紫
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麻雀牌に、花札、株、パチンコ台。
正統なところで、百人一首。
子どものころのお正月の遊びです。
お正月だけではなく、親戚が集まったときや、家族でなんとなく気が向いたときに、なぜか花札とか麻雀とかで遊んでいました。
これが、ただのゲームではなく「賭けごと」につながるということは、ずっと後から知りました。
こういうゲームは、子ども同士で遊ぶより、おとなが入ったほうがだんぜん面白い。
「ポン」とか「チー」とか言い過ぎると、決まって「泣き虫は嫌われるぞ」と一言いう叔父。
「四一(よいち)、九一(くいち)で親の総取りや」
と、必ずいう祖母。
おとなになるに連れて、これらのゲームは自然としなくなりました。
しなくなったというより、親戚同士で集まることがなくなったことと、周りに株や花札を知っている友がいなかったこと、それから、中学生のときに、クラスの男の子たちがしていた花札や株の子どもじみたところを見て、イヤになったことが理由です。
今では、トランプでさえしなくなりました。
きのう、久々に「くっぴん」という言葉を使いました。
賭け事はきらいだけど、また子どものときのように、祖母と歳の近いいとこたちと、それから彼らの父である叔父と、「オイチョカブ」をしたいな、と思いました。
今はもうこの世にいない叔父の思い出のひとつです。
おやすみ。
「妙な言いがかりは、いいかげんにしてください」
なーんて、セリフ。
どうでもいいことが多すぎますね。
なにげなくテレビを観ていると。
……ええっ!
いかりやちょうすけさんが、亡くなった?
あの、ドリフターズのいかりやちょうすけさんが?
ドリフターズといえば、私の幼少年にを風靡(ふうび)したお笑いグループです。
ご本人たちは「コミックバンド」でデビューしたそうですが。
当時、我が家に住んでいた大工の職人さんたちといっしょに、毎週、「8時だよ!全員集合!」と観るのが楽しみでした。
夜、遅くて、朝、早い職人さんたちに合わせて、私も無理して早起きしたり、ずいぶんと夜更かししたりして、結局は「子供の教育に悪い」ということで、アパートを借りてもらったそうです。
ちょっと寂しくなった我が家。
でも、ドリフターズの番組だけは、その後も毎週観る習慣は残りました。
いかりやちょうすけさんの訃報は、私自身にとっても、そんな「思い出」から「お別れ」するようで、なんとなく物悲しい。
ホントは、「お別れ」ではなくて、ますます色濃くなってくるのは、わかっているのにね。
おやすみ。
あぁ、仕事をしなきゃ。
そんなことを思いつつ。
ホームページのリニューアルを始めてしまいました。
そんなこんなで、明日、オープン。
でも、トップページだけのリニューアルになるでしょう。
ではでは。
おやすみ。
なんとなく、2002年3月の日記を読み直しました。
私が会社を辞める直前の日記です。
見事にほとんど会社関係のことばかり書かれていました。
「いっぱいいっぱい」だったんだなぁ、と思いました。
辞めたことには、やはりまったく後悔はしていないし、思い出すと腹立たしいこともたくさんあるけれど。
やりのこしたことがいっぱいあったなぁ。
そんなことを思いました。
今日は、もうおしまい。
今日も取材。
今月は、取材月です。
でも、もうないでしょう(たぶん)。
月曜日までに3本、記事を書きます。
構想はできているので、大丈夫でしょう。
土日は、つぶれますが、いつものコトです。
今月は、ちょっくら旅に出よう、と思っていたけれど、しばらく先になりそうです。
そういえば。
会社を辞めてから、車で日本一周しよう、と思っていたことを思い出しました。
各地に滞在している旅の友を訪ねてみよう。
そんなことを思っていました。
そんなことを思っていた自分が、なんだか、とても、懐かしい。
……。
あぁ、現実逃避。
記事を書かねば。
ぜんぜん、大丈夫じゃなーいっ。
おやすみ。
「あ…、あの白い花…」
大学4年の春、もうすぐ卒業を迎えているとき。
ふと、白い花が目に入りました。
「あ、あれは、木蓮かな。木蓮だよね?」
……。
いっしょに歩いていた友に聞かれても、わかりませんでした。
それどころか、「木蓮」という名前の木があるのも初めて知りました。
空に向かって、花を咲かせているその木に、就職を目前に控えた私とその友には、とても心強く見えました。
木蓮。
今も、白い木蓮を見ると、そのときの気持ちと、そのとき、いっしょに歩いていた友を思い出します。
木蓮という「名」を、教えてくれて、ありがとう。
今は、中学校の教師をしている友に、いつか直接、伝えたい「気持ち」です。
おやすみ。
今日の日記は、おやすみ。
2004年03月15日(月) |
今日、感じた・思った |
胸にこみあげてくる熱い「何か」を、おさえるのに必死でした。
壁に飾られた数枚のモノクロ写真。
それは、確かに彼の「聖地」を映したものでした。
故郷を「聖地」と呼ぶ彼。
故郷を「聖地」と呼ぶ意味を知っている彼のモノクロ写真に、いつの間にか、こらえていた涙が頬を伝っていました。
「なにひとつ不自由のなかった旅館のぼんぼんが、一転して奈落の底に落ちた。つらい日々だった。しかし逆に考えれば運命が与えてくれた贈り物だったとも思う。僕はそこで遅まきながらはじめて自我というものに目覚めたのだからね。自分が子供から大人になる分岐点が、くっきりとそこに立ち現れたんだ」(藤原新也の写真展より)
インド、アメリカを放浪して、23年ぶりに生まれ育った故郷に帰ったという藤原新也さん。
そのときの思いは、生意気ながらに私にはわかるような気がします。
でも、すべてがわかるというわけではありません。
なぜなら、私はまだ「故郷」に帰り、そのときの「思い」をつづる気にはならないから。
ただ、今日は、なんとなく背中を押されたような気がしました。
乗り越えなきゃいけないものは、身近にある。
そんなふうに、ただ、思いました。
おやすみ。
先日、取材した記事を1本、書き上げました。
書き上げた、といっても、27字×14行。
たいした量ではありません。
それでも、この短い分量のなかに、主張したいこと、そのときの情景を簡潔にまとめなければなりません。
2時間ほどかかって、ようやく文字数におさめて、メールで入稿。
ふぅ。大丈夫かな。
明日もまた、小難しい内容を取材します。
あぁ、緊張。
今朝からどうも調子が悪くて、取材の準備は、遅々として進まず。
さて、明日はいったいどうなることやら。
目下のところ、この風邪らしき体調の悪さから、うまく逃げ出すことだけを目標に。
おやすみなさい。
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