紫
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舞鶴港に着くと、もうフェリーが着岸するところでした。
フェリー乗り場に行くと、必ずといっていいほど思い出す光景があります。
それは少し胸が「きゅん」となるけれど。
でも、今は、船は確実にこちらに向かってきています。
甲板に出ている友が、いち早く私たちを見つけて大きく手を振っていました。
遠目からでもわかる日焼けした様子が「旅帰り」を演出しています。
船から降りる「旅人」を、港で迎えたことは初めてです。
思わず駆け出し、「おかえりー」と何度も叫んでしまいました。
旅の思い出をたくさん背負って帰ってきた彼女の笑顔は、もうすっかり「旅人」です。
きっと旅先で何かたいせつなモノを見つけてきたのでしょう。
「旅」についていっしょに語ることのできる友が、また一人増えました。
旅の報告、楽しみにしています。
おやすみ。
今年初の蚊取り線香をつけました。
懐かしいぐるぐる巻きのものです。
ぐるぐる巻きの先っぽにマッチで火をつけると、細くて白い煙が上へ上へと立ち上ります。
「夏が来るんだな」
天井に白くとどまる煙を見て、あらためて思いました。
そして大きく深呼吸。
季節を感じる瞬間は、人によってさまざまです。
季節は歳を重ねるぶんだけ、何度も何度も経験するけれど、いつもいつの年も「懐かしくも新しい季節」を感じていたいと思います。
新しい季節を探しながらゆっくりゆっくり、歩いていきましょうか。
おやすみ。
とおくの
おおきな
こおりのしまで
おおくの
おおかみ
とおずつ
とおった
「お」と「う」の使い分けを覚えるために、小学校1年生のときに、先生がイラスト付きで教えてくれました。
いまだにこの文で、使い分けを思い出すことがあります。
情けない(苦笑)
東西南北も私は「西東北南」と言わないと、東も西もわからなくなります。
これまた小学校1年生のときの教室が西向だったためです。
そのときは、「右手が『北』」と覚えました。
「友だちの気持ちになって考える」
これは、小学校1年生のころ、教室に貼られていた目標です。
この教えを守ろうと努力はしたけれど、なかなか難しいとも思いました。
いつかは忘れてしまいそうなことを、こうして日記に書いていくことで、なんとなく安心することを「歳をとった」と言うのでしょうか。
なんとなく今日はメモ書きのような日記で。
おやすみ。
祇園精舎の鐘の声
所行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理(ことわり)をあらわす
奢れるものは久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
言わずと知れた『平家物語』の冒頭です。
中学生のころに覚えさせられた人も少なくないはず。
かくいう私も、国語の授業で覚えました。
この冒頭の意味も『平家物語』の内容もなんとなく理解はしていたのですが、琵琶法師が語る怖い話、としてしか、私のなかには入ってこなかったように思います。
今日は、雨の降るなか、京都の花園にある「妙心寺」に行ってきました。
「沙羅双樹の寺」として知られるこのお寺。
樹齢300年の沙羅双樹が植わっています。
沙羅双樹という名は、「ナツツバキ」の異名というだけあり、形はツバキにそっくり。
朝に咲き、夜には散っていく1日だけの白い花。
花びらが一枚ずつ散るのではなく、花ごと「ぽとん」と地面に落ちていきます。
6月下旬の梅雨の時期が花の見ごろとあり、苔(こけ)むした地面には、もうすでに落ちた花でいっぱいでした。
和尚さんのお話のなかに、「今日しなければいけないことを明日に延ばさない」という釈迦の教えが出てきました。
沙羅の花は、1日だけの命を悲しんでいるのではなく、与えられた1日だけの命を精一杯咲きつくしているとのこと。
1日咲いて「ぽとん」と花ごと落ちる沙羅の潔(いさぎよ)さと人の良さそうな和尚さんのお話に、またしてもなんとなく『平家物語』の冒頭の意味が私のなかに入ってきたように感じました。
「諸行無常の響きあり」
そう、「今」は「今」しかないのです。
そんな「今」を、のらりくらりと暮らしている私。
私のよくいう「刹那主義」って、ホントはこういう意味なのかもしれないなあ、という考えがよぎっただけで、心のなかはお昼ごはんに食べるおいしい豆腐のことでいっぱいでしたとさ。
ごめん。
休みっ!
ひとつの恋を失ったとき、ふらりふらりと夜の散歩に出かけたことがあります。
深夜の中野通りは、昼間と違って人通りもなく静かで、夜風がどことなく優しくて。
ぽろぽろ、ぽろぽろこぼれる涙を隠すことなく、ふらりふらりと歩きました。
途中で寄った喫茶店のコーヒーはまったく味がせず、それでも泣きはらして真っ赤な目をしている私に、熱いおしぼりを2つ出してくれたマスターのさりげない優しさにまた泣いて。
小一時間ほど歩き回ってから部屋に戻り、熱めのシャワーを浴びたら、どこかしら心が元気を取り戻していました。
そのあと、時計の短針が3をさしているのを見届けて、深い眠りにつくことができました。
遠い遠い思い出の一コマ。
こうして穏やかに思い出せるようになるまでには数年を要したけれど、それでも宝箱の中から消し去りたくない思い出になりました。
おやすみ。
私の両親は、昔から私の質問に必ず私が満足するような答えを教えてくれました。
家族会議とか、両親に相談するとかあまりなかった家族でしたが、聞いたことには必ず答えてくれました。
私は、「なにやってんの?」とか「なんでこうなるの?」と人に聞く癖があります。
それは家族に限らず、友や会社の同僚たちにも思わず聞いてしまいます。
家族以外の人に「なにやってんの?」聞いたときは、「見てわからないんですか」と言われることがほとんど。
でもときおり、ちゃんとくれる人がいます。
以前、会社で歯磨きをしている同僚につい癖で、「なにやってんの?」と聞いてしまいました。
彼女は間髪入れず「枝毛抜きです」と答えました。
そのときのやりとりがいまだにおかしくて笑ってしまいます。
母もちゃんと答えてくれます。
「なにやってんの?」と言うと、
「夕飯のおかず、考えてんねん」「買い物行こうと思ってんねん」「スイカが大きくなったなあって思ってんねん」などなど。
先日は「なんで明日は雨が降るの?」と聞いてみました。
「沖縄のほうに来ている台風が、梅雨前線にちょっかい出してんねん」
ベランダの2センチほどのスイカを見て「まだ大きくなるの?」と聞くと、
「もうわしゃこれ以上大きくならんで〜、って言ってるやん」
お風呂嫌いな父の髪の毛を見て、
母「ほら、髪の毛が『洗ってくれ〜、洗ってくれ〜』って言ってるよ」
父「おお、そうか」(と言って急いで風呂に入る父)
阪神は今年はなんで強いのか聞いてみると、
「そろそろ優勝しなアカン時期やし」
理にかなっていない答えが多いのですが、それでも私の満足する答えをしてくれる母。
きっと私は明日もアサイチで聞くのでしょう。
「なにやってんの?」
聞かずもがな、明日はバルサンをたく日です。
早く出かけなければ!
ここ数年のあいだでは珍しく、梅雨らしい天気が続いています。
雨女の私。雨には慣れっこです。
とくにこの季節に降る「しとしとざーざー」と降る雨や、真夏の乾ききった道路を「じゅっ」と湿らす雨は、けっこう好きです。
いつから雨が好きになったのかは、わかりません。
でも、子どものころから、雨の日も外で元気に遊んでいたことは覚えています。
いえ、元気に遊んでいたのは、私と兄とそのほか数人だけ。
とくに女の子は、母親が連れて帰りに来ていました。
私は兄に連れられて、公園の土管のなかやこんもり茂った木の下、すべり台の下や砂場にあった大きなトンネルのなかに隠れて、秘密基地を作って遊んでいました。
やがて辺りが暗くなり、どろんこの濡れねずみで家に帰り着いたときの母の困ったような顔を、今もはっきり覚えています。
ただ不思議だったのが、母は雨に濡れたことをけっして叱ることはしませんでした。
いまだに傘を持っていても、雨が体に落ちてくる感覚が好きで、わざとささずに歩いたり、さすのを忘れたりして歩くことがあります。
先日、母が買い物から帰ってきました。
よく見ると、髪や衣服がしっとりと濡れていました。
手にしっかりととじた傘を持っている母。
不思議に思い、聞いてみると、
「傘をさすと、傘が濡れるでしょ」
………。
なんとなくその一言で、私と兄が雨に濡れても平気なわけがわかったような気がしました。
三つ子の魂百までとはいえ、こんな理由で雨好きになったとは、兄はいまだに知りません。
今日は楽しいことが3つ、ありました。
ひとつは、大阪の万博公園にある国立民族学博物館で、特別展「マンダラ展〜チベット・ネパールの仏たち」を見に行ってきたこと。
神社仏閣好きの私としては、かなりわくわくしながら見てまわることができました。
チケットをくれた友に感謝です。
ひとつは、チケットについていた入場券で、太陽の塔のある自然分化園に入ったこと。
いっしょにいった友と、芝生でゴロゴロごっこやかくれんぼ、よろよろごっこ(?)をしながら、楽しい話しをたくさんしました。
年甲斐もなくいっしょにはしゃいでくれた友に、感謝です。
そしてもうひとつは、チケットをくれた友と、年甲斐もなくはしゃいだ友と3人で、北海道の味覚をつつきながら、3人で機関銃のように話をしたこと。
北海道の味覚のあとに入ったコーヒー屋もいれて、3時間以上ぺちゃくちゃと話し続けました。
女同士で語るこの久々な雰囲気がとてもとても楽しくて。
こんな楽しい時間をくれた二人に、大感謝です。
そんなこんなで、楽しい気持ちを抱えたまんま、おやすみなさい。
大阪に来てから「ありがとう」という言葉を聞く機会が多くなりました。
いろんな発見があったのですが、この「ありがとう」は、かなり驚きがありました。
友に言わせると「朝の『おはよう』と同じ感覚」とのこと。
それでも自然すぎる「お礼の言葉」が、なんとなくくすぐったいような感じでしたが、すぐに慣れました。
だって、当たり前のことなんだもん。
とくに、今、住んでいる山に引っ越してきてからは、バスを降りるときに、小中高生たちが運転手さんに向かって必ず「ありがとう」と言う言葉を聞きます。
必ずといっていいほど、「ありがとう」と言っています。
習慣のような言葉になっているのでしょうが、たいせつな習慣だと思います。
「ごめんなさい」の国と日本は言われています。
「すみません」の一言が、いろんな場面で使われています。
でも、関西は「ありがとう」の土地なんだな、と最近、思い始めました。
そして、なんとなくうれしく思いましたとさ。
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