紫
|MAIL
目次|過去の日記|未来の日記
父の入院費を支払いに病院に行きました。
たった10日間ほどの入院でしたが、けっこうな金額でした。
きょうもまた母といっしょに役所に行き、いろんな書類を受け取りました。
そして、きょうも母はつぶやきます。
「ついこの間、ここでいっしょにコロッケを食べたのになぁ」
父は、つい最近まで元気でした。
入院してからも、長丁場になることはわかりましたが、こういう結果になるとは思ってもみませんでした。
「あのリハビリ室で、半年後にはリハビリをしていると思ってたのになぁ」
ぽつりと出る母の言葉に、胸がざわざわするけれど、やはり私は泣けません。
出るべきところに出ればいい、と言う人もいるけれど、私にはそういう「知恵」も「勇気」もありません。
ただ、ただ、日に日に元気をなくしていく母の力になることで、せいいっぱいです。
思いがけず弱い母に少し動揺しながらも、私はなぜ、こうも強(したた)かでいられるのか。
それは、私は16歳のときに一度、家族をなくしているからなのだと、きょう、気づきました。
母は、父とふたりで一生懸命に生きてきました。
私は、あの日から「ひとり」で生きることを強いられてきました。
そっか。
だから、私は強いんだ。
とはいえ、やはり「死」という喪失感にはとまどうばかり。
今、読みたい本はやはり喪失と再生の物語「ノルウェイの森」でしょうか。
おやすみ。
米子に住む友を待って、神戸に住む「パパ」さんが、思いがけず早く来てくれて、みんなできょうの準備を始めました。
明日、家族の住む場所へ帰る友の送別会のために。
料理の注文とドリンク類の買出し、お惣菜の調達、ネットでギターコードを探し出し、いきなりピアノ伴奏を依頼。
ホントは、もっと早めに準備に取りかかる予定だったのだけど、私用でそれもままならず。
それでも、主役の人柄が映し出された、とてもとてもやさしい会になりました。
みんな、一言ずつ、友へ向けての言葉を贈ります。
その一言一言に、友が言葉を返します。
そう、この雰囲気。
このあたたかさ。
ムショウに胸が詰まります。
私も、友に向けての歌を準備していたけれど、それは、やめておきました。
ちょっと、場違いな気がしたのもあるけれど、ホントは、私が精神的にギリギリのラインに立っていたから。
友に伝えたい言葉や気持ちは、とめどなくあふれてきます。
でも、それは、心の隅に置いておくとして。
「行ってらっしゃい」
明日は、友の、旅立ちなのです。
おやすみ。
今月、故郷に帰る友を、家まで送りました。
これで、ホントに最後です。
最後に手を振り別れました。
これで、ホントに最後。
おのずと、私の好きな歌が頭の中を流れます。
「さよならだけが、人生さ」
ひとつひとつの、さよならの瞬間を、大切にしたい。
以前にも増して、そう思います。
おやすみ。
友人たちに、ランチに誘い出されました。
私の歯医者の診察日に合わせて、集まってくれた友人たち。
どうも、ありがとう。
16階にある中華レストランのランチを食べました。
味はそれほどでもなかったのですが、10人用の円卓を4人で囲んで2時間ほど長居。
そして、その後、小一時間ほど散歩をして、途中でなぜか10分100円の「ぶるぶるマッサージ(正式名不詳)」で運動したつもりになり、それから私には珍しくおいしいといわれるケーキ屋さんでケーキ……と言いたいところですが、ベーグルとコーヒー。
そこでも3時間近く居座り、延々と尽きることのない話をして、大笑い。
……。
…………。
あ、私、本気で笑ってる。
そんなことに気づいたときには、私はもう満面の笑みだったことでしょう。
ここ数日の春めいた日よりに素直に喜べなく、あの3月中旬に訪れた寒波が恨めしい日々でしたが、今日は全身で春の訪れを喜んでいました。
あしたは、暖かい「春の雨」が降るそうです。
傘をお忘れなく。
おやすみ。
「しんどい?」
そう聞くと、父は確かに首を横にふりました。
母と私はその言葉に、安堵を覚えました。
「がんばってよ」
と言うと、父は小さく、それでも確実にうなづいていました。
がんばる意思があることに、私たちは期待しました。
きょう、ふと、そのときのことが思い出されました。
一生懸命、ホントに一生懸命に呼吸をしている父。
しんどくないはず、ありません。
あれは……。
「しんどくないよ」と首を横に振ったのは、父の最期の「やさしさ」だったのかもしれません。
そして、そのとき、父は自分の「最期」を悟っていたのでしょう。
そして……。
側にいる医療者は、もっと早くに父の死を感じていたのだと思います。
医療者の端くれである私も、あの独特の呼吸に「死」を意識しなかったわけではありません。
「家族」だから、気づかないふりを、いえ、治るほうに期待をしたのでしょう。
私は、この気持ちを忘れないようにしていかなければいけません。
父のために。
これからの、ために。
おやすみ。
インターホンに掃除機、ガスコンロ、テレビなどなど、家の中のありとあらゆるものが壊れてきています。
「だんだんと古くなってきたなぁ、おい」
ここ数日、父がよく言っていたそうです。
買い物好きの父は、元気になったら母といっしょに買いに行こうとしていたそうですが、できなくなってしまいました。
とはいえ、このまま買わずにはいられません。
まずは、緊急度、重要度を考えると、毎日、必ず使う「ガスコンロ」を買いに行くことにしました。
これは、ガスをつけるにはつまようじでコンロのとある部分を支えておかなければいけなくなるほど老朽化していたからです。
私がいないときに、ガス漏れなどを起こしてもらっては困ります。
ということで、近所の「コーナン」というホームセンターに行きました。
偶然、特売のコンロがあり、有無を言わさず購入。
時間があったので、インターホンも見に行くことにしました。
私は機械音痴ではないけれど、インターホンともなると、取りつけがよくわかりません。
パッケージの説明を読んでいると、母がひっきりなしに話しかけてくるので、なかなか理解できません。
しかも、電気の配線なんて、まったくさっぱり理解不能(汗)
こういうときに「男手があったらなぁ……」と珍しく弱気。
でも、父は「インターホンなんてわかるかいっ!」と言って、見向きもしてくれなかったとか。
男手があっても、その「手」によっては役立たずということでしょうか。
でも、そんな役立たずな手でも、生きていてくれれば、よかったなぁ……。
おやすみ。
父の戸籍をとりに、父の戸籍のある町まで行きました。
ここは、私の生まれ育った町でもあります。
以前は、この町に来るのがとてもいやでしたが、今は「懐かしい」という気持ちしか感じません。
やっぱり、ちょっとは成長したのかな。
助手席に座る母が「変わったなぁ。ますます田舎になったなぁ」とつぶやきます。
当たり前ですが、幼かった私よりもこの町の思い出をたくさん覚えている母。
何も言いませんが、おそらく父とこの町で暮らしたときのことを思い出していたのでしょう。
父の戸籍はすぐには出ませんでした。
他府県になると、死亡届けが戸籍に反映されるのが1週間ほどかかるそうです。
仕方がないので郵送にしてもらうことにして、帰りに家族全員で大好きだった「第一旭」のラーメンを食べて帰りました。
何をするにつけても、どうしても父のことが頭から離れない母。
ひいき目に見ても、仲のいい夫婦ではありませんでしたが、これほどまでに気落ちする母を見ていると、これが長年連れ添った「配偶者の死」というものでしょうか。
ご心配をおかけしていますが、私は元気です。
「親が死ぬ歳なんだな」とここ数年、覚悟はしていました。
それが少し、ほんの少し早かっただけで、順番を違(たが)わなかっただけでも幸いなのだと思っています。
ただ心配なのは、心配性で寂しがりやの母。
母に代わりにすべての手続きをすることが精一杯で、私にはどうすることもできません。
ただ、ただ、時間が静かに経ち、気持ちを癒してくれるのを待つだけなのです。
心静かに。
おやすみ。
午前中は惰眠をむさぼり、午後からは役所へ行きました。
きょうは母もいっしょです。
休み明けのせいか、それとも異動の多いこの季節のせいか、役所はとても混雑していました。
つい2日前。
ひとりで「死亡届」を出しにきたときのことを、感情といっしょに思い出しながら、世帯主の変更などの手続きをして、きのう、母と歩いた商店街まで買い物に出かけました。
母は、父のいたころと同じように買い物ルートをたどり、父の好きだった「ちりめん山椒」を作るために材料を買い揃え、さんざん父の悪口を言ったあと、「つい2週間前までは私のために風邪薬を買ってきてくれていたのになぁ……」とぽつりと言いました。
母の一言ひとことに、むせかえる気持ちをこらえながら、ふと気づきました。
これまで、肉親を亡くした友にかける言葉は見つからず、自分の非力さを嘆いたことが何度もあったけれど、かける言葉なんて、どうでもいいのです。
どんな形にせよ、友から送られてくる言葉や気持ちたちが、どれほど遺族を慰めるのかを、初めて知ることができました。
私って、こんなに弱ったっけ?
まだまだ悲しみがあふれてくるのは当たり前?
急すぎた父の死を、いちばん受け止められていないのは、もしかしたら私なのかもしれません。
でも、私は泣いている場合ではありません。
まだまだ、私にはするべきことがたくさんあるのです。
おやすみ。
昨夜は火の番で、葬儀会館に泊まりました。
珍しく母がビールを飲み、珍しく母が夜更かしをしていました。
テレビのないひっそりとした部屋だったけれど、昼夜問わず通りを走る車の音が、その静けさを乱してくれていました。
深夜に訪れた突然の弔問客に驚きながらも感謝をしながら、今日になりました。
告別式は、いちばん遅い時間帯しかあいていなくて、午前中は母と会場近辺を散歩。
よく晴れ渡った、気持ちのおだやかになる空を眺めながら、てくてく、てくてくと歩きました。
「こんなにいい日になるんだから、悪い人じゃなかったんやね」
ときどき、気丈にも故人をしのぶ母の言葉に胸が詰まるけれど、今は泣いている場合ではありません。
私じゃない。私がいちばん悲しいんじゃない。
そんな、どうでもいい言い訳を自分に言い聞かせて、てくてく、てくてく歩きました。
昔、よく母と通った「立ち食いうどん」を久々に食べ、ほのぼのとあたたかい川沿いの道をのんびり歩きました。
今日の空と、このうどんの味を、私はきっと忘れないんだろうな。
そんなことを考えながら、「私がしっかりしなきゃ、なぁ……」と思いながら、葬儀屋さんといろんな打ち合わせを済ませました。
打ち合わせ、といっても、気心知れている親戚しかいないので、それほど大したことはありません。
きのう、初めて会ったお坊さんは、とてもとてもいい人で、その優しい言い草に、これまた胸がぐぐっと詰まるけれど、それはこらえて、その時間を待ちました。
きのうより落ち着いていました。
でも。
きのうより気持ちがざわざわしていました。
これまで、家族を守ってきた気の強く、友の多い母からの、文句を含めた父との思い出」をぽつり、ぽつりと聴きながら、空を見上げ……。
そして、いろんな人に弔問の申し出のお断りをして。
14時。
告別式が始まりました。
きのうと同様、とてもとても、あたたかくて、親戚たちが私と末っ子の母を見守る「親」のようなまなざしに、悲しみよりも感謝の気持ちがこみあげてきて、おかしなことに私は微笑んでいたかもしれません。
なぜか、今は老人ホームにいる祖母との思い出が走馬灯のようにかけめぐり、フシギと涙はこぼれませんでした。
そして、故人との最後の対面を済ませて、父は火葬されました。
終わったな。
子どものころの、バレエの発表会が終わったときに似ている「達成感」のある気持ちを懐かしく感じながら、こんなときにしか顔を合わせない親戚と、子どものころの私やいとこたちの話しで盛り上がり、「お疲れでませんように」と心のこもった常套句を、ありがたく受け止めて、家に帰りました。
父の部屋に四十九日までの祭壇(?)を作り、お線香をあげると母が言いました。
「ずっとこらえていたけど、やっぱり寂しいなぁ」
目を真っ赤にした母の本音を聞きながら、私も子どもころのように思いっきり泣ければいいのだけど、喪主に代わって、私にはまだまだこれからするべき手続きがたくさんあるのです。
なんとなく「一家離散」した日のことを思い出しながら。
そのときと、なんら変わっていない弱い自分を、たしなめて。
おやすみ。
おやすみ。
おやすみなさい。
2007年03月20日(火) |
もっと……、もっと…………… |
あまり眠れない夜を過ごして、アサイチで市役所に行きました。
むせぶ思いをこらえながら、いろんな手続きをしました。
思いがけず時間がかかったけれど、最後に大きな白い箱を持って家に帰ると、母が「どうだった?」と聞いてきました。
今日と明日の予定をできるかぎり冷静に説明し、きのうの夕食用に買った賞味期限切れのおにぎりをおそるおそる食べて、14時過ぎに家を出ました。
恥ずかしながら金銭的都合で、いちばん小さい会場・いちばんシンプルな祭壇しか選べなかったけれど、それは意外ときれいで、そして左右に供えられたいくつかの生花が、華やかさを増してくれていました。
「そのこと」を伝えてくれた人たちと、生花の贈り主、そしてあまたにわたる電報、書留に、それから私に送られてくるおびただしい数のメールに、心の中で何度も何度も「ありがとう」と繰り返しながら、親戚が集まるのを待って19時。
総勢10名の小さな小さな「お通夜」が始まりました。
喪主の意向で、親戚だけにしか声をかけなかったお通夜でしたが、それはとてもとてもあたたかくて、シアワセな夜でした。
「遠くの親戚より……」とは言うけれど、私は祖母の側で育ち、血のつながりのたいせつさを教わり、少し「苦労」をしたせいか、「親戚」は私を大事にしてくれているのがわかります。
ホントにありがと。
ありがとう。
とはいえ。
なんだろう。
感謝する気持ちは、もっともっと伝えたい。
だから言います。
きのう。
私の父が亡くなりました。
もっともっと、生きたかっただろうに。
無念のまま。
おやすみ。
目次|過去の日記|未来の日記