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いつも病院の帰りは、丸太町通りから梶井基次郎(作家。明治34年〜昭和7年31歳没)が歩いた散歩道を歩いて、寺町を下がっていくことにしている。寺町丸太町から二条通の交差する所までの町並みが好きで、良く歩く。梶井基次郎が書いた「檸檬」を売っている果物屋は現在の寺町二条の角にあるそれとは違う店だが、それはともかく、角には、ブラスリー・ブションがあって、それが目当てで散歩道にしている。梶井の足跡を辿る文学散歩とはほど遠い。
病院に行くと、院内感染が怖い。常々セルフデイフェンス(自己防衛)座右の銘としているので、これはもう自分でちゃんとしなければいけない。どうするか。そうだ、身体をアルコール消毒すればいいという事で、医者に行った後は、必ず飲む!(なんかちょっと違うような気がするが…)
その日も、軒を連ねて並ぶ和紙屋・古書店・茶舗などを見ながら歩道を歩いていた。ちょっと先の歩道の真ん中で中学生くらいの女の子達が、自転車を支えたまま、もぞもぞして、立ち往生している。近くまで行って事情がわかった。一人の女の子のふわっとした丈の長いスカートが後車輪に巻き込まれていた。見ていると、いたずらに引っ張ってますます食い込んでいく。見かねて、ちょっと見せて見ろといって、ハンドルをもう一人の女の子に支えさせ、そうしておいて、後輪を持ち上げ、逆方向に車輪をまわしたら、存外簡単にスカートの端ははずれた。
よかったねと二人の顔を見た。もう、頭の事はいわない。例の色である。それはいい。しばらく目を見たが何もない。問題が解決してしまえば、こちらも用はない。それじゃねとその場を去って、また、二条通りに向かって歩き出した。 やがて、先ほどの二人が自転車で後方から追い越して行った。 その際も、何もなかった。何がなかったかというと、人にしてもらった親切に対して、当然自然に出てくる感謝の言葉「有り難う」がなかった。まったく全然、おくびにもにも出さなかった、二人とも。自転車で後ろから追い越すときも何もなかったように走り去った…。
前にも書いたように思うけれど、最近一部思想的に偏った教師達が、給食の際の「いただきます!」や、人へ挨拶をしろと教える事が強制にあたるという、とんでもない解釈で、子供達にそう言うことを教えていないと言う。先の子供達はあわれな犠牲者だろうか?どうするのだろうか?社会に出て。教えている教師は、目上の先輩教師や教頭校長に挨拶しないのだろうか?
学校で教える前に、親はどうしているのだろうか? 何でもそうだが、「礼に始まり、礼に終わる」のである。なんで?という疑問に答える必要はない。昔から決まっていることだからである。
「学級崩壊」とか「学力低下」とか言われているが、勉強できなくても、少々やんちゃでも、最低の礼儀は昔の子供達はもっていた。はにかみながらも挨拶はした。極道の世界でもそんなことは常識である。
戦前の日本には、古今東西の偉人の伝記などを教えた「修身」という教科があった。敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって禁止され、昭和三十三年、「道徳」が設けられた。 が、日教組(日本教職員組合)などの反対(上に書いたような理由も含め)で、形骸化した。
子を持つ親は子供達のために「嵐の中の灯台」(小柳陽太郎・石井公一郎 監修 明成社)を読んで聞かせてやってくれ。
昨夜、日本ベルギー戦の最中、いつものブラッスリー、ブションで立ち飲みしていた。いつもなら、この時間、不況にもかかわらず、ここは盛況なのだ。しかし、一組のカップルと、いつも来ている常連の客一人以外はだれも来ない。がらがらなのだ。サッカーは好きだが、自分の時間を潰してまでテレビにかじりつくほどではない。カウンターに肩肘ついたままぼんやりしている方をとる。心なしか、二条通りの車も少ない気がした。 音楽もなく、戸も開け放しのこのブラッスリーは、走り去る車の音、話しながら、通り過ぎる人達の気配が伝わってくる。内と外の境界が無く、つながっている。だから何時間いても疲れない。
家に帰ってから、サッカーは引き分けだったと聞いた。最後逆転の幻のゴールはファールだったためだという。最後のゴールの事をいろいろ聞いている内に、これは「金髪」のせいだと思った。 どうしてかというと、いろいろな情報をあわせてみると、それまでとっていなかったファールを時間寸前にとったという。サッカーの審判で有名な日本人審判員の一人が、「審判員もミスをする」「もし、当地で審判していて、迷ったなら、とっさに審判員はそこのチームの肩をもつ判断をする」ということを言っていた。
ファールを最後の三点目ゴールの直前に出したコスタリカの審判員は、どうも、瞬間的に日本人側とベルギー側がどっちか迷ったらしい。わかりやすく言うと、本人はベルギー側がファールしたと思ったふしがあるというのだ。 ここからは、勝手な推理。そうだろう。一瞬の判断をしなければならないときに、例えば、選手が後ろ向きだった場合、無意識で髪の毛が目に映らないか?最後の幻のゴールをいれた選手をはじめ、殆ど全員に黒髪がいない。これでは、審判、とっさに迷った時には開催国の肩を持とうにも、瞬時のことで判断出来なかったのかもしれない…。 少し遅れて始まった韓国の試合は、一人目立った茶髪がいた他は、普通の黒髪だったのはやっぱりナショナリズムの世界一強い国韓国だなぁと感心した。おまけに、その茶髪は日本で活躍している選手らしい(未確認)。阪神戦同様、あんまり客がうるさいので、途中でみるのやめてしまった。
ま、どちらにしても、世にサッカーに興味があまり無い人も一杯いるのだ。全国民が同じように関心があるかのごとくに、新聞の一面トップに出すのは優勝したときだけにしてくれ。そのために、各社スポーツ新聞、もしくはスポーツ欄があるんだから。
2002年06月04日(火) |
ほたる狩り(歴史的かなつかひにて) |
行く螢雲のうへまでいぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ 在原業平 草の葉を落つるより飛ぶ螢かな 松尾芭蕉 川ばかり闇は流れて螢かな 加賀千代女 家の裏、哲學の道疏水沿ひには今、螢が出てゐる。防犯のための街路燈と、民家の異常に明るい門燈のおかげで、螢も影がうすい。數も十數匹ゐるかゐないか。流れの上に枝を伸ばしてゐる木の暗い場所に集まつてゐる。見物が、「わーきれい!」と聲をあげるも、街路燈や門燈の光を受けながら見る螢は、晝日中や螢光燈の下で見る、舞子と同じで興ざめである。 舞子の白塗りは、夜のろふそく明かりの反射で、はじめて肌色に見える。あんなもの日中みたくない。 それと、螢を見てゐる人逹のポケット、バックから攜帶電話の電子音樂がなる。遠慮なく出ては大きな聲で喋る。都會の生活をそのまま引きずつて螢狩りにくる。とにかく、喋らないと我慢できないらしい。 小さかつた頃、ほたるが出ると、中庭で大きな盥(たらひ)に手押しポンプで水を入れ、お湯を割り入れ、行水をして、首囘り、からだを天花粉で眞つ白にした後、浴衣に着替へ、うちはと蟲かごを持つて、近くの河原に家族と螢狩りにいつた。螢はそこかしこに亂舞してゐた。その頃は田舎のこともあつて、街路燈なぞ無く、懷中電燈をさげて出かけた。螢は簡單にうちはでたたき落とせた。それを、近くの竹藪でむしつてきた笹を入れた蟲かごに入れる。さうしてひとしきり遊んだ。星空のやうに螢はゐた。 家に歸ると、蟲かごに霧吹きし、井戸に冷やしてあつた西瓜を切つてもらつて食べた。その頃、テレビなんて普通の家には無かつたから、その後はすぐ寢る準備、蚊帳(かや)を部屋に釣つて布團を敷く。さうしておいて電氣を消し、この蚊帳の中で、螢を放す。螢が飛び交ふ中で眠つた。 偶然、南佛で、借りてゐたジット(貸し別莊)に深夜、螢が一匹飛び込んできたことがあつた。捕まへてみると、日本の螢の螢光部は大きな一つの固まりだけど、フランスのそれは、直徑二ミリ位の發光部が腹に2つ竝んで分かれてつゐてゐることを初めて知つた。
水鏡映えし螢や着信音 淡譚齋
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これを書いた後、行水・すいかと、ほたるはをかしいのではないか、記憶違ひではないかと思ひ、調べてみたら、螢は7月下旬でも出ると云ふことで、記憶まちがひではなかつた。何せ4.5歳の頃のことです。
面白い。力作 座布団5枚!! A新聞の戦後から今日までの矛盾に満ちた報道を音楽とアニメーションで風刺
http://www1.raidway.ne.jp/~huguruma/dschinghis_khan.swf
オランダのはげちゃびん(スキン・ヘッド)党首、フォル・トゥイン氏がついこの前暗殺され、それが逆宣伝になって一躍第二政党になった。テレビニュースなどで言われているような極右政治家というのはどうだろう?フォル・トゥイン氏の主張は以下。
*不法移民の取り締まり強化 *移民の同化政策推進
よその事で分かりにくければ、日本に置き換えて、中国人・朝鮮人が怒濤のごとく日本に押し寄せてくる。それに対して「日本はもう一杯だ、東京の犯罪者の多くは外国人だ、だから国境を閉ざそう。そして、すでに移民してきている人は日本人になってもらおう」といっている。 (オランダと日本は、国境間に海があることで決定的に違うけれど、中国政府は政治カードにこの問題を使って日本を恫喝したことがある。「移民の2・300万もプレゼントしましょうか?」ドイツもかって移民を積極的に受け入れていたが、今変わりつつあるようだ。)
こう主張すると、極右なんていわれるのだ。あたまがはげちゃびんだから、なんとなくネオナチ(ヒットラー妄信者・みんなはげちゃびん)と同じだというところからきているのだろう。
フォル・トゥイン氏は、上を主張して民主主義の場(普通選挙)で戦おうとして殺された。殺したのは、テレビではなぜか伝えない、動物愛護団体の 左翼活動家だった。動物は愛護しても、人間はかまわないらしい。
街頭で「戦争反対!」を訴えるグループがいる。「戦争反対のために断固たたかう!」って?? なんだ!戦うんじゃないか! 戦争を病気に置き換えるとよく分かる。病気は何時知れずやってくる。健康な時には本当に何にも思わない。だがそれはある日、突然やってくる(もう忘れているかも知れないが、テポドンが日本を飛び越えて太平洋に落ちたような出来事) 先人はよく言った「備えあれば憂いなし」 だけれど、ある社民党女議員が「備えあったら憂いありよ!」と言っていた。本心か? あの女議員は、健康保険証持っていないんだろうか?将来のために貯蓄はしていないのだろうか? あの女議員が選挙を勝ち抜いてこられた事に唖然とする。そういうのを「刹那主義(せつなしゅぎ)」といって、とにかく場当たりで、条件反射的に、その時その時こなせばいいと言う考えである。知の退廃である。
昔よく3000m級の山に出かけたが、もうこれは「備え」がなければ、「憂い」だらけで、一度など、四國の低山(と言っても2000m近くある)をなめてかかって、台風に直撃され、無人小屋で(そこは風の抜け道で、過去そこの小屋も風にもっていかれた事がある)約二日間閉じこめられ、死にかけたことがある。断食の経験があるので、一ヶ月は水があればたった一人山中でいられる自信はあるが、それは最後の最後の話である。その時も、いつもの食料とは別パックで予備食を習慣で持って行っていた。これでじっとしていて、台風をやり過ごせばよかった。やっぱり「備えあれば憂いなし」なのである。
駅前英会話学校の TV宣伝をよく見かける。意外な人が流暢なフランス語や日本語・イタリア語 を喋る。コマーシャルは、「人間見た目ではないよ、意外な人が意外な言葉を喋る!」というわけだ。しかし、 テレビの画面で見る、あの軽率な日本語を使う何人か知らないあの男の人は、ひょっ としたら、漫才の西川きよしの奥さんのような環境(日本で生まれ日本で育った)の人かもしれない。イタリア語喋っているおばさんも、ひょっとしたら、イタリアに生まれ、永く住んでいたの かもしれない。そう言う意味で、四方海に閉ざされた、殆どが日本人だけの環境で生活している日本の国でしか、このコマーシャルは有効ではない。
日本以外の国に出かけた経験を持つ人は多いと思うが、外国で、まるで普通に時間 を聞いてきたり、道を訪ねられたりする経験をした人は多いと思う。ある時、いかにも馬鹿面してパリのフォーブルサントノレ通り(日本の女の人が有名店目当てに群れる場所)を歩いていると、車に乗った黒人が「兄ちゃん、今何時?」と聞いてきた。突然の事でびっくりした。いかにも観光客然とした日本人(東洋人で身なりが良いのは日本人と、カフェの主はいう)を捕まえて、時間聞いたって通じるかどうか分からんかもしれないと、思わないところがすごい。 が、逆はないだろう?我々は日本で道行く外人に(京都の場合)「松原通りどこですか?」とか、「南禅寺どこ」とかまず聞かないだろう。
あのコマーシャルをもっと有効に作るとするなら、日本語で喋っていて突然各国語に切り替える事だ。こうすると、とても効果的で、見た目とかなんとかいう問題は吹っ飛び、へーっと感嘆することを請け合う。
あんまり、衛星放送を見ない人は知らないだろうけれど、ここ二三年、日本人のアメリカ野球進出などで、なんだかようやく、国際的日本人が出てきたような錯覚があるが、大リーグでインタビューをこなす日本人は長谷川投手位しかいないだろう。 だが、もう、オートバイのレースではとーっくに国際人?日本人レーサー達が活躍している。各クラスでしゅっちゅ う上位を独占する。 原田・宇川・加藤選手他、ヨーロッパ戦などの優勝インタビューを堂々と英語でこなす。ひとしきり勝った状況、反省点を英語でぶった後,突如日本語に切り替えて喋りはじめる。これが、なんだか見ていてとても恰好いい。日本のオートバイとレーサーがあんまりすごいので、それとなく見ている内に虜になった。
F-1は人材は多くないのに、スポーツニュースで特集される。 、オートバイレーサーは名前を宙であげても、6人はすらすらと出てくる位、上位に幾度も上り個性的で実力のある人達がいる。なのに、なぜか分からないが民放で取りあげられる事が少ない。最近中野真矢選手がようやく、トヨタだったかの車のコマーシャルで見られるようになったが、多くの人は知らないだろうと思う。この人も、日本語・英語をみごとに使い分ける。
が、なぜか 最近英語インタビューはカットされている。どういう意図なんだろうか?駅前駅前言わなくても、ああいう素のドラマを見ていると、子供たちは確実に外国語にも興味をおぼえる。 そしてそれにも増して、日本のオートバイの存在が圧倒的なのだ。レースを見る限り、ホンダ・ヤマハ・ カワサキ・スズキ、上位に入ってくる外国のメーカと言えば、アプリリアしか記憶にない。それくらい圧倒的なのだ。日本人選手が入賞していなくても、一位から殆ど入賞者の乗っているオートバイは日本製なのだ。
もう二十年位前になるが、フランス行きの飛行機は主に、アンカレジ経由だった。アンカレジの待合いで時間待ちをしていると、初老の日本人のおばちゃん掃除婦達(最近看護婦は差別語でいけないから「婦」を「師」に変えて看護師というのだそうだ。この場合もそうしたら、掃除師というのか?ペテン師・山師・詐欺師これと同じあやしい仲間に入れるわけだ?)が、モップ片手に喋っていた。こちらに移民に来た人達なのかなと思いつつ、 ぼんやり聞き流していた。
おばちゃんA:「うちの孫がね、息子に、「「だって… なんじゃらもん じゃらはなもげら??」」と、こうなのよ!」
おばちゃんB:「あら!うちだってそういうこと、「「…まつばでちょん ばれびーぱっぱよ!」」だっていってるわよぅ!」
一瞬、我が耳を疑った。解読不可能な言葉。あらためて 喋っているおばちゃん達をみた。そして耳をそばだてて会話をよく聞いた。会話中に日本語と英語を、見事なくらい切り替えるのである。空港だから日本人も多い、聞かれて不味いことは英語でということらしかった。 人は環境のなかで、せまられれば、話せるようになる。駅前に行っても、使うこと少なければすぐ忘れてしまうだろう。それだったらきちんとした日本語を習おう。最近、日本人の日本語が乱れているという事を日本にいる外国人から聞く。
亡命者のあの五人と、もう一組いた二人の男達覚えているだろうか?テレビのニュースでその男達の映像が映った。見た瞬間違和感があった。「あれ??なんだか変だ!?」また、茶髪の話でなんだけれど、亡命者といわれている男の片方が、おおよそ信じられない恰好をしていたのだ。 朝鮮情報については、亡命元特殊工作員の神戸での講演も聴きに行き、かなり知っていたつもりだった。その問題の男の恰好がどうみても不自然なのだ。大使館に駆け込んだ直前の恰好が、茶髪にディパック(小さなリュックサック)で、日本韓国台湾にいる若者の恰好なんである。 今、あの茶髪の亡命者にものすごく興味がある。北朝鮮実状を知らない人には多分分からないだろうけど、ありえない!とにかく目立つ。髪を染めるなどと言う行為は、食事情も満ちてそれからなものであって、食に飢えている人達の国であり得るはずがないとおもうのだ。北朝鮮では。三階層(核心階層・動揺階層・敵対階層)五一区分による「出身成分」と いう事実上の身分制がある。
今回の人達はかなり裕福な人達である。資金源は海外に暮らす(日本・アメリカ・韓国など)家族親類の人達からの仕送りがもとになっている事だろう。
崔洋一監督の映画「月はどっちに出ている」の中で、北にいる肉親に送るために、段ボール箱の中にいろいろなものを入れる際、封筒にいれた現金を箱の内蓋の見えないところに貼るシーンがあった。なにげないショットだけれども、こうでもしないと、北の検閲ですべて開けられ、チェック、没収されると言うことを映画は暗に描いていた。 「悪しき日本」を北ではたたき込まれる教育がされるが、実のところ、送られてきたTシャツなど衣類や、ものなどから、いかに日本が高レベルの生活をしているかを、向こうの人達は知ってしまう。
さて茶髪の国籍不明の青年だが、あれは本当に北のひとなのか? 北軍部の中枢エリート(核心階層)の息子が一人で逃げてきたとしたら、親から親族みな逮捕される事だろう。大韓航空機爆破の金賢姫(キムヒョンヒ)一家が住んでいた、ピョンヤンのアパートでは、隣人一家が一晩で跡形もなく消えてしまうことはよくあったと書いている。
小泉首相が「自虐的」と言う言葉を使った。よくぞ言った。教科書問題で自虐史観(じぎゃくしかん)をやめようと「新しい歴史教科書」をつくる運動がひろまったころから、この言葉は定着した。首相はちゃんと目を通している。 民主党内の内部矛盾の筆頭は鳩山由起夫である。教科書問題で議論がわき起こりはじめた時も、韓国に自ら出向き「日本の教科書はわるーうございます。仰せのとおりでございます」と平気で言ってのけた。それを「自虐」というのですよ!鳩山さん。自分の国のことより相手の国のことを先に考え、へいこらする。世界的に見ても、そういう国は馬鹿にされるだけである。 それがわかっていないのに、「国家主権」なんて分かるはずがない。今度も、朝日新聞と民主党が中国に懐柔(かいじゅう)されて、日本国一丸となって国家主権を言わないといけないときに、日本の非をあげつらうような事を言う。 本当に日本は中から崩れるぞ。
おまけ。
より新しい家庭科の教科書は、めでたくフェミニズムが行き届いて、「男女平等」の言葉は消え失せて、「女男平等」になっている!!。 男女平等や屁ミニズムじゃなかったフェミニズムは、イデオロギーである。ある時のある時点でのはやりと考えても良い。教育は実験的なものであってはいけない。実験台にされた子供達はたまったものではない。
アメリカで、アメリカでの”日教組”教師組合AEAや教育委員会に「あなたがた、リベラル教育を実践している教師のみなさんに訪ねます。あなた方が、私たちの子供達に教えていることは、本当に自分達の子供にとって、役にたつこと何ですか? そのことの説明と責任をもっていってください」と詰めよった。これが「アカウンタビリティ(説明責任)」という言葉の語源です。
アカウンタビリテイとは”草の根”の保守的な白人中流家族の主婦達が、リベラル派の多教教師達が圧倒的に多い公立学校教育の現場に対して、激しい不満と怒りを露にした時に使われた有名な言葉。
日本人のボクシングチャンピオンが2.3日前に誕生した。まことに目出度いが、目出度くない。またまた金髪に近い茶髪である。多分何にも考えていないか、只たんに存在をアピールするためのものか、はやりで何となくかっこいいと思っているのだろうか。 ではこの、白人種の特徴でもある金髪、皆真似する金髪(もどき)そんなに真似するほど上等な物なんだろうか?
遙かなる昔、暑く紫外線の強いアフリカの大地にいた黒人の中の、色素欠乏症の人々が、環境に耐えられず、北に、つまりヨーロッパに移り住み、やがて今の白人種の元祖になった。 白人は原黒人のいわゆる、”白子”(色素欠乏症)であることはまず百%確かだという。色素欠乏症の劣性遺伝子は各人種とも百人に一人はもっているという。そして二万人に一人の割で産まれる。 日本人のお馬鹿達が無条件か無意識にかっこいいと思っている、すらりとした長い足、厚い胸、凹凸のある目鼻立ち、そしてブロンドの髪。確かになかなかっこいい。(しかし一昔前の日本人は「天狗」とか「鬼」として見た。日本人自身の目である。)
そう言うことを自覚していた白人達は、 自分達の祖先だとばかり思っていた、エジプト文化、メソポタミア文化、それに続くギリシャ・ローマ文化の担い手達。紀元前一干年頃のメレネプタ王の墓を調査してとんでもない事実を見てしまう。墓の壁画には世界に君臨する王のもとに朝貢(ちょうこう)する各国の人々の様子が描かれていた。 ところが、その国王は白い肌ではなく「暗い赤褐色の肌」で、朝貢する順番を見ると、まず威風堂々たる黒人が、次いで黄色い肌色の人種が並び、一番最後に「白い皮膚の持ち主で、眼は青、髭はプロンドで、長身をまだ毛のついた毛皮で包み、体のあちこちに入れ墨をしたまぎれもない野蛮人」が描かれていたのだ。(高野信夫著『黒人→白人→黄色人』三一書房)
ナポレオンのエジプト遠征についていって、あのロゼッタストーンを見つけたシャンポリオンも「わたしはこれを言うのが恥ずかしい。なぜなら我々の人種は最後であり、序列のなかでも、もっとも野蛮なのだから」と友人への書簡にその衝撃を書いている 現在、ダーウィンの進化論は知られているが、オランダ人の人類学者、ルイス・ポルクは知られていない。白人種によって抹殺されているからだ。なぜか? 彼の学説、幼形(Fetailization)進化諭は一九二六年、「人類成立の問題」というタイトルで発表された。 これによると、「進化すればするほど、胎児の発育は遅滞し、成長も遅延していくという理論」で、高等な生物ほど未成熟で生まれて来るというのだ。馬や魚など、動物は生まれ落ちた時点で、もうすぐ泳げるし、歩くことが出来る。 これは幼形(勾玉もしくはカシューナッツ状)の後半で、背骨がまっすぐになり、生まれたときには肛門生殖器は身体の後ろに回って出てくる。それに反して人は勾玉の幼形の状態で生まれ落ちてくるので、生まれてきても自分で何一つ出来ない。
このことから、高等な人種ほど不完全で生まれてくると言う考えが、ボルグの幼形進化論だ。ボルグの進化論によると、、膝から下はほっそり、上はがっちりのスラリとした足はむしろ、動物に近く、高等な霊長類になればなるほど、ぼてんとした大根足になるというのは、ゴリラやオランウータンを見てもわかるという。スラリとした筋肉質の足はカモシカやキリンを想像させる。 低い鼻はゴリラ・オランウータンなどの高等な動物に多く見られる。象徴的にSFでUFOに搭乗している宇宙人は幼形だ。足が短く、鼻が低く短足で華奢。 では唇はどうだ。黒人は唇が厚く、次に黄色で、白人は薄い。でもまた猿が出てきて、これが白人なみに薄く、もっと下等な動物はさらに薄くなる。体毛なんかは黄色・黒ともほとんどない。 白人種にはそれがよく分かった。そしてそれの帰結として、上のようなことには目をつぶり、とにかく見た目かっこいいのだから、他の民族と比較させ、それを公式の席で見せようと始まったのが民族の祭典、オリンピックなのだそうだ。だから、もともと人種差別が基本なのだ。 近代五輪を生んだクーベルタン男爵は本来の意図に反するその事について、烈火のごとく怒っている。つまり見世物意識だった。当時IOC会長だった男爵はそれを指摘して、その時の大会に出席することを拒否している 彼は一九二四年、フランス・シャモニーでの第一回冬季五輪にも満腔の怒りをぶつけた。スキ-、スケート競技には雪のない国からは参加できない。白人だけの競技であって、五輪の精神に惇るではないかと抗議し、オリンピックの名を冠することも反対した。でも、「それがどうだっていうの」と参加した白人諸国(当時世界の殆どが植民地だった)が開き直って今に至っている。男爵は「生まれ変わってきたらIOCをぶっつぶす」とまでいっている。 だからこの間のソルトレーク冬季五輪スケートでも、日本人韓国人には厳罰で、カナダ人のフィギュアには、仲良く金を複数与えたのは不思議でも何でもない。もともとそういう性格の競技大会なのだ。
さて日本人達よ。以上のことを読んでもなを、茶髪・金髪にして、公の場で活躍したいか!!日本人には美しい烏の濡れ羽色という言葉にあるような黒髪がある。クレオパトラが羨んだ一重まぶたがある。どうしてそれを大切にしないか。いまさら下等??な白人の真似をせずとも。
参考引用文献:高山正之「文明の闘いから人種の闘いへ」
2002年05月13日(月) |
主権侵害ってあなた…!? |
北朝鮮の家族五人が瀋陽の日本総領事館に亡命しそこね、中国警察に持って行かれた事に対して、日本国政府や、日本のマスコミはしきりに日本の国家主権の侵害だと言っている。こう言うときにはぴーちく言うのに、我が国のそれも検定が通った8社のうちの一社の歴史教科書について中韓がなんやかや言ってきた時はどうだったか?普通なら、完全に主権侵害である。国が決めた検定の結果にとやかく言うこと自体がおかしい。このことについて、マスコミやテレビは主権侵害だと言ったか?一部の良心的な新聞を除き、絶えて聞かない。
どうして、いつもそうなのか? これは日本人としての歴史観やほこりの欠如、無知のせいである。なんとは無しに中韓に悪いことをしたと思っている。後ろめたく思っている。 歴史なんてものは、相対的なもので、アメリカの初代大統領ジョージワシントンは、イギリスの教科書では反逆者である。そりゃそうだろう。アメリカでの利権をいちいち本国に報告するのが面倒で、独立をいいだしたんだから。
よく中韓は日本の侵略が悪いという。私達は何もしていないのにともいう。それなら言うが、当時も今も世界警察・詳細に渡る国際法は存在しない。それがない以上、何かが来たら自分達で守るしかない。セルフディフェンスが基本なのだ。だからこそ、戦時国際法が置かれている。話し合いがだめなら、戦争が許されている。世界は冷酷だ。やられるときはやられる。 それを外交という手段、手練手管で回避するのだ。回避できない場合、戦争、勝てばよいが負ければ属国となる。
日本の領事館は何もやっていないわけではない。過去、日本には亡命が認められていないので、逃げ込んできた北朝鮮の人間を領事館内で一ヶ月留め、領事館だかの車で、韓国側に渡したりしている。アメリカ大使館なんかは亡命者を実に三年、大使館内に置き、それから亡命させたりしている。
いくつ知ってますか? 1.この道- この道は〜♪いつか来た道ィ アア〜そうだよ〜 … 2.待ちぼうけ 待ちぼうけ、待ちぼうけ〜あるひせっせと野良かせぎ〜 3.かなりや 唄を忘れたカナリヤは、後ろの山にすてましょか〜 4.靴がなる お手手つないで野道を行けば、みんな可愛い小鳥になって〜 5.背くらべ 柱の傷はおととしの五月五日のせいくらべ〜 以下、
十五夜お月さん 浜千鳥 月の砂漠 野菊 雪の降る街を めだかの学校 夏は来ぬ 村の鍛冶屋 村祭り 汽車 桃太郎 埴生の宿 赤い靴 てるてる坊主 我は海の子 他。
これは今年度から全部音楽の教科書から消えた曲である。じいちゃんや婆ちゃんが子守りの時に口ずさんでいた曲も入っている。これらの曲の中には、言葉狩りの末に消えていく物や、今使われていないからという理由(鍛冶屋や汽車)で消された。 国語からも漱石・鴎外が消えた。千円札の漱石をどう説明するのだ。そういうつながりを切って置いて、お札にしてどうしようというのだ。今はユーロになって消えたけれど、フランスで、サンテグジュペリの星の王子様がお札になったのも、物語が読まれ、語りつがれているからではないか。 鴎外や漱石を読めなくしたのは、二昔前の国語審議会のせいである。文語文を廃して口語文にし、歴史的仮名遣いを廃し現代仮名遣いにした。その結果、読めなくなった。そうしておいて、教科書に載せるのをやめるというのである。己の首を己で絞めていく。やがて、かっての平仮名論者(文字は全て平仮名でと言う主張)やローマ字論者(全部ローマ字で)の思うとおりになって、目出度く日本は滅亡する。
歴史とは大層に世界史・日本史などいわなくても、祖父から父、父から子と連綿と自国語で語り継いでゆく共通するものを持つことである。それを今の文部科学省は壊していく。 テレビの雛壇に座っているわかい娘のほぼ90%が茶髪である。 映画のハリーポッターや指輪物語がヒットする。指輪物語なんて、イギリスにまだキリスト教が入る前の神話の世界だ。 そう言うのには、異常に興味をしめすのに、自分達の神話はといえば、多分なーんにも知らないだろう。教科書で教えないからだ。だから天照大神(あまてらすおおみかみ)をてんてるおおかみ、日本武尊(やまとたける)をにほんぶそんなんて読んだりするのだ。 神話の世界から現在までつながって、その子孫が生きているというのは日本だけなのだ。
音楽はといえば、異常な言葉狩りや、上に書いたような安易化で、ようしゃなく削っていく。高校の教科書には載せてるという曲もある。が、高校の音楽は選択科目であって、美術を選べば、その曲は知らないことになる。
日本の代表する音楽家山田耕筰も削られた。ゆとりのためだそうである。 我が国最初の交響楽団を成立させた。作詞・作曲も只のまねっこではなくて、歌詞の抑揚に上下動する旋律の流れを合わせることによって、日本語の語感を生かすことを工夫した。最初にあげた「この道」もその理論でかかれている。(横田憲一郎・教科書から消えた唱歌・童謡)
数学者の藤原正彦は、次のように言っている。 「今年の四月から小学校では、英語、パソコン、創造性や起業家精神などを教え始めます。どれも小学校では不要です。小学校では、一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、あとは十以下なのです。…国語こそがすべての知的活動の基礎であり、…国際人になるために、英語よりはるかに大切なものです。」(三月五日/産経)
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