは関係ないか」
こうして約30分の無言のお見合いが終了し、お互いの意見を交換する。
まさか心で思った事をそのまま伝える事などできないから、まずは「カッコイイですね」と無難に切り出す。その後は「スネアはグレッチですか?ああやっぱり。独特の響きですよね」とか「一発録りですか!どうりで緊張感があると思いましたよ。ギターは何使ってるんですか?あっやっぱりレスポールですか。ハムバッカーの音、俺大好きなんですよ…」
肝心の楽曲についての話し合いが一向に始まる気配すらない。
やがて「俺、こういう音楽結構好きですよ」 相手も「俺も求めてたサウンドに近いです」
無難に話し合いが終了すると、店を出て駅へ向かう。
そして別れ際に必ずこういうやり取りが展開される
「じゃあ、他のメンバーにも話しとくんで、数日後また連絡します」 「分かりました。じゃあ連絡待ってますね」
この一連のお見合いを10人くらいとしただろうか. [その後の連絡」が来たのはただの1回もなかった。
| 2006年04月15日(土) |
夢破れし後に残るもの |
35歳。現在の自分の年齢である。最近になって今まで出会わなかった自分を発見することがある。 それは「過去を振り返る自分」である。 10代、20代は前だけを見ていれば事足りた。しかし30代も半ばを迎えると前だけを見続ける事はできない。ちょっと時間の余裕が出来た時などに、過去の自分を客観的に振り返り、それを未来の自分に生かそうとする知恵を体得したのだと思う。
高校3年生のときに俺が所属していたバンドは60年代のKINKS、THE WHOなどのブリティッシュビート、70年代のドクターフィールグットらのパブロックのカバー、およびオリジナルを演奏するバンドだった。 「ベースメンツ」という名を冠するそのバンドはギタリストの俺が最年少だった。他のメンバーは全員、10歳近く年上だった。 「ベースメンツ」は四谷のフォーバレーを拠点に定期的にライブ活動を行っていた。俺のギターはレスポールではなくテレキャスターだった。
何回目かの四谷フォーバレーのライブ後、当時の店長が何故か俺だけを事務所に呼び出し、こう言った。
「君はステージに立っているだけでどんなギターを弾くのかがストレートに伝わってくる。ギターを弾いてない時でも音が聞こえてくる。これはすごい事なんだよ」
この賞賛を上回る言葉を今現在でさえ聞いた事がない。多分、これからもないだろうと思う。最上級の賛辞だ。
20歳そこそこのガキはこの言葉にしたたかに酔った。そして音楽でメシを食う事を意識し始める。そして10歳年上のメンバーにメジャー志向がない事を悟った後、ベースメンツを脱退する。
プロになるべく最強のバンドを作る為、当時所属していた大学の音楽サークルの仲間達の中からピックアップを行い、メンボの張り紙を都内の楽器店、ライブハウスに張りまくった。
こうしてギター2本のストーンズやエアロスミスと同じ編成のバンドが出来上がった。バンド名は「BQライトニングス」に決定した。 目指す音は「70年代ミックテイラー在籍時のストーンズ」だった。キース役はもちろん俺の担当だった。
そして大学4年生に事務所と契約、CDデビューを目指してスタートしたこのバンドは週3回の夜間パック6時間プラス週1回のミーティングという、音楽漬けの日々が続いた。 しかし、現実はライブ動員は常連のわずか数名で伸びる気配もなく、さまざまな事務所へ送ったデモテープも何らの反応もなかった。
やがて期限である大学4年生の春、メンバー全員が髪を切り、黒く染め、なれないリクルートスーツで身を包んだ。おりしも時代はバブル崩壊。就職氷河期の第一期生が俺たちだった。 なかなか貰えない内定、バンドへの心残りの中、どうにか全員就職を決めた。 バンドは社会人になっても続けようと全員で約束した。しかし、バンドのモチベーションは確実に下がっていく。自分の勤める会社を「ウチ」と表現するなんとも言えない違和感を感じながら話題の殆どが仕事に関する事に傾いていった。
やがて、ドラマーが自宅の酒屋を継ぐべく、東京を離れた。ベーシストも京都の実家へ戻った。ボーカリストは脱退を宣言した。残ったギター弾き二人はギターをエレキからアコースティックに変え、アコースティック系のライブハウスで活動するが、どちらからともなく音信が途絶え、仕事に追われる日々に身を浸すようになった。28歳の時の話だ。
それから2年、全くギターを弾く事のなかった俺が、ジローと島ちゃんと出会い、「Thrill Freaks」を結成する。
今、自分の20代をこんな風に振り返る事ができる。
「夢を追うのは若者のみに許された特権である」また、
「夢に敗れるのもまた、若者のみに与えられた試練である」
それでは、夢に敗れた者は人生の落伍者となるのか?いや、そうではない。
「希望」という二文字。これは年齢にまったく関係なく、全ての人にあらかじめ用意されたものだと思っている。
夢が何万光年も離れた星のまたたきであるのに対し、希望は間接照明のように暖かく、そして穏やかにわが身を照らす光だ。
「希望」今一番好きな言葉だ。
たとえ口に出して言えないような人生でも希望だけは忘れてはならない。
自慢☆毛のスタジオにお邪魔した後、ヨッシーの車にブラックと一緒に乗り込む。寒い。4月も半ばだというのに夜風が身にしみる。
いつものラーメン屋に入り、いつもの「頑固チャーシューメンのラーメンセット」で腹ごしらえをする。その後、これまたいつものジョナサンで、ドリンクバーとスイーツを食しラーメンで乾いた喉を潤す。 その後、いつもバカ話に花を咲かせ、空が白み始めた頃店を出て、ヨッシーに家まで送ってもらう。
時計の針は6時30分を指していた。いつもならばベットにもぐり込み、午後まで惰眠をむさぼるパターンである。
しかしこの日はそうはいかなかった。息子と津田沼に行き、マックに寄った後、ユザワヤの地下1階のゲーセンで遊ぶという「男と男の契り」を前日に交わしており、それを果たさなければならないからだった。
津田沼まで息子の手を握りながら、ゆっくりと歩みを進める。 つい最近から通い始めた幼稚園の事、ケロロ軍曹の事、きらりんレボリューションの事等々。息子は嬉しそうに話をしてくれた。
今度は俺から息子に尋ねた。「今、一番好きなものってなあに?」
すると彼は歩みを止め、両手を一杯に広げ俺を見上げてこう言ったのだった。
「ぜーんぶ」
俺はてっきりプラレールとかグーチョコランタン等の答えを予想していたので、驚きを隠せなかった。そんな父親の顔を息子は笑みを隠さず見つめていた。
彼はこの世界のあらゆる事象を無邪気にすべて肯定しているのだった。 反射的に俺の目が涙で溢れる。
この涙はどの種類の感情にカテゴライズされるのか、自分でも分からなかった。これから彼に必ず訪れるであろう挫折や失望。それを知らずに「ぜーんぶ」と答える息子への憂い。また、息子の一点の曇りもない心の美しさへの感動。これらが混ざった今まで経験のない感情に俺は包まれていた。
その後マックで軽い食事を済ませたあとユザワヤのゲーセンに向かう。 鉄道が大好きな息子は「電車でGO」にトライするも、すぐに自滅してしまう。
ひとしきりゲームを楽しんだ後、1階のおもちゃ売り場へ向かう。 甘い父親は息子に成田エキスプレスのプラレールを買ってあげた。
妻に怒られるといけないので、「お母さんにコレどうしたの?」って聞かれたら「拾った」と答えなさいと言って聞かせた。自宅マンションの玄関でも最終リハを行い、本番に臨んだ。
ところが、我が愛しき息子はお母さんに聞かれる前にこういった。
「お母さんに怒られちゃうから『拾った』って言えってお父さんに言われたの」
全面自供である。某IT企業の元社長、「時代の寵児」と呼ばれ現在東京拘置所で容疑否認を続け、拘留中の某氏へ。
「貴方は俺の息子を見習った方が良い」
きっかけはドラマーから俺宛に送られたメールだった。内容は大筋でこんな感じ。
「ベースのフレーズがワンパターンで、叩いててつまらんのです」
ところが困った事にこのドラマーは決して上手いドラマーではなかった。 むしろベーシストの方が技術、センス等々ドラマーを抜いていた。 要するに「下手なドラマーが上手いベースにダメ出しをしている」状況となっていた。 俺はドラマーへこう返信した。
「それなら直接ベースに指摘しなさいよ」
ドラマーからの返信。
「仁さんから言ってもらえませんか?すみません」
俺はバンドにおいても中間管理職的立場に立たされていた。
問題はドラマーからのダメ出しである事を伏せて、あくまで俺の意見としてベースに伝える事だった。俺は果たして何をやっているのやら。
当然というか必然というか、ベースは俺を媒介してドラマーがダメ出しをしている事を鋭く見抜いていた。ベーシスト曰く、
「現在のドラマーのレベルではとてもじゃないがフレースを広げる事など出来る訳がない。アンサンブルがめちゃくちゃになっても構わないなら話は別だが」
俺も同感だった。ドラマーは毎日個人練習する努力家だった。しかし、それが残念なことに実践につながっていなかった。
ドラマーにオブラートに包みつつメールを送ると、怒りの返信が帰ってきた。そして「もう関わりたくありません」と締めくくってあった。
こうして、ドラマーはバンドからあっけなく去っていった。
夜、ベーシストと津田沼で会い、今後の相談をする。 頭を抱え込む俺にベーシストは言った。
「またドラマーを探せばいいよ。簡単に見つかる。コツがあるんだ」
俺はベーシストの言葉を信じるしかなかった。
初セッションの日がやってきた。場所は小岩のMセカンド。昔からお世話になっているスタジオである。 3コードや1コードでジャムしながら、ようやく手ごたえに近いものを感じることができた。ここが終着駅かもしれない。
結局、バンドメンバーはこの3人に決定し、オリジナルも増え、年を越し、春先にはライブが出来そうなレベルに達した。
ところが、このバンドはある1通のメールでドラムの脱退を迎える。 どこかの国の野党で有名な「メール問題」の勃発である。
3度の失敗を経て、俺は間違った戦い方をしている事に気づいた。 つまり今まではギタリストを募集しているバンドにアプローチしていたわけだが、逆に自分がベース、ドラムを募集してみてはどうかと思ったのである。 早速メンボサイトに募集記事をアップしてみた。
「3ピースでシンプルなロック。ブルースを基礎にパンク、ガレージの要素を取り入れたバンドにしたいと思っています」
反響は自分の想像を超え、いろいろな人からアプローチのメールが来た。 だけどどいつもこいつもミッシェル好きです、ブランキー崇拝してます、の20代前半、下手すりゃ10代のKIDS達だった。
年齢で判断してはいけない事は百も承知だが、できれば自分と年齢が近く、バンド慣れしている人材が欲しかった。
そしてようやく俺と同い年のベーシスト、30歳のドラマーからアプローチがあった。
わずかであるが、光が射してきた風向きである。 日程を調整し、スタジオでのセッションが決まった。
3バンド目。そろそろ運命的出会いがあっても良さそうな気配である。 バンドのプロフィールにはレッチリ、ナンバーガール、レイジアゲインストマシーン、ZAZENBOYS等々が好みと書いてあった。 多少自分の好みとは違うものの、新しいジャンルにトライするのも悪い事ではない。
指定されたスタジオは埼玉の戸田公園。遠い。千葉から出発し、東京を超えて埼玉までたどり着く。
メンバーはやたら早口で饒舌なボーカリスト、異様に無口なベーシスト、お腹がポコンと出たドラマーだった。
オリジナルが1曲だけあるというので聞かせてもらう事になった。 その曲はAメロがラップでサビが歌モノという構成だった。 早口なボーカルがラップを自信満々にやっているのだが、明らかに下手だった。俺はHIPPOPはほとんど無知であるが、それを差し引いてもやはり下手だと思わざるを得なかった。 そして、Bメロの歌モノに入ると歌の下手さにさらに拍車がかかる。 他のメンバーはどうかというと、無口なベーシストはルート音だけをボヨーンと弾くだけで、フレーズに全く展開がない。ベースでもやはり彼は無口を貫いていたのだった。 そしてドラマー。オカズを入れるたびにリズムがモタっていく。基礎ができていないドラムの典型例である。
次に俺のギターを入れてやってみましょう、という事になった。 ギターを弾くとより鮮明にリズムがおかしいのがわかる。 それでもなんとかその曲が終わった。すると早口ボーカル君が「すごいっすよ!マジすごいっすよ!」と目を見開いて言った。 何がどうすごいのか自分には全くわからなかった。ただ自分が褒められている事は事実だからお礼を言った。
数日後、バンドから連絡が入った。
「ベース担当が転勤の為、バンドは解散します。申し訳ありません」
きっとベーシストは無口に脱退を宣言したのだろうと推測した。 2005年の夏は終わりを告げようとしていた。
次のバンドは「高円寺で活動中のガレージバンド」というプロフィールだった。 前回のような忌まわしい経験はもうしたくないので、あらかじめ「メンバーの方で初心者の方はいらっしゃいますか?」とメールしたところ「いません」との事。まずは一安心。高円寺の指定されたスタジオへ向かう。
編成はギターボーカル、ベース、ドラムの3人。まずは彼らのオリジナルを聞かせて貰う事になった。
1曲目は「前触れ」と題される曲だった。 「前触れ 前触れ そこに来ている 前触れ」というフレーズを繰り返すギターボーカル君だが、メロディーに全く抑揚というものがなく、ただがなっているだけ。早くも嫌な予感が…。 加えてギターボーカル君の弾くギターが酷かった。テクニック云々以前に全くチューニングが全く合っていない。 彼のギタ−は60年代の所謂ビザールギターだったので、いったんチューニングを合わせても弾き始めるとすぐに狂ってしまう。
2曲目は「船」というタイトルの曲。 1曲目と全く区別がつかない。そして狂っていくチューニング。
10曲ほどオリジナルを聴かされ、俺はすでに戦闘不能に陥っていた。 「ガレージパンク」というジャンルはここ高円寺ではひどく勘違いされているのかもしれない。
結局、持ってきたギターを一度も弾くことなく帰宅。
次のバンドに期待する。
木材をその材料とするギター、ベース等は弾き続ける事で自分はただの木のカタマリではなく、楽器であることの自覚を持ちはじめるという話を聞いた事がある。
Thrill Freaksが解散してから早いものでもうじき1年が経とうとしている。 俺以外のメンバーは新しいバンドに加入し、あるいは新しいバンドを立ち上げ、ライブ等の活動を始めた。 自分の場合は、しばらく音楽に触れる事なく、ただ月日が過ぎ去っていくのを傍観する日々が続いていた。
去年の夏頃、愛器レスポールがただの木のカタマリに戻りそうになった頃、遅まきながら新しいバンドでの活動を欲する感情が芽生えてきた。 インターネットでメンバー募集のサイトを覗いてみると、ギターヴォーカルを募集しているバンドは皆無だった。逆にギタリストを募集しているバンドは多く、しばらくは歌う事よりもギターを弾く事を優先させることにし、気になるバンドのメンバーにメールを送ってみた。
最初に返事が来たのは「ガレージパンクにダンス的な要素を足したバンド」だった。 これは結構面白そうだ。最近のプライマルスクリームみたいな感じなら俺の好みと近いかもしれない。
週末にそのバンドからメールが来た。 「今日の夕方、スタジオで練習するので、よかったらお越しになりませんか?」
練習場所は中野だという。中野=西東京=本格派という実に安易な期待を胸にスタジオに向かった。
スタジオに到着すると、ロビーのテーブルに3人が座っていた。 一人は顔色の悪い神経質そうな男性。別の一人はショートカットの実に人の良さそうな男性。最後の一人はどう見ても高校生としか見えない女の子だった。 すると顔色悪い君が立ち上がり、「石川さんですか?」と尋ねてきた。 「そうです」と答えると顔色悪い君が残りの二人を紹介してくれた。 予想通り、女の子は高校生だった。
俺は当然の事ながら、この女の子がボーカル担当だと思った。誰が見てもそう予測しただろう。 ところが女の子はスタジオに入るとマイクではなくスティックを握っていた。彼女は女子高生ドラマーだったのだ。 顔色悪い君はギターボーカル、人の良さそう君はベース担当だった。 さらに驚いた事に、女子高生ドラマーはドラムを始めてわずか3ヶ月だという。
それから3時間は練習と言うよりも苦行に近い趣があった。ピストルズの「アナーキーインザUK」のメインのリフ2小節をBPM90で延々と繰り返すのだ。 聞けば、最初はBPM60からはじめて、今90でやっているとの事だった。
ジョーストラマーは「パンクは楽器を手にしたその瞬間から演奏する事ができる。それがパンクの素晴らしいところだ」的なコメントを残しているが、残念ながらそれは嘘だったと言わざるを得ない。
苦行の如き3時間が過ぎた後、メンバーと一緒に喫茶店に行った。 男性メンバーは女子高生ドラマーの努力と将来性に賭けてくれないか、と懇願する。しかし彼女がアナーキーインザUKを完璧に叩けるようになるまで一体どれほどの時間を要するのかと思うと俺は気が遠くなっていった。 メンバーと別れた後、その日のうちに加入辞退をメールで伝えた。 レスポールの重さが身に染みた。次いってみよー。
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