紫
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「ガス爆発が起こると、家ごと吹っ飛ぶの」
子どものころ、ガス漏れの恐ろしさを言い聞かせるために、母が私に言いました。
家ごと吹っ飛ぶ…? 家ごと宇宙に飛んでいくのかも?
そんな子どもらしいことを考えました。
でも、宇宙に行ったら空気はないし、家のなかにいたら生きていられるけれど、食べるものがなくなったら買い物に行かなきゃいけないし、でも空気がないから外にはいけないし…。
万一、私が留守番しているときに家ごと吹っ飛んだら、私は宇宙で一人っきり?
う〜ん、それはコワイかも。
ということで、ガス漏れにはかなり注意をするようになったワタシ。
でもみんなでいるときに家ごと吹っ飛んで、しばらくしたらほかの国に落下して、ガイコクに住めるようになるのも楽しいかな。
それもいいカモいいカモ♪
………、そんな夢のような話は、そのあとしばらく続くのでした。
否定だにしなかった母ですが、きっと不安に思ったことでしょう。
幼稚園のころのかわいいお話しでした。
前の職場の近所にある、昔、よく行っていた花屋さんに行きました。
フラワーアレンジメントを頼むためです。
少しの待ち時間のあとに、淡い色で統一された、小さくてかわいいバスケットアレンジメントが出来上がりました。
できあがった花の色調がとてもキレイで、何度もお礼を言いながら車に戻ると、とたんに涙があふれました。
「何かの間違いであってほしい」
そう願った日から1年経ちました。
「もし、今、ここに『彼』がいたら…」
という言葉を心のなかで繰り返し続けた1年が経ちました。
私はこの1年、できるかぎり「今日、起こったこと」を聞かないようにしてきました。
聞けば聞くほど、「今日、起こったこと」がより現実になるような気がしたからです。
どんなに抵抗しても、悲しい現実には変わりないのですが。
1年後の今日、初めてその「場所」に連れていってもらいました。
その途中で、初めて自分から「そのときのこと」について、友に質問しました。
答えるほうもつらいだろうに、私の質問にひとつひとつ答えてくれて、ありがとう。
弔問客が帰ったあと、夜、遅くなってから、彼の思い出について語られました。
彼の「最初で最後のお弟子さん」も、彼について語ります。
去年、私は彼女のために歌いました。
あんなふうに自分の思いっきりの気持ちをこめて歌ったのは、生まれて初めてです。
彼女のなかに生きている彼を、どうにかして「家族」の人たちに伝えようとしている彼女に向けて、私も何かを伝えたかったからです。
今日も彼女は、ていねいにていねいに言葉を選びながら、彼について語ります。
彼が生きた27年間は、こうして人に語られること、思い出されることによって、より多くの「意味」を成していくものなのかもしれない。
そして、彼について聞くこと、語ることによって、少しずつ少しずつ「心に宿」っていくものなのかもしれない。
「解」はやはり出ないし、言葉もまったく見つからないけれど、そう考えるようになってきたこの1年。
今年は、これから暑くなるのでしょうか。
おやすみ。
私の愛していた雑誌の部数が、少しずつ少しずつ落ちているそうです。
なぜだか理由はわかっています。
なぜだかは書きません。
でもやはり部数が落ちているとはっきり聞いたときは、かなりショック。
でも私にはどうしようもありません。
私はその雑誌とその読者を、ある意味、「捨て」てきたからです。
「編集」という仕事は天職だと思っていました。
今は、わかりません。
何度も、この迷いにぶちあたってはきたけれど、それでもやはり編集という道を選んできました。
でも、今はホントにわかりません。
会社を辞めて1年余りのあいだに起こったいろんな出来事に、私はまだ振り回されているような気がします。
もっと自分をしっかり持たないと。
だって、あんなに一生懸命、あの雑誌を作っていたのだから。
がんばらないと。
今日は、自分に向けて書いています。
でも少し(かなり)ふわふわモード。
早めにおやすみ。
2003年07月22日(火) |
やはり、せいいっぱい |
人に語ることで、「思い出」や「気持ち」は形になって、形になることで「思い出に宝箱」にしまえるようになるのでしょう。
「裏」にあるものと「表」にあるものと。
「裏」にあるものも、「評価」されたがっているけれど、なかなかそうはいかなくて。
やっぱり、自分のことでせいいっぱいだけれど、自分のことは最終的には自分で守らなければいけないのでしょう。
今日は、連鎖的にそんなことを考え出したら止まらない1日でした。
静かな夜です。
おやすみなさい。
朝から晩まで、同じ場所にいました。
朝は汗をかきながら、夜はパソコンを触りながら。
夜、かなり疲れているはずなのに、私の胃袋サイズの小さな小さなオムライスを作ってくれました。
卵ふんわりのオムライス、とてもとてもおいしかったです。
今日はホントにホントにおつかれさまでした。
ところで、今日食べたこのオムライスは、日本で発明された料理とのことです。
フランス語の「omlet(オムレツ)」と英語の「rice」が合わさった「和製英仏語」。
では、オムレツの意味はというと、昔、おなかを空かせたフランスの王様が「なんでもいいから、早く作れ」と言ったときに、そこにいた男が大急ぎでタマゴをかき混ぜて、料理を作ったそうです。
それを見ていた王様が「オム・レスト(すばやい男だ)!」と言ったところから、変化して「オムレツ」になったという話。
今日は、おいしいおいしいオムライスを食べながら、インターネットでそんなことを調べていたことは、ないしょにしておきます。
おやすみ。
今日はおやすみ。
「腕のいい職人さん」が、静かにていねいに組み立てた祭壇に、白い布がかぶせられました。
いちばん上に写真を立てかけ、お線香やろうそくを準備して、最後に遺灰が写真の隣に並びました。
それぞれがそれぞれに「今日、するべきこと」をこなしていっています。
そんな姿をみて何度も詰まる胸をおさえながら、今日の段取りを打ち合わせ。
参会者を席に案内して、それから「一回忌の法要」が始まりました。
お経が終わって、祭壇の横に並び、参会者にあいさつをする家族を見ていられず、思わずその場を離れました。
どんな年月を経ても、悲しみは「ここ」にあります。
なくなることはありません。
「彼の生きた27年間の意味を考えながら…」
彼の父の言葉がいつまでも耳に残ります。
やるせない悲しみのなか、昼の部の法要が終わりました。
少しの休憩のあと、夜の法要が始まりました。
夜は、彼を慕っていた旅人が集まります。
夜の法要では、彼の家族全員が参会者にあいさつをしました。
つい先日、彼の足跡をたどって初めての一人旅をしてきたばかりの彼の妹は、その旅で初めて兄と向き合うことができたとのこと。
「旅先で出会った優しさを、今度はみんなに返していきたい」
ホントにいい旅をしてきたんだと、あらためて思いました。
私は、彼女が泣いている姿を、ほとんど見たことがありません。
今日、涙を流しながら、一生懸命にあいさつをしている姿と、そして彼女を見守る家族の姿を、私は一生、忘れないでしょう。
それから、優しさでいっぱいの音楽をたくさん聴いて、みんなで歌って。
ここに集まる旅人の思いが温かすぎてやはり何度も胸が詰まり。
今日は、日付がかわっても、旅人たちでいっぱいでした。
いつまでもいつまでも、この場所が「ここ」にありますように。
いつまでもこの場所に「ただいま」を言い続けていられますように。
そんなことを切に願いながら、夜は更けていきました。
いつまでもいつまでも、いつまでも。
生まれて初めて自分のお小遣いで買ったレコードは、FR DAVIDの「WORDS」でした。
ラジオの深夜放送で毎週水曜日に流れていた曲です。
曲の感じがなんとなく気に入り、耳で聞いて歌詞をノートに書き出していました。
それでも中学校1年生の英語力では、知らない言葉がたくさん出てきて、なにがなんだかわかりません。
「ウオー、どんかみーじーつーみー…」
きっと戦争反対の歌なのだろうと思い、「戦争、それはいけない〜」なぞと訳していたように思います。
それでも、和訳に行き詰まり、悩みに悩んだ末、レコードを購入することに決めました。
13歳の私には、2500円のレコードは、かなり大きなお買い物。
初めて入るレコード屋さんに、少し緊張しながらも必死でレコードを探しだしました。
さっそく家に帰り、古ぼけたプレーヤーでさっそくレコードをかけ、歌詞を読みました。
Words don't come easy to me.
This is the only way for me to say I love you.
Words don't come easy.
!!
なんと、甘い甘い愛の歌ではありませんか。
私の英語力の低さにショックを隠せず、それでも「I love you」という歌詞に恥ずかしくも憧れていた13歳。
辞書を片手に必死で訳しました。
何日か後に訳し終わるとなんともいえない達成感。
あんまりにもクサい歌詞だったため、誰にも見せられません。
そのうち、レコードも歌詞もどこかにいってしまいました。
いったいどこにいってしまったのでしょう。
私に残ったものは…、人並みはずれた英語力!
なーーんて、うまい話はございません。
はい。
小学校のころ、年に一度だけ「父親参観日」という日曜日がありました。
「お父さんにも授業を見に来てもらおう」という企画だったのでしょう。
まだサラリーマンの週休が1日だけだった時代。
こどもも日曜に学校に行き、月曜を振り替えで休む、ということをしていました。
こんな企画、今もあるのでしょうか。
6年間、私の父は私の通っていた小学校に来ることはほとんどありませんでした。
私が忘れ物をしたときも、近所にいた職人さんに届けさせたり、私が病気をしたときも、職人さんに病院に連れていくように頼んだり。
それでも父を恨んだり、友の父をうらやんだりしたことはありません。
それが「普通のお父さん」と思っていたからです。
日焼けしてまっくろで、少し(かなり)おなかが出ていて、田舎から出てきましたとすぐわかるような顔の、お世辞でも「かっこいい」とはいえない父だけど、私はそんな父と、その父の「手」が大好きでした。
6年生になって最後の父親参観日がありました。
「来てね」と素直にいうのが恥ずかしく、「来ないで!」と母に強く言ってその日、学校に行ったのを覚えています。
学校から帰り、母親に今日の父の行動をなにげなく聞いてみました。
「アンタが来るなって言ったから、仕事に行ったよ。迷っていたみたいだけど。来ないほうがよかったんやろ?」
「ふぅ…ん…」
そのあと、父が私の通う学校に訪れたのは、大学の卒業式のときだけです。
なにかと有名人の多い我が母校。
いろんな人を目前に見られて、それはそれは喜んでいました。
そんな父を見て私は「ホントは父親参観にも来てほしかったんだよ」と心のなかでつぶやいたことも忘れられない卒業式、になりましたとさ。
おやすみ。
床屋さんは、前かがみになって頭を洗うんだってー。
顔にばしゃばしゃと水がかかるんだってー。
知らなかった、知らなかった。
世の中、まだまだ不思議なコトだらけ。
いちばん不思議なのは、自分自身だったりして。
あ、いえ。
私よりも私の父や母の言動のほうが摩訶不思議(まかふしぎ)。
今日は疲れた。
おやすみーおやすみー。
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