同い年のイトコのMくんは 母方の本家の跡取りです。
本家は宮古の老舗の酒屋さんで、母が9人兄弟だったので お盆や正月に集まるイトコ、ハトコの数ははんぱではなく 小さい頃は本当に良く遊びました。
大きくなってからは、私の家も本家も運は傾き、倒産、引っ越しなど 相次ぎ、すっかり疎遠になってしまいました。
津波警報のなか、彼は車をとばして彼の母を迎えに行きました。 国道45線は海岸沿いを南北につなぐ道路、南下すれば 山田町、釜石、大船渡、陸前高田、 今回の被災地を全部結ぶ道路です。
「まだ波がひいてる、まだ間に合う!」と長男と 絶叫しながら全速力で45号線をかけぬけ、海沿いの低地に住む母親を 迎えに行ったそうです。
彼は間に合いました。彼の母親も無事でした。
「今から思えば、たぶん津波が俺たちのうしろを追いかけて きてたんだと思う。」 彼はガハハと笑いました。
鍬ヶ崎の彼の家は流され、2階だけが無事に残っていたそうです。
「濡れてないマットレスだけ持ってきたけど、めぼしいものは みんな盗られて、なにもないんだよ、 ふと見たら、かもいにあっちゃん(私のこと)の書いてくれたサイン色紙が 飾ってあったから記念に持ってきた!!」と彼はガハハと大笑い。
盛岡に着いてから そんな色紙書いた記憶ははるか彼方 何十年も前の絵だったのでは・・・
がれきの中で、わたしの色紙を手にとってくれた彼の姿を 思い浮かべたら、道を歩きながら 涙がポロポロこぼれて仕方なかったです。
2011年03月20日(日) |
あんたたちには見てほしい |
宮古市にバスで行ってきました。
親戚、同級生、知人の家を回ってきました。
ニュースの津波画像で皆さんご存じでしょうが 宮古の津波は真っ黒い津波でした。 閉伊川河口のヘドロを巻き込んで町になだれ込んだのです。 真っ黒なドロあとの粉塵もひどく、マスクが欲しいという イトコの言葉がよくわかりました。
大通りには大きな船が、街灯をなぎ倒して転がっていました。
親戚のおじさんが、亡くなってました。 でも、母や義父母、イトコたち、みんな元気で明るく それぞれの「危機一髪」の話に大笑いして、本当に笑い話になってよかったと 思いました。
帰りのバス停で、 中学生ぐらいの女の子2人を見送るおばあちゃんが 『今は、ごたごたしてて町を見せたくないと思ったけど せっかく来たいって言ってくれた あんたたちには 見てほしいと思ったの。 (わたしたちが復興する姿が )いつかあんたたちの力になるかな、と思ってね。 あんたたちには見て欲しいと思ったの」
と、わたしの後ろで話をするおばあちゃんの言葉がきこえ 胸に響きました。
遠い遠い未来を見据えて、自分たちの決意をこんなふうに 言葉にできるなんて。
なんて人としてすごい方だろう、と思いました。
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