紫
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学生時代に住んでいた部屋は、北向きの寒い部屋でした。
朝、目が覚めて、前の住人が残していった温度計を見ると、4度、というときがありました。
まだ、太陽のあたっている外のほうが暖かかったような気がします。
冬の初めに、母が送ってくれたこたつと、父が買ってくれた電気ストーブをいっしょにつけると、電気のブレーカーが落ちてしまいます。
だから、カセットコンロをこたつの上において、つねにお湯を沸かしつづけながら、部屋を温めました。
部屋にカーテンもなく、すきま風がすーすーと入ってきたその部屋は、どうがんばってもそのときは12度くらいまでしか温まりませんでした。
それでも私は、その寒さを楽しんでいました。
大学に入りたてのころ、ある先輩が教えてくれました。
「夏の暑さはどうにもならないけれど、冬の寒さはいくらでも『暖』はとれる。たくさん着込めばいいんだよ」
その言葉のとおり、私は冬になったらたくさんたくさん着込んで、電気代やガス代を節約。
体内からも温めようと、沸いたお湯でお茶を入れて飲んでいました。
今から考えたら、電気・ガス・水道代だけで1月2000円にも満たなかったのですが。
つい先日、ふと温度計を見ると、6度。
すぐにガスファンヒーターをつけて、10分もすると13度まで上がりました。
たまには、昔を思い出して、着込み戦法で暖をとろうかな。
なーんてことは、微塵だに思いません。
私にとって暖かさは、ちょっと大きめの「小さなシアワセ」のひとつ、です。
高校のころ、制服が好きでした。
コバルトブルーのブレザーにエンジ色のネクタイ。
短くしても長くしても不恰好なスカート。
入学する前から評判の悪かったこの制服。
それでも、私はこの制服が大好きでした。
学校帰り、制服のまま、よく街まで買い物に行きました。
制服のまま、学校をサボって遊びに行ったり、映画を観に行ったりしました。
修学旅行生の多い土地がらのため、補導されることもなく、制服を着て遊びに行っているので、祖母に心配されることもありません。
なんといっても、自分自身が制服を着ていることを、いちばん安心していました。
私にとって、「お守り」のような存在だったのかもしれません。
制服を脱いで何年か後、母校に教育実習に行きました。
私が着ていたのと同じ制服を、がんばってかわいく着こなそうとしている生徒たちに、
「なんにもしなくても、今のままで十分にかわいいよ」
と言っても、通じないでしょう。
最後の授業のときに言った言葉は、
「卒業して何年か経ったときに、母校の制服を見て『あの子たちは私の後輩なんだ』って、胸をはって誰かに言えるような制服の着方をしてください」
先輩の影響を、もろに受ける後輩のために、そしてゆくゆくは自分のために、きちんとしていてほしい。
そんなことを伝えました。
「今は、わからなくてもいいから。きっとあとでわかるから」
そんなことを付け加えて、授業を終えた気がします。
どんどん自分が成長し、良くも悪くも変わっていくなかで、変わらぬ何かを見つけることのたいせつさを、5つ年下だった彼らはもう感じていることでしょう。
私の大好きだった制服は、限りなくきちんと着てくれそうな後輩に譲りましたとさ。
ディズニーランドに、初めて行ったのは、大学1年生のとき。
ちょうど今ごろ、高校時代の親友2人が、東京の私の部屋に遊びにきました。
「お金がないから行かない」と渋る私を連れ出してくれた2人。
なんと、そのときから東京を離れるまで、ほぼ毎年、ディズニーランドに行くようになりました。
年に2回も3回も行ったこともあります。
ディズニーのキャラクターを見ても、かわいいとは思えなかった私。
今もそんなに好きではありません。
でも、あのディズニーランドのなかにいると、ディズニーワールドの住人になったような気分になりました。
何年か前に「ディズニーシー」ができたようですが、これにはまだ行っていません。
なんとなく、行きたいような気もしますが、「ランド」にもまた行きたい。
いったい、どっちが楽しいのでしょう。
これが私の今の悩みごと、です。
あぁ、眠れぬ夜が続く…。
今日は毎年恒例の「カニパーティー」。
今年で3回目です。
いつも、友が小樽からカニを取り寄せてくれます。
どうもありがとう。
大きくて、身が詰まっていて、見るからに「おいしそうーっ」と叫んでしまえるカニ。
おそらく来年は、この会はお休み、です。
この友夫婦の家に通い始めて何年経つのでしょう。
そんなに長い年月は経過していないはずなのに、彼らは、私のことを何もかも知っているような気がします。
来年は、こうして「息抜き」をできる場がなくなるんだな。
そう思うとちょっとしょんぼり。
でも、まだ来月は、彼らと「パンの会」が待っています。
それから、「屋根に降りつむ」雪の会♪
楽しい思い出をたくさん作りましょう。
おやすみ。
昔は、「病院嫌い」でした。
たいして意味はないのですが、ただ病院に行くと「お金がかかる」という理由でした。
学生時代は、保険証がなくても大学側が払ってくれるので、医療費はタダでした。
といってもあまり病院に通うことはなかったけれど、親知らずは2本、抜きました。
会社員になってからは、医療費は当時は1割負担。
それでも、薄給だった私は、あまり病院に行かなくなりました。
薬も会社にあるもの以外は、服用しなくなりました。
「風邪をひいたら、自力で治す」
そんなどこかの宗教のようなことを考えていました。
いえ、どれもこれもお金がないから、だけの話です。
あるとき、薬剤師の知り合いがたくさんできました。
そのなかの一人(同僚・友)が、教えてくれました。
「風邪をひきかけたら、すぐに病院で抗生物質をもらったほうがいい」
薬局でもらう薬は、炎症を抑えるだけで、根本的な治療にはならないそうです。
しかも強い。
病院でもらう抗生物質は、風邪の菌をやっつけてくれて、患者さんの体に合わせて処方してくれるから、治りがはやい。
そんな説明を受けました。
なるほど!
年度版の本を作っていたため、毎年1〜3月は、風邪なんてひいていられなかった私は、ちょっと喉が痛いと思ったらすぐに診療所に通うようになりました。
お金がもったいない、なんて言ってられません。
今もなるべく早めに病院に行くようにしています。
人にも病院に行くことを進めます。
医者嫌い、抗生物質嫌いの人が増えてきても当然のような世の中ですが、少なくとも人に迷惑をかけないくらいの健康管理は、していきたい、と思います。
といいつつ、今年も私は風邪をひくんだろうな。
やな予感。
南極に人が住んでいると知ったのは、小学生5年生のころ。
『復活の日』という小説が、南極を舞台にしていたからです。
小松左京さんの原作で、映画化もされています。
なぜ、この本を読もうとしたのかはもう忘れましたが、読み終えると、どうしても映画が観たくなって、母に頼んで映画に連れて行ってもらいました。
原作も映画も、とても衝撃的で、細菌兵器で人がどんどん死んでいき、南極にいる人たちだけが生き残る…という内容でした。
動物園の象が風邪で倒れたり、大相撲が中止になったり、道端にバタバタと人が倒れて死んでいったり。
そのときの影響で、今も得体の知れない風邪がはやったときは、「細菌兵器?」とつい考えてしまいます。
一昔前までは、「んな、バカな」と思い直していましたが、今は、あってもおかしくない世の中なんだろうな、と思います。
「風邪をひいたら、南極に行こう」
当時は、そんなことを考えていた私。
その小説を読んだ私は、すでに南極で越冬を経験した気分になっていました。
南極越冬隊員、今もテレビの特集を観ると、「おー、懐かしいなあ」と思ってしまうのは、入り込みすぎ?
おやすみ。
高校3年生のとき、大学受験のため、始発の新幹線に乗りました。
旅好きな家庭だったため、遠くに行くこととか特急電車に乗ることには慣れていた私。
指定の席を探して、荷物を棚に上げて、とりあえず参考書だけは手元に置いて、窓の外を見ました。
送りにきてくれた母がゆっくりと離れていくと同時に、ぽろぽろと涙がこぼれてきました。
「1人なんだから」
そう思って、高校時代を過ごしました。
どこかに行くのも、何かをするのも、できることは1人でしようとしてきました。
心の迷いも不安も何かを決定しなきゃいけないときも、誰に相談するでもなく、全部1人で解決してきたつもりでした。
無理やりに「1人」にこだわっていたような気がします。
たぶん、「頼っていたもの」から、突然引き離されたときのとてつもない「不安」を、二度と経験したくなかったからかもしれません。
膝の上に数学の参考書を置きながら、窓の外をずっと見つめていました。
たった1泊2日の「大学受験の旅」。
もう、頼ることのないと思っていた「親」が、ホントはすぐそばにいたことを感じた朝。
いくら遠くに離れていても、「親」はいつまでも心のどこかで頼っている存在なんだろうな。
そんなことを考えながら、名古屋に着くちょっと前から、ぐっすりと眠りに入りました。
そんなこんなで、そのときの大学入試は、大失敗の巻。
今日は、久々に。
ちょっと、さびしんぼ。
「何か」にあせっている自分がわかります。
それが「何か」もわかっています。
わかっているだけ「マシ」なのでしょう。
でも、わかっているのに、何も動こうとしない私。
そろそろ、またがんばるとしますか。
今年(毎年)の目標に向けて。
つつがなく終わった今日1日。
「可もなく不可もなく」がいちばんいいのかも。
…ん?
可もなく不可もなく、だと、「秀」「優」「良」だけってこと?
う〜ん。
となると、もうひとがんばり、しますか。
まずは、おやすみ。
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