目次過去未来


2001年10月03日(水) 亡国の建築



 京都の町屋を見直そうと、建築家の卵の学生達に案を募集して、その中の優秀なものを実際に現役の建築家が協力し、京都のど真ん中に町屋を建てることが決まったようだ。
大学では木造建築や、日本の尺、間などは教えない(音楽も、某有名日本人ソプラノ歌手が言っているように、ピアノ・リコーダーを教えても琴、笛は教えないし、音楽室に掛かっている肖像画は、ほとんど全部外国人の音楽家で、浪速のモーツアルトはかかっていない??)。
大工は出る幕なく、建築家ばかりが排出されるようになっている。日本人は昔からあった日本の単位をすてて、外国の単位を取り入れた。世界基準だという事だった。が、よく見てみると、未だポンド・ヤード・マイルは現役だ。アメリカなんかいまだcmではなくインチを使っている。

 昔からマンションに、テッコンキンクリートにはどんなに落ちぶれても住まないと言う固い決心の下、暮らしてきた。だから今も、猫の額ほどの庭付きアルミサッシュがない借家に住んでいる。マンションより遙かに安く快適だ。
 今回上の京都の町屋が、新しく作られる事が我が事のようにうれしい。三軒長屋共同のろうじ、井戸端会議の場所がある、うなぎの寝床の細長い玄関がある。最奥には坪庭がある。いいなぁ!

申し込みはほぼ一杯だそうだ。買うことを決めた老夫婦は老後は、こういう環境で、縁側でビールを飲んだり、妻が入れてくれたお茶で和んだりするのが夢でしたと言っていた。
 大学の建築科に木を使った住宅を造りたいという、学生は結構多いそうだが、何を血迷っているのか、教えないのだ。ベッドで寝て、畳を棄て、洋風の生活を良しと教え込んだのは誰だろう。
かといって、ぺらぺらの合板で家を建てるのは反対だ。年月が経てば確実にジャンクになる。いい素材で破産しそうになるくらいの予算で建ててもらう。いっそ予算なんて大工に、棟梁にまかせてしまう。
そうすると確実に後世に残るし、また高く売れる物ができる。

まぁ、建築家になる人達は大半田舎者上がりで、無いものに憧れてきた。京都にも“鷹末浸(仮名)”なんていう、あと2.30年したら確実にジャンク扱いの建築物を作る建築家(本人の事務所はなんと京町屋なのだ!)が、幅を利かせているけれど、上のような動きが出てきてようやく日本人も目覚めて来たようなのだ。本当に嬉しい。
作品としては面白い、暗頭只男(仮名)の設計した町屋(コンクリート打ちぱなし)の狭い部屋に、ホーム炬燵を置いて婆ちゃんが入っているその背中は、冷え冷えした灰色の、背中から冷えて年寄りには辛いだろうコンクリートだった。テレビで放映していた。

 おまけに雨が降ったらトイレには傘を差して!!一階の空間(庭ではない)を横切らねばならないのだ。
何でも合理的なのは良くないという発想だそうで、ここの若い息子は建築家のファンだそうだった。今、その家族はここを売り払ってどこかに引っ越したらしい。そうだろう、住めへんで!オブジェには。









2001年10月01日(月) 遠くの蕎麦屋



 北山通り、植物園裏側のちょっと入った所に「甚六(じんろく)」という蕎麦屋がある。知る人ぞ知る蕎麦屋で、その精進の仕方はもう並ではない。
自分でも蕎麦を打つので、そこらの蕎麦屋なんてちゃんちゃらおかしいのだけど、ここの蕎麦屋にはかなわない。
まず、そう常連でもないのに、話が蕎麦のことで馬があったと思ったら、これも食えこれも食えと出してくる。曰く、これは徳島の祖谷の蕎麦を挽いたもの、今日店で出しているのは茨城産もの、これも食ってくれと、今度は福井産のそば粉で、蕎麦がきにして持ってくる。
こっちの注文はざる一枚にも関わらずである。昼の間、数時間しかあいていなくて、夜はやっていない。これでは儲からんと思って、昼からビールを頼み、なんとかその分儲けて欲しいと思うのだけど、ビールを頼んだら頼んだで、また別に茎わさびやなにかの突き出しを出してくれる。
 昨日も深夜バスで茨城まで蕎麦を見に行き、その日にまた深夜バスで戻ってきて仕事していると言う。
普通商売をながくやっていると惰性に傾くと思うのだけれど、ここの主人の蕎麦に対する情熱は並ではない。
 この店の存在は、案内や宣伝雑誌にもほとんど出ていないから、思いついて行ってもちょっと分からない。たまに行っても、客はそこそこ入っているので、うどん食いの関西で宣伝もせずに大健闘だと思う。

 味のわかるお客さんの口コミで来るのだろう。一度など、居合わせた神戸から来たご夫婦が、書かれた雑誌の地図がまちがっていて非道い目にあったと怒っていた。地図に載せた側もあんまり知らなかったんだろう。結構名のある案内の本であったにもかかわらずそうである。
初めてここの蕎麦を食べるお客さんは、その、蕎麦つゆの少なさにまず仰天することになる。蕎麦ちょこにほんまにちょこ、としか入っていないのだ。蕎麦猪口のそこの方に8mm位、本当にそれきり入っていない。
が、ここからが不思議なとこ。それで大丈夫なんだほんとに! きどって蕎麦の先だけをつけて食うというレベルではなくて、本当に“辛つゆ”なので、ざぶとつけて食うものではないことがわかる。京都の蕎麦屋のつゆは全体に甘口だが、ここのは蕎麦のことを考えて作ってある。
そばを打ってみて初めて分かるのだが、蕎麦の香りは打っている時が一番する。湯がきあがってきたものを嗅げと言う蕎麦屋があるが、ほとんど意味がない。わずかなつゆにつけて口に運ぶとほんのりと蕎麦は香る。
このわずかなつゆで最後にそば湯を作って飲むが、いいドイツワインを飲んだ後と同じく、その日の厠は蕎麦の香りで満ちる。蕎麦粉100%の強烈さを重い汁?。









2001年09月29日(土) ホワイトジョーク



 小学生の頃、田舎の球場に巨人の試合が来たとき、見に行った。試合はどっちが勝ったがおぼえていないが、、終了後、子供達は外野席からグランドに飛び降り、野球選手に駆け寄った。目の前に長嶋がいた。右足だか左足だかに抱きついた。抱きついて上を見上げると、野球選手らしくない色白で肌色の顔があった。あれ以来、球場に足を運ぶ事は今日までなかったけれど、長嶋選手は心の中にずっとあった。
特別のファンでもなかったけれど、思いは、多くの野球ファンと同じようなものだろう。その長嶋が選手から監督になり、そして昨日辞任した。
監督の数多い嘘か誠か分からないけれど、逸話の中にある一つが何とも言えず面白い。
大学時代の英語の話。「Ilive in Tokyo」を過去形にしなさいと先生に命じられた
長嶋青年、しばらく考えて「I live in Edo」と答えた?









2001年09月27日(木) パパスのポスター



ついこの間、パパスという服飾メーカーのポスターに我が師匠の山本夏彦翁がモデルになっていると聞いて、驚いて是非みたいと思っていたら、それも目にしない内に、今度は、知人の帆布製鞄の老舗、一澤帆布店の一澤さんとその娘さん二人が一家でにっこり笑ってポスターになっていた。

世はみなタレントか? 一澤さん一家ならパパスというイメージにあうけれど、山本夏彦さんはジジスでしょうが?パパのイメージとちょとちがう…。
もともとパパ・ヘミングウェイのイメージではじめたのが、ついに、山本夏彦さん、そして一澤さん一家となった。どういう方向に持っていこうとしているのか、
パパスダッチロール。

長年、パパスを愛用しているけれど、なんで山本夏彦さんなのだろう?うれしくもあり、不可解でもある。グランパのイメージなんだろうか??









2001年09月25日(火) ブラックジョーク



 あのラングーン爆破事件や大韓航空機爆破事件などで果てしなく黒に近いグレーの国、北治ようせんが、テロを非難する声明を出した。ううむ…、何か悪い冗談のようにも思えたが、多分アメリカや他の国々の協力の下、テロを追い詰めて、徹底的に長期戦になってもたたくという姿勢に震え上がったのだろう。かって日本で北治ようせんが、新幹線のレールのボルトを緩めて回ったり、高圧電線が通る鉄塔のボルトをゆるめて回って、着々とテロの準備をすすめていた事は、亡命工作員がはっきり断言している。
今回の事で、もし、日本に同じ事をやれば、今度は自分達が徹底して攻撃される。この事で、日本はしばらくは大丈夫だろう。ただイスラム原理主義過激派方面からのテロはあり得る。
その時、自衛隊は交通信号を守りながら、私有地の通過許可を地主にはんこを押してもらい許可を得て、現地に向かうのだ。そういう事になっている。









2001年09月24日(月) シアトルと宗教の悲しみ



今回のニューヨークのテロは、ハンチントンの言うように宗教的に対立を起こしていて、イスラム対キリスト教だと言ったりしているけれど、今のアメリカ人がヨーロッパからやってきたときからすでにそれは始まっていた。月曜評論という冊子の中で西村眞悟さんが面白い事を書いていたので、一部抜き書きします。

 インディアン(レッドマン)は、白人(ホワイトマン)に対して敢然と戦った。白人は自分達の「文明」が地上にあまねく行き渡ることを「正義」と考えインディアンを追い出すことを当然と考えたからである。
 例えばアパッチのジェロニモは、わずか三十五名の兵士で、婦女子を連れながら、正規兵五千名と外人部隊五百名からなるアメリカ軍を相手に、一年六ヶ月戦い抜いた。ジェロニモは死者六名を出し、アメリカ軍の死者は二百名に達した。しかし、インディアンは、優秀な武器を持つ多数のホワイトマンによってついに居留地に封じ込められることになる。その時、一酋長は、移住を命ずる白人総督に次の抗議文を送った。

「あなた方の神ゴツドは、自分の民は愛しても異民族は嫌う。白い肌の我が子を優しくかばい、赤い肌の者のことはいっこうにかまわない。我々の崇める大霊はそんなえこひいきはなさらない。…あなた方の宗教は活字によって書き記される。それとは違い、我々の宗教は祖先からの伝統なのだ。厳粛なる儀式のもとに、大霊より授かったものだ。
それが偉大なる先祖のビジョンとなって、我々の胸に刻み込まれている。あなた方の先祖は、墓の入り口を通り抜けると、それきりあなた方のことを忘れる。あなた方も彼等のことを忘れる。が、我々の先祖は地上のことは決して忘れない。麗しき谷、のどかなせせらぎ、壮大なる山々、木々にかこまれた湖、彼等はしばしばその美しさが忘れられずに舞い戻ってきては、我々のもとを訪ね、導きを与え、慰めてくれる。
…私は、死という文字は一度も用いていない。死は存在しないからだ。ただ生活の場が変わるだけなのだ。」
これを送った酋長の名は、ワシントン州の都市、シアトルとして残っている

***


人はお互いに十字を切りながら戦争し、殺し合う、今も昔も少しも変わらない。









2001年09月23日(日) 散歩と食欲秋の空



 あんまりの快晴と心地よい秋の風につられて、哲学の道を銀閣寺界隈まで散歩に出かけた。アメリカで悲惨な事が起こり、世界的に大変な事になりそうな気配にも関わらず、三連休の始まり、人々は三々五々哲学の道の散歩を楽しんでいる。これでいいのだ。人の世はこんなもので、心にわだかまりがあっても結構強い。なるようにしかならん!

 銀閣寺までとろとろ歩き、目立たないがたいへんな老舗のラーメン屋で夫婦そろって食事をし、その後御影通り近くのレシャンドールから独立したケーキ屋、ルブレ二階の喫茶店でゆっくりすごし、少し歩いて、今度は二条寺町のブションでビールを一杯引っかけ、それから前に一度偶然訪れた ビストロ、ルラシオン(relation)がどうしても気になって今夜の夕食をそこでとることにした。界隈の西洋饂飩屋・西洋お好み焼き屋は大盛況、満杯なのが通りからも伺える。フランス料理のパリの朝市、リヨン食堂なんて一杯で、張り出されたメニューには2000円でグラスワイン一杯付きの主菜無し?!のオードブル大皿てんこ盛り?でデザート、コーヒーが付いているという。なーるほどそれで満席か!

だけど、主菜が別売りの夜の食事というのは一体何なんだ?
これと似た商法が三条高倉界隈にあって、西洋饂飩屋経営のスペイン料理屋を装った所だが、ここは何と夜のメインのコースにパンが付いていないんだぞ! んな、馬鹿な!と思うだろうがついてないんだこれが。
晩飯はファッションとは違うのだ。こういうところは以後行かない。

 そこで、ルラシオン。わずか二通りの定食しかない。が、前菜・主菜の選択肢は各4.5種類、の中から選ぶ。日本で言うお通し(今回は)はカリッと焼いた香ばしいチキンが出てきた。前菜はおち鰹のカルパッチョ、相棒はパルマ産生ハムとイチジク、主菜は真鯛のポワレと、牛肉のブルゴーニュ風そのいうブッフブルギニヨンヌという奴、これなんか普通高級店でもサイコロ状になったものが出てくるんだけど、ここはステーキのような固まりでドーンとでてくる。本場フランスブルゴーニュのボーヌで食ってもサイコロ状である。当然、肉自体のうまみは出てしまってカスカスな感じになる。
しかし、こういう風に調理すると、うま味は当然残る、したがって旨い!ということになる。こんな旨いもん出すのに、他の店が流行っているのにここは閑散として少し悲しい。こんな量質と値段の「関係(ルラシオン(relation))」がお値打ち(フランスではカリテプリという)感がある店は最近ないぞ! 

 量はたっぷりしているけれど、おいしくないとか、旨いけど、出たら饂飩でも食いなおさな腹が満たないというところはよくある。
 ここは、姉小路通りと堺町通りの交差した道の南西にある。
地味な看板に「relation」とあり、メニューの精細が書かれている。ワインの値段も手頃だ。+何百円のよくあるせこい商売はしていないから、額面の通りの値段でおいしくいただける。カウンター席が7.8席あって奥にはテーブル席も用意されている。
まぁ、行ってみ、損はしない。









2001年09月20日(木) 哲学のみち界隈



 哲学の道界隈は、改めて思うけれど、自然が一杯だ。若王子神社下を起点に銀閣寺までの2km位続く道沿いには、取水地から流れ出る大人の膝まで位の深さの疎水があり、そこにはだれかが放した錦鯉、カメ、その他フナ、小魚が一杯泳いでいる。
 琵琶湖から東山を飛び越えて鴨が来る、先の繁殖期にはカルガモのこどもがよちよち7・8匹親の後を泳いでいく様子が見られた。月夜の晩に散歩している時に偶然、ムササビが樹木伝いに飛来し、目の前の大きな木に着地したのを目撃したこともある。姿勢は頭を下にして木に捕まっていた。

一昔前、裸の人間もこの道を朝早く走り抜けるのを、近所の早起きのお年寄りが目撃したりしている。普通そういうのは町中に出るんだけど、よく出てたらしい。蛍も毎年沢山ではないが、舞う。途中ある、鹿ヶ谷という所、地名からも分かるように、ちょっと前までは鹿も出たらしい。
大晦日には除夜の鐘があっちこっちから聞こえてくる。
この環境は他に例がないかもしれない。信州や南仏が好きだけれど、はっと足下を見ればいい環境にいるのだ。
ここをいつも散歩がてら、とろとろ歩いている。











2001年09月18日(火) 酸橘と2002年サッカーW杯



 鳴門の事でもう一つ。家族同様に思っている親しい友人一家から沢山のすだち・芋などが届いた。さっそく礼状を書いてといっても、Eメールだからクリックした瞬間もう相手に届いている。便利といえば便利だけど、これでは郵便屋はもうすぐすると仕事がなくなるかも知れない。
 送られて来た箱の中に徳島新聞が入っていた。一通り目を通していると「ドイツ2002年W杯のキャンプ地に鳴門市最有力候補」とあった。

この記事を見た瞬間、「ああ、ドイツ人は鳴門の事忘れていないんだ」と思った。
現在は鳴門市になっている、板東という所に、第一次大戦の時に捕虜収容所が出来た。そしてここにドイツ人千人近くが入れられた。収容所長の松江豊寿陸軍大佐は、「勝てば官軍」に敗れた会津藩士の出である。敗者の悲哀、弱者の苦しさをよく分かっていた。

そういうこともあって、地域の中で、自由な活動を許した。地域住民達も彼らからヨーロッパ文化や、工業・医学の知識を得ようと、彼らに敬意をを持って接した。その結果、パン屋あり、ソーセージ屋ありの小さなドイツ人街が出来た。
 1918年6月1日、ここのドイツ軍楽隊によって、日本で初めてベートーベン第九交響曲が演奏され、第四楽章「歓喜の歌」が日独両国民、合い和して歌われた。日本人が東京で正式に演奏したのはそれから6年後となる。
国際法を忠実に守り、捕虜を寛大に人道的に扱う日本は、当時ヨーロッパ諸国から高く称賛されて、感謝状までもらっている。
そういう事をドイツ人はしっかり覚えているのだろう。深く知らない人は捕虜になった地でキャンプなんて、ドイツ人はいやじゃないかと思ってしまうだろうが、上に書いたように素晴らしい扱いをしていて、当時のドイツ人の心に深く残っているのだ。
捕虜でも文化的な誤解で虐待されたという英国人がいる。聞けば木の根っ子を食べさせられたという。調べてみると、日本人が当たり前に食っているゴボウだったりするわけだ。(ゴボウはフランス人も食べる)。当時まったく文化に干渉せずに自治に任せた事が本当によかった。
 今からすだちを輪切りに紅茶にいれて飲もうとおもう。檸檬のようにきんきんしない上等の味になる。感謝。












2001年09月16日(日) 百円式と珈琲のイノダ



 百円式とは内田百聞先生のひゃっけんからとった。本来、正しい表音表記にすれば、関西では100円はひゃっけんと発音することがあるのでこう書いてもいいはずだ。歴史的背景のある書き方、蝶々(てふてふ)は、ちょうちょうと書かねばならんと国が決めてから、日本人の混乱が始まった。
だから、「例えば」は「例へば」が今でも正解、「向こうえ」ではなくて「向こうへ」が正解なのは誰もが知っている。

 百円式とは、1000円の金を工面しに行くのに3000円使っても頭が回りかねるすかたんをいいます。
イノダの珈琲屋に通ってはや、27年((;゚゚)ワーッ!)、通い方は百円式。どう言う事かというと、400円だかの珈琲を飲みに行くのに、往復2000円(タクシー代)を払って行くからで、かといって勿体ないとか損とか思いもよらない、百円式の所以ナツバラハウンドドックなんである。
 黙って座ればぴたりと珈琲の角砂糖の数、新聞はどれと前に出てくる。初めて来た客は目を白黒させてこれを見る。
 大きな円卓の中にいる従業員が、挨拶にそれぞれ来、答え、後、新聞に目を通す。客はその様子から「ははん!馴染みの客か」と悟る。昨日、2.3年前に引退してここを退いた、珈琲道40数年の猪田さんに偶然会った。
中におられるときは、終始気を配りながら、こちらが本を読みふけり知らぬ間に数時間経た時、普通なら嫌な客だと思うだろうが、猪田さんは、半分くらいの量の新しい珈琲を淹れてくれたりした。最初は恐縮してお金を払おうとしたが、請求書に書いてないものはレジは受け取らない。その内、いつしか甘えて終い、退職の日まで屡々その恩恵をうけた。

その猪田さんが来ていた。良く来るらしいのだけど、週一二回の内に、偶然出会う確率は少ない。聞けば、徳島の鳴門に珈琲の講演にこの十月行くという。もう四年目になるという。この鳴門の珈琲屋は高校時代の同級生がやっている。カナダ製の馬鹿でかいログハウスに、イノダを模してカウンターが作られている。なんでそこまで気に入ったかは知らない。高校時分に高田渡という人が歌って流行ったコーヒーブルースという曲の中に「イノダに行こう」というフレーズが出てくる。良く歌っていたようだから郷愁があったのだろう。

 その同級生とは現在つき合いはないが、わざわざ呼んで講演してもらっているのはなぜだろう。きっと有名人好みなんだろう。猪田さんはTVコマーシャルにも出たことがある。
 猪田さんがカウンターの中に立たなくなって久しいけれど、中にいる男ばかりの従業員は、他にない位の真っ直ぐな職業意識を持った若者達だ。かっこええのだ。この場合、かっこええは、姿形ではない。東京から来る常連、地場の常連そのほとんどの客の好みと読む新聞を把握している。立ち姿も気持ちいい。近頃良くいる、動物に近いくず店員とは同列に出来ない。
猪田さんを見て育ったと言える。音楽も流れていないので静かである。

 百年目の再開のごとく握手し、内心健康の無事を確認して喜び合った。何年か前から鳴門に行っている事は知らなかった。久しぶりに猪田さんにあったら、その同級生を○○さんと名前で呼んでいたから、もうかなり親しくなっているんだろう。店は繁盛しているそうで、それはそれで目出度い事ではある。小柄で足が悪いのだけど、握手した際、握力の強さにはびっくりした。まだ現役でいてほしいと心から思った。










myrte21 |MAILHomePage